All Chapters of 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年: Chapter 61 - Chapter 70

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61.ファミレスの席で「そっち側」発言

視聴覚室の時計の針が、九時を少し回っていた。窓の外はすっかり暗くなり、ガラスには中の蛍光灯の光と、自分たちの姿がぼんやり映っている。プロジェクターはすでに切られていて、残っているのは編集用のノートパソコンと、テーブルの上に散らばったメモ数枚だけだった。タイムライン上のバーが、画面の端から端へと行ったり来たりする。片岡がマウスを動かしてカット位置を微調整すると、そのたびに小さなクリック音が鳴る。「……よし、とりあえずここまでで一回書き出すか」片岡が椅子の背もたれに体を預け、ぐっと伸びをした。ポキポキと肩のあたりで音が鳴る。「おつかれ」「お疲れ様です」陸斗も、丸めていた背中を伸ばした。長時間同じ姿勢でいたせいで、腰のあたりが固まったように重い。視線を上げると、ディスプレイの隅に出ている時間が、じわじわと現実感を持って迫ってくる。そろそろ、普通の学生なら家に向かっている時間だろう。食堂もとっくに閉まり、キャンパスの明かりも半分くらいは落とされているはずだ。「腹減ったな」片岡がぽつりと呟いた。お腹の中で鳴ったらしい音が、自分でも聞こえたのか、苦笑している。「なんか食ってく?」「そうですね……」途端に、自分の胃袋が意識に上がってくる。夕方にコンビニおにぎりを一つだけかじったきりだ。頭を使ったあと特有の、空腹なのか疲労なのかよく分からないだるさが、身体の隅々に広がっている。「近くのファミレス、まだやってるよな。終電までは平気でしょ」「多分」「じゃ、行くか。書き出しボタン押しといて、終わったら電源落とせばいいし」あっさり決められて、陸斗は頷いた。今日は充も夜勤で、帰りは遅い。多少食べてから帰った方が、家に着いてからの空腹に悩まされずに済む。パソコンに書き出しのコマンドを入力しながら、ファイル名の末尾に日付をつけ足した。画面上でパーセント表示がゆっくり進んでいくのを確認してから、二人は視聴覚室の電気を半分落とし、鍵を掛けて部屋を出た。夜の
last updateLast Updated : 2026-02-21
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62.窓ガラスとネオンと「もしも」の自分

男に惹かれちゃダメだとは思わなくていい。片岡の声が、ファミレスの赤いボックス席の景色と一緒に蘇る。ドリンクバーの機械音、パスタの湯気、湿ったテーブルの感触。全部がセットになって、頭の中で再生される。ダメじゃなくていい。その言い回しが、じわじわと染み込んでくる。何かを「肯定する」というより、「禁止しない」と言っている感じ。強く背中を押されているわけでも、引っ張られているわけでもない。足元の地面を少しだけ広く示されただけ、みたいな。もし、自分が誰か男を好きになるとしたら。半ばゲームのように、その仮定を頭の中に浮かべてみる。大学のクラスメイト。語学クラスで同じ班になったやつ、ゼミで隣の席に座るやつ。名前を適当に拾って、その顔を思い出してみる。授業中に寝癖を直していた後ろ姿とか、ノートを貸してくれたときの手付きとか。…違うな。そこに「好き」というラベルを貼る想像をしてみようとすると、途端に画面がぼやける。嫌いではないし、普通に話もするし、いいやつだと思う。でも、そこに「惹かれる」という汗ばんだ感じの言葉を乗せるイメージは、今のところピンとこない。映研の仲間。三浦の、なんでもすぐ誘ってくる明るさ。カメラ担当の先輩の、画角に取り憑かれたような集中力。上映会のときにだけ現れる幽霊部員の、妙なセンスのTシャツ。一人ひとりを頭の中に呼び出してみる。話している時の声、笑うタイミング、眉の上がり方。そこに、「もしも好きになったら」と仮定をくっつけてみる。うまく想像できない。片岡先輩自身の顔も、もちろん頭に浮かぶ。視聴覚室での横顔、ファミレスでストローをいじる手、映画の話になると早口になる口元。もし、この人のことを好きになって、「一緒にいたい」とか「触れたい」とか思うようになったら。そのとき、自分はどうなるだろう。考えてみようとすると、一瞬、身体のどこかが強張る。嫌悪や恐怖ではない。ただ、「今そこに踏み込んだら戻れなくなる」という直感みたいなものが、うっすらとブレーキをかける。まだ早い。そこまで一気に飛びたくはない。じ
last updateLast Updated : 2026-02-22
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63.種としての会話

休日の昼は、平日の朝よりも光が柔らかい。アパートの小さなリビングにも、隣のビルの壁に一度ぶつかった日差しが、少し丸くなって差し込んでいた。陸斗はローテーブルの上にノートパソコンを広げ、課題とも呼べない程度のレポートをだらだらと書いていた。キーボードを打つ指先の動きはときどき止まり、そのたびに視線は勝手に別のものへさまよう。壁に掛けた安物の時計、床に投げ出された自分のリュック、ソファの背もたれにひっかかったパーカー。画面の端に、メッセージアプリの通知がふわりと浮かんだ。映研のグループチャットのアイコン。カーソルを止めて、そちらを開く。「今、これやってるぞ」片岡の名前と一緒に、テレビ番組のリンクが貼られていた。URLの下には、簡単な説明文が表示されている。「LGBT映画特集」「世界の多様な愛のかたち」といった単語が、小さなサムネイルの横に並んでいた。既読の数字がみるみる増えていく。「見てます」「録画した」「あとでTVerで見る」と、いくつかのスタンプや短いコメントが流れた。ポップコーンのスタンプ、映画のフィルムのスタンプ。だいたいいつものメンツだ。そのログを眺めながら、陸斗はノートパソコンの画面を一度閉じた。パタンという音が、狭い部屋の中にやけに大きく響く。テレビのリモコンは、ローテーブルの端に転がっていた。手を伸ばしてそれを取る。ボタンを押すと、黒い画面がフッと明るくなり、昼の情報番組のスタジオが映った。ツヤツヤした笑顔のタレントが、何かのランキングについて盛り上がっている。チャンネルを一つずつ変えていく。バラエティ、ニュース、通販。その中のひとつに、虹色のロゴと一緒に「LGBT映画特集」という字幕が見えた。ちょうど特集の再放送が始まったところだった。画面の隅に「再」という小さな文字が出ている。海外の映画祭の様子だろうか、レッドカーペットの上を歩く俳優たちの姿が映されていた。フラッシュの光が、画面越しでも眩しい。リモコンをテーブルに戻し、ソファに座り直す。背中が古びたクッションに沈み込む。昼間にテレビをだらだら見るのは、少しだけ背徳感がある。でも、今日は特別な理由がある。映研のチャットにリンクが貼られた「
last updateLast Updated : 2026-02-23
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64.新宿行きの誘い

湿気を含んだ空気が、視聴覚室の窓ガラスにうっすらと曇りを作っていた。四月の終わりにしては妙に蒸していて、窓の隙間から入り込む風も、乾いているというよりぬるい。教室の前方では、白い壁に映画のワンシーンが映っている。編集ソフトのインターフェース越しに見えるそれは音声が切られており、口だけ動く俳優たちが、静かなパントマイムみたいに身ぶりを繰り返していた。タイムライン上を走るカーソルが、一瞬止まる。クリック音。画面上のカットが、喉元をわずかに斬るみたいに切り替わる。陸斗は、マウスを握っていた右手の指を離し、軽く伸ばした。関節がぱき、と小さく鳴る。長時間座っていたせいで、腰から背中にかけてじんわりとした重さがこびりついていた。「……こんなもんかな」自分に聞かせるような小さな声で呟き、エンターキーを押す。再生ボタンの三角形が青く変わり、さっき切ったばかりのカットが連続して流れる。男の視線、カメラのパン、暗く落ちる画面。音はまだ入っていないのに、頭の中ではそれなりの効果音とBGMが勝手に鳴っていた。「お、いいじゃん。そこ繋ぎ、さっきより全然イイ」隣の席から、椅子が軋む音と一緒に三浦の声が飛んできた。机の上には、一度開いては閉じられたノートと、飲みかけのペットボトル。彼は背もたれにだらしなく体を預けながら、画面を覗き込んでいる。「さっきの、間が変だっただけですよ」陸斗は苦笑しながら、マウスを操作して再生を止めた。「それ直すのが大事なんだって。ね、片岡さん」呼びかけられた先、部屋の後ろの方では、片岡がノートPCを閉じるところだった。眼鏡の奥の目が、こちらをちらりと見る。彼は少し伸びた前髪を指先でかき上げながら、のそのそと立ち上がった。「まあ、さっきよりは ‘ちゃんと見える’ ようになってるな」そう言って、前方のスクリーンの方へ歩いてくる。「この後ろ姿からの振り向き、フレームの中心に来るタイミングがちょうどいい。あとは音足して、全体のテンポ見ながら微調整すればいけるだろ」短くそう評価してから、片岡は腕時計をちらっと見た。「……と
last updateLast Updated : 2026-02-24
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65.Reinaの灯りと客席の自分

エレベーターの箱は、たいして広くもないのに、やけに狭く感じられた。片岡と三浦、あと二人の先輩と一緒に乗り込んだ瞬間、金属の扉が静かに閉まる。かすかな油の匂いと、どこか湿った鉄の匂いが鼻をかすめる。天井の蛍光灯は心許ないほど暗く、四人の顔を白く平らに照らしていた。三浦が、階数表示の赤い数字を見上げながら小さく口笛を吹く。「歌舞伎町の雑居ビルって感じ出てきたな」その軽口に、他の先輩がうすら笑いをこぼす。片岡は、ポケットに両手を突っ込んだまま、無表情とも微笑ともつかない顔で数字の変化を眺めていた。陸斗は、壁に背中を預けるふりをしながら、背筋を固くしている。上昇する感覚はほとんどないのに、胃だけが少しずつ持ち上がっていく気がした。耳の奥で、自分の心臓の鼓動が弱く反響する。何階か、確認しようと視線を上げたが、数字は頭に入ってこない。意識が、下の階に取り残されたまま浮き上がっているような、妙な感覚だった。チン、と軽い音がして、エレベーターが止まる。扉が横に滑ると、薄暗い廊下が口を開ける。外のネオンの色は一切届かず、古びた蛍光灯が、黄ばんだ壁紙をぼんやりと照らしている。廊下の奥、右側の扉の下から、別の色の光が漏れていた。濃いピンクとも紫ともつかない、低い色温度の光。壁を通して、低く抑えられたベースの音と、人の笑い声が、かすかに震えとして伝わってくる。片岡が先に足を踏み出し、迷いのない歩幅でその扉に向かう。扉の上の小さなプレートには、さっき下で見たのと同じ「Reina」の文字が光っていた。ネジの部分に少し錆が出ているのが、やけに目に付く。喉が、からりと鳴る。手のひらが、何も握っていないのにじんわりと汗ばんでいるのを、陸斗は自覚した。「ここ」片岡が振り返りもせずに短く言い、扉を押す。中から、途端に空気の密度が変わった。「いらっしゃいませ〜」明るい声が飛んでくる。夜の店特有の、少し高めで伸びのある声だった。一歩踏み込んだ瞬間、世界の色が変わる。さっきまでの廊下のくすんだ蛍光灯とは違う、ピンクと紫とオレンジの光が、空間全体をふわり
last updateLast Updated : 2026-02-25
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66.みっこの登場と渋滞する感情

グラスの縁についた水滴が、じわりと広がって輪郭を溶かしていく。その様子をぼんやり眺めていたとき、店内の空気が、ほんの少しだけ変わった。音量が上がったわけでもない。照明が劇的に切り替わったわけでもない。ただ、あちこちのテーブルから漏れていた笑い声が、一瞬だけ揃って同じ方向を向いたような、そんな感じがした。「今日、みっこいる?」隣のボックスから、女の客の弾んだ声が聞こえる。「まだじゃない? さっき上がってきたって言ってたけど」「今日もシャンパン入れさせよ」くすくす笑いとグラスの音が続く。その名前を聞いた途端、陸斗の喉の奥がきゅっと狭くなった。みっこ。家ではほとんど聞かない呼び名。けれど、充の口から、何度か自嘲気味に漏れたことのある名前だ。「向こうだとさ、みっこって呼ばれてんの。ふざけてんだろ」笑いながらそう言っていた夜の、台所の蛍光灯の色と、皿を洗う水音が、脳裏に蘇る。視界の端に、人影が近づいてくる気配がした。さっき注文を取ってくれたキャストのひとりが、にやりと笑いながらテーブルに顔を寄せる。「今、うちの看板出てきましたよ〜。すぐ挨拶行くと思うんで」片岡の方に向けられたその囁きに、三浦が食いつく。「看板嬢ってやつですか」「そうそう。うちのスター」キャストが得意そうに言う。その言葉自体は聞き慣れたフレーズのはずなのに、「うちのスター」と「みっこ」の組み合わせが、陸斗の中でうまく噛み合わなかった。ジンジャーエールを飲み込む喉の動きがぎこちなくなる。氷が歯に当たってカチンと鳴るのを、自分で驚くくらい大きく聞いてしまう。そのとき、店の奥、細い通路の先から、規則的な音が聞こえてきた。コツ、コツ、とヒールの尖った先が床を打つ音。さっきまでのざわめきに紛れていた足音とは明らかに違う、存在を主張する響き。通路の方から、少しだけ照明の明度が上がる。スポットライトほど強くはないが、それでも誰かを迎えるための光だと分かる変化だった。そこから現れたのは、テレ
last updateLast Updated : 2026-02-26
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67.ネオンの下の言えない感想

会計の声が聞こえたとき、店内のざわめきが少しだけトーンを変えた。テーブルの上のグラスがひとつ、またひとつ空になっていく。氷だけになったジンジャーエールのコップを、陸斗は両手で包むように持っていた。指先はもう冷たさを感じないのに、離せなかった。「今日、学生の子たちはいいよ。初回サービスってことで」カウンターの方から、楓ママの声が飛んでくる。片岡が「すみません」と笑いながら財布を出し、伝票を受け取る。その横で、別のキャストが手際よくグラスを片付け、テーブルを拭いていく。「先輩、いいんすか。マジでありがとうございます」三浦が、ちょっとオーバーに頭を下げる。「今度、映研の上映会来てくださいよ。宣伝するんで」「宣伝されても、学生の上映会じゃ酒出ないでしょ」楓が笑いながら返す。そのやりとりを聞きながら、陸斗はテーブルの端に寄せられたメニュー表の角を、ぼんやりと指で撫でていた。「はい、じゃあお会計ここね」楓が片岡の方に伝票を差し出し、さらさらと暗算して金額を告げる。片岡はそれに少し多めの札を重ねる。「いつもありがとうございます…お釣りはいいです」「いいよ。学生連れてきてくれてるし」楓の声には、商売の匂いと人懐っこさがうまく混ざっていた。片岡がくるりと振り返る。「じゃ、そろそろ行くか」立ち上がる気配に、ソファのビニールがきゅっと音を立てた。陸斗も慌てて腰を上げる。足元が、少しふわふわする。酒をほとんど飲んでいないのに、身体の中だけ別の温度になっているような感覚だった。「ありがとうございました」三浦たちは口々にそう言いながら、ドアの方へ向かう。陸斗もその後に続く。視界の端で、さっきまで笑っていた客たちが、再び自分たちの世界に戻っていくのが見えた。出口の手前で、みっこが待っていた。いつの間にか、彼女はドア近くの定位置に立っていた。さっきと変わらない笑顔、ドレス、髪。さっきより少しだけライトの当たり方が柔らかい。「ありがと〜。また来てね〜」
last updateLast Updated : 2026-02-27
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68.夜明け前のケンカ

部屋に入った瞬間、暗さが体にまとわりついてきた。「…ただいま」習慣で小さく声に出してみるが、返事はない。蛍光灯のスイッチを押すと、白い光が一気に狭いリビングを満たした。安物のローテーブル、ソファ代わりの座椅子、畳の擦り切れた縁。全部、見慣れた光景だ。なのに、さっきまでいた店のピンクと紫を見てきたせいで、この部屋の色が一段階くすんで見えた。靴を脱ぎ、カバンをいつもの場所に置く。スマホと財布を机の上に出して、リュックのファスナーを閉める。その動作ひとつひとつが、やけにスローモーションに感じられた。キッチンに行くと、朝出かけたときのままの食器がシンクに二つ、そのまま突っ込まれている。洗おうとして手を伸ばしかけ、やめた。今それを片付け始めたら、「いつもの夜」に戻ってしまう気がした。「シャワーだけ、先に」誰もいない部屋に向かって、言い訳みたいに呟く。バスタオルを引っかけて浴室に入り、蛇口をひねる。シャワーヘッドから出た水が、最初だけ冷たくて、すぐに温度を上げていく。頭から湯を浴びていると、さっきの店の匂いが少しずつ流れていく気がした。酒と香水と甘ったるい芳香剤が混ざった空気。グラスの縁に残った甘いカクテルの香り。全部、排水溝の方へ押し流してしまえたら楽だろうに、と思う。手で髪をぐしゃぐしゃと洗いながら、陸斗は目を閉じた。瞼の裏に、またドレスのみっこが出てきた。肩まである髪が、ハイライトの入った頬にかかっていた。濃く引いたアイライン、睫毛の影。シャンパンで光るグラスを持ち上げる指先。腰のあたりまでぴったり沿ったドレスの布が、歩くたびに揺れていた。「綺麗だな」と思ってしまった瞬間の、自分の胸の跳ね方まで鮮明に蘇る。それが一番気持ち悪かった。父と見ていた刑事ドラマの中の女優を綺麗だと思うのと、どこかが違っていた。湯を強めに浴びて、無理やりその映像を洗い流そうとする。浴室の鏡は湯気で曇っている。タオルで適当に拭って、ぼやけた輪郭だけが映るようにした。頬が少し赤い。酒を飲んだせいか、風呂のせいか、さっきの光景のせいか、自分でも判別がつかない。
last updateLast Updated : 2026-02-28
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69.粘つく笑顔の常連

平日の夜の歌舞伎町は、週末ほどの熱狂はないが、それでもじわじわと人と酒の匂いが溜まっていく時間帯だった。Reinaの扉の向こう側も、ピークの波が一度押し寄せて、少し引きかけた頃合いだった。シャンパンの栓が抜ける音も一段落し、グラスを持つ手首の疲れが、ようやく自覚されはじめる頃合い。ピンクと紫の照明がゆっくり回るフロアで、みっこは、ボックス席の端に腰を下ろして、ひとりの客と笑いながらグラスを合わせていた。つけまつげの根元が、さっきから微妙にかゆい。ハイヒールの爪先には、じんわりと鈍い痛みが溜まっている。それでも笑う。笑い皺ごと厚めにファンデーションで固めた顔を、照明に向けて差し出すように。そんなとき、扉のベルが鳴った。「いらっしゃいませ〜」フロア係の声が弾む。音に振り向いたみっこの視界に、スーツ姿の男のシルエットが入ってくる。ネクタイは緩め、上着のボタンは外しているが、シャツは安物ではない。時計のフェイスが照明に反射して一瞬光る。靴も、毎日磨いているような艶がある。桐生だ、と、みっこはそれだけで分かる。年齢は三十代半ばか、もう少し上か。額の生え際にわずかな後退と、頬の肉付きに年齢が見え始めているが、全体としては「そこそこきちんとしたサラリーマン」のパッケージを保っている。ただ、その顔に貼り付いている笑顔の、目の奥の焦点だけが、いつ見てもどこか曖昧だった。「みっこ、今日もいる?」カウンターに向かって歩きながら、自然な調子でそう言う。まだ姿も確認していないうちから、名前を呼ぶ声だけが先に飛んでくる。「いるわよ〜。お兄さんが来ると疲れ取れちゃうじゃない」みっこは、ボックスの客に一言断りを入れてから、すぐに立ち上がる。ハイヒールのコツコツという音が、慣れた調子でカウンターへ向かう。桐生は、いつもの端の席に腰を下ろした。椅子を引く動きも、バーカウンターの縁に腕を預ける角度も、もう何度目かの繰り返しで、体が覚えている風だ。「この前のボトル、まだ残ってるよな」「あるわよ。お兄さんが ‘俺のシマ’ だっ
last updateLast Updated : 2026-03-01
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70.路地の影と待ち伏せ

営業終わりの店内は、さっきまでと同じ照明のはずなのに、光の温度が少し低くなったように感じられた。ミラーボールはもう止まり、ピンクと紫のスポットも半分ほど落とされている。テーブルの上からはグラスと灰皿が片付けられ、代わりに濡れた布巾とゴミ袋がいくつも並んでいた。みっこ…いや、メイクの下での充は、ボックス席の一つに腰を落ち着けたまま、ぼんやりと脚を組み替えた。ハイヒールの中で、つま先がじんじんと主張している。さっきまで笑顔を作っていた頬の筋肉も、急に重くなった気がして、口元に残るリップがやけにべたつく。「はー、今日もよく喋った」自分に向けて、誰にも聞こえないくらいの声でぼやく。グラスの底には氷が二つだけ残っていて、溶けかけの線がグラスの内側を白く縁取っていた。薄くなったハイボールを一口飲んで、舌の上に残る炭酸の刺激を確かめる。フロアの向こうでは、スタッフが手際よくテーブルを拭き、椅子を押し込んでいる。その合間に交わされる小さな笑い声や「おつかれさま」の声が、ゆるゆると店の空気を締めにかかっている。「みっこ、片付け終わったら上がっていいわよー」カウンターの中から楓の声が飛んでくる。「はーい。ママもおつかれ」「私はレジ締め終わるまで帰れないの。悲しい」楓が肩をすくめるのが見えて、充は少し笑う。ネイルの乗った指先でグラスを軽く回し、最後の氷を口に含む。冷たさが、さっきまで少し火照っていた口の中を一瞬だけ現実に戻す。フロアの表の顔を片付け終えると、スタッフたちはそれぞれバックスペースへ引っ込んでいく。薄いドア一枚で仕切られた向こう側は、照明の色も匂いも、さっきまでとは違う世界だった。ライトは白くて味気ない蛍光灯。鏡の前にはメイク落としやコットン、ヘアピンやウィッグ用のネットが雑然と並んでいる。さっきまでのピンクと紫の世界が、急にコンビニのバックヤードみたいな無骨さに変わる。充は、鏡の前の丸椅子に腰を下ろし、手慣れた動きでウィッグの留め具を外した。頭皮に食い込んでいたピンが次々と外れていくたびに、皮膚がふっと緩む。毛根の一本一本に空気が通っ
last updateLast Updated : 2026-03-02
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