LOGIN殉職警官・慎一は、事件の夜、充をかばって刺された。「陸斗を頼む」―― 遺言を託された充は、父を失った高校生・陸斗を引き取り同居を始めるが、後見人手続き、学費、家計は容赦なく生活を削る。 生活のため充はニューハーフバー「Reina」で“みっこ”として働き始める。 狭い部屋に増える書類、足りない金、追いつかない眠り。 陸斗は“守られる側”として成長しながら、充の笑顔が他人に向けられるたび胸が痛む。 大人になった陸斗は告白し、充は「お前の父を裏切れない」と拒む。決裂の果て、墓前でぶつかる本音が遺言の意味を変えていく。
View More目覚ましの電子音が、薄いカーテン越しの青い光を震わせるように鳴った。
ベッドの上で丸くなっていた長谷陸斗は、枕に顔を押しつけたまま手だけ伸ばし、枕元のスマホを探った。何度か空を切って、ようやく端末を掴み、画面も見ずにアラームを止める。
部屋はまだ完全には明るくない。官舎の二階、六畳の洋室。教科書と参考書が積まれた棚、机の上には昨夜開きっぱなしの問題集と、途中で乾いたままの蛍光ペンが一本転がっている。壁際には、安いフレームに入れた家族写真がひとつ。小さい頃の自分と、若い父と、少しだけふっくらした母が並んで笑っている。
布団から上半身を起こすと、ひやりとした空気が肌に張りついた。秋口の朝の冷たさだ。窓際のカーテンの隙間から差し込む淡い光が、空気中の埃を細かく浮き上がらせている。
「……おきろ」
自分に向かって呟くように言ってから、陸斗は布団をはいだ。足裏が畳ではなくフローリングの冷たさを受け止める。スリッパを履き、首と肩を回しながら大きく伸びをする。
廊下の向こうから、僅かに食器の触れ合う音と、テレビのニュースキャスターの声が聞こえてきた。低く平板な、朝の情報番組のトーン。それに混じって、出勤する車の音や、官舎の廊下を走る子どもの足音もかすかに届く。
いつもの朝だ、と陸斗は思う。
洗面所に行き、冷たい水で顔を洗いながら鏡をのぞく。濡れた前髪が額に張りつき、睫毛から水滴が落ちる。少し伸びてきた黒髪と、寝不足でわずかに赤い目。高校二年にもなれば、自分の顔のつくりがそれなりに整っていることくらいは分かっていたが、見慣れたそれに特別な感想は抱かない。
タオルで顔を拭き、洗面所を出ると、ダイニングキッチンから味噌汁の匂いが流れてきた。だしと、わかめと、豆腐。鼻の奥に馴染んだ香りが染み込む。
ダイニングに入ると、四人掛けのテーブルに新聞が広げられ、その向こう側に父の慎一が座っていた。ジャージ姿に、警察手帳の入った小さな黒いポーチが椅子の背にかけられている。片手で湯気の立つマグカップを持ち、もう片方の手で新聞のページをめくっていた。
「おはよう」
父が、新聞から顔を上げずに言う。
「……おはよう」
陸斗も、少し声を掠らせて返す。眠気の残る身体で椅子に座ると、テーブルの上に既に用意されている朝食が目に入った。焼き鮭、卵焼き、サラダ、白いご飯、小さな味噌汁椀。彩りはシンプルだが、どれもまっすぐな線で並んでいる。
「味噌汁、冷める前に食えよ」
父が、マグを一口含んでから言った。
「うん」
箸を取り、味噌汁を一口すすると、舌に塩気とだしの旨味が広がった。胃のあたりがじんわりと温まる。外の廊下を誰かが駆ける足音がして、扉越しに母親らしき声が飛んだ。
「走らないの!」
子どもの「はーい」という返事が続く。官舎らしい朝の騒がしさ。隣の部屋からは、ニュース番組の音と、一緒に笑う家族の低い声が漏れている。
父は新聞から視線を上げ、時計をちらりと見た。壁に掛けられたデジタル時計は、七時三十分少し前を示している。
「今日、帰り遅くなるかもしれん」
「また夜勤?」
「いや、夕方からの当番。そのまま残るかもしれんけどな」
父は新聞を畳みながら答えた。その表情に特別な影はない。ずっと見てきた、公務員の父の、ごく普通の出勤前の顔だった。
「またかよ」
陸斗は、わざとらしく大げさなため息をつきながら言った。
「こっちはテスト前なんだよ。家にいてもらわないと、集中できないんだけど」
「それは嘘だな」
慎一は淡々とした口調で言い、新聞をテーブルの端に置いた。口元が、少しだけ緩む。
「俺が家にいるときの方が、勉強してないだろ。この前なんか、一緒に刑事ドラマ二本見てたじゃないか」
「それは、父さんが勝手にテレビつけるから」
「俺のせいか」
「父親のせいってことにしときたい年頃なんだよ」
自分で言って、自分で少し笑う。父も肩を揺らした。
「テスト、いつからだ」
「来週」
「じゃあ、今週はテレビ禁止だな」
「ちょっと待って、それは話が違う」
「今度のテスト結果見てから機嫌決めるか。平均七十切ってたら、刑事ドラマ一ヶ月禁止な」
「それ、俺の人権に関わると思う」
「じゃあ勉強すればいい」
父のやりとりは、いつもこうだった。柔らかい冗談に、現実的な一言を混ぜる。押しつけがましくはないのに、逃げ道を作りすぎもしない。そのバランスに、長い時間をかけて慣らされてきた。
卵焼きをひとつ頬張りながら、陸斗は斜め向かいの父を眺めた。
少し寝不足そうな目の下に、薄いクマがある。髪にところどころ白いものが混じり始めたが、まだ全体としては若々しい顔だった。制服ではなくジャージ姿なのは、夜勤明けで一度戻ってきたからだろう。さっき玄関前で、同じ階の奥さんに小さく会釈していた気配があった。
父のマグカップには、黒いコーヒー。表面から立ちのぼる香りは苦味が強く、子どもの頃はそれだけで顔をしかめていた。いまは、その匂いを嗅ぐと「父がいる朝だ」と胸のどこかが落ち着いた。
「今日の晩飯どうする」
父が、味噌汁を飲み干しながら尋ねた。
「別に、適当にコンビニでもいいよ」
「適当は禁止だ。腹は正直だからな」
「じゃあ、なんか作っといてよ」
「俺がか」
「夜勤じゃないなら、できるよね。父さんの得意料理って何」
「カレーならいくらでも食える」
「作る方の話してるんだけど」
「作る方もカレーだ」
即答する父に、陸斗は思わず笑った。
「カレー以外のレパートリー増やした方がいいと思う」
「お前が増やせ」
「俺?」
「高校二年だろ。そろそろ自炊くらい覚えてもいい頃だ」
父の言うことは、正論だ。正論なのだが、朝からそれを真正面から受け止める気力はなかった。陸斗はお茶を飲み、少しだけ視線をそらす。
テーブルの端、冷めてきた湯のみの向こうに、写真立てが見えた。数年前の写真。病院のベッドの上で、痩せた母が笑っていて、その両側に父と幼い自分が座っている。
母が死んだのは、小学四年のときだ。長くはなかったが、確かに病院に通い詰めた時間がある。あの日も、やはりこうして朝食を食べて、父に連れられて病院に行った。あの日の味噌汁の味や、病室のカーテンの色までは覚えていない。ただ、父がいつもより口数が少なかったことと、母が少し息苦しそうに笑っていたことだけが、ぽつぽつとした点のように残っている。
あのとき、父は泣かなかった。ただ、いつも通りの声で「宿題やれよ」と言った。葬儀のあとも、四十九日のあとも、生活を淡々と続けていくことに必死だったのだと、今になって分かる。
父は、自分の悲しみをきちんと見せたことがない。見せないまま、「普通の暮らし」を続けることで、二人分の喪失を支えようとしていた。
「どうした」
写真を見つめていた視線に気づいたのか、父が問うた。
「別に」
反射的にそう答えてから、少し間を置く。
「…母さんのこと、ちょっと思い出しただけ」
父は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。その仕草は、誰かに見られることを前提としていないものだった。
「そうか」
短く言ってから、マグカップをテーブルに戻す。カップが木の天板に当たる小さな音が響いた。
「…なんか、夢見た気がして」
陸斗は、自分でも意外な言葉を口にしていた。今朝方の夢は、すでに輪郭がぼやけている。ただ、白い病室と、笑う母の顔と、「いってらっしゃい」という声だけが残っていた気がする。
「夢?」
「うん。細かいとこは忘れたけど、母さんが…」
彼は言葉を探し、見つからなくて、結局肩をすくめる。
「なんか、元気そうだった気がする」
父はしばらく黙っていた。テレビからは、どこかの国の選挙のニュースが流れている。経済だの景気の先行きだの、遠い話ばかりだ。
「…元気だよ」
ようやく絞り出された父の声は、普段より少し低かった。
「写真の中じゃいつも元気だ。あいつは、そういう顔しか残さなかったからな」
陸斗は、視線を写真に戻す。白い枕に頭を預けた母の顔は、確かに笑っている。頬は少しこけていても、目元は柔らかい。
「…うん」
そう返して、箸を動かした。朝から重くなりすぎないように、いつもどおりの調子を保つことが、父との暗黙の約束のようにも感じていた。
「そういえばさ」
話題を切り替えるように、陸斗は口を開いた。
「今度の模試で、英語と数学上がったら、なんかご褒美くれるって言ってたよね」
「言ってないな」
即座に否定される。
「言ってた。たぶん言ってた」
「たぶんは当てにならん」
父はわずかに笑いながら、片付けに立ち上がる。空になった味噌汁椀を持ち、シンクに運ぶ音がする。水道の蛇口をひねる音と、流れる水が陶器を叩く音。日常の音たちが、小さな官舎の部屋に満ちる。
「じゃあ、今言ってよ」
陸斗は追い打ちをかけるように言った。
「今度の模試で英語と数学七十超えたら、なんかひとつ買ってくれるって」
「七十どころか、前回の数学お前五十八だったろうが」
「そこを伸び代と呼ぶんだよ」
「伸び代は自分で伸ばせ」
冷たいようで、それ以上でもそれ以下でもない返し方だった。父のそういうところが、嫌ではなかった。むしろ、自分の甘えが見透かされている安心感すらあった。
テレビから、天気予報に変わるジングルが流れた。今日の東京の最高気温は二十二度、最低十五度。通学にはカーディガンがあると良いでしょう、と明るい声が告げる。
「傘、持ってけよ」
キッチンから、父の声がした。
「え、晴れるって」
「午後から一時的に降るって言ってただろ。どうせ部活帰りに降られて、びしょ濡れで帰ってくるんだから、先に対策しろ」
「部活ない日でも言うじゃん、それ」
「予防だ」
からかい半分のやりとりを続けながら、陸斗はご飯を平らげ、箸を揃えて茶碗の横に置いた。椅子から立ち上がり、自分の食器をシンクへ運ぶ。その横で父がスポンジを握り、洗い物を始めている。袖を捲った腕に、細い筋肉がついているのが見えた。
ふと、父の横顔を見上げる。顎のラインに沿って薄く髭が伸びている。剃るタイミングを逃したのだろう。夜勤明けの日は、だいたいこんな感じだ。
「父さん」
「ん」
「…また、帰ってきたら飯作るからって言っていい?」
自分でもよく分からない言葉が口をついた。いつかの夜勤前、同じようなことを言った記憶がある。あのときの父の笑い方や、玄関で交わした「行ってきます」「いってらっしゃい」の響きが、不意に鮮明に蘇る。
父は少し目を丸くしてから、顔を洗い物に戻した。
「作る気があるなら、いいんじゃないか」
「カレー以外だよ」
「条件が多いな」
「当然でしょ」
冗談めかしながらも、心臓の奥の方が少しだけ早く打っているのを、陸斗は自覚していた。何かを確かめたいような、何かを聞き出したいような、しかし、まだその「何か」が自分でもはっきり形になっていないような、不思議な感覚。
洗面所から戻ってきた父が、タオルで手を拭きながら時計を見る。
「そろそろ支度しろ。電車一本逃したら、また走ることになるぞ」
「分かってる」
陸斗は自室に戻り、クローゼットから制服のブレザーを取り出した。白いシャツにネクタイを通し、鏡の前で結び目を整える。ネクタイの長さを何度か直していると、母がよくしてくれた手つきが思い出された。昔は、ぶかぶかの小学校のネクタイを母の指が器用に整えてくれたものだ。いま、その役目は完全に自分に移っている。
鞄に教科書を詰め直し、机の端から筆箱と単語帳を放り込む。最後に、充電器につながれていたスマホを抜き、ポケットに滑り込ませた。
部屋を出ると、ダイニングのテーブルに、黒い弁当箱が置かれていた。ふたには、見覚えのある小さな傷がついている。何度も落として、何度も洗ってきた印だ。
「弁当」
父が、冷蔵庫から牛乳を出してグラスに注ぎながら言った。
「冷蔵庫入ってるから、出る前に取りなさい。今日は卵焼きうまくできた」
「ほんとに?」
「ほんとにだ」
「じゃあ楽しみにする」
グラスの牛乳を一気に飲み干し、陸斗は玄関へ向かった。靴箱の上には、鍵と、父の警察手帳が一時的に置かれている。壁のフックには、ネイビーのジャンパーと黒いコート。
スニーカーを履き、しゃがんだ姿勢のまま靴紐を結んでいると、背後で足音がして、父が玄関に現れた。
ジャージの上に、紺色のジャンパーを羽織っている。そのポケットには、さっきの黒いポーチが収まっていた。
「駅まで一緒に行くか」
「いいよ。父さん、そこから署の方が遠回りじゃん」
「歩くの嫌いじゃない」
「俺が嫌なんだけど」
腰を上げながら言うと、父は肩をすくめた。
「高校生にもなると、父親と並んで歩くのが恥ずかしい年頃か」
「…そういうわけじゃないけど」
「どっちだ」
「…どっちでもいい」
答えになっていない返事に、父は小さく笑った。
「じゃあ、ここで我慢してやる」
「何を」
「俺の父親としての出番を」
その言い方に、陸斗は一瞬言葉に詰まった。冗談のようでいて、どこか本音が混じっている気がしたからだった。
父は靴を履きながら、扉の鍵の方をちらりと見る。
「行ってきます」
当たり前のようにその言葉を口にされた瞬間、胸の中に小さな波紋が広がる。
「…いってらっしゃい」
返す声は、自分でも驚くほど素直に出た。言ったあとで、少し照れくさくなり、視線を靴のつま先に落とす。
ドアが開くと、廊下の冷たい空気と、他の部屋の生活の匂いが入り込んできた。味噌汁の残り香、洗剤の香り、子どもの笑い声。遠くで、出動するパトカーのエンジン音も聞こえる。
父は一歩外に出て、振り返る。
「カギ、ちゃんとかけて出ろよ」
「分かってる」
「変な勧誘来ても開けるな」
「こう見えてももう高校生なんだけど」
「高校生が一番騙される」
そう言って、父は片手をひょいと上げた。大げさでもなく、照れくさそうでもなく、ただ日常の一部としての仕草だった。
ドアが閉まるまでの一瞬、父の背中が見え、その向こうに長い官舎の廊下が続いているのが見えた。窓から差し込む朝の光が、廊下の床に帯のような影を落としている。
ドアが閉じる音は、いつもよりほんの少しだけ遅れて聞こえたような気がした。金属のラッチがはまる乾いた音が、胸の奥で小さく反響する。
陸斗は、その場に立ち尽くし、しばらくドアの方を見つめた。ノブには、父の体温がまだ残っているような気がする。手を伸ばして触れようとして、途中でやめた。
なんとなく、変な胸騒ぎがした。
理由は分からない。母の夢を見たからかもしれない。さっきの会話のせいかもしれない。父の「出番を我慢する」という言葉のせいかもしれない。
言葉にならない違和感が、喉の奥に小さな棘のように引っかかったままだった。
学校に遅れる、と頭のどこかで冷静な声が告げる。彼はその声に従うように、寝室に戻り、鞄を肩にかけた。ダイニングのテーブルから弁当箱を取り、玄関に戻る。
靴紐をもう一度確かめ、鍵を手に取る。ドアを開けると、廊下の空気が頬を撫でた。外の光はさっきより少しだけ強まっている。遠くから、誰かの「行ってきます」という声が聞こえた気がした。
陸斗は、振り返らないまま官舎の廊下を歩き出した。階段を降り、外に出ると、朝の光が一気に目に飛び込んでくる。マンションの前の駐車場には、既に何台かの車が出払っていて、その空いたスペースのアスファルトが冷たく光っていた。
空は、薄い雲に覆われている。天気予報どおりなら、午後には少し雨が降るのだろう。今はまだ、雨の気配はどこにもない。
鞄の中で、弁当箱が小さく揺れて音を立てた。その音が、妙に心に残った。
何も特別なことは起きていない。ただ、いつもの朝だ。いつもと変わらない時間が、いつもと同じように流れている。そう自分に言い聞かせるように、陸斗は駅へ向かって歩き出した。
この時の彼は、玄関で交わした「行ってきます」と「いってらっしゃい」が、もう二度と同じようには戻ってこない言葉になるのだということを、まだ知らなかった。
充は床に落ちた沈黙を、足で踏みつけるみたいにして立ち上がった。膝が鳴る。引っ越しで酷使した筋が、今になって遅れて抗議してくる。立ったことで視界が少し高くなり、段ボールの山の向こうに、キッチンの白い壁と、まだしまわれていない鍋の取っ手が見えた。生活の形が整いきっていない。その未完成さが、逆に今夜の言葉を逃がさない。何も置かれていない場所ほど、落ちたものがはっきり見える。床に座ったままの陸斗は、視線だけで充を追った。追うのに、追い詰めるような顔はしない。怒りも、勝ち誇りもない。だから余計に、充は腹の奥が冷たくなる。守ってきたつもりの線が、静かな手つきでほどかれていく感覚がある。充はリビングとキッチンの境目に立った。フローリングの色が変わるライン。そこに置かれた踏み台の段差が、目印みたいに小さく主張している。ここから先は、料理をする場所だ。洗い物をする場所だ。二人で同じ鍋を使って、同じ冷蔵庫の匂いを共有する場所だ。二人の家。さっきまで、その言葉を口にするだけで胸の奥に少しだけ暖かいものが湧きかけていたのに、今は逆だ。暖かさは燃え移りやすい。燃え移ったら、何かが焦げる。充は喉を鳴らした。吐く息が短い。言葉を組み立てるための息が足りないのに、無理やり吸い込むと、段ボールの紙とコンビニ弁当の残り香が混ざった匂いが肺の奥に入ってきた。塩気の残る揚げ物の匂いが、胃のあたりを重くする。笑いながら食べたかったはずの夜の匂いが、今はただの現実としてまとわりつく。充はようやく、理屈を掴んだ。理屈なら、長年握ってきた。理屈は、夜の街で自分を守る鎧だったし、家で沈黙を続けるための柱だった。理屈を立てれば、感情は後ろへ押し込める。押し込めたまま生き延びられる。充は唇を噛み、視線を陸斗からわざと外して言った。陸斗の顔を見てしまうと、声が揺れるからだ。「長谷さんを裏切ることになる」言った瞬間、胸の奥がひりついた。裏切るという言葉が、自分の舌の上で重い。慎一に対して、というよりも、慎一の名前に頼って生きてきた自分に対しての言葉みたいに響く。陸斗は、すぐに口を挟まなかった。待つ。待って、言葉が自分の中で形になるのを見ている。充はその沈黙が怖くて、続けた。早口にならないよう
段ボールの山は、引っ越しの熱をまだ吐ききれずに、部屋の隅々で紙の匂いを立てていた。新品の壁紙は無臭で、だからこそテープの粘着剤と埃と汗の混じった匂いが、どこにも逃げずに浮かんでいる。仮につけた照明の白さが、床に落ちた影の輪郭をくっきりと削り出し、影だけが必要以上に濃い。窓の外からは、新宿の車の遠い音が途切れずに流れてくる。救急車ではない、誰かの生活が動いているだけの音。タイヤの擦れる湿った低音が、ガラス越しに薄く震え、しばらくして消える。その繰り返しが、部屋の静けさを逆に際立たせていた。充は床に座ったまま、掌の汗が冷えるのを感じていた。膝の上に置いた手が、どこか他人のものみたいに重い。背中の筋肉が固まって、肩甲骨のあたりが妙に痛む。さっきまで引っ越しで使っていた力とは別の、内側から自分を押し広げるような痛みだった。口から出た音は、自分でも間抜けに聞こえた。言葉になり損ねた、息だけの破片。「……は?」それが、ここにある。白い照明と、段ボールの影と、コンビニ弁当の空の容器と一緒に、床の上に落ちている。拾い上げて捨てることもできず、足で踏んで誤魔化すこともできず、ただそこに残っている。陸斗は、向かいで同じように床に座っていた。段ボールを背にして、背筋だけが妙にまっすぐだ。コンビニの箸を持った指先も、さっきからほとんど動かない。目線は充のほうにある。視線を逸らさない。逃げ道を与えない。怖いのは怒鳴られることじゃない。泣かれることでもない。こんなふうに、静かに、落ち着いた顔で待たれることだと、充は今さら理解した。喉の奥が乾いて、舌が上あごに張り付く。息を吸うと、鼻の奥に段ボールの紙の匂いが刺さる。吐くときには、何も出ていかない。胸の中だけが重くなっていく。頭の中では、さっきの声が何度も再生される。音量を下げても、止まらない。むしろ、静かにすると鮮明になる。新しい部屋の静けさは、音を吸わない。言葉が落ちた場所を、そのまま残してしまう。「俺は、充さんのこと、そういう意味で、好きです」言い方がずるい、と充は思った。敬語のまま、距離を保ったまま、でも刃の先だけは確実に胸の奥に届く言い方。熱に任せた告白じゃない。勢いで押し倒すみたいな言葉じゃない。数年分、黙って積み上げてきたものを、きちんと順番に並べて、最後に一枚だけ机の上に置いたみたいな声だった。充は、その声を
照明の白さが、段ボールの角をやけに鋭く見せていた。仮に取りつけたシーリングライトは、まだこの部屋の癖を知らないみたいに均一な光を落とし、床の上の影だけを濃くする。紙の匂いが、汗の塩っぽさと混ざって鼻の奥に残っている。引っ越しの一日で擦れた指先が熱を持ち、爪の根元が少し痛む。充は布団の上で横になりきれず、半身を起こした。背中の下でフローリングが硬い。硬さが、眠りを拒む。隣の部屋から聞こえたはずの紙の音は、いつの間にか消えていた。陸斗が六法を閉じたのか、眠りに向かって体勢を変えたのか。音が途切れると、空間が急に広がる。静けさが、段ボールの山の隙間からじわじわ入り込んでくる。旧アパートの薄い壁越しの生活音とは違う。ここは、音がないことが当たり前になれる。だから怖い。音がないまま、相手の存在を見失っても成立してしまう。充は耳を澄ませた。冷蔵庫のモーターが小さく唸り、遠い道路の車が一定の間隔で通り過ぎる音がする。どこかの部屋で水が流れる気配がした。集合住宅の音はあっても、ここにいる二人の音は薄い。二人の息遣いだけが、余計にはっきりする。息をするだけで、腹の奥が重い。今日、ぼろアパートの外階段を何往復もしたせいか、腰が固まったままだ。体の芯に疲労が沈殿している。もう何年も続いた朝のだるさや、メイクのヨレや、戻りの遅さが、ただの不調じゃなく生活そのものの警告だったと、今ははっきり分かる。引っ越しが終わったからといって、それが消えるわけじゃない。むしろ、こういう節目が来るたびに、体が追いつけないことだけが目立つ。充は指先で、布団の縁を無意識に撫でた。布の繊維のざらつきが、眠気を遠ざける。眠ってしまえば、考えなくて済む。考えなくて済む時間が欲しい。けれど考えが勝手に浮かぶ。計画。手順。フェードアウト。自分の中に作った言葉が、今夜はやけに具体的に形を持ってしまう。陸斗が大学を卒業して、司法試験に受かって、司法修習生になって、月々の金が通帳に入るようになって、社会の中に正式に組み込まれていく。弁護士事務所が決まって、スーツで出勤するようになって、名刺ができて、生活の時間帯が変わっていく。そうなったら、もう自分が口を出す場所はない。守る側を降りるのが正しい。自分が居座るのはズルい。慎一に対しても、陸斗に対
朝の新宿は、いつもより輪郭が硬かった。空気の中に排気と湿り気が混ざり、歩道の端に残った昨夜の酒の匂いが薄く漂っている。充は古いアパートの外階段の踊り場で立ち止まり、手すりに手を置いた。金属の冷たさが掌に貼りつき、指の関節の奥までひやりと染みる。三階。それだけの高さが、ここ数年ずっと生活の天井だった。仕事から帰ってくるとき、眠りから起き上がるとき、何度も繰り返した上り下り。息が上がる日も、足が軽い日もあった。けれど最近は、息が軽い日が減っていた。ずいぶん前から自分が認めたくなかった事実が、体の方から先に答えを出してくる。朝の段差が、夜よりきついと感じるようになっている。充は息を吐き、階段の下を見下ろした。敷地の端に停まった軽トラックの荷台が、日光を反射して眩しい。引っ越し業者ではない。陸斗が手配したレンタカーで、運転も陸斗がするらしい。細かい段取りを、もう当たり前の顔で進める。陸斗は一階の前で、段ボールの端を指で押さえながら、メモ用紙を確認していた。スーツではない。動きやすい服に着替えているが、姿勢と目線がもう社会のものになっている。目の前の作業をこなしながら、次の手順を既に考えている顔だ。充は自分の喉が乾くのを感じた。あのぼろアパートの湿った匂いが、背中にまだ張りついている。玄関の鍵穴の癖、ドアのきしみ、薄い壁の向こうから聞こえてくる隣の咳払い。そんなものが、生活の全部だったのに、今日で終わる。終わる、と言い切るのは簡単だった。終わることを望んでいるふりをするのも簡単だった。けれど終わりの手触りが、いざ目の前に来ると、胸の中がざわつく。終わらせたくないのか、終わらせるべきなのか、その判別すらもう面倒で、ただ体が重い。充は踊り場から降り始めた。段を踏むたびに、軋みが靴底に伝わる。木の芯が擦れるような、古い音。何年も同じ場所で鳴り続けた音だ。手すりを握ると、塗装の剥げた部分が指先に引っかかる。爪の脇がわずかに痛んだ。陸斗が充の足音に気づき、顔を上げた。「起きてたんですね」充は肩をすくめる。「寝てられるかよ。今日だろ」陸斗はそれ以上言わずに頷き、段ボールを抱え直した。返事が短い