All Chapters of 長い霧の先に、夜明けの光: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

竜之介は花束を抱え、梨花がこの優しい黄色のチューリップを見たらどんなに喜ぶだろうと想像していた。ささやかなサプライズを届けようと家に帰る途中、ポケットのスマホが震えた。画面が光り、「渚」の文字が目に飛び込んでくる。薄暗い光の中で、その名前はやけに目に焼き付いた。竜之介の指先は、ごくわずかに、だがはっきりと動きを止めた。最近、この名前を見る頻度と、それに伴う目に見えないしがらみが、彼の心にどっと疲れをもたらしていた。それでも、竜之介は通話ボタンを押した。「竜之介……」受話器から、渚のか細く、吐息まじりの声が聞こえてきた。「夜の病院って、すごく静かなの。窓の外の風の音が怖くて……一人だと、少し心細くて。少しだけ……会いに来てくれないかな?」スマホを握る竜之介の手が、ぴたりと止まった。助手席に置かれたチューリップの花束に目を落とし、低い声で言う。「悪い、渚。今夜は他にやることがあるんだ。それに、付き添いの看護師を頼んだだろう?何かあったら、いつでも彼女に頼んでくれ」「でも、あの人は……」渚の声が小さくなる。「ただ……知っている人にそばにいてほしくて。今日、先生から今後の治療の話を聞いたら、なんだか気持ちが落ち着かなくなっちゃって……」「本当に、行けないんだ」竜之介は渚の言葉を遮った。「ゆっくり休んで、先生の言うことを聞くんだ」家に帰ると、リビングはがらんとしていて、やけに静かだった。梨花の姿はない。竜之介は立ち尽くした。ずしりと心が重くなった。彼は家の中を歩き回った。壁にかかっていたはずのウェディング写真が消え、そこには不自然な空白だけが残されていた。寝室では、梨花のドレッサーに無造作に置かれていた小物や、愛用の香水、それに、彼女が大好きで何度も読み返していた本も、すべてなくなっていた。ベッドサイドに置いてあった、ガラスの小さなナイトランプさえも、跡形もなく消えていた。まるで、ここにいたことなど一度もなかったかのように。竜之介の心は、急速に沈んでいった。まさか、梨花は……出て行ったのか?彼はすぐに、その考えをかき消そうと激しく頭を振った。ほとんど本能的に、その可能性を拒絶していた。ありえない。梨花は甘えん坊で、自分にべったりだった。この関係が終わることを、自分以上に怖がっていたはずだ。自分に嫌
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第12話

竜之介は会社で起きた大きなトラブル対応に追われ、徹夜で働いた。窓の外が白み始めるころ、ようやく問題は落ち着きを見せた。彼はズキズキと痛むこめかみを揉みながら、もう一度スマホを確認した。竜之介は慎也に梨花の居場所を尋ねたが、まだ返事はなかった。胸に棘が刺さったような苛立ちを覚えながら、車はゆっくりと自宅の地下駐車場へと入っていく。その時、ふと近くの植え込みの角に目をやった。霧の中、男女が固く抱き合っているのが見えた。女はキャミソールドレスを一枚着ているだけで、肩も背中も足も、肌が大きくむき出しになっている。ほとんど裸同然の格好だった。女を抱きしめる男は、うつむいて深くキスをしていた。その指は、彼女の長い髪の中に深く差し入れられている。人目もはばからない、刺激的な光景だった。竜之介は思わず眉をひそめて視線を外し、車を加速させてガレージに入ろうとした。しかし、車輪が減速用の段差を越えようとしたその瞬間、女がふと横顔を見せたのだ。朝の風が、ちょうど彼女の頬にかかる髪を吹き上げた。そして現れたのは、竜之介が嫌というほどよく知る顔だった。渚だった。そして、彼女と人目もはばからずに絡み合っていた男は、なんと啓太だった。さらに竜之介の視線が釘付けになったのは、渚の、まだ治っていないはずの腕が、今、啓太の横顔を優しく撫で、指先が彼の首筋のラインに沿ってゆっくりと滑り落ちていく光景だった。二人はそんな竜之介の様子に全く気づいていない。ハンドルを握る竜之介の指は力なく白んでいき、顔色がみるみるうちに冷たく沈んでいった。啓太は息を切らしながら「ここではよそう、部屋に戻ろう」と囁いた。渚は指先を彼の首筋から襟の内側へと滑り込ませ、戯れるように囁いた。「外でなんて初めてじゃないのに、どうして今日はそんなにかしこまってるの?」啓太は一瞬動きを止め、彼女を見つめて低い声で尋ねた。「君は本当に、竜之介のことが好きじゃないんだよな?」その言葉を聞くと、渚はふっと笑った。「あなたって……竜之介にまでヤキモチを妬くの?あの人って……本当に面白みのない男。データと契約書と、くだらない建前しか頭にないの」彼女は気だるそうに啓太のシャツのボタンを指でいじりながら続けた。「知り合ってこんなに経つのに、私がどんなことをされたら喜ぶのか、全然わか
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第13話

「奇遇だな」竜之介の声は、感情の揺れを一切感じさせなかった。「家に帰る途中だったんだが、ちょうど面白い話を聞かせてもらったよ」彼は数歩前に進んだ。湿った地面を革靴が踏みしめ、かすかな音を立てる。「さっきの話は、全部聞かせてもらった」渚は口を開きかけた。とっさに用意していた言い訳が喉まで出かかったが、竜之介の視線とぶつかった瞬間、すべてが凍りついた。それは自分が知っている温かい眼差しではなく、すべてを見透かすような、氷のように冷たい視線だった。その瞬間、彼女は悟った。今ここで何を言っても、もう無駄なのだと。渚は言い訳をしようとしたが、竜之介の表情を見て、言葉に詰まってしまった。竜之介は、ただ静かにそこに立っていた。最初に込み上げた激しい怒りが潮のように引くと、不思議なほどの静けさが心に残った。そうだ、自分は騙されていた。渚に手のひらの上で転がされ、どこからどう見てもただの馬鹿だったのだ。その事実は、本来なら彼を怒りで我を忘れさせるはずだった。しかしその瞬間、もっと強い感情がすべてを飲み込んでいた。それは、安堵の気持ちだった。真実がこれほどあからさまに目の前に示されたことに安堵した。まだ引き返せるうちに、すべてを知ることができた。そして何より、静かに自分の帰りを待っていたあの人を、まだ完全には裏切っていなかったことに安堵した。長年の葛藤や未練、割り切れずに抱えてきた複雑な想いが、この瞬間にすべて消え去った。まるで、ずっと強く握りしめていた砂のようだ。手を開いてみれば、ほとんど残っていなかったことに気づく、そんな感覚だった。竜之介は最後に渚を一瞥した。その視線は、まるで赤の他人を見るかのようだった。「渚」彼の声は静かだったが、すべてに決着をつけるような響きがあった。「もう、終わりにしよう。二度と連絡してくるな」そう言い残すと、竜之介は身を翻して自分の車に向かい、二度と振り返らなかった。朝日が霧を貫き、彼の背中を長く長く映し出していた。家路につく車の中で、これまでの出来事が竜之介の胸に潮のように押し寄せてきた。渚のため、自分は何度も、何度も梨花を後回しにしてきた。パーティーでは、渚の手を引いて挨拶回りをする自分のかたわらで、梨花は一人寂しく会場を去った。渚の引っ越しを手伝うため、梨花との食事の約
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第14話

片道のチケット。その言葉は、竜之介の胸に冷たい手で押し付けられたかのように突き刺さり、呼吸すら苦しくさせた。画面に表示された短いフライト情報は、彼のぼんやりとした不安を確かな恐怖へと変えてしまった。梨花は、戻ってくるつもりがないのだ。「西村さん」竜之介は込み上げてくる感情をなんとか飲み込み、いつもよりずっと低い声で言った。「今すぐY市行きの飛行機のチケットを一枚予約してくれ」そして一瞬の間をおいて、「できるだけ早く」と付け加えた。「かしこまりました。すぐに手配いたします」慎也は素早く応じたが、電話はなかなか切れなかった。静かなリビングに、通話の電子音がやけに耳障りに響く。何かを言い淀むような気配が、空気中に張り詰めていた。竜之介は眉間にしわを寄せた。「他に何か?」慎也は深く息を吸い込んだ。まるで意を決したかのように、いつもより慎重に、声を潜めて言った。「旦那様、出過ぎたことを申し上げるのをお許しください。ただ……」一瞬言葉を止め、彼は慎重に続けた。「今、奥様を追いかけることをそんなにも急いでいるのを見ると、奥様のことをとても大切に思っていらっしゃるのがよくわかります。それなのに、奥様の方から結婚式の中止を申し出られた時、どうして……同意されたんですか?」「結婚式の……中止?」竜之介の指がこめかみで固まった。声には明らかな戸惑いが滲んでいた。「何のことだ?結婚式の中止って」電話の向こうの慎也は、明らかに言葉を失っていた。短い沈黙が、信じられないという驚きを物語っていた。「旦那様、ご存じなかったのですか?奥様のほうから、1週間も前に、結婚式の準備をすべて取りやめるようにと連絡がございました。式場やホテル、ドレスの仕立てなど、すべて契約を破棄しております」竜之介の耳の奥で「キーン」という音が鳴り響いた。書斎のエアコンから送られてくる暖かい風が、急に骨まで凍みるような冷たさに感じられた。彼は口を開いたが、何の音も発することができなかった。「奥様は……旦那様にご相談なさらなかったのですか?」慎也の言葉は、とても慎重だった。「その時、奥様はメールで、二人で話し合って決めたことだと実家のほうへ正式に通知されたのです。私どもはてっきり……」二人で決めたこと?竜之介の心臓が跳ね上がった。まるで、遅れてやっ
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第15話

梨花は竜之介の冷たい視線に耐えかね、ついに渚に「ごめんなさい」と小さくつぶやいた。その瞬間、彼女は最後のプライドまで、自分の手で捨ててしまったような気持ちになった。それ以上何も言わず、梨花は背を向けると、まっすぐ空港へ向かった。今度こそ、本当のお別れだった。Y市に着陸したとき、空は白み始めていた。空港の大きなガラス張りの壁に、少し疲れた様子の彼女の姿が映る。スーツケースを押して出口に向かい、制限エリアを出るか出ないかのところで、遠くに見慣れた二つの人影を見つけた。梨花の母親・二宮莉子(にのみや りこ)は、真っ白なユリと淡い紫色のキキョウの大きな花束を抱え、父親・二宮康弘(にのみや やすひろ)は首を長くして、心配そうにこちらをうかがっていた。視線が合った瞬間、梨花がずっと張りつめていた気持ちの糸が、ぷつりと切れた。涙が堰を切ったように次々とこぼれ落ちた。彼女はスーツケースから手を放し、両腕を広げて待つ両親の胸に、駆け寄るように飛び込んだ。「お父さん、お母さん……ただいま」梨花は莉子の肩に顔をうずめ、声を震わせていた。莉子は慌てて彼女を抱きしめ、心配のあまり目を赤くした。「おかえり、よく帰ってきたね」康弘は梨花のスーツケースをさっと受け取ると、カートに乗せた。「こんなところで立ち話もなんだ。さあ、帰ろう。お母さんは、君が帰ってくるって聞いてから、この数日、ずっとどんな料理を作ろうか考えてたんだぞ」莉子は夫を軽く睨みながらも、嬉しそうに娘の腕を組んだ。「お父さんの話はいいから。あなたの好物ばっかりよ。豚の角煮はとろとろになるまで煮込んであるし、お鍋も用意してあるから、あなたが帰ってきてからお野菜を入れるだけでいいの」車が古い街並みに入ると、窓の外を見慣れた景色が流れていった。梨花は母親の肩にもたれかかり、ほとんど変わらない建物や街路樹を眺めていた。高ぶっていた気持ちは次第に落ち着き、安らぎが心に満ちてくる。家の中は、昔のままだった。窓はきれいに磨かれている。ベランダの植物はいきいきとしていて、リビングのソファーには、彼女が高校生のときに選んだ花柄のカバーがかけられていた。ダイニングテーブルには、湯気の立つ料理がずらりと並んでいた。こってりとした味付けは、小さい頃から慣れ親しんだ味だ。食事はゆっくりと進んだ。両
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第16話

まさか、竜之介がここまで追いかけてくるなんて、梨花は思ってもみなかった。竜之介は花屋の前で立ち止まった。息は少し荒く、襟元はじっとりと濡れている。まるで一瞬でも見逃すまいとするかのように、梨花をじっと見つめていた。「どうしてここに?渚と一緒じゃなかったの?」梨花は思わず一歩後ずさった。その声には驚きと、かすかな警戒が混じっていた。そんなことを口にした自分に、梨花は馬鹿げていると感じ、苦々しい思いがこみ上げた。そんなこと、聞くまでもない、分かりきった事実のはずだったのに。しかし、竜之介は激しく首を横に振った。「違う……彼女じゃない」彼の声はひどく嗄れていて、必死な様子が痛々しいほどだった。「梨花、聞いてくれ。彼女じゃないんだ。俺はずっと間違っていた。とんでもない間違いをしていたんだ。君がいなくなって、別のことにも気づき、それでやっと分かった――」竜之介の喉仏が大きく上下した。まるで全身の力を振り絞るようにして、ずっと心の中にあったけれど一度も向き合わなかった言葉を、自分自身に、そして梨花の前にさらけ出した。「俺の心の中にいたのは、ずっと君だったんだ」竜之介は地面にひざまずき、両手を固く握りしめ、切実な眼差しで言った。「俺が悪かった。梨花、どうか……一緒に帰ってくれないか?」梨花は、充血した竜之介の瞳を見つめ、これまで何度も夢見た、しかし心が冷え切ってしまった後にようやく届いた告白を聞いた。胸の奥の痛みは和らぐどころか、さらに広がっていった。「竜之介」彼女は口を開いた。「さっきの話は、今の私にはもう何の意味もない。あなたの世界には仕事や責任があって、渚のこともあって、世間体だってある……私の気持ちだけが、いつも一番後回しで、一番どうでもいいことだったの。ねぇ、好きっていうのは、全部失ってから振り返った時に、隅っこに誰かがいたって気づくことじゃない。持っている時に、ちゃんとその人のことを見て、大切にすることよ」「今は見えてる!大切にする!」竜之介は追い詰められたようにかすれた声で叫んだ。「もう一度チャンスをくれ、梨花、誓うから……」「チャンス?」ずっと静かに梨花のそばに立っていた蓮が、ついに口を開いた。彼は竜之介の方を見ず、少し体を梨花に向けた。そして、冷たくなった梨花の手から、ぬるくなった牛乳のカップを
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第17話

蓮は竜之介には目もくれず、梨花の手を握って、優しく言った。「今日は休みを取って、二人で出かけよう。気分転換に」梨花は一瞬きょとんとした。手にしたハサミと、テーブルいっぱいの花束に目を落とす。すると、心の奥からじんわりと温かいものがこみ上げてきた。彼女はうなずいて、「ええ、行こう」と答えた。蓮は穏やかに微笑むと、梨花に傘を一本手渡した。「外は少し肌寒いから、体を冷やさないようにね」竜之介は、少し離れたところから二人の後をつけていた。その仲睦まじい様子を見ていると、胸が締め付けられるようだった。路地裏の角にある古いケヤキの木の下に、小さなアイスクリームのワゴンがあった。蓮は少し屈んで、色とりどりのアイスを指差しながら梨花に何かをささやいた。彼女は笑顔でうなずき、一つの色を指さした。すぐに、蓮の手には薄ピンク色のアイスクリームが握られていた。てっぺんには、砕いたナッツが散りばめられている。彼はまず、溶けかかっていた先端を一口味見した。それから、梨花の唇へと運んであげた。梨花はそっと一口食べた。冷たいクリームが口の端について、彼女は嬉しそうに目を細めた。蓮は微笑みながら、親指で梨花の口元のクリームを優しく拭ってあげた。そして、自分も一口食べた。二人は一つのアイスを分け合って食べた。とても甘い雰囲気だった。彼らが路地裏をゆっくりと歩いていると、突然、交差点から甲高いブレーキ音が聞こえてきた。前方から、一台の車が猛スピードで走ってきた。車体は少し傾いていて、そのまま交差点を渡ろうとしていた二人に、まっすぐ突っ込んできたのだ。あまりにも、一瞬の出来事だった。蓮は車が来る方向に背を向けていて、梨花のことだけをじっと見ていた。一方、車と向き合う形になっていた梨花は、視界の端でその車を捉えた。彼女の瞳が、きゅっと収縮する。後ろからついてきていた竜之介は、ぼんやりしていた。しかし、エンジンの音を聞いた瞬間、本能に突き動かされる。意識よりも先に、体が動いていたのだ。竜之介の頭の中は真っ白になった。ただ「危ない」という思いだけが、そこにあった。彼は梨花の方へ一直線に飛び出した。両腕を広げ、自分の体で彼女を完全に守ろうとしたのだ。「梨花――」しかし、竜之介の手が梨花の肩に触れる、その寸前だった。彼ははっきり
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第18話

救急車は、夕闇が迫る街の通りを、けたたましいサイレンを鳴らしながら走り抜けていく。その騒音で、竜之介の頭痛はさらに酷くなった。ストレッチャーに体を固定されて身動き一つできない。それなのに心の中では、消しようのない後悔の炎が燃え盛っていた。竜之介は救急車の中で涙を流した。渚の自傷を信じて、これまで何度も梨花を置き去りにしてきたからだ。今になって初めて、彼は梨花の苦しみをはっきりと理解した。渚からの曖昧な電話一本で、梨花の誕生日パーティーを途中で抜け出したこともあった。渚が、「急にめまいがした」と言えば、梨花を映画館の前で終演まで一人で待たせたこともあった。そして渚のせいで、結婚式をめちゃくちゃにし、梨花を街中の笑いものにしてしまった……過去の光景が、抑えようもなく次々と思い浮かぶ。自分が背を向けて去るたび、梨花が一瞬見せた呆然とした表情と、そのあと必死で平静を装う姿。その一つ一つが、残酷なほどはっきりと脳裏に焼き付いていた。これまでだって、全く気づいていなかったわけじゃない。ただ、「彼女は物分かりがいいから」、「きっと理解してくれる」、「埋め合わせは後でしよう」など、そんな都合のいい言い訳で自分をごまかしてきただけだ。今、猛スピードで走る救急車に一人で放り込まれ、見捨てられて痛みと不安に一人で向き合う気持ちを味わって、初めてわかったんだ。目の前で梨花が危険を顧みず別の人に駆け寄り、重傷を負った自分が助けを求めても、平然と背を向けられて、竜之介は、彼女が味わってきた苦しみを初めて身をもって理解した。これだったのか。梨花がこれまで何度も一人で耐えてきた悲しみは。心が、こんなにも痛むものだったなんて。静かに涙が溢れ出し、竜之介のこめかみを濡らした。……手術は無事に終わった。竜之介は額を数針縫い、左足のすねの骨折でギプスをはめられた。体中にも打撲があり安静が必要だったが、命に別状はない。深刻な後遺症が残る心配もなく、しばらく入院して様子を見ればいいと医師から説明された。その知らせは梨花の耳にも届き、彼女の胸はかすかに痛んだ。長年の知り合いだし、今回の怪我に自分も少なからず関係している。そう考えると、竜之介を完全に無視することはできなかった。それで、翌日の午後、彼女は一人で病室を訪れた。手には地味な保温ポットを提げてい
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第19話

日が暮れて、街の明かりが灯り始めた。梨花と蓮は本屋を出た時、二人はそれぞれ新しく選んだ本をいくつか手に持って、路地裏にある評判のいいレストランに向かおうとしていた。レストランへ続く路地に入ろうとした時、そばのクスノキの影から人影が一つ現れ、二人の行く手をふさいだ。竜之介だった。退院して間もないのだろう。街灯の下で見ても顔色は青白く、以前より少し痩せたように見えた。竜之介は、まっすぐ梨花を見つめた。それから、彼女の隣にいる蓮にさっと視線を移す。最後に、二人が自然に寄り添うその距離に目を落とした。彼の周りだけ、にぎやかな街の空気とはまるで違う、張り詰めた執念のようなものが漂っていた。「梨花」竜之介の声は少し掠れていた。「少し、話がしたい」梨花は足を止めた。楽しそうだった笑顔は一瞬で消え、眉をひそめる。そして、思わず蓮のそばに身を寄せた。そのささいな、蓮を頼るような仕草が、一本の棘のように竜之介の目に突き刺さった。蓮は、竜之介が現れるのとほぼ同時に、さりげなく立ち位置を変えた。そして、梨花を自分の後ろへ、よりしっかりと庇うようにした。「松井さん」梨花の声は、夜風の中で少し冷たく響いた。「私たち、もう話すことは何もないと思う。道を空けてください。これから食事に行くので」「話すことはない、だと?」竜之介は彼女の後半の言葉が聞こえなかったかのようだった。杖で地面を軽くつき、半歩だけ距離を詰める。その視線は熱を帯びている。「梨花、俺が以前、とんでもない間違いを犯していたことはわかっている!ちゃんと見たんだ、全て理解したんだ!今すぐ許してくれとは言わない。でも、せめて……せめて償うチャンスを、もう一度やり直すチャンスをくれないか!」その時、蓮が少し前に出た。梨花の前に完全に立ちはだかり、竜之介の視線を遮った。彼は竜之介より背が高かった。丁寧でありながらも、どこか突き放したような口調で言った。「松井さん、梨花はもう、自分の気持ちをはっきりと伝えました。あなたは今、ここで彼女の生活を邪魔することではなく、静養することが必要なのではありませんか?」「俺と彼女のことに、部外者が口を出すな!」竜之介は、カッとなって声を荒げた。杖を地面に強く突き立て、ナイフのような鋭い視線を蓮に向ける。「お前に俺たちの何がわかる?俺たちが
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第20話

いつもと変わらない、ある日の夕方。花屋に、急ぎで必要な結婚式の花束の注文が入り、一時的に、いくつかの特別な花材が不足してしまった。ちょうど蓮の本屋は月に一度の棚卸しで、手が離せなかった。梨花はスマホの地図で調べて、一人で原付バイクに乗って郊外の花の卸売市場へ向かった。卸売市場は梨花が思っていたよりも遠かった。帰り道はもう薄暗くなっていて、バイクのカゴには花材の入った箱がいくつか積んであった。人気のない道を走っていると、後ろから灰色のワゴン車が急にスピードを上げてきた。そして、梨花の原付バイクにぴったりくっつくようにして追い上げてきた。梨花はドキッとして、とっさに右側によけて避けようとした。でも、ワゴン車も同じ方向へぐいっとハンドルを切ってきた。原付バイクは無理やり道端に追いやられ、コントロールを失ってふらついた。危うくガードレールにぶつかるところで、なんとか止まった。梨花がほっと息をつく間もなく、ワゴン車の助手席と後ろのドアが同時に開いた。薄汚れたジャンパーを着た、怪しい目つきの男が二人飛び出してくる。その顔は冷たく、無表情だった。「何する――」言葉を言い終わる前に、腕を強く掴まれて、無理やり後ろに引きずられた。「離して!助けて!」梨花は叫びながらもがいた。カゴに入れていた花は地面に散らばり、男たちに踏みつけられて粉々になった。もみくちゃになる中で、ポケットからスマホが落ちた。バキッと音を立てて砕け、画面は真っ暗になった。男たちは梨花を乱暴にワゴン車の後ろに押し込んだ。車内は蒸し暑く、タバコと汗の匂いが混じり合っていた。ドアが乱暴に閉められ、彼女の最後の叫び声は夜の闇に吸い込まれて消えた。後には、散乱した花びらと画面の割れたスマホだけが、寂しく道端に残されていた。梨花が再び意識を取り戻したとき、目に映ったのは頭上で揺れる薄暗い電球だった。その光が、ペンキの剥げ落ちたボロボロの壁を照らしていた。どうやら、廃墟になった倉庫のようだ。そして、彼女の向かいに、誰かが座っていた。チカチカと点滅する光が、その顔を不気味に浮かび上がらせる。げっそりと痩せた輪郭、血の気のない肌、影に食い尽くされたかのように深く落ち窪んだ目。かつては優しげで整っていた顔立ちは、今では狂気と執念に歪んで、もはや
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