All Chapters of 過ぎし日は空に帰す: Chapter 1 - Chapter 10

12 Chapters

第1話

事故の瞬間、如月蓮司(きさらぎ れんじ)は咄嗟に私・葉山雪乃(はやま ゆきの)を強く抱き寄せ、その身で庇った。そのおかげで私はかすり傷一つ負わなかったが、彼はICUへと運ばれた。五時間近くに及ぶ懸命な救命処置の末、ようやく一般病棟に移ることができた。見舞いに訪れた友人たちは皆、羨望の眼差しで口々に感嘆した。「さすが、『愛妻家』の代名詞と言われるだけあるわね。命を捨ててまで奥さんを守るなんて。雪乃、本当に愛されてるわね」「どこにお参りすれば、こんなにイケメンでお金持ちで、しかも一途な旦那様を授かれるのかしら。教えてほしいくらいよ」私は張り付いたような笑みを浮かべ、無言を貫いた。なぜなら彼女たちは知らないからだ。彼女たちが崇めるこの「愛妻家」の蓮司には、とっくに外に新しい女がいるという事実を。事故が起きる直前、彼は地下駐車場で、あの若く美しいインターンの女に絡みつき、何度も何度も情事を重ねていたのだ。その瞳には、私にはもう長いこと向けられていない、強烈な快楽と悦びが宿っていた。一方で私は、泣き喚くことも問い詰めることもせず、ただ静かに、ある「事故」を画策していた。本来なら、私はこの事故で「死ぬ」はずだったのに…………「雪乃!」静まり返った病室に、突如として恐怖に満ちた低い叫び声が響いた。私は慌ててスマホを置き、ソファから立ち上がった。ベッドに近づくやいなや、蓮司の腕の中に強引に引きずり込まれる。彼の体は、小刻みに震え続けていた。「どうしたの?……悪い夢でも見た?」私は彼の背中を優しく撫でる。腰に回された腕が、徐々に締め付けるように強くなる。「雪乃、俺から離れないでくれ……」私の手が、一瞬止まった。「ここ数日、夢を見るんだ。君が血の海に倒れている夢ばかり……」蓮司は顔を上げ、私を見た。その両目は真っ赤に充血していた。「これからは、君を俺の視界から出さない。一秒たりとも」私は彼の震える体を抱きしめ、必死になだめた。「大丈夫よ。どこにも行かないわ」しばらくして、彼はようやく腰の力を緩めた。自分の隣のスペースをポンポンと叩く。私はその場から動かなかった。「雪乃~」彼は懇願するような瞳で私を見上げた。その口調には、珍しく甘えるような響きがあった。「最近、どうして
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第2話

「雪乃、カツサンドが食べたい」その言葉に、私は手にしたスープを置いた。「じゃあ、下の売店で買ってくるわ」蓮司は口角を上げ、甘えるような猫なで声を出した。「学生時代によく通った、あの店のやつがいいな」私は一瞬、動きを止めた。あの店は城東にあり、ここから車で一時間はかかる。しかも人気店だから、行列に並ぶ時間も馬鹿にならない。往復すれば、どうあがいても半日は潰れる。単なる思いつきなのか、それとも私を遠ざけるための口実なのか……もう、深く考える気さえ起きない。私は何も言わず頷き、立ち上がって病室を出た。ほどなくして、白いミニスカートの女の子が、階段から慌ただしく病室へ駆け込んでいくのが見えた。彼女は目を潤ませ、勢いよく蓮司の胸に飛び込んだ。傷口に触れたのだろう、蓮司が無意識に眉をひそめたが、彼は歯を食いしばって痛みに耐え、声を上げなかった。「来るなって言ったのに」彼は慣れた手つきで女の子の腰を抱き寄せ、愛おしそうにその頬をつねる。「だって、会いたかったんだもん」女の子は顔を上げ、彼を見つめて甘えた。「チューして、ギュッてしてほしいの」蓮司の唇の端が吊り上がり、からかうような響きを帯びる。「キスとハグだけでいいのか?」女の子は瞳を潤ませ、彼の胸にねっとりと体を押し付けながら嬌声を漏らした。「……あなたも欲しい」蓮司の瞳が黒く沈む。彼は不意に彼女の顎を掴み、その唇を塞いだ。静まり返ったVIP病室に、男女が唾液を交換し合う生々しい水音だけが響く。蓮司の手がスカートの裾から内側へと這い上がり、女の子が堪えきれずに甘い声を漏らす。このまま一線を越えそうになったその時、蓮司は理性を働かせ、彼女を軽く押し退けた。声は情欲で嗄れている。「……もう帰る時間だ」女の子は名残惜しそうに彼の腕から離れた。「また明日、来てもいい?」蓮司は彼女の頬にキスをし、優しく言い聞かせた。「しばらくは来るな。君に毎日ここを通わせるのは、俺が辛い」「退院したら、埋め合わせしに行くから……帰ったらもっと食えよ」彼はベッドの背もたれにだらしなく寄りかかり、女の子の胸の膨らみを掌で包み込みながら、ふざけた口調で言った。「痩せたな」女の子は羞恥と怒りで彼に飛びかかり、噛みついた。蓮司は軽く舌
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第3話

買ってきたカツサンドの箱を置いた途端、蓮司が背後から貼るように抱きついてきた。温かい唇が、私の耳の輪郭を軽くこする。「雪乃、お疲れ様」私は驚いて、強張った体で彼を押し退けた。彼はきょとんとする。「どうした?」「……なんでもない」私は予備のおしぼりを彼に手渡した。「早く食べないと、パンが湿気っちゃうわよ」蓮司は口角を上げ、笑った。「雪乃がわざわざ遠くまで行って買ってきてくれたんだ。湿気てても全部食うよ」彼はカツサンドを一口頬張る。私が味はどうだと聞くと、彼は頷き、私の顔を立てるように絶賛した。「うん、やっぱこの味だよ。懐かしいな」私はうつむき、心の中で冷笑した。だってそれは、私が病院の下のコンビニで適当に買っただけのものなのだから。以前の味なんて、するはずがないのに。蓮司が退院する日、多くの友人や長年のビジネスパートナーが駆けつけた。白石莉奈(しらいし りな)もその中にいた。だが、最初の一瞥を除いて、蓮司は終始彼女に視線を向けることはなかった。莉奈は部屋の隅で、落ち込んだ様子を見せている。ところが、ある取引先の社長が蓮司に祝杯を勧めようとした瞬間、彼女は突如として立ち上がり、蓮司の手からグラスを奪い取った。「田中社長、如月社長は退院したばかりですので、この一杯は私が代わりにいただきます!」言い終わるや否や、彼女は独断で酒を飲み干してしまった。その場にいた全員が沈黙し、複雑な表情で、蓮司の隣に座る私を見た。「彼女は?」蓮司は表情一つ変えず、笑顔で答えた。「うちに入ったばかりのインターンです。新人なもので、至らない点がありまして……田中社長、どうかご容赦ください」ここにいるのは海千山千の古狸ばかりだ。彼の言葉の端々に滲む「庇護」のニュアンスを聞き逃すはずがない。田中社長は顔を立ててグラスを空け、酒席の空気は再び温まった。蓮司はテーブルの下で、無意識を装って私の手を握り、軽く指を絡めてきた。「まったく、誰が採用したんだか。あんな空気の読めない新人がいると困るな。あんなに前のめりで」私は笑うともなく言った。「へえ……なら、クビにすれば?」私を握る彼の手が、微かに止まった。私は表情を変えず、そっと手を引き抜いて笑った。「冗談よ。新人なんだから、成長
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第4話

私は彼女と数秒間、静かに視線を交わした後、踵を返して階段を降りた。鞄さえ個室に置いたままで。歩いて家に向かう途中、アフロディーテ広場で、男の子がバラの花束を抱えて女の子に告白している場面に出くわした。かつての、青臭くも誠実だったあの少年と同じ姿だ。「年齢も距離も関係ない。君がその気なら、俺は一生君だと決めている。何があっても、俺たちを引き離すことはできない」……一生というのはあまりに長く、人の心はあまりに移ろいやすいものだ。翌日、目を覚ますと、蓮司がベッドの脇に立っていた。彼は沈んだ瞳で私を見下ろし、手には私のスマホと鞄を持っていた。「雪乃。スマホに『同意書への署名完了』って通知が来てるけど、何の同意書だ?それに、どうして俺の指紋認証を削除したんだ?」その言葉に、私は胸の奥が冷えるのを感じ、寝ぼけた頭が一気に覚醒した。何の同意書か……もちろん、私の「遺体引き取り」に関する同意書だ。私は黙って彼の手からスマホを受け取り、慌てることなく淡々と答えた。「旅行ツアーに申し込んだのよ。近いうちに少し出かけようと思って。指紋とパスコードは、たぶんシステムアップデートのせいね」それを聞いて、蓮司は安堵の息を漏らした。彼はベッドの端に腰掛け、屈み込んで私にキスをしようとした。甘ったるい香水の匂いが、鼻を突く。私は無意識に顔を背け、キスは頬に落ちた。「君、ずっと瑠璃島に行きたいって言ってただろ?今度の出張が終わったら、連れて行ってやるよ。一週間くらいなら休み取れるから。俺が帰ってきたら行こうな」私は何も答えなかった。彼自身、このセリフを何度口にしたか忘れているのだろう。そのたびに、様々な理由をつけて約束を破ってきたことを。それに今後、私にはもう必要のないことだ。私が黙っていると、彼が何か言いかけた。その時、彼のスマホが鳴り響いた。彼は私の額に軽くキスをした。「待っててくれ」そう言い残し、電話に出ながら部屋を出て行った。ドアが閉まった瞬間、私のスマホに知らない番号からショートメッセージが届いた。開いてみると、文字はなく、あるSNSアカウントのスクリーンショットが一枚だけ添付されていた。私はアプリを開き、そこに記されたID――莉奈のアカウントを検索した。プロフィール欄には、『蓮
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第5話

莉奈は当てこすりたっぷりに、そのコメントに返信した。【男は死ぬまで少年だけど、女は三十路手前でもう枯れ草でしょ?私はまだ若くてよかった。青春と愛する人がいて、思いっきり弾けられるもん】ファンがその意味深な言葉に反応する。【えー、どんなふうに弾けるの?詳しく!】莉奈は恥ずかしがるスタンプを返した。【ある人を喜ばせたら、瑠璃島へのハネムーンに連れて行ってくれることになったの。みんな、現地で会おうね〜】その投稿には、個人情報を隠した二枚の航空券の写真が添えられていた。横には、男性の手がちらりと写り込んでいる。その男性の薬指には、シンプルなデザインの指輪がはめられており、そこには【Y & N】という文字が刻まれていた。……それは、私の名前のイニシャルだ。それから数日間、朝晩の挨拶を除いて、蓮司からメッセージが来ることはなかった。私もあえて干渉しなかった。彼はどうやら、新しい愛人との甘い時間に溺れすぎて、私が返信しているかどうかなど気にも留めていないようだ。毎日、判で押したような「おはよう」「おやすみ」が届くだけだ。そして彼が帰国する予定の当日の未明。罪悪感がぶり返したのか、蓮司から突然、私たちの過去を振り返る長文のポエムのようなメッセージが送られてきた。読む気も起きず、画面を消して寝ようとした時、再び通知がポップアップした。【雪乃、会いたい】【今、君には届かないかもしれないけど……愛してるよ】【おやすみ、いい夢を】私は思わず鼻で笑ってしまった。別の女のベッドにいながら「愛してる」だなんて。蓮司、自分自身に吐き気を感じたりしないの?その深情けごっこ、これからは一人で勝手にやっていればいいわ。翌朝。私は用意しておいたバースデーケーキを丁寧に並べ、その横のダイニングテーブルの一番目立つ場所に、プレゼントの箱を置いた。この家を見るのも、これが最後だ。未練など微塵もない。私はドアを開け、外へと踏み出した。空港へ向かうタクシーの中で、突然蓮司から電話がかかってきた。「雪乃、今日が何の日か忘れてないか?」「忘れてないわ」私は車窓を猛スピードで流れ去る景色を眺めながら、静かに告げた。「誕生日おめでとう、蓮司」彼はいきなり機嫌を良くしたようだ。声が弾んでいる。「やっぱり
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第6話

ドォン、という衝撃が脳内で爆ぜ、蓮司の耳には耳鳴りだけが響いていた。何も聞こえない。彼は狂ったように搭乗口へ向かって走り出した。莉奈は状況が飲み込めず、驚いて蓮司の名前を叫んだ。だが男は聞こえていないかのように、よろめきながらも全力疾走を止めない。莉奈は仕方なく、重い荷物を引きずりながら彼を追いかけ、離陸直前にどうにか機内へ滑り込んだ。機内で、蓮司は唇を真一文字に引き結び、顎を強張らせ、スマホを握りしめたまま一言も発しなかった。莉奈が何を話しかけても無視だ。とうとう莉奈も拗ねて黙り込んだが、今回ばかりはいくら待っても、彼が機嫌を取りに来ることはなかった。空港に到着するや否や、蓮司は待ち構えていた車に飛び乗った。莉奈が乗り込む隙さえ与えず、黒いベントレーは矢のように走り去った。スマホが鳴った。蓮司は画面も見ずに慌てて通話ボタンを押した。すると、女の金切り声と泣き声が鼓膜を突き刺した。「蓮司!最低!今日のあれは何なのよ、あのオバサンのために私を置いて……」「黙れ!」莉奈が雪乃をそう呼ぶのは初めてではない。だが、これほどまでに激しい嫌悪と怒りを感じたことはなかった。抑え込んでいた感情が、一気に噴き出した。彼は冷徹に言い放った。「また雪乃をそう呼んだら、即刻俺の前から消え失せろ!」相手の返事も待たず、彼は乱暴に通話を切った。次の瞬間、再び着信音が鳴った。彼は出ると同時に、容赦なく怒鳴りつけた。「しつこいんだよ、クソが!」電話の主は一瞬沈黙し、淡々と言った。「……蓮司か。葬儀場に来い。奥さんを連れて帰れ」蓮司の全身が震えた。血液が逆流し、脳天を直撃したような感覚に襲われる。体の震えが止まらない。巨大な恐怖が彼を包み込んだ。桐生拓海(きりゅう たくみ)が抱えている骨壺を目にしてもなお、彼は信じられず、拳を握りしめて震える声で否定した。「違う……これは彼女じゃない……そんなはずがない」それを聞いて、拓海は鼻で笑った。「蓮司、いい加減その白々しい態度はやめろ。人が死んだんだぞ、今さら深情けぶってんじゃねえよ。お前があの愛人を連れて遊び歩いていた時、雪乃がどんな気持ちでいたか考えたことあんのか?」拓海は骨壺を置くと、不意に足を上げ、目の前の蓮司を思い切り蹴り飛ばした。「雪乃がお
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第7話

彼はよろめきながら近づいた。クリームケーキの上には、二つの人形が頭を寄せ合っている。女の子の人形の顔のクリームが少し溶けて流れており、まるで泣いているかのように見えた。蓮司はクリームを一口すくい、口に運んだ。苦渋の味が舌先に広がる。彼は貪るように大口でケーキを食べきってから、ようやく傍らのギフトボックスを開けることを思い出した。……中から現れたのは、一通の離婚協議書だった。予想はしていた。だが、実際にそれを目にすると、心臓が足元まで沈み込むような感覚に襲われた。書類を取り出し、食い入るように見つめる。署名欄の文字が、少し滲んでいた。涙で濡れ、それが乾いた跡のようだった。彼女が一人で窓辺に座り、涙を流しながら、苦しみと迷いの中で震える手で名前を書いた姿。それを想像するだけで、蓮司の心臓は雑巾のように絞り上げられ、痛んだ。スマホが鳴っては止み、止んではまた鳴る。莉奈からのメッセージが、次々と画面に浮かび上がる。【蓮司、一体どうしたの?何があったか教えてよ】【私のどこがいけないの?言ってくれたら直すから。お願いだから無視しないで。これからはいい子にするから】【もしかして雪乃さんに何か言われたの?大丈夫、どんなことがあっても私は蓮司の味方だから。あなたには私がついてるよ】【……】蓮司は苛立ちを覚え、スマホの電源を切って机に放り投げた。スマホがギフトボックスに当たった拍子に、その下に一枚の紙切れが挟まっているのに気づいた。【蓮司、また一つ歳をとったね。だから、そろそろ立派な大人になってね……今回は、もう待っててあげないから】【今日は誕生日なんだから、笑って】蓮司は言いつけ通りに、無理やり口角を持ち上げて笑おうとした。だが、不意に一滴の涙が紙の上に落ちた。水滴がインクを滲ませる。彼は慌てて拭おうとしたが、こすればこするほど文字は消えていくばかりだ。彼は呆然と手の中のメモを見つめ、突然、手で顔を覆った。指の隙間から、大粒の涙がとめどなくこぼれ落ちた。その後、蓮司は鬼のような行動力を見せた。如月グループの精鋭弁護士団を総動員して加害者のドライバーを法廷に引きずり出し、最終的に無期懲役という重い判決を勝ち取ったのだ。すべてが片付いた後、彼は雪乃のために盛大な追悼会を執り行った。会場
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第8話

蓮司はうわごとのように呟いた。「彼女は……最期に、俺に何か言い残したことは……」「あったわ」蓮司の瞳に、縋るような光が宿る。「何て言ってた?」「『何年も待ったんだもの、今回くらい待てるわ……やっぱり、あなたと一緒に家に帰りたい』って」その言葉が落ちた瞬間。誰もいない墓地に、絶望的な慟哭が響き渡った。それは群れからはぐれた鳥の哀鳴のように、いつまでも、いつまでも木霊していた。夕暮れ時、空からはまだ雨が落ちていた。蓮司が墓地から翡翠ヶ丘の自宅へ車を走らせていると、突然、物陰から人影が飛び出し、車の行く手を阻んだ。「蓮司」車の前に立ち塞がったのは、莉奈だった。傘も差さずに雨に打たれ、濡れたワンピースが華奢な体に張り付き、いっそう弱々しく見えた。以前なら、蓮司はすぐに駆け寄って抱きしめ、心底心配しただろう。だが今の彼の心は凪いだ水面のように波立たず、むしろ嫌悪感を込めた冷ややかな視線を向けただけだった。言葉も氷のように冷たい。「死にたいなら、俺の目のつかないところで勝手に死ね」莉奈の顔色がさらに白くなった。彼女は、雪乃さえいなくなれば、自分が正々堂々と「如月夫人」になれると思っていたのだ。しかし雪乃の死後、蓮司は彼女に見向きもしないどころか、会社からも追い出した。彼女には何がいけないのか分からなかった。あんなに愛し合っていたはずなのに。「死ねば私のことを永遠に忘れないでいてくれるなら、死んだっていい。蓮司、雪乃さんはもういないのよ。これからは私をそばに置いて」蓮司の声は冷徹だった。「雪乃がいなくなっても、如月夫人は雪乃だけだ。再婚するつもりはない……」「でも、妊娠してるの!」莉奈は唇を噛み締め、蓮司の手を強引に取ると、自分の下腹部に当てた。「蓮司、パパになるんだよ」蓮司は眉をひそめ、無言で手を引き抜いた。「今住んでるマンションと、手切れ金1億やる。それを補償だと思って、堕ろせ」「どうして!?」莉奈は信じられないというように目を見開いた。「俺には妻がいる」蓮司は手を開き、薬指の指輪を見せつけた。「愛人という汚名を一生背負いたいなら、好きにすればいい。形だけの関係はいらないと言ったのはお前だ。物質的に不自由させた覚えもない。合意の上での等価交換だ。
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第9話

「莉奈のお腹にいるのは、如月家の血を引く子よ。外で産ませて放っておくなんて道理はないわ。もう安定期に入ってることだし、籍を入れるのは産後にして……」「母さん。雪乃が逝ってからまだどれも経ってないのに、そんなに急いで俺を再婚させたいのか?確かに浮気をした俺が悪い。それは認める……だからこそ、俺は一生かけて償いたいんだ。これ以上、雪乃を裏切るような真似はできない。そんなことをしたら、あの世で雪乃に合わせる顔がない」息子がそこまで思い詰めているのを見て、静子はギクリとし、慌ててフォローした。「あなたに非があるのは確かだけど、そこまで自分を追い詰めることないじゃない。あなたは世の男が一度は犯す過ちをしただけよ。反省してるだけで十分立派だわ……それに、雪乃が亡くなったのは事故でしょ?あなたに関係ないじゃない。何もかも自分の責任だなんて思い込む必要はないわ。亡くなった人はもう戻らないんだから……」「母さん、もういい!」蓮司は母の言葉を遮った。「俺は一生再婚するつもりはない。誰に強制されても無駄だ」言い捨てて、蓮司はきびすを返した。背後から押し殺したようなすすり泣きが聞こえ、静子が慌ててなだめる声がした。「あのバカ息子の言うことなんか気にしなくていいわよ。お腹の子が一番大事なんだから」莉奈は蓮司が去っていく背中を見つめ、涙を拭った。そしてしおらしく言った。「お義母様、私疲れました」「じゃあ、運転手に送らせるわね」莉奈は素直に頷いた。帰りの車中、彼女のスマホがけたたましく鳴り響いた。登録されていない番号を見て、彼女はうんざりしたように眉をひそめ、着信音を消した。「白石様、着きましたよ」莉奈は我に返って車を降り、礼儀正しく礼を言ってからマンションへと向かった。車が走り去った直後、植え込みの影から黒い人影が現れた。「よう、白石お嬢様。電話に出ないってのはどういう了見だ?」「取引はもう終わったはずよ。二度と私の前に現れないで」「いやいやいや。たった2000万で兄貴の残りの人生を買おうなんて、虫が良すぎねえか?俺だってムショ行きの危険を冒して一芝居打ったんだぜ?あなたは如月家に潜り込んでいい暮らししてるんだ、少しは色つけてくれてもいいんじゃねえの?」莉奈は不快感を露わにした。「いくら欲しいの
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第10話

彼女は投稿を一つ一つ遡っていった。涙で視界が滲んでいく。甘い思い出は昨日のことのように鮮明なのに、まるで前世の出来事のように遠く感じられた。彼女はふと、自分が間違っていたのではないかと疑念を抱いた。もしあんなに欲張らず、ただ蓮司のそばにいられるだけで満足していたら、こんなことにはならなかったのではないか。だが、賽は投げられた。もう後戻りはできない。子供さえ産めば、蓮司は必ず振り向いてくれるはずだ。死人が、生きている人間に勝てるわけがないのだから。そう思い直すと、莉奈は涙を拭い、ページを閉じた。自分のアカウントには、山のようなダイレクトメッセージが届いている。その多くは、『蓮司との仲はどうなったの?』『最近更新がないけど大丈夫?』と心配するファンからのものだった。莉奈は久しぶりに心からの笑みを浮かべた。ファンを安心させるために、わざわざ膨らんだお腹の写真を撮り、新しい記事を投稿した。【安心して、私たちは順調だよ。更新してない間もちゃんと幸せに暮らしてるから。もうすぐパパとママになるんだ】投稿を終えると、莉奈はスマホを置いて深い眠りに落ちた。まさか目覚めた時に、世界が一変しているとも知らずに。翌朝、莉奈が目を覚ますと、彼女の投稿とDMが炎上していた。いつものような祝福の言葉ではない。画面を埋め尽くしていたのは、罵詈雑言の嵐だった。『泥棒猫』『クズ』『最低の愛人』といった言葉がコメント欄に溢れかえっている。何が起きたのか分からず、彼女は震える手でスクロールした。そして、「いいね」が最もついているトップコメントを見つけた。……蓮司だ。彼は一言も発さず、ただ一枚の画像を貼り付けていた。個人情報を隠した、彼と雪乃の婚姻届の受理証明書だ。そのコメントに対する返信もまた、罵倒で埋め尽くされていた。【クズ男にクズ女、お似合いじゃん。二度と表に出てくんな】【ここまで堂々とした不倫、初めて見たわ。神経疑う】【奥さんが可哀想すぎる。あんたたち、地獄に落ちなよ】【……】莉奈はそれ以上直視できず、即座にアカウントを削除した。すぐに蓮司に電話をかける。出ないだろうと思っていたが、意外にも彼はすぐに応答した。まるで、彼女からの電話を待っていたかのように。「蓮司、気が狂ったの!?私を憎んでるの
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