《遺言のある部屋―託された息子、救われた青年》全部章節:第 81 章 - 第 90 章

119 章節

81.テーマ欄の空白

ホワイトボードの白は、春の光を跳ね返して、やけに目に刺さった。「卒論テーマ提出期限:5月末」青いマーカーで書かれたその一行の下に、赤で太く二重線が引かれている。ゼミ室の前方、プロジェクターのスクリーンを少し持ち上げた隙間から、その文字がくっきりと見えた。前列の方では、何人かがすでにノートを開いて、テーマ候補らしき単語を箇条書きしている。ページをめくる紙の音と、ボールペンの芯をカチ、と出す小さな音が、窓から吹き込む風に混ざって、教室の空気をざわざわと揺らしていた。教卓に寄りかかるようにして立っている教授が、ホワイトボードの前にマーカーを持ったまま、教室をざっと見渡す。「そろそろテーマ固めて来いよ。就活もう終わってるやつも、ロースクール狙うやつも、逃げんなよ」かすれ気味の声に、クスクスと笑いが起きる。「『卒論、司法試験の勉強で忙しかったんで』は、言い訳にならんぞ。両方やれ。両方中途半端にして後悔したやつ、俺何人も見てきたからな」また笑いが広がる。前の方に座っている女子が、隣の友達と顔を見合わせて肩を揺らした。陸斗は、三列目の端、窓際の席でノートを開いていた。手の中のシャープペンシルは、まだ何も書いていないテーマ欄の上を、行く先を迷うようにうろうろしている。「契約法における消費者保護なんかは、例年人気あるな。会社法のガバナンスも、就活するやつには鉄板だ。あと労働法と非正規雇用、とか。最近だと…」教授が列挙するキーワードに合わせて、教室のあちこちでペン先が走る気配がする。黒や青のインクが、真新しいノートの白いページを埋めていく。陸斗も、言われた単語をとりあえず書き出してみる。「契約法」「会社法」「ガバナンス」「労働法」「非正規」文字にしてみると、それぞれがいかにも「役に立ちそう」な顔つきをしているのが分かる。企業法務、知財、国際取引。司法試験予備校のパンフレットでも、何度も見た単語たちだ。ページの右上、教授が指定した「テーマ案」と書かれた欄は、まだ真っ白のまま空いている。そこに書くべき言葉が浮かばない、
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82.インクの匂いと量刑理由

法律系フロアの空気は、ほかの階よりも少しだけ重たく感じられた。大学図書館の四階。高い本棚が壁のように並び、背表紙には細かい文字がびっしりと並んでいる。六法、判例集、雑誌のバックナンバー。蛍光灯の白い光が、それらの上に均一に降りていた。エレベーターの扉が閉まる音が背後で遠ざかり、靴底がカーペットに沈む。足音が吸い込まれていく静けさの中で、陸斗は肩からリュックを少し持ち上げ直し、奥の閲覧スペースへ歩いていった。窓際の席は、もう何人かの学生で埋まっている。ノートパソコンのキーボードを叩く音、紙をめくる小さな音、ボールペンが走るかすかな擦過音。全部が同じ音量で混ざり合い、白い光の中に溶けている。「裁判例検索」と書かれた札のある端末が三台並んだコーナーのうち、一番端が空いていた。陸斗は椅子をそっと引き、腰を下ろす。画面には、裁判所の紋章を模したマークと、「事件名」「事件番号」「キーワード」といった入力欄。キーを叩いた痕跡はリセットされていて、カーソルだけが事件名の欄で点滅している。知っている事件名を、入力しなければならない。「新宿路上警察官刺殺事件」頭の中には、迷いなくその文字列が浮かぶ。ニュースで、記事で、何度も見た。父の葬儀のあとに家に届いた新聞にも、その文字は大きく印刷されていた。けれど、指先はすぐには動かなかった。キーを一つ押すだけの行為が、何か重たい扉のノブを握る動作と同じに感じられる。「卒論だ」心の中で、自分にそう言い聞かせる。教授の前で口にした「刑事司法と被害者支援」というテーマ。その延長線上に、この事件があるのは分かりきっている。「勉強だろ」もう一度、同じ言い訳を頭の中で繰り返してから、ようやく手を動かした。し。ん。じゅ。く。ひらがなで打ち込んでスペースキーを押し、変換候補から「新宿」を選ぶ。画面の上に漢字が現れるたび、胸の奥がわずかにざわつく。ろ。じょ。う。け。い。さ。つ。かん。さ。つ。さつ。じ。け。ん。最後まで打ち込んで、エンターキーを押す。「検索中」と表示された小さ
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83.古い喫茶店での証言

春の空気がまだ冷たさを残している朝、陸斗は講義の合間にスマホの画面を見下ろしていた。ゼミの課題として提出したテーマ案は、教授から「方向性はいい。あとは資料の当たり方を決めろ」と返ってきた。刑事司法と被害者支援。言葉としては整っているのに、それを書いた自分の指先が、どこか他人のもののようだった。画面の上には、入力途中の文面が残っている。卒論の件でお話を伺えませんか。それだけの一行を打つのに、何度も呼吸を整える。高瀬に連絡すること自体は、突飛なことではない。年に数回、必要最低限の近況を送る。形式だけなら、もう慣れているはずだ。だが今回は、形式の下に隠しているものが違った。卒論のため。資料のため。そういう言い訳で父に触れるための道を、目の前に広げている自分がいる。送信ボタンを押す直前、陸斗は無意識に、ポケットの中の鍵を指でなぞった。自宅の玄関の鍵。何年も前から、生活の音だけで互いの存在を確かめる日々が続いている。鍵を回す音、ドアの蝶番の軋み、靴を脱ぐ気配。それらが、言葉の代わりに二人の距離を測る物差しになった。充に何かを報告するべきか、と一瞬だけ思う。今日は高瀬に会う。父の同僚だった人に。父の話を聞きに行く。そう言えば、充はどういう顔をするのだろう。分からない、というより、想像したくない。想像してしまえば、またあの夜の続きを引きずり出してしまう気がした。陸斗は息を吸い、送信ボタンを押した。画面が短く切り替わり、既読も付かないまま、文章が送られたことだけが淡々と表示される。胸の奥が、薄い氷で覆われたように冷えた。返信はその日の夕方に来た。明後日、いつもの店。午後三時。短い文字の並びに、余計な感情が挟まっていないのが逆にありがたかった。いつもの店。高瀬がよく使う、古い喫茶店。慎一が生きていたころに、陸斗も何度か連れて行かれたことがある。子どものころは、店内に漂うコーヒーの匂いが苦くて、砂糖を入れない大人たちを不思議に思った。今は、苦味があるからこそ落ち着ける気がする。当日、陸斗は早めに家を出た。玄関を開け閉めする音が、部屋の奥まで届くのが分かる。だが、いつもと同じだ。誰の返事もない。だからこそ、靴ひもの結び目に必
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84.連なる「守りたい」の線

お前ら二人。心配ばっかしてた。夜の仕事なんかさせたくない。自分を嫌いになりすぎないように。それらが整然と並んでいることが、逆に怖かった。文字にした瞬間、言葉は逃げなくなる。逃げない言葉は、胸の奥に刺さる。陸斗は画面を閉じようとして、指が止まった。信号が青になるまでの数秒が、やけに長い。胸の奥で、別の台詞が勝手に再生される。あの夜明け前、湿布の匂いが部屋に残っていた時間。自分の声が、思っていたより低くて、思っていたより震えていたことまで、体が覚えている。「守られるだけの子どもじゃ、もういられないんですよ」言った瞬間、何かが壊れる音がした気がした。実際には、壊れたのは関係ではなく、自分の中の逃げ道だったのかもしれない。「俺だって、充さんのこと、守りたいって思ってる」その言葉を口にした自分に、当時はずっと説明がつかなかった。怒りと恐怖と、理不尽さと、嫉妬と、全部が混ざって、最後に残った芯だけが飛び出した。守りたい。そう言ったあと、自分はどこへも戻れなくなった。そう信じていた。信号が青に変わり、陸斗は歩き出す。横断歩道の白い線が、足元で途切れ途切れに続く。車のライトがアスファルトを撫で、通り過ぎるたびに空気が少しだけ冷たく揺れる。守りたいという言葉は、父に背くものだと思っていた。父の友人に向けるべきじゃない感情。父が命を落とした場所と、夜の街で生きる充と、自分の胸の中に芽生えたものが、同じ箱に入ってしまうことが、怖かった。だから陸斗は勝手にラベルを貼った。禁止。踏み越えるな。息子でいろ。そういう雑な命令を、自分に言い聞かせてきた。けれど高瀬の言葉は、そのラベルの端をひっくり返してしまった。お前ら二人。父は、自分だけを心配していたんじゃない。父の口の中で、息子と、夜の街で背負い込みたがる若者は、同じ並び方をしていた。誰かを守りたいと思う気持ちが、職務の中にだけあるものじゃなく、生活の中にも、個人の中にも、同じ温度で存在していた。陸斗は駅の階段を上りながら、頭の中に矢印を描いてみる。矢印は紙の上では簡単だ。父から自分へ。父から充へ。充か
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85.償いから仕事のかたちへ

教室に入った瞬間、陸斗の鼻先に、スーツの布と整髪料と、紙が擦れる匂いが混ざって押し寄せた。空調は効いているはずなのに、座席の間を埋める人の熱で、空気が少し湿っている。四月の終わり、キャンパスの外は風が気持ちいいのに、ここだけ季節が一段遅れて蒸していた。前方のスクリーンには、法曹ルートを示す矢印が並んでいる。ロースクール、予備試験、司法試験。聞き慣れた単語が、講師の口から規則正しく落ちていく。陸斗の膝の上には、説明会で配られた分厚いパンフレットが重なり、指先がその角を無意識に撫でていた。紙が指の腹に引っかかる感触だけが妙に現実的で、講師の声が少し遠い。周囲を見渡すと、同じ学部でも普段は見かけない顔が多い。髪をまとめ、ネクタイを締めた学生たちが、ノートをきっちり開いて頷いている。机の上にはボールペンと付箋、マーカー。陸斗も似た道具を持ってきているのに、ここにいる全員が、別の速度で先へ進んでいるような焦りが、喉の奥に薄く貼りついた。講師が、学費のスライドに切り替えた。数字が並ぶ。入学金、授業料、諸経費。二年、三年の合計。陸斗はその桁数を見た瞬間に、胸の奥がきゅっと縮むのを感じた。生活費と家賃と光熱費、今のバイト代、奨学金の残り。頭の中で足し算が始まり、同時に、足りないという結論が先に出る。計算するまでもない。ペンを握る手に力が入った。握り直すと、指の関節が少し白くなった。講師は明るく言った。「もちろん、費用の問題はあります。ただ、奨学金制度や、アルバイトとの両立、いろいろな支援もあります」その言葉が優しいほど、陸斗の中では現実が硬くなった。支援という言葉の手触りは柔らかいのに、紙に印刷された学費は石みたいに重い。自分は、背伸びをするなら背骨を折るだけだ。そういう感覚が、数字を見るたびに増していく。隣の席の学生が、小声で友人に囁いた。「やっぱロー行きたいよな。環境違うって言うし」「親が出してくれるならな」笑い混じりのそのやり取りが、陸斗には刃物のように尖って聞こえた。悪意がないのが分かるからこそ、刺さる。親が出してくれる、という前提が世の中にはある。陸斗には、幼いころに母を亡くし、父もいない。そ
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86.三階までの息

店を出た瞬間、肌の表面の熱がひゅっと奪われた。Reinaのフロアにこもっていた甘い酒と香水と、照明の熱が、扉の向こう側では一枚の薄い膜みたいに剥がれ落ちる。代わりに夜気の冷たさが頬の産毛を起こし、息が白くなる前の、肺の奥だけが冷える感覚がやってくる。充はジャケットの前を寄せ、肩をすくめて歩き出した。終電のとっくに終わった道は、まだ明るいのに人の気配が薄い。ネオンは色だけを残して、音を落としたみたいに見えた。さっきまで耳に張りついていた笑い声やグラスの鳴る音は、歩くにつれて遠ざかる。代わりに、靴底がアスファルトを擦る乾いた音が、自分の周りだけ大きくなる。今日も、ちゃんと笑った。ちゃんと、うまくやった。脳みそがそう言い聞かせるより先に、体の方が先に答えを出している。疲れている。疲れ方が、前と違う。吐いた息に、タバコと酒と、少し遅れて香水の甘さが混じって返ってくる。その匂いは、昔は鎧だった。これをまとっている間だけは、みっこでいられた。客の視線を受け止めても、受け流しても、帰り道で笑いながらコンビニのレジに並んでも、全部一続きの仕事として処理できた。けれど今夜は、鎧が皮膚に貼りついて重い。匂いが胃の中に残って、歩くたびに内側から揺れる。信号が青に変わっても、足が一拍遅れた。自分の反射が鈍っただけだと言い訳しようとして、次の瞬間、腹の底が小さく焦った。反射の遅れは、仕事では致命的だ。笑いのタイミングが遅れたら、相手は不機嫌になる。かわす言葉が遅れたら、手が伸びてくる。そういう世界で生きてきたはずなのに、最近、身体が自分の味方をしない時間が増えている。コンビニの白い光が角を曲がった先に浮かんでいる。充は一瞬、寄るか迷って、そのまま通り過ぎた。何か買って帰ったところで、家で誰かと食卓を囲むわけじゃない。そう思った瞬間、喉の奥が乾いた。家にいるのは、陸斗だ。いる。いない日なんて、ほとんどない。それでも、家に帰っても言葉が増えるわけじゃない。玄関の鍵の音で、互いの生存確認をするだけの季節が、もう何年も続いている。路地に入ると、急に空気が古くなる。湿ったコンクリートの匂いと、ゴミ置き場の酸っぱい気配。遠くの幹線道路の音が薄い膜になって届き、その下で、どこかの室外機が低
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87.ヨレる鎧

昼過ぎの部屋は、昼という名前を借りた夜みたいだった。カーテンは閉め切ったまま、薄い光だけが布地の目を通って滲み、壁に灰色の膜を作っている。外の天気がどうであれ、この狭い空間には、いつも同じ温度と匂いが溜まる。洗剤の残り香、冷めたインスタントの甘い粉の匂い、タバコの煙が壁紙に染み込んだ古い臭い。それから、腰に貼った湿布のメントールが、まだ微かに息をしている。充は布団の中で目を開けた。目を開けたというより、瞼の裏の暗さに飽きて、仕方なく現実を見た。スマホが枕元で震えている。画面の青白い光が顔に当たり、寝起きの肌の凹凸まで浮かび上がる気がして、思わず目を細めた。通知がいくつも溜まっている。店のグループ、楓からのスタンプ、佐伯の軽口、どこかの通販サイトの広告。見れば何か返さなきゃいけなくなる。返せば今日の自分が始まってしまう。充は親指で画面を一度だけ撫で、結局ロックをかけた。起き上がろうとして、腰が拒否した。固まった粘土みたいに、内部が動かない。布団の上で背中を丸めたまま、しばらく呼吸だけを整える。空気が肺に入るたび、胸の奥がざらつく。昨日の酒とタバコが、まだ体の中に残っている。ようやく上体を起こすと、背中の湿布が皮膚に引っ張られ、冷たさが遅れて意識に届いた。貼って正解だったのかもしれない。そう思った瞬間に、正解だとか間違いだとか、そんな判定をいちいち必要とする自分が面倒になる。前は、起きて顔を洗って、店に行き、メイクをする。ルーティンに疑問を挟む暇なんてなかった。疑問が生まれる余裕ができたというより、疑問が勝手に湧いてしまうくらい、体が言うことを聞かなくなってきた。充は腕を回した。肩が鳴りそうで鳴らない。鳴ってくれた方が、まだましな気がする。鳴らないまま重さだけが残り、肩甲骨のあたりに鉄板を背負ったみたいに感じる。床に足を下ろす。足裏が冷えたフローリングに触れ、軽くぞくりとした。立ち上がるとき、膝が微かに震えた。揺れは自分にしか分からない程度で、見た目にはきっと大丈夫だ。それでも、揺れたこと自体が、心臓の裏側を小さく叩いた。洗面所に向かう途中、部屋の奥から紙の擦れる音がした。ページをめくる乾いた音。ペン先が走る、微かな擦過音。息を潜めて聞くほど大げさなもの
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88.よくある夜の小競り合い

Reinaのフロアは、夜が深くなるほど色が濃くなる。ピンクと紫のネオンが壁に染み込み、グラスの縁に光が張りついて、笑い声と酒の匂いが空気を厚くする。音楽の低音が床から腹に響くたび、肺の中の空気まで揺さぶられる気がした。充は、その揺れに合わせて足を動かした。背筋を伸ばし、肩の角度を作り、客席の視線が集まる場所を外さない。みっこの笑顔は、この場所では鎧であり道具で、呼吸みたいに自然に出るはずだった。そう思っているのに、今夜はその呼吸のリズムが少しだけ乱れている。息を吸うまでに、ほんの一拍、遅れる。気づくのは自分だけだが、その一拍が怖い。カウンター側から佐伯が片手を上げ、忙しそうに目配せする。楓の姿は、いつものようにフロアの少し高いところにいて、全体の熱を手のひらで撫でるみたいに見回している。充はその視線に一瞬触れ、すぐに笑って見せた。大丈夫だという合図を返したつもりだった。返したつもりのその笑顔が、鏡の中でほんの少し遅れて立ち上がる感覚があり、充は胸の奥で小さく舌打ちした。席の一つで、声がいつもより大きい男が手を叩いた。スーツの上着を脱いで椅子の背にかけ、ネクタイを緩めている。年齢は四十を少し過ぎたくらいで、顔は赤く、目元は笑っているようで笑っていない。隣には、まだ若い女の子が座っていて、作った笑顔が少し固い。男が充に気づくと、指を鳴らすようにして呼んだ。「みっこ、こっち来いって」充は自然な歩幅で席へ寄った。距離の詰め方も、顔を覗き込む角度も、体が覚えている。覚えているはずなのに、足裏が床に吸い付くみたいに重い。重さを感じた瞬間、余計に軽やかに見せなきゃいけないと意識して、頬の筋肉に力が入る。「はーい、何ですかぁ」語尾を少し伸ばす。声の高さを調整する。自分の声を耳で聞きながら、もう片方の耳はフロア全体のざわめきを拾っている。トラブルは、たいてい音の粒で気配が分かる。男がグラスを揺らし、氷が鳴った。「いやさぁ、さっきからさぁ、俺の話ちゃんと聞いてる?」「聞いてますよぉ」「嘘だなぁ」男の指がテーブルを叩く。その指先が、充の手首に近い距離まで伸びた。触れようとしてい
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89.楓の「出口」

営業の終わりは、いつも音が減っていく順番が決まっている。グラスのぶつかる高い音がまず遠のき、次に笑い声が薄くなり、最後に低音だけが床に残る。それが消えると、Reinaの裏側が現れる。汗と香水とアルコールが混ざった熱気の層の下から、洗剤の匂いと、濡れたタオルの生ぬるさと、メイク落としの油っぽい甘さが浮かび上がる。充はバックヤードの椅子に腰を下ろし、ピンを外していた。髪をまとめていた指先が、今日は少しだけ鈍い。金属のピンが指から滑り落ちそうになって、慌てて掌で受ける。受けた瞬間、掌の皮膚がひりっと痛む。乾燥している。ここ最近、どの指も、どの関節も、少しずつ乾いている気がした。鏡に映る自分の顔は、照明のせいで現実よりきつく見える。ファンデーションの端が目元で割れて、笑ったときにできた薄い線がそのまま残っている。笑いジワだと呼ぶには早いのに、消えない。コンシーラーで隠してきたクマも、今日は薄く浮いていた。隠しきれないというより、隠す力が足りなかった。舌打ちしそうになって、充は喉の奥で止めた。舌打ちをしたいのは、鏡の中の自分に向けてなのか、今日の客に向けてなのか、自分でも分からない。分からないままにしておくのが、これまでの生き方だった。分けて考えたら、どちらも自分の中に残ってしまうから。洗面台の横に置いたメイク落としのボトルを手に取り、コットンに染み込ませる。油の匂いが鼻に立った。頬に当てると冷たくて、肌が一瞬だけ息をする。コットンを滑らせると、ファンデーションの色が白い繊維に移る。落としているのに、剥がしているみたいだった。鎧を脱ぐというより、皮膚を薄く削っている感覚がする日がある。背後で、掃除用具の金属がかすかに鳴った。振り向くと、楓がモップを立てかけながら入ってくるところだった。髪も服も乱れていない。メイクも崩れていない。楓はいつも、店の中の温度と同じくらい、裏側の静けさにも慣れている顔をしている。楓は充を見て、何も言わずに一度だけ首を傾げた。その仕草だけで、充の背中に小さな針が刺さった。言葉にされる前の視線が一番刺さる。楓の視線は、覗き込むというより、照らすように落ちてくる。「お疲れ」楓は軽く言った。いつも通りの一言のはずなのに、その声
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90.開いて閉じる

三階の廊下は、夕方になると鉄の匂いが濃くなる。昼間に温められた手すりが、日が落ちるにつれてじわじわ冷めて、触れると皮膚の熱を持っていかれる。充は外階段を下りるたびに、足裏のどこかに砂が噛んだような感覚を覚えるようになっていた。階段の縁のペンキは剥げ、角は丸くなっている。誰かの時間が削った丸さだ。自分もその誰かの一人だと思うと、妙に落ち着かない。郵便受けは一階の壁際に並んでいて、鍵穴の周りだけが黒く擦れている。充は小さな鍵束を探り当てて、郵便受けの鍵を回した。金属が擦れる音が狭い空間に跳ね返る。中には薄いチラシが何枚かと、折り曲げられたフリーペーパーが入っていた。手に取った瞬間、紙の表面のざらつきが指先に引っかかる。紙は軽いのに、持ち帰る理由が重い。表に大きく、明るい字体で「スタッフ募集」とある美容院のチラシが一枚混じっていた。ショートボブのモデルが笑っていて、その笑顔は疲れの気配がない。カラーの見本みたいな髪色が、やけに鮮やかに見える。充はチラシを一度見てから、わざと雑に束の中へ押し戻した。見ていないふりをする手つきは、年季が入っていた。階段を上る。二階の踊り場で一息つきたくなるのを、舌の奥で叱りつけて止める。三階までの距離は変わらないのに、身体だけが先に変わっていく。息を吐くたび、タバコの残り香が喉の奥に絡んだ。肺の内側が乾いている気がする。充は息を吸うタイミングを、外階段の軋みのリズムに合わせた。軋みと同じ速度で生きていれば、息の重さが目立たない気がした。三階の自分たちの部屋の前に立つと、ドアの向こうの気配が分かる。音じゃなく、空気の密度の違いみたいなものだ。誰かがいるときの部屋は、静かでも底が浅い。充は鍵穴に鍵を差し込み、回した。ガチャリという音が鳴る。鍵の音は、あの家では挨拶の代わりだった。ドアを開けると、薄い生活臭が迎えてくる。冷蔵庫のプラスチック、洗濯洗剤、少し古い畳の湿り気。そこに自分の香水とタバコが混ざる。混ざった匂いは、疲れている日はとたんに重くなる。鎧だったはずの匂いが、今日はただの荷物みたいに肩に乗った。部屋の中は蛍光灯をつけなくても、外の光でぼんやり見えた。窓際のカーテンの隙間から、夕方の白っぽい光が差している。ローテーブルには六法とノートが
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