All Chapters of 春風に別れを告ぐ薔薇: Chapter 11 - Chapter 20

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第11話

「若葉!」樹は半狂乱になりながら叫んだ。若葉のもとへ駆け寄ろうとしたが、他の倉庫が再び爆発し、その熱風によって吹き飛ばされてしまった。地面に強く叩きつけられ、全身を走る痛みに意識が遠のきそうだ。しかし、痛みなんかそっちのけで、ふらつきながらもなんとか立ち上がる。そして必死に倉庫のほうへ向かおうとしたが、数歩も進めずにまた倒れてしまった。「若葉、待ってろ!必ず助けるからな!」樹は目を真っ赤にしながら、指で地面をかき、必死に倉庫のほうへと這っていく。指の皮がすりむけて血が滲んできても、彼は止まろうとはしなかった。しかし、樹が数メートルも進まないうちに、泉が自分のほうへ必死に走ってくるのが見えた。「樹、どうしたの!なんでこんな酷い怪我を?ここは爆発がひどすぎるわ!早く一緒に逃げよう!」樹は若葉がいた方向をじっと見つめる。乾いた唇がかすかに動いたけど、言葉にはならなかった。泉は樹の心配そうな様子を見て、その顔に一瞬嫉妬の色を浮かべた。そして、彼の視線を遮るように、そっとその前に立つ。「樹、もう若葉さんのことは心配しないで大丈夫だと思うよ。だって、彼女にはボディーガードがたくさんついてるでしょ?きっと無事よ」泉の言葉に、樹はほんの少しだけ安心することができたが、やはり彼の心はまだ焦りと不安でいっぱいだった。まだ若葉を探しに行きたそうな樹の前で、泉は突然激しく咳き込んだ。その血しぶきが樹の手にかかり、彼はハッと我に返る。「泉、どうしたんだ!しっかりしろ!今すぐ病院に連れて行くから!」樹の早口な声には、隠しきれない不安が滲んでいた。彼は泉を勢いよく抱き上げ、そのまま足早に港の外に停めた車へと向かった。エンジンをかける直前、樹は最後にもう一度だけ、若葉がいた倉庫のほうを見た。しかし、視線を戻すとアクセルを強く踏み込んだのだった。……病院の前に車を停めると、樹は泉を抱えて駆け込んだ。そして、焦って彼女を診てくれる医者を探す。必死になっていた樹は自分の怪我のことさえ忘れていた。看護師の驚く声が聞こえて、やっと自分の足元に意識が向く。そこには血だまりができていた。そして、傷口に消毒液が染みるはずなのに、なぜだか樹はまったく痛みを感じなかった。ただ、頭の中には若葉の姿が繰り返し浮かんでくる。そして今
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第12話

頭をハンマーで殴られたかのような衝撃が樹に走った。何度も目を擦り、スマホの文字を読もうとするが、擦れば擦るほど視界はぼやけていく。「ありえない。若葉が死ぬはずがない。これはきっと、嘘だ!」樹はよろめきながら立ち上がり、ふらつく足で病室を飛び出した。後ろから呼ぶ泉の声など、まったく耳に入らなかった。樹は車を飛ばして、若葉と暮らした家へと向かった。勢いよくドアを開けたが、その場で足が止まってしまう。この家の内装は、すべて若葉が考えたもので、彼女のこだわりと、若い頃の二人の夢がたくさん詰まっていた。なのに今、この家はがらんとしている。若葉に関するものは、綺麗さっぱり無くなっていた。リビングに飾ってあった二人の写真でさえ、彼女の写った部分は切り取られていた。「ありえない。若葉は、きっとこうやって俺を反省させようとしてるだけなんだ。絶対に見つけだす。必ずだ」樹はうつろな目でつぶやくと、踵を返して走り出す。そして車を飛ばし、和田グループへと向かった。しかし、エレベーターから降りて、がらんとしたオフィスが目に入ると、心臓が口から飛び出しそうなほど驚いた。震える手で若葉のオフィスのドアを開けると、秘書の日和が座っていた。彼に向けられる日和の視線には、隠すことのない嫌悪感がこもっている。「やっといらっしゃったんですね。待っていてよかったです」日和は立ち上がり、懐からファイルを取り出すと、樹に突き出した。表紙にはっきりと書かれた【離婚届】の三文字が、針のように樹の目に突き刺さる。彼はそれを強く握りしめながら、口を開きかけたが、今度は契約書を突きつけられた。「社長はすでに、お二人の共有財産をすべて精算されました。自宅にあったものは、全て持ち出したそうです。そして、家自体についてですが……いらない、と仰っておりました。なにせ、汚いから、だと」汚い……樹の瞳孔が小さくなる。彼の心臓はぎゅっと鷲掴みにされたように痛んだ。ふと、あの日リビングで見た若葉の荷物のことを思い出す。てっきり機嫌を損ねて、自分の気を引こうとしているだけだと思っていた。でも、彼女は本気で出ていくつもりだったのだ。自分の同意もなしに、離婚を決めるほどまでに。日和は、魂が抜けたような樹を見て、口の端に嘲るような笑みを浮かべた。しかし、彼女が
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第13話

「見殺しにしたくせに、今さら知らないふりなんて。よくそんなことができますね」日和は、悲劇の主人公を気取る樹の姿を、出来の悪い茶番劇でも見せられているかのように冷ややかに見ていた。日和は冷たい顔で樹の横を通り過ぎたが、エレベーターに乗る直前で足を止めた。「言い忘れてました。実は、もう一つ大きなサプライズを社長は用意してあるみたいですよ」そう言い残し、日和はエレベーターに乗り込んだ。そこには、まるで魂が抜けたように、呆然と立ち尽くす樹が残されただけだった。樹は手の中の離婚届を見つめた。胸がずきずきと痛む。それでも彼は、若葉がこんなふうにあっけなく死んでしまったなんて、どうしても信じられなかった。7歳の時、若葉は家のライバル会社に誘拐され、倉庫に監禁された。発見時は意識不明だったが、それでも生きて帰ってきた。16歳の時には、若葉はチンピラに攫われた。でも、辱めを受けるくらいならと、自らを刃物で傷つけて抵抗した。血が止まらなくなったその時でも、彼女は死ななかった。さらには20歳の時。若葉は一夜にして両親を亡くした。その後、和田グループの大きなプレッシャーに押しつぶされそうになり、何日も眠れないほど追い詰められたが、彼女は死なずに立ち向かった。こんなにもたくさんの辛いことを乗り越え、耐え抜いてきた女が、今になって死ぬなんてありえない!樹は何度も首を横に振ると、会社を飛び出した。そして、何かに取り憑かれたように、手当たり次第に病院を回っては若葉の行方を尋ねた。しかし、十数軒もの病院を回っても、結果はどこも同じだった。どの病院にも、若葉という人はいなかった。車の中で絶望していた、その時だった。彰人から電話があり、すぐに会社へ戻るように言われた。樹は一瞬ためらったが、最終的にはアクセルを踏み、河野グループへと向かった。会議室に入るとすぐに、彰人が一枚の契約書を彼の目の前に差し出した。「若葉が、自分の持ち株をすべてお前に譲渡した。もともと持っていた株と合わせ、お前は今や河野グループの筆頭株主だよ」樹は呆然と、契約書に書かれた見覚えのあるサインに目を落とす。彼はその瞬間、日和が言っていた「大きなサプライズ」の意味を理解した。「俺はもう年だ。会社はやはり、力のある若い者に任せるべきだろう」そう言う
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第14話

時を同じくして、気を失っていた若葉がようやくゆっくりと目を覚ました。若葉がうっすらと目を開けると、そこは見知らぬ場所だった。手を上げようとした瞬間、体に激痛が走り、思わず息をのんだ。そっと顔を横に向けると、テーブルにはコップが置いてあった。必死に手を伸ばし、コップに指が触れそうになったその時、ドアの方で物が落ちる音がした。次の瞬間には、誰かが彼女にすごい勢いで飛びついてきた。「やっと目を覚ましたんですね!本当によかったです!一週間も眠ったままだったんですよ。このまま目を覚まさなかったら、私……」日和は話しているうちに、またわっと泣き出してしまった。若葉はなんとか微笑み、手を伸ばして彼女の背中を優しくさすった。「私は大丈夫よ」そう言った途端、誰かが日和の襟首を掴んで、若葉の腕の中から無理やり引きはがした。その険しい顔をしている男の目には、不満の色が浮かんでいる。「何度言ったら分かるんだ。彼女は全身怪我だらけなんだぞ。そんなに強く抱きしめたら、傷口が開くだろうが!」日和は悔しそうに立ち尽くしていたが、男の言葉には逆らないらしく、悔しまぎれに軽く足踏みすると、若葉のスープを作るためにキッチンへと向かっていった。男は不機嫌そうな日和の後ろ姿を見て、やれやれと首を振ると、若葉のベッドのそばへと歩み寄ってきた。「石川浩平(いしかわ こうへい)だ。俺が君を助けたんだ。あの日、日和から連絡があって急いで駆けつけたんだけど、ついた時には君はもう気を失っていてね。だから倉庫の裏口から君を連れ出すしかなかったんだ。だけど、それでも一歩遅かった……」浩平は申し訳なさそうな目で、若葉の包帯を巻かれた顔を見つめる。「顔にはひどい傷が残ってしまった。でも安心して。俺なら手術で治せるから」そして、浩平は少し間を置いてからこう続けた。「よく考えてほしいんだけど、元の顔に戻したい?それとも、まったく別の顔になりたいかな?」別の顔?若葉の心臓がどきりと跳ねた。なぜ今、樹の姿が脳裏に浮かんだのだろうか。これまでの人生、彼女の隣にはいつも樹がいた。でも、「今までの若葉」はもう死んだのだ。いっそ別の顔で、新しい人生を始めるのも悪くないかもしれない。しかし、それはやはり怖かった。なぜなら、もし顔を変えてしまったら、い
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第15話

若葉の頭の中で、またキーンという音が鳴り響いた。浩平が心配そうに駆け寄り、丁寧に彼女を診察してから、そっと体を支えて横にさせた。日和はまだ何か言いたそうだったけど、浩平に口をふさがれて、部屋から引きずり出されてしまった。ドアが閉められた瞬間、日和の悔しそうな叫び声が聞こえ、若葉は口元をかすかにゆるめた。……そして、この日から若葉は石川家にお世話になることになった。浩平の手厚い看病のおかげで、若葉の体はみるみる回復していき、時間があるときには、庭に出て陽を浴びることもあったし、二階のベランダから、浩平と日和がじゃれあっているのを眺めることもあった。そんな毎日が、若葉の心をとても穏やかにしてくれた。しかし、そんな穏やかな日々は長くは続かなかった。ある夜、若葉がベッドに入ってうとうとしていた時、ゴソゴソという物音が聞こえてきた。しかもその音は、だんだんと彼女の部屋に近づいてくる。若葉は眉をひそめ、そっとベッドを降りた。そして、そばにあった花瓶を手に取ると、ゆっくりと押し開けられるドアを警戒しながら見つめた。若葉が歯を食いしばり、入ってきた侵入者に花瓶を叩きつけようとしたその時、突然誰かに腕を掴まれた。かすかな光の中で、それが浩平だとわかった。「とりあえず何も話さないで。この家に誰か入ってきたみたいだ。それに、狙いは多分君。でも安心して、俺が必ず君を守るから」浩平は若葉を安心させるように肩を軽くたたくと、その手を取ってゆっくりと部屋を出る。二人が音を立てないように静かに階段のそばまで来ると、階下で部屋を物色している黒服の男たちを見つけた。浩平は少し眉をひそめ、若葉の手を引いて向きを変える。庭の小さな門から逃げることにした。侵入者たちに気づかれるのが怖かったため、庭の門に着くまで、二人はできるだけ息を殺した。しかし、二人がその門から出ようとしたまさにその時、侵入者の一人に気づかれてしまった。浩平ははっと目を見開き、とっさに若葉を自分の背後へと隠す。腕には幾らかの自信があった浩平だったので、あっという間に一人を取り押さえた。しかし、物音を聞きつけた他の侵入者たちが、次々と庭に駆けつけてくる。多勢に無勢、浩平はすぐに傷を負ってしまった。それでも、彼は若葉を守り続けた。侵入者たちがどんな攻撃
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第16話

目を閉じていた若葉だったが、うめき声が聞こえた途端、足の力がふっと抜ける。しかし、地面に崩れおちるかと思った瞬間、誰かの温かい腕に抱きとめられた。若葉がゆっくり目を開けると、そこにいたのは浩平で、その顔を見たとたん、なぜだか分からないが涙が溢れ出してきた。「ごめんなさい……ごめんなさい。でも、あなたが無事で……ほんとうによかった」浩平は優しく微笑み、若葉の涙をぬぐおうと手を伸ばす。しかし、彼の手が若葉に触れる前に、若葉が強く彼に抱きついた。浩平の顔がみるみるうちに真っ赤になっていく。何か言おうと口を動かしてはいるが、言葉は発せられていなかった。「お兄さん、若葉さん、早く車に乗ってください!」日和の焦ったような声に、二人ははっと我に返る。若葉は涙をぬぐうと、浩平に肩を貸して車に乗せた。三人は、新しい隠れ家へと向かう。自分の傷の手当てをすませた浩平は、ゆっくりと若葉の部屋に入った。そして彼女と目が合うと、深いため息をもらす。「君が何を聞きたいか、分かってるよ。実はこの数年間、俺も君のご両親が事故に遭う前、どこへ行って、誰に会っていたのかを調べていたんだ。それで、怪しい人物はただ一人だけ……樹さんのお父さんだ」浩平は一旦言葉を止め、まだ状況を飲み込めていない若葉へと水を一杯差し出した。「あの頃、和田グループと河野グループは、あるプロジェクトを競っていて、和田グループが取るのは確実だろうって言われてたんだ。でも、どうして最後には河野グループの手に渡ったんだと思う?」若葉はすっと息をのむと、あの頃の記憶が蘇ってきた。たしか、あの日の夜、両親はひどい喧嘩をしていた。詳しいことは覚えていないけれど、両親が蘭の名前を口にしていたことだけは、記憶に残っている。「君のご両親は、河野グループの不正な取引に気づいた。だから口封じのために殺された……そして樹さんのお母さんも、きっと真相を知っていたはず。でも、息子のために、すべての苦しみを一人で抱えこんだんだろう」その瞬間、若葉の心の底で怒りが爆発した。彼女は怒りにまかせて、テーブルを強く叩きつける。彰人……なんて男なんだ。昨日自分を殺しに来た連中も、きっと彰人が手配したに違いない。あの男は自分の両親を殺し、息子と結婚させた。そうやって、自分を河野家に
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第17話

「ずっと君の行方を捜してたんだ。君が亡くなったなんて、信じられなかったから。でも、諦めなくて本当に良かった」若葉はぽかんとして、浩平のことをじっと見つめる。彼の顔が、記憶の中のあの男の子の姿と、だんだんと重なっていく。あの時、彼が飛び降りようとしていることに若葉は気づいていた。しかし、生きられる希望があるのなら、ちゃんと生きるべきだと思ったのだ。なぜならこの世界には、あなたのことを大好きな人たちが、まだまだたくさんいるんだよ、と伝えたかったから。だから、若葉は両親にお願いして、男の子の治療費を払ってもらった。そして、その善意が天に届いたのかもしれない。医師から、ドナーが見つかったから手術のためにすぐに転院する必要がある、と連絡があったのだ。とても急いでいたので、お菓子の包みを一つ残していくことしかできなかった。男の子がそれに気づいてくれたらいいなと思いながらそっと残したのだった。しかし、まさかあの時の男の子が、こんなにも長い間自分のことを覚えていてくれたなんて、夢にも思わなかった。ましてや、恩返しのために命まで張ってくれるなんて。状況を理解し、落ち着きを取り戻した若葉は、ふっと心の中の何かが緩むのを感じた。そして、吹っ切れたように笑い出す。「浩平さん、私決めた。顔を変える!」……一方そのころの樹はというと、あの日を境に泉との間にははっきりとした溝ができていた。毎日仕事が忙しいのを理由にして、ほとんどの時間を自分のオフィスで過ごし、深夜になってから家に帰るようになった。それでも、昔助けてもらったことの負い目から、樹は彼女のわがままを何でも聞いた。泉が欲しがったアクセサリーは、値段がいくらしようと、躊躇うことなく買ったし、豪華なクルーザーを貸し切って昔の仲間たちと飲みたいと泉が言ったときも、樹はそれを叶えてあげた。それに、彼女が泥酔するまで飲むと、自ら車を運転して迎えに行った。ある日、泉は酔った勢いで樹の肩に寄りかかると、その指先で彼の唇をなぞり、喉仏のところで止めた。「樹。もう長いこと一緒にいるのに、私たちにはちゃんとした関係がないでしょ?だからさ、私たち結婚しない?」泉が少し顔を上げ、樹の唇に自分の唇を重ねようとした瞬間、樹はさっと顔をそむけてそれを避けた。「泉、飲み過ぎだ。部屋
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第18話

そして、泉に触れられた途端、樹のなかに熱が一気にこみあげてきた。彼は我慢できずに泉を抱き上げ、ベッドに押し倒す。しかし、泉はくるりと体を翻し、樹の体の上に跨った。真っ赤な唇で、彼の体に次々と火をつけていく。樹は思わず声を漏らした。少し顔を上げて、好き勝手に動く泉の小さな手をつかまえようとしたそのとき、偶然にも棚に飾ってある写真が目に入った。ウェディングドレスを身に纏い笑顔を輝かせた若葉の隣で、固く唇を結び、表情の暗い自分が彼女の手を握っている。樹は一瞬で我に返った。彼は胸にキスをしてくる泉を突き飛ばすと、そのままバスルームに駆け込み、冷たいシャワーを浴び始めた。ベッドに一人残された泉は、力なく叫び声をあげる。「樹!あんなに愛してるって言ってくれたのに!しかも、薬まで使ったのに、どうして受け入れてくれないのよ!」泉は悔しそうにベッドから下りると、棚の写真を荒々しく手に取り、床に叩きつけた。そして中の写真をずたずたに破り、空中にまき散らす。「もう死んだのに、なんでまだ私の邪魔をするわけ!どうしていつまでも私の幸せを邪魔してくるのよ!ねえ!なんで!」泉は取り乱して叫びながら、樹の書斎に駆け込み、彼が隠していた結婚写真を見つけ出すと、狂ったようにそれを引き裂きはじめた。シャワーを浴び終えた樹が部屋に戻ると、そこはひどく散らかっていた。泉の足元には、踏みつけられた若葉の笑顔の写真。それを見た瞬間、彼の目に怒りの炎が燃え上がり、泉を力いっぱい突き飛ばす。「泉!よくもこの写真に手を出したな!死にたいのか?」樹は、破られた写真を必死にかき集める。だから泉の手が、ガラスの破片で傷ついていることにはまったく気づかなかった。彼女は、ただ静かに樹を見つめていた。手のひらには涙がこぼれ落ち、血と混じりあって床にぽたぽたと滴り、染みをつくっていく。「樹の馬鹿!」そう言い捨てると、泉は顔をおおい、泣きながら家を飛び出していった。しかし、樹は彼女を追いかけなかった。彼の頭のなかには、結婚写真を元に戻すことしかなかったのだ。でも、いくら探しても、何度つなぎ合わせようとしても、若葉と手をつないでいる部分だけがどうしても見つからない。それはまるで、二人に手を取り合って一生を過ごす運命はないと、告げられているようだった。樹
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第19話

樹は、その場で凍りついた。全身が、まるで氷の穴に落ちたみたいに冷えきっていく。長年、命の恩人だと思っていたのに……まさか最初から、全部仕組まれたことだったなんて。個室から聞こえる騒がしい話し声に、時おり泉の笑い声が混じる。それはまるで、樹の愚かさをあざ笑っているかのようだった。心の底でずっと抑えていた怒りが、この瞬間に爆発した。樹は個室のドアを蹴り破ると、ソファ席に座る泉を冷たくにらみつけた。「人を使って芝居まで打って、俺をはめたんだろ……恩を売りつけるために、そこまでやったってわけか。泉、どんな間抜けだって、いつかは目が覚める。これから先、お前と俺の間にはもう何の関係もないから」そう言い捨てると、樹は大股で部屋を出て行った。泉ははっとして、慌てて樹の後を追いかける。そして、彼の車のドアにすがりつき、窓を何度も叩いた。「樹、あの人たちが言ってることは嘘だから!あなたへの気持ちは本物なの!一目惚れしたけど、相手にされないんじゃないかって、あんな芝居を頼んだだけで!本当に愛してるの、樹!だからお願い、私を捨てないで!」泉はヒステリックに泣き叫んだ。しかし、樹の瞳にいつものような優しさはもうなく、そこには果てしない嫌悪が浮かんでいるだけだった。樹は躊躇うことなくアクセルを踏み込む。車の外にいる泉が地面に倒れ込んでも、まったく気にも留めなかった。樹はあてもなく車を走らせ、気づけば若葉と暮らしていた家の前まできていた。ドアを開けると、見慣れた部屋の様子が目に入り、彼の心が少しだけ落ち着いた。酒棚からボトルを手に取ってソファに腰掛ける。そして一気に半分ほどあおると、喉を焼くような強さと共に目頭が熱くなった。ぼんやりとした視線の先に、若葉の姿が見えた気がした。腰に手をあてて、「またこんなにお酒飲んで!」と小言を言っている。口をとがらせてキッチンへ向かう姿も思い出した。いつも若葉は温かいお味噌汁を作って、ふーふーと冷ましながら一口ずつ食べさせてくれた。「若葉……」樹は声を上げて泣いた。テーブルから若葉の写真を取り、ぎゅっと胸に抱きしめる。写真が肌に食い込み、痛むほど強く押しつけて、ようやく我に返った。しかし、涙がぽろりとこぼれ落ち、写真をじわりと滲ませる。「若葉、俺は本当に間違ってたみたいだよ。愛する人
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第20話

樹はネットに若葉のことを投稿してからというもの、毎日何度も画面を更新しては、たくさん届くメッセージの中から、使える情報を必死で探していた。でも残念なことに、届く情報のほとんどが嘘だった。やっと若葉に似た写真を見つけたと思い、お金を振り込んでも、結局は写真も情報も偽物だとわかる始末だった。毎日、希望と失望をいったりきたりして、彼の心はだんだんと荒んでいき、ついには河野グループの経営を放り出し、また昔のように派手に飲み歩く日々に逆戻りした。毎日バーに入り浸ってお酒を飲むか、そうでなければ、お金で女性との一夜を買っていた。しかし、その女性たちと何かするわけではなかった。ただ抱きしめて写真を撮り、ネットに上げるだけ。芝居を徹底するために、わざと胸についたキスマークを見せつけることさえあった。こうすれば若葉がやきもちを焼いて出てきてくれる、そう思っていたのに、いくら待っても彼女は現れない。ただ、隣にいる女性が、一人また一人と変わっていくだけだった。樹の心はズキズキと痛むばかり。だからお酒で自分をごまかすしかなかった。……その日も、樹は山のようなガセネタに目を通していた。イライラして酒をぐいっとあおると、隣の女性を乱暴に押しのけ、ふらつきながら席を立つ。ふらふらと当てもなく歩いていると、ぼやけた視線の先のダンスフロアに、見慣れたシルエットが映った。それは後ろ姿だったが、身長もスタイルも、若葉にそっくりだった。樹の酔いが一瞬で覚めた。彼はステージに駆け上がり、いきなりその女性を抱きしめた。「若葉、やっと見つけた!今までどんなに必死でお前を探したか……けど、絶対に死んでないって、俺は信じてたから!若葉!俺の若葉。やっと戻ってきてくれたんだね!」樹は思わずしゃくりあげた。女性の首すじに顔をうずめ、震える手で彼女を振り向かせる。しかし、その見知らぬ顔を見た途端、その場で固まってしまった。「お前は……若葉じゃない!」女性は唇を軽くかみ、樹にすがりつこうと手を伸ばしたが、さっと避けられてしまった。樹はあからさまに嫌な顔をすると、逃げるようにボックス席へと戻った。彼が席に戻るなり、周りの友人たちがニヤニヤしながら囃し立てる。「樹、あの子は新人らしいよ。気に入ったんだったら、今夜の相手にでもどう?」「そ
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