All Chapters of 【推し声優の恋人になれたのに】ストーカーに追い詰められる私の日常: Chapter 31 - Chapter 39

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第17話 追い詰められて

翌朝。目が覚めると、体が重かった。ほとんど、眠れなかった。目を閉じるたびに、蓮くんの顔が浮かぶ。あの冷たい目。あの優しい笑顔。全部、恐怖。スマホを見る。午前9時。会社に行かなきゃ。でも——体が、動かない。もう、限界かもしれない。電話をかける。「もしもし、水野です……」「水野さん、どうしました?」受付の声。「体調が……悪くて。今日も、お休みさせてください」「わかりました。お大事に」電話を切る。——また、休んだ。これで、三日連続。もう、戻れないかもしれない。ベッドから起き上がる。リビングに行く。テーブルの上に、あの箱。蓮くんから届いた、写真。——警察に、持っていかなきゃ。——今日、行こう。でも——昨夜、蓮くんに会ってしまった。自分から、会いに行ってしまった。警察は、それをどう判断するんだろう。『自分から会ったんですよね? それなのに、ストーカーだと?』そう言われるんじゃないか。不安が、胸の奥に広がる。でも——行くしかない。この写真は、証拠。蓮くんが私を監視していた、証拠。着替える。鏡を見る。ひどい顔。でも、もう気にしない。箱を持って、マンションを出る。エレベーターに乗る。エントランスに出る。曇り空。今にも雨が降りそう。警察署に向かう。歩きながら、周りを見る。また、視線を感じる。誰かが、見ている。振り返る。誰もいない。——気のせい?——それとも……。警察署に着く。受付で、名前を告げる。「山田刑事に、お会いしたいんですが」「少々お待ちください」待合室で、待つ。箱を、膝の上に置く。手が、震える。——信じてもらえるだろうか。——今度こそ、信じてもらえるだろうか。しばらくして、山田刑事が現れた。「水野さん」少し、驚いた顔。「また、何か?」「はい……証拠が、あるんです」山田刑事が、応接室に案内する。二人で、座る。「証拠、というと?」「これです」箱を、テーブルに置く。蓋を開ける。中の写真を、取り出す。「蓮くんから、届いたんです」山田刑事が、写真を見る。一枚、一枚。表情が、変わらない。「これ、全部水野さんですね」「はい……」「いつ撮られたか、わかりますか?」「最近です。ここ数週間の……」山田刑事が、メモも確認する。『美月さん、毎日見てます。毎日、あな
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第18話 弁護士

朝が来た。けれど、私はベッドから起き上がれなかった。会社に休みの連絡を入れると、上司に電話が回された。そして、休職するようにやんわりと勧められる。孤立した会社には、もう行けない。私は休職を受け入れた。辞職を前提にした休職。心が、重くなる。康太との別れの電話から、何日経ったのだろう。三日?五日?もう、わからない。スマホの画面を見る。通知はたくさんある。でも、どれも康太からじゃない。全部、蓮くんのファンからの罵倒。SNSのメンション通知。「精神病」「嘘つき」「康太さんが逃げ出すのも当然」……ああ。そうなんだ。私が悪いんだ。リビングに行く。床には、箱が二つ。蓮くんから送られてきた、写真の箱。私の日常を撮った写真。康太の工房を撮った写真。全部、蓮くんが撮ったもの。全部、証拠。でも、警察は信じてくれなかった。山田刑事は、私を疑った。『あなたが柊木さんに執着してるんじゃないですか?』私が?執着?笑えない。スマホが鳴った。知らない番号。また、嫌がらせの電話だろうか。でも、もう何も怖くない。康太もいない。誰も信じてくれない。電話に出る。「もしもし」声が、かすれていた。『水野美月さんですか?』女性の声。落ち着いている。優しい。「……はい」『私、弁護士の高橋麻美と申します。ストーカー事件を専門に扱っています。水野さんの件で、お話があります』弁護士?なんで?「誰が……?」『それは、お会いした時に。今から、お時間いただけますか?』私は、何も考えられなかった。ただ、その声が優しかったから。「……はい」『では、渋谷の事務所にいらしてください。住所をお送りします』電話が切れた。すぐに、メッセージが届いた。住所と、地図。行こう。行くしかない。もう、何も失うものはない。───渋谷の雑居ビルの四階。「高橋法律事務所」という看板。インターホンを押す。すぐに、扉が開いた。「水野さん、お待ちしていました。どうぞ、こちらへ」黒いスーツを着た女性。三十代後半くらい。優しい笑顔。応接室に案内される。清潔で、静か。コーヒーが出された。「お疲れ様です。突然のご連絡、驚かれたと思います」高橋弁護士は、私の前に座った。「でも、まず——これを。康太さんから、預かってい
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第19話 逆襲の準備

606号室での生活が始まった。一人暮らしは、やはりさみしい。でも、以前とは違う。康太がいる。高橋弁護士がいる。私は、もう一人じゃない。朝、目が覚める。窓の外を見る。向かいのマンション。暗い窓。蓮くんは、今日も見ているのだろうか。古いスマホを手に取る。通知が、たくさん。蓮くんのファンからの罵倒。SNSのメンション。「精神病女」「康太さんに捨てられて当然」「嘘つき」私は、深呼吸する。そして、箱の前に座った。段ボールに入れた、二つの箱。盗聴器が仕込まれた、あの箱。演技。蓮くんを騙す演技。「もう無理……辛い」声を、少し震わせる。「誰も信じてくれない……警察も、会社も……」自然に。「康太も、去った……もう、終わりなのかな……」箱を見つめる。盗聴器が、私の声を拾っている。蓮くんのスマホに、送信されている。もしかしたら、今も。イヤホンで、私の声を聞いているのかもしれない。「美月……」って、呟きながら。満足そうな笑みを浮かべながら。私は、震えを抑えた。大丈夫。ちゃんと演技はできている。───防音のきくバスルームに入る。新しいスマホを取り出した。高橋弁護士に電話する。ワンコール。『水野さん、おはようございます』高橋弁護士の声。落ち着いている。「おはようございます……」『昨夜は眠れましたか?』「……少しだけ」『無理しないでくださいね。今日、探偵から報告が入りました。お伝えしたいことがあります』私の心臓が、高鳴った。「報告……?」『はい。まず、柊木蓮の行動パターンが判明しました』高橋弁護士は、資料をめくる音を立てた。『毎日、17時から18時の間、向かいのマンションの一室に入っています。7階の706号室。水野さんの部屋の真向かいです』私は、息を呑んだ。やっぱり。あの暗い窓。「そこから……私を見てるんですか?」『おそらく。窓から、水野さんの部屋を監視している可能性が高いです。探偵が遠くから撮影しました。写真をお送りします』新しいスマホが、震えた。メッセージが届く。写真を開く。向かいのマンション。7階の窓。カーテンの隙間から、誰かのシルエット。双眼鏡を持っている。背筋が、凍った。「これ……蓮くん……?」『はい。顔ははっきり写っていませんが、体型と服装から
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第20話 密会

蓮くんからメッセージが届いて、三日が経った。返信はしていない。高橋弁護士の指示通り、無視している。でも、蓮くんは諦めない。毎日、メッセージが届く。『美月、元気?』『会いたいな』『無視しないで』『美月のこと、心配してる』全部、スクリーンショットを撮って、高橋弁護士に送った。証拠。全部、証拠。───朝。箱の前で、演技を続ける。「もう……疲れた……」声を震わせる。「誰も……助けてくれない……」盗聴器に向かって、呟く。向かいのマンション。7階の窓。カーテンの隙間。蓮くんは、今日も見ているのだろうか。私は、カーテンを閉めた。そして、バスルームに入る。新しいスマホで、高橋弁護士に電話する。『水野さん、おはようございます』「おはようございます……」『柊木蓮からのメッセージ、確認しました。証拠として保管しています。良い証拠です』高橋弁護士の声が、少し明るい。『それから、探偵から新しい報告が入りました』「報告……?」『はい。柊木が、昨日の夜、佐々木美咲と再び会っていました。場所は新宿のバー。探偵が撮影に成功しています』私の心臓が、高鳴った。「また……会ってたんですか?」『はい。そして、今回は金銭授受の瞬間を撮影できました』「本当ですか……!」『はい。柊木が佐々木に封筒を渡している写真です。お送りしますね』新しいスマホが震える。メッセージが届く。写真を開く。バーの店内。蓮くんと佐々木が座っている。蓮くんが、白い封筒を佐々木に渡している。佐々木は、受け取って微笑んでいる。私の手が、震えた。「これ……」『金銭授受の証拠です。佐々木が蓮の協力者であることが証明できます』高橋弁護士の声が、力強い。『水野さん、証拠はどんどん集まっています。もう少しです』「……ありがとうございます」『それから、前の被害者——5年前の女性——彼女が明日、事務所に来てくれます。水野さんも、一緒にお話を聞きませんか?』私は、驚いた。「……会えるんですか?」『はい。彼女も、あなたと話したいと言っています』私は、少し迷った。でも、会いたい。同じ苦しみを経験した人と。「……会いたいです」『わかりました。では、明日の午後2時、事務所にいらしてください』「はい」電話を切る。私は、鏡を見た。明日。前の被
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第21話 追い詰める

蓮くんからの脅迫メッセージから、二日が経った。『美月、明日会おう。渋谷のカフェ。午後3時。来てくれないと、康太の実家に行くよ』私は、行かなかった。高橋弁護士の指示通り、無視した。そして、その日の夜。古いスマホが震えた。蓮くんからのメッセージ。『なんで来ないんだ。約束したのに』私は、返信しない。数分後、また震える。『美月、無視するなよ。心配してるんだ』さらに数分後。『康太の実家、本当に行くよ』私の手が、震えた。でも、返信しない。スクリーンショットを撮って、新しいスマホで高橋弁護士に送る。すぐに返信が来た。『これも脅迫の証拠です。保管しました。康太さんにはこのメールの件を伝えているので大丈夫です』───翌日。新しいスマホが震えた。バスルームに入り、電話に出る。高橋弁護士からだった。『水野さん、探偵から報告が入りました』「何か……ありましたか?」『はい。昨夜、柊木蓮が康太さんの実家周辺に現れました』私の心臓が、止まりそうになった。「本当に……来たんですか……?」『はい。実家の前で写真を撮っていました。探偵が柊木蓮の後をつけ、全て撮影しています。住居侵入未遂、ストーカー規制法違反の証拠です』高橋弁護士の声が、力強い。『写真をお送りしますね』新しいスマホが震える。メッセージが届く。写真を開く。夜の住宅街。康太の実家の前。蓮くんが、スマホを構えて写真を撮っている。探偵が遠くから撮影した証拠写真。私は、震えた。「蓮くん……そこまで……」『水野さん、落ち着いてください。これも重要な証拠です。それから、佐々木美咲にも接触しました』「佐々木さんに……?」『はい。金銭授受の証拠があることを伝えました。共犯として告訴されたくなければ、証言してくださいと』私は、息を呑んだ。「佐々木さんは……?」『恐怖していました。そして、協力を約束しました。証言録取も済んでいます』「証言……?」『はい。柊木蓮から月10万円を受け取り、水野さんを職場で孤立させる工作をしていたと。全て、自白しました』私は、唇を噛んだ。やっぱり。やっぱり、佐々木さんは蓮くんの協力者だった。「……そうですか」『水野さん、証拠は十分に集まりました。今日の午後、一緒に警察に行きましょう』「警察……?」『はい。前回とは違います。
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第22話 罠

決戦の日。朝から、緊張で手が震えていた。今日。竹芝ふ頭で。蓮くんと、会う。私は、新しいスマホで高橋弁護士に電話した。『水野さん、おはようございます。準備はいいですか?』「……はい」『では、午後3時に事務所に来てください。送信機を服に仕込みます』「わかりました……」『大丈夫。私たちが必ず守ります』電話を切る。私は、鏡を見た。やつれた顔。でも、目には光がある。今日で、終わる。───午前中。高橋法律事務所。応接室のドアを開けると、康太がいた。「康太……!」私は、走り寄った。康太も、立ち上がって私を抱きしめた。「美月……会いたかった……」康太の声が、震えている。「私も……」涙が、溢れた。「ごめん……一人にさせて……辛かっただろ……」康太が、私の髪を撫でる。「でも……康太が守ってくれてた……信じてた……」「美月……」康太が、私の顔を両手で包む。「怖いよな……今日……」「……うん」「でも、俺が絶対に守る。何があっても」康太の目が、真剣だった。「もう二度と、お前を一人にしない」私は、康太の胸に顔を埋めた。「康太……愛してる……」「俺も、愛してる」康太が、私を強く抱きしめる。その時、高橋弁護士が咳払いをした。「お二人とも、申し訳ありません。準備を始めましょう」私たちは、顔を赤らめて離れた。高橋弁護士が、小さな機械を取り出した。黒くて、薄い。手のひらに収まるサイズ。「これが送信機です。服の内側に仕込みます」高橋弁護士は、私のコートの裏地に送信機を縫い付けた。「これで、会話が全て録音されます。私たちが遠くで聞いています」私は、震えた。「それから、これ」高橋弁護士が、もう一つの機械を取り出した。「緊急ボタンです。ポケットに入れてください。何かあったら、このボタンを押してください。すぐに警察が駆けつけます」私は、緊急ボタンを受け取った。「わかりました……」康太が、私の手を握った。「美月、無理はするな。危ないと思ったら、すぐにボタンを押せ」「……うん」高橋弁護士が、言った。「では、5時に竹芝ふ頭で。私たちは先に現場に行って、隠れて待機します。警察にも連絡済みです」───一度自宅に戻って。午後3時30分。私は、606号室を出る前に、箱の前で最後の演技をした。「康太
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第23話 海

冷たい水。夜の海に、落ちた。暗い。冷たい。息ができない。体が、沈んでいく。水が、口に入る。苦しい。もがく。手を伸ばす。でも、水面が遠い。どんどん、沈んでいく。───暗闇の中で。私は、思い出していた。蓮くんとの出会い。そして別れ。束縛が強まり。逃げて、捕まって。蓮くんのファンからの罵倒。職場での孤立。佐々木の冷たい視線。警察に信じてもらえなかった絶望。『あなたが柊木さんに執着してるんじゃないですか?』誰も。誰も、信じてくれなかった。一人だった。康太さえも、去った。去ったと、思った。でも、違った。康太は、私を守るために。演技をしてくれていた。康太。───体が、さらに沈む。冷たい。手足が、しびれてくる。上も下も、わからない。暗い。怖い。死ぬのかな。このまま。───走馬灯のように。康太との思い出が、浮かんでくる。初めてのデート。竹芝ふ頭。康太の笑顔。工房で、ガラスを作る康太。505号室で、二人で食べた朝ごはん。康太の温かい手。───もっと。もっと、一緒にいたかった。康太と。生きたかった。───意識が、遠のいていく。体の感覚が、消えていく。もう。何も感じない。暗い。静か。───その時。腕を、掴まれた。強く。誰か。誰かが、私を抱きしめている。温かい。鼓動が、聞こえる。力強い鼓動。───引き上げられる。上へ。上へ。水面へ。───ザバッ!水面に、顔が出た。「はあっ……はあっ……!」荒い呼吸。空気。冷たい空気が、肺に入る。生きてる。「美月! 大丈夫か!」康太の声。康太だった。康太が、私を抱きしめている。「助けるから!」康太の声が、必死だった。「俺が助ける! 美月!」「康太……」私は、必死に声を出した。意識が、はっきりしてくる。夜の海に、漂っている。波が、揺れている。でも。康太がいる。康太が、私を抱きしめている。大丈夫。助かる。───康太が、必死に泳いでいる。片腕で私を抱き寄せながら。もう片方の腕で、水をかく。「美月……大丈夫……助かるから……」康太の声が、震えている。私は、康太にもたれかかった。康太の体は、温かい。鼓動が、伝わってくる。生きてる。康太も、私も。
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第24話 裁判

目を開けると、白い天井が見えた。病院だ。体が、重い。「美月……」康太の声。顔を向けると、康太がベッドの横に座っていた。目が赤い。泣いていたのだろうか。「康太……」声が、かすれる。康太が、私の手を握った。「良かった……目が覚めて……」康太の声が、震えている。「ここ……は……?」「病院。低体温症で、一晩意識がなかった」一晩。そんなに。「蓮くんは……?」康太の顔が、強張った。「逮捕された。殺人未遂、ストーカー規制法違反、脅迫罪……全部だ」私は、ホッとした。「……そう」康太が、私の手を強く握る。「美月……本当に、怖かった。お前が海に沈んでいくのを見て……」康太の目から、涙が溢れた。「もし、間に合わなかったら……」「でも、助けてくれた」私は、康太の手を握り返した。「ありがとう……」康太が、私を抱きしめた。「もう、離さない。絶対に」───数日後。退院した。606号室に戻ったが、もうここには住みたくない。向かいのマンション。あの暗い窓。もう、蓮くんはいない。でも、記憶が残っている。康太が、言った。「美月、しばらく奈良に帰らないか? 雑貨店の二階は住居になってるのは知ってるだろ。一緒に住もう」「奈良に……」「ああ。東京を、少し離れよう」私は、頷いた。「……うん」───1ヶ月後。裁判の日が来た。東京地方裁判所。私は、康太と高橋弁護士と一緒に、法廷に入った。傍聴席には、藤原さんもいた。藤原さんが、私に微笑みかけた。私も、微笑み返した。そして。被告人席。蓮くんが、座っていた。スーツを着ている。髪は整えられている。でも、目は虚ろだった。痩せている。蓮くんが、私を見た。私は、目を逸らさなかった。見つめ返した。蓮くんの目が、揺れた。───裁判が始まった。裁判長が、開廷を告げる。検察官が、起訴状を読み上げる。「被告人・柊木蓮は、被害者・水野美月に対し、執拗なストーカー行為を行い、さらに竹芝ふ頭において被害者を海に突き落とし、殺害しようとしたものである」法廷が、静まり返る。検察官が、証拠を次々と提出する。盗聴器の音声記録。竹芝ふ頭での会話の録音。探偵が撮影した映像——海に突き落とす瞬間。盗撮写真。脅迫メッセージのスクリーンショット。金銭授受の写真
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第25話 新しい朝

奈良公園から少し離れた奈良町の中心部に、その店はある。格子戸の趣ある町家を改装したとんぼ玉の工房兼ショップ。ガラスケースには、色とりどりのとんぼ玉が並んでいる。瑠璃色、琥珀色、翡翠色——どれも康太の手で生み出された、小さな宝石たち。観光客が、とんぼ玉があしらわれたアクセサリーや雑貨を手に取り、楽しそうに眺めている。私は、店のウインドに映る自分の姿を見た。顔色が、良い。東京にいた頃は、毎日鏡を見るたび、青ざめた顔に怯えていた。目の下のクマ、頬のこけ、震える手——あの頃の私は、生きているだけで精一杯だった。でも、今は違う。全てが終わって、奈良に帰り、康太と共に住んでいる。私は地方紙の編集者として、奈良を取材している。奈良の寺や神社の祭事を取材したり、奈良のレストランやお店を訪ねたり、鹿の写真を撮ったり——編集なのに記者のような仕事もこなす。でも、それが私には合っていた。仕事が、楽しい。東京で出版社にいた頃は、いつも緊張していた。蓮の視線を感じ、佐々木美咲の監視に怯え、誰も信じられなかった。でも、今は違う。奈良の人々は温かく、のんびりしていて、優しい。私はそっと、お腹に触れる。——お腹には、子供がいる。まだ小さな命。でも、確かにそこにいる。私と康太の、子供。子供には、庭付きの一戸建ての方が良いだろう。私の両親は既に亡くなっているが、奈良には実家があるので、いずれはそこに住むのもいい。もちろん、康太の店の二階も心地よいけれど、一歳、二歳になったら、商品のとんぼ玉を投げ飛ばして遊びそう。康太ならば、笑って許してしまいそう。私は、ふっと笑った。今日は、奈良ホテルの取材だ。来月、ここで康太と結婚式を挙げる予定だ。婚姻届はすでに出してあるが、式だけはきちんと挙げたい——そう康太が言ってくれた。今の地方紙の上司にその話をすると、「じゃあ、奈良ホテルのブライダル特集を書いてよ」と命じられたのだ。今日はブライダルのお料理の取材。楽しみ。でも、奈良ホテルの取材の前に、奈良町のお店に顔を出す。店を覗く。康太が、接客をしている。とんぼ玉を、お客さんに見せている。瑠璃色だ。その色は、私に過去の痛みを思い出させる。蓮の執着した色。それでも、今でも好きな色だ。康太が東京に行く私のために送ってくれたペンの色。康太と私の色
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