復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました のすべてのチャプター: チャプター 311 - チャプター 320

329 チャプター

第311話 ゼロからのスタート③

 私は笑いをこらえながら彼に近づき、その手から洗剤のボトルを奪い取った。 「貸して。いい? この洗濯物の量なら、水は四十五リットル。洗剤は、キャップのこの一番上の線の少し下くらい。柔軟剤は、こっちの小さい引き出しに入れるの」  私は一つ一つ、指差し確認をするように教えていく。  湊は、私の手元を食い入るように見つめ、一つ一つの動作を脳内にインプットしているようだった。 「……なるほど。柔軟剤の投入タイミングは、すすぎの工程で自動で処理されるのか。それは及第点だな」 「で、最後にこの『スタート』ボタンを押す。はい、やってみて」  湊は、まるで何か重大な決断を下すかのように、人差し指をピンと伸ばし、慎重に『スタート』ボタンを押し込んだ。  ピーッ、という電子音が鳴り、洗濯機の中に水がジャバジャバと注ぎ込まれる音が響き始める。  続いて、底のパルセーターが回転し、ゴウン、ゴウンと重たいモーター音が狭い脱衣所に響き渡った。 「よし……稼働した」  湊は、蓋の透明なプラスチック越しに、中の水流が渦を巻く様子をじっと見下ろしている。 「……しかし、振動が大きすぎないか? 脱水時の遠心力で、機体が転倒するリスクは?」 「壊れないから大丈夫。ほら、終わるまで四十分くらいかかるから、こっち来て」  私は、洗濯機から離れようとしない湊の腕を引き、無理やりリビングへと連れ戻した。  彼の大きな手は、洗濯機の冷たいプラスチックの感触から一転、私の指先の熱をしっかりと掴み返してきた。  午後四時。  私たちは、マンションから徒歩五分の場所にある、地元密着型のスーパー『ヤオトク』へと向かった。  今日は火曜日。週に一度の、特売日だ。  自動ドアを抜けると、「本日限りの大奉仕!」という威勢の良いアナウンスと、軽快なオリジナルソングが入り混じった、独特の喧騒が鼓膜を打つ。  蛍光灯の白い光に照らされた店内は、夕飯の買い物に来た主婦たちでごった返していた。  湊の右肩には、私が持たせたカーキ色のエコバッグが掛けられている。  シンプルな白いTシャツに黒いパーカーを羽織っただけのラフな格好
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第312話 ゼロからのスタート④

「偽装じゃないわよ、企業努力の特売! ほら、急がないと卵がなくなる!」  私は、立ち止まって深刻な顔で豚肉を睨みつける湊の腕を引き、卵の特売コーナーへと急いだ。  卵の売り場は、すでに黒山の人だかりになっていた。  買い物カゴがぶつかり合い、「ちょっと奥さん、押さないでよ」という不満げな声が飛び交う、まさに激戦区だ。 「……あれに、突入するのか」  湊が、かつてないほどの険しい顔でその人だかりを見据える。  役員たちと厳しい折衝をしていた時でさえ、こんな顔はしていなかった。 「湊。あなたのその長い腕と身長を活かす時よ」  私が肩をポンと叩くと、湊は深く息を吸い込み、意を決したように頷いた。 「……了解した。必ず確保して戻る」  湊は、黒いパーカーのフードを軽く直すと、おばちゃんたちの波の中へと身を投じた。  私は少し離れた場所から、その様子を見守った。  長身の湊の頭が、人だかりの中でポツンと突き出している。  彼は、周囲の主婦たちの鋭い肘打ちやカゴの体当たりを、最小限の動きでスルリと躱していく。  まるで、混雑したホテルのロビーで要人をエスコートする時のように、決して他人と強く接触しない流麗な身のこなしだ。  そして、人だかりの中心に到達するや否や、その長い右腕をスッと伸ばし、積み上げられた特売の卵パックを二つ、見事に鷲掴みにした。  周囲の主婦たちが「あ、長身のイケメン……」と気を取られている一瞬の隙を突き、彼は再び波を掻き分けて、私の元へと戻ってきた。  その額には、うっすらと汗が滲んでいる。 「……確保したぞ」  湊は、透明なプラスチックのパックに入った赤玉の卵を二つ、まるで奪還した国宝でも見せるかのように、誇らしげに掲げた。  少し乱れた前髪の下で、達成感に満ちた漆黒の瞳がキラキラと輝いている。 「すごい! 完璧な動きだったわ」  私が拍手をして褒めると、湊は少し照れくさそうに鼻の頭を掻いた。 「ホテルのロビーで培った、客の動線予測がこんなところで役に立つとはな。……悪くない気分だ」  彼はそのまま、私の持っていた
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第313話 ゼロからのスタート⑤

「こうして、自分の食べる食材を自分の目で選び、自分の足で持ち帰る。……ただ用意された食事を口にするだけの生活より、ずっと地に足がついている気がする」 「スーパーの特売で、そこまで悟りを開けるのは湊くらいよ」  私が笑うと、彼もつられたように低く笑い声を漏らした。  二人の笑い声が、静かな住宅街の道に溶けていく。  少し前まで、黒塗りのハイヤーの分厚い防弾ガラスの向こう側からしか見たことのなかった景色を、今はこうして、自分の足で踏みしめながら歩いている。  マンションに到着し、外階段をカンカンと金属音を立てて上る。  錆びたドアを開け、狭い玄関で靴を脱ぐ。  リビングダイニングキッチンは、暖房を入れていないせいか、ひんやりと冷え切っていた。 「僕が作る」  買い物袋をキッチンカウンターに置くや否や、湊が腕をまくった。 「え、湊が夕飯を?」 「朝の卵焼きの礼だ。君の作った味を、僕の舌が完璧に記憶している。それを再現してみせる」  湊は冷蔵庫から卵を三つ取り出し、ボウルに割り入れた。  箸でシャカシャカとかき混ぜる手つきは、どこかぎこちないが、真剣そのものだ。  砂糖と醤油、そして少しの水を加え、再びかき混ぜる。  あの朝、洗濯機の洗剤のミリリットル単位にこだわっていた彼が、調味料を自分の舌の記憶だけを頼りに入れていることに、私は密かな成長を感じていた。  フライパンに油を引き、卵液を流し込む。  ジュワッ、という音とともに、卵が縁からチリチリと固まり始める。 「ここだ。このタイミングで巻き込む」  湊は菜箸を使い、奥から手前へと卵を転がそうとする。  しかし、安物のフライパンのせいか、それとも油の引き方が甘かったのか。  卵は途中でベチャッとフライパンにくっつき、無惨にも形を崩してしまった。 「……っ。フライパンのコーティングが剥げているせいで、卵がうまく滑らなかった」  湊が悔しそうに顔を歪める。 「油が足りなかったのよ。大丈夫、味は同じだから」  私が横からフォローを入れるが、湊は無言のまま、残りの卵液を注ぎ込み、
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第314話 ゼロからのスタート⑥

「もう、理屈っぽいなあ」  私は、彼の口に、もう一つ卵焼きを無理やり押し込んだ。 「ご飯と一緒に食べれば、食感なんて気にならないの!」  モグモグと口を動かす湊の顔がおかしくて、私は声を上げて笑った。  つられたように、湊の口元も緩み、やがて二人で声を重ねて笑い合った。  薄い壁の向こうから、隣の部屋のテレビの音が聞こえてくる。  窓ガラスが、外を通る車の振動でカタカタと鳴る。  でも、この狭くて古い空間は、ペントハウスの広大なダイニングよりもずっと、温かい空気で満たされていた。  夜。  六畳の寝室に、量販店で買った二組の布団をぴったりと並べて敷いた。  新品のシーツからは、少しだけツンとする糊の匂いがする。  部屋の明かりを消すと、薄いカーテン越しに、外の街灯の光がうっすらと差し込んできた。  布団に潜り込むと、シーツの冷たさに思わず肩がすくむ。  しかし、次の瞬間。  ガサリと衣擦れの音がして、隣の布団から湊の長い腕が伸びてきた。  私の腰に腕が回され、グッと強い力で引き寄せられる。  布団の隙間が埋まり、彼の硬い胸板に背中がぴったりとくっついた。  スウェット越しに、彼の高い体温が直接伝わってくる。 「……狭い?」  耳元で、彼の低く掠れた声が囁いた。 「ううん。ちょうどいい」  私は、自分の腰に回された彼の手首を、両手でそっと包み込んだ。 「硬い布団だと背中が痛くなるって、朝は言ってたのに。大丈夫なの?」 「ああ。君の匂いと、この体温があれば、どんな場所でも熟睡できると証明された」  湊の鼻先が、私の首筋の髪の生え際あたりにすり寄せられる。  チクチクとした髪の感触と、彼が深く息を吸い込む熱い感覚に、背筋にゾクッとしたものが走る。 「……朱里」 「ん?」 「僕は、すべてを失ったと思っていた。地位も、名誉も、九龍という血の誇りも。あの地下室で、自分が完全に空っぽになった気がしたんだ」  彼の声の振動が、背中から直接私の心臓へと響いてくる。 「でも、違った。こ
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第315話 湊の決意①

 玄関の冷たいアルミ製のドアノブに鍵を差し込み、ゆっくりと手前に引く。 ギーッ、という金属音が、夕闇の迫る狭い共用廊下に低く反響した。 少しだけ重いパンプスを脱ぎ、ホームセンターで買った一足五百円の簡素なスリッパに足を滑り込ませる。 フローリングの床が、体重をかけるたびに微かに沈み込む。 その感触に重なるように、廊下の奥からひどく食欲をそそる匂いが漂ってきた。 醤油が熱せられて焦げる香ばしい匂いと、生姜のツンとした爽やかな香り。 微かに、ジューッという油の跳ねる音も聞こえてくる。 引き戸に手をかけ、横に滑らせた。 十畳ほどのリビングダイニングキッチン。 換気扇がうなりを上げているシステムキッチンの前に、不自然なほど背筋を伸ばし、真剣な眼差しでフライパンを見つめる男の背中があった。 グレーのスウェット姿に、私が数日前に近所のスーパーで適当に選んだ、何の変哲もない黒いエプロンを身につけている。 その腰の後ろで結ばれた紐は、左右対称になるよう几帳面な固結びになっていた。 いつも一糸乱れずセットされていた黒髪は、前髪がハラリと額に落ち、少しだけ無造作に揺れている。「ただいま」 私が声をかけると、菜箸を握った手がピタリと止まり、長い首がこちらへ振り向いた。 コンロの青い炎に照らされたその額には、うっすらと汗が滲んでいる。「……おかえり。ちょうどいいタイミングだ。料理本に書いてあった通り、肉に一番いい焦げ目がついたところだよ」 スーパーの特売で買った百グラム九十九円の豚こま切れ肉で作る生姜焼きに、これほどまでに全神経を集中させる人間を、私はこの男以外に知らない。「すごくいい匂い。外の廊下まで生姜の匂いが漂ってたわよ」 私が持っていた通勤用のバッグをソファの上に置くと、湊は菜箸を小皿に置き、コンロの火を止めた。「手洗いうがいを済ませてきてくれ。盛り付けに入るから」「はーい」 洗面所で手を洗い、リビングに戻ると、小ぶりなダイニングテーブルの上にはすでに夕食の準備が整っていた。 
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第316話 湊の決意②

「……ただ、水にさらす時間が少し長かったかもしれない。シャキシャキ感が失われていないか、そこだけが心配だ」 「そこまで厳密にやらなくてもいいのに」  私は呆れ半分、感心半分で笑いながら、プラスチックの箸を手に取った。 「いただきます」  生姜焼きを一枚箸でつまみ、口に運ぶ。  甘辛いタレが豚肉の脂と絡み合い、生姜の風味が鼻に抜ける。  少し硬めの肉質だけれど、味がしっかりと染み込んでいて、白いご飯が無限に進みそうだった。 「どうだ」  向かい側から、探るような低い声が降ってくる。  見上げると、湊が自分の箸には手をつけず、私の咀嚼する口元をじっと観察していた。  その漆黒の瞳には、かつて役員会議で厳しい折衝をしていた時よりも、はるかに強い緊張の色が浮かんでいる。 「美味しい」  私が真っ直ぐに彼を見て頷くと、湊の広い肩から、目に見えてスッと力が抜けた。 「そうか。それは良かった」  彼も自分の箸を取り、生姜焼きを口に運ぶ。  ゆっくりと咀嚼し、喉を鳴らして飲み込む。 「……味は、君が作ってくれたものに近づけたと思う。だが、肉の筋切りが甘かったな。火を通したら端が丸まってしまった。これでは見た目が……」 「もう、細かいなあ」  私は、自分の箸で千切りキャベツを多めにつかみ、彼の口元へ突き出した。 「ほら、完璧な一ミリ幅のキャベツ。お肉と一緒に食べて」  湊は少しだけ目を見張り、それから小さく口を開けて、私の箸から直接キャベツを受け取った。  モグモグと口を動かすその顔がおかしくて、私は声を上げて笑った。  つられたように、湊の口元も緩み、微かな笑い声が漏れる。  インペリアル・ドラゴン・ホテルのペントハウスで出されていた、専属シェフによるフルコースのディナー。  厳選された高級食材と、芸術品のような盛り付け。  それに比べれば、この特売肉の生姜焼きとインスタント出汁の味噌汁は、あまりにもチープで、生活感にまみれている。  けれど、あの広すぎて静かすぎるダイニングで、無言のままフォークとナイフを動かしていた時
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第317話 湊の決意③

 グラスの表面についた結露の水滴が、彼の手のひらを滑り落ちていく。  その視線は、グラスの底をじっと見つめたまま、動かなかった。 「……朱里」  やかんがカチッと音を立てて沸騰を知らせた直後、低い声が呼ばれた。 「ん?」  お湯を注ぎながら振り返ると、湊はグラスから手を離し、両手を膝の上で組んでいた。  その顔には、先程までの穏やかな笑みはなく、どこか真剣で、静かな熱を帯びた色が宿っている。 「少し、話を聞いてくれないか」  マグカップから立ち上る白い湯気が、二人の間を遮るように揺れる。  私はお湯の入ったマグカップを両手で持ち、彼の向かいの席に静かに腰を下ろした。  テーブルを挟んで、視線が交差する。 「今日、君が仕事に出かけて、僕が一人でこの部屋にいた時のことだ」  湊の口から、ゆっくりと言葉が紡がれていく。 「掃除をして、スーパーで夕飯の買い出しをして。……静かな部屋の中でふと立ち止まった時、恐ろしいほどの虚無感に襲われたんだ」  彼の視線が、テーブルの木目をなぞるように動く。 「九龍の次期当主という肩書きも、インペリアル・ドラゴン・ホテルCEOという地位も、一族の莫大な資産も、すべて手放した。それは自分で決めたことだ。後悔はない。……でも、いざそれらの『鎧』をすべて脱ぎ捨てて、ただの『湊』という一人の男になった時、僕の中に何が残っているのか。君を幸せにするだけの価値が、本当に僕自身にあるのか。……一瞬だけ、足元が崩れ落ちるような恐怖を感じた」  組まれた両手の指の関節が、微かに白くなっている。  それは、彼が今まで決して見せることのなかった、生身の弱さだった。  冷徹なCEOとしての仮面の下に隠されていた、一人の人間としての迷い。 「……湊」  私は、両手で包み込んでいたマグカップをテーブルにそっと置いた。  陶器が木に触れる、コトッという小さな音。  そして、身を乗り出すようにして、テーブルの上の彼の固く組まれた両手に、自分の両手を重ねた。  ヒヤリとした、冷たい指先。  私は、そのこわばった指を一本一本ほどくよう
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第318話 湊の決意④

 湊の目が、わずかに見開かれる。  息を呑む微かな音が、唇の隙間から漏れた。 「地位も、名誉も、お金も、そんなものは全部、ただの飾りに過ぎない。飾りがなくなったからって、中身のあなたが変わるわけじゃないでしょう?」  私は、彼の冷たい手の甲を、親指でゆっくりと撫でた。 「あなたがこれまで流してきた汗も、努力も、ホテルを愛してきた心も、全部あなたの中に残ってる。誰にも奪われてなんかいないわ。……あの広くて冷たいペントハウスで、孤独な顔をしてワインを飲んでいるあなたより、この狭い部屋で、少し焦げた生姜焼きを食べて『美味しい』って笑うあなたの方が、私はずっと好きよ」  湊の喉仏が、大きく上下に動いた。  彼の手が、私の手を下からすくい上げるようにして、強く、痛いくらいに握り返してくる。  その瞳の奥で揺らいでいた不安の影が、さっと晴れ渡っていくのがわかった。  代わりに灯ったのは、かつて彼がCEOとして絶大な権力を振るっていた時以上の、力強く、そして温かい光だ。 「……ありがとう、朱里」  湊の声は、先程までの迷いが嘘のように、太く、確かな芯を持っていた。 「君のその言葉が、僕の最後の未練と恐怖を完全に断ち切ってくれた。……やはり、僕の目に狂いはなかった。君は、僕の人生にとって絶対に必要な光だ」  湊は、私の手を握ったまま立ち上がり、私を見下ろした。  その顔には、もう敗北者の影はない。  すべてを失った荒野から、再び自らの足で立ち上がろうとする、強い男の顔だった。 「朱里。僕は、もう一度ゼロから始めるよ」  湊の真っ直ぐな言葉が、静かなリビングに響き渡る。 「九龍の血も、一族の後ろ盾もない。本当に何もない、ただの湊として……新しい会社を立ち上げる。そして、僕自身の力で、新しいホテルブランドを創り出してみせる」 「新しい、ホテル……」  私が目を丸くすると、湊は力強く頷いた。 「ああ。龍一郎叔父上たちが支配する、血と権力に縛られた冷たいホテルじゃない。君がウェディングプランナーとして働く時のような、人の温かさと心からの祝福に満ちた、本物のホテルだ」  湊の指先
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第319話 湊の決意⑤

「ははっ……頼もしいな。君がスポンサーになってくれるなら、これほど心強いことはない」  湊はテーブルを回り込んで私の横へと歩み寄り、私が座っている椅子ごと、その長い腕で深く抱きしめた。  スウェットの生地越しに、彼の硬い胸板の感触と、ドッドッドッという力強い心音が伝わってくる。  洗剤の清潔な匂いと、彼自身のわずかな体臭。  私の鼻先が彼の首筋に触れ、ちりりとした熱が皮膚の下を走り抜ける。  私は両腕を彼の背中に回し、その熱にすがりつくように強く抱きしめ返した。  マグカップから立ち上るほうじ茶の香りが、二人の体温に溶けていく。  彼が次の一歩を踏み出すための覚悟を決めたことが、私には何よりも嬉しかった。  夜が深まり、薄い壁の向こうから聞こえていた隣の部屋のテレビの音も、いつの間にか完全に途絶えていた。  六畳の寝室。  フローリングの上に直接敷かれた、二組の真新しい布団。  天井の豆電球だけが、薄暗いオレンジ色の光を部屋の隅に落としている。  布団に潜り込むと、シーツの微かな冷たさに肩がすくむが、それもほんの一瞬のことだった。  ガサリと衣擦れの音がして、隣の布団から湊の長い腕が伸びてきた。  私の腰に腕が回され、グッと強い力で引き寄せられる。  布団の境界線が消え、彼の高い体温が直接背中に伝わってきた。 「……湊?」  暗闇の中で小さく声をかけると、背後から彼の熱い吐息が首筋に吹きかかった。  産毛が逆立つような感覚に、思わず首をすくめる。 「……少し、こっちを向いてくれないか」  低く、ひどく甘い声。  私は寝返りを打ち、彼と向かい合う形になった。  至近距離にある彼の顔。暗闇に目が慣れてくると、その瞳が微かな光を反射して、じっと私を見つめているのがわかる。  彼の手が、私のパジャマの襟元から伸びて、頬にそっと触れた。  少しざらついた指の腹が、輪郭をなぞるようにゆっくりと動く。  その触れ方は、まるで壊れ物を扱うように慎重で、そして執拗だった。 「……君の温度が、欲しい」  囁くような
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第320話 湊の決意⑥

 背骨のラインをなぞり、ゆっくりと上へと這い上がってくる。  そのたびに、呼吸が浅くなり、心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほどに鳴り響く。 「湊……」  唇が離れた一瞬の隙に名前を呼ぶと、彼は私の首筋に顔を埋めた。  チクリと、微かな痛みが走る。  彼が軽く歯を立て、それから熱い舌でその痕を舐める。  ゾクゾクとする感覚が背筋を突き抜け、足の指先がシーツの中で強く丸まった。 「……君は、本当に底知れない」  首筋に顔を埋めたまま、彼のくぐもった声が響く。 「僕が手放したすべてのものより、今、この腕の中にある君の熱のほうが、ずっと大切だ。……もう、絶対に離さない」  その言葉は、呪いのように重く、そして果てしなく甘かった。  彼の手が、パジャマのボタンを一つ、また一つと外していく。  布がはだけ、冷たい空気が肌に触れるが、彼がそこに落とすキスの熱で、寒さなどすぐに消え去ってしまった。  鎖骨から、胸元へ。  ゆっくりと、焦らすように落ちていく唇の感触。  彼自身の呼吸も次第に荒くなり、吐息が肌を火照らせる。 「あっ……」  声にならない吐息が漏れる。  彼が私の身体の上に半分乗り上げるような体勢になり、その重みと熱が、私を完全にシーツへと縫い付けた。  肌と肌が直接触れ合う摩擦。  シーツの布地が擦れる微かな音。  暗闇の中で、視覚以外のすべての感覚が極限まで研ぎ澄まされていく。  彼の手のひらの温度。少し乱れた呼吸のリズム。髪から香るかすかなシャンプーの匂い。  そのすべてが、彼という存在の生々しさを、私の内側の深い部分へと刻み込んでいく。  孤独な王として、誰も寄せ付けなかった男。  彼を覆っていた分厚い氷の鎧は、もうどこにもない。  ただ、不器用なほどに真っ直ぐな愛情と、未来へ向かう新たな野心を持った、一人の熱い体温の塊が、私を求め、私にすがりついている。  私は、彼の広い背中に両腕を回し、その筋肉の動きを感じながら、強く引き寄せた。  互いの輪郭が溶け合い、境界線がわからなくなるほど
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