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三つのチャンス――もう二度と愛さない

三つのチャンス――もう二度と愛さない

By:  魔王君Completed
Language: Japanese
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腹を痛めて産んだ我が子が、母親を殺す「刃」になるとは—— 三十歳の誕生日。喘息の発作に苦しむ紺野明世(こんの あきよ)の目の前で、五歳の息子・紺野海斗(こんの かいと)は命綱である吸入薬を地面に叩きつけた。 「ママは苦しめば苦しむほど、僕をもっと愛してくれるって、未鈴さんが言ってたよ」 そして夫・紺野涼介(こんの りょうすけ)は、妻の命の危機よりも「本命」の飼い猫を救うことを選んだ。 明世が半生をかけて、密かに育んできた恋心。 けれど結婚して初めて知った。自分は、彼が本命に九十九回振られた末に選ばれた、「百回目の当てつけ」に過ぎなかったことを。 本命・入江未鈴(いりえ みすず)が帰国すると、夫と息子は喜々として彼女の「騎士」となり、明世を追い詰めていく。 明世は彼らに、やり直すための「三回のチャンス」を与えた。 だが、代償として残ったのは失った片脚、ネットでの誹謗中傷、そして顔に刻まれた消えない傷跡だけだった。 そして、息子がアレルギーで意識が薄れゆく中、あろうことか不倫相手を「ママ」と呼んだ瞬間——明世の中で、最後の情が燃え尽きた。 「離婚したいんです。財産分与なんて結構、身一つで出ていきますから。それと、海斗も……あの子も、いりません」 チャンスは尽き、愛は死んだ。 地獄を見たサレ妻が、真に輝く未来へと歩き出す。

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Chapter 1

第1話

お腹を痛めて産んだ子供が、まさか母親の苦しむ姿を見て喜ぶ怪物だったとは、紺野明世(こんの あきよ)は夢にも思わなかった。

三十歳の誕生日。裏庭で、明世の胸が激しく軋んだ。発作だ。

薄れゆく視界の端、五歳の息子・紺野海斗(こんの かいと)が立っていた。

だが海斗は、明世の命綱である吸入薬を拾うどころか、遠くへ投げ捨てた。

幼い声が、残酷なほど鮮明に耳に突き刺さる。

「こうすればママ、もっと僕のことを見てくれるし、もっと愛してくれるって、未鈴さんが言ってたもん。

パパだって未鈴さんの言うこと聞いてるんだ。じゃあ僕のやり方も間違いないよ。こうすればママは絶対、僕たちをもっと好きになる!」

夫である紺野涼介(こんの りょうすけ)の答えを聞く間もなく、意識が闇に沈んだ。

最後に残ったのは、ひとつの冷たい決意――

もし目が覚めたなら、私を傷つけることで愛を試そうとする歪んだ親子、あと三回だけ、チャンスを与えよう。

……

四時間の蘇生処置を経て、鼻をつく消毒液の臭いが明世を現実へと引き戻した。

瞼を持ち上げると、喉の奥に焼けるような激痛が走り、息をするたびに胸が軋む。

無意識に夫と息子の姿を探したが、病室には冷たい空気が漂うばかりだ。

サイドテーブルの上で、スマホが震え続けている。力を振り絞って手を伸ばすが、指先数センチが届かない。

それに気づいた新人の看護師が、慌てて駆け寄ってきた。

「動かないで!やっと峠を越したんですよ。重度の喘息持ちだと分かっているくせに、どうして薬の管理を怠ったりしたんですか?本当に、命を何だと思ってるんです!」

明世には弁解する気力もなかった。まさか実の息子が薬を捨てたなどと、口が裂けても言えるはずがない。

スマホの画面を開くと、LINEは涼介とのトーク画面が開かれたままだった。画面を埋め尽くす吹き出しは、すべて自分からの一方的なメッセージだ。

インスタを開くと、入江未鈴(いりえ みすず)の投稿が目に飛び込んできた。

【茶トラちゃんが三時間も高い木から降りられなくなって大ピンチ。でも、二人の勇敢な騎士様が駆けつけてくれたの!消防士さんも「プロ顔負けだ」って褒めてくれたわ!】

添付された写真には、袖をまくって木に登り、猫を抱きしめる涼介と、その下でキャリーケースを掲げ、慎重に猫を受け取ろうとする海斗の姿があった。

未鈴はそんな二人を崇拝するような眼差しで見つめ、手を叩いて応援している。

なんて美しい、三人家族の光景だろう。

夫と息子が、死の淵をさまよっていた自分を置き去りにして、本命の飼い猫を助けに行っていたのだ。心配の言葉ひとつ寄越さずに……

明世は口元を歪め、写真をタップした。

海斗が着ているのは、今朝、自分がアイロンをかけたシャツだ。ママの誕生会でかっこよく見えるようにと、丁寧にアイロンをかけたもの。

それなのに今、息子はそれを着て別の女の前に立ち、父親と一緒に騎士気取りで振る舞っている。

指を下に滑らせ、何気なく家庭用監視カメラのアプリを開く。

昨夜設定したクラウドの自動バックアップが、新しい動画の通知を表示していた。

何かに引き寄せられるようにタップすると、画面には庭の東屋が映し出された。時刻は今日の昼食前だ。

「海斗くん、さっき言ったこと、全部覚えてる?」未鈴は、蜜のように甘い声で、絡みつくように言った。

「覚えてるよ」海斗の幼い顔に、真剣な色が浮かぶ。

「あのスプレーを捨てたら、ママに発作が起きたら僕が気づいて、薬を取ってって頼んでくるんだ。そうしたら僕がママを助けたヒーローになって、ママはもっと僕を愛してくれる」

「いい子ね」未鈴は笑いながら、海斗の髪を撫でた。「これは二人だけの秘密よ。ママからもっとたくさんの愛をもらえるように、手伝ってあげるから!」

「やった!未鈴さんって本当にすごいね!だからパパも未鈴さんのこと大好きで、いつもご褒美にチューしてるんだよね!」

そう言って、海斗は小さな唇を尖らせて未鈴の頬にキスをした。

画面の中で親子のようにじゃれ合う二人を見つめながら、明世はすべてに予兆があったのだと悟った。

長年愛してきた夫は、本命を甘やかし、あろうことか子供を唆して母親を襲わせていた。彼はとっくに、自分を裏切っていたのだ。

明世は画面を凝視したまま、抑えきれない手の震えを感じた。胸を刺すような痛みに耐えかねて、瞳を閉じる。

過去の記憶が、雪崩のように押し寄せてきた。

明世と涼介は幼馴染だった。彼は臨海市随一の資産家の御曹司で、留学から帰国して家業を継いだエリートだ。

二十代で紺野グループの企業価値を数倍に押し上げ、臨海市の全ての女性が憧れる最年少の青年実業家となった。

一方、明世は紺野家に仕える家政婦の娘に過ぎない。涼介の両親の慈悲で、彼のそばにいることを許され、同じ名門校に通わせてもらえただけだ。

眩いばかりの涼介を見つめながら、明世の密かな恋心は、決して口に出せるものではなかった。

けれど六年前。帰国した彼が酔った勢いで部屋を訪ねてきて、「結婚してくれないか」と告げたのだ。

密かな恋が、ついに実を結んだのだと思った。

だが、結婚して思い知らされた。それは、彼が未鈴に九十九回振られた後の、百回目の「当てつけ」に過ぎなかったのだと。

アルプス山脈で、ドローンを使って求婚の文字を描いても、未鈴は笑って「もう少し待って」とあしらった。

アイスランドの黒砂海岸を貸し切りにして花火を打ち上げても、未鈴は「結婚なんて制度に縛られたくない」とはぐらかした。

そして百回目。タイムズスクエアの巨大スクリーンの下で、未鈴は最後通告をした。「三年後には必ず結婚するわ」と。

涼介は指輪を放り投げて帰国し、手頃な明世と成り行きで結婚したのだ。理由はいかにも簡単だった。

彼女は一番面倒がなく、一番従順な選択肢だったから。

結婚して一年後、明世は海斗を出産した。幸せな日々もあったはずだ。

それが一ヶ月前、未鈴が離婚して帰国し、海斗の外国語教師になってからすべてが狂い出した。

涼介の襟元には、頻繁に赤リップの跡が残るようになった。

海斗も「未鈴さんの家で遊びたい」とせがむようになり、帰宅すればまるで別人のようになっていた。

以前は自分にべったりだったのに、突然、まとわりつかなくなった。

昔は薬を持ってきてくれた優しい子が、今では薬を隠すようになった。

かつて自分を世界一だと誇ってくれた「ナンバーワンのファン」は、今では「ママはダンスが下手だ」と言い、「家で家政婦の仕事をして、パパと僕の世話をするべきだ」と言い放つ。

今日になってようやく、自分がどれほど滑稽な間違いを犯していたか気づいた。

夫は本命と焼け木杭に火をつけ、息子までもが、その女の意のままに操り人形と化していたのだ。

「紺野さん?大丈夫ですか?」看護師が明世の顔色の悪さに気づいて声をかける。「先生をお呼びしましょうか?」

「大丈夫です」明世は目を開け、溜息のような声で尋ねた。「私の夫と息子は?」

「お会計を済ませたら、すぐ出て行かれましたよ。動物病院に急用があるって」

看護師は不満げに口を尖らせた。「本当に、猫が奥さんやお母さんより大事なんて、ふざけていますね」

明世は力なく笑った。涙が一筋、こめかみを伝って落ちる。

そう、どんな猫が命より大事なのか?もちろん、未鈴の猫だ。

バン!

病室のドアが乱暴に開かれ、涼介が海斗の手を引いて入ってきた。

ふわりと漂ってきたのは、動物病院特有の消毒臭。おそらく、あの猫の健診を終えたばかりなのだろう。

「ほら、ママに謝りなさい」涼介が息子の背中を押す。

海斗はベッドの傍まで寄ってくると、つま先で床に円を描きながら言った。「……ママ、ごめんなさい」

明世は顔を背けたが、息子の目に一瞬浮かんだ苛立ちを見逃さなかった。

彼は苛立っていた。手筈通りなら、ママがそこで「薬を取って」と言うはずだったからだ。

「海斗はわざとやったわけじゃない。まだ子供なんだ、遊びに夢中になることだってある。お前も、そんな大事な薬をきちんと管理しないから悪いんだぞ」

涼介の声には、抑揚のない。「未鈴が動物病院で猫の世話をしてて、一日中何も食べてないんだ。俺が食事を届けに行かないといけない」

夏の夜の湿気を含んだ暑さの中、明世は骨の髄まで冷え切っていくのを感じた。

目覚めてからずっと、涼介は一度も「大丈夫か」と聞いてこなかった。

部屋に入ってからの言葉は、ひとつは息子の言い訳、もうひとつは自分への非難。

心も目もすべて未鈴で埋め尽くされ、今日が妻の三十歳の誕生日であることすら忘れている。

明世は突然、綿のような疲れを感じた。

明世が何も言わないのを見て、涼介は眉をひそめた。「まあいい。今日はお前の誕生日なんだから、機嫌よくしてくれよ。子供相手に意地を張るな」

「俺と海斗で、お前にプレゼントを用意したんだ」

彼はポケットからベルベットの箱を取り出した。中にはローズゴールドの腕時計が入っていた。「退院したら俺がつけてやる」

明世はそれをちらりと見た。未鈴が先週、SNSに投稿していたのと同じモデルだ。

彼女が「ダサくて趣味じゃない」と嫌がって受け取らなかったものが、自分の誕生日プレゼントになるとは。なんという皮肉だろう。

明世は微笑み、溜息のような声で言った。「私からも、サプライズがあるの」

親子は同時に顔を上げ、海斗は明世のそばに飛びついた。

「なになに?僕が一番欲しかった、レーシングカーのおもちゃ?」

彼女は窓の外を見つめ、海斗の目に浮かんだ失望を見ないふりをして、もう口を開かなかった。

父子が病室を出ていくまで、彼女は心の中で二人に告げた。

チャンスを与えるのは、あと三回だけよ。

それを使い切ったら、あなたたちにはもう愛想を尽かすからね。
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第1話
お腹を痛めて産んだ子供が、まさか母親の苦しむ姿を見て喜ぶ怪物だったとは、紺野明世(こんの あきよ)は夢にも思わなかった。三十歳の誕生日。裏庭で、明世の胸が激しく軋んだ。発作だ。薄れゆく視界の端、五歳の息子・紺野海斗(こんの かいと)が立っていた。だが海斗は、明世の命綱である吸入薬を拾うどころか、遠くへ投げ捨てた。幼い声が、残酷なほど鮮明に耳に突き刺さる。「こうすればママ、もっと僕のことを見てくれるし、もっと愛してくれるって、未鈴さんが言ってたもん。パパだって未鈴さんの言うこと聞いてるんだ。じゃあ僕のやり方も間違いないよ。こうすればママは絶対、僕たちをもっと好きになる!」夫である紺野涼介(こんの りょうすけ)の答えを聞く間もなく、意識が闇に沈んだ。最後に残ったのは、ひとつの冷たい決意――もし目が覚めたなら、私を傷つけることで愛を試そうとする歪んだ親子、あと三回だけ、チャンスを与えよう。……四時間の蘇生処置を経て、鼻をつく消毒液の臭いが明世を現実へと引き戻した。瞼を持ち上げると、喉の奥に焼けるような激痛が走り、息をするたびに胸が軋む。無意識に夫と息子の姿を探したが、病室には冷たい空気が漂うばかりだ。サイドテーブルの上で、スマホが震え続けている。力を振り絞って手を伸ばすが、指先数センチが届かない。それに気づいた新人の看護師が、慌てて駆け寄ってきた。「動かないで!やっと峠を越したんですよ。重度の喘息持ちだと分かっているくせに、どうして薬の管理を怠ったりしたんですか?本当に、命を何だと思ってるんです!」明世には弁解する気力もなかった。まさか実の息子が薬を捨てたなどと、口が裂けても言えるはずがない。スマホの画面を開くと、LINEは涼介とのトーク画面が開かれたままだった。画面を埋め尽くす吹き出しは、すべて自分からの一方的なメッセージだ。インスタを開くと、入江未鈴(いりえ みすず)の投稿が目に飛び込んできた。【茶トラちゃんが三時間も高い木から降りられなくなって大ピンチ。でも、二人の勇敢な騎士様が駆けつけてくれたの!消防士さんも「プロ顔負けだ」って褒めてくれたわ!】添付された写真には、袖をまくって木に登り、猫を抱きしめる涼介と、その下でキャリーケースを掲げ、慎重に猫を受け取ろうとする海斗の姿があった。
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第2話
明世が退院する日、涼介のベントレーが病院の車寄せに横付けされていた。明世が車に乗り込むや否や、海斗はリュックから一枚の写真を取り出した。「ママ、見て!未鈴さんがプリントしてくれたんだよ!」写真の中で、未鈴は海斗を抱きしめ、聖母のように微笑んでいる――「理想の母親」という表彰式の記念写真だ。どうやら自分が入院している間に、未鈴は息子の心の中で第二の母親になっていたのだ。明世の息が詰まる。「これを見たらママが嫉妬して、もっと僕とパパのこと大事にするって未鈴さんが言ってたよ」海斗の目が無邪気に輝く。「やっぱり未鈴さんの言った通りだ。ママ、今怒ってるでしょ!」明世は何も言わず、震える手でパワーウィンドウのスイッチに触れた。海斗は写真を彼女の膝に押し付ける。「ママはこれを枕元に置いて、毎日見るんだって、未鈴が言ってたよ」「もういい」「まだだよ、未鈴さんがね――」ビリッ。乾いた音が車内に響く。明世は写真を粉々に引き裂き、ばら撒いた。海斗は少し呆然としてから、喚き散らした。「ママなんて悪い人だ!これは未鈴さんの気持ちなのに!」涼介が勢いよく振り返る。「子供相手に何をヒステリー起こしてるんだ?」最後の一片が、明世の指の間からひらりと落ちる。海斗がそれを奪い取ろうと飛びかかり、小さな爪が明世の手の甲を引っ掻き、血が滲んだ。「返して!未鈴さんが見たら悲しむよ!」「海斗、よしよし」涼介は暴れる息子を抱き寄せ、冷ややかな視線を妻に投げる。「たかが写真一枚じゃないか。そこまでする必要があるか?」「あるわ」明世は手の甲の血を拭った。「私の夫なのに、息子が他人をママと呼ぶのを許してる。惨めなのはこっちよ」涼介は鼻で笑い、顔を背けて答えなかった。静まり返った車内には海斗のすすり泣きだけが響き、時折「未鈴さんの言った通り」「ママが悪い」という恨み言が混じる。翌日、明世はバレエ団に戻った。だが、プリンシパルの座はすでに奪われていた。レッスン室の中央、未鈴が優雅にストレッチをし、バレエミストレスたちが彼女を取り囲んでいる。明世がドアをくぐった瞬間、空気が凍りついたように静まり返った。「明世か」団長が進み出る。「ちょうどいい、発表がある。未鈴が次期プリンシパルを引き継ぐことになった。君には……退任しても
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第3話
病院の手術室で、明世のパンツの裾がまくり上げられ、ねじ曲がった脛が露わになった。「粉砕骨折に神経断裂ですか。家族はどこですか?同意書のサインがなくて、壊死が進めば、取り返しがつかなくなりますよ!」しかし待合室から返事はない。隣の診察室から呼び出しの声が聞こえてきた。「入江未鈴さんのご家族はいらっしゃいますか?」「ここです!」二つの声が同時に上がった。「念のため処置しましたが、軽い擦り傷です。傷口を水に濡らさないように……」涼介と海斗が細かく質問を重ねている間、明世の担当医が再び聞く。「ご家族はまだですか?いないなら電話してください!」明世は震える指で涼介の番号を押した。「涼介、病院で家族のサインが必要で……」「今忙しい。後で行く」頼みの綱の電話は、無情にも切られた。彼女は自嘲的に口元を歪める。この結婚生活の中に、あとどれだけの嘘が埋め込まれているのか、想像もつかない。二時間後、隣の診察室から出てきた涼介は、苦痛に顔を歪める明世にようやく気づいた。顔から笑みが消え、明世の前まで歩いてくると、珍しくばつの悪そうに言った。「すまない。お前がそこまで重傷だとは知らなかった。もし早く分かっていたら……」「いいから、早くサインして」明世の脚を襲う激痛は、涼介の言い訳を聞く余裕すら奪っていた。涼介は走り書きでサインを終え、憔悴した妻を振り返った。慰めようとしたのだろうが、その言葉は、何よりも残酷だった。「未鈴は身寄りがないからな。俺と海斗でついててやらないと心配なんだ。サインは終わったから、まず彼女を家に送ってくる」明世は彼の手を振り払った。「……勝手にして」彼女はストレッチャーに乗せられ、手術室へと運ばれていった。モニターにレントゲン写真を映し出す医者は告げた。「二時間以上も遅れたせいで、最適なタイミングを逃しました。残念ですが、切断するしかありません。義足をつけるにしても、予後は相当厳しくなるでしょう」明世は白黒のレントゲン写真を見つめ、一言も発せなかった。手術が終わった後、涼介と海斗の姿はどこにもなかった。連絡もなければ、電話一本すらない。七日後。明世が松葉杖をつき、廊下でリハビリをしていた時、再診に来た未鈴と涼介親子を見かけた。「パパ」海斗が見上げて言う。「ママはもうどこにも行けな
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第4話
明世は一週間、病院のベッドで孤独な夜を重ねた。この一週間、彼女は他人の幸せを覗き見るストーカーのように、毎日未鈴のSNSをチェックした。涼介親子は未鈴と動物園に行ったり、映画を観たり、親子運動会に参加したりしている。もし自分が涼介の妻でなければ、この微笑ましい「三人家族」を祝福できたかもしれない。だが、この物語で愛されていないのは、自分の方なのだ……退院の日、涼介と海斗がようやく現れた。明世はすでに退院手続きを済ませ、タクシーを呼ぼうとしていたところだった。涼介はようやく、夫としての責任を放棄していたことに気づいたらしい。「すまない。未鈴はこの街で頼れる人がいないんだ。俺は彼女の……彼女がここで唯一知ってる友人として、もっと面倒を見てやらないと。彼女もこの前怪我したばかりだし」以前の明世なら、寂しげに笑って「構わないわ」と言っただろう。今は、笑うことさえできない。「分かったわ。帰りましょう」明世が不自由な体で苦労して車に乗り込む姿を見て、涼介はますます彼女が自分の元から離れられないと確信したようだ。結婚して数年、自分は何度も彼女を無視してきたが、彼女は決して離れなかった。今だって数日顔を見せなかっただけだ。もう慣れているはずだ。車が走り出すと、明世はずっと窓の外を流れる景色を追っていた。海斗が膝に寄りかかってくる。「ママ、脚はもう治った?じゃあディズニーランドに一緒に行ける?」彼の目が期待に輝く。明世が顔を上げると、車はもう別荘の前に到着していた。海斗に何か言おうとした矢先、彼が親切そうに車のドアを開け、彼女を別荘の中へと促した。リビングのソファに明世を座らせると、彼は悪びれもせず、無邪気に言い放った。「あのね、未鈴さんは高所恐怖症だから、高い乗り物ダメなんだって。だからママが代わりに乗ってよ!そうしたら僕、遊べるもん!」明世の心臓が凍りついた。お腹を痛めて産んだ息子の言葉、あまりにも残酷だ……病み上がりの母親を気にもかけず、罪悪感の欠片もなく、その瞳には未鈴のことしか映っていない。「ママが行けば僕を愛してるってことで、行かなければ愛してないんだって、未鈴さんが言ってたよ。ママは絶対僕を愛してるよね?」明世は海斗に答えず、無理やり立ち上がって寝室に逃げ込んだ。海斗、あ
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第5話
誕生日パーティーの会場で、子供たちのひそひそ話が耳に届いた。「彼女、お手伝いさん?片方の脚、どうしたの?」海斗は言葉に詰まり、視線が泳いだ。明世は悟った。息子は、自分のことを恥じているのだ。その時、玄関から柔らかな女性の声が響いた。「海斗くん!」海斗の目が輝き、弾かれたように駆け寄っていく。「未鈴さん〜!あれ?足、どうしたの?」全員の視線が注がれる中、現れた未鈴の左足には包帯が巻かれ、その体は涼介に預けられていた。涼介は鋭い目つきで明世を睨みつけ、拳を固く握りしめている。明世には分かった。彼は怒っている。それも、自分のせいで。案の定、未鈴をソファに座らせると、涼介は明世の手首を掴み、乱暴に寝室へと引きずり込んだ。「お前さ!どうして未鈴の靴に画鋲なんて仕込んだんだ!」明世は耳を疑った。「そんなことしてない!」「バレエ団の人間が見たと言っている!」明世は笑い声を漏らしそうになった。「なら、どうしてその場で止めなかったの?」涼介が一瞬言葉に詰まる。「それは……お前が俺の妻という立場を笠に着て、威張り散らしているから、誰も手出しできないんだろう」「でも私は……」「言い訳は無用だ。バレエ団はお前を解雇した。俺と未鈴がメディアを抑えているが、お前が謝罪しなければ収拾がつかない」「やっていないことを、どうして謝らなきゃいけないの!」「拒否しても無駄だ……」海斗の幼い声が、大人同士の口論を遮った。彼は目を丸くして言った。「ママ、もしかして、僕たちのことを嫉妬してるの?僕が未鈴さんと仲良くしてるから、画鋲を置いていじめたんでしょ?」明世が否定する間もなく、海斗は彼女の手を掴んだ。「でもね、未鈴さんを傷つけるのはダメでしょ?」息子は善悪を理解しているのだ。だが、その切っ先は母親に向けられている。心が張り裂けそうになり、明世は海斗の手を振りほどいた。松葉杖をつき、逃げるように玄関のドアを開ける。そこには、メディアのカメラと未鈴のファンが待ち構えていた。「紺野さん、嫉妬で画鋲を仕込んだというのは事実ですか?」「紺野明世、愛されていない女こそが『邪魔者』なのよ!さっさと紺野家から出ていって、未鈴さんと涼介社長を幸せにしてあげて!」罵声が波のように押し寄せ、ネット上ではすでに炎上状態だという
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第6話
彼が手を振ると、ボディガードが写真を拾い上げ、無造作に引き裂き始めた。明世は狂ったように抵抗したが、細切れになった写真が紙吹雪のように、全身に降りかかるだけだった。明世は震える手で破片を拾い集め、涙を流し続けた。「まだ謝らないなら、このトウシューズも灰になるぞ」彼はガードにライターを持ってこさせ、炎がシューズのサテン生地を舐めようとしている。それは両親が遺した、最後の形見だった。「もう分かった……頭を下げればいいでしょう……」彼女は振り返り、未鈴に向かって額を地面に打ち付けた。一回ごとに鈍い音が響き、額が散らばったガラス片に押し付けられ、血まみれになっていく。涼介は踏みつけられたトウシューズを明世の傍らに放り投げ、未鈴を抱きかかえて去っていった。明世の傍を通り過ぎる時、冷ややかな声を残す。「最初からこうすればよかったんだ。無駄な抵抗をするな」明世は海斗を見たが、海斗はぷいと顔を背けた。「ママ、未鈴さんに悪いことをしたからだよ!」三人は腕を組んで広間の中央に向かい、まるで幸せな家族の肖像画のようだった。見かねた保護者の一人が、明世を起こしてくれた。「何でそこまで意地を張るの。素直に謝ればよかったのに」明世は答えず、遺影の残骸を抱いて黙って隅に退いた。自分の息子の誕生日なのに、スポットライトを浴びているのは未鈴だ。自分の存在は、パーティーの華やかな空気を濁す異物でしかない。まるでこの結婚生活のように、自分は居場所のない部外者なのだ。未鈴は場が白けかけたのを見て、すぐに皆に海斗の誕生祝いを続けるよう呼びかけた。しかし誰も見ていない一瞬、彼女は明世に向かって挑発的に微笑んでみせた。明世は無言で寝室に戻り、隠しておいた離婚協議書と離婚届の封筒を取り出すと、涼介にメッセージを送った。【寝室に来て】一時間後、涼介がようやく姿を見せた。明世は封筒を差し出した。「これは海斗へのプレゼント。本人が開けないと意味がないわ」彼女は受け取ろうとした涼介の手を押さえた。涼介は封筒を無造作にベッドに放り投げた。「分かった。もうすぐケーキカットだ。みんなを待たせるな」明世は平静を装い、額の傷に包帯を巻いて、乱れた服を整えた。広間に出ていくと、会場の空気が凍りつき、全ての視線が「よく顔を出せたものだ」
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第7話
邸宅の玄関が激しくノックされ、お手伝いがドアを開けた瞬間、ドアが乱暴に押し開けられた。「未鈴ちゃんをいじめた奴か!」未鈴の狂信的なファンたちが押し入り、床に座り込んでいた明世を見つけた。「あなたたち誰!?」明世とお手伝いが押さえつけられた。本能的な恐怖が明世の背筋を這い上がった。「何をするつもり!」先頭の男がナイフを取り出し、明世の左頬を二回切りつけた。「これは未鈴ちゃんの分だ!」男が叫び、更にもう一回切りつけた。刃傷がこめかみから耳元まで伸びた。「これは、お前が未鈴ちゃんを傷つけて、更に彼女を陥れた罪だ!」男の狂気に満ちた顔に、明世は声も出ない。門の外で張り込んでいたパパラッチが室内の惨状を見て、慌てて通報したようだった。警察と医師が到着した時、明世の顔は鮮血と涙で汚れ、その瞳は硝子玉のように虚ろだった。まるで、涙さえ枯れ果ててしまったかのように。彼女の手にはスマホが握りしめられ、画面には最新のニュースが表示されていた。【紺野夫人が嫉妬に狂い、入江未鈴を陥れ、実の子供を利用して同情を引く!夫・涼介氏コメント「まさか息子にまで手をかけるとは」】動画の中で、未鈴は涼介に寄りかかり、儚げに涙を流している。涼介は彼女を抱き寄せ、カメラに向かって正義を語っていた。「明世は何度も息子を利用して俺を独占しようとして、未鈴を中傷し、今日は子供の命まで危険に晒した!」彼は振り返り、未鈴を熱っぽい目で見つめる。「未鈴は、俺の命を救ってくれただけでなく、子供が病気の時も、保護者会も、いつも献身的に付き添ってくれた。彼女こそが……」コメント欄には呪詛が溢れかえっている。【クソ女は死ね!】【どうしてこんな奴が母親になれるんだ!】【脚の切断も自業自得だ!】明世は呆然とし、警察官が近づいてきたことにすら気づかなかった。医師が傷を処置する。「傷が深すぎます。顔に一生消えない傷跡が残るでしょう」傍らの看護師が小声で毒づく。「こんな悪女、顔がズタズタになって当然よ」明世はふらつく手でスマホを掲げ、画面越しに左頬を貫く凄惨な傷跡を見た。彼女は自嘲的に口元を歪めた。そうね、醜い顔だわ。「紺野さん、犯人を告訴しますか?」警察官が尋ねる。「私は……」その時、涼介からの着信が彼女の声を遮った。「お手伝い
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第8話
翌朝の紺野家。涼介はすでに目覚めていた。彼は隣で眠る未鈴の布団の端を丁寧に直し、その眼差しには愛おしさが満ちている。未鈴は薄目を開き、涼介を見つめて、この束の間の温もりを噛み締めていた。当時の彼女は、あまりに傲慢だった。自分にはもっと相応しい男がいると信じ込み、涼介を単なる「保険」扱いしていたのだ。たとえ百回プロポーズを断ったとしても、彼だけはいつまでも自分を待ち続けてくれる、そう高を括っていた。だが、彼女は知らなかった。己の強欲がいつまでもまかり通るほど、人の心は甘くないということを。二人が別れた後、次に涼介の消息を聞いた時、彼はすでに結婚していた。彼女は「どうせ当てつけでしょう」と思い、自分も当てつけのように富豪と結婚した。海外で六年の歳月を過ごし、ようやく気づいた。涼介ほど自分に尽くしてくれる人間はいないのだと。プライドを保つため、夫である富豪から五億円近くを騙し取り、逃げるように帰国して涼介を探した。帰国して初めて知った。涼介と妻の間には、すでに五歳の子供がいることを。でも、全てを捨てて帰国したのだ。このまま引き下がれるはずがない。涼介は昔、あれほど自分を愛していた。きっと自分に無関心ではいられないはずだ。案の定、彼女が意図的に近づくと、涼介が自分への想いを断ち切れていないと察した。息子の海斗くんも、自分のことを特別気に入ってくれている。今度こそ、この男をしっかり掴み取る!「涼介、明世さんが私のファンのことをまだ気にしてたら、私が謝罪するわ。全部私のせいで……」未鈴は甘い声で言いながら、一粒の涙を零してみせる。涼介は手を伸ばして、彼女の目尻の涙を優しく拭った。「君は悪くない。あれは彼女が受けて当然の罰だ。もう少し眠っていてくれ」未鈴はコクリと頷いたが、手は涼介の袖を離さない。「こんなに時間が経っても、私たち、まるで恋人同士のようでいられるなんて……」涼介は彼女の手を布団の中に戻し、その口調にわずかな硬さを滲ませた。「俺たちは友人だ。君の世話をするのは当然だが、昨夜のことは……」言葉が落ちると、未鈴の表情が一瞬凍りつき、瞳の奥に嫉妬と憎しみが走った。何か言おうとしたその時、小さな影がドアから飛び込んできた。「未鈴さん!」海斗は心配そうに彼女を見つめる。
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第9話
明世は違うカードを差し出し、さらに別のカードも試した。だが、ことごとく支払いは弾かれた。すべて凍結されているのだ。最後の一枚――自分名義のカードの残高は、わずか七千円だった。震える指で涼介に電話をかけると、出たのは未鈴だった。「涼介は会議中よ。何か用?」「どうして私のカードを凍結したの?」「夫婦共有財産でしょ。無駄遣いするのが心配だって、涼介が言ってたわ」未鈴がくすくすと笑う。「だって、あなたが外で何をしてるか、誰にも分からないもの!」通話が切れた。明世は請求書を握りしめ、その場に立ち尽くした。充希が明世の服の裾を小さく引っ張る。「……私を、送り返すの?」「そんなことしないわ」明世は彼女を抱きしめた。「何があっても絶対に、充希を捨てたりしない」彼女は自分の小さな売店の在庫を売り払い、なんとか六十万円を工面した。だが、手術の催促書がカルテのように積み上がっていく。ある夜、充希が服の裾を掴んだまま眠れずにいた。「おばさん、もう治療しなくていいよ。お家に帰ろう」明世は唇を噛み締め、鉄の味が口の中に広がった。彼女は充希の頭を優しく撫で、声を和らげる。「よしよし。お金のことは大人が考えるの。充希はただ、楽しくしていればいいのよ」充希は涙を堪えて、精一杯の笑顔を作った。「ありがとう……!」明世の目も潤む。「……ホントに、いい子ね」翌日、彼女は充希を病院の中庭に連れて行き、気分転換をさせていた。ふと振り返った時、誰かとぶつかってしまった。相手は背の高い男性だった。スーツの袖口にはサファイアのカフスボタンが光り、富裕層特有の品格を漂わせている。彼が倒れそうになった彼女の腕を支えた時、その視線が明世の傷のない右半分の顔に止まった。「……明世?」彼が息を呑むのが分かった。明世は彼を思い出せず、慌てて頭を下げて謝ると、充希の手を引いてその場を去った。翌朝八時、院長が息を切らして病室に駆け込んできた。「ある方から支払いが……!すぐに手術の手配ができます!」明世は呆気にとられた。「誰が払ったんですか?」「それは重要じゃありません」院長が領収書を押し付ける。「今一番大切なのは、すぐに充希ちゃんの手術をすることです!」明世は充希を抱きしめ、目尻から安堵の涙が溢れ出した。充希の小さな手が、新しい
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第10話
スマホが震えた。涼介からの着信だ。「三ヶ月も経ったぞ。いつまで茶番を続ける気だ?」深夜にもかかわらず、彼の声は冷静そのものだった。「早く帰ってこい。海斗が寂しがってる」「茶番?」明世は電話の向こうから、海斗が駄々をこねて泣き叫ぶ声を聞いた。「離婚は茶番なんかじゃないわ。早く離婚届にサインして郵送して」明世は電話を切り、顔を上げて翔を見た。「あなたの助けを受けるわ。その代わりに、何か条件はある?」「特に条件はない」彼は首を横に振る。「ただ一つだけ、お願いがある」「何?」「手術が成功したら、君たちと一緒に川京市に来てほしい」彼が言う。「深い意味はない。あそこには国内最高のリハビリセンターがある。君と充希にとって、一番いい環境だと思うんだ」明世はスマホを握りしめ、指の関節が白くなる。「もちろん」翔が付け加えた。「拒否してもいい」充希が病室から呼ぶ。「おばさん、ちょっと怖いよ……」明世は振り返って部屋に入り、充希を抱きしめた。翔は入らず、ドアの外からただ二人を見守っていた。「成瀬さん」彼女が背中越しに言う。「私と充希、あなたについていくわ」「決めたか?」「ええ」彼女は充希の髪を撫でる。「まずこの子を、生かさないと」翔は頷いた。五分後、院長からメッセージが届く。手術は明後日の朝八時に決定したと。「休んでくれ」彼は静かにドアを閉める。「明日は、俺がついている」明世は横になり、充希が耳元で囁く。「おばさん、私たち、これからお家ができるの?」「できるわ」彼女は目を閉じる。「もう苦しまなくてもいい、愛に満ちたお家がね」涼介が明世の働いている売店を突き止めた時、シャッターは閉ざされていた。彼は苛立ちを隠さずにドアを叩く。「おい明世、開けろ!」近所の人が顔を出す。「もう叩かないでよ。彼女なら病院にいるわ。子供が手術を受けるんですって」涼介は海斗の手を引き、病院へと急行した。病室のドアの前で、翔のボディガードが立ちはだかる。「ここまでです」「どけ!」海斗が隙を見て駆け込み、充希を指差す。「この泥棒!僕のママを返せ!」彼は酸素チューブを引き抜こうとしたが、ガードに取り押さえられた。涼介が激怒する。「何様のつもりだ。俺の息子に触るな!」翔が廊下から現れ、ゆっくりとカフスボタンを整える。「川京市の
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