All Chapters of 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年: Chapter 1 - Chapter 2

2 Chapters

1.いつもの朝、最後の朝

目覚ましの電子音が、薄いカーテン越しの青い光を震わせるように鳴った。ベッドの上で丸くなっていた長谷陸斗は、枕に顔を押しつけたまま手だけ伸ばし、枕元のスマホを探った。何度か空を切って、ようやく端末を掴み、画面も見ずにアラームを止める。部屋はまだ完全には明るくない。官舎の二階、六畳の洋室。教科書と参考書が積まれた棚、机の上には昨夜開きっぱなしの問題集と、途中で乾いたままの蛍光ペンが一本転がっている。壁際には、安いフレームに入れた家族写真がひとつ。小さい頃の自分と、若い父と、少しだけふっくらした母が並んで笑っている。布団から上半身を起こすと、ひやりとした空気が肌に張りついた。秋口の朝の冷たさだ。窓際のカーテンの隙間から差し込む淡い光が、空気中の埃を細かく浮き上がらせている。「……おきろ」自分に向かって呟くように言ってから、陸斗は布団をはいだ。足裏が畳ではなくフローリングの冷たさを受け止める。スリッパを履き、首と肩を回しながら大きく伸びをする。廊下の向こうから、僅かに食器の触れ合う音と、テレビのニュースキャスターの声が聞こえてきた。低く平板な、朝の情報番組のトーン。それに混じって、出勤する車の音や、官舎の廊下を走る子どもの足音もかすかに届く。いつもの朝だ、と陸斗は思う。洗面所に行き、冷たい水で顔を洗いながら鏡をのぞく。濡れた前髪が額に張りつき、睫毛から水滴が落ちる。少し伸びてきた黒髪と、寝不足でわずかに赤い目。高校二年にもなれば、自分の顔のつくりがそれなりに整っていることくらいは分かっていたが、見慣れたそれに特別な感想は抱かない。タオルで顔を拭き、洗面所を出ると、ダイニングキッチンから味噌汁の匂いが流れてきた。だしと、わかめと、豆腐。鼻の奥に馴染んだ香りが染み込む。ダイニングに入ると、四人掛けのテーブルに新聞が広げられ、その向こう側に父の慎一が座っていた。ジャージ姿に、警察手帳の入った小さな黒いポーチが椅子の背にかけられている。片手で湯気の立つマグカップを持ち、もう片方の手で新聞のページをめくっていた。「おはよう」父が、新聞から顔を上げずに言う。「……おはよう」陸斗も、少し声を掠らせて返す。眠気の残る身体で椅子に座ると、テーブルの上に既に用意されている朝食が目に入った。焼き鮭、卵焼き、サラダ、白いご飯、小さな味噌汁椀。彩りはシンプルだが、どれも
last updateLast Updated : 2025-12-23
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2.叱られて、救われて

コンビニの明かりだけがやけに白く浮いて見える夜だった。新宿の外れ、駅から少し歩いた先の交差点脇にある二十四時間営業の店。その前のスペースに、原付が二台、斜めに寄せて止めてある。マフラーにべたべたとステッカーを貼られたそれは、どこか安っぽい威嚇をまとっていた。店先の灰皿の前で、桜井充はコンビニ袋を片手でぶらぶらさせながら、もう片方の手でタバコを弄んでいた。細長いフィルターを唇に咥えるが、火はつけない。ただ咥えていると、口の中が落ち着く気がした。「おい充、はやくしろよ」自販機の横に腰を掛けていた連れの男が、缶チューハイを振りながら声をかけてくる。金髪に近い茶髪を盛り、ジャージの上から安っぽいダウンを着た、街に腐るほどいるタイプの夜の若者だ。「待てって。あいつらの分も買ってきてんだろ」充は袋の口を覗き込み、スナックとカップ麺と、安酒の缶を確認した。冷気が頬を撫でる。吐く息が白い。コンビニの出入り口から、別の連れがのそっと現れた。ピアスをいくつもつけた細身の男だ。「店員、めっちゃ睨んでたな。もう出禁になりそう」「そりゃこんだけたむろってればな」金髪が笑い、空になった缶を足元のゴミ箱に放り込む。缶が中で軽く音を立てた。充は肩をすくめた。「どうせまた新しいとこ見つけりゃいいだろ。コンビニなんていくらでもあるし」「それもそうか。で、どこ行く?このままカラオケ?」「金ねえって」「さっきのとこで払ってなかったくせに」「払ってねえから金ねえんだろ」馬鹿みたいなやりとりをしながらも、体の中には何かを持て余した熱が渦巻いていた。どこにぶつけていいか分からない苛立ち。家に帰りたくないから夜に出る。夜に出ても、別に行き先があるわけじゃない。電光掲示板から漏れる赤や青の光が、路面を斑に染める。街全体がぼんやりとした熱気とだるさに包まれているようだった。「じゃ、とりあえず走るか」金髪が言い、原付にまたがる。エンジンをかけると、排気音が静まりかけた住宅街に無遠慮に鳴り響いた。
last updateLast Updated : 2025-12-24
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