再会した元カレ上司は、私の愛娘の父親でした のすべてのチャプター: チャプター 81 - チャプター 90

100 チャプター

第81話

遥は思わず見惚れてしまった。相手が湊でなければ、写真を撮って保存したいくらいだ。ラフ画の修正資料として最適だ。湊は何を着ても絵になる。学生時代はあまりスーツを着なかったのが悔やまれる。あの頃は見られなかった姿を、今こうして堪能できるとは。もちろん、堂々と見るわけにはいかないが。湊は彼女の視線に気づき、視線を下げて言った。「何をしている?」寝不足でイライラしていたのと、玲奈の挑発に腹を立てていたせいで、つい感情的になってしまった。だが湊を前にすると、その勢いは霧散した。直属の上司に逆らう度胸はない。それに、さっきの発言は、ついカッとなって口走っただけだ。もし湊が玲奈の肩を持つつもりなら、甘んじて受け入れるしかない。玲奈は湊を見るなり、泣き出した。遥を指差し、あざとく訴える。「湊さん!この人が、私があなたを誘惑してるって、根も葉もないことを言っていますよ!」遥は頭が痛くなった。湊はこんな女のどこがいいのか。それとも、こういうタイプが好みなのか?遥はコーヒーカップを持って、どさくさに紛れて逃げ出した。湊の後ろから遅れてやってきた健太は、玲奈の発言を聞いて頭を抱えたくなった。厳しい顔で玲奈を連れ出す。給湯室には湊一人が残された。窓から差し込む薄い日差しが、カーペットに落ちている。湊の節くれ立った手が、カウンターの上のあるものを拾い上げた。猫の形をした陶器のカップの蓋だ。遥が忘れていったものだろう。蓋の縁に、うっすらと赤い跡がついている。おそらく口紅だ。唇のシワまで見えるようだ。遥には癖がある。何かに集中している時、無意識に物を噛むのだ。おそらくコーヒーが冷めるのを待つ間に、蓋を噛んでいたのだろう。陶器だから跡は残らないはずだが。湊はさっき遥が言った言葉を思い出していた。昔の面影があった。今の彼女は、昔とは別人かと思うほど変わってしまった。彼女が言っていた父の死が影響しているのだろうか。遥は父親と仲が良かった。それは湊も知っていた。周りは遥のことを性格が悪い、わがままだと言うが、湊はそんな彼女が好きだった。光が湊を照らす。彼はスマホを取り出し、手にした蓋を撮影した。インカメラに切り替え、自撮りをして、二枚とも遥のL
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第82話

【蓋を忘れたぞ、給湯室に取りに来い】遥はほっとした。【ありがとうございます。給湯室に置いておいてください】返信した後、湊が二枚目の画像を取り消さないことに気づいた。仕方なく引用返信する。【社長、送信先を間違えてますね?】【ああ、そうだな】遥の胸の鼓動が静まっていく。やはり、誰かに送る予定のものだったのだろう。付き合っていた頃、湊は毎日の予定をいちいち遥に報告したりはしなかった。多くの場合、一日の用事を済ませてから彼女に会いに来ていた。彼は邪魔されるのを嫌う。当然、彼女が自分の生活に干渉してくるのも嫌がった。人を愛している時は、無意識に相手を正当化してしまうものだ。今、そうやって自分に言い聞かせていた言葉は、現実を前に砕け散った。まるで一枚のガラスが砕け散り、思い出が刻まれたその破片が、胸に突き刺さるような痛みだった。彼女は音もなく笑い、スマホをしまった。仕事をこなし、プログラムをいくつか処理した後、湊はもう給湯室にはいないだろうと思い、蓋を取りに行くことにした。だが入ってみると、湊は窓辺に立ち、外の景色を眺めていた。ずっとここにいたのか?遥は覚悟を決めて挨拶した。「お疲れ様です」湊は頷き、蓋を渡した。陶器の蓋は、彼の手で温められていた。彼の手のひらの温度だ。遥が受け取ると、ほんのりと温かくなっていた。彼女は湊を見た。「あの、社長。さっき送っていただいた画像、参考にさせてもらってもいいですか?」使うなら、一言断っておくべきだと思った。湊の目に笑みが浮かぶ。「一枚で足りるか?」低い笑い声が給湯室に響く。一枚では足りない。できれば別のポーズも欲しい。特に、彼女が描こうとしているのは正装で土下座するポーズだ。もし完璧に再現してくれるなら、最高なのだが。湊に正装で土下座する光景……想像しただけで、遥の頬が熱くなる。そんなこと、口が裂けても言えない。遥は蓋を握りしめた。「十分です。ありがとうございます」そう言って、脱兎のごとく逃げ出した。緊張で手と足が一緒に出そうになりながら。背後で、湊がくっくと笑う声が聞こえた。……瞬のオフィス。健太に怒られた玲奈は、泣きながら瞬のところへ逃げ込んだ。瞬は会議中
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第83話

その夜、母はすきやきを作ってくれた。具材たっぷりで煮込まれたスープは、食欲をそそる香りが漂っていた。だが、母は相変わらず頑固だった。「手術など無用よ。私は受けないわ」年寄りは頑固だ。遥はため息をついた。わざと強い口調で言う。「もう手術チームの予約も取ったし、お金も払っちゃったわよ」母が心配しているのは、金銭的なことだと分かっている。会社勤めとバイトを掛け持ちし、二人の病人を抱えながら父の会社の借金まで返済している娘を、見ていられないのだ。借金といっても、本来はないはずのものだった。会社の経理上のトラブルは、自分で対応すればいい。会社の問題さえ片付けば、手術なんて受けなくていい。人生で一番大切なのは、子供に迷惑をかけないことだ。だが問題が片付く前に、手術の順番が回ってきてしまった。久美子はスープを一口飲み、ゆっくりと言った。「私を何も知らないババアだと思わないで。手術もしないのに、お金を取る病院なんてあるわけないでしょ?手術は受けないわ。諦めなさい」根っからの気の強い人だ。遥は疲れ果てていた。スープの椀を置き、怒った顔をした。「お母さん、自分が強くて偉いと思ってるんでしょ?言っとくけど、手術を受けないなら、明日結衣を連れて出て行くから。一人でここにいればいいわ!」久美子の手が震え、信じられないという顔で遥を見た。母と娘の対峙だ。久美子は震える声で言った。「私を捨てるつもり?」「生きたいと思わないなら、私たちと一緒にいたくないなら、結衣の成長も、私が結婚して子供を産むのも見たくないなら、私たちにはもう関係ないわ」遥の声は震え、今にも泣き出しそうだった。久美子の心も、少しずつ氷が解けるように柔らかくなっていった。こんなやり方ではフェアじゃないことは分かっている。だが手術には五百万円もかかる。遥は爪に火を灯すような生活をし、何年もまともな服を買わず、結衣にさえお下がりの服を着せている。自分が足かせになっているのだ。久美子は意を決した。「分かった、受けるわ。でも、条件が一つある」「何?」手術を受けると言ってくれるなら、条件など一つどころか十個でも聞く。久美子は遥を見つめ、穏やかだがきっぱりと言った。「結衣の父親がい
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第84話

父の会社が倒産し、資産が凍結された後。いくつかの工場の生産プロジェクトは契約済みだったため、負債が発生し、遥と母は相談して家と車を売り、なんとか返済に充てた。ネットではよく、没落した富裕層の悲惨な末路が動画になっている。遥は自分も潰れてしまうかと思った。だが彼女も久美子も、気丈だった。淡々と葬儀を済ませ、祖母を見送り、次に父の最期を看取った。母と冷静に話し合い、仕事を探し、債権者と返済計画を結んだ。この数年、遥はそうやって生きてきた。不平不満は言わなかった。ただ、自分がもう少し頑張れば、母と結衣にもっといい生活をさせてあげられると信じていた。借金取りに返信した後、遥はアプリで残高を確認した。カツカツだ。管理画面にクライアントからのメッセージが届いた。とても丁寧な口調だ。【カゼ先生、こんにちは。このラフ画の構図ですが、少し修正していただけませんか?なんというか、雰囲気が出ないんです。別に、先生の腕を疑っているわけではありませんが……】「カゼ」はこの業界の神絵師だ。相手も機嫌を損ねるのを恐れ、言葉を選んでいる。【分かりました。すぐに修正します】前の絵は、ネットで見つけた正装で土下座している写真集の画像を参考にしたものだ。確かに、クライアントが求める雰囲気とは少し違っていた。男の色気が足りない。絵を描くには、資料が必要だ。遥の脳裏に、昼間湊が送ってきた写真が浮かんだ。間違って送ったものだが、参考にしていいと彼は言っていた。画像を保存する。キャンバスの横に貼り付け、それを参考に新しいラフ画を描き、クライアントに送った。返信は早かった。【神!カゼ先生は神です!まさに神の御業!まさにこの感じです、涎が出そう!でもやっぱり、土下座のポーズがいいんです】【分かりました】返信した後、遥は無意識にスタイラスペンを咥えた。ベッドに倒れ込み、スマホの連絡先をスクロールする。クライアントの要望に合う体型の男性は、そういない。まだ若いとはいえ、彼女の周りの男たちは腹が出ていないだけマシで、鍛えている人でも、そこまで完璧な体型の人はいない。遥の指が、画面を滑る。真っ黒なアイコンの上で止まった。もし、湊なら……確かにクライアントの要望にぴったりだ。
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第85話

「ああ」と短く答え、電話を切った。鏡に向かい、トレーニング中の写真を二枚撮った。走り終えてシャワーを浴びる前だったので、上半身は裸だ。筋肉のラインがくっきりと浮かび上がり、汗が肌を滑り落ち、スウェットパンツに染みを作っている。送信した後。蓮から電話がかかってきた。「湊、お前に頼まれた男の婚姻状況だけど、バツイチだぞ。どういうことだ?」バツイチ?「元妻の氏名は割り出せるか?」「ちょっと難しいな。プライバシーに関わることだし、離婚も本人がSNSで公表しただけだしな」プライバシーに関わる内容でも、蓮なら調べ上げられると湊は信じていた。「ただ、現在は独身であることは間違いない。どうだ、この男の彼女は元カノか?」「違う」湊はタオルで汗を拭った。窓の外はネオンが輝いているが、ジムには彼一人だ。立花翔太は、バツイチ。つまり、遥とは離婚しているということだ。あの時、遥の家で、遥の母親が見知らぬ男が娘の部屋にいるのを黙認していたのも頷ける。我慢しろと諭した時、彼女は愛してくれる人を探すと言っていた。湊の心に火種がくすぶっているのを感じた。蓮との電話を切った後、キッチンに行き、冷蔵庫から氷水を一本取り出した。一気に飲み干し、ようやく苛立ちの炎を鎮めた。その時。遥から正装で土下座している画像が送られてきた。こんな感じのが欲しい、参考にしたいと。湊は送られてきた画像をタップして開き、返信した。【欲しいなら、自分で撮りに来い】その下に、マンションの位置情報を添付した。遥は湊からの返信を見て、スマホを投げ捨てそうになった!相手からまたメッセージが届く。【このアングルは、自撮りじゃ無理だ】遥が送った画像は、女性の手が男の顎を掴み、男が正装でカーペットに跪き、女性を見上げている構図だ。俯瞰のアングルだから、確かに自撮りは不可能だ。【それとも、俺に適当な女を連れ込んで撮らせろと?】そんなこと言えるわけがない。彼なら家に女がいるかもしれないから、その人に撮ってもらえばいいと思っていたのだが。湊に逃げ道を塞がれてしまった。深夜に湊の家に一人で行くなんて、悪魔の巣に飛び込むようなものだから。遥はもちろん断りたい。湊は悪魔ではないが、遥は不安でたまらなか
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第86話

遥は自分の行動が不自然だと分かっていた。だが、恥ずかしくて直視できないのだ。湊は彼女を見た。「冷蔵庫に飲み物がある。着替えてくるから、どんな写真がいいか考えとけ」「できればアームバンドとシャツガーターもつけてほしいです」「ああ、分かった」遥も自分の要求が図々しいのではないかと思った。だが湊はあっさり承諾した。以前も、湊にモデルになってもらったことはあるが、大抵はもっと際どいポーズだった。当時、カゼの作風は「少年美の神」と呼ばれていた。画風も次第に洗練されてきている。湊の家は、そのままモデルルームとして公開できそうなほど、黒い家具とダークウォールナットの床で統一されていた。塵一つない。冷蔵庫には酒と、未開封の牛乳が数本、そしてカラフルな液体の入った透明な瓶が数本入っていた。ジュースだろうか。遥は一本取り出した。一口飲むと、苦かった。飲むのをやめた。瓶にはロシア語が書かれており、遥はそれが酒だとは気づかなかった。彼女は知らなかったが、湊の冷蔵庫にはジュースなど入っていない。寝室から衣擦れの音がして、男が着替えて出てきた。スリーピースのスーツで、遥が見たことのないデザインだ。刺繍入りのネクタイを首にかけて、そのまま出てきた。遥が送った画像でも、ネクタイはそうやって無造作に掛けられていたのを思い出した。顔が勝手に熱くなる。湊は事務的な口調で言った。「どこで撮る?ここのカーペットでいいか?」「はい、どこでも」湊の家はどこもカーペットだ。どこでも撮れる。湊が一歩ずつ近づいてくる。遥が座っている場所で、湊は彼女に向かって片膝をついた。遥は湊を見つめて、一瞬、呼吸さえ忘れてしまった。彼は遥の手を取り、自分の顎に添えた。遥は自分の顔が真っ赤になっているのを感じた。耳まで熱い。湊はよく鍛えられていて、腕も太ももも筋肉が隆起している。つまり、スラックス越しにシャツガーターの輪郭がはっきりと見えるのだ。さらに跪いた姿勢のせいで、ある部分が強調されてしまう。遥の指先が湊に導かれ、彼の顎を滑る。湊が見上げる。口元には微かな笑みが浮かんでいるが、目立たない。遥の心臓が早鐘を打つ。湊に「撮れ」と促されてようやく我に返り、スマホを構えて数
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第87話

冷蔵庫の酒は、瓶が小さければ小さいほど、度数が高い。遥が飲んだのは強烈なウォッカだった。遥は湊の顎を指先で摘み、不満げに呟いた。「着すぎよ、ジャケット脱いで、シャツも脱いで、早く」湊は遥の顔を見つめ、ふとテーブルの上に置かれた、封の開いた酒瓶に視線をやった。牛乳を飲まずに、酒なんか飲んでいたのか。だが飲んでしまったものは仕方ない。彼女が泥酔しているのは明らかだったから、湊も止めなかった。ゆっくりとジャケットを脱ぎ、シャツのボタンに手をかけた時、遥にその手を上から押さえられた。「遅いよ、私がやるから」細い指が一つずつ、彼のシャツのボタンを外していく。その顔からはほのかな酒の匂いが漂い、頬は紅潮している。距離が近く、彼女の吐息が彼の胸にかかるほどだ。湊の呼吸も、次第に荒くなる。「遥、俺が誰だか分かるか?」まさか、元夫と間違えているのではあるまいな?その考えがよぎり、湊の胸の奥が微かに疼いた。遥は手を止め、顔を上げて湊を見つめた。「誰って?九条湊でしょ?」彼女の口から自分の名前が出た。湊の心は一度落ち着いたが、彼女の唇の動きを見て再び波立った。彼女は酔って唇を舐め続けており、赤く潤んでいる。まるで、ガラス瓶に描かれたサクランボのように艶やかだ。湊は遥の手を握りしめ、包み込むように力を込めた。「立花翔太って誰だ?」遥は動きを止めた。眉をわずかにひそめる。こんな時に他人の話をする湊に、不満があるようだ。だが湊は手を放さず、答えを待った。遥はふてくされて言った。「サイテーな男!」翔太は私とあかりの確執を知ってて、あっちを選んだのよ。最低だ。湊は手を離した。遥は嬉しそうに何枚も写真を撮り、スマホを抱えてしばらく眺めていた。「湊、かっこいい、いい男ね」「かっこいいだけか?」遥は答えず、スマホの画面を食い入るように見つめ、何度もピンチアウトして拡大している。目の前に本人がいるのに、完全に無視した。湊が何か言おうとすると、彼女はすでにスマホを抱きしめたままソファで眠りこけていた。無防備すぎる。彼は遥にはだけさせられたシャツをそのままにし、胸を露わにしたまま、夜の闇の中で彼女を見つめた。酔って口にするのが俺の名前で、翔太を
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第88話

夜も更けてきた。遥はぼんやりと起き上がり、目を閉じたままスリッパを探した。足の裏に触れたのは、柔らかいカーペットの感触だった。目を覚ますと、そこは見知らぬ寝室だった。ダークな色調のフローリングに、グレーのカシミアカーペット。サイドテーブルの読書灯は暗く絞られているが、部屋の様子を確認するには十分だった。自分の部屋ではない。エアコンの冷たい風に当たり、一気に酔いが覚めた。お酒を飲んだ記憶が蘇り、遥は思わず足の指をカーペットに食い込ませた。まさか湊の家で酔いつぶれて寝てしまうなんて。部屋を見渡すと、誰もいない。少しだけ安堵した。トイレに行きたくなり、恐る恐るバスルームへ向かった。バスルームには物が少なく、置いてあるのは男性用のスキンケア用品と、電動シェーバー、歯ブラシくらいだった。洗面台は塵一つない。遥は冷たい水で顔を洗い、意識をはっきりさせた。湊の家で寝てしまったという事実に、眠気などとうに吹き飛んでいたのだ。今は午前三時。今さら出て行くのも、かえって怪しまれそうだ。彼女はタブレットを取り出し、ラフ画の修正に取り掛かった。だが、スマホのアルバムを開いた瞬間、遥の顔は耳の先まで真っ赤になった。指が震えてスマホを落としそうになる。なんてものを撮ってしまったんだ!湊のシャツをはだけさせ、何枚も撮っている。酔って手ブレしたのか、あろうことか局部がアップになったものまであった。恥ずかしすぎる。写真には湊の顔はほとんど写っていない。遥には、彼が当時どんな顔をしていたのか分からない。たぶん、不機嫌だったに違いない。以前、彼にモデルを頼んだ時も、いつもそんな顔をしていたから。遥は頭を振り、邪念を追い払った。湊の写真のおかげでインスピレーションが湧き、修正作業はスムーズに進んだ。さらに一枚、正装で土下座しつつシャツがはだけているバージョンのラフも描いてみた。見返してみると、我ながら完璧な仕上がりだった。急いで修正を終え、ラフ画を送信する。相手は即レスだった。まさかカゼ先生がこんな時間まで描いてくれているとは、と感激していた。出来栄えにも大満足で、賛辞の嵐だ。これでようやくラフ画が確定し、前の一枚と合わせて彩色と仕上げに進める。描き終えた
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第89話

学生時代、難解な課題を難なくこなせたのは才能だが、それを支えていたのは膨大な課題をこなす積み重ねだ。数々のコンペでの受賞も、決して運や才能だけではないことを遥は知っていた。二人でホテルに泊まった時でさえ、彼はよく勉強していた。遥はその横で絵を描いた。振り返れば、あれが二人の間で最も穏やかな時間だったのかもしれない。遥はそれほどベタベタするタイプではないが、湊と付き合ってからは、片時も離れたくないと思うようになった。以前も、目が覚めたら彼がまだ勉強や仕事をしていた、ということが何度かあった。ぼんやりしていると、湊の視線とぶつかった。バッグを持っている彼女は、こっそり逃げ出そうとしているように見えた。一分でも早くここから逃げ出したいとでも言うような顔だ。湊は眉をひそめ、不機嫌そうに言った。「どこへ行く?」「……寝てしまってすみませんでした。お邪魔しましたので、これで失礼します」湊の動きが止まった。「こんな時間にどこへ行く気だ?高架下でホームレスと場所取りでもするか?」この時間にホテルに行くのも金がもったいない。始発までまだ数時間ある。始発もまだ動いていない。湊の読み通り、遥は外に出て24時間営業のカフェかコンビニで時間を潰すつもりだった。図星を指され、遥はバッグの縁を握りしめ、小声で言った。「そ、それに夫が心配しますから」言えば言うほど自信がなくなる。湊は鼻で笑った。深夜の書斎に、冷ややかな声が響いた。「寝ろ」遥は動かなかった。湊が顔を上げる。彫りの深い眉骨がわずかに上がり、座っているはずなのに、遥を見下ろすような威圧感を放っていた。「寝られないなら仕事をしろ。今日の会議はお前のプロジェクトが議題だ」あのプロジェクトは、確かにまだ詰めるべき点が残っている。だがここで残業するのは、どう考えても場違いだ。「パソコンを持ってきていません」写真だけ撮って帰るつもりだったのだ。まさか彼の家で深夜残業することになるとは。湊は手元のモニターを回し、接続ポートを叩いた。「じゃあこれ使え」一呼吸置いて、彼は付け加えた。「残業代は出す」遥は内心で悪態をついた。さすが社長、こんな時間に自宅で残業させるとは。やはり資本家は搾取することしか考
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第90話

その言葉が発せられた瞬間。イヤホンから男の声が聞こえてきた。外国語ではない。「兄貴、誰と話してんの?まさか彼女ができたとか?」湊は懐の中で縮こまり、押し黙っている遥を一瞥した。明らかに、声を出して二人の関係を誤解されるのを恐れているのだ。湊の手は鉄の万力のように固く、遥が何度か解こうとしてもびくともしなかった。相手の九条健(くじょう けん)は興味津々だった。湊に浮いた話がないのは周知の事実だ。伯母は神頼みしてまで、湊に早く身を固めてほしいと願っている。早く九条家の跡取りを、と。女の子でもいい、とにかく次の世代への希望が見たいのだと。下の従兄弟たちも湊を真似て、「湊お兄さんが結婚しないなら私たちも」などと言い訳にしている。おかげで祖父は湊を見るたびに頭を抱え、神主か僧侶とかを呼んで厄払いさせようとまで言い出した。それを湊が「二度と実家には帰らない」と脅し、ようやく祖父を諦めさせたが、口うるさく言われ続けているのは変わらない。健は興奮気味に言った。「兄貴、彼女さんに声を聞かせてよ!」湊は腕の中で観念して目を閉じている遥を見て、ゆっくりと言った。「いや、恥ずかしがり屋なんだから」健は人懐っこい大型犬のようにまくし立てた。「こんちは!俺は九条健、九条家の三男っす!怪しいもんやないんで、怖がらんといてください!」怪しい者じゃないと自己紹介する奴が一番怪しい。健は畿西府(きさいふ)育ちで、しゃべるときに訛りも強い。遥は我慢できず、ふき出してしまった。すぐに口を押さえたが、後の祭りだ。声を聞いた健はさらに調子に乗った。「兄貴、彼女おるんやったら家にも言うたってーな。先週なんか伯母さんが俺にまで見合い話振ってきて、ほんま怖かったわ」湊の指先が、遥の腰をなぞるように動く。さらに、シャツの裾をめくって中に入り込んだ。腰の皮膚は敏感だ。彼の指が触れるたび、遥の体はビクリと震える。避けたくても逃げ場がない。声を上げて彼を叱責することもできない。湊は、この感覚に溺れそうになっていた。健の陽気な声を遮った。「もういい、こっちは夜明け前だ。さっさと本題に入れ」健は察しが良かった。ただ、方向性が少しずれていた。「おっと、すまない!兄貴と義姉さんのイチャイチャ邪
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