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第161話

何?真帆は一瞬きょとんとし、目にかすかな驚きを走らせた。「……連れて帰るんじゃなかったの?」その一瞬の隙を突かれ、手首をぐっと引き寄せられた。一雄はもう片方の手でビニール袋の中から何かを取り出し、不意を突いて腫れ上がった手首に貼り付けた。刺すような冷たさが一気に思考を引き戻した。思わず息を呑み、下を見ると、手首には手のひらほどの大きさのアイスパックが当てられていた。一雄は片手でそれを押さえ、もう片方で彼女の手首を支えながら、ゆっくりと顔を上げた。「戻りたいなら、今からでも行き先変えさせるけど?」「いや、そういう意味じゃなくて……」真帆は、自分でも気づかないうちに声を柔らかくし、そのまま呆然と一雄を見つめていた。「さっきの男……」「ただの大学の先生だよ!」真帆ははっと顔を上げ、無意識に焦りをにじませた声で言った。「見てたでしょ?あの子たち、みんな先生の生徒で、一緒に来てるの。町や村の子どもたちに心理教育をするための実習で、学校の課題なの。変な意味なんてないから」一雄は眉をわずかに上げ、余裕のある目で彼女を見下ろした。「変な意味がないなら、そんなに必死になって説明しなくてもいいだろう?」「……別に」真帆は唇を噛み、曖昧に否定した。「何もない」口にした瞬間、自分でも説得力のなさを感じていた。でも、焦らないわけがなかった。前にも同じようなことがあった。あれは痛いほどの教訓だった。一雄は疑り深い。だから同じことは、二度と繰り返せない。……車は四つ星ホテルの前で止まった。直哉は後ろの車から降り、チェックインの手続きをしに向かった。四つ星とはいえ、一雄が普段出張で泊まるスイートとは比べ物にならなかった。それでも、村のドアすらない教室よりはずっとましだ。部屋に落ち着いたころには、すでに深夜だった。真帆はまだしばらく患部を冷やす必要があり、一雄は先にシャワーを浴びに浴室へ向かった。ソファに座ってぼんやりしていると、外で突然、大きな音が響いた。夜空に花火が広がり、花びらのように降り注いでいる。真帆は立ち上がり、窓際へ向かった。黒い空を照らす光を見上げ、思わず口元を緩ませた。「こんなのが好きだったんだ」見入っていたせいで、後ろに人が来たことにも気づかなかった。腰に腕
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第162話

だが真帆は心の中で分かっていた。龍司よりも、さらに美しい男がいることを……容姿も体つきも含めて、一雄こそが文句なしの「極上」な男だった。今となっては二人の関係は大きく変わってしまったのに、それでも真帆は心を平静に保つことができない……それは精神と肉体、両方から引き寄せられるような感覚だった。一雄が近づくたびに、彼女の防御は簡単に崩されてしまう。今のように、理屈では分かっていても、彼と触れ合う瞬間にはすべてが吹き飛んでしまう。今のように……「もう少しだけ」と言いながら、その距離はどんどん詰まっていく。熱を帯びた彼の胸と、真帆の背中の間には、薄いバスローブ一枚しかなかった。身体の変化をはっきり感じ取り、真帆の耳が赤く染まる……わずかに残っていた理性が、彼女を半歩前へと動かした。「……明日の朝、戻らなきゃ」「分かってる」一雄は優しく応じ、同じだけ距離を詰めて再び密着した。そして低く繰り返した。「少し抱くだけ。何もしない」真帆は何も言えなかった。窓の外では花火が打ち上がり続いている。弾けては消え、また咲く。煙が夜を染め、風さえ柔らかく感じられた。花火が上がり、新しい年が始まる。またひとつ、元旦が訪れた。翌朝。真帆は、水の流れる音で目を覚ました。目を開けると、隣は空だった。真帆は反射的に身体を起こす。浴室のドアは開いたままで、一雄が洗面台で身をかがめて顔を洗っていた。気配に気づき、こちらを振り向くと、まるで長年連れ添った夫婦のような自然さで声をかけた。「起きた?」真帆は小さく頷いた。昨夜、一雄は言った通り、本当にただ抱きしめて眠っただけだった。なぜか真帆の胸には、異郷にいながらも「帰る場所」があるような安心感があった。その感覚は、鷹宮家にいた頃も、蓮華荘にいた頃も、一度も感じたことのないものだった。もし叶うなら、この時間が止まってほしいとさえ思った……それが叶わないことも、分かっていた。ホテルを出ると、入口には大勢のスタッフが集まっていた。小声で何かを話しながら、こちらを見ている。二人が現れた途端、慌てて道を空け、媚びるような笑みを浮かべた。真帆は意味が分からなかった。そのとき、直哉が車を入口に回してきた。一雄が普段乗る車の後ろには、同じ型の黒い
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第163話

一雄は何でもないことのように言った。だが真帆の耳には、それがまるで爆弾のように響いた。しばらく黙った後、彼女は箱を閉じ、表情を引き締めて首を振る。「これは受け取れない」真帆の反応は、一雄にとって予想外ではなかった。彼は箱を取り上げ、中から腕輪を取り出すと、抵抗する彼女の手を掴み、そのまま右手首に通した。「パワーストーンは厄除けになる。あんなことがあったばかりだし、安心代わりにでもつけとけ」外させないように真帆の手を離さず、眉をわずかに上げる。「それとも、ボディガードをずっと横に付けてほしい?」一雄の言葉には逆らえなかった。彼女が受け入れなければ、あの村には戻さない、そんな圧があった。しばらく睨み合い、先に折れたのは真帆だった。腕輪は高価だが目立ちはしない。だが、あの屈強な男たちが十数人も付き従うとなれば話は別だ。キャンペーンどころか、村人は怖がって外にも出てこなくなる。真帆が去った後、一雄は再び車に戻った。運転席には直哉、助手席には一晩で戻ってきた武臣が座っている。「一雄さん」二人は同時に声をかけた。一雄は軽く応じ、直哉に尋ねる。「準備は?」「はい。私と兄で選んだ人間です。二十四時間体制で真帆さんを守らせます。絶対に気づかれません」一雄は軽く頷き、今度は武臣を見た。「話せ」武臣は無駄なく答えた。「薄宮俊雅です」薄宮俊雅?一雄の目が鋭くなる。「どういうことだ」「二人の証言によると、村長の指示で真帆さんの荷物を盗むよう言われたそうです。成功すれば一人百万円。強姦未遂については……その場の思いつきだと」武臣は淡々と報告を続けた。「村長の口座も確認しました。三日前に一千万円の入金。振込元は俊雅の側近、高田豪太です」一千万円……額としては大したことはない。だがあの村の状況を考えれば、それは一生手にできないほどの金だった。その誘惑なら、危険を承知でも手を出す者はいくらでもいる。だが、真帆の荷物にそこまでして欲しがるものがあるのか……一雄は後部座席に深く身を預け、長く沈黙した。やがて低く命じる。「真帆が星ヶ丘を離れてから、接触した人間を全部洗え」「はい」武臣は即答した。その瞬間、車内に声が響く。「一雄さん、それって……知恵さんですか?」信号で車を
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第164話

俊雅は何気なく尋ねた。「誰からだ?」「分かりません。差出人の記載はありません」秘書が箱を開けると、中にはひとつのギフトボックスだけが入っていた。真っ白で、装飾は一切ない。俊雅が手を伸ばしたその瞬間、耳をつんざくような悲鳴が室内に響いた。秘書は三歩ほど飛び退き、目を見開いたまま心臓が激しく打ち続ける。それに対し、俊雅は異様なほど冷静だった。ただ眉を深く寄せ、箱の中をじっと見つめていた。そこには、血にまみれた指が二本。あまりに突然の出来事に、三十にも満たない秘書は完全に取り乱していた。まだ動揺が収まらない中、机の下に白い紙が落ちているのに気づく。「社長、これ……!」拾い上げた紙を差し出すと、そこには大きく「ここで手を引け」と書かれていた。秘書は手の震えが止まらず、紙を落としそうになった瞬間、俊雅が先に受け取った。俊雅はしばらく見つめた後、口元をゆっくりと歪ませた。「世間じゃ、あの二人は決裂したって言われてるが……どうやら違うな」笑ってはいるが、その表情は不気味だった。秘書の背筋に寒気が走る。恐る恐る尋ねた。「警察に……通報されますか?」俊雅は軽く笑い、手を振る。「俺とあいつの問題だ。警察じゃどうにもならん」その言葉に秘書は息を呑む。「ということは……誰か分かっているんですか?」俊雅は答えなかった。この世で、ひと目見ただけで分かる筆跡は二つしかない。一人は五年前に死んだ。そしてもう一人は……俊雅の目がゆっくりと暗くなる。眉間の赤いほくろが影に沈み、普段の美しさとは違う危うさを帯びている。彼は無表情のまま、秘書に告げた。「今日見たことは、一言たりとも外に漏らすな。でなければ……分かるな?」「はい、承知しております」秘書は必死に頷いた。俊雅は満足したように軽く頷き、続けた。「出て行け。豪太を呼べ」……真帆が戻ってきたのは一週間後だった。年末までは、まだ二十日ほどある。新幹線を降りると、主任が公用車で送ると申し出たが、真帆は丁重に断った。美咲も両親が迎えに来ているという。美咲は真帆を食事に誘ったが、真帆はやんわり断った。美咲は不満そうに頬を膨らませる。だがすぐに何かを悟ったような顔をし、にやりと笑って耳元で囁いた。「この前の、あの超イケメンが迎えに
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第165話

「……いえ、何も」一雄には見えないと分かっていても、真帆は静かに首を振った。電話を切った彼女の表情には、隠しきれない落胆が滲んでいた。巨大な駅の構内は、行き交う人々の喧騒に包まれている。誰もが自分の帰る場所や向かうべき場所を持っているように見えた。……彼女を除いて。改札口でスマホを握りしめたまま立ち尽くす真帆を、言いようのない孤独感が襲う。よく考えてみれば、昨夜の一雄の電話は「いつ戻るのか」を聞いただけだった。迎えに来ると言ったわけではない……彼女は自分を納得させるかのように溜息をつくと、タクシーを拾ってホテルへと向かった。悠人の母親の裁判は一段落し、俊一の監視の目もある。真帆が留守中に、知恵の身に何かあってはならないと考え、真帆は彼女を一足先に星嶺市へ帰らせていた。住み慣れた場所であれば、何かあっても対処しやすいからだ。知恵は知恵で、真帆が星ヶ丘で独りぼっちになることを心配し、「資料を整理したらすぐに戻ってきて。待ってるから」と言い張っていた。ホテルに着き、スーツケースを下ろしてシャワーを浴びる。荷物を整理していると、ベッドに放り出していたスマホが鳴った。ディスプレイを確認し、通話ボタンをスライドさせた。「もしもし、おばあさま」「真帆さん、私よ」受話器越しに、西園寺清子(さいおんじ きよこ)の弾んだ笑い声が届いた。「おや、まだ私の目も、文字を読み間違えるほどボケちゃいないようね。なかなか出ないから、かけ間違えたかと思ったわよ」「ええ、私です」その楽しげな声につられるように、真帆の口角も自然と上がった。「おばあさま、急にお電話なんて、何か大切な用事でもあったんですか?」彼女と清子との出会いは、いささか劇的なものだった。星ヶ丘に来てからというもの、真帆と知恵は何をやっても裏目に出てばかり。鬱憤が溜まった知恵に連れられ、夜の山へ祈祷に行った時のことだ。それほど高い山ではないが、登り切るには一時間以上かかる。真帆が息を切らしながら知恵に文句を言っていると、中腹に白髪の清子が座っているのを見つけた。知恵は「夜中に山登りをした誠意が通じて山の神に会えたんだわ!」とはしゃいだが、次の瞬間、その「山の神」は足を挫き、地面で痛みに悶え始めた。結局、祈祷どころではなくなり、二人はおばあさんを背負っ
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第166話

心の中に温かいものが流れ込み、真帆は慌てて説明した。「いえいえ、そんな!おばあさま、仕事の都合なんです。心配しないでください」「そうかい……」さっきまでの弾んだ声とは一変して、清子の落胆は明らかだった。声のトーンまで低くなっていく。「それは残念だねぇ。私の百歳の誕生日に、あんたと水入らずでゆっくり話ができればと思っていたんだけど。でも、今の若い人は忙しいものね、仕事が一番だよ」真帆は思わず息を呑んだ。「……百歳の、お祝い?」清子は小さく笑った。「そうだよ、この老いぼれも明後日でちょうど百歳になるんだよ」そう言って、受話器の向こうから、波乱万丈の人生を物語るような重みを帯びた溜息が漏れた。「時間は早いねぇ。気づかないうちに、一世紀が過ぎてしまったよ……」一世紀。二つの時代を跨いできた歳月。真帆はその溜息の中に、百歳を迎える老人が抱く生命への敬畏と、人生への深い感慨を感じ取った。どうしてか、彼女自身も言葉を失い、沈黙に包まれてしまった……やがて、清子のほうが先にその沈黙を破った。「あんたみたいな若い子は知らないだろうけどね、私の田舎には古い習わしがあってね。百歳の老人が誕生日に若い人の髪を梳いてあげると、その長寿の福を分けてあげられると言われているんだよ」清子はまた少し笑った。「私、ちゃんと檀木の櫛を用意してね、あんたが来たら髪を梳いてあげようと待っていたんだよ」電話越しでも、清子の胸の内にある寂しさが痛いほど伝わってきた。たった一度会っただけ。けれど、真帆はなぜかこの清子に、理屈抜きの親しみを感じていた。慰めの言葉をかけようとした時、先に清子のほうが口を開いた。無理に作った明るい声には、やはり寂しさが混じっている。「いいんだよ。真帆さんは心が優しい子だから、これから先、きっと大きな福に恵まれるはずさ」「……ありがとうございます、おばあさま」真帆の目頭が熱くなった。心のどこか、一番柔らかい部分に触れられたような気がした。深呼吸をして、彼女は受話器に向かって微笑んだ。「安心してください。明日のお祝い、私、必ず時間通りに伺いますから」一瞬の沈黙の後、驚きに満ちた問いが返ってきた。「……本当かい?」清子は瞳を輝かせ、横になっていた椅子から勢いよく身を起こした。「でも……さっき航空券を買ったって言わなかった
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第167話

「ちょっと待って!」その声に、真帆と店員はほぼ同時に振り返った。ハイブランドの服に身を包み、完璧にメイクを施した数人の若い女たちが、店の入り口から高圧的な態度で入ってきた。先頭に立つ女は、問答無用と言わんばかりに一枚のカードをカウンターに叩きつけ、顎でクイッとブレスレットを指した。「これ、私がもらうわ。お会計して」その命令口調は、まるでこの店が自分の持ち物であるかのような傲慢さに満ちていた。「あ、あの……」店員は困惑した表情で真帆を盗み見ると、慌てて愛想笑いを浮かべて女に向き直った「大変申し訳ございませんが、こちらの商品は今、こちらの女性が購入を決められたところでして……」「決めた?手付金でも払ったの?」女は鼻で笑うと、店員の言葉を遮るように財布からもう一枚のカードを取り出し、カウンターに叩きつけた。「これ、見たことあるでしょ?」「こ、これは……」店員は冷や汗を流しながら凝視した。「当店の……ブラックゴールド・メンバーシップカードですね」「分かってるじゃない」女は口角を上げた。「カードを作った時、店長は言ったわよ。ブラックゴールドは店で最も尊い上客だって。まさか、この程度の特権もないのかしら?」店員は言葉に詰まった。助けを求めるような視線を真帆に送り、「どうかこのお嬢様方と争わないでほしい」と暗に祈っているようだった。真帆は黙ったまま、その様子を見守っていた。店員を助けたくないわけでも、気に入った品を譲りたくないわけでもない。ただ、初めてこの店に来た彼女には、店のルールが分からなかったのだ。ブラックゴールド会員に本当に優先購入権があるのか不明なまま、感情的に口を出すことはしなかった。真帆はまず、店員に確認した。「彼女の言っていることは本当ですか?」店員は無意識に首を振った。「い、いえ、優先購入権ではなく……優先『予約』権なのですが……」「もういいわよ、あーだこーだ理屈並べちゃって。そんなの重要?」隣にいた連れの女が冷笑した。「世の中にはね、一見羽振りが良さそうに見えても、実は節約に節約を重ねて、ようやく勇気を出して店に入ってくるような人もいるの。今回買えたとしても、二度目があるか分からないような相手のために、店の大切な顧客を怒らせるつもり?」そう言いながら、彼女たちは蔑むような目
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第168話

店を出ると、あまり目立たない小さなしつらえの手工芸店が目に留まった。中には精巧な木細工の逸品がたくさん並んでいる。客足は遠のいているようだが、店主は黙々と手を動かし続けていた。真帆は少し考え、その店へと足を踏み入れた。翌日。真帆は身なりを整え、用意したプレゼントを手に、清子から送られてきた住所へと向かった。そこは星ヶ丘最大の宴会場。鷹宮家の夫人だった頃、上流社会の宴会には何度か出席したことがある。けれど、真帆はああいう場が苦手で、周囲も彼女の鷹宮家での立ち位置を察して、積極的に話しかけてくる者はほとんどいなかった。今回は清子が手配してくれた招待状があったため、手続きはスムーズだった。ウェイターに導かれ、きらびやかな大ホールへと足を踏み入れる。そこには、交わされる祝杯と華やかな笑い声が満ちていた。これほど本格的な夜宴だとは思っていなかった真帆は、光り輝くドレスや宝石を身にまとった貴婦人たちを眺めながら、山で助けたあの清子が一体何者なのか、密かに推測を巡らせた。ホールを見渡す間もなく、清子が誰かに支えられながら歩み寄ってきた。「おや、真帆さん!よく来てくれたねぇ!」真帆は声のした方へ振り返った。百歳とはいえ、清子は耳も目もしっかりしており、手入れが行き届いているせいか、見た目は七十代そこそこにしか見えない。かくしゃくとしていて、実に元気そうだ。特に、白い糸で密に刺繍された桃色のドレスが、彼女の顔色をいっそう華やかに引き立てている。「おばあさま、お誕生日おめでとうございます」真帆は口角を上げ、ゆっくりと歩み寄った。「ごめんなさい、こんなに盛大なパーティーだとは知らなくて。もっとちゃんとした格好で来るべきでした」「いいんだよ、服なんて二の次さ」清子は目尻を下げて笑った。「あんたが来てくれただけで、おばあちゃんは幸せだよ!」そう言って真帆の手を引き、近くで客と挨拶を交わしていた中年の夫婦の方へ進んでいった。「さあさあ、紹介するよ。これは私の二番目の孫、こっちはその嫁だ」「はじめまして」真帆は礼儀正しく挨拶をした。「おばあさま、真帆さんとは……どういったお知り合いで?」真帆は、彼がさらりと自分の名前を口にしたことに少し違和感を覚えた。自分は彼のことを知らないし、清子もまだ名前を紹介していないはず
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第169話

一雄は真帆の姿を認めると、その瞳の奥に一瞬だけ驚きを走らせたが、すぐにそれを覆い隠した。まるで彼女など知らない赤の他人であるかのように振る舞い、一度も正面から視線を合わせようとはしない。「真帆さん、これはうちの四番目のひ孫でね。こっちは……」清子が一雄の隣にいる娘を紹介するのをためらっていると、西園寺家の次男の嫁が機敏に立ち回り、含み笑いを浮かべて口を開いた。「こちらは一雄の婚約者で鶴見家の令嬢、麗香さんですよ。おばあさまのお祝いが終わったら、すぐに二人の婚約式の準備に取り掛かろうと家族で話し合っているところなんです。真帆さんもおばあさまとこれほど気が合うのでしたら、その時はぜひ出席してくださいね」彼女は何気なさを装いながらも、真帆の反応を執拗に観察していた。彼女は知っているのだ。真帆こそが五年前、西園寺家から無残に追い出されたあの女であることを。商界で冷酷無比と恐れられる甥の一雄が、真帆と麗香を前にどう立ち回るのか、高みの見物を決め込もうという魂胆だった。麗香もまた、西園寺家の未来の若奥様といった風情で、紅を引いた唇に勝ち誇ったような笑みを浮かべ、挑発的な視線で真帆を品定めした。真帆は、麗香が自分に気づいているかは分からなかったが、彼女のことははっきりと覚えていた。麗香は、あの日ジュエリーショップでブレスレットを横取りした女だった。その確信は、麗香が箱を取り出し、清子に差し出した瞬間に決定的なものとなった。「ひいおばあさま、これは私からの長寿のお祝いです。お気に召していただければ嬉しいのですが」麗香はわざとらしく、それでいて媚びるような表情を見せた。一雄もまた、普段は西園寺家の人間に冷淡だが、この曾祖母に対してだけは深い敬意を払っているようだった。清子が箱を受け取り、中を開けると、滴るような透明感を持つブレスレットが、一同の目に飛び込んできた。清子は微笑んで頷く。「……確かに良いブレスレットだね」彼女はその箱を隣の使用人に預けると、麗香へ向ける慈愛の中に、わずかな疎遠さを滲ませて言った。「あんたもよく気がつく子だねぇ。やっぱり女の子は優しい。一雄が気づかないようなところまで配慮が行き届いているよ」甘やかされて育った麗香は、清子の言葉の裏にある「一雄への嫌味」に気づかず、褒められたと勘違いして有頂天
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第170話

その言葉が出た途端、周囲の野次馬たちの好奇心に火がついた。真っ先に食いついたのは、やはり西園寺家次男の嫁、慶子だった。「鶴見さん、そのお話……ちょっと聞き捨てなりませんわね」抜け目のない瞳を二人の間で何度も見比べ、火に油を注ぐような笑みを浮かべる。「その紫檀の数珠だけでなく、ブレスレットにも何か物語があるのかしら?」慶子に話を振られ、麗香はますます勢いづいた。彼女は慶子の隣に寄り添い、「そうなんです」と言葉を継ぐ。「あの日、私がひいおばあさまのプレゼントを選びに行った時、偶然にも真帆さんと同じブレスレットを気に入ってしまったんです。てっきり譲ってもらうのに苦労するだろうと思っていたのに、彼女、あっさりと私に譲ってくださって。当時はなんて心の広い方かしらと思っていたんですけれど……」暗に、真帆が今日この場で自分に恥をかかせるために、わざと「罠」を張ったのだと言いたいのだ。隣で聞いていた一雄が不快そうに眉をひそめ、口を開こうとしたその時、真帆が先制した。「鶴見さん、ぶしつけですが、最終学歴をお聞きしてもいいかしら?」麗香は虚を突かれ、真帆が何を企んでいるのか分からず戸惑った。だが、人前で黙っているわけにもいかず、しぶしぶ答えた。「……大学卒ですけれど。それが何か?」「それなら、鶴見さんの表現能力は極めて明確なはずですよね。それなのに、どうして肝心な部分が『欠落』しているのでしょうか?」「私がいつ、話を抜いたっていうのよ!」麗香の胸がどきりとした。だが、真帆はあの日ジュエリーショップで見せたような寛容さを、今日は微塵も見せるつもりはなかった。「あら、欠落していないですか?それならどうして皆さんに言わないのでしょうか。そのブレスレットは、あなたが私の手から無理やり『奪い取った』ものだということを」「でたらめ言わないで!」麗香の叫びとは裏腹に、周囲の視線は疑いの色を帯び始める。その冷ややかな眼差しを浴びて、麗香の背中に冷たい汗が流れた。「ひいおばあさま、違います、信じてください! そんなの真っ赤な嘘です……」老婦人が西園寺家の「大黒柱」であることを、誰もが知っている。彼女の一言で、自分が西園寺家の嫁になれるかどうかを左右しかねないのだ。麗香は必死に西園寺家の年長者たちに泣きついた。赤くなった目元は、誰が見ても「理不尽な言
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