Masuk殉職警官・慎一は、事件の夜、充をかばって刺された。「陸斗を頼む」―― 遺言を託された充は、父を失った高校生・陸斗を引き取り同居を始めるが、後見人手続き、学費、家計は容赦なく生活を削る。 生活のため充はニューハーフバー「Reina」で“みっこ”として働き始める。 狭い部屋に増える書類、足りない金、追いつかない眠り。 陸斗は“守られる側”として成長しながら、充の笑顔が他人に向けられるたび胸が痛む。 大人になった陸斗は告白し、充は「お前の父を裏切れない」と拒む。決裂の果て、墓前でぶつかる本音が遺言の意味を変えていく。
Lihat lebih banyak目覚ましの電子音が、薄いカーテン越しの青い光を震わせるように鳴った。
ベッドの上で丸くなっていた長谷陸斗は、枕に顔を押しつけたまま手だけ伸ばし、枕元のスマホを探った。何度か空を切って、ようやく端末を掴み、画面も見ずにアラームを止める。
部屋はまだ完全には明るくない。官舎の二階、六畳の洋室。教科書と参考書が積まれた棚、机の上には昨夜開きっぱなしの問題集と、途中で乾いたままの蛍光ペンが一本転がっている。壁際には、安いフレームに入れた家族写真がひとつ。小さい頃の自分と、若い父と、少しだけふっくらした母が並んで笑っている。
布団から上半身を起こすと、ひやりとした空気が肌に張りついた。秋口の朝の冷たさだ。窓際のカーテンの隙間から差し込む淡い光が、空気中の埃を細かく浮き上がらせている。
「……おきろ」
自分に向かって呟くように言ってから、陸斗は布団をはいだ。足裏が畳ではなくフローリングの冷たさを受け止める。スリッパを履き、首と肩を回しながら大きく伸びをする。
廊下の向こうから、僅かに食器の触れ合う音と、テレビのニュースキャスターの声が聞こえてきた。低く平板な、朝の情報番組のトーン。それに混じって、出勤する車の音や、官舎の廊下を走る子どもの足音もかすかに届く。
いつもの朝だ、と陸斗は思う。
洗面所に行き、冷たい水で顔を洗いながら鏡をのぞく。濡れた前髪が額に張りつき、睫毛から水滴が落ちる。少し伸びてきた黒髪と、寝不足でわずかに赤い目。高校二年にもなれば、自分の顔のつくりがそれなりに整っていることくらいは分かっていたが、見慣れたそれに特別な感想は抱かない。
タオルで顔を拭き、洗面所を出ると、ダイニングキッチンから味噌汁の匂いが流れてきた。だしと、わかめと、豆腐。鼻の奥に馴染んだ香りが染み込む。
ダイニングに入ると、四人掛けのテーブルに新聞が広げられ、その向こう側に父の慎一が座っていた。ジャージ姿に、警察手帳の入った小さな黒いポーチが椅子の背にかけられている。片手で湯気の立つマグカップを持ち、もう片方の手で新聞のページをめくっていた。
「おはよう」
父が、新聞から顔を上げずに言う。
「……おはよう」
陸斗も、少し声を掠らせて返す。眠気の残る身体で椅子に座ると、テーブルの上に既に用意されている朝食が目に入った。焼き鮭、卵焼き、サラダ、白いご飯、小さな味噌汁椀。彩りはシンプルだが、どれもまっすぐな線で並んでいる。
「味噌汁、冷める前に食えよ」
父が、マグを一口含んでから言った。
「うん」
箸を取り、味噌汁を一口すすると、舌に塩気とだしの旨味が広がった。胃のあたりがじんわりと温まる。外の廊下を誰かが駆ける足音がして、扉越しに母親らしき声が飛んだ。
「走らないの!」
子どもの「はーい」という返事が続く。官舎らしい朝の騒がしさ。隣の部屋からは、ニュース番組の音と、一緒に笑う家族の低い声が漏れている。
父は新聞から視線を上げ、時計をちらりと見た。壁に掛けられたデジタル時計は、七時三十分少し前を示している。
「今日、帰り遅くなるかもしれん」
「また夜勤?」
「いや、夕方からの当番。そのまま残るかもしれんけどな」
父は新聞を畳みながら答えた。その表情に特別な影はない。ずっと見てきた、公務員の父の、ごく普通の出勤前の顔だった。
「またかよ」
陸斗は、わざとらしく大げさなため息をつきながら言った。
「こっちはテスト前なんだよ。家にいてもらわないと、集中できないんだけど」
「それは嘘だな」
慎一は淡々とした口調で言い、新聞をテーブルの端に置いた。口元が、少しだけ緩む。
「俺が家にいるときの方が、勉強してないだろ。この前なんか、一緒に刑事ドラマ二本見てたじゃないか」
「それは、父さんが勝手にテレビつけるから」
「俺のせいか」
「父親のせいってことにしときたい年頃なんだよ」
自分で言って、自分で少し笑う。父も肩を揺らした。
「テスト、いつからだ」
「来週」
「じゃあ、今週はテレビ禁止だな」
「ちょっと待って、それは話が違う」
「今度のテスト結果見てから機嫌決めるか。平均七十切ってたら、刑事ドラマ一ヶ月禁止な」
「それ、俺の人権に関わると思う」
「じゃあ勉強すればいい」
父のやりとりは、いつもこうだった。柔らかい冗談に、現実的な一言を混ぜる。押しつけがましくはないのに、逃げ道を作りすぎもしない。そのバランスに、長い時間をかけて慣らされてきた。
卵焼きをひとつ頬張りながら、陸斗は斜め向かいの父を眺めた。
少し寝不足そうな目の下に、薄いクマがある。髪にところどころ白いものが混じり始めたが、まだ全体としては若々しい顔だった。制服ではなくジャージ姿なのは、夜勤明けで一度戻ってきたからだろう。さっき玄関前で、同じ階の奥さんに小さく会釈していた気配があった。
父のマグカップには、黒いコーヒー。表面から立ちのぼる香りは苦味が強く、子どもの頃はそれだけで顔をしかめていた。いまは、その匂いを嗅ぐと「父がいる朝だ」と胸のどこかが落ち着いた。
「今日の晩飯どうする」
父が、味噌汁を飲み干しながら尋ねた。
「別に、適当にコンビニでもいいよ」
「適当は禁止だ。腹は正直だからな」
「じゃあ、なんか作っといてよ」
「俺がか」
「夜勤じゃないなら、できるよね。父さんの得意料理って何」
「カレーならいくらでも食える」
「作る方の話してるんだけど」
「作る方もカレーだ」
即答する父に、陸斗は思わず笑った。
「カレー以外のレパートリー増やした方がいいと思う」
「お前が増やせ」
「俺?」
「高校二年だろ。そろそろ自炊くらい覚えてもいい頃だ」
父の言うことは、正論だ。正論なのだが、朝からそれを真正面から受け止める気力はなかった。陸斗はお茶を飲み、少しだけ視線をそらす。
テーブルの端、冷めてきた湯のみの向こうに、写真立てが見えた。数年前の写真。病院のベッドの上で、痩せた母が笑っていて、その両側に父と幼い自分が座っている。
母が死んだのは、小学四年のときだ。長くはなかったが、確かに病院に通い詰めた時間がある。あの日も、やはりこうして朝食を食べて、父に連れられて病院に行った。あの日の味噌汁の味や、病室のカーテンの色までは覚えていない。ただ、父がいつもより口数が少なかったことと、母が少し息苦しそうに笑っていたことだけが、ぽつぽつとした点のように残っている。
あのとき、父は泣かなかった。ただ、いつも通りの声で「宿題やれよ」と言った。葬儀のあとも、四十九日のあとも、生活を淡々と続けていくことに必死だったのだと、今になって分かる。
父は、自分の悲しみをきちんと見せたことがない。見せないまま、「普通の暮らし」を続けることで、二人分の喪失を支えようとしていた。
「どうした」
写真を見つめていた視線に気づいたのか、父が問うた。
「別に」
反射的にそう答えてから、少し間を置く。
「…母さんのこと、ちょっと思い出しただけ」
父は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。その仕草は、誰かに見られることを前提としていないものだった。
「そうか」
短く言ってから、マグカップをテーブルに戻す。カップが木の天板に当たる小さな音が響いた。
「…なんか、夢見た気がして」
陸斗は、自分でも意外な言葉を口にしていた。今朝方の夢は、すでに輪郭がぼやけている。ただ、白い病室と、笑う母の顔と、「いってらっしゃい」という声だけが残っていた気がする。
「夢?」
「うん。細かいとこは忘れたけど、母さんが…」
彼は言葉を探し、見つからなくて、結局肩をすくめる。
「なんか、元気そうだった気がする」
父はしばらく黙っていた。テレビからは、どこかの国の選挙のニュースが流れている。経済だの景気の先行きだの、遠い話ばかりだ。
「…元気だよ」
ようやく絞り出された父の声は、普段より少し低かった。
「写真の中じゃいつも元気だ。あいつは、そういう顔しか残さなかったからな」
陸斗は、視線を写真に戻す。白い枕に頭を預けた母の顔は、確かに笑っている。頬は少しこけていても、目元は柔らかい。
「…うん」
そう返して、箸を動かした。朝から重くなりすぎないように、いつもどおりの調子を保つことが、父との暗黙の約束のようにも感じていた。
「そういえばさ」
話題を切り替えるように、陸斗は口を開いた。
「今度の模試で、英語と数学上がったら、なんかご褒美くれるって言ってたよね」
「言ってないな」
即座に否定される。
「言ってた。たぶん言ってた」
「たぶんは当てにならん」
父はわずかに笑いながら、片付けに立ち上がる。空になった味噌汁椀を持ち、シンクに運ぶ音がする。水道の蛇口をひねる音と、流れる水が陶器を叩く音。日常の音たちが、小さな官舎の部屋に満ちる。
「じゃあ、今言ってよ」
陸斗は追い打ちをかけるように言った。
「今度の模試で英語と数学七十超えたら、なんかひとつ買ってくれるって」
「七十どころか、前回の数学お前五十八だったろうが」
「そこを伸び代と呼ぶんだよ」
「伸び代は自分で伸ばせ」
冷たいようで、それ以上でもそれ以下でもない返し方だった。父のそういうところが、嫌ではなかった。むしろ、自分の甘えが見透かされている安心感すらあった。
テレビから、天気予報に変わるジングルが流れた。今日の東京の最高気温は二十二度、最低十五度。通学にはカーディガンがあると良いでしょう、と明るい声が告げる。
「傘、持ってけよ」
キッチンから、父の声がした。
「え、晴れるって」
「午後から一時的に降るって言ってただろ。どうせ部活帰りに降られて、びしょ濡れで帰ってくるんだから、先に対策しろ」
「部活ない日でも言うじゃん、それ」
「予防だ」
からかい半分のやりとりを続けながら、陸斗はご飯を平らげ、箸を揃えて茶碗の横に置いた。椅子から立ち上がり、自分の食器をシンクへ運ぶ。その横で父がスポンジを握り、洗い物を始めている。袖を捲った腕に、細い筋肉がついているのが見えた。
ふと、父の横顔を見上げる。顎のラインに沿って薄く髭が伸びている。剃るタイミングを逃したのだろう。夜勤明けの日は、だいたいこんな感じだ。
「父さん」
「ん」
「…また、帰ってきたら飯作るからって言っていい?」
自分でもよく分からない言葉が口をついた。いつかの夜勤前、同じようなことを言った記憶がある。あのときの父の笑い方や、玄関で交わした「行ってきます」「いってらっしゃい」の響きが、不意に鮮明に蘇る。
父は少し目を丸くしてから、顔を洗い物に戻した。
「作る気があるなら、いいんじゃないか」
「カレー以外だよ」
「条件が多いな」
「当然でしょ」
冗談めかしながらも、心臓の奥の方が少しだけ早く打っているのを、陸斗は自覚していた。何かを確かめたいような、何かを聞き出したいような、しかし、まだその「何か」が自分でもはっきり形になっていないような、不思議な感覚。
洗面所から戻ってきた父が、タオルで手を拭きながら時計を見る。
「そろそろ支度しろ。電車一本逃したら、また走ることになるぞ」
「分かってる」
陸斗は自室に戻り、クローゼットから制服のブレザーを取り出した。白いシャツにネクタイを通し、鏡の前で結び目を整える。ネクタイの長さを何度か直していると、母がよくしてくれた手つきが思い出された。昔は、ぶかぶかの小学校のネクタイを母の指が器用に整えてくれたものだ。いま、その役目は完全に自分に移っている。
鞄に教科書を詰め直し、机の端から筆箱と単語帳を放り込む。最後に、充電器につながれていたスマホを抜き、ポケットに滑り込ませた。
部屋を出ると、ダイニングのテーブルに、黒い弁当箱が置かれていた。ふたには、見覚えのある小さな傷がついている。何度も落として、何度も洗ってきた印だ。
「弁当」
父が、冷蔵庫から牛乳を出してグラスに注ぎながら言った。
「冷蔵庫入ってるから、出る前に取りなさい。今日は卵焼きうまくできた」
「ほんとに?」
「ほんとにだ」
「じゃあ楽しみにする」
グラスの牛乳を一気に飲み干し、陸斗は玄関へ向かった。靴箱の上には、鍵と、父の警察手帳が一時的に置かれている。壁のフックには、ネイビーのジャンパーと黒いコート。
スニーカーを履き、しゃがんだ姿勢のまま靴紐を結んでいると、背後で足音がして、父が玄関に現れた。
ジャージの上に、紺色のジャンパーを羽織っている。そのポケットには、さっきの黒いポーチが収まっていた。
「駅まで一緒に行くか」
「いいよ。父さん、そこから署の方が遠回りじゃん」
「歩くの嫌いじゃない」
「俺が嫌なんだけど」
腰を上げながら言うと、父は肩をすくめた。
「高校生にもなると、父親と並んで歩くのが恥ずかしい年頃か」
「…そういうわけじゃないけど」
「どっちだ」
「…どっちでもいい」
答えになっていない返事に、父は小さく笑った。
「じゃあ、ここで我慢してやる」
「何を」
「俺の父親としての出番を」
その言い方に、陸斗は一瞬言葉に詰まった。冗談のようでいて、どこか本音が混じっている気がしたからだった。
父は靴を履きながら、扉の鍵の方をちらりと見る。
「行ってきます」
当たり前のようにその言葉を口にされた瞬間、胸の中に小さな波紋が広がる。
「…いってらっしゃい」
返す声は、自分でも驚くほど素直に出た。言ったあとで、少し照れくさくなり、視線を靴のつま先に落とす。
ドアが開くと、廊下の冷たい空気と、他の部屋の生活の匂いが入り込んできた。味噌汁の残り香、洗剤の香り、子どもの笑い声。遠くで、出動するパトカーのエンジン音も聞こえる。
父は一歩外に出て、振り返る。
「カギ、ちゃんとかけて出ろよ」
「分かってる」
「変な勧誘来ても開けるな」
「こう見えてももう高校生なんだけど」
「高校生が一番騙される」
そう言って、父は片手をひょいと上げた。大げさでもなく、照れくさそうでもなく、ただ日常の一部としての仕草だった。
ドアが閉まるまでの一瞬、父の背中が見え、その向こうに長い官舎の廊下が続いているのが見えた。窓から差し込む朝の光が、廊下の床に帯のような影を落としている。
ドアが閉じる音は、いつもよりほんの少しだけ遅れて聞こえたような気がした。金属のラッチがはまる乾いた音が、胸の奥で小さく反響する。
陸斗は、その場に立ち尽くし、しばらくドアの方を見つめた。ノブには、父の体温がまだ残っているような気がする。手を伸ばして触れようとして、途中でやめた。
なんとなく、変な胸騒ぎがした。
理由は分からない。母の夢を見たからかもしれない。さっきの会話のせいかもしれない。父の「出番を我慢する」という言葉のせいかもしれない。
言葉にならない違和感が、喉の奥に小さな棘のように引っかかったままだった。
学校に遅れる、と頭のどこかで冷静な声が告げる。彼はその声に従うように、寝室に戻り、鞄を肩にかけた。ダイニングのテーブルから弁当箱を取り、玄関に戻る。
靴紐をもう一度確かめ、鍵を手に取る。ドアを開けると、廊下の空気が頬を撫でた。外の光はさっきより少しだけ強まっている。遠くから、誰かの「行ってきます」という声が聞こえた気がした。
陸斗は、振り返らないまま官舎の廊下を歩き出した。階段を降り、外に出ると、朝の光が一気に目に飛び込んでくる。マンションの前の駐車場には、既に何台かの車が出払っていて、その空いたスペースのアスファルトが冷たく光っていた。
空は、薄い雲に覆われている。天気予報どおりなら、午後には少し雨が降るのだろう。今はまだ、雨の気配はどこにもない。
鞄の中で、弁当箱が小さく揺れて音を立てた。その音が、妙に心に残った。
何も特別なことは起きていない。ただ、いつもの朝だ。いつもと変わらない時間が、いつもと同じように流れている。そう自分に言い聞かせるように、陸斗は駅へ向かって歩き出した。
この時の彼は、玄関で交わした「行ってきます」と「いってらっしゃい」が、もう二度と同じようには戻ってこない言葉になるのだということを、まだ知らなかった。
カーテンの向こうで、空がまだ決めかねている色をしていた。夜の濃さを完全には手放していないのに、黒だけではない。薄い灰色に、少しだけ青が混ざって、ビルの谷間に滲む気配がある。窓ガラスには、遠くのネオンの名残が点のまま残り、眠りの途中で置き忘れられた光みたいに瞬いていた。充はキッチンに立って、蛇口の水を細く出した。水音が静かな部屋に通っていく。流し台の金属がひやりとして、指先の温度が吸い取られる。昨夜の湯気の余韻はもうない。けれど、肌の奥にだけ温度が残っている。泡の感触が、まだ手のひらの線の間に薄く残っているような気がして、充は指を一度握り込んだ。握り込むと、指の関節が少しだけ引っ張られる。仕事で酷使した手の感覚に戻る。現実に戻る。その戻り方が、以前とは違う。以前の朝は、終わりの印だった。夜が終わる。店の光が消える。笑い声が背中から落ちる。冷たい風の中を歩いて、鍵を開けて、やっと静けさに潜り込む。朝は、逃げ込む側の時間だった。今は、出て行く側の時間になっている。出て行くのは陸斗で、充は送り出す側に残る。残る側の胸の内に、取り残される痛みがないわけではない。けれど、残ることが置いていかれることと同じではないと、ようやく体が覚え始めていた。流し台の横に置いたコップをすすぎ、乾いた布巾で拭く。布巾は柔軟剤の匂いがする。甘すぎない匂いが、生活の匂いとして落ち着いている。充はその匂いが好きになった自分に少しだけ驚く。香水の匂いのように、鎧にはならない。酒の匂いのように、胃に残らない。毎日触れても嫌にならない匂いだ。背後で、布が擦れる音がした。スーツの生地の音は、家の中では浮く。浮くのに、その浮き方がもう痛くない。充は振り向かずに、布の擦れる音がどこを動いているのかを音だけで追った。寝室から廊下へ、廊下から玄関へ。足音は大きくない。靴下のままの足音が、床を柔らかく踏んでいる。充は流し台の水を止め、手を拭いた。キッチンカウンターの上に置いてある皿を一枚ずつ片付ける。昨夜のうちに洗っておけばよかったと一瞬だけ思うが、思うだけで終わる。罪悪感の種類が変わった。できなかったことを責めるためではなく、今日はこういう段取りだった、と納得するために思う。玄関の方で、小さく金属が触れ合う音がする。
浴室の扉を開けると、熱と湿り気が一枚の膜みたいに肌へまとわりついた。照明の白さが湯気に散って、輪郭の曖昧な空間になる。外の新宿の遠音は、窓ガラスと壁の向こうで薄く擦れるだけだ。ここに入ると、街の息づかいより水の音のほうが強い。蛇口をひねる音、シャワーの粒が床に弾ける音、排水口へ流れていく音。それらが反響して、家の中の他のすべてを押しのける。充はバスチェアを少しだけずらして、床に置いたシャンプーボトルの位置を確かめた。細かい動作なのに、指先が落ち着かない。落ち着かない理由を、胸の奥でまだ言葉にしたくないまま、湯気の中に沈める。こういうとき、何かを言うより、手を動かしたほうがいい。手を動かせば、余計な感情が泡に混ざって流れていく。陸斗が後ろから入ってくる気配がした。タオルの擦れる音と、足裏が濡れた床を踏むぺたぺたした音。たったそれだけで、充の背中の筋肉が一瞬だけ強張り、すぐに緩む。硬くなるのは癖だ。守るとか守られるとか、そういう言葉がまだ肌のどこかに残っているからだ。緩むのは、今はもうそれだけじゃないと知っているからだ。洗い場の鏡に、二人の影がぼんやり映った。湯気で曇っていて、線が滲む。滲むのが助かると思った。はっきり見えると、照れが先に立つ。照れは、今さらだ。今さらなのに、まだある。なくならない。なくならないから、日常が日常のまま続く。充はシャワーを手に取り、自分の肩を流した。湯の温度が肌に当たって、今日の疲れが少しだけほどける。サロンの一日分の立ちっぱなしと、指先の細かい緊張。それが湯気の中で溶けていく。溶けていくのに、ただ眠くなるのではなく、胸の奥が静かに整っていく感じがした。陸斗は洗い場の奥で、黙って身体を流していた。余計な気配を出さないような動き方だ。昔の陸斗なら、こういう場面で何をどうしていいのか分からず、言葉を探していた。今は違う。黙り方が変わった。黙ることが、逃げではなく、相手の時間を尊重する形になっている。その変化が、充の中の何かを甘やかす。甘やかされるのが怖かった時期はもう過ぎたのに、それでも甘やかされると少しだけ胸が詰まる。充はシャンプーボトルを手に取った。押すと、透明な液が掌に落ちる。少し甘い香りが鼻先に立つ。サロンで使うものとは違う、家の匂い。
ビルの谷間を抜ける風は、相変わらず強い。ネオンの明かりが路面を濡れたみたいに光らせて、通り過ぎる人の影が流れていく。新宿は眠らない街だと、誰もが言う。眠らないことが正義みたいに、勝ちみたいに。充は昔、その正義にすがっていた。眠らないことが自分の存在の証明だと思っていた。眠らなければ、何かに負けない気がした。眠ったら、取り残される気がした。だから朝が怖かった。今夜の新宿は同じ景色なのに、見え方が違う。ネオンの明かりは眩しいままなのに、目が痛くない。笑い声は遠いのに、背中を押してこない。どこかの店の外で、誰かが大声で名前を呼んでいる。その声が、以前は自分の首根っこを掴むように聞こえた。呼ばれたら、戻らなければいけない気がした。今はただの声だ。街の一部だ。自分を決めない。充は歩幅を急がせない。足の裏に残る疲れを、そのまま受け取る。夜の仕事を選んでいた頃は、疲れを感じないふりをするのが癖だった。感じた瞬間に、折れそうで。折れたら終わりで。終わりは、食べていけないことだと信じていた。けれど今の疲れは、違う種類のものだった。サロンで一日立って、指先を細かく動かして、緊張を保ったあとに、今夜はほんの少しだけ別の自分を遊ばせた。身体は正直に重さを返してくる。それが嫌じゃない。疲れが、生活の中に収まっている。収まる枠がある。コンビニの光が角を曲がったところで、四角く浮かんでいた。自動ドアが開くたびに、温い空気と揚げ物の匂いが漏れ出してくる。充は吸い寄せられるように入って、ペットボトルの水を一本手に取った。冷蔵ケースの冷気が指に当たる。レジに並ぶ人の顔は眠そうなのに、誰もがどこかでまだ夜を引きずっている。会計を済ませて外に出ると、街は少しだけ静かになっていた。始発前の時間帯に近づくと、騒がしい新宿にも隙間ができる。隙間の空気は冷たくて、やけに現実的だ。ビルの間を走る車の音が遠く、足元の自分の靴音が目立つ。靴音を聞きながら、充は古い外階段の軋みを思い出す。三階まで上がるたびに、手すりの冷たさと、息の重さと、鍵穴に鍵を差し込む指のもたつきがあった。あの頃は、帰宅の音が生存確認だった。鍵が回る音が、自分がまだ折れていないことの証拠だった。今は、鍵の音が帰還になる。帰るという行
夜の支度を始める前に、充は一度だけ、洗面所の鏡に映る自分の顔を眺めた。サロン帰りの髪は、まだシャンプーの匂いが薄く残っていて、指で梳くと湿り気が落ち着いていく。手の甲は乾燥して、指先のささくれが小さく引っかかった。仕事の証拠だ。以前ならその証拠に苛立ったかもしれない。爪の形や、手の荒れは、夜の自分を裏切るから。けれど今は違う。荒れていても、戻れる場所がある。荒れた手で触れる髪がある。リビングの方から、生活の音が聞こえた。何か紙をめくる音、ペンが机に当たる小さな音。充はその音を背中で受け止めながら、息を吸う。胸の奥がざわつかないことを確かめるように。ドアの隙間から見える室内の明かりは、柔らかい。新宿の夜に出ていくときの明かりは、いつも派手で、いつも過剰だ。それに慣れすぎた過去があるから、今の家の明かりが静かに見える。静かでも薄くはない。むしろ、逃げ込むための暗さではなく、戻るための明るさだった。充は玄関の棚の方へ目を向けた。写真立ての中の慎一の笑い方は、相変わらず少しだけ照れくさそうで、視線を合わせると自分の方が逸らしたくなる。充は靴を履きながら、写真に頭を下げるようなことはしない。祈りではなく、確認だ。今日の夜を、自分で選ぶという確認。スマホが震えた。楓からの短いメッセージが画面に出る。「今、店前。早く来い」短さが、楓らしい。湿っぽさがない。気を遣っているのに、気を遣っていると見せない。充は指先で返事を打ち、送信して、スマホをポケットに入れた。「行ってくる」リビングの方へ声を投げると、紙の音が止まった。「気をつけて」返事はそれだけだった。追いかけてはこない。止めもしない。許可をもらっている感覚もない。だからこそ、充は自分の足で玄関を出られる。外に出ると、新宿の夜はすぐに顔に貼りついた。空気に混じる排気の匂い、誰かの香水、揚げ物の油、ビルの隙間から漏れる店内の音。足元のコンクリートが昼の熱をまだ少し残していて、靴裏からじわりと伝わる。昔はその熱が、自分の中の焦りと同じ温度だった。早く稼がないといけない。早く馴染まないといけない。早く笑えないといけない。今は違う。熱は、ただの夜の温度だ。
玄関の鍵が回る音は、不思議なくらいよく響く。金属が噛み合うちいさな音が、古い廊下を伝って、この部屋の空気を揺らす。何年も同じ部屋に住んでいると、その音だけで「誰が」「どんなテンションで」帰ってきたのかが、だいたい分かるようになる。最近は、その音を意識しないようにすることの方が難しくなっていた。ある日の夕方、予定されていた講義が急に休講になった。教授の体調不良、と掲示板には書かれていた。教室のざわめきが一瞬だけ増え、「ラッキー」と笑う声もいくつか聞こえてくる。陸斗は、友人たちが「どこ行く? 飯?」と盛り上がる横をすり抜けて、キ
学内掲示板の前は、いつも人の流れがゆっくりになる。昼休みの終わりかけ、まだ吐く息の白さが残る季節。廊下の窓から差し込む曇りがちな光が、貼り紙のビニールをくすんだ色で反射していた。陸斗は教室へ戻るつもりで歩いていて、ふと足を止めた。「司法試験・ロースクール説明会」太いフォントのタイトルの下に、小さめの文字がぎっしり並んでいる。「法曹志望者向け」「合格者の体験談」「被害者支援」「公共性」という単語が、視界の中でところどころ浮き上がった。入学してから何度か見たような気もするし、初めて目に入ったような気もする。去年の
カレンダーの紙は、いつの間にか二枚先までめくれていた。冷蔵庫の扉にマグネットで留められたそれは、角が少し丸まり、赤ペンで囲われた丸印がいくつも重なっている。給料日、イベントの日、そして何も書かれていないはずの平日にも、ところどころ小さく「ヘルプ」と書き込まれていた。「みっこ」の名前が並ぶシフト表は、そのカレンダーのすぐ横、Reinaのバックヤードの壁に貼られている。ホワイトボードにペンで埋められたマス目は、今月に限って、やけに黒い印が多かった。「アンタ、今月入りすぎじゃない?」楓の声が、背後から飛んでくる。シフト表の前に立っ
ビルの前まで桐生を見送っていったタクシーのテールランプが、角を曲がって完全に視界から消える。エンジン音が遠ざかるにつれて、さっきまで張り詰めていた裏路地の空気が、じわじわとしぼんでいった。楓が、肩にかけていたカーディガンを直しながら、二人を順番に見た。「今日はもう、素直に帰りなさいよ」「腕、ちゃんと冷やしとけよ。明日絶対痛くなるから」佐伯も、軽く笑ってはいるけれど、その目つきはいつになく真面目だ。「はい…すみません」陸斗が小さく頭を下げると、楓は「謝るのはうちらの方な