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長い霧の先に、夜明けの光

長い霧の先に、夜明けの光

By:  梨花Completed
Language: Japanese
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二宮梨花(にのみや りか)は、松井竜之介(まつい りゅうのすけ)にまる5年も片思いをしていた。 彼のために、故郷から遠く離れたこの街に残ることを決めたのだ。 竜之介の婚約者が婚約パーティー当日に逃げだすと、梨花は迷うことなく前に出て、その婚約の証である指輪を受け取った。 竜之介が自分を愛していないことなんて、梨花はとっくに分かっていた。 結婚式の当日、藤井渚(ふじい なぎさ)が、「胸が苦しいの」と一言つぶやいただけで、竜之介は梨花を置き去りにし、渚のもとへ駆けつけた。 周りの誰もが梨花を笑った。竜之介という大木にしがみつく惨めな蔦のようだ、いつまでも目が覚めない愚か者だ、と。 彼女自身でさえ、かつてはそう信じて疑わなかった。 けれど、どんなに深い想いも、無視され、冷たくあしらわれ、何度も後回しにされ続ければ、いつか静かにすり減って、消えてしまうものだ。 そして、竜之介がようやく梨花を振り返ったときには、かつて、ありったけの愛で彼のそばにいてくれたあの女の子は、もう遠くへ去ってしまっていて、二度と振り返ることはなかった。

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Chapter 1

第1話

「お母さん……私、結婚しない」

破れたウェディングドレスの隙間から夜風が吹き込む。二宮梨花(にのみや りか)は裸足で誰もいない通りを歩いていた。ドレスの裾はほこりを引きずっている。

電話の向こうは一瞬黙り込み、信じられないというように声が震えていた。「どうしてなの?竜之介さんのこと、5年も好きだったんでしょ。あの子じゃないとダメなんだって、私たちの言うことも聞かずに、一人で家を飛び出して遠い街まで行ったのに。

竜之介さんに何かひどいことでもされたの?」

梨花は言葉に詰まり、涙がこらえきれずにこぼれ落ちた。

自分が間違っていた。両親の言うことを聞かなかったのが、間違いだった。

青春を、初恋の人のために結婚式から自分を置き去りにするような男に費やしてしまったのが、間違いだった。

幸い、結婚式は中止になって、まだ入籍もしていなかった。

「お母さん」梨花は冷たい空気を深く吸い込んだ。「こっちの事を片付けたら、来週には帰るから」

真夜中になって、彼女は松井竜之介(まつい りゅうのすけ)との家に帰り、荷物をまとめ始めた。

竜之介が帰ってきたのは、翌日の朝だった。

彼は高級レストランのテイクアウトの朝食をダイニングテーブルに並べた。「胃が悪いのに、朝食を抜いたらダメだろう」

梨花は黙って竜之介を見つめた。

結婚式を控えて、彼女は不安で胃を痛めていたのだ。

最近、医師に薬を変えてもらったから、しばらく朝食は食べられないと、何度も竜之介に伝えていたのに。

彼はいつも「分かった」と頷くだけで、本気で聞いてはいなかった。

竜之介はいつもこうだった。一見すると優しくて、思いやりにあふれている。

でもその優しさは、まるでガラス越しみたいだった。見えているのに、そのぬくもりに触れることはできないのだ。

本当に心から気にかけてくれたことは一度もなかった。

今だってそうだ。リビングにスーツケースや荷物を詰めた段ボールが並んでいることに、彼はまったく気づいていない。

「昨日、結婚式の途中で俺が帰ったことで怒っているのは分かる」竜之介は落ち着いた様子で数歩近づいた。「でも、渚が急に病気になって、一人で海外から帰ってきたんだ。放っておくわけにはいかないだろう。

また日を改めて、もっと盛大な結婚式を挙げよう」

そう言うと、竜之介はウェディングプランナーに連絡しようとしたが、スマホの着信音に遮られた。

受話器の向こうから、かすかな泣き声が聞こえた。藤井渚(ふじい なぎさ)の弱々しくて甘えるような声だった。「竜之介、どこに行っちゃったの?

病院に一人でいるとすごく怖いの。傷もすごく痛くて……

会いに来てくれないかな?」

竜之介はとっさに背筋を伸ばした。「先生はなんて言ってる?他に具合が悪いところはないのか?」

電話の向こうは一瞬静かになったかと思うと、甘えたように笑った。「もう、何でもないのよ。ただ、あなたに会いたかっただけ。

あなたがいないと、心細くて」

竜之介は梨花を数秒見つめ、眉をひそめて少し迷った後、優しい声で言った。「すぐ行くよ」

電話を切ると、竜之介は無情に言い放った。「先に飯を食っててくれ。渚が俺を待ってる」

そう言って、竜之介は背を向けて出ていった。

梨花はその場に立ち尽くしたまま、まばたき一つしなかった。

かつては竜之介の言動に激しく揺れ動いた心も、度重なる失望で、とうとう何も感じなくなっていた。

結局のところ、竜之介がずっと愛していたのは渚だったのだ。

大学の入学式で、竜之介は新入生代表としてスピーチをした。原稿なしで、流暢に数か国語も操っていた。

その知的な雰囲気と落ち着いた声は、会場中の視線を独り占めにした。

人ごみの中に座っていた梨花は、壇上の輝く姿を見つめ、胸がときめいた。

しかし、竜之介が渚を狂おしいほど愛していることは、すぐに大学中の誰もが知ることになった。

彼は深夜のグラウンドで3000台のドローンを使い、渚に告白した。夜空が、まるで天の川のような光で埋め尽くされたのだ。

そして、渚のルームメイトだった梨花に、花やケーキを渚に届けてほしいと頼むことさえあった。

渚が誕生日は海外で過ごしたいと何気なく言っただけで、竜之介はプライベートジェットを手配し、自ら彼女に付き添って飛んだ。

学内の噂サイトは瞬く間に炎上し、梨花もちらほらと耳にする情報から、すべての真相を知った。

松井家と藤井家は、昔からの付き合いがある家柄だったのだ。

両家の親たちは、二人が生まれてまもなく、将来の結婚を決めていた。

周りから見れば、二人はお似合いのカップルだった。

だが、あの時の渚はその縁談に全く興味がなかった。彼女は梨花に何度もこっそり愚痴をこぼしていた。「まだ大学生になったばかりで、人生これからなのよ。結婚なんて、そんなもので縛られたくないわ」

冗談半分で梨花と竜之介をくっつけようとしたこともあったが、彼にきっぱりと断られてしまった。

卒業が近づくと、両家は婚約パーティーの準備を始めた。

しかし、渚は婚約パーティーの当日、何も言わずに海外へ飛び立ち、そのまま連絡が取れなくなった。

招待客とマスコミだけが、呆然と取り残された。

竜之介が渚のことで、本気で怒ったのは初めてのことだった。彼は梨花のところへ来ると、冷静な表情で言った。「渚は、俺たちが付き合えばいいって言ってたよな?

じゃあ、俺たち、付き合おう」

竜之介は少し間を置いて、残酷なほど理性的な言葉を付け加えた。

「君には好きという気持ちはない。でも、君を尊重するし、大人として責任も持つ。あいつみたいに、勝手にいなくなったりはしない」

梨花はしばらく呆然としていたが、それでも頷いた。

こうして彼女は、故郷から遠く離れたこの街に残り、この関係のために自分の居場所を作ったのだ。

結婚式の日取りが急に決まったため、両親は駆けつけることさえできなかった。

梨花は、竜之介のそばにいれば、いつか彼の心も動かせると信じていた。

だが、渚が帰ってきて、自分たちの結婚式を台無しにした。

竜之介は渚を怒ることもできず、むしろ全てを許していた。

そこで、梨花はやっと理解したのだ。

この人は、永遠に自分のことを見てくれない。

温まらない心は、もう手放すべきだ。

彼女はスマホを手に取り、竜之介にメッセージを送った。【もう結婚式を続ける必要はない】
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第1話
「お母さん……私、結婚しない」破れたウェディングドレスの隙間から夜風が吹き込む。二宮梨花(にのみや りか)は裸足で誰もいない通りを歩いていた。ドレスの裾はほこりを引きずっている。電話の向こうは一瞬黙り込み、信じられないというように声が震えていた。「どうしてなの?竜之介さんのこと、5年も好きだったんでしょ。あの子じゃないとダメなんだって、私たちの言うことも聞かずに、一人で家を飛び出して遠い街まで行ったのに。竜之介さんに何かひどいことでもされたの?」梨花は言葉に詰まり、涙がこらえきれずにこぼれ落ちた。自分が間違っていた。両親の言うことを聞かなかったのが、間違いだった。青春を、初恋の人のために結婚式から自分を置き去りにするような男に費やしてしまったのが、間違いだった。幸い、結婚式は中止になって、まだ入籍もしていなかった。「お母さん」梨花は冷たい空気を深く吸い込んだ。「こっちの事を片付けたら、来週には帰るから」真夜中になって、彼女は松井竜之介(まつい りゅうのすけ)との家に帰り、荷物をまとめ始めた。竜之介が帰ってきたのは、翌日の朝だった。彼は高級レストランのテイクアウトの朝食をダイニングテーブルに並べた。「胃が悪いのに、朝食を抜いたらダメだろう」梨花は黙って竜之介を見つめた。結婚式を控えて、彼女は不安で胃を痛めていたのだ。最近、医師に薬を変えてもらったから、しばらく朝食は食べられないと、何度も竜之介に伝えていたのに。彼はいつも「分かった」と頷くだけで、本気で聞いてはいなかった。竜之介はいつもこうだった。一見すると優しくて、思いやりにあふれている。でもその優しさは、まるでガラス越しみたいだった。見えているのに、そのぬくもりに触れることはできないのだ。本当に心から気にかけてくれたことは一度もなかった。今だってそうだ。リビングにスーツケースや荷物を詰めた段ボールが並んでいることに、彼はまったく気づいていない。「昨日、結婚式の途中で俺が帰ったことで怒っているのは分かる」竜之介は落ち着いた様子で数歩近づいた。「でも、渚が急に病気になって、一人で海外から帰ってきたんだ。放っておくわけにはいかないだろう。また日を改めて、もっと盛大な結婚式を挙げよう」そう言うと、竜之介はウェディングプランナーに連絡しよ
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第2話
竜之介からは、何の返事もなかった。暗くなるスマホの画面に、梨花のぼんやりとした輪郭が映った。彼女は口元に笑みを浮かべた。けれど、その笑みはまるで作り物のように、ひやりと冷たかった。そうよね。竜之介の頭の中は、渚のことでいっぱいなんだから。渚のためなら、会社の役員会からの緊急連絡だって後回しにするくらいだ。そんな彼が、自分のメッセージに目を向けるわけがない。あたりがすっかり暗くなった頃、執事の西村慎也(にしむら しんや)が部屋のドアを軽く叩き、着替えの時間だと告げた。今夜は、松井家の新しいプロジェクトに関わるパーティーがあり、女性同伴での出席が必要だった。梨花はすでに行く約束をしていた。ここを出て行く決心は固まっていたけど、松井家の仕事に影響は与えたくなかった。ヘアメイクを終え、梨花は一人でパーティー会場に着いた。すると、ずっと連絡を返さなかった竜之介が、ビシッとスーツを着こなし、渚の腰を抱いて他の招待客と談笑しているのが見えた。さらに目を引いたのは、彼のネクタイが渚のドレスと同じ色だったことだ。明らかに、前もって二人で合わせたのだろう。渚は梨花の方を見ると、ゆっくりと竜之介の肩に寄りかかり、顔を傾けて彼の頬に軽くキスをした。そして、梨花に目をやると、勝ち誇ったように片眉をくいっと上げた。その瞳は、針の先のように鋭かった。その視線が、梨花の心に残っていた最後のぬくもりさえも、完全に消し去ってしまった。梨花が背を向けて立ち去ろうとすると、予想外のことにも竜之介がまっすぐ梨花の方へ歩いてきた。「どうして来たんだ?来る途中、寒くなかったか?」言いながら、彼はスーツの上着を脱ぐと、有無を言わさず梨花の肩にかけた。「今夜は酒を飲むことになる。君にそんな辛い思いはさせたくないんだ」梨花は固まった。一瞬、何かに強く心を打たれたような気がした。突然、昔の記憶が蘇ってきた。二人が付き合い始めたばかりの頃、ちょうど大学を卒業して社会人になったばかりだった。まるで、航海図もないまま大海原に放り出された小舟のようだった。竜之介の両親は、非常に重要だけれど難しいプロジェクトを意図的に自分たちに任せ、交渉するように言った。会食の席で、取引先は何度も杯を上げてお酒を強要してきた。竜之介は胃が弱く、とても飲める状
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第3話
週末。実家に帰るまで、あと5日。梨花は荷造りを終えた。ただ、竜之介との思い出の品だけは、どうすればいいか分からなかった。それで、とりあえず玄関に置いておいた。お昼になると、松井家の親戚がいつものように食事会にやってきた。竜之介の母親・松井智子(まつい ともこ)が玄関にあった箱を手に取ると、興味津々で中を覗き込んだ。「これ、何?」松井家の親戚たちは、梨花のことが良く思っていなかった。彼らにとって、竜之介の嫁にふさわしいのは、昔からよく知っている渚のはずだ。家柄も釣り合っていたからだ。梨花の気持ちなんてお構いなしに、智子は箱の中の日記を開いて読み上げはじめた。「2020年9月3日、晴れ。入学式。彼は光の中に立っていた。白いシャツの袖を、無造作にまくって。その時、『まぶしい』っていう言葉の意味が、初めてわかった気がした。彼の名前は松井竜之介。名前まで、カッコいい。2020年9月15日、雨。彼が渚を好きだって噂を耳にした。学校の掲示板には、二人の仲睦まじいエピソードが溢れていて、胸が苦しくなる。でも、それ以上に、お似合いの二人だから仕方ないって、無力感に襲われた。2021年3月20日、曇り。渚が教えてくれた。子供のころ、親同士が冗談で婚約みたいな話をしたことがあるんだって。彼女は私の腕を組んで、笑いながら言った。『竜之介のこと好きなの?アタックしてみなよ。あんな冗談、本気にしなくていいから』って。私は首を横に振った。二人を裏切るなんてできない。それに、私が彼を追いかけたって、勝ち目なんてないから。2024年6月30日、雨のち晴れ。渚がいなくなった。婚約パーティーの当日、何も言わずに。彼はたくさんお酒を飲んで、私を見ていた。目が怖いくらい真っ赤で、『俺と一緒になるか』って聞いてきた。私は『うん』って答えた。彼が私を愛していないのは分かってる。でも、その時、思ったんだ。どんなに冷たい人だって、いつかは私を好きになってくれるかもしれないって」竜之介は、母親が読み上げるその日記に耳を疑った。そして、思わず梨花のほうに視線を向けた。この女のことを、彼が初めて、本当の意味で真剣に見つめた瞬間だった。まさか、彼女が本当に自分のことを好きだったなんて。竜之介は、梨花が玉の輿狙いで自分と結婚したのだとばかり思っていた
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第4話
梨花は顔を上げた。表情は、まったく動かなかった。「衣替えよ」彼女は静かに、まるで何でもないことを話すかのように言った。「クリーニングに出すものもあるし、いくつかはクローゼットの中を整理しないと。だから早めに片付けてるの」その口調は落ち着いていて、冷静すぎるほどだった。でも、それがかえって奇妙な不安をかきたてた。竜之介は梨花をじっと見つめた。胸のざわめきが、どんどん大きくなっていく。でも、彼女が嘘をつく理由が見当たらなかった。沈黙の中、梨花は立ち上がり、棚から薄い色の箱を一つ取り出した。彼女は、その箱をリビングの低い棚の上に置いた。「はい、これ」と梨花は言った。竜之介はきょとんとした。「何だ?」「胃にいいお茶よ。あなたは昔から胃が弱いでしょ。接待も多いし、夜更かしもするから。たまに胃が痛くなったり、もたれたりしても、また我慢するんじゃないかと思って。このお茶、あなたが嫌いな酸味はないわ。日中コーヒーを飲む習慣にも影響しないはず。面倒なら、一日一袋だけでもいいからね」彼女は少し間を置いて、静かに言った。「これからは、誰も注意してあげられないんだから。自分のことは、ちゃんとしなきゃだめよ」竜之介は俯いてそのお茶の箱を見ていた。最後の言葉はよく聞き取れなかったけど、心の奥が何か細いもので、そっと引っかかれたような気がした。彼は顔を上げて、いつもの癖で梨花を抱き寄せようと手を伸ばした。でも、彼女は、ただ少しだけ体を横に向け、その手を避けた。空気が固まった瞬間、カチャリとドアが開く音がした。渚が、小さなハンドバッグを手に、ハイヒールの音を響かせて入ってきた。「あら、奇遇ね。帰国してから、まだちゃんとみんなで集まれてないなって思ってたの」彼女は室内の張り詰めた空気には全く気づいていないかのように、竜之介と梨花の間で軽やかに視線を動かした。「ちょうどよかったわ。今日は竜之介に引っ越しを手伝ってもらったの。そのお礼にご飯おごるわね」渚は有無を言わせず、二人をしゃぶしゃぶ屋に連れて行った。「これが私のお気に入りのタレよ。二人も食べてみて」梨花は俯き、目の前に差し出されたタレの入った器に視線を落とした。色合いも、配合も、ネギの添え方まで。すべてが、竜之介がいつも自分のために作ってくれるものと、全く同じだった。
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第5話
再び目を開けると、耳元からはピッ、ピッという電子音が聞こえ、頭には厚い包帯が巻かれていた。梨花が体を起こすと、ベッドの傍に竜之介が座っているのが視界の隅に入った。彼は心配そうに眉をひそめていた。「目が覚めたか?」竜之介の声はぎこちなかった。「どこか具合が悪いところがあったら、言ってくれ。火傷のところはまだ痛いか?看護師を呼んで薬を交換してもらおうか。先生はたいしたことないから、2日ほど様子見で入院すればいいと言っていた」竜之介は言葉を選ぶように付け加えた。「傷が治った後も、毎日ちゃんと塗り薬を使えば、跡は残らないそうだ。よく眠れたか?枕、調整しようか?」梨花は彼をちらりと見やり、ただ「大丈夫」とだけ答えた。「ちょっと外に出ててくれない?まだ疲れてるから、もう少し眠りたい。あなたがいたら、気になって休めないから」竜之介は喉を上下させ、言いかけた言葉を飲み込んだ。彼は、梨花が再び目を閉じるのを見届けると、黙って立ち上がり、ゆっくりと病室を出ていった。病室は、再び静寂に包まれた。梨花は目を開けて窓の外を眺めた。その心は、まるで凍りついたように静かだった。けれど、その静寂は長くは続かなかった。10分ほど経った頃、病室のドアが再びそっと開かれた。戻ってきたのは竜之介だった。その手には、保温ジャーが握られていた。蓋を開けると、湯気とともに料理のやさしい香りがふわりと広がった。「山下さんに頼んで、わざわざ病人食を作ってもらったんだ。栄養があって消化に良いものなら、山下さんが一番詳しいからな」竜之介はスプーンで一口すくうと、フーフーと息を吹きかけて冷ましてから、梨花の唇へと運んだ。「少しでもいいから食べて。体力をつけないと、傷の治りも遅くなる」彼女も確かに空腹を感じていたので、黙って口を開き、それを受け入れた。まさにその時、病室のドアが突然、勢いよく開かれた。ドアの前に立っていたのは、瑞々しいシャンパンローズの大きな花束を抱えた渚だった。室内の光景を目にした瞬間、彼女の顔から笑みが消え、凍りついた。次の瞬間、ポロポロと涙がこぼれ落ちてきた。バサッという音と共に、力の抜けた手から花束が滑り落ちる。床に叩きつけられ、花びらが辺りに散らばった。その音に、ベッドのそばにいた二人ははっとした。
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第6話
看護師の言葉が終わるか終わらないかのうちに、廊下の奥から突然叫び声が響き渡った。「道を開けてください!患者さんは出血が止まりません!」梨花の心臓がどきりと跳ね、彼女は無意識に病室を飛び出した。ストレッチャーが猛スピードで通り過ぎていく。床には点々と血の跡が続き、それは目に焼き付くほど鮮烈だった。竜之介はストレッチャーに付き添うように走りながら、いつもの冷静さをすっかりなくして、震える声で言った。「渚、しっかりしろ!頼むから目を開けて俺を見てくれ。いいな?これからはなんでも君の言うことを聞くから。頼むから、俺を怖がらせないでくれ……」手術室のドアが、バタンと閉まった。竜之介は魂が抜かれたようにその場に立ち尽くし、息を切らしていた。次の瞬間、彼は自分を抑えきれなくなったように、壁に頭を打ちつけた。「渚にもしものことがあったら、俺は絶対に自分を許さない!」ゴツン、と鈍い音が響き、竜之介の額はみるみる赤く腫れ上がった。それでも彼は無意識にスマホを取り出し、電話をかけると、怒鳴るように命令した。「すぐに国内で最高レベルの外科医と麻酔科医を!血液も!全てだ!全て手配しろ!」すぐにまた別の番号にかける。画面には「福田先生」と表示されていた。福田啓太(ふくだ けいた)。国内の外科の権威だ。1年中、手術と国際会議で世界を飛び回り、普通の人が彼の執刀を待つには3年はかかると言われている。相手が電話に出るか出ないかのうちに、竜之介は焦って口を開いた。「福田先生、松井です。渚が、渚が危ないんです!どうか彼女の手術をしてください。条件は何でも飲みますから!」相手は一瞬ためらってから言った。「いまW市で研修医への公開手術をしている最中でしてね。今夜中にそちらへ向かうことはできません」竜之介は、みるみるうちに目に涙をためて言った。「あの『C193インビジブル神経モデリングシステム』を差し上げます!ですから、どうか来てください」梨花の心臓が、きゅっと縮んだ。あれは松井グループが100億円もの開発費をかけた、まだ製品化されていない基幹技術だ。その一部でも公開すれば、世界の医療界が喉から手が出るほど欲しがる代物だ。電話の向こうの声は、ついに折れたようだった。「わかりました。すぐに出発します」竜之介は低く、「ありがとうございます
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第7話
数時間後、渚が手術室から出てきた。顔は血の気がなく真っ青で、目は固く閉じて眠っていた。竜之介はすぐさま立ち上がると、ストレッチャーのそばへ駆け寄り、彼女から一瞬も目を離さなかった。執刀医の啓太がマスクを外す。少し疲れた顔で竜之介に頷いた。「ご安心ください。間に合いましたから。しばらく安静にしていれば大丈夫です」事情を知っているらしい周りの医師や看護師たちは、ちらちらと梨花の方へ同情に満ちた視線を送った。昼になり、竜之介は梨花に言った。「病院食じゃ栄養が足りないから。家に帰って山下さんの手料理を渚に届けてくれ」それはあまりにも当然といった命令口調で、梨花の方を見ようともしなかった。梨花は何も言わず、背を向けてその場を去った。ずっしりと重い保温ジャーを手に病室へ戻ると、ドアは少しだけ開いていた。中からは物音ひとつしなかった。竜之介の姿はなかった。ドアを開けようとした梨花は、その隙間から、信じられない光景を目の当たりにする。渚はベッドにもたれかかり、啓太が身を乗り出して彼女のそばに寄り添った。二人は互いを求めるように、深くキスを交わしている。二人の間には甘く熱い空気が流れていて、とても手術を終えたばかりの患者とは思えなかった。しばらく衣擦れの音がして、渚は甘えるように笑いながら、得意げに言った。「啓太さん、やっぱりあなたのやり方は一番ね。他の先生だったら、私が怪我したふりをしてるってすぐ見抜かれちゃうもの」啓太は低く笑った。「まったく。あの男の気を引くために頑張ったんだな。でも、もうこんなことはするなよ。俺が心配するから」「梨花?どうしてドアの前に立ってるんだ?入らないのか?」竜之介の声が背後から聞こえた。彼は梨花に近づくと、その手から保温ジャーを受け取った。ドアを開けると、病室の中にいた二人はとっくに離れていて、何事もなかったかのように振る舞っていた。竜之介は室内の微妙な雰囲気に気づいていないようだ。彼はスープを小皿によそい、ベッドのそばに腰を下ろした。そして穏やかで優しい声で、渚に語りかける。「渚、少しでもいいから飲んで。山下さんがじっくり煮込んでくれたんだ。体にいいから」目の前の光景を見ていた梨花は、どうしようもない無力感に襲われた。思わず口を開く。「竜之介、あなたは知らないの。渚の怪我は、嘘な
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第8話
スマホの画面には、明日出発のフライト情報が表示されている。その夜、梨花は、最後の荷造りをするために、かつて「家」だった場所に戻ってきた。荷造りはほとんど終わっていた。残っていたこまごました物も、スーツケースの隅に詰め込んでいく。ウェディング写真や、結婚指輪。それに、一度しか袖を通さなかったウェディングドレスも。思い出の品は、何もかも捨ててしまった。最後に、梨花はリビングの真ん中に立ち、部屋をぐるりと見渡した。ここは、竜之介からプロポーズされた後、希望に胸を膨らませながら、自分で少しずつ作り上げてきた家だった。壁の色は、何軒もお店を回って選んだこだわりのウォームグレー。ソファは、二人で寄り添って映画を観られるように、少し大きめのものにした。食器の並べ方一つにも、これから始まる温かい毎日を想像していた。この部屋には、結婚や家庭に対する、自分のささやかで、そして情熱的な夢のすべてが詰まっていたのだ。でも、もうそんなものは必要ない。翌日、空が白み始めた頃。梨花は最後のスーツケースに荷物を詰め終わり、予約していた車が時間通りに到着し、家の前で待っていた。スマホが震え、画面に「竜之介」の名前が浮かび上がった。「梨花か」電話の向こうの声は、冷たくかすれていた。「すぐに病院へ来い。昨晩のことで、渚の傷が開いてしまった。一晩中、熱も下がらず、今も精神的に不安定だ。直接謝って、彼女から許しをもらえ」電話の向こうから、渚のか細い泣き声がかすかに聞こえてくる。梨花は、思わず指を強く握りしめた。でも、その心は荒野のように静まり返り、何の感情も湧いてこなかった。「わかったわ」どうせこれが最後だ。かつて竜之介に恋い焦がれていた、過去の自分のために、渚に謝ってこよう。「運転手さん、すみません。先に病院へ寄ってください」病室に入ると、渚は腕に新しい包帯を巻かれていた。顔は血の気がなく、真っ青だった。そばには啓太と看護師もいて、みんなの視線が梨花に突き刺さった。探るような、そして責めるような視線だった。梨花は感情を込めずに言った。「藤井さん、昨夜は私のせいで怖い思いをさせてしまって、本当にごめんなさい」その時、竜之介は前触れもなく足を上げ、彼女の膝の裏を蹴り上げた。不意を突かれた梨花は、前のめりによろけて、
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第9話
「竜之介、何をぼーっと見てるの?」渚は、竜之介の目の前でそっと手を振った。彼ははっと我に返り、心の中でくだらない考えを振り払った。梨花が自分から離れていくなんてありえない。絶対にだ。「なんでもない」竜之介は視線を逸らし、声を潜めた。「どうしたら君が早く元気になるか、それを考えていただけだ」渚は唇を噛んだ。嘘つき。さっきまで、彼は明らかに梨花の後ろ姿に見とれていた。彼女が姿を消したことにも気づかないくらいに。もしかして……竜之介は本気で梨花に心を奪われたの?竜之介は軽く咳をすると、上着を渚の肩にかけてやった。「今日は天気がいい。下の中庭でも散歩しよう。その方が早く良くなる」彼は病院で借りてきた車椅子を押し、渚を下の花壇までそっと連れていった。庭にはたくさんの花が咲き誇っていた。渚は竜之介に、バラの茂みのそばで車椅子を停めるよう頼んだ。彼女は少し身を乗り出し、咲きかけのピンクのバラに顔を寄せた。そして、目を閉じて香りを楽しみ、しばらくしてから静かに口を開いた。「覚えてるの?子供の頃、母が怪我で入院した時のこと。私は花壇の隅で泣いていたら、あなたがこっそりバラを一本折ってくれたでしょ」竜之介の表情が、わずかに揺れた。当時、渚の母親が入院していて、松井家と藤井家は昔からの知り合いだった。だから、母はよく自分を連れてお見舞いに来ていた。自分はちょうど、渚が花壇のそばでしゃがみこみ、肩を震わせて泣いているところに出くわした。どうしていいか分からず、自分は慌てて塀の隅で一番きれいに咲いていたバラを一本折ると、おそるおそる彼女の目の前に差し出した。「覚えてるよ」彼は静かに答えた。渚は竜之介を見上げた。その瞳には、さまざまな感情が揺れていた。しばらくして、彼女は呼びかけた。「竜之介……」「竜之介、こんなところにいたのね」突然の声が、渚の言葉を遮った。二人が振り返ると、庭の小道の向こうから、竜之介の両親がゆっくりと歩いてくるのが見えた。「おじさん、おばさん」渚はさっと表情を改め、静かに挨拶した。「入院したって聞いたから、お見舞いに来たのよ」智子はかすかに微笑んでいたが、その目はまったく笑っていなかった。以前は家柄も釣り合い、お互い幼馴染だった。それに、竜之介が渚を好きだったこともあっ
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第10話
「もう、終わったことなの?」智子は静かに言葉を遮った。彼女は息子の方へ向き直った。その眼差しには、隠しきれない疲労と失望が滲んでいる。「今日、あなたが渚を見る目……お母さんには、ちゃんと分かっているわよ」竜之介の父親・松井宗介(まつい そうすけ)も口を開いた。「竜之介、君はもう結婚したんだ。今の立場を考えれば、下手な噂を立てられるわけにはいかないだろう」竜之介も、両親が何を言いたいのかは分かっていた。彼は反論しようとしたが、いざ否定の言葉を口にしようとすると、何も言えなくなってしまった。彼はたしかに渚のことが諦めきれないのだ。それは単なる愛というわけではない。だが、愛以上に厄介で、どうにも割り切れない感情なのだ。まるで古傷に刺さった小さな棘のようで、普段は気にならないのに、少しでも動くと、じんわりとした痛みが広がる。彼女に対して、竜之介は言葉では説明できない想いを抱いていた。竜之介は幼い頃から、自分たちが結婚で結ばれることを知っていた。彼はごく自然に渚を将来の妻として捉え、当然のように彼女を好きになった。でも、渚はよりによって婚約パーティーの日に、大勢の招待客の前から姿を消してしまったのだ。竜之介は、いつか渚に再会する時が来たら、裏切られた憎しみしか残っていないだろうと思っていた。でも、いざ彼女が目の前に現れると、長年積み重ねてきた絆が、まだ心の奥で彼を引っぱっているのを感じた。今の自分は梨花と一緒なのだから、渚とははっきりと線を引かなければならない。そう分かっていた。だから「幼馴染」という都合のいい理由をつけて、何度も渚の面倒を見てしまうのだ。でも、彼女に一歩近づくたびに、心がぎゅっと締め付けられるようだった。これ以上進んではいけないと分かっているのに、どうしても前に進んでしまう。自分を抑えようとしても、結局は堪えきれないのだ。夜、一人静かになると、竜之介は時々、梨花の事を思い出した。その瞬間、罪悪感が突然目を覚ましたかのように込み上げてくる。胸が締め付けられ、息さえも苦しくなるほどだった。智子は、眉をひそめて黙り込む息子の姿を見て、とうとう声を和らげた。「お母さんはね、あなたを責めようと思ってこんな話をしているんじゃないのよ」彼女は少し間を置いて、諭すように言った。「でも、道はどちらか一つを選ば
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