《遺言のある部屋―託された息子、救われた青年》全部章節:第 101 章 - 第 110 章

119 章節

101.二つの部屋、二つの呼吸

充は言葉の続きを探すのをやめた。探せば探すほど、喉の奥が砂を噛んだみたいに乾いていく。陸斗の目が、逃げ場のない場所に釘を打ってくる。あの目の前で、慎一の名前を盾にして立ち続けるのは、息が苦しい。息が苦しいのに、息を止めるわけにもいかない。充は視線を外した。段ボールの山の向こう、まだカーテンの付いていない窓の黒い四角がある。外の街灯の光が薄く滲み、ガラスに自分たちの影を映している。床に座った二つの影が、距離だけを誇張して、伸びている。充は立ち上がった。膝が少し軋んだのが自分で分かる。床に残ったコンビニ弁当の匂いが、急に生々しく鼻に刺さる。脂と醤油と、さっきまでの言葉の熱が混ざって、胃のあたりがむかついた。充は口を開く。出す言葉は、逃げでもいい。とにかくこの場を終わらせる。終わらせないと、自分が壊れる。壊れたら、慎一の預かりものとして立っていられなくなる。「……もう寝る」言った瞬間、陸斗の呼吸が少しだけ乱れた。乱れたのは、怒りではない。追いかけたいのに追いかけられない、そういう微細な揺れだ。充はその揺れを見ないふりをして、段ボールの角を避けながら廊下へ向かった。新居の廊下は、まだどこか無臭だった。古いアパートの、湿気と洗剤と油とタバコが混じった匂いがない。匂いがないぶん、音が浮く。自分の足音が、床の板に当たって、すぐに壁に跳ね返る。跳ね返って戻ってくる音が、やけに自分を追いかけてくる。寝室のドアノブは冷たい金属だった。手を掛けると、指先が一瞬だけ迷う。迷う理由は分かっている。ドアを閉めたら、溝ができる。溝を作るのは自分だ。けれど、溝を作らないと、溺れる。充はドアを開けて入り、振り返らないまま閉めた。ドアが閉まる音は、想像よりも重かった。古いアパートの薄い壁なら、音は向こうへ抜けていく。抜けていって、どこかに消える。ここは違う。新しい壁は音を吸わない。吸わないまま、響きを返す。閉めた音が、廊下に残り、廊下からリビングへ伝わり、リビングからまた廊下へ戻ってくるみたいな錯覚があった。自分が作った溝が、反響して増幅されていく。充は背中をドアに預けた。板越しに、向こう側の気配を探ろうとする
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102.砂利の音が戻す距離

新しい部屋は、静かすぎた。二人で選んだはずの新居のリビングは、段ボールが片づき始めてから余計に音が目立つようになった。壁紙はまだ新しく、空気に生活臭が薄い。旧いアパートの、湿った木と埃の匂いが染みついた空間では、言葉にできないものも一緒に紛れていたのに、ここは違った。言葉にしないものほど、輪郭がくっきり出る。朝、陸斗はスーツの襟を正し、ネクタイを結ぶ。鏡の中の自分の顔は、少し寝不足でもそれなりに整って見える。司法修習の手続きで配られた資料を鞄に詰め、名札を忘れないように指で触れて確かめる。その動作が、もう“学生”の身振りではないのだと、自分でも分かるほどに馴染んでしまっている。廊下の先、もうひとつの部屋のドアは閉まったままだ。閉まっていること自体が、意思表示のように感じられるのが嫌だった。鍵を掛けられているわけでも、家具で塞がれているわけでもない。ただ、閉じている。それだけなのに、近づくたびに息が一拍、遅れる。台所で湯を沸かす。電気ケトルの小さな唸りが、広くなったはずの空間で不釣り合いに大きい。湯気の匂いが立つと、コンビニのインスタント味噌汁の出汁の甘さが鼻をくすぐる。二人分のマグカップを取り出しかけて、陸斗は手を止めた。棚の端に、同じ形のカップが二つ並んでいるのが目に入る。どちらも、買い替えたばかりの安い白い陶器だ。旧いアパートの頃、欠けた縁のコップを騙し騙し使っていたのが嘘みたいに、無傷で、潔白で、他人事の顔をしている。陸斗は、ひとつだけ出して注ぐ。自分のためのひとつ。それが正しい選択だと分かっているのに、喉の奥がひりつく。カップを置く音が、テーブルの表面を硬く叩き、反響する。新しい部屋は吸わない。音を、気配を、こぼれたものを、容赦なく返してくる。背後で、別室のドアがわずかに鳴った。木が軋むような、ほんの小さな音。起きたのか、それとも寝返りで布団が当たったのか。陸斗は振り返らない。振り返ったら、その瞬間に何かが始まってしまう気がした。始めたいのに、始めることが怖いという矛盾が、喉のあたりにずっと居座っている。玄関で靴を履く。新しい建物の共用廊下は、旧い外階段と違って足音が乾いて響く。鍵束が手の中で冷たい。鍵穴に差し込み、回
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103.連絡先を開いて閉じる

昼休みの空気は、思ったより乾いていた。司法修習の建物を出ると、春の名残りが薄い風に混じっていて、スーツの襟の内側をすり抜けた。陽射しは明るいのに、頬に当たる風だけが冷える。陸斗は歩道の端で立ち止まり、鞄の持ち手を握り直した。革が手のひらに馴染む。学生の頃の布のトートとは違う重さが、肩の骨に確かに乗る。スマホを取り出すまでに、一呼吸かかった。画面の黒いガラスに自分の顔が映り込み、そこに一瞬だけ知らない男の影を見た気がする。目の下に薄い影、髪の生え際の癖、眉の角度。いつからこんな顔をするようになったのかと思う。思って、すぐに答えが出る。選んできたからだ。選び続けてきたから、こういう顔になる。陸斗は通知を流し、連絡先の検索欄に指を置く。文字を打つのは簡単なのに、指先が微妙に冷たい。高瀬。名前を打つ。画面に表示される連絡先のアイコンを、押す。開いた。高瀬の名前の下に、電話のアイコンとメッセージのアイコンが並ぶ。前にインタビューをした時の、喫茶店のコーヒーの匂いが一瞬だけ鼻の奥に戻ってきた。カップを置く小さな音、ジャズの低い音域、そして、あの人の声の落ち着き。慎一のことを話す時だけ、少しだけ硬くなる声。陸斗は画面を見つめたまま、親指を動かせずにいた。開いて閉じる。画面を閉じると、外の音が急に大きくなる。車の走行音、通行人の話し声、信号の電子音。陸斗はもう一度連絡先を開く。指先が覚えた動作のように同じ場所を押す。開いた先のアイコンが、まるでどちらかを選べと言ってくるみたいに並ぶ。電話は無理だと思った。声にした瞬間、言葉が乱れる。乱れた言葉の隙間から、父さんが出てきてしまうのが怖い。父を盾にしたくないのに、父の名前を出せば相手も自分も簡単に動けなくなる。その場で何かが終わったように見えて、実際は何も終わらない。終わらないのはもう嫌だった。陸斗の頭の中に、新居の廊下が浮かぶ。閉じたドア。ドアの向こうで息を殺す気配。生活音だけで互いの位置を測る癖が、また戻ってしまったこと。戻ってしまった癖が、今度は未解決の印になっていること。自分だけでは解けない。解こうとしても、いつも同じところで引っかか
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104.来い、の一言

深夜明けの部屋は、昼でも薄暗かった。新居の窓は古いアパートより大きいはずなのに、カーテンを閉めたままの空間には光がうまく届かない。充は別室の床に座り込んだまま、背中を壁に預けて呼吸を整えていた。肺の奥に残る夜の匂いが、息を吐くたびに喉を擦る。香水と酒と煙草が混ざった、Reinaの空気。以前はそれが鎧だったのに、最近は皮膚の内側に貼り付いて剥がれない。床に置いたスマホが震えた。低い振動が、静かな部屋の空気を小さく揺らす。画面に表示された名前を見た瞬間、充の心臓が一拍だけ遅れて打った。高瀬。指先が動く前に、体が先に拒む。寝てない。疲れてる。今は無理だ。そういう言い訳が、舌の上にいくつも並んだ。充はそれを一つずつ噛み砕く暇もなく、通話ボタンを押していた。押してしまったという感覚より、押さないともっと面倒になるという直感が勝った。耳に当てたスマホが冷たい。冷たさが骨に染みて、眠気が少しだけ引く。「……何すか」自分の声が掠れているのが分かった。喉の奥が乾いている。高瀬の声は、それを咎めるでもなく、妙に淡々としていた。「起きてたか」「今、帰ったとこっす」「そうか」高瀬はそれ以上、労う言葉を重ねなかった。充の息が一度、詰まる。労いを期待していたわけではないのに、期待していないはずの部分が疼く。沈黙が続くと、店のジャズより重たい音が耳の内側で鳴り始める。「話がある」高瀬のその一言で、充の背中が硬くなった。話がある。今までその言葉が運んできたのは、だいたい決まっていた。慎一のこと。事件のこと。あるいは、充がどこかで転びそうな時の、釘の打ち直し。充は息を吸って、吐いた。断る言葉を探す。探しながら、最初に浮かんだのが「仕事」なのが、自分でも嫌だった。仕事は逃げ道だ。自分の胸の内に触れられないための言い訳だ。「今日、ちょっと無理っす。寝てないし、夕方から出勤で」「出勤の前でいい」高瀬の返しが早い。逃げ道を塞ぐスピードが、職務の癖みたいに正確だった。充は舌打ちしそうになって、飲み込んだ。舌打ちをする権利が自
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105.墓地の入口で息を合わせる

駅の改札へ向かう人の流れに紛れながら、充は自分の歩幅が妙に定まらないのを感じていた。新宿の雑多な匂いが鼻の奥に入り込む。油の匂い、濡れたコンクリートの匂い、香水、朝の吐息。まだ昼前だというのに、街は夜の残り香を薄く含んでいる。充の体にはもっと濃い残り香がある。風が頬を撫でるたび、肌の奥に残った疲労が剥き出しになるみたいだった。昨夜の睡眠は浅かった。ベッドに入った記憶はあるのに、眠った感覚がない。目を閉じると、段ボールの影と、陸斗の声と、自分の喉の乾きが押し寄せてきた。寝返りを打つたび、部屋のどこかが軋み、二人の家の中で二人の場所がないことを知らされる。あの夜から数日経っても、身体はまだそこで止まっている。改札の前で立ち止まり、充はスマホを取り出した。高瀬から送られてきたメッセージをもう一度確認する。路線、乗り換え、集合時間。文字は簡潔で、余白がない。指先で画面をスクロールする気にもなれず、充はスマホをポケットに戻した。背中のあたりがじっとりと汗ばんでいる。冷房の風が通路を流れているのに、汗だけは引かない。自分の顔をまともに見ていない。鏡の前で一度は目を逸らした。目の下の影は、もうコンシーラーで消せる類のものじゃない。けれど今は、見たところでどうにもならない。高瀬の言葉が頭の中で小さく反響する。慎一の前でだけは誤魔化すな。誤魔化したいのは慎一じゃない。自分だ。自分の胸の反応を、慎一の名前で上書きしてしまいたい。その癖が、もう剥がれかけている。ホームに降りると、電車がちょうど滑り込んできた。金属が擦れる甲高い音が、充の耳の奥をなぞる。車両のドアが開き、人が吐き出され、人が吸い込まれる。充はその波に押されながら乗り込んだ。車内の匂いは、消毒液と湿気と、他人の香水と柔軟剤が混ざっていた。つり革が揺れる。窓に映る自分の顔が視界の端に入る。充はそれを見る前に目を逸らした。映っているのは疲れた男だ。しかもそれが、何かを恐れている顔をしている。座席に腰を下ろすと、腰の奥がじんと痛んだ。座るだけで痛むことに、腹が立つ。二十代なのに、という言い訳が喉に引っかかる。年齢の問題じゃない。積み上げてきた生活の問題だ。夜を生きてきた身体が、昼の明るさに晒されると
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106.慎一の前で壊れる言い訳

充は口を開いたまま、音を出せずにいた。喉の奥が硬く、舌の付け根が冷えている。言葉が凍っているのに、胸の内側だけが熱い。熱いものが動けば動くほど、慎一の墓石が目の前で重さを増していく気がした。線香の煙が風に引かれて細くなり、また揺れ戻る。煙の匂いは甘く苦く、鼻腔に残ったまま消えない。花の水が光り、墓石の縁に落ちた小さな影が、雲の動きに合わせて形を変える。砂利を踏む音がどこかで一度して、それきり周囲の気配は遠のいた。参道の向こうの車の音だけが薄く続く。高瀬は動かなかった。肩の力を抜いたまま、しかし逃げ道だけは作らない立ち方で、二人を見守っている。視線が、責めるでも赦すでもない。その中間にある重さが、充の背中を押した。陸斗は黙っていた。スーツの布が風にわずかに揺れて、袖口の白が見え隠れする。視線を逸らさない。充がいつも、笑いで流し、軽口で切り抜けてきた「間」を、陸斗は崩さずに持っている。その落ち着きが、充には怖かった。落ち着いているということは、覚悟が揺れていないということだ。充は一度、唾を飲み込んだ。喉が鳴り、音が自分の耳にだけ大きく響いた。口の中にまだ鉄の味が残っている。唇を噛んだところの痛みが、現実の支点になる。逃げたいなら、今すぐ踵を返せる。砂利を踏んで、参道に出て、電車に乗って、家に帰って、ドアを閉めて、また別の部屋で息を殺せばいい。そうやって、何年も生き延びてきた。けれど、その方法はもう効かないのだと、充の身体のどこかが知っていた。別の部屋で息を殺しても、陸斗の声が壁を越えてくる。声じゃなくても、ページをめくる音や、椅子を引く音や、蛇口の水音が、あの告白の続きを運んでくる。沈黙が味方にならない。充はようやく声を出した。自分でも驚くほど低い声だった。喉が擦れる。「…違う」言いかけて、何が違うのか分からないまま言葉が落ちる。違うのは陸斗の気持ちか。違うのは自分の理解か。違うのは、自分がここに立っている理由か。どれも違うし、どれも違わない。充は墓石を見た。慎一の名前が刻まれた文字は、濡れていないのに冷たく見える。目を合わせた瞬間、背中が強張った。慎一に見られている気がする。見られているはずがないのに、見ら
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107.生きてりゃそれでいい

高瀬が一歩、墓石から距離を取った。線香の煙が細くなり、風に押されて一度だけ墓石の側面へ貼りつくように流れた。充はその煙を目で追ってしまう。追ったところで、何も変わらないのに、目を離すと自分の中の何かが崩れてしまいそうだった。陸斗の言葉がまだ耳の奥に残っている。選ぶ。閉じ込めないで。慎一の名前を盾にするな。どれも正しくて、正しいから刺さる。刺さるのに、その正しさを受け止める器が、今の充には足りない。足りないことを、充自身が一番よく分かっている。高瀬は二人の間を見回し、咳払いもせず、ただ淡々と言った。「慎一の前だ」それはさっきと同じ言い方だったのに、意味が違って聞こえた。責めるための言葉ではない。逃げないための言葉だ。逃げないなら、次はどうするのか。充の胸の奥が、じわりと熱を持つ。熱が動くと、また恐ろしくなる。高瀬は花立ての水を少し整え、線香立ての灰に落ちた燃え残りを指で軽くならした。指先が慣れている。こういう場面を何度も見送ってきた人間の手だ。充はその手を見ながら、そこにある落ち着きが羨ましくなる。落ち着きは、何かを終わらせた人間のものにも見えたし、終わらせずに抱え続ける人間のものにも見えた。高瀬が口を開く。「慎一はな」その名前が出た瞬間、充の背中が反射で固まった。慎一の名前は、今でも命令に近い。命令ではないと分かっているのに、身体が先に従ってしまう。従う癖が、何年も何年も積み重なっている。「自分がいつかいなくなっても、お前ら二人が生きてりゃそれでいいって、本気で思ってたよ」高瀬の声は大きくない。墓地の空気に溶けるくらいの音量で、しかし言葉は溶けない。充の胸の内側に落ちて、沈む。沈んでから、遅れて痛みが来る。生きてりゃそれでいい。その言葉は優しいのに、優しさが刺さる。充は思わず墓石の文字を見た。名前は変わらない。刻まれたものは変えられない。変えられないものの前で、生きていればいいと言われるのは、許されるようで、同時に突き放されるようでもある。許しと突き放しは、紙一重だ。高瀬は続けた。「生きてりゃそれでいいってのは、適当に言ってたわけじゃない」
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108.同じ家の、同じ夜

新宿の夜は、窓を閉めても入ってくる。遠くの救急車のサイレンが一本の線みたいに伸びて、ビルの谷間で削れて、最後は水の中に沈むみたいに消える。車のタイヤがアスファルトを擦る音、誰かが笑っている声、どこかの店の閉まるシャッターの金属音。街が眠らないことを誇るみたいに、家の外側はずっと動いているのに、この部屋の中だけは、息を潜めている。充は玄関のドアを閉め、鍵を回した。新しい鍵は、前のぼろアパートのよりも少し軽い感触だった。回した瞬間の金属の鳴り方も違う。鈍い音じゃない。乾いた、きれいな音がした。音がきれいなほど、逃げ道がない気がして、充は一瞬だけ手を止めた。靴を脱ぐ。廊下の床がひんやりしている。前の部屋は冬でも夏でも、床の温度が湿っぽくて、どこかに古い匂いが溜まっていた。ここは違う。無臭に近い。何も染み込んでいない壁と床が、かえって怖い。これから何かが染み込む場所だ、と言われているみたいで。リビングの方から水の音がした。台所の蛇口を捻る、短い音。すぐに止まる。コップに水を注いだだけなのが分かる。充はその音だけで、陸斗がそこにいると知った。二人で暮らしてきた年月が、そういうところだけ器用に残っている。声がなくても、生活音で相手の形が分かる癖。少し前の夜、二つの部屋に分かれてしまったときに、いやというほど思い出した癖。充は鞄を床に置いた。仕事帰りの肩の重さが、そのまま床に落ちる感じがした。首の後ろが張っている。腰も、じわじわと痛い。コートを脱ぎながら、今日の店の匂いが鼻の奥に残っていることに気づく。酒と香水と、甘い煙草。鎧みたいに纏ってきたはずなのに、今はただ胃の底に引っかかる。早く落としたい。風呂に入りたい。でも、台所の水音が止まってからの静けさが、先に充の足を止める。リビングの照明は点いていた。前より明るい。天井の位置が少し高くて、光が均等に広がる。段ボールはもう大半が片付いている。壁際に積まれていた山が消えたぶん、空間が広く感じる。広いのに、息が詰まる。広いのに、逃げられない。二人の家にしたはずの場所が、二人を隠してくれない。ソファの背に洗濯物が掛かっていた。乾きかけのタオルの匂いがする。柔軟剤の甘さに、風呂上がりの湿り気が混ざって、家庭の匂いになる。充はその匂いを嫌い
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109.怖い、の正体

充はソファの端に腰を沈めたまま、コップの縁を指でなぞった。冷たいガラスが指先の熱を奪っていく。奪われる感覚は嫌いじゃない。冷えれば、余計なものが引っ込む気がするからだ。けれど引っ込まない。言葉にしないままのものほど、ひとの体の奥に居座る。部屋の照明は白く、影の輪郭がくっきりしている。新しい壁は匂いを持たないくせに、音だけは逃がさない。冷蔵庫の低い唸り、エアコンの微かな風の音、窓の外を遠く走る車の音。それらが途切れないのに、会話だけがない。陸斗はテーブルの向こう側で動かない。紙を揃えるのをやめ、ペンも置いた。待つ、という姿勢だけがそこにある。充はその静けさが怖かった。怒鳴られたら、怒鳴り返せる。突き放されたら、突き放し返せる。けれど待たれると、こちらが自分の言葉で自分を傷つけなきゃいけない。充は一度唾を飲み込み、喉の奥の乾きが消えないことに苛立った。店で飲んだ水は、身体の表面だけを濡らして消えていったみたいだ。舌の上に残るのは、仕事の名残の甘い香りと、線香の残り香のような薄い苦さだ。混ざり合う匂いが、言い訳を許さない。充は目を伏せた。床の木目が綺麗に見える。前の古い床は、どこかに小さな汚れがあって、そこに視線を逃がせた。ここは逃がす場所が少ない。掃除の行き届いた床は、ただ真っ直ぐに存在している。真っ直ぐなものは、曲がって生きてきた自分の輪郭を浮かび上がらせる。充は、胸の奥にある石を思い出した。冷たい石の周囲だけが熱い。熱が怖い。熱は欲と同じ匂いがする。欲は、守るという言葉で隠せない。それでも、隠してきた。守るためだと、何度でも言い聞かせてきた。守るためなら、どれだけ自分を消耗しても意味がある。守るためなら、ここにいる理由が作れる。守るためなら、近さも正当化できる。そうやって長い年月を渡ってきたのに、いつの間にか守るという言葉が薄くなって、残ったのは近さそのものだった。充はそのことに気づくたび、慌てて蓋をした。蓋の素材は、正しさだった。倫理だった。預かりものだという意識だった。自分が勝手に触ってはいけないものだ、と。触れたら壊れる、と。壊れるのは何だ。相手の未来か。自分の立ち位置か。あるいは、自分が自分を保ってきた形か。充
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110.触れていい、の確認

充は言葉を出したあと、肩の力が抜けるはずだった。抜けない。怖いと言えたのに、怖さの形が変わっただけで、消えたわけじゃない。むしろ今は、怖さが輪郭を持って目の前に立っている。触れたら倒れる紙の柱みたいに、軽いのに崩れたら取り返しがつかない。陸斗は黙ったまま、充を見ていた。見ているのに、押してこない。充はその距離感に救われる一方で、逃げ道もまた塞がれていくのを感じた。言葉で戻れないなら、身体の置き場で戻ろうとするしかない。充はソファの背に体重を預けたまま、膝の上の手を開いたり閉じたりした。汗ばんでいる。風呂上がりの湿り気のせいだけじゃない。部屋の空気は、洗剤と柔軟剤が混ざった匂いがした。干した洗濯物はもう取り込まれているのに、匂いだけがまだ壁に残っている。生活の匂いだ。二人で暮らす匂いだ。新宿の遠い音が窓の向こうで続いていて、外の世界は勝手に動いているのに、この部屋の中だけが不自然に遅い。陸斗が椅子から立ち上がった。足音が床に柔らかく響く。充は反射で身構えた。近づかれたら、触られたら、拒んでしまうかもしれない。拒めばまた戻る。戻れば、二人の家はただの箱になる。そんなことを考える自分が、もう嫌だった。陸斗はテーブルの端に手を置いて、少しだけ身体を前に傾けた。距離は縮まったのに、踏み込んでこない。充の呼吸に合わせるみたいに、一度息を吸ってから口を開く。「……充さん」名前で呼ばれるだけで、背骨が熱くなる。充はそれを認めたくなくて、目を伏せた。視線を上げたら、今度こそ自分が崩れる気がした。「さっきの、続き」陸斗の声は硬いわけじゃない。ただ、逃げない声だった。充は喉の奥が痛くなるほど唾を飲み込み、やっと頷いた。頷き方がぎこちなくて、苦笑いが出そうになったが、笑えなかった。「……続きって」充がそう言うと、陸斗は少しだけ眉を寄せた。怒っているわけじゃない。言葉を選んでいる顔だった。選んでいるのに、誤魔化していない。充はそれが眩しい。陸斗は、短く息を吐いた。「怖いままでもいいって、俺は思ってます」充はその言葉に、胸の奥が
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