جميع فصول : الفصل -الفصل 119

119 فصول

111.やっと、の熱

唇が離れたあとも、充の体の中には触れていた感覚だけが残った。熱が残るというより、そこだけ輪郭が濃くなる。指を絡めたままの手のひらがじっとりしていて、汗の薄い膜が二人の間にあることが妙に現実的だった。陸斗は近い。近いのに、踏み込みが乱暴じゃない。抱きしめる腕も、頬に触れた指も、逃げ道を残していた。逃げ道があることが安心なのに、安心した瞬間に欲が顔を出す。欲が怖い、と言ってしまったばかりなのに。充はその矛盾を笑えなくて、喉の奥がひりついた。新居の寝室は、まだ生活が馴染みきっていない匂いがした。新品のカーテンと、段ボールの紙と、洗剤が混ざった匂い。床に置きっぱなしの箱が視界の端にあり、片づけの途中だと告げている。それなのに、今夜だけは片づけの途中で止められない。止めたら、また戻る気がした。戻ったら、今ここにある熱が嘘になる気がした。充は目を逸らし、指先で自分の唇を軽くなぞった。濡れた感覚が残っていて、なぞった指に遅れて熱が走る。触れた瞬間を体が覚えてしまっている。覚えた体を怖がるのは、もう遅い。そう思うと、今度はその遅さが怖い。陸斗は充の手を離さなかった。離さずに、そっと引く。引く力は強くない。誘うというより、道を指すみたいな引き方だった。充はその引き方に腹が立つほど安心してしまい、足が勝手に動くのを止められなかった。寝室の入口で、充は一度だけ立ち止まった。敷きたてのシーツが、薄い光を拾って白く見える。白いものを見ると、余計に自分の汚さが浮く気がした。汚さというより、夜の匂い。夜の仕事でまとった香水の残りが、皮膚の下に染み込んでいる気がした。充は小さく息を吐き、半分だけ笑う。「……マジで、ここまで来るとは思ってなかった」陸斗は返事の代わりに、握っていた手を少しだけ持ち上げた。手の甲に唇を落とす、みたいな真似はしない。ただ、指を絡め直す。絡め直すだけで「戻らない」を確認される気がして、充の胸がざわついた。充は自分の喉が乾いているのに気づき、舌で唇を湿らせた。湿らせた途端、さっきの触れ方を思い出してしまう。思い出した瞬間、また熱が走る。熱が走る自分が恥ずかしい。恥ずかしいのに、嫌じゃない。
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112.朝の光、名前の距離

カーテン越しの光は、夜よりも残酷だった。薄い布を透かして入ってくる朝の白さが、部屋の輪郭をいちいち拾い上げる。段ボールの角、床に置いたままの衣類、枕元のスマホの黒い画面。昨夜の熱だけを夢にしてくれない光だった。充は目を開けた瞬間、自分の体の重さに戸惑った。疲れているはずなのに、いつもの鉛みたいな重さと違う。布団の中がまだ温い。自分の体温だけじゃない、もうひとつの温度が混じっている。背中に触れていた腕の感覚が、皮膚の裏側に残っている。隣で陸斗が眠っている。寝息は静かで、呼吸が少しだけ深い。夜遅くまで机に向かっていた頃の、浅い呼吸ではない。頬に落ちる髪がやわらかく揺れて、光を受けたまつ毛の影が薄い線になる。充はその線を見ただけで喉が乾いた。口を開けば、何か言ってしまいそうだった。言ってしまったら、もう戻れない。戻りたくないのに、戻れないのが怖い。その怖さがまだ残っている。残っているのに、胸の奥のどこかが、逃げる方向を変えてしまっていた。逃げたいのは陸斗からじゃない。自分の中で、名前を変えようとする何かからだ。充はゆっくりと上半身を起こした。シーツが肌を滑る音が小さく鳴る。背中が少し痛い。嫌な痛みじゃない。昨夜の動きの名残りが、筋肉に残っているだけの痛みだ。けれど、その痛みがあるほど、昨夜が現実だと分かってしまう。喉も少しだけ痛かった。唇の腫れぼったさと、口の中の乾き。舌を動かすと、熱の残りが思い出のように蘇る。充はその感覚に耐えきれず、顔をしかめてしまった。寝室の空気は、洗剤と布の匂いが混じっている。新しい匂いだ。古いアパートで染みついた湿気やタバコの匂いはない。新しい匂いが、逆に今の自分を誤魔化してくれない。ここは二人の場所だ、と言われている気がする。充は布団の端をつまみ、そっと陸斗の肩まで掛け直した。掛け直す手つきが妙に慎重になってしまう。昨夜、あれだけ触れたのに、こういうささいな行為のほうが緊張する。指先が髪に触れそうになって、わざと避けた。避ける癖はまだ残っている。ベッドから降りると、床が冷たかった。冷たさが足裏を刺し、身体が目を覚ます。充は部屋の隅に置いた自分の服を拾い上げ、音を立てないように袖を通した。音を立てないことに意味は
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113.未来の話

トーストの香ばしさが薄れていく代わりに、コーヒーの苦味だけが部屋に残った。陽が少しずつ高くなり、カーテン越しの光が白から淡い金色に変わっていく。新しいリビングの空気はまだ軽い。軽いのに、昨夜の熱がどこかに沈んでいて、床やテーブルの木目がそれを覚えているみたいだった。充は洗い物をしようとして、結局、流しの前で手を止めた。指先の皮膚が昨日より敏感で、水の冷たさがいつもより鋭く刺さる気がした。そういう些細な感覚が、昨夜が夢じゃないと繰り返し知らせてくる。知らせてくるたびに胸の奥が揺れて、その揺れを誤魔化すために余計なことをしたくなる。背後で陸斗が椅子を引く音がした。さっきまでと同じ音なのに、耳が拾い方を変えている。充は皿を拭くふりをして振り返ると、陸斗はテーブルの上に封筒を数枚並べていた。白い封筒、クリアファイル、名刺入れ、メモ帳。書類の匂いが微かに漂い、コーヒーの匂いと混ざって現実の硬さが増す。充の中で反射が立ち上がる。話が始まる、という反射だ。以前の反射は身構えるためのものだった。今朝の反射は、逃げないためのものに変わっている。それでも、胃の奥がきゅっと縮む。陸斗は充の方を見て、言葉を急がなかった。視線だけが先に届く。いつもならそれが怖かった。怖いのに、今はその視線が支えにもなる。陸斗は一度だけ息を吸い、机上の封筒に手を添えた。「少し、話してもいいですか」充は頷いた。頷くしかないわけじゃない。断ることもできる。できるのに、断らない。断らない理由が、言葉にならないまま胸の中で熱を持つ。「…何」充の声はまだ掠れていた。喉の痛みが残っていて、それを言い訳にできそうで安堵する。安堵する自分に腹が立つ。その腹立ちもまた、逃げの形だ。陸斗は封筒を一枚選び、端を指で揃えた。紙が擦れる音が静かな部屋に響く。新しい壁は音を反射する。反射した音が、二人の間の沈黙を削っていく。「修習のことで、現実の話です」充は口の中で小さく舌打ちしたくなった。現実の話は、いつだって人を逃がさない。逃げ道を塞ぐ。昨夜もそうだった。昨夜は言葉が感情に向かった。今は言葉が生活に向かう。向かう先が違うだけ
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114.玄関の三点セット

玄関の照明は、夜の名残りみたいに薄く点いていた。新宿の遠い車の音が、窓ガラスの向こうで絶えず流れている。冷えた廊下の空気に、昨夜の湯気がわずかに残っていて、洗濯洗剤の匂いと混ざり合い、家という箱の中の呼吸を作っていた。玄関脇の棚は、最初からここにあったみたいに馴染んでいる。木目の浅い棚板の上に、三つのものが並んでいた。額縁に入った長谷慎一の写真。一足だけ残った、昔のReina時代のピンヒール。細いヒールの金具が、光を拾う。隣には、紺のネクタイがきれいに折られ、落ち着いた線を引いていた。この三つが同じ場所にあることに、充は今でもときどき息を忘れる。何かを飾ったというより、置く場所が決まっただけなのに。過去がまだ痛むことと、痛みをしまい込めることは、同時に起こるらしい。どちらか一方だけになれなかった時間が、棚の上では不思議なくらい静かに並んでいる。廊下の奥から、布が擦れる音がした。スーツの肩が動く音。靴下越しに床を踏む足音が、慎重に近づく。充はキッチンの流し台で手を拭きながら、振り向かずに耳だけを向けた。昔のぼろいアパートでは、外階段の軋みと鍵穴に差し込む金属音で生存を確かめていた。今は、室内の音が柔らかく続いて、同じ家にいることを当たり前みたいに教えてくる。陸斗が廊下に出てきた。スーツの色が、玄関の薄い灯りの中で黒に沈みすぎず、深い紺に見える。肩のラインが以前より硬い。いや、硬いというより、形が決まっている。背中の布の張りが、仕事に向かう人間のものになっている。充はその背中を見るたび、胸の底のどこかが小さく落ち着くのを感じる。寂しさではなく、確認に近い。ここまで来た、という確認だ。陸斗はもう、学生でも修習生でもない。弁護士の肩書きが現実の重さを持つようになって久しい。けれど、玄関で靴紐を結ぶときだけは、昔の癖が残る。片方の靴に指が触れたまま一瞬止まり、息を整えるように首を傾ける。陸斗は棚の方へ視線を置いた。祈るような角度ではない。写真の前で手を合わせるわけでもない。ただ、そこに目を置く。呼吸の置き場として。迷いがある日も、腹を括る日も、その仕草は変わらない。充は拭いた手をもう一度タオルで押さえ、冷蔵庫の上に置いていた郵便物をまとめて持った。封筒の角が指
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115.混ざる本棚

リビングの窓から入る光は、午前のわりにまだ柔らかく、カーテンの織り目を透かして床に薄い影を落としていた。新宿の高い建物の影が、時間帯によっては部屋の明るさをゆっくり調整する。外では車の音が途切れず、遠くの工事の金属音が、天気のいい日ほど乾いた響きで混じる。それでも室内は静かで、静かさの中心にあるのは、二人が同じ空気を吸っているという当たり前だった。ローテーブルの端に、分厚い法律書が積まれている。背表紙の角は手垢で少し丸くなり、付箋の色が何層にも重なって、ページの波打ちが外からでも分かる。その隣に、映画のDVDが二、三枚、雑に重ねられていた。ケースの透明なプラスチックには細かな擦り傷があり、タイトルの文字が光に反射して瞬く。さらにその隣には、充のヘアカタログが開きっぱなしで置かれている。モデルの髪は艶やかで、ページの匂いはインクと紙の甘さが混じって、法令集の乾いた匂いとは別の温度を持っていた。シザーケースは、充が家に帰ると必ず置く場所が決まっている。玄関に置きっぱなしにするほど無頓着ではないが、几帳面にしまい込むほどの余裕もない。革のケースがテーブルの角に触れ、控えめな重さでそこにいる。金属のハサミの冷たさは、触れると今でも少しだけ背筋を伸ばさせる。客の髪に触れるときの緊張感が、家の中までついてくるのではなく、家に入ったところでふっと外れる。その外れ方が、昔と違う。充はキッチンで皿を拭いていた。朝食の皿と、マグカップ二つ。拭き上げるたびに陶器が乾いた音を返す。タオルは少し古く、洗剤の匂いが染みついているが、嫌な匂いではない。生活の匂いだ。充はそれを嗅ぐたびに、ここが現場ではなく家だと分かる。ローテーブル側では、陸斗がスマホと通帳を並べていた。スマホの画面をタップする指先の軽い音が、部屋の静けさの中で規則正しく聞こえる。スーツではなく、部屋着の薄いシャツ姿だ。それでも肩の角度は仕事の癖を残していて、背中が自然に真っ直ぐになる。充は皿を拭きながら、ローテーブルの上の混ざり具合を眺めた。きっちり揃っていたら、逆に落ち着かない気がする。昔の自分なら、散らかった部屋を見て苛立っていただろう。苛立って、声を荒らげる代わりに黙って片づけて、相手に「何も言わない」ことで圧をかけていた。今は、散らかり
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116.みっこ、ただいま

夜の支度を始める前に、充は一度だけ、洗面所の鏡に映る自分の顔を眺めた。サロン帰りの髪は、まだシャンプーの匂いが薄く残っていて、指で梳くと湿り気が落ち着いていく。手の甲は乾燥して、指先のささくれが小さく引っかかった。仕事の証拠だ。以前ならその証拠に苛立ったかもしれない。爪の形や、手の荒れは、夜の自分を裏切るから。けれど今は違う。荒れていても、戻れる場所がある。荒れた手で触れる髪がある。リビングの方から、生活の音が聞こえた。何か紙をめくる音、ペンが机に当たる小さな音。充はその音を背中で受け止めながら、息を吸う。胸の奥がざわつかないことを確かめるように。ドアの隙間から見える室内の明かりは、柔らかい。新宿の夜に出ていくときの明かりは、いつも派手で、いつも過剰だ。それに慣れすぎた過去があるから、今の家の明かりが静かに見える。静かでも薄くはない。むしろ、逃げ込むための暗さではなく、戻るための明るさだった。充は玄関の棚の方へ目を向けた。写真立ての中の慎一の笑い方は、相変わらず少しだけ照れくさそうで、視線を合わせると自分の方が逸らしたくなる。充は靴を履きながら、写真に頭を下げるようなことはしない。祈りではなく、確認だ。今日の夜を、自分で選ぶという確認。スマホが震えた。楓からの短いメッセージが画面に出る。「今、店前。早く来い」短さが、楓らしい。湿っぽさがない。気を遣っているのに、気を遣っていると見せない。充は指先で返事を打ち、送信して、スマホをポケットに入れた。「行ってくる」リビングの方へ声を投げると、紙の音が止まった。「気をつけて」返事はそれだけだった。追いかけてはこない。止めもしない。許可をもらっている感覚もない。だからこそ、充は自分の足で玄関を出られる。外に出ると、新宿の夜はすぐに顔に貼りついた。空気に混じる排気の匂い、誰かの香水、揚げ物の油、ビルの隙間から漏れる店内の音。足元のコンクリートが昼の熱をまだ少し残していて、靴裏からじわりと伝わる。昔はその熱が、自分の中の焦りと同じ温度だった。早く稼がないといけない。早く馴染まないといけない。早く笑えないといけない。今は違う。熱は、ただの夜の温度だ。
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117.帰る場所の匂い

ビルの谷間を抜ける風は、相変わらず強い。ネオンの明かりが路面を濡れたみたいに光らせて、通り過ぎる人の影が流れていく。新宿は眠らない街だと、誰もが言う。眠らないことが正義みたいに、勝ちみたいに。充は昔、その正義にすがっていた。眠らないことが自分の存在の証明だと思っていた。眠らなければ、何かに負けない気がした。眠ったら、取り残される気がした。だから朝が怖かった。今夜の新宿は同じ景色なのに、見え方が違う。ネオンの明かりは眩しいままなのに、目が痛くない。笑い声は遠いのに、背中を押してこない。どこかの店の外で、誰かが大声で名前を呼んでいる。その声が、以前は自分の首根っこを掴むように聞こえた。呼ばれたら、戻らなければいけない気がした。今はただの声だ。街の一部だ。自分を決めない。充は歩幅を急がせない。足の裏に残る疲れを、そのまま受け取る。夜の仕事を選んでいた頃は、疲れを感じないふりをするのが癖だった。感じた瞬間に、折れそうで。折れたら終わりで。終わりは、食べていけないことだと信じていた。けれど今の疲れは、違う種類のものだった。サロンで一日立って、指先を細かく動かして、緊張を保ったあとに、今夜はほんの少しだけ別の自分を遊ばせた。身体は正直に重さを返してくる。それが嫌じゃない。疲れが、生活の中に収まっている。収まる枠がある。コンビニの光が角を曲がったところで、四角く浮かんでいた。自動ドアが開くたびに、温い空気と揚げ物の匂いが漏れ出してくる。充は吸い寄せられるように入って、ペットボトルの水を一本手に取った。冷蔵ケースの冷気が指に当たる。レジに並ぶ人の顔は眠そうなのに、誰もがどこかでまだ夜を引きずっている。会計を済ませて外に出ると、街は少しだけ静かになっていた。始発前の時間帯に近づくと、騒がしい新宿にも隙間ができる。隙間の空気は冷たくて、やけに現実的だ。ビルの間を走る車の音が遠く、足元の自分の靴音が目立つ。靴音を聞きながら、充は古い外階段の軋みを思い出す。三階まで上がるたびに、手すりの冷たさと、息の重さと、鍵穴に鍵を差し込む指のもたつきがあった。あの頃は、帰宅の音が生存確認だった。鍵が回る音が、自分がまだ折れていないことの証拠だった。今は、鍵の音が帰還になる。帰るという行
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118.泡の中の手

浴室の扉を開けると、熱と湿り気が一枚の膜みたいに肌へまとわりついた。照明の白さが湯気に散って、輪郭の曖昧な空間になる。外の新宿の遠音は、窓ガラスと壁の向こうで薄く擦れるだけだ。ここに入ると、街の息づかいより水の音のほうが強い。蛇口をひねる音、シャワーの粒が床に弾ける音、排水口へ流れていく音。それらが反響して、家の中の他のすべてを押しのける。充はバスチェアを少しだけずらして、床に置いたシャンプーボトルの位置を確かめた。細かい動作なのに、指先が落ち着かない。落ち着かない理由を、胸の奥でまだ言葉にしたくないまま、湯気の中に沈める。こういうとき、何かを言うより、手を動かしたほうがいい。手を動かせば、余計な感情が泡に混ざって流れていく。陸斗が後ろから入ってくる気配がした。タオルの擦れる音と、足裏が濡れた床を踏むぺたぺたした音。たったそれだけで、充の背中の筋肉が一瞬だけ強張り、すぐに緩む。硬くなるのは癖だ。守るとか守られるとか、そういう言葉がまだ肌のどこかに残っているからだ。緩むのは、今はもうそれだけじゃないと知っているからだ。洗い場の鏡に、二人の影がぼんやり映った。湯気で曇っていて、線が滲む。滲むのが助かると思った。はっきり見えると、照れが先に立つ。照れは、今さらだ。今さらなのに、まだある。なくならない。なくならないから、日常が日常のまま続く。充はシャワーを手に取り、自分の肩を流した。湯の温度が肌に当たって、今日の疲れが少しだけほどける。サロンの一日分の立ちっぱなしと、指先の細かい緊張。それが湯気の中で溶けていく。溶けていくのに、ただ眠くなるのではなく、胸の奥が静かに整っていく感じがした。陸斗は洗い場の奥で、黙って身体を流していた。余計な気配を出さないような動き方だ。昔の陸斗なら、こういう場面で何をどうしていいのか分からず、言葉を探していた。今は違う。黙り方が変わった。黙ることが、逃げではなく、相手の時間を尊重する形になっている。その変化が、充の中の何かを甘やかす。甘やかされるのが怖かった時期はもう過ぎたのに、それでも甘やかされると少しだけ胸が詰まる。充はシャンプーボトルを手に取った。押すと、透明な液が掌に落ちる。少し甘い香りが鼻先に立つ。サロンで使うものとは違う、家の匂い。
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119.朝焼け前の鍵

カーテンの向こうで、空がまだ決めかねている色をしていた。夜の濃さを完全には手放していないのに、黒だけではない。薄い灰色に、少しだけ青が混ざって、ビルの谷間に滲む気配がある。窓ガラスには、遠くのネオンの名残が点のまま残り、眠りの途中で置き忘れられた光みたいに瞬いていた。充はキッチンに立って、蛇口の水を細く出した。水音が静かな部屋に通っていく。流し台の金属がひやりとして、指先の温度が吸い取られる。昨夜の湯気の余韻はもうない。けれど、肌の奥にだけ温度が残っている。泡の感触が、まだ手のひらの線の間に薄く残っているような気がして、充は指を一度握り込んだ。握り込むと、指の関節が少しだけ引っ張られる。仕事で酷使した手の感覚に戻る。現実に戻る。その戻り方が、以前とは違う。以前の朝は、終わりの印だった。夜が終わる。店の光が消える。笑い声が背中から落ちる。冷たい風の中を歩いて、鍵を開けて、やっと静けさに潜り込む。朝は、逃げ込む側の時間だった。今は、出て行く側の時間になっている。出て行くのは陸斗で、充は送り出す側に残る。残る側の胸の内に、取り残される痛みがないわけではない。けれど、残ることが置いていかれることと同じではないと、ようやく体が覚え始めていた。流し台の横に置いたコップをすすぎ、乾いた布巾で拭く。布巾は柔軟剤の匂いがする。甘すぎない匂いが、生活の匂いとして落ち着いている。充はその匂いが好きになった自分に少しだけ驚く。香水の匂いのように、鎧にはならない。酒の匂いのように、胃に残らない。毎日触れても嫌にならない匂いだ。背後で、布が擦れる音がした。スーツの生地の音は、家の中では浮く。浮くのに、その浮き方がもう痛くない。充は振り向かずに、布の擦れる音がどこを動いているのかを音だけで追った。寝室から廊下へ、廊下から玄関へ。足音は大きくない。靴下のままの足音が、床を柔らかく踏んでいる。充は流し台の水を止め、手を拭いた。キッチンカウンターの上に置いてある皿を一枚ずつ片付ける。昨夜のうちに洗っておけばよかったと一瞬だけ思うが、思うだけで終わる。罪悪感の種類が変わった。できなかったことを責めるためではなく、今日はこういう段取りだった、と納得するために思う。玄関の方で、小さく金属が触れ合う音がする。
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