All Chapters of 再会した元カレ上司は、私の愛娘の父親でした: Chapter 101 - Chapter 110

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第101話

「というか、私はそういう性格の男が大嫌いなんです。付き合ってみて、それでも好きになれなかったら別れればいいだけの話じゃないですか?無理に引き留める必要なんてありません」遥の目は澄み切っていた。個人的な感情は一切混じっておらず、純粋に本心を語っていることが見て取れた。湊は少し口ごもった。「それって……そんなに重要なことか?たった一言のことだろう」「社長にとっては些細なことかもしれません。でも、女性プレイヤーにとっては非常に重要なんです。もし私がプレイヤーの立場で、こんなメインキャラに出会ったら、絶対に攻略を諦めますね」遥は手元のペンをクルクルと回した。「これは女性向けの恋愛ゲームであって、現実ではありません。プレイヤーの意思が全てですから、社長が個人的に気になさる必要はありませんよ。特に他にご用がないなら、私はこれで失礼します」湊は顎を引いた。「ああ」会議室のドアが開いて、そして閉まる。長いテーブルの端で、湊はポケットに手を伸ばしたが、ここが会議室でありタバコを吸うには不適切だと思い出し、その手を引っ込めた。しばらくして、彼は指先でこめかみを揉みほぐした。スマホに蓮から、夜飲まないかという誘いのメッセージが入っていた。湊はスマホを手に取り、返信を打ってから横に置いた。少しの間を置き、彼は遥から提出されたシナリオの台詞集を開くと、スマホのマイクボタンを押し、一つの音声メッセージを送信した。自席に戻っていた遥は、湊からメッセージを受信したのを見て、危うくスマホを取り落としそうになった。二十五秒の音声データだ。文字起こし機能を使ってみたが、奇妙な一文だけが表示された。遥は左右を見回し、こっそりとイヤホンを耳に押し込んだ。仕事中に社長から個人的なメッセージが送られてきたなんて、誰にも知られたくない。そもそも、彼とLINEを交換していること自体、誰一人も知らないのだ。イヤホンをつけると、遥は音声データを再生した。長く、深く喘ぐような息遣いが耳に流れ込んできた。それに続いて、途切れ途切れではあるが、はっきりとした声が聞こえる。ゲームのメインキャラの台詞だ。「偶然の再会なんてない。すべては俺が仕組んだ、不純な企みだ。俺の理性をかき乱すのは、いつだって、
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第102話

その瞬間、その場にいた全員が静まり返った。知り合ったばかりの蓮でさえ、正気を疑うような目で瞬を見つめている。瞬は気まずそうに頭を掻いた。「勘違いすんなよ、相手には家庭があるんだ。毎日うるさいおふくろを適当にあしらうための、ただのダミーだよ」そんな言葉を信じる者は、その場に一人もいなかった。「ダミーを探すなら、他にいくらでもいるだろうが。なんでわざわざ既婚者なんだよ?」瞬は首を振り、こっそりと湊の顔色を窺った。彼がいつも通りの冷淡な表情をしているのを見て、ホッと息を吐く。どうせ湊は遥のことが嫌いなのだ。俺が何を言おうと気にも留めないだろう。「知り合いの方が都合がいいだろ?今回子持ちの女を連れて帰れば、親だって絶対に反対する。次にアイドルでも連れて帰れば、すんなり受け入れてくれるって算段だよ」二世たちはドッと笑い声を上げた。「なるほどな!確かに、誰が好んで子持ちの女なんか選ぶかって話だよな!」薄暗い部屋の隅から、湊の冷え切った視線がその男を射抜いた。湊に睨まれ、その男は理由もわからずたじろぎ、慌てて口を閉ざした。蓮はかなり酒が回っているらしく、呂律の回らない口調で湊に話しかけた。「湊、お前に頼まれてたあの男の調査だけどな。情報が入ったぜ」湊は酒を飲み続け、何も答えない。蓮は構わず続けた。「あいつ、結婚するらしいぞ」瞬は首を傾げた。「湊、男の調査なんてさせてたんだ?相手は?」まさか湊は、男に興味があるのか?瞬は思わず身を固くした。湊はグラスを置き、何でもないことのように言い放った。「立花遥の元夫だ」元夫……その言葉に瞬は一瞬で酔いが覚めるのを感じた。勢いよく身を起こし、手にしていたグラスをテーブルの端に置く。「元夫!?あいつ、離婚したのか!?」その声には、蓮でさえ気づくほどの「喜び」が混じっていた。友人の離婚を祝うようなものではなく、もっと別の……深い意味が込められた響きだ。湊は瞬をじっと見据えた。その瞳は底なしに黒く、冷たい光を放っていた。瞬は自分が暗闇の中で、飢えた猛獣にロックオンされ、逃げ場を失った獲物になったかのような錯覚に陥った。背筋がブルッと震える。しかし、心の奥底に封じ込めていた思いが、その隙間か
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第103話

遥の名前が出て、一ノ瀬悠真(いちのせゆうま)は驚いたように声を上げた。「湊、お前本当に立花遥のこと好きだったのか!?あいつ、結構キツい性格じゃなかったか?」瞬がその男を肘で小突いた。「遥は、湊の前だと結構大人しかったんだよ」「へえ、だから湊は……惚れたってわけか?」いずれにせよ、湊が遥に本気で興味を持っていたなど、彼らにとっては信じがたい話だった。どう見ても、あの湊が遥相手に本気になっていたとは思えなかったからだ。湊はタバコを深く吸い込んだ。そして、灰皿に吸い殻を押し付けて火を消した。「性格の問題じゃない」確かに、彼の前での彼女は大人しかった。だが、それは全て演技だった。あの数年間の、彼に対する好意すら、演技だったのかもしれない。湊はそう思った。彼の人生は常に順風満帆で、これまで大きくつまずいたことなど一度もなかった。ただ唯一、遥だけの前では、つまずいただけでなく、手痛い失敗を二度も繰り返している。しかも厄介なことに、その二度とも、彼の一人相撲に過ぎなかったのだ。湊はグラスをあおり、多めの酒を一気に喉に流し込んだ。その様子を見て、瞬は話題を変えた。「湊、前海外に行ってた時、どこに行ってたんだっけ?」「アメリカだ。ロサンゼルスに少し滞在してた」瞬は言った。「遥もロサンゼルスにいたらしいけど、お前ら偶然会ったりしなかったのか?」口にした瞬間、余計なことを言ったと気づいた。罰として、自ら数杯の酒を飲み干した。ロサンゼルスは広い。偶然会わなくても不思議ではない。なんで余計なことを言うんだ、俺!湊は黙って酒を飲んだ。夜は何も食べていなかったため、氷入りの強い酒は、口当たりこそ悪くないものの、胃に届いた瞬間に焼け付くような痛みをもたらした。まるで内臓の奥底が、炎で焼き尽くされるかのようだ。だがその痛みも、心臓を締め付けるような息苦しさには及ばない。彼がロサンゼルスへ行った理由が、一人の存在を探すためだったことなど、誰も知らないのだ。立て続けに何杯も酒を煽る彼を、誰も止められなかった。蓮は湊の肩を叩き、無言で二杯ほど付き合った。胃の灼熱感は限界に達しようとしていた。湊は蓮の腕を借りて立ち上がり、唇を噛み締めながら言った。「悪いが…
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第104話

うわごとのような声が、途切れ途切れに聞こえてくる。だがそれは、耳の奥から脳裏へと響き渡り、静まり返った夜の病院では、その声が異様に生々しく響いた。遥は言葉に詰まった。彼が病気なら、医者が診ればいい。私を呼んでどうするのだ。それに、私は今、ここを離れられない。蓮が先を急ぐように言った。「立花さん、湊の奴がどうしても薬を飲もうとしなくてですね。少しだけ、こっちへ来ていただけませんか?俺のお願いだと思って。謝礼ならいくらでも出しますから」実際のところ、湊は完全に意識を失っていた。健太は蓮のその出まかせを、ただ黙って見守っている。心の中で「勉強になります」と舌を巻きながら。蓮は大げさにため息をついた。「頼みますよ、立花さん。湊がいるのは胃腸科です。入院棟の三階、3202号室」そう言い残すと、蓮は一方的に電話を切った。遥はスマホの通話口を手で覆い、プー、プー、という電子音が漏れないようにした。久美子を起こしてしまわないように。しかしベッドの上で、久美子が寝返りを打った。「行ってきなさい」彼女は横向きになり、スマホを握りしめて心ここにあらずな娘を見た。「ここには誰もいなくても大丈夫だから、行ってあげて」「私、別に……」無意識に言い訳しようとした遥の言葉を、久美子が遮った。「自分の娘のことは、私が一番分かってる。昔、お父さんがあなたに唐揚げを買ってきた時、私が食べるのを許さなくて。私が寝るのを待って隠れて食べようとしていた時の顔、今のはそのまんまよ」あの時、久美子は遥の下心を見抜き、見つけ出した唐揚げを捨ててしまったのだ。遥は大泣きし、後で父がこっそり「新しいのを買ってあげるから」と慰めてくれて、ようやく泣き止んだのだった。久美子は当時のことを思い出し、仰向けのまま、様々な思いを巡らせていた。ここは二人部屋だが、隣のベッドの患者の家族は席を外していた。久美子は相手の迷惑にならないよう、とても小さな声で話しかけた。若い頃、久美子は一度言ったことは絶対に曲げない、バリバリのキャリアウーマンだった。だが、姑と夫の死を経験し、娘が一人で出産に立ち向かい、家庭に大きな変化が訪れ、自分自身も病に倒れたことで。彼女を覆っていた鋭い棘は、すっかり丸くなってい
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第105話

久美子の言うことにも一理ある。遥は座ったまま動かなかった。「お母さん、彼と私が一体どんな関係なのか、わかるの?」「あなたの上司ってこと以外に、どんな関係があるって言うの?」久美子の目は、キラキラと輝いていた。その目の奥には、微かな期待と喜びさえ隠されている。遥は立ち上がり、母に布団をかけ直した。「何の関係もないわ。ちょっと様子を見たらすぐに戻ってくるから。お母さんは休んでて、明日は手術なんだから」「はいはい」遥は深呼吸をし、病室のドアを閉めて出て行った。彼女が去った後、隣のベッドの患者がようやく口を開いた。その目には、遥への好感が滲み出ている。「久美子さん、娘さん、本当にしっかりしてるわね、今は独身なの?」「ええ、でも私にはもう二歳になる孫娘がいるんですよ」結衣の話になると、久美子の顔にも自然と喜びが溢れ出した。娘の言う通りだ。彼女たちには、私が必要なのだ。私がいないと、娘が一人で結衣を育てるのはもっと大変になってしまう。早く元気にならなければ……隣の患者が身を起こした。「子持ちだって気にしないわよ。子供が小さいうちなら、懐くのも早いでしょ。うちの息子、二十八だけどまだ独身なの。どうかしら、明日でも紹介してみない?」久美子はそれを聞いてパッと顔を輝かせた。それはいい話だ。「いいですね。まずは若い者同士会わせてみましょうよ。もし気が合えば、私たちが苦労することもないものですね」二人はすっかり意気投合した。明日、互いに手術台へ上がるという不安さえ、少し和らいだようだった。心が弾むような気分だった。病棟の下。遥は近くの店で栄養食を買っていた。湊は胃腸科にいるというのだから、果物は食べられないだろうと思ったのだ。彼女が三階に姿を現した瞬間、ドアの前に立っていた健太はホッと胸を撫で下ろした。彼は額の冷や汗を拭った。そしてドアを開け、彼女を中へ入れた。何も言わなかった。湊はすでに意識を取り戻し、目を閉じたままベッドに座って、蓮の小言を聞き流していた。「いいからこの薬を飲めって。自分の体だろ」「飲まない」ドアが開く音を聞いて、蓮はメガネ押し上げ、顔を上げた。ドアの前に立つ女性は、ブルーのノースリーブトップスに白いワ
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第106話

病人だというのに。なのに力だけは、自分よりもずっと強い。一体どうやってこの筋肉を鍛え上げているのだろう。遥は心の中で分析した。おそらく、私自身の力が弱すぎるのだろう。普段からペットボトルのキャップを開けるのにも、滑り止めの紙を挟まなければならない自分では、鉄の枷のような湊の手に敵うはずもなかった。彼の手は、ひどく熱い。掴まれた部分の肌まで、その熱が伝染して温度が上がっていく。遥は手首を揺らしたが、振り払うことはできなかった。病室の電気は消えたままだ。窓の外からの明かりと、ベッドサイドのランプの光だけで、湊の表情を捉えるには十分だった。顔色は青白く、隠しきれない病の色が透けて見える。間近で見るこの顔は、遥が最近作っているゲームのメインキャラクターよりも、ずっと整っていた。モデリングのベースには、芸能界で有名なイケメン俳優たちの顔を使っているというのに。湊を前にすると、彼らでさえどこか物足りなく見えてしまう。この表情は、遥にとって、とても見知らぬものであり、同時に酷く見覚えのあるものでもあった。彼女が帰ろうとするのを見て。湊は彼女の腕を引き寄せ、自分の体の上に倒れ込ませた。遥が身をよじると、湊のくぐもったうめき声が聞こえた。彼の胃を圧迫してしまったらしい。遥は点滴の管を引っ掛けてしまうのを恐れ、むやみに動くのをやめた。ここには二人きりだ。もし彼に何かあれば、面倒なことになるのは自分なのだから。湊の声が、頭上から降ってきた。耳の軟骨を震わせ、そのままダイレクトに脳裏へと響いてくる。彼は繰り返した。「残業代を出してやる、五倍でどうだ?」遥はまず彼に手を離すよう求めたが、無駄だった。呆れて笑いが漏れた。「社長も今では、金で何でも買えると思うような人になったんですね?」彼女の言葉には、隠しきれない微かな皮肉が混じっていた。湊の腕に少し力が入る。「……買えるのか?」彼が話すたび、温かい息が遥の耳元に吹きかかる。それはうわごとのようでもあり、何度も繰り返される、確信を持てない探りのようでもあった。「俺が本当に欲しいものは金で買えるのか?」「それは、社長が何を買いたいかによりますね」湊は熱を出しており、体温が異様に高かった。まるで燃え盛る
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第107話

湊は、点滴の管を滴り落ちる薬液をじっと見つめていた。「浮気とは違う」蓮は鼻で笑った。「お前自身が言ってたじゃないか。あれは復讐だって」冗談じゃない?何百万円も自腹を切って元カノに「復讐」を仕掛けた挙句、電話を切った後もドアの方向をじっと見つめて待ち焦がれていたくせに。やっと本人が現れたと思ったら、今度は自分から怒らせて追い返してしまうのだから。「よく考えろよ。彼女には子供がいるんだぞ。親父さんたちが受け入れられるのか?」湊は目を閉じた。「考えすぎだ」今は、先のことは考えていない。だがもし、母や父、そして九条家が彼女の子供を受け入れないというのなら。彼女と結衣を連れて、二度と九条家には戻らない。三人だけで九条家を出ても十分にやっていけるはずだ。ふと浮かんだその考えに、自分自身が驚き、一瞬、意識が遠のいた。「考えすぎだ」と一蹴したくせに、実は自分こそがその未来を、誰よりも熱烈に、そして具体的に描き始めていることに気づいたからだ。健太のスマホが鳴った。「社長、病院側から、立花さんが先ほどの支払い分を返金したいと言っていると連絡がありました」報告しながら、健太はずっと湊の顔色を伺っている。「……彼女に伝えろ、医者は手配した、今さら、もう取り消せないと」外部の専門医は、湊の名義で夜通し頼み込み、すでに飛行機に乗っている。遥がどれだけ意地を張ろうと、久美子の体を持ち出してまで無茶はしないと、湊には分かっていた。案の定。しばらくして健太が戻ってきた。「先生の件につきましては、立花さんは社長に感謝いたしますとのことでした」どうやら彼の好意を受け入れたらしい。健太は言葉を続けた。「先ほど上へ伺った際、立花さんの病室にもう一人若い男性がいました。江藤社長のようです……」瞬か?この病院で鉢合わせしなければ、湊でさえ久美子の明日の手術を知ることはなかった。それなのに、瞬はなぜ来ている。バーで飲んでいた時、遥が離婚したと聞いた瞬の、喜びを隠しきれなかった目を思い出す。ようやく血の気が戻りかけていた湊の顔が、再び沈み込んだ。背もたれに寄りかかり、目を閉じる。頭に浮かぶのは、大学時代の遥と瞬のやり取りばかりだ。彼女は怒った時、怒りに任せて瞬を蹴ったり
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第108話

十数分後、湊の病室のドアが開いた。フルーツの盛り合わせを提げた瞬が入ってきて、ハッと自分の額を叩いた。「あ、買い間違えちゃったな……湊は胃潰瘍だから、果物はダメだったな。湊、具合はどうだ?」湊は、瞬の手に提げられたフルーツの盛り合わせをじろりと見た。ゆっくりと瞼を上げ、氷のように冷たい視線を投げかける。「さき、どこへ行ってた?」瞬は一瞬たじろいだ。だがすぐに、口角を上げて笑い飛ばした。「ちょうど遥もこの病院にいるって思い出してさ。上の階に行って、ついでに遥のお母さんの様子を見てきたんだ。それで、フルーツを買ってきたってわけ」誰も分かっている。瞬は遥の母親を見舞いに行く「ついで」に、湊の様子を見に来たのだ。二人の視線がぶつかり合う。瞬は心の中で冷や汗をかいていたが、それでも表情を崩さず、湊に向かって控えめに微笑んでみせた。だが、引き下がる気は毛頭なかった。湊の顔色に、明らかな不快感が滲む。「あいつには近づくな」瞬は手を伸ばして鼻をこすり、持っていたフルーツをベッドサイドのテーブルに置いた。堂々と言い放つ。「湊、お前に俺を彼女から遠ざける筋合いなんてないだろ」瞬が今まで一度も口にしたことのない本音だ。本来なら、大学に入学したばかりの頃、彼は遥を口説くつもりだったのだ。遥に「俺と付き合いたいのか?」と聞いたあの言葉は、決して冗談ではなかった。そこにどれほどの本気が込められていたか、彼自身にしかわからない。二人はもう別れたんだ。だから、湊には、彼を遥から遠ざける筋合いなどない。この世界で、彼を拒絶する権利を持っているのは、ただ一人。 彼女だけなのだ。湊は胃の辺りを押さえた。胃は感情の影響を受けやすい臓器だ。不快感に敏感に反応し、激しい痙攣と痛みを引き起こしていた。心臓も誰かに鷲掴みにされているかのように息苦しく、血の巡りが遮断されたように、湊は一瞬目を閉じ、冷や汗を流した。蓮がベッドサイドにあったおかゆを手に取り、フタを取り、湊に差し出した。わざとらしく、茶化すような口調で言う。「やっぱり立花さんは気が利くなあ。俺たちじゃお前に何を買えばいいか思いつかないし。これがお前の好物だって知ってるのも、彼女くらいなもんだろ」本来
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第109話

トーク履歴を遡ってみれば、そのほとんどが遥からの言葉で埋め尽くされていた。彼はその中からいくつかを選んで返信しているだけだ。彼女は疲れを知らない小鳥のように、永遠に熱を帯びて、彼の耳元でさえずり続けていた。今と、あの頃。その巨大な落差が重くのしかかり、湊は一瞬言葉を失った。スマホの画面をロックし、まだそこにいる瞬に目を向ける。「帰れ。これ以上俺の言うことが理解できないなら、江藤家と九条グループの取引は一切打ち切る」その口調には、一切の容赦もない脅迫が込められていた。瞬は苦笑を漏らした。湊がその気になれば、たった一言で江藤家を東都のビジネス界から完全に追放することなど造作もない。それでも、彼は諦めきれなかった。あの時、遥は湊を選んだ。だというのに、なぜ今になって、俺にはチャンスすら与えられないんだ?「湊、俺が変わると言ったら?」元々、モデルだろうがアイドルだろうが、彼女たちに感情など抱いていなかった。ただの火遊びですらなかった。互いの利害が一致した関係で、瞬は欲しいものを手に入れ、相手はリソースや金を手に入れるだけのことだった。湊は瞬を見据え、その端正な顔に冷え切った笑みを浮かべた。「俺がこう言うのは、お節介を焼きたいからじゃない。お前にあいつを煩わしてほしくないだけだ。瞬、もし自分を変えられる自信があるというのなら、どうして今までそうしなかった? 」瞬の顔から、湊の目の前で少しずつ血の気が引き、青ざめていく。彼は歯を食いしばり、自嘲するように笑うと、うつむいて自分の足元を見つめ、長いため息をついた。認めたくはない。だが、認めざるを得なかった。湊の言う通りだ。蓮は少し面白そうに言っていた。「お前、今まで手を出さなかったのは、立花さんがまだ離婚してないと思ってたからじゃないのか?」瞬は口元を歪め、自らを嘲笑うように笑った。心の奥底に隠していた薄暗い執念も、一度光の下に晒されてしまえば、もうどうでもよくなっていた。彼は開き直ったように、淡々と告げた。「いや、そういうわけじゃない。俺は別に、そこまでまともな人間じゃないんでね。遥に夫がいようがいまいが、俺にとっては大した問題じゃなかった。ただ、その夫が湊じゃなければ、誰でも同じだ」遥に告白す
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第110話

翌朝。遥は、夜通し駆けつけてくれた専門医と少し言葉を交わした後、母を手術室へと見送った。手術中のランプが点灯する。遥は一人、手術室の外に座り込んでいた。手足は氷のように冷たくなっていた。ふと、彼女の手元に一つの保温ボトルが置かれた。蓋はすでに開けられており、中からは薬膳特有の清々しい香りが漂ってきた。顔を上げると、そこにはまだ患者衣を着たままの湊が立っていた。彼女に動く気配はない。心ここにあらずといった様子で、虚ろな目をしている。泣く気力さえ残っていないように見えた。湊は彼女の隣に腰を下ろし、保温ボトルを彼女の手に握らせると、強引に促した。「飲め、お母さんの手術が終わる前に、お前が倒れられたら困るからな」遥の指先は小刻みに震えていた。保温ボトルをしっかり持つことすらできない。湊は彼女の手ごと握りしめ、ボトルを彼女の口元へ運び、半ば無理やりに一口飲ませた。中には食べやすいように細かく刻まれた薬膳の具材も入っていた。早朝に、湊が手配して届けさせた栄養食のスープだ。少し胃に食べ物が入ると、遥の顔色も先ほどまでの青白さが抜け、手足にも感覚が戻ってきた。その時になって初めて、彼女は自分の両手が湊の手の中にすっぽりと包み込まれていることに気づいた。彼には手を離すつもりが微塵もないようだった。彼の手はとても温かく、力強かった。遥の手をすっぽりと包み込み、その熱は手首から全身へとじんわりと伝わっていく。あまりに見栄えのする二人の姿に、通りがかる看護婦たちは皆、思わず振り返っていた。中には小声で噂話をする者もいる。「あの夫婦、すごく仲がいいわね。旦那さんの方、自分も入院してるみたいだけど」「朝早くから上がってきて、さっきもあそこでずっと立って彼女を見てたのよ」「あらー、そこまでラブラブなの?」……看護婦たちのひそひそ話が聞こえ、遥は湊の手から自分の手を引き抜こうとした。だが、いくら力を込めても無駄だった。彼女は仕方なく、小さな声で言った。「社長」湊は気にも留めず、むしろ彼女の手を握ったまま自分の口元へ引き寄せ、ふーっと息を吹きかけた。彼女の手が完全に温まったのを確かめてから、ようやく手を離す。そして再び保温ボトルを差し出し、もう少し食べるよう促した。
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