All Chapters of 三つのチャンス――もう二度と愛さない: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

明世の足が一瞬止まったが、振り返らず、歩を速めて充希を抱きしめた。涼介は息子を抱きかかえ、遠ざかる彼女の背中を睨みつける。「明世、お前は本当に冷酷だな」「あ、そう。足元にも及ばないわ」彼女は冷ややかに言い捨てたが、その手は充希の耳を塞ぎ、罵声を聞かせまいとしていた。ボディガードが涼介親子をエレベーターに押し込むと、閉まりかけたドアの隙間から海斗の声が裂けるように響いた。「……ママは、僕だけのママなんだ!」邪魔者を追い払い、翔が静かに尋ねる。「大丈夫か?」「ええ……」階下からは、海斗の絶叫と涼介の怒号が微かに聞こえてくる。「おばさん」充希が涙声で言う。「さっきのお兄ちゃん、怖かった」「大丈夫、しっかり充希のことを守るから」明世はベッドサイドに座り、彼女の頭を優しく撫でる。「もう寝なさい。明日には、元気な充希になれるわ」「おばさん、いなくならない?」「いなくならないわ」明世は力強く頷いた。「これから、ずっと一緒よ」もう二度と、誰にも私たちを傷つけさせない。この子の笑顔は、私が守り抜く!夜が明ける頃、充希はまだ静かな寝息を立てていた。明世は付き添い用の椅子に座り、震え続けるスマホを眺めていた。画面には、涼介からの着信が次々と表示されていた。突然、病室のドアが開き、看護師が顔色を変えて駆け込んできた。「紺野さん!お子さんが屋上で飛び降りるって騒いでます!」明世は全く動じない。「好きにさせて」「えっ?」看護師が狼狽する。「お子さんが、お母さんに会いたいって泣いて、消防も来てるんですよ!」明世は窓の外を見つめ、一瞬の間をおいて、ゆっくりと松葉杖を掴んだ。屋上では、海斗が手すりの外側に座り、両足を空中でぶらぶらさせていた。下では消防士がエアマットを展開し、未鈴が金切り声で泣き叫んでいる。「海斗くん、早く降りて!」「ママは僕が危険な目に遭ったら絶対戻ってくるって、未鈴さんが言ってたよね……」海斗が呪文のように呟く。その声は風に消え入りそうだ。「海斗くん!ほら、ママが来たわよ!」未鈴が明世の姿を見つけ、海斗に教える。海斗はパッと顔を上げ、明世を見て叫んだ。「見損なったよ……実の息子の僕を捨てるなんて!」明世は十メートル手前で足を止め、冷たい視線で海斗を射抜いた。「降りなさい」その言葉を
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第12話

充希の手術が始まった。手術室のランプは、もう四時間も灯り続けている。明世は長椅子に深く座り込み、松葉杖を壁に立てかけていた。翔は落ち着きなく廊下を行き来している。「座らないの?」明世が顔を上げる。「落ち着かないんだ」彼はネクタイを緩め、息を吐いた。「……デリバリーを頼んだ。少し食べてくれ」「大丈夫。食欲がないわ」言い終わるか終わらないうちに、手術室のドアが開いた。看護師がストレッチャーを押して出てくる。充希はまだ麻酔から覚めておらず、あどけない横顔が枕に埋もれている。術衣の襟がはだけ、肩甲骨にある蝶の形をした赤いあざが露わになった。翔は愕然として目を見開き、ストレッチャーの柵を掴んで駆け寄る。「まさか……!充希は……俺の娘!?」「……え?どういう……」「ほら、このあざだ!」彼の声が震える。「俺の娘にも、同じ形のあざがあったんだ!」明世は松葉杖をついて立ち上がった。「どういうこと?」「四年前、娘が病院で誘拐されたんだ」翔は食い入るように充希の顔を見つめる。「まだ生後六ヶ月だった。母親は……産後の大出血で助からなかった」明世の頭の中が真っ白になった。「本当に?」「信じられないなら、DNA検査をしてもいい」翔の目が赤く充血している。「だが、間違えるはずがない」看護師がたしなめる。「すみません、先に通してください」翔はハッとして手を離し、ふらつく足取りでストレッチャーについてNICUの前まで歩いた。彼はガラスに手をつき、管に繋がれた女の子を凝視し続けた。「探さなかったの?」明世が背後から尋ねる。「死んだと思っていたんだ」翔はその場に崩れ落ち、頭を抱えた。「商売敵の仕業だった。船が沈められて、ベビーシッターの遺体しか見つからなかったから……」術後三日目、充希が目を覚ました。明世は優しく、翔が本当の父親であることを伝えた。充希は明世と翔、それぞれの小さな手で二人の手を握った。「私、パパとママができたの?」翔の喉仏が動き、言葉にならない嗚咽が漏れる。「私、世界一幸せな子だ!」充希が二人の手を重ね合わせる。「これから、パパって呼んでいい?」翔が何度も頷き、大粒の涙が布団に染みを作った。明世の目尻にも、温かい涙が滲んでいた。その時、明世のスマホが震え出した。画面をタップすると、
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第13話

深夜二時、翔は録音データの最後まで聞き終えた。「これだけか?」「ええ」明世はベッドのヘッドボードにもたれ、声は憑き物が落ちたように軽い。「未鈴が息子を利用して私を傷つけ、家から追い出して、自分が取って代わろうとしたの」「本当に馬鹿げている。海斗はどうして、人を傷つければ母の愛が得られるなどと信じ込んだんだ?」「涼介が未鈴を信じ切っていたからよ。未鈴は昔、涼介の命を救ったことがあるの」明世が溜息をつく。「長く接しているうちに、涼介の中で彼女への信頼が絶対的なものになってしまったのね」「少し待ってくれ」彼は立ち上がって廊下に出ると、電話をかけた。「入江未鈴を徹底的に調べろ。周辺の人物全員、全ての口座の入出金記録だ」三時間後、アシスタントからメールが届いた。翔は廊下でそれを読み終え、その顔色はみるみる険しくなった。告発投稿のIPアドレスは未鈴の親友が経営するカフェ。プリンシパル解任劇は涼介が圧力をかけたもの。そして傷害事件の送金記録は明白だった——未鈴が海外口座から実行犯のファンに二百万円を振り込んでいたのだ。「これからどうする?」明世が尋ねる。「清算だ」彼は病室に戻り、ノートパソコンを開いてキーボードを叩き始めた。朝七時。【あるプリンシパルの転落:紺野明世がいじめ、切断、ネットリンチ、傷害を受けた真相】というタイトルの長文記事がネット上で爆発的に拡散された。記事には、決定的な証拠が添付されていた。未鈴が海斗に喘息薬を捨てるよう教唆する会話を記録した監視カメラの音声データと、涼介が「驚いただけの未鈴」を慰めるため、明世の手術を二時間遅延させた記録、病院の同意書。さらに、二百万円とメッセージアプリの履歴【彼女を壊すことが最高の愛だ】と書いてある、傷害事件の送金スクリーンショット——ネット民の怒りが爆発した。コメント欄は毎秒数百件の勢いで更新されていく。【紺野さんに土下座して謝れ!】【入江未鈴は悪魔か!】【あの親子は目も心も節穴だ!】【全部入江未鈴と紺野父子のせいじゃないか。俺たちは善人を叩いてしまったのか!】【アイドルがファンの愛を利用して人を傷つけるなんて、許されない!】涼介が記事を見た時、彼は未鈴のためにダイヤの指輪を選んでいる最中だった。スマホが震え、秘書からリンクが送られ
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第14話

涼介は結局、同意書のサインに間に合った。海斗が目を覚まして最初に尋ねたのは、「パパ、ママを連れて帰ってきたよね?僕にご飯作ってる?」だった。涼介は息子の期待を今すぐ壊す気になれず、話題を逸らすしかなかった。「まずは休め。話は退院してからだ」退院後、海斗は玄関に飛び込み、家中を探し回って明世の気配を探した。一時間探し回った末、彼はリビングの中央で叫んだ。「ママ、どこにいるの!?見つからないよ!」お手伝いが申し訳なさそうに告げる。「坊ちゃん……奥様はあの日から一度も戻られていません」彼は涼介の書斎のドアを叩き、崩れ落ちるように泣き叫んだ。「家に帰ればママに会えるって言ったじゃないか!」未鈴が寝室から出てきて、彼を抱こうとする。「私もあなたのママになれるわ、海斗くん。私のこと好きでしょ?」「あっち行って!」海斗は全身の力で未鈴を突き飛ばした。未鈴は無様に床に倒れ込み、しばらく立ち上がれなかった。「このクソガキ……!」未鈴は喉まで出かかった悪態を飲み込み、涼介を一瞥して声を猫なで声に変えた。「こっちにいらっしゃい。ママを連れ戻す方法を、一緒に考えてあげるから」海斗の涙目が輝いた。そうだ、未鈴はいつも良い方法を知っている。彼は未鈴の手を掴んで、彼女の寝室へと引っ張っていった。「ねえねえ、早く教えてよ。どうやってママを帰らせるの?」未鈴は心の中でほくそ笑んだ。先ほど自分を突き飛ばしたガキに、たっぷりと復讐してやりたかったのだ。彼女は海斗に囁いた。「寒空の下に立って病気になればいいのよ。そしたらママがきっと、心配して飛んで帰ってくるわ!」「でも、ママはもう僕が病気でも気にしないよ」「それは病気が軽いからよ!」未鈴は口調に滲む悪意を隠そうともしなかった。その夜、海斗は薄い寝間着一枚で、バルコニーに三時間立ち続けた。気温は氷点下三度。唇が紫色になっても、彼は部屋に入ろうとしなかった。涼介が無理やり引っ張っても、柱にしがみついて動かない。「ママが来ないなら動かない!たとえ凍死しても!」「そんな真似をしても、ママは来ないんだ!」「来るもん!」海斗が叫び、まつげについた涙が氷の粒になっていた。「僕がこうなったら、ママは絶対心配してくれるって、未鈴さんが言ってた!」涼介が苛立ちに任せて頬を叩くと、海斗は避
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第15話

翌日、涼介は初めて未鈴からのメッセージを無視した。アシスタントがオフィスに駆け込んできた時、涼介は傷害事件の調書に目を通していた。「社長、調査報告です」アシスタントが書類の束を涼介のデスクに置く。「入江未鈴はアメリカで富豪と結婚し、五億円近く騙し取った挙句、訴えられて離婚し、逃げるように帰国していました」涼介は書類をめくる。離婚判決書には未鈴の写真があり、名前は【MISUZU IRIE】と記されている。「それと」アシスタントがもう一通を差し出す。「実行犯のファンが自白しました。未鈴から二百万円の現金を受け取り、明世さんに思い知らせるため、顔だけを狙って傷つけろと指示されたそうです」涼介の指先が震え始める。「ネット工作会社も証言しました」アシスタントの声も震えている。「未鈴から四百万円で依頼され、明世さんを徹底的に貶め、外出できなくなるまで追い込めと言われたそうです」三通の書類が机に並べられ、まるで三本のナイフのように涼介の心臓を突き刺した。「社長、それともう一つ。当初、川で溺れたあなたを助けたのは入江未鈴ではなく、明世さんです。あなたが溺れた後、明世さんが飛び込んで引き上げましたが、助けを呼びに行く途中で力尽きて倒れました。入江未鈴は、あなたが病院で危機を脱した後に現れただけです……ずっと、人違いをしていたのです」涼介は書類を見つめるうちに、突然激しい吐き気に襲われた。腰を折り、ゴミ箱に向かって嘔吐し始める。胆汁混じりの胃液に血が混じり、しばらくの間、胃の中身をすべてぶちまけるように嘔吐し続けた。「社長……」「出ていけ」アシスタントが去ると、涼介は心の中で反芻した。見当違いだったのか。つまり最初から、愛する相手を間違えていたのか。彼は突然手を振り上げ、自分の頬を力任せに平手打ちした。痛い。でも、明世がナイフで顔を切り刻まれた時は、もっと痛かったのだろうか?涼介は椅子に崩れ落ち、天井を見上げた。蛍光灯の光が揺れている。明世が裏庭で倒れた日のことを思い出す。彼女も、こうして世界が回って見えたのだろうか。スマホが鳴った。未鈴だ。「涼介、会社にいるの?手料理を用意したの……」「よくも電話してこれたな!」「えぇ?私が、何をしたの?涼介、何か誤解があるの?」未鈴の声が恐怖で震える。「自分の胸
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第16話

空港のVIPルームで、涼介の部下が未鈴を取り押さえた時、彼女はすでに海外のホテルを予約し、スーツケースには現金と宝石を詰め込んでいた。部下が繋いだビデオ通話の画面に、未鈴の顔が映し出される。彼女は涼介と、ソファで小さくなっている海斗を見て、突然甲高い笑い声を上げた。肩が小刻みに震えている。「やっと気づいたの?」彼女は笑いすぎて滲んだ涙を指先で拭う。「ハハハ!遅すぎるわ!本当に愚かね!」涼介の額に青筋が浮く。「よくそんなことが言えるな!」未鈴がカメラに顔を近づける。精巧な化粧が施された顔が歪み、凶悪な笑みを浮かべる。「私が『周りを回れ』って頼んだ?『そばにいて』って頼んだかしら?フフフ、残念ね。あなた、自分を一番愛してくれた人を失ったのよ」彼女は視線を病弱な海斗に移す。「あなたもだよ、ガキ。自分を一番愛してくれたママを失ってどうかしら?ふん、本当に目も心も節穴な親子ね。自業自得よ!」彼女は嘲るように続ける。「彼女が帰ってくると思う?絶対に帰らないわ!」彼女の笑い声が甲高く響く。「あなたたち自身の手で、彼女を追い出したんだから!」「黙れ!」涼介が怒鳴り、拳をテーブルに叩きつける。海斗は呆然として、唇が紫色に変色し、呼吸が荒くなっていた。「私と寝た時、こんな日が来るとは思わなかった?」未鈴の声がさらに高くなり、その歪んだ笑みは涼介を戦慄させた。「いい気味だわ!」画面が暗転した。涼介はスマホを握りしめ、ガラスのテーブルに叩きつけた。破片が飛び散り、海斗の顔に血の筋を残す。海斗は避けもせず、突然痙攣し始め、激しい喘息発作を起こした。喉から苦しげな喘鳴が漏れる。「……薬はどこだ!」涼介が引き出しを乱暴に開けようとするが、手が震えて開かない。ようやく薬瓶を見つけて開けると、中は空だった。彼は焦って海斗の傍に駆け寄る。「どうして薬が……!」海斗の顔色が土気色に変わっていく。「もし……僕も……薬がなくて死にそうになったら、ママは……許してくれる?」彼の指が硬直し、鉤爪のように曲がっていく。「早く救急車を!」涼介がお手伝いに向かって叫ぶ。「間に合いません!」お手伝いが悲鳴を上げる。「奥様の部屋の引き出しに、まだ予備の薬があるはずです。探してきます!」五分後、お手伝いが血の気のない顔で駆け下りてくる。「薬
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第17話

北雲市から少し南へ下った花原市。翔は明世と充希を気晴らしに連れ出し、車を停めた。「ずっと家にいては気が滅入る」彼はハンドルから手を放して言った。「もっと外に出て、気分転換をしよう」充希が近くの畑からヒマワリを一輪摘んで走り戻ってくる。「見て!お花よりママの方がきれいだよ!」明世は微笑んで頷いた。「この顔で人を怖がらせないか、それだけが心配だけど」翔が車のドアに寄りかかる。「外見なんて、君の魅力のほんの一部に過ぎない。本当に人を惹きつけるのは、君の芯にあるその強さだよ」「フフ……お世辞は結構よ」彼女は照れ隠しに顔を伏せ、ヒマワリの香りを胸いっぱいに吸い込んだ。充希の幼い声が響き、翔に加勢する。「パパの言う通りだよ。ママはきれいで優しくて、世界一のママだもん!」「ほら、充希も俺も同じ意見だ」彼は充希からヒマワリを受け取り、明世に手渡す。「君が娘を見つけてくれたお礼に、僕と充希で計画を立てたんだ」「ふふ。誰の入れ知恵かしら……で、どんな計画?充希、ママに教えて」充希が半ブロック先にある空き店舗を指差して言う。「パパがこのお店、全部買っちゃったの。ママにお花屋さんを開いてもらうんだって。そうしたらママ、アニメに出てくる妖精さんになれるでしょ!」明世はその愛らしい発想に笑みがこぼれ、二人の好意をありがたく受け取ることにした。三日後、「暁フラワーショップ」がオープンした。日々が穏やかに、ゆっくりと流れていく。毎朝、翔は充希を学校に送り、午後五時きっかりに迎えに行き、その足で花屋に明世を迎えに来る。翔は明世の住むアパートの部屋と、その向かいの部屋を両方買い取っていた。充希と明世が一緒に暮らし、彼は向かいに住んでいるのだ。夕食は三人で明世の家に集まって食べるのが日課になった。食後は充希がカーネーションをマイク代わりにして歌い、それを見て明世と翔が顔を見合わせ、同時に吹き出す。「パパ」充希はすっかり自然に呼び方を変えていた。「今日のご飯、作ってくれる?酢豚が食べたいな」「いいよ」翔は上着を脱ぎ、慣れた手つきで袖をまくる。「明世は?」「肉じゃがをお願い」翔が当たり前のように尋ね、明世も無意識に答える。彼女は一瞬動きを止め、あまりにも自然なやり取りに驚いた。心のざわめきが、思わず口をついて出る。「川京市一
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第18話

海斗はパパがママを探しに行ったと聞いて、お手伝いに泣きついて自分も連れて行けとせがんだ。涼介が空港まで迎えに行くと、海斗は小さな拳で父を殴った。「どうして僕も一緒に連れて行かなかったの!パパのバカ!」涼介は何も言わず、車で彼を花屋に連れて行った。海斗は花屋のガラス越しに、一心不乱に花を挿している明世を見つめた。穏やかな横顔は、ママが宿題に付き添ってくれた夜のことを思い出させた。ママの腕に包まれ、温もりと優しい香りに包まれていた、あの頃を。彼は衝動的に花屋のドアに駆け寄り、力いっぱい叩いた。「ママ、会いに来たよ!」そしてポケットから喘息スプレーを取り出し、明世の目の前でこれ見よがしにキャップを開けて地面に叩きつけた。「ママ、見て!薬を全部捨てたよ!僕も同じように苦しむから、帰ってきてくれるよね?ねえママ!」明世は白バラの花束を包んでいる最中だった。突然の音に驚いて棘が指に深く刺さり、血が滲んで純白の花びらに赤い染みを作った。翔が奥から出てきて、すぐに絆創膏を差し出す。「痛いか?」彼女は受け取ったが、貼ろうとはしなかった。「痛くないわ。脚を切断された痛みに比べれば、こんなの蚊に刺されたようなものよ」声は大きくないが、ガラス一枚隔てた向こう側まで十分に届いた。海斗はさらに錯乱し、ドアを押し開けて店内に駆け込もうとする。翔のボディガードが素早く立ちはだかり、彼を制止する。涼介がその場に膝ですり寄って近づいた。高級なズボンの膝が擦り切れるのも構わない。「明世、紺野グループの株をすべてお前に譲る。俺の命すら差し出す……だから……昔の俺には見る目がなかった」彼の目が充血し、狂気を帯びる。「恩人を間違えたんだ。だが、今の俺は……」明世は無言で義足を外し、ドン、と彼の目の前に置いた。「もうどうでもいいの」彼女が静かに告げる。「紺野涼介、あなたと海斗を三回信じたわ。でも、その結果はどれも耐え難いものだった!」涼介が固まる。彼はさらに這い寄り、明世のズボンの裾を掴もうとする。「三回とはいつだ?はっきり教えてくれ!」明世は冷徹に、一本ずつその指を引き剥がした。「一回目、入江未鈴のせいで脚を骨折したのに、あなたが二時間もサインに来ずに放置した結果、切断することになった。二回目、退院したばかりで体も心もボロ
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第19話

彼は手すりを乗り越え、海斗を抱きしめ、二人で宙に向かって身を乗り出した。「紺野涼介!紺野海斗!」明世の声が下から響いてきた。拡声器を使っているようだ。「こんな茶番を演じるのは、これで二回目」拡声器を通した彼女の声は、どこまでも冷静だった。「一人は私が腹を痛めて産んだ子、もう一人は私が命がけで救った人。でも誰一人として、私が救った命を大切にしようとしなかった。それで私を愛してるだなんて、笑わせないで」拡声器のスイッチが切れる音がした。涼介は息子を抱いたまま、屋上の縁で呆然と立ち尽くした。進むこともできず、退くこともできない。地上ではますます多くの野次馬がビルを取り囲み、屋上を指差して騒いでいる。海斗はビルの縁で泣き叫んだ。「上に迎えに来てくれたら飛び降りないよ!どうして来てくれないの?」十分後、消防車と救急車が到着し、花屋の周辺は騒然となった。メディアも駆けつけ、ドローンが上空を旋回する。生配信のタイトルは刺激的だ。【狂気の息子が母を脅迫、富豪一族の泥沼愛憎劇、結末はいかに】明世が松葉杖をついて屋上に姿を現した時、海斗の涙目が輝いた。「ママ!」彼が叫び、口元に狂気じみた笑みを浮かべる。「やっぱりママはまだ僕を愛してるんだ。見捨てない!パパの言った通りだ。僕たちから離れられないんだ!」明世は五メートル離れた場所で足を止め、杖で地面をコンと叩いた。「降りなさい」「先に一緒に帰るって約束して!」彼が半歩前に出ると、足元の小石がパラパラと落下した。彼女の声は冷徹だ。「紺野海斗、毎回脅して愛を手に入れるなんて大間違いよ」海斗が硬直する。その隙を見逃さず、背後から消防士が飛びかかり、彼を地面に押さえつけた。顔がコンクリートに擦れて長い擦り傷ができ、膝を擦りむいたが、彼は痛みも忘れて明世に手を伸ばした。「わざとじゃないの、ママ……抱っこして!ねえ、抱っこしてよ!」明世は無言で背を向け、歩き出した。翔が階段の入口で待っていて、彼女の松葉杖を受け取った。そして追いかけてきたメディアに向かって毅然と言い放つ。「この子は重度の精神疾患があり、母親とは絶縁状態にあります」記者がマイクを明世の前に突きつける。「本当に紺野明世さんですか?そのお顔の傷は……」明世はゆっくりとマスクを外した。左頬を縦断する凄
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第20話

翔が川京市で残務整理を終えて七日目、充希がどうしてもパパを迎えに行きたいとせがんだ。明世は彼女の懇願に根負けして、空港まで連れて行くことにした。到着ゲートに翔の姿が見えるやいなや、充希がヒマワリの花束を持って駆け寄る。「パパ!ママと一緒に作ったの!」翔はしゃがんで彼女を抱きしめ、頭越しに明世を見る。「ありがとう」「充希がどうしてもサプライズを用意したいって聞かなくて」彼女は少し気まずそうに視線を逸らす。「帰ろう」彼は片手で充希を軽々と抱き上げ、もう片方の手で自然に明世の車椅子のハンドルを握った。「二人に、見せたいものがあるんだ」その夜、明世の手料理が卓上に並んだタイミングで、翔が書類鞄から一通の資料を取り出した。「川京市のバレエ団を買収したんだ」彼が契約書を明世の前に差し出す。「新設部門——『明世車椅子バレエ芸術センター』だ」明世の手から箸が落ち、カランと音を立てた。「そんなに驚かないでくれ」彼はテーブルを回り込み、彼女のそばで片膝をついた。「プロポーズじゃないよ。お願いしたいんだ——家族として、パートナーとして、君と一緒に開幕公演の舞台に立ちたい」充希も椅子から飛び降りてきて、ペンを彼女の手に押し込む。「ママ、早くサインして!私とパパ、ママが踊るところ見たいの!」明世はペンを握りしめ、ためらいがちに言う。「でも私……立つことすらできないのよ」「なら座って踊ればいい」翔が契約書の条項を指差す。「バレエ団は今、十二人の体に障害を持つ生徒を募集している。みんな君を待ってるんだ」ペン先が代表者名の欄で止まる。涼介の影が一瞬頭をよぎるが、彼女はそれを振り払った。「バレエ団の経営は引き受けるわ」彼女は滑らかに名前を書いた。「でも……他のことは、もう少し待ってほしい」「どうして?」「今はまだ、結婚というものに興味が持てないの」彼女は書類を翔の方へ押し戻す。「もう少し時間をちょうだい」翔は笑顔でペンを受け取り、迷わずサインした。その動作は素早く、まるで最初から答えを知っていたかのようだ。その時、ドアの向こうで、重いものが落ちる音がした。明世には、それが誰だか分かっていた。涼介がドア枠に手をついて、ふらつきながら立ち上がるのが見えた。その顔色は死人のように土気色だ。彼はついに悟ったのだ。彼女の心の中には
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