LOGIN二宮梨花(にのみや りか)は、松井竜之介(まつい りゅうのすけ)にまる5年も片思いをしていた。 彼のために、故郷から遠く離れたこの街に残ることを決めたのだ。 竜之介の婚約者が婚約パーティー当日に逃げだすと、梨花は迷うことなく前に出て、その婚約の証である指輪を受け取った。 竜之介が自分を愛していないことなんて、梨花はとっくに分かっていた。 結婚式の当日、藤井渚(ふじい なぎさ)が、「胸が苦しいの」と一言つぶやいただけで、竜之介は梨花を置き去りにし、渚のもとへ駆けつけた。 周りの誰もが梨花を笑った。竜之介という大木にしがみつく惨めな蔦のようだ、いつまでも目が覚めない愚か者だ、と。 彼女自身でさえ、かつてはそう信じて疑わなかった。 けれど、どんなに深い想いも、無視され、冷たくあしらわれ、何度も後回しにされ続ければ、いつか静かにすり減って、消えてしまうものだ。 そして、竜之介がようやく梨花を振り返ったときには、かつて、ありったけの愛で彼のそばにいてくれたあの女の子は、もう遠くへ去ってしまっていて、二度と振り返ることはなかった。
View More2年後、ある春の日の夕暮れ。梨花は新しい家のベランダに立ち、ぬるめのハーブティーを手にしていた。この家はそんなに広くないけど、日当たりは最高だ。夕日がガラス戸から差し込んで、部屋をあたたかいオレンジ色に染めている。下の庭には、植えたばかりの桜の木がちらほらと花を咲かせ、風が吹くたびに、ふんわりと甘い香りが上がってくる。蓮が後ろからそっと梨花の腰を抱きしめ、顎を彼女の頭の上にのせた。「何、そんなにぼーっと見てるんだ?」「ううん」梨花は彼の体にそっともたれかかり、安心できるぬくもりを感じながら言った。「ただ、本当に春が来たんだなあって」梨花の声はとても穏やかで、気づかないほどの優しささえ含んでいた。でも蓮にはわかっていた。この穏やかさは、2年という長い時間をかけて、ようやく手に入れたものだということを。最初の数ヶ月は、まるで暗闇の中にいるようだった。梨花は数え切れないほどの夜、冷や汗をびっしょりかいて目を覚ました。ある時は銃声が、ある時は血の海が夢に出てきた。竜之介の最後のぼんやりとした眼差しや、渚の甲高い悲鳴が聞こえることもあった。梨花はすっかり口数が減り、大きな音や不意に体に触れられることにひどく怯えるようになった。でも幸い、蓮がいつもそばにいてくれて、根気よくカウンセリングにも付き添ってくれた。変化は、ごくわずかで、ゆっくりとしたものだった。きっかけは、梨花が再び絵筆を握り、暗い色ではないものを描けるようになったことかもしれない。あるいは、賑わうスーパーに足を運び、自分で新鮮な野菜を選べるようになったことかもしれない。それとも、ある朝、朝食の支度をする蓮の背中を見て、ふと、「今日はいい天気だね」とつぶやいた、その瞬間からだったのかもしれない。「梨花」「うん?」「旅行に行かないか?」……潮風が頬をなでる午後。真っ青な海がきらきらと柔らかく輝いていた。梨花は崖のふちにあるベンチに腰かけていた。眼下には、ずっと憧れていた海岸線が広がっている。太陽の光が髪や肩に降りそそぎ、少ししょっぱい潮風が波の香りを運んでくる。そのおかげで、彼女の心は久しぶりに穏やかだった。ゆっくりと蓮が隣にやってきた。その手には、小さな木箱が大事そうに抱えられている。彼の表情はいつも通り優しかったけど、その瞳には見慣れた
竜之介は手術室に緊急搬送された。左胸を貫通した弾丸は、主要な臓器と血管を引き裂いていた。医師や看護師が懸命に処置を施したが、モニターの数値は急激に下がっていく一方だった。手術室から運び出された竜之介は、意識が暗闇に沈む最後の瞬間に、ぼやけていた視界が不思議と重なり合い、なんとか焦点を結んだ。その視線の先には、蓮にしっかりと抱きかかえられている梨花の姿があった。梨花は顔から血の気を失い、こらえきれない涙が頬の土埃と血を洗い流していた。体は小刻みに震えているのに、その視線だけは、じっと自分に向けられていた。かつてはよく知っていたはずの、今は涙で潤むその瞳が、次第に色を失っていく竜之介の世界の中で、最後の揺らめく光となった。竜之介の乾いた唇がかすかに動き、胸の奥から最後の息を絞り出して、何か言葉を紡ごうとしているかのようだった。これまでの全てを謝りたかったのかもしれない。「泣かないで」と不器用に慰めたかったのかもしれない。それともただ、シンプルに「梨花」と、その名前を呼びたかっただけなのかもしれない。だが、彼の口から言葉が発せられることはなかった。口にできなかった想いも、もつれ続けた愛憎も、骨身に染みる過ちと後悔も、その全てが、ただ一つの軽やかで、静かな吐息となって、その唇からこぼれ落ちた。竜之介は、静かに、そして永遠に、その目を閉じた。蓮の腕にしっかりと抱かれた梨花は胸元の服を固く握りしめた。まるで重いハンマーで殴られたかのように、体は何度も大きく震えた。竜之介が倒れ、黒い上着が血に染まっていく光景が、脳裏で何度も繰り返される。あの時の冷たい眼差し、一瞬の光、そして声にならないため息も……胸が張り裂けそうで、涙で視界が滲んでも、心の奥深くにある激しい痛みは消えなかった。彼女はほとんど聞こえないようなか細い声で、ぽつりと呟いた。「竜之介……」涙が頬を伝って、滑り落ちた。「竜之介、もうあなたのことは恨んでない。来世では、もう二度と会うまい」手術室のもう一方の端では、竜之介がいる場所とは全く異なる雰囲気でありながら、同じように死の影に覆われた『激しい戦い』が繰り広げられていた。数時間に及ぶ手術の末、渚は一命をとりとめた。しかし、足の神経は深刻な損傷を負っており、特に坐骨神経と大腿神経へのダメージは回復不能
廃鉱地域の3番倉庫。中は薄暗く、荒れ果てていた。その中央で、梨花は金属製の椅子に縛り付けられていた。渚は拳銃を握りしめ、竜之介と蓮が来るのをいらだたしげに待っている。倉庫の隅では、二人のチンピラが緊張した面持ちで顔を見合わせている。彼らの手のひらは汗でじっとりと濡れていた。男たちはスマホの画面を睨みつけ、混乱に乗じて外に連絡しようとしていた。しかし、竜之介と蓮が倉庫の入り口に現れると、その動きはぴたりと止まった。チンピラの一人が小声で呟いた。「ちくしょう、これはヤバいことになったぞ……俺たちはただ、ちょっと金が欲しかっただけなんだ。こんな大事にするつもりはなかったのに」もう一人が助けを呼ぼうと腰のスマホに手を伸ばす。だが、次の瞬間、渚の鋭い怒鳴り声が響き、男は凍り付いた。「動くな!」渚は完全に我を失っていた。男たちは数歩後ずさったが、それ以上は動けなかった。まるで火薬樽に火がついたかのように、空気が一瞬で張り詰めた。チンピラが思わず渚を突き飛ばすと、拳銃が大きく揺れた――パン。弾丸は天井の壊れた電球をかすめ、火花が飛び散る。その火の粉が、積まれた乾いた木材や段ボールの上に落ち、あっという間に小さな炎が上がった。煙は瞬く間に広がり、倉庫の中では炎が揺らめいた。その炎が渚の歪んだ狂気の顔を照らし出す。彼女の瞳孔は興奮で開ききっており、その眼差しはまるで手綱の切れた獣のようだった。混乱の中、もう一人のチンピラは火の手が広がるのを見て慌てふためき、どさくさに紛れて逃げ出した。渚は引き金に指をかけ、銃口をまっすぐ梨花に向けた。そして、金切り声で叫んだ。「あなたのせいよ!一緒に死んでやる!」倉庫の炎はみるみるうちに燃え広がり、乾いた木材がパチパチと音を立てる。濃い黒煙が、まるで海のように皆の胸を圧迫した。炎と叫び声が入り乱れ、鉄骨や廃材が高熱で赤く光って目に痛い。黒煙が、まるで潮のように押し寄せてくる。竜之介の視線は、渦巻く炎と黒煙を突き抜け、心にはただ一つの思いしかなかった。梨花を絶対に死なせるわけにはいかない。竜之介は息を深く吸い込むと、ぐらつく床板を踏みしめて倉庫へ飛び込んだ。炎の中でその影が長く伸び、眼差しは固く、そして冷徹だった。蓮もすぐ後に続いた。彼は手にしていた鉄パイプを握りしめ、驚くほど速く走る
「なんで、私が捨てた男があなたみたいな女に夢中になってるわけ?あなたのせいで、竜之介は松井家と藤井家の提携を白紙にしたのよ」渚の声はどんどん甲高くなっていった。まるで空気を切り裂くような鋭い声だった。「あなたが私の全てを奪ったのよ!あなたがいなければ、竜之介は心変わりしなかった!私は藤井家の令嬢として、みんなに羨ましがられていたはずなのに!全部あなたのせいよ!この疫病神!」「あなた、狂ってるわ!」渚の歪んだ表情に、梨花は足元からぞっとするような寒気がこみ上げてきた。「竜之介が何をしたかなんて、彼が決めたことでしょ。私に何の関係があるの?あなたが自分で……」「黙れ!!」渚は金切り声をあげ、突然そばにあったものを掴んだ。梨花の心臓がどきりと止まった。それは、旧式の拳銃だった。銃口はまっすぐには向けられていなかったが、その黒い穴が放つ威圧感は、血も凍るほどだった。渚は声を低くしたが、その声にはさらに深い狂気がこもっていた。「これ以上何か言ったら、あなたを二度と喋れないようにしてやる。できると思うでしょ?」梨花は誰かに喉を締め付けられているようで、背中が冷たい汗でじっとりと濡れた。今の渚なら、何でもやりかねない。梨花はそう確信した。その時、薄暗い隅の方から足音が聞こえてきた。次の瞬間、背の高い影がゆっくりと闇の中から姿を現した。啓太だった。薄暗い光の中で、彼の横顔は冷たく、まるで見覚えのない人間のように感じられた。それは梨花の記憶にある、穏やかで落ち着いた青年の姿とは全く違っていた。啓太は手の中で折り畳みナイフを弄んでいた。何気ない動きだったが、ぞっとするような危ない雰囲気が漂っていた。梨花の心臓が大きく跳ねた。まるで救いの藁をつかんだかのように、思わず叫んでいた。「福田さん!渚の様子がおかしいです!早く止めてください!」しかし、彼女の声が終わるや否や、啓太の足取りは一向に止まらず、その表情はまるで刃物のように冷たく、驚きや心配の色は全くなかった。啓太の視線は梨花の顔をかすめた。その目は氷のように冷たく、何の価値もない獲物を品定めするかのようだった。梨花の背筋が凍りついた。彼女は、もっと恐ろしいことに気づいた。この男は、自分を助けに来たのではなかった。啓太は渚の隣に歩み寄り、さり