All Chapters of 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年: Chapter 41 - Chapter 50

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41.父さんが頼んだ人

審問室は、思っていたよりも狭かった。ドラマで見るような高い壇も、木槌もない。四角いテーブルが一つ、その向こう側に裁判官と書記官が座り、手前に陸斗と充の席が用意されているだけだ。会議室といわれれば、そう見えなくもない。窓は一枚だけ。すりガラス越しに、淡い光が差し込んでいる。外の景色は見えない。見えるのは、白いカーテンと、その向こうのぼんやりした明るさだけだ。壁は白く、時計が一つ。カチ、カチと規則的に針の音を刻んでいる。その音がやけに耳につくのは、自分が緊張しているせいだと分かっている。「そちらにおかけください」書記官の女性が、柔らかい声で言った。陸斗は、促されるままに椅子に腰を下ろす。椅子の足が床を擦って、小さな音を立てた。充も隣の席に座る。机の表面は、少しざらつきのある木目調の板で、角は丸く処理されている。その端に、ボールペンと水の入った紙コップが二つずつ並んでいた。正面に座る裁判官は、五十代くらいの男だった。黒いローブではなく、濃紺のスーツを着ている。眼鏡のフレームは細く、レンズの奥の目は、とてもよく人を観察する目をしている。その視線が、一度、陸斗を、次に充を、静かになぞった。「本日はお越しいただきありがとうございます」裁判官は、手元の書類に目を落としてから、淡々と口を開いた。「簡単な手続きではありますが、形式として、何点か確認させていただきます。緊張なさらずに、分かる範囲でお答えください」緊張するなと言われて、はいそうですかと力を抜けるほど器用ではない。けれど、声そのものは、思っていたよりも柔らかかった。怒鳴られるような場ではないのだと、少しだけ肩の力が抜ける。「ではまず…」裁判官は、書類をめくりながら言葉を続けた。「長谷陸斗さん」名前を呼ばれ、反射的に背筋が伸びる。「はい」自分の声が、部屋の中に少し響いた。「あなたが、長谷慎一さんのご長男、長谷陸斗さんで、間違いありませんね」「…はい」「生年月日は
last updateLast Updated : 2026-02-01
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42.途中で投げ出さない

裁判官の視線が、ゆっくりと横へ滑った。さっきまで自分をまっすぐ見ていた目が、今度は隣の充の方へ向けられる。その動きを、陸斗は横目で追った。テーブルの向こうで、黒いペン先が一瞬止まり、また小さく動き出す。「では、桜井さん」落ち着いた声が、部屋の空気を軽く震わせる。「あなた自身に、確認させていただきます」「…はい」充の返事は、いつものように低かった。だが、僅かに掠れているようにも聞こえる。緊張しているのか、寝不足のせいなのか、それともその両方なのか。「未成年後見人としての責任を引き受ける意思が、あなたにありますか」質問自体は、支援センターでも弁護士事務所でも、何度か別の形で聞かれてきた内容とほとんど同じだ。ただ、今ここでその言葉を聞くときだけ、重さが全然違って感じられる。この部屋での「あります」と「ありません」は、書類と判子と通知書になって戻ってくる。「なんとなく」とか「とりあえず」は、挟まる余地がない。隣で、充がほんのわずかに息を吸い込んだ気配がした。答えるまでの沈黙が、一拍分長く感じられる。実際には、まだ数秒も経っていないのだろう。それでも陸斗には、その間にいろんな音が聞こえた気がした。壁掛け時計の針の音、書記官のボールペンが紙と擦れる乾いた音、エアコンの吹き出し口で空気が渦を巻く低い音。充は、すぐには答えなかった。黙り込んだ、というほど長い時間ではない。それでも、その短い無音に、陸斗は思わず自分の指先に力を込める。膝の上で軽く握っていた手の甲に、爪が食い込んで少し白くなる。何を考えているんだろう。その沈黙の中で、彼の頭の中を走り抜けているものを、陸斗は想像することしかできない。Reinaのフロア。オレンジ色のライトと、笑い声と、グラスの触れ合う音。女装した「みっこ」としての自分を見つめ返す鏡の中の顔。家計簿のノートに並んだ数字。家賃、光熱費、食費、制服代、教科書代。赤ペンで引いた線。明け方、玄関の鍵を回して部屋に戻ったあと、自分の布団の横をそっと
last updateLast Updated : 2026-02-02
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43.公式な保護者

ポストの金属の蓋を開けた瞬間、ふわっと紙の匂いがした。放課後、いつものようにアパートの階段を駆け上がる前に、一階の共有ポストを覗くのが、最近の陸斗の日課になっていた。チラシや請求書の間に、白い封筒が一通、きっちりと差し込まれている。他の郵便物とは、明らかに違う質感だった。少し厚手の紙、妙にきちんとした印刷された宛名。薄いビニールの窓付き封筒ではなく、真っ白な長形の封筒。表面に、黒い細い文字で住所と名前が二つ並んでいる。「長谷陸斗 様」その下に、小さく一行あけて。「桜井充 様」二人分の「様」が、妙に並んでこちらを見ているように感じた。右下には、見覚えのある差出人の名。「家庭裁判所」喉の奥が、きゅっと狭くなるような感覚がした。指先の汗が急に増えたのが自分でも分かる。封筒の紙が、そこからじわりと湿り気を吸って、ほんの少し柔らかくなった。「…きた」誰にともなく呟いて、封筒をそっと引き抜く。ビニールやチラシのざらざらした手触りの中で、その白い紙だけがやけに滑らかだ。他の郵便物も一応拾ってポストを閉め、封筒を胸の前で持ったまま、階段を上り始める。薄暗い階段の電球が、夕方の半端な光の中でぼんやりと黄色く光っている。足音が、一段ごとに響く。封筒の中で紙が少し動く度に、カサリ、と小さな音がした。いつもなら、二階の踊り場までの数十段なんて一瞬で駆け上がれるのに、今日は足が妙に重い。階段のコンクリートの冷たさが、靴底越しに、じわじわと伝わってくる気がした。部屋の前まで来て、ポケットから鍵を探る。手の中には封筒も握られているから、指先がうまく動かない。金属と紙と汗が、ごちゃごちゃに絡まり合っている。何とか鍵を取り出し、ガチャリと回す。「ただいま…」いつも通りの声を出したつもりが、少しだけ上ずっていた。「おう」台所の方から、短い返事が返ってくる。換気扇の音と、フライパンに何かが触れる軽い音が混ざっている。
last updateLast Updated : 2026-02-03
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44.進路調査票とぐらつく約束

チャイムが鳴り終わっても、教室のざわめきはすぐには収まらなかった。春と夏の境目みたいな午後で、窓の外からは部活動に向かう下級生の声が、風にちぎられて流れ込んでくる。前の黒板のところに立った藤田先生が、手に持った紙の束を軽く揺らした。「はい、進路調査票。高三様式、第一弾ね。とりあえず仮だから、そんなに怯えた顔するな」垂れ気味の目尻をさらに細くして、からかうみたいに笑う。列ごとに束を手渡すと、あとは前から後ろへ、といつもの流れ作業になる。前の席の女子がくるりと振り向き、後ろの陸斗に紙の束を差し出した。白い紙の角が、蛍光灯の光を弾いて一瞬きらりと光る。「はい、長谷くん」「ありがとう」一枚抜き取り、後ろへ回す。薄い紙が、指先でぺらりと鳴った。その軽さに似合わない、嫌な重さが、もうすでにそこに張り付いている気がする。名前を書く欄に「長谷 陸斗」と書き込む。いつもと同じ字のはずなのに、紙の上に浮かび上がった文字が、自分のものじゃないみたいに見えた。その下、住所、電話番号。そこまでは手が勝手に動く。問題は、そのさらに下だ。志望区分 □大学 □短大 □専門学校 □就職 □その他ボールペンの先が、「大学」の四角の少し上に止まった。大学。行けるかどうかで言えば、「行けるかもしれない」の側にいるのは分かっていた。模試の判定表でも、藤田先生にも、「このままいけば」と何度か言われている。そういう意味での「レール」は、ずっと目の前に敷かれてきた。でも、そこに丸をつけることは、「学費」とか「通学費」とかいう生々しい単語を、全部まとめて充の肩に乗せることでもある。ペン先が、わずかに揺れた。就職、という四角にも目がいく。高卒で働けば、とりあえず給料は入る。今すぐにでも、家計の足しにはなるはずだ。昼の仕事なら、社会的には「まとも」な働き方だと、誰に対しても胸を張れる。何より、充が夜の店で身体を削って稼いでいる時間を、少しでも短くできるかもしれない。代わりに、自分の「学びたい」とか「知りたい」は、そこでひとまず、棚の奥に押し込まれることになる。
last updateLast Updated : 2026-02-04
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45.夕食テーブルの前哨戦

炊飯器のタイマーが、ぴ、と短く鳴いた。陸斗は、流しの前で手を止める。蛇口から流れ続けている水の音と、ガスコンロの上でじりじりと温まっている味噌汁の鍋の音が、狭いキッチンに重なっていた。炊飯器の蓋を開けると、白い湯気が一気に立ちのぼる。ふわりと米の匂いが顔を包み、湿った熱が睫毛を少し濡らした。しゃもじを差し込んで底から返すと、炊きたてのご飯が、ゆるく光を反射する。「…よし」小さく呟いて、火を弱めた味噌汁の鍋の蓋を少しずらす。だしと味噌と、入れたばかりの長ねぎの匂いが、湯気に混ざって立ち上る。それに、先に作っておいたもやし炒めの油の匂いと、冷蔵庫から出した冷奴にかけた醤油の匂いが混ざり合い、部屋全体が「夕飯の匂い」になっていく。背後から、テレビの音が聞こえる。ニュース番組の落ち着いたアナウンサーの声。「…続いては、物価高騰の影響が、教育費にも及んでいるという話題です」テロップの読み上げる声と一緒に、「教育費」「奨学金」「国立大学授業料」などの言葉が、ぽつぽつと耳に刺さってくる。気にしないふりをしながら、陸斗は炊飯器から茶碗にご飯をよそった。湯気で指先がじんと熱くなる。二人分。癖みたいに、一つ目をちょっと多めに、もう一つを少なめによそう。多い方は充の茶碗だ。もやしと豚こまを炒めたフライパンから皿に盛り付け、冷奴を二つの小鉢に分ける。きゅうりの塩もみにごま油を少し垂らし、箸でざっと混ぜる。テーブルの上に、ひとつずつ並べていく。小さなローテーブルはすぐにいっぱいになった。「充さん、ご飯できました」キッチンとリビングの境目くらいのところで声をかけると、ソファにだらしなく座っている男が、片肘をついたまま視線だけこちらへ向けた。「おう」テレビの光が、充の横顔に青白く反射している。手には煙草。灰皿の上には、すでに短くなった吸い殻が三本ほど並んでいた。今日は家にいる時間が長かったからか、いつもより一本多い気がする。「今行く」言いながら、充は吸いかけの煙草に最後のひと吸いをして、灰皿に押し付けた。火がじゅ、と小さく音を
last updateLast Updated : 2026-02-05
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46.三者面談と「国立も狙える」

高校三年の七月の午後、廊下の空気は、外より少しだけ冷たかった。会議室前の廊下には、パーティションで区切られた即席のブースがずらりと並んでいる。銀色の脚の長机とパイプ椅子。奥のブースからは、ところどころ保護者と先生の声が漏れ聞こえてきた。「…就職の方で考えてまして」「指定校の枠がですね」そんな単語が、薄いパーティションの向こう側から、空気ににじむように出てきては消えていく。廊下の窓から差し込む光は、少し傾き始めていた。体育館の方角からは、バスケ部のドリブルの音と、誰かの掛け声が遠く響く。ワックスがけされた床は、ところどころ光を反射していて、その上を行き交う保護者の靴音が、とん、とん、と規則的に鳴った。陸斗は、進路調査票のコピーと、通知表、模試の成績一覧が差し込まれたクリアファイルを、膝の上で握っていた。薄いビニール越しに伝わる紙の感触が、やけに固く思える。隣には、充が座っている。今日は、いつものくたびれたパーカーではなく、白いシャツにグレイのジャケットという、少しまじめな服装だった。全体としてはちゃんと「保護者です」と名乗っても違和感のない格好だ。ただ、パイプ椅子に背中を預ける姿勢だけは、どうしても「夜の人」っぽく見えた。脚を組まずにきちんと揃えているのに、どこか座り慣れていない感じがある。「緊張してんのか」充が、小さな声で言った。視線は前方のパーティションの縁に向いたままだ。「…してないです」答えながら、陸斗は自分の握っているファイルに視線を落とす。指先に力が入りすぎて、透明なビニールが少し白く曇っていた。嘘だった。胸の奥が、ずっと落ち着かない。心臓の鼓動が、自分の声よりもはっきり聞こえるような気さえする。「お待たせしました。長谷くん、桜井さーん」パーティションの向こうから、藤田先生の声がした。「どうぞ」仕切りの隙間から顔を出した藤田先生は、いつもの授業のときと同じグレーのスラックスとワイシャツ姿だったが、ネクタイが少しきれいめなものに変わっている。
last updateLast Updated : 2026-02-06
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47.帰り道の大ゲンカ

校舎を出ると、夕陽がちょうど校庭の向こう側に沈みかけていた。グラウンドの土の上に、オレンジ色の影が長く伸びている。サッカー部の掛け声と、吹奏楽部のチューニングの音が遠くから混ざって届く。生温い風が、汗と土と制服の匂いをまとめて押し寄せてきた。昇降口を抜け、正門へ向かうスロープを二人で並んで歩く。周りには、同じように三者面談を終えた親子がぽつぽつ。母親らしき人の手に、学校のロゴの入った封筒が握られている。隣を歩く桜井充は、いつものジャージではなく、襟のついたシャツに薄いジャケットという、彼なりの「きちんとした格好」をしている。肩幅の広さのせいで、安物のジャケットの縫い目が少し引っ張られているのが陸斗には分かった。沈黙が、しばらく続いた。先に口を開いたのは、充の方だった。「藤田センセイ、よく喋るな」「……いつもあんな感じです」自分でも、声が少しだけ上ずっているのが分かる。「 ‘ここがもう少し伸びれば’ とか ‘模試の判定はあくまで目安で’ とか。ああいうの、職業病なんです」「ふうん。国立がどうとか、偏差値がどうとか、いろいろ言ってたけどよ」充は、ポケットに手を突っ込みながら、軽く鼻を鳴らした。「 ‘国立も狙える’ とか、すげえよな。俺、授業料がいくらとか聞きながら、ちょっと頭痛くなったわ」その言い方は、半分冗談に聞こえた。けれど、陸斗には、その奥にある本物の数字の重さが透けて見える気がした。校門を出ると、空の色は少しずつオレンジから青へと移り変わりつつあった。歩道に長く伸びていた影が、ゆっくり短くなっていく。数歩、二人とも無言で歩く。靴の裏がアスファルトを叩く音と、前を自転車で通り過ぎていく生徒のベルの音だけが、やけに耳に残る。校舎が小さくなり、住宅街に入る角の信号待ちで、赤信号の光に足を止められる。向かい側では、小学生とその母親が手を繋いで立っていた。母親が子どものランドセルを軽く直してやる仕草を、視界の端で捉え
last updateLast Updated : 2026-02-07
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48.半焼けトーストの休戦

アパートに戻ってから、玄関の鍵が閉まる音までが、妙に大きく響いた。靴を脱ぐとき、視線は一瞬も交わらない。互いに自分のテリトリーに逃げ込むみたいに、充はそのままリビング側へ、陸斗は寝室側へと足を向けた。ドアを閉める音さえ、気を遣ってしまう。思い切り閉めれば感情ごと叩きつけたみたいになるし、あまりにそっと閉めると、かえって「気にしてます」と宣言しているようで嫌だ。結局、陸斗は、指先でドアノブを押さえながら、空気を逃がすようにゆっくりと閉めた。蝶番が小さくきしむ。部屋は狭い。冷蔵庫のモーター音も、外の国道の車の走行音も、全部薄い壁一枚でつながっている。それでも、ドア一枚挟んだだけで、世界が別れたように感じられた。ベッドの端に腰を下ろし、無意識に鞄のジッパーを開ける。中から、クリアファイルを取り出した。透明なプラスチックの向こう側に、白い紙が見える。進路調査票。取り出して、机の上に広げる。蛍光灯の白い光が、紙の上の罫線をくっきり浮かび上がらせた。「大学」「専門学校」「就職」「その他」のチェック欄は、きれいなまっさらの四角のまま、そこに並んでいる。ボールペンで一つ印をつけるだけで、自分の行き先が一本に絞られる、そんな感じがする。シャープペンを手に取り、「大学」の横の四角の上に、ほんの少しだけ芯を近づけてみる。黒い点が紙を汚しそうになって、慌ててペン先を浮かせた。息を吐く。芯をノックする指に、余計な力が入っていたことに気づく。小さなカチカチという音が、沈黙の部屋にやけに大きく響いた。外からは、歌舞伎町のざわめきがかすかに届いている。遠くのネオンが点いたり消えたりするのを、カーテン越しの淡い光で感じる。笑い声、怒鳴り声、サイレンの音。全部、ここからはぼやけた雑音にしか聞こえない。机の上の紙だけが、やけに鮮明だ。「守られてるだけでいたくない」さっき自分が口にした言葉が、頭の中で再生される。少し間を置いて、また再生される。そのたびに、胃の奥がきゅっと縮む。本音ではあった。本音ではある。少なくとも、その瞬間嘘ではなかった。けれど
last updateLast Updated : 2026-02-08
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49.大学に行くと決める夜

進路調査票の締切が、じわじわと首元まで水位を上げてきていた。ホームルームの終わり際、藤田がいつもの黒縁メガネを押し上げながら前に立つ。「進路調査票、まだ出してない人。今日で一応、一回目の締切ね。どうしても決まらない人は相談には乗るから、とりあえず、白紙で持ってこないように」教室のあちこちで、笑いが起こる。「え、やべ、白紙だわ」「お前いつもだろ」「親がさ、 ‘とりあえず浪人はなしで’ とか言ってきてさ…」「指定校もらえるやつ羨ましいわ。私大行ける金あんのマジで勝ち組」「奨学金は?」「あれは地獄」前の席の女子二人が、小声で笑いながら話している。「でもさ、大卒じゃないとキツくない?求人見てても ‘大卒以上’ 多いし」「そうだけどさ…借金背負うの怖くね?社会人デビューからマイナススタートじゃん」そんな単語たちが、ざらざらと空気をこすっていく。陸斗の机の上にも、進路調査票の紙が一枚。端が少し折れてしまっている。名前、クラス、出席番号。そこまでは、手が勝手に書いてくれる。問題は、その先だ。志望区分の欄。「大学」「短大」「専門学校」「就職」「その他」。ボールペンを持った右手が、「大学」の横の四角の上で止まる。紙を破らないぎりぎりのところまで、ペン先が沈んだ。チェックマークを入れること自体は、ほんの一秒の動作だ。一瞬の手の動きで、卒業後の四年間が決まる。頭の中で、数字が並ぶ。「授業料」「入学金」「定期代」。授業で見せられた資料や、藤田が面談で出してきたパンフレットの数字が、黒いインクで浮かび上がる。国立なら、私立より安い。けれど、「安い」の桁が変わるわけじゃない。一年で何十万、四年で何百万。その横に、「今すぐ働く」のイメージが並ぶ。給与明細の額面、家に入れられる金額、減らせる夜のシフト。「長谷、国立も狙えるぞ」藤田の声が、三者面談の日からまだ頭の片隅に居座
last updateLast Updated : 2026-02-09
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50.ネクタイと白い息

ネクタイの結び目が、どうにも気に入らなかった。鏡の前で、陸斗は何度目か分からない手つきで、紺の生地を指先でつまむ。結び目をぎゅっと引き締めては緩め、もう一度両端の長さを揃える。いつも通りの手順のはずなのに、今日は少しだけ、うまく決まらない気がした。鏡の中には、見慣れた「三年生の自分」が映っている。ブレザーの肩に少しだけ入ったテカリ、第二ボタンの位置、擦り切れたネクタイの端。どれも昨日までと同じはずなのに、「今日で最後」という言葉だけが頭のどこかに張り付いて、落ち着かない。「……別に、ネクタイで人生変わんないだろ」自分に言い聞かせるみたいに呟き、もう一度だけ結び直してみる。今度の結び目は、さっきより少しだけ形がきれいに見えた。完全に満足ってほどではないが、鏡の中の自分に向かって小さくうなずく。視線を下にずらすと、椅子の上に置いた上履き袋が目に入る。紺色の布に、白い取っ手。入学したときは真っ白だった上履きも、今はどこをどう洗っても取れない灰色の線が残っている。三年間、廊下と階段を歩き回った結果だ。あの廊下を、この制服で歩くのも、今日で終わり。そう考えかけて、陸斗は自分の思考を途中でぷつりと切った。考えすぎると、変に足元が浮ついて転びそうだ。いつも通り、いつも通り。卒業式なんて、座って立って礼して、証書もらって終わり。イベントの一つに過ぎない。そう思おうとすると、その「イベントの一つ」って言い方が、かえって胸の奥をざらつかせた。キッチンの方から、マグカップをテーブルに置く、小さな陶器の音が聞こえた。続いて、椅子を引く音。換気扇の低い唸りと、コーヒーの匂いが、狭い部屋にゆっくり広がる。玄関脇の全身鏡から一歩離れると、陸斗はその匂いにつられるようにキッチンへ向かった。二間続きのボロい部屋。キッチンと呼ぶには狭いスペースに、小さなテーブルと冷蔵庫とガスコンロが詰め込まれている。そのテーブルの前に、見慣れない組み合わせが座っていた。シャツにジャケット。ジーンズではなく、くたびれてはいるものの、それなりにきちんとした黒いチノパン。足元は、普段のスニーカーではな
last updateLast Updated : 2026-02-10
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