遺言のある部屋―託された息子、救われた青年 のすべてのチャプター: チャプター 71 - チャプター 80

100 チャプター

71.コンビニ帰りの乱入

終電が終わったあとの新宿は、昼間とは別の国みたいだと、陸斗はいつも思う。コンビニの裏口から出ると、冷蔵ケースと揚げ物の油の匂いが、まだ服と髪にまとわりついていた。夜勤用の紺色のポロシャツからパーカーに着替えたばかりの身体は、じっとりと汗を抱えたまま、外気に触れて少しだけ震える。頭上には、高層ビルの黒い影と、その間を縫うように光る看板たち。緑と赤と青のネオンが、眠る気のない夜の空を薄く染めている。アスファルトには、一度乾いてまた湿ったような、曖昧な光沢。路地の端には、さっき降ったらしい霧雨の名残がまだ残っていた。「…つかれた」誰に聞かせるでもなく、口の中でだけ言う。指先には、さっきまで握っていたレジ袋の感覚が残っていた。ホットスナックをトングで掴む時の油のべたつき、レジ横のコーヒーマシンのボタンを押す時のわずかな振動。缶コーヒーとペットボトルのバーコードの位置は、もう目をつぶっても分かる。時計を見ると、三時を少し回っていた。空が白むには、まだ時間がある。パーカーのポケットに手を突っ込み、イヤホンを取り出そうとして、やめる。この時間帯、新宿の裏通りで片耳を塞ぐのは、なんとなく嫌だった。「充さん、起きてんのかな」ふと頭に浮かんだ顔に、苦笑いが漏れる。この時間でも、まだ店にいることもある。逆に、今日はとっくに帰っていて、ソファでうつ伏せになってスマホをいじっているかもしれない。玄関の鍵の音に、片手だけひらひら上げて「おかえり」と言う顔が、簡単に思い浮かぶ。駅前の明るい通りから、少しずつ住宅寄りの道に入る。ビルの肩越しに見えていた巨大なスクリーンはもう見えない。代わりに、看板の少ない低い建物と、コンビニの看板がぽつぽつと散っている。アパートへ向かういつもの道を、少しだけ外れて歩く。真っ直ぐ帰るより、一本裏の道を通った方が、コンビニの匂いから早く離れられるのを、身体が覚えていた。曲がり角の手前に、自販機が一台、ぽつんと立っている。白い光が、周りの暗さを余計に際立たせる。喉の奥が、店内の冷房とホットスナックでからからに乾いていたことを、ここでようやく自覚す
last update最終更新日 : 2026-03-03
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72.止めに入る手、止めきれない怒り

桐生の手首を掴んだ瞬間、骨の硬さと皮膚の熱が、掌の内側まで重く食い込んできた。押し返せる、と一度は思った感触は、次の瞬間には怒りで上塗りされる。「離せよ」桐生が低く唸るような声で吐き捨てた。酔いのせいだけではない、奥底まで刺すような苛立ちが混ざっている。「ガキが調子乗ってんじゃねえぞ」そのまま、掴んでいない方の手が、陸斗の肩を乱暴に掴んだ。指先が鎖骨のすぐ上あたりに食い込み、そのままぐっと押し出される。身体が、壁の方へ持っていかれる。咄嗟に足を踏ん張ったつもりだったが、夜道で少し湿ったアスファルトは、スニーカーの底をわずかに滑らせた。背中より先に、右の肩がコンクリートの壁にぶつかる。鈍い衝撃が骨を通って内側に響き、肺の中の空気が「ぐっ」と押し出された。痛い、という言葉になる前に、肩から腕へ、じん、とした痺れが走る。「…っ」声にならない息が漏れた。缶コーヒーを持っていた左手が空を切り、近くの地面に転がってカランと乾いた音を立てる。黒い液体が、夜の路地にぎざぎざのシミを作りながら流れていく。「ちょっと、やめ…」充の声が、半分潰れた形で聞こえた。桐生は一瞬だけ陸斗から目を逸らし、再び充の方へ身体を向け直す。さっきまで掴んでいた腕を取り戻そうとするような動き。肩を壁にぶつけた痛みで、視界の端がじわっと白く滲む。それでも、桐生の背中が充の方へ動き始めた瞬間、足が勝手に路面を蹴っていた。「待ってください」自分の声が、今度はちゃんと音になっていた。壁から身体を離し、痛む肩を庇いながら、一歩、二歩と前に出る。桐生と充の間に、もう一度身体を滑り込ませる。腕を横に開くようにして、道を塞ぐ。目の前の男の顔が、街灯のオレンジに照らされている。額にうっすら浮いた汗。瞳孔がわずかに開いていて、焦点が荒い。怖い、という感覚は、ちゃんとある。胸の中で、何かが小刻みに震えている。しかし、それと同時に、腹の底には硬い塊がひとつ、沈んだまま動かないでいる。
last update最終更新日 : 2026-03-04
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73.夜明け前の湿布

ビルの前まで桐生を見送っていったタクシーのテールランプが、角を曲がって完全に視界から消える。エンジン音が遠ざかるにつれて、さっきまで張り詰めていた裏路地の空気が、じわじわとしぼんでいった。楓が、肩にかけていたカーディガンを直しながら、二人を順番に見た。「今日はもう、素直に帰りなさいよ」「腕、ちゃんと冷やしとけよ。明日絶対痛くなるから」佐伯も、軽く笑ってはいるけれど、その目つきはいつになく真面目だ。「はい…すみません」陸斗が小さく頭を下げると、楓は「謝るのはうちらの方なんだけどね」とぼそりと呟き、すぐにいつものママの顔に戻った。「ほら、帰った帰った。変なの寄ってきたら即電話しなさいよ、どっちも」「わかってる。ありがと」充が、軽く片手を上げて背中を向ける。陸斗も、それに続いて歩き出した。繁華街側から流れてくるカラオケの音や、酔っぱらいの笑い声はまだ途切れていないのに、二人の周りだけ、ひどく静かだった。さっきまで立っていた路地を、少しずつ離れていく。店の看板の光は背中側に回り、前方にはコンビニの白い光と、等間隔に並んだ街灯のオレンジだけが浮いている。アスファルトは、夜露のせいか、ところどころ暗くしみている。スニーカーの底がそこに乗ると、きゅっと小さな音がした。並んで歩きながら、どちらもほとんど口を開かなかった。充は、ポケットに突っ込んだ手のうち、片方を握りしめたり開いたりしている。そのたびに、さっき桐生に掴まれていた陸斗の腕の感触が、勝手に蘇ってきた。横目でちらりと見ると、肘から手首にかけてのラインが、さっきよりほんの少しだけ太く見える。街灯に照らされる角度のせいかもしれないし、実際に腫れてきているのかもしれない。「今すぐ病院って感じじゃねえけど…」心の中でつぶやいて、すぐに打ち消す。声に出したら、本当にそういう話をしなきゃいけなくなる気がした。陸斗は、右腕を少しだけ体側から浮かせて歩いていた。自然とそうなっていた。肩から肘にかけて重さがぶら下がっているような
last update最終更新日 : 2026-03-05
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74.馬鹿か、と震える声

湿布の冷たさが、じわじわと皮膚の奥まで染み込んでいく。メントールの匂いが、狭い部屋の空気にゆっくりと広がる。コンビニの揚げ物の油の残り香と、タバコの焦げた匂いと、洗えきっていない布団の布の匂いに、薄いミントの膜が一枚かぶさったみたいだった。ローテーブルの上には、救急箱と、開けたばかりの湿布の箱と、飲みかけのペットボトルが転がっている。ラベルが少し剥がれて、そこだけ白くめくれ上がっていた。充は、湿布を貼り終えた右腕から手を離すと、そのままテーブルの上のビニールごみをまとめて救急箱に押し込んだ。普段ならもう少し雑に放り投げるところを、今日は妙に丁寧に角を揃えている。沈黙が、数十秒、いやもっとかもしれない時間を、べったりと部屋に貼りついていた。時計の秒針が、カチ、カチ、と規則正しく音を刻んでいる。冷蔵庫のモーターがうなり、換気扇が空気を薄く吸い込む。その合間に、自分と充の呼吸の音が、やけに生々しく耳に触れてくる。右腕は、湿布の下でじんじんと熱を持ち始めていた。冷たさと痛みが同じ場所に同居している。じっとしていればまだ耐えられるが、少し力を入れると、骨の周りのどこかが、ぎゅっと締め付けられるような鈍痛を訴えてくる。陸斗は、湿布を貼られた腕を膝の上に置いたまま、視線を落としていた。白いテーブルの木目が、ところどころ汚れで途切れているのをぼんやり見ているふりをしながら、頭の中ではさっきの路地の光景が、勝手に巻き戻されていた。街灯のオレンジ色、湿ったアスファルト、桐生の指が充の腕に食い込んでいた感触。「やめてください」と言っていた声。自分の喉から飛び出した「やめてください」という声。全部、まだ身体のどこかに張りついて離れない。沈黙を破ったのは、低い声だった。「…痛むか」充が、テーブルの上の湿布の箱を指でつつきながら、視線をそらしたまま問うた。「まあ、動かすとちょっと」陸斗は、できるだけ平坦な声で答えた。本当は「結構痛い」と言ってもいいくらいだが、そう言った瞬間に、さっきの光景がもっと鮮明に蘇ってきそうで、言葉
last update最終更新日 : 2026-03-06
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75.冷戦モードの朝食

アラームの電子音が、枕元で一定のリズムを刻んでいた。耳の奥で何度か反響してから、ようやく陸斗の意識が水面に浮かび上がる。片目だけ開くと、携帯の画面が薄い光を放っていて、時間の数字はいつもより一本分、遅いところを指していた。寝返りを打とうとして、右腕にじわりと重い痛みが走る。湿布の下で、昨夜捻られた骨と筋肉が、まだ抗議の声を上げている。思い出したくない映像が、そこで一瞬だけ、頭の中に割り込んできた。路地の湿ったアスファルト、街灯の下で伸びた三人分の影、男の太い指が自分の腕を捻り上げる感触。それに重なるように、充の怒鳴り声。「やめろ、ガキが」寝ぼけた頭の中には、まだその言葉の残響がくすぶっている。昨夜の、湿布の冷たさと、口の中に残った言い争いの後味まで、まとめて蘇りそうになる。陸斗は目をぎゅっと閉じ直し、大きく息を吐いた。あと五分寝たい、という誘惑と、それ以上横になっていると何か考え込んでしまいそうな予感が、胸の中で押し合いへし合いする。結局、右手でアラームを止め、湿布を貼った左腕を庇うようにして身体を起こした。布団から足を出すと、床の冷たさがじかに伝わる。窓の外にはまだ朝の色がかろうじて残っていて、カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の端に細長い帯を作っていた。寝癖で少し跳ねた髪を手ぐしで押さえ込み、Tシャツの皺を伸ばす。肩を回してみると、腕の痛みがもう一段階、はっきりする。昨夜、充に湿布を押さえられたときの指の感触が、皮膚の奥にまだ残っている気がして、陸斗はそれを振り払うみたいに、手首を一度ぶんと振った。キッチンの方から、油の軽いはねる音と、何かがフライパンの上で転がる音が聞こえてくる。卵だ、と分かる。いつもの、目玉焼きか、スクランブルエッグか、その辺り。それだけで、なんとなく胸の奥が複雑にざわつく。昨夜あれだけ言い合っておいても、朝になれば卵は焼かれるし、トーストも焼かれる。台本の決まった芝居みたいに。洗面所に寄って顔を洗い、冷たい水で頬の火照りを消す。鏡に映った自分の目の下には、うっすらとしたクマができている。睡眠時間の不足と、精神的な
last update最終更新日 : 2026-03-07
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76.夜に逃げ込む日々

カレンダーの紙は、いつの間にか二枚先までめくれていた。冷蔵庫の扉にマグネットで留められたそれは、角が少し丸まり、赤ペンで囲われた丸印がいくつも重なっている。給料日、イベントの日、そして何も書かれていないはずの平日にも、ところどころ小さく「ヘルプ」と書き込まれていた。「みっこ」の名前が並ぶシフト表は、そのカレンダーのすぐ横、Reinaのバックヤードの壁に貼られている。ホワイトボードにペンで埋められたマス目は、今月に限って、やけに黒い印が多かった。「アンタ、今月入りすぎじゃない?」楓の声が、背後から飛んでくる。シフト表の前に立っている充の耳元に、わずかに笑いを含んだ調子で。振り返ると、楓が腕を組んでホワイトボードを覗き込んでいた。派手なネイルの指先で、何日の欄かをコンコンと叩く。「ほらここ。ここも、ここも。ヘルプ出てって言った覚え、そこまでないんだけど」「いいじゃん別に」充は、肩をすくめてみせた。マスクを顎までずらしながら、口角だけで適当な笑いを作る。「金いるんだよ、うち大学生様いるからな」いつもの常套句だった。何度も繰り返してきた台詞は、口の中で転がすだけで勝手に形になる。楓は「出た」とでも言いたげに目を細めた。「便利ねえ、その言い訳。はいはい、良き親代わり」「いやママのおかげで養育費足りてます、感謝してます」軽口を受け止めるように返しながら、充は自分の名前が連なったマス目から、素早く視線を外した。シフト表の白地に書かれた「みっこ」という丸文字は、他人が見ればただの記号に過ぎない。でも、そこには実際の夜の時間が乗っかっている。店の光と、笑い声と、酒の匂いと、タバコの煙と、その裏側にこびりつく疲労と。マスクを外し、鏡の前に立つ。ライトが上から降り注ぎ、まだ何も塗っていない素肌の上に容赦なく影を作る。「…老けたな」冗談半分、独り言でつぶやいた。頬骨の下に浮いた薄い陰、目の下のクマ。コンシーラーを丁寧に叩き込んでも、完全には消えない色がある。笑い皺だと誤魔
last update最終更新日 : 2026-03-08
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77.六法とイヤホン

学内掲示板の前は、いつも人の流れがゆっくりになる。昼休みの終わりかけ、まだ吐く息の白さが残る季節。廊下の窓から差し込む曇りがちな光が、貼り紙のビニールをくすんだ色で反射していた。陸斗は教室へ戻るつもりで歩いていて、ふと足を止めた。「司法試験・ロースクール説明会」太いフォントのタイトルの下に、小さめの文字がぎっしり並んでいる。「法曹志望者向け」「合格者の体験談」「被害者支援」「公共性」という単語が、視界の中でところどころ浮き上がった。入学してから何度か見たような気もするし、初めて目に入ったような気もする。去年の自分なら素通りしていただろう、とぼんやり思う。紙の端に、マジックで書かれた日時と教室番号。今日のこのあと。講義と講義の合間、空きコマだ。「…ふうん」声にならない漏れが、喉の奥から出た。別に興味があるわけでも、ないわけでもない。単に「どうせ何もない時間だし」という程度の軽さで、陸斗はスマホを取り出し、カメラでポスターを撮った。教室では、次の授業の準備でざわつきが始まっている。席に戻ってもいいが、今戻れば隣のやつと他愛のない会話が始まりそうだし、あの気まずい朝の空気をぼんやり思い出してしまいそうだった。「…行ってみるか」自分にだけ聞こえる声でそう呟くと、掲示板を背にして方向を変えた。説明会が行われる教室は、普段はゼミで使われる少し小さめの部屋だった。パイプ椅子が二列ほど並び、前にはスクリーンが降りている。まだ人はまばらで、空気が少し冷たい。前の方にはスーツ姿の男が数人、スタッフらしき事務の人と話していた。ネクタイの色もスーツの皺も、どこか「きちんと」した感じがして、陸斗は少したじろぐ。後ろの方の椅子に座り、配られた資料をぱらぱらとめくる。紙のこすれる音が重なり合って、小さなざわめきになっている。一人の男が前に出て、マイクを手に取った。卒業生の一人だと紹介される。黒縁の眼鏡に落ち着いた色のスーツ。年齢は二十代後半くらいだろうか。「こんにちは。今日は、司法試験を目指したきっかけとか、勉
last update最終更新日 : 2026-03-09
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78.鍵の音を追いかける耳

玄関の鍵が回る音は、不思議なくらいよく響く。金属が噛み合うちいさな音が、古い廊下を伝って、この部屋の空気を揺らす。何年も同じ部屋に住んでいると、その音だけで「誰が」「どんなテンションで」帰ってきたのかが、だいたい分かるようになる。最近は、その音を意識しないようにすることの方が難しくなっていた。ある日の夕方、予定されていた講義が急に休講になった。教授の体調不良、と掲示板には書かれていた。教室のざわめきが一瞬だけ増え、「ラッキー」と笑う声もいくつか聞こえてくる。陸斗は、友人たちが「どこ行く? 飯?」と盛り上がる横をすり抜けて、キャンパスの出口へ向かった。ついていけば、適当に安い店で時間を潰して、また夜遅くに帰ることになる。それも悪くない。けれど今日は、なぜか「早く家に帰って、机に向かいたい」という気持ちの方が勝った。普段より一本早い電車に乗る。車内はまだ通勤ラッシュ前で、席もちらほら空いている。窓の外を流れていくビルの隙間から、傾きかけた冬の光が差し込んで、座席の布を淡く照らしていた。最寄り駅で降りると、いつもより空が明るいことに少し驚く。商店街のシャッターはまだ半分も閉まっていないし、八百屋の前には値引き前の野菜が山になっている。アパートの階段を上がり、いつものように鍵を取り出す。金属の冷たさが、指先にじんわり伝わる。鍵穴に差し込み、ゆっくり回した。カチリ。その瞬間、部屋の奥から、布団が擦れるような音が微かに聞こえた。さらに、きゅっとスプリングが沈むような感触を伴った、誰かの寝返りの音。充だ。そう思った瞬間、胸の奥がきゅっと縮んだ。靴を脱ぐとき、いつもより動作をゆっくりにする。かかとを床に当てないように、靴下のつま先に体重を移しながら、そっと玄関マットに足を置く。ドアを閉める音も、できる限り小さく。完全に音を消すことはできないけれど、自分の出す気配をできるだけ薄くしたかった。リビングに入ると、カーテンは半分ほど閉められていた。外の光が隙間から漏れ込んで、部屋の中に細い筋を落としている。その代わり、寝室のマットレスの上には、布団
last update最終更新日 : 2026-03-10
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79.夜明けの寝顔に止まる手

マンションの廊下は、夜と朝の境目みたいな匂いがしていた。酒とタバコと、どこかの部屋から漏れてくる柔軟剤の甘い香りが、冷えた空気の中で薄く混ざり合っている。その上に、遠くで鳴き始めた鳥の声が、まだ控えめに乗っていた。イベント営業で押した時間分、空はすっかり白みかけている。帰り道に寄ったコンビニのビニール袋を片手にぶらさげながら、充は自分の部屋の前で立ち止まった。鍵を取り出す。いつもの癖なら、眠気に任せてガチャガチャと雑に回すところを、今日は指先に妙な神経が集まっている。金属をそっと鍵穴に差し込み、音が立たないように意識してゆっくり回した。カチリ。いつもよりずっと小さな音のはずなのに、自分の耳にはやけに大きく響いた気がする。ドアノブを握る手に力を込めすぎないように、ゆっくりと扉を引く。蝶番がきいと鳴りそうなところで一度止めて、音を殺すように隙間を開けた。冷たい外気が、薄い線になって部屋の中へ滑り込んでいく。中は暗い。玄関の足元だけが、外の明るさでぼんやりと浮かんでいる。靴を脱ぐとき、かかとを床に打ちつけないように気を遣った。片足を抜いて、もう片足。マットの上できちんと揃える。いつもならどうでもいいと放り出すところを、今日は無言で並べる。起こしたくない、という気持ちと、起きていればそれはそれで面倒だ、という気持ちが、同じくらいの重さで胸の中に居座っている。ビニール袋がカサ、と鳴った。それを静かに持ち直しながら、充は薄暗い廊下を進む。リビング兼寝室のドアを開けると、カーテンの隙間から細い朝の光が一本、床に落ちているのが見えた。その光が、ローテーブルの端をかすめている。蛍光灯は消えたまま。部屋の中の輪郭はぼやけているが、テーブルの上に積み重なったものだけは、見慣れた影として目に入ってきた。分厚い六法、参考書らしき本、ノート、蛍光ペン。空になったマグカップ。キャップの外れたボールペン。そして、その横。うつ伏せに近い姿勢で、テーブルに突っ伏している陸斗の背中があった。片腕はノートの上に投げ出され、指にはまだ
last update最終更新日 : 2026-03-11
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80.常態になった沈黙

ベランダの外に見える街路樹の葉が、いつの間にか濃い緑になっていた。春先には、まだ枝の先に申し訳程度の若葉しかついていなかったはずだ。それが今は、重たげなほど茂っている。窓ガラス越しに見ると、風が吹くたびに光と影のまだらがじわりとずれる。朝の光は容赦がない。蛍光灯よりも白く、テーブルの上のパンくずや、使い込まれたマグカップの欠け、古いフローリングの傷までくっきり浮かび上がらせる。キッチンの時計は、九時を少し回ったところで止まっている…ように見えるが、単に陸斗がそれを見ていないだけだった。卵が焼ける音と、トースターのチンという音が、ルーティン通りに朝を進めていく。コンロの前では、充がフライパンを振っていた。油の跳ねる音と、バターの甘い匂い。Tシャツ一枚の背中が、コンロの火でほんのり赤く染まって見える。髪は寝起きのまままとめてもいない。首筋のところに、昨夜の枕の跡が薄く残っていた。陸斗は、トースターの前に立ち、焼き上がった食パンを二枚、同じ皿に乗せる。前と同じように、真ん中で切り分ける。片方を自分の皿に、もう片方を充の皿に移す。この手順は、ずっと変わらない。変わったのは、そこにほとんど言葉が挟まらなくなったことだけだ。「…おはよう」トースターの熱が少し落ち着いたタイミングで、陸斗は一応、口を開く。コンロの火を弱めながら、充が短く答えた。「ああ」顔はほとんどこちらを向かない。卵の状態を確認する視線のまま、声だけが飛んでくる。キッチンの狭さが、妙に広く感じられる。シンクと冷蔵庫の間に交わるはずの視線が、今日は別々の場所を見つめたまま、どこにもぶつからない。フライパンの中で、卵がじゅう、と音を立てた。黄身がきれいに真ん中に残っている目玉焼きが二つ、皿の上に滑り落ちる。そのままテーブルまで持っていく充の動きを、陸斗はわずかに距離を取って先に譲った。ソファ代わりの布団の向かい側、壁に近い方の席に充が座り、テレビのリモコンを無造作に取る。ニュース番組の音が、部屋の空気に乗った。陸斗も
last update最終更新日 : 2026-03-12
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