All Chapters of 遺言のある部屋―託された息子、救われた青年: Chapter 51 - Chapter 60

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51.体育館の春と教室の別れ

昇降口を抜けると、空気がいつもより少しだけ騒がしかった。靴箱の上の壁には、色あせた画用紙にマジックで書かれた「卒業おめでとう」の文字。誰かの描いた安っぽい桜の花びらが、そのまわりに貼りついている。貼ってから日数が経っているのか、花びらの端が少しめくれて、蛍光灯の風でぴらぴら揺れていた。下駄箱の前には、スーツ姿の保護者と制服姿の生徒が入り混じっている。普段ならほとんど見かけない大人たちの姿が、狭い空間をぎゅうぎゅうにしていた。「うわ、混んでる…」陸斗は小さく息を吐き、ローファーのつま先を揃えるように靴箱の前に立った。自分の番号の扉を開けると、見慣れた上履きがそこにある。三年間でだいぶ黄ばんだ白いゴムの部分と、かかとに引っかけた指の跡。それを手に取って履き替えた。上履きの底が床を踏む感触も、今日で最後だ。そう思いかけて、陸斗は意識して頭を振った。いちいちそうやって「最後」を数えていたら、式が始まる前に疲れてしまう。靴箱の列の端で、充が所在なさげに立っているのが見えた。黒い革靴で落ち着かない足元を隠すように、ジャケットのポケットに手を突っ込んでいる。周囲の保護者たちの中に混じると、年齢的には浮いていないはずなのに、どこか場違いに見えるのは、たぶん本人の落ち着かなさが姿勢に出ているせいだ。目が合うと、充が顎を少しだけ持ち上げた。「行ってこい」「はい。えっと…体育館は、こっちからですね。案内出てるんで」「分かる。迷子になんねえよ」言いながらも、充の視線はきょろきょろと案内表示を追っている。昇降口から体育館へ向かう矢印が、赤い紙で作られて壁に貼られていた。「保護者入口って書いてある方から入ってください。保護者席、上の方らしいんで」「おう。いい席取っといてやるよ。一番後ろの端っこ」「それ、いい席って言わないです」そんなやり取りを交わし、陸斗は上履きのかかとを踏まないように気をつけながら、教室へと向かった。廊下は、いつもの朝より少し明るく感じられた。窓の外から差し込む光の角度が、冬
last updateLast Updated : 2026-02-11
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52.官舎の前を通る影

校舎から外へ出ると、光の色がさっきまでと違って見えた。廊下の蛍光灯に慣れていた目に、三月の午後の陽射しは少し眩しい。校門のところには紅白幕が張られ、その手前で卒業生と保護者たちがごちゃごちゃに混ざっている。スマホを構えた母親、スーツ姿の父親、小さな弟や妹を連れてきている家族。黒いコートと花束のピンク色があちこちで揺れていた。階段を下りながら、陸斗は無意識に背筋を伸ばした。学ランの襟元に指をやって、ネクタイの結び目がずれていないかを確かめる。卒業証書の入った筒が、肩から斜めにかけた鞄の横でコツンと当たっている。校門の外側に目を向けると、人混みの少し外れた場所に、見慣れたシルエットが立っていた。紺のジャケットに、襟元の少し緩んだ白いシャツ。足元は、いつものスニーカーではなく、借り物みたいにぎこちない黒い革靴。ポケットに片手を突っ込み、反対の手で何度もスマホをいじるふりをしている。桜井充だ。周囲の「ザ・保護者」みたいなスーツやコートに比べると、彼の格好はどこか中途半端だ。きちんとしているのに、きちんとしていることに慣れていない、その落ち着かなさが姿勢に出ている。目が合った。充が、ほんのわずかに顎を上げる。その動きが、そのまま「おう」と言っているように見えた。陸斗は、鞄の持ち手を握り直しながら、歩みをそちらへ向けた。「おつかれ」充が、先に口を開いた。声にはいつものだるそうな調子が混ざっているが、どこか喉の奥が固くなっているようにも聞こえる。「……まあ」返事が妙に短くなってしまう。何と言えばいいのか分からない。卒業しました、というのも変だし、ありがとう、と言うのもまだ照れくさい。「卒業証書、落とすなよ」充が、視線を鞄の横の筒に落とした。「落としません」「酔っ払いのおっさんとかに当てんなよ。それで喧嘩になったら笑えねえからな」「当てませんって」二人の間に、風が抜けていく。三月の風は冷たいけれど、冬ほど刺さらない。口から吐く息は、うっすらと白い。
last updateLast Updated : 2026-02-12
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53.ボロ2Kの卒業祝い

アパートの階段を上がる足音が、いつもより少しだけ重く響いた。一段上がるたびに、さっき見た官舎の灰色が、頭のどこかでまだ尾を引いている。ポケットの中で鍵が当たって小さく音を立てたとき、陸斗は意識的に深く息を吸った。肺の奥に入り込んできたのは、街のアスファルトと排気ガスと、どこかの店から漏れてくる揚げ物の匂いだった。三階に着き、見慣れたボロいドアの前に立つ。少し歪んだドアノブの感触は、指に馴染んでいた。鍵を差し込んで回すと、いつも通り、あっさりと開いた。「ただいま」声に出した瞬間、さっき通り過ぎた官舎の玄関には、もう二度とこうして出入りすることはないのだと、改めて実感が押し寄せる。だからこそ、この安っぽい鍵とドアの組み合わせが、自分にとっての「家」の音だと思おうとする。「おう」奥から、少し気の抜けた返事が返ってきた。靴を脱いで狭い玄関を抜けると、リビング兼寝室の空間に、いつもの生活感がむわっと広がっていた。薄いカーペットの上には、安物のローテーブル。壁際には、背の低い棚と、小さなテレビ。隣のスペースには布団が丸めて置いてあり、その向こうに小さなキッチンが見える。でも、いつもと違うものが一つあった。ローテーブルの上に、スーパーのビニール袋と、既にいくつか並べられたパック。透明なフタの向こうに、茶色い唐揚げと、白と黄色が混ざったポテトサラダ。それから、氷の上に並んだ刺身が赤とピンクの色を主張している。「……あ」思わず声が漏れた。「なんだよ」キッチンから顔を出した充が、眉を少し上げる。いつの間にかジャケットは脱いでいて、白いシャツの袖を雑に肘までまくっていた。ネクタイはどこかに放り出したのか、首元が少しだけ開いている。「なんか、いっぱいありますね」「スーパーの総菜コーナー総動員って感じだろ」充は、手に持っていた割り箸の束をテーブルに置いた。「あんま ‘祝いの料理’ っぽいの作れねえからよ。揚げ物と刺身並べときゃ、とりあえず &lsquo
last updateLast Updated : 2026-02-13
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54.「家族」って呼んでいいですか

テーブルの上の唐揚げは、だいたい骨だけになっていた。空になったパックが三つほど、ローテーブルの端に寄せられている。ポテトサラダの容器の底には、ヘラでこそいだみたいな跡が残り、刺身のパックにはくたびれた大葉と、潰れかけたわさびだけが取り残されていた。蛍光灯はまだ全開で、白い光がプラスチックのフタのテカりをいやにくっきり浮かび上がらせている。テレビからは、バラエティ番組が終わってニュースに切り替わったところで、アナウンサーが淡々と今日の天気と花粉情報を読み上げていた。ビールの缶は、充の前に二本。一本は完全に空で、もう一本は、ちょうど半分くらい残っている。缶の表面についた水滴が、指先に冷たかった。「……ふう」充は、残り半分を一口で流し込んでから、小さく息を吐いた。喉の奥に苦味と炭酸の刺激が残る。さっきまでの唐揚げの油と、ポテサラのマヨネーズと混ざって、胃のあたりが重たいけれど、それが悪くない。正面では、陸斗が炭酸飲料のペットボトルをいじりながら、テレビをなんとなく眺めていた。制服からジャージに着替えて、さっきより少しだけ肩の力が抜けて見える。紙コップの底には、まだ少しだけ泡が残っていた。ローテーブルの上には、もう一つ、目につくものがある。筒に戻された卒業証書。その筒の横で、充は少し迷ったあと、テーブルから立ち上がった。「ちょっと待ってろ」「はい?」陸斗が顔を上げる前に、充はキッチンと反対側、玄関近くの棚をごそごそと漁り始めた。ファイルや封筒が乱雑に突っ込まれたプラスチックのケース。その一番奥に、薄いクリーム色の封筒が数枚重なっている。そのうちの一つには、見慣れない大学のロゴが印刷されていた。封の端が少しよれているのは、何度か手に取り、また棚に戻したからだ。「これ」リビングに戻りながら、充は封筒をひらひらさせた。「何ですか」「来てたろ、お前宛に。大学のやつ」「ああ…」陸斗の表情に、少しだけ緊張が戻る。届いたときに一度一緒に開けて
last updateLast Updated : 2026-02-14
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55.桜の中庭と迷子の大学生

四月の空は、やけに青かった。冬の名残みたいな冷たい風が頬を撫でても、その青さだけは揺るがない。雲が薄く伸びているところだけ、ほんの少し白くにじんでいる。陸斗は、自分の足元を見下ろした。黒い革靴が、まだ硬い。かかとのあたりが絆創膏越しにじんと痛む。履き慣れたスニーカーに比べれば、完全に異物だ。足首から上に続くのは、黒いスラックス。見慣れない折り目の線が、膝のあたりでぎこちなく曲がっている。スーツなんて、葬式以外で着たことなかったな、とふと思う。あのときは、もっときつかった。喪服の黒は、重く沈む黒だった。今、自分が着ているのは、もう少し薄い黒だ。就活生と大学生の中間みたいな色。ポケットの中で、スマホの角が指先に当たる。時刻を確認しようとして、手袋をしていないことを今さら思い出した。画面には、集合時刻まであと十五分と少し。電車の遅延はなかったし、道も間違えていないはずだ。顔を上げると、正門が見えてきた。石造りの柱に、黒地に金色の文字で大学の名前が掲げられている。テレビで何度か見たことのある、その看板。実物は思ったよりも大きい。柱の両脇には桜の木が立ち、枝にはまだ花が残っている。ピークは過ぎているのだろうが、花びらが風に揺れて、少しずつアスファルトに降り注いでいる。花びらが薄く積もったその道を、黒いスーツと色とりどりのコートが埋めていた。新入生と、その保護者たち。母親のスーツのグレーとベージュ、父親らしきスーツの黒と紺。ところどころに、袴姿の女子学生も混じっている。スマホで写真を撮る音が、あちこちから聞こえた。そのざわめきの中で、陸斗は一度、振り返った。少し後ろに、充がいた。いつものボロいジャージではなく、黒いジャケットに白いシャツ、それに落ち着いた色のスラックス。首元はいつもよりすっきりしている。ネクタイはしていないが、それでも普段に比べれば格段に「きちんとしている」側の人間に見えた。髪も、自分でワックスをつけていじったのか、少しだけ整っている。その格好が、周囲の「いかにも保護者」と肩を並べていることに、陸斗は妙な感慨を覚えた。場違いってほどでもない。でも、完全に馴染んでいるとも言い切れない。そんな微妙なライ
last updateLast Updated : 2026-02-15
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56.新歓ビラと映研のドア

昼休みのキャンパスは、いつもの講義前後とはまるで別の空間になっていた。中庭に出ると、まず目に飛び込んでくるのは色とりどりの布と紙だ。テントがいくつも張られ、その前には長机。机の上にはポスター、チラシ、使い捨ての紙コップ。そこに群がる人、人、人。「新入生さん〜!テニスサークルでーす!」「春から一緒にバンドやろう!」「飲みサーじゃないです、本当に健全です!」あちこちから張り上げられる声が、風に乗って重なり合う。拡声器を持っているところもあれば、手書きのプラカードを掲げているところもある。テニス、バスケ、フットサル、軽音、ダンス、ボランティア、国際交流…看板に書かれた文字が、視界の端から端まで埋め尽くしていた。紙の匂いと、ポップコーンか綿あめか何かの甘い匂いが混ざっている。ところどころで、試食用なのか焼きそばの鉄板がじゅうじゅうと音を立てていた。陸斗は、その喧噪の中で、やや肩をすぼめ気味に歩いていた。黒いリュックのベルトが、肩の骨に食い込む。周囲の熱気とは裏腹に、自分の体温は少し低い場所にあるような気がした。「新歓期って、こういうもんなのか…」心の中でぼそりと呟く。高校にも部活勧誘はあったが、せいぜい教室前の廊下での呼び込みや、部活紹介のビデオくらいだった。ここまで「祭り」みたいな雰囲気ではない。人の流れに合わせて歩いているだけで、次々とチラシが手元に差し出される。「はい新入生、テニスどう?」「飲み放題あるよ、楽しいよ!」「サークルだけじゃなくて学生団体も見てってくださーい」勢いに押されて、何枚かは反射的に受け取ってしまう。カラフルな紙が、手の中でふわふわ揺れる。その中には、明らかに「ウェイ系」としか言いようのない写真が印刷されているものも多い。夏の海で揃ってポーズを取る男女、居酒屋の座敷でピースサインをしている集団、サンタコスでパーティーをしている写真。「飲み放題」「宅飲み」「春合宿」「海コン」…踊る文字を目にした瞬間、陸斗の脳内に、ビール缶と警察官の組み合わせが一瞬浮か
last updateLast Updated : 2026-02-16
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57.自己紹介と父の欄

新学期が本格的に動き始めたある日の二限目、語学クラスの教室は、まだ新しいノートとプリントの紙の匂いで満ちていた。長机ではなく、一人用の机が四人ずつくっつけられて島になっている。高校の教室と似ているようで、決定的に違うのは、誰も制服を着ていないことだった。パーカー、シャツ、ブラウス、ジーンズ、スカート。色も形もバラバラだ。陸斗は、そのうちの一つに、淡いグレーのパーカーと黒いジーンズという、無難すぎる格好で座っていた。机の上には、教科書とノートと、キャンパスノートに挟まれた新しいシャープペンシル。窓の外には、まだうっすらと花を残した桜の枝が見える。「じゃあ」前の方で、語学の先生が手を叩いた。四十代くらいの女性で、ショートカットに細い眼鏡。どこかテキパキした印象の人だ。「最初なんで、簡単に自己紹介してもらいましょうか。名前と、出身高校と、趣味、あと将来やりたいこととか。そんな感じで」その言い方が、あまりにもさらっとしていて、陸斗は一瞬、肩の筋肉がこわばるのを自覚した。自己紹介、ね。高校でも何度もやってきたことだ。中学のときも、小学校のときも。名前を言って、どこ出身で、何が好きで、将来の夢は何か。テンプレートはだいたい一緒だ。けれど、大学のこの教室で「将来やりたいこと」なんて、どこまで話すべきなのか分からなかった。就職のこと、資格のこと、法学部に入った理由。そこから一歩踏み込めば、父の仕事や今の生活のことも、少しは見えてしまう。「じゃ、前の列の左からいきましょうか」先生がさらりと言う。名前を呼ばれた学生から順番に立ち上がっていく。出席番号順でも出席番号すらまだ覚えていない。陸斗は、自分に順番が回ってくるまでの時間を、頭の中でざっくり計算した。一人目の自己紹介が始まった。「○○高校出身で、趣味はバンドでギターやってます。親が地方公務員なんですけど、地元が田舎なので早く都会に出たいと思って…」「へえ、バンド」前の方で誰かが小さくリアクションしている。親の職業の話を、さらっと挟み込む感じが、陸斗には少し遠く感じた。「地方公務
last updateLast Updated : 2026-02-17
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58.サークル飲みと「今の家」の話

大学近くの商店街を少し外れたところに、その居酒屋はあった。チェーン店の赤い看板。入口の横には、新歓コースのメニューと「飲み放題980円(ソフトドリンク)」と大きく書かれたポスターが貼ってある。その下に、小さく「アルコールは別料金」と付け足されているのが、いかにも大学生向けだと思わせた。夕方六時前。まだ外は薄明るいのに、店の中からは既に笑い声と、油の匂いが漏れていた。靴を脱いで上がると、店員が元気よく「いらっしゃいませ」と言う。掘りごたつ席がいくつか並んでいて、その奥の個室の一つに「映画研究会」と書かれた紙が貼られている。「ここだここだ」先頭を歩いていた三浦が、迷うことなくその障子風の扉を開けた。中から一斉に視線が向く。「おー、新入生追加だ」「何人目だっけ、今日」部屋の中には、すでに十人以上が座っていた。長い掘りごたつのテーブルの周りに、上級生らしき顔ぶれと、新入生らしきスーツ姿や私服が入り混じっている。テーブルの上には、枝豆の皿とフライドポテト、唐揚げが乗った大きな盛り合わせ。ピッチャーにはウーロン茶とオレンジジュース。ところどころに、中身の減ったジョッキがさりげなく置かれていた。「長谷、こっち」三浦が自分の隣のスペースをぽんぽんと叩く。陸斗は、少し頭を下げながら部屋に入り、「失礼します」と小さく言ってから、指定された場所に腰を下ろした。掘りごたつの板の感触が、スーツのスラックス越しに伝わる。まだ新品に近いスーツは、こういう場では少しだけ浮いている気がする。「新一年の…えっと」テーブルの上座側に座っていた眼鏡の先輩が、こちらを見る。落ち着いた色のカーディガンにシャツ。いつもの教室で見たのと同じ片岡先輩だ。「長谷陸斗です」軽く会釈する。それを見て、片岡は小さく頷いた。「映研へようこそ。とりあえず座って、適当に食べて」「ありがとうございます」すでにグラスを持っている人たちが、何やら乾杯の準備をしている。タイミングを見計らっていたらしい。「じゃあ新歓コン
last updateLast Updated : 2026-02-18
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59.片岡先輩に話す「線」

視聴覚室は、昼間より少し冷たく感じられた。窓の外にはもうほとんど光が残っていない。ガラスは暗い板のようになり、その向こうに校舎の輪郭と、遠くの街灯がぼんやり浮かんでいる。その手前に、蛍光灯に照らされた室内の様子が薄く映り込んでいた。パソコンのファンが低く唸り続けている。モニターには編集ソフトのタイムラインが横長に伸び、その上にいくつもの細いバーが並んでいた。映研の次の上映会で流す告知動画の編集だ。効果音やBGMの波形が、規則正しく、あるいは不規則に、青い線で表示されている。マウスを握っているのは片岡で、その隣に陸斗が椅子を並べて座っていた。「ここ、もう一フレームくらい詰められるな」片岡がつぶやく。マウスのクリック音がカチカチと響き、数フレーム分の映像が切り詰められる。再生ボタンを押すと、さっきよりわずかにテンポのいいカットつなぎがスクリーンに現れる。「こっちの方がいいですね」陸斗は、小さく頷いた。画面の中では、過去の上映会の様子がテンポよく切り替わっていく。暗い教室に光るプロジェクターの光。笑っている観客の横顔。カメラを構える誰かの手元。ドキュメンタリーのような、PVのような、不思議な雰囲気の映像だ。「でしょ」片岡は、満足そうでもあり、まだ納得しきっていないようでもある顔をした。「十フレームって、まあコンマ四秒なんだけどさ。人間の感覚って、そのくらいで結構変わるんだよね。コンマ何秒で ‘ダラっと見える’ か ‘締まって見える’ かが変わるって、ほんと面白い」「確かに」もう一度、再生と停止を繰り返す。コンマ数秒の違いを意識すると、その差がくっきり見えてくるような気がする。目と頭が、その差を拾うように切り替わっていく。パソコンの画面の隅では、時計が十九時を少し回った時間を示していた。「…そろそろ区切るか」片岡がマウスから手を離し、背もたれにもたれかかる。椅子がぎしりと音を立てた。「腹減った」「お疲れ様です」
last updateLast Updated : 2026-02-19
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60.クィア映画のポスターの前で

暗幕を半分閉めた視聴覚室は、昼と夜のあいだみたいな薄暗さだった。窓から差し込む光はオレンジ色がかっていて、埃の粒がその中でゆっくり漂っている。プロジェクターのファンが低く回る音と、ノートパソコンの冷却音が、静かな機械の吐息みたいに続いていた。黒板の前には、ホワイトボード代わりに使われている大きな模造紙が貼ってあり、その上にはいくつかの映画タイトルがマーカーで書き出されている。アクション、コメディ、アニメ、社会派ドキュメンタリー。その中に一つだけ、英語のタイトルが紛れ込んでいた。カタカナで無理やり音を写した、長い題名。端っこに、小さく括弧書きで「同性愛」と付け足されている。その文字列を、陸斗は自分の席からぼんやり眺めていた。床に直置きされたパイプ椅子。その金属の冷たさが、薄いジーンズ越しにじわりと伝わってくる。「これさ、前からやりたいって言ってたやつだよね」黒板の近くでマーカーを持っていた三浦が、例のカタカナタイトルを指でつつくように示した。髪を後ろでゆるく結んだ女の先輩が、それにうなずく。「うん。去年も候補に上がったけど、時間の都合で飛んだやつ」「同性愛ものって、引く人いるかな」誰かがそう言った瞬間、部屋の空気が少しだけざわついた。笑いが混じった「いや別に」「どうだろ」の声があちこちから飛ぶ。笑っているのか、警戒しているのか、自分でもよく分からないまま、みんながちょっとだけ姿勢をずらす。黒板のそばで腕を組んだまま立っていた片岡が、そこで口を挟んだ。眼鏡の奥の目は相変わらず穏やかで、声も落ち着いている。「ちゃんとした映画だし、恋愛ものとして普通にいいよ、これ」マーカーの先で、カタカナタイトルを軽く下線でなぞる。「 ‘ゲイ映画’ だからって色眼鏡で見る方がダサいって。そういう偏見を崩したくて選ぶってのも、映研らしいじゃん」さらりと言ったその一言に、ほんのわずかな熱が混じっているのを、陸斗は耳だけで感じ取った。けれどその熱の意味を、まだ言葉として拾えない。「まあなー」「でもポスターどうするかなんだよな」別の
last updateLast Updated : 2026-02-20
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