All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 321 - Chapter 330

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第321話 M&Aホールディングス①

 窓のすぐ外を走り抜けるトラックの重い走行音が、薄い壁を震わせて鼓膜を直接叩いた。  カビの匂いが微かに混じるエアコンの送風音と、規則正しい踏切の警報音。タワーマンションのペントハウスでは決して耳にすることのなかった、むき出しの「生活の音」が、六畳の寝室に容赦なく流れ込んでくる。  フローリングの上に直接敷かれた二組の布団は、昨夜の激しい熱の応酬で完全に一枚の布の塊のように絡み合っていた。  私は、自分の腰に回された太い腕の重みで、ゆっくりとまぶたを押し上げる。  ペラペラの遮光カーテンの隙間から差し込む朝日が、ホコリの粒子を白く照らし出していた。 「……ん、重い」  掠れた声を漏らしながら身じろぎすると、背中にぴったりと張り付いていた硬い胸板が、さらに隙間を埋めるように擦り寄ってきた。  スウェットの生地越しに伝わってくる、尋常ではない高い体温。  私のうなじに顔を埋めたままの湊が、深く、長い寝息を吐き出す。シトラスの香水の名残と、彼自身の汗の匂いが混じり合った、むせ返るような雄の匂いが鼻腔を占拠した。 「……あと十五分」 「さっきもそれ言って、もう三十分経ってるわよ。湊、起きて。床が固くて身体が痛くなるって昨日から文句言ってたじゃない」  私が彼の手首を掴んで引き剥がそうとすると、湊は不満げに喉の奥を鳴らし、私のパジャマの裾から躊躇なく大きな掌を滑り込ませてきた。  ヒヤリとした指先が素肌に触れ、ビクッと肩が跳ねる。 「痛いのは事実だ。この安物の敷布団は、体圧分散の概念を完全に無視している。だが……」  彼は私の脇腹を撫で上げながら、耳たぶにチュッと湿った音を立てて唇を落とした。  背筋にチリリとした微弱な電流が走る。 「……君の肌に直接触れていれば、背中の痛みなど脳の処理領域から完全に除外されることが証明された。だから、このままでいい」 「いいわけないでしょ! ほら、起きる!」  私は無理やり身体を捻り、彼の方へと向き直った。  至近距離にある彼の顔は、前髪が乱れ、無精髭がうっすらと顎を覆っている。隙のないCEOの仮面を完全に脱ぎ捨てた、ひどく無防備でだらしない男の顔
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第322話 M&Aホールディングス②

「まさか。……ただ、毎朝決まった時間にハイヤーが迎えに来ないという空白の時間を、どう生産的に使うべきか、脳が再計算を要求しているだけだ」 「なら、まずは朝ごはんの目玉焼きを生産してちょうだい。私、今日からまたサロンの営業再開で忙しいんだから。私が稼がないと、家賃七万八千円が払えなくなっちゃうわよ」  私がわざと威張ったように胸を張ると、湊は目を丸くし、それから喉の奥でくくっと低い笑い声を漏らした。  彼は私の額に自分の額をこつんとぶつけ、鼻先を擦り寄せてくる。 「……君に養われる気分というのも、存外悪くない。だが、僕のプライドがそれを長くは許さないだろうな。……期待していてくれ、僕のスポンサー」  短いキスの後、湊はようやく布団から這い出した。 ◇ 十畳のリビングダイニングキッチンは、二人が動くには少しばかり窮屈だった。  シンクの前に立つと、隣の小さな二口コンロでフライパンを熱している湊の腕が、私の肩に何度もぶつかる。  彼は、近所の量販店で昨日買ったばかりの黒いエプロンを、グレーのスウェットの上から不器用に結んでいた。 「湊、火が強すぎる。卵の端が焦げてるわよ」 「おかしいな。熱伝導率の計算は完璧なはずだが……このフライパンのコーティングの劣化が想定以上だ。調理器具の選定から見直す必要がある」 「弘法は筆を選ばずって言うでしょ。はい、お皿」  私がプラスチックの丸皿を差し出すと、湊は真剣な眼差しで、形が少し崩れた目玉焼きを滑り込ませた。  二人掛けの小さな木製テーブルに向かい合って座る。  テーブルの半分は、すでに彼の「仕事道具」に占領されていた。  ブォォォォン……。  分厚い、一世代前の型落ちのノートパソコンが、排熱ファンの苦しげな唸り声を上げている。  湊が昨日、中古家電量販店で現金一括で買ってきたものだ。 「……立ち上がりに三分もかかるとは。九龍のシステム部なら即刻廃棄処分のレベルだな」  湊はインスタントの味噌汁を啜りながら、忌々しげに画面を睨みつけていた。 「贅沢言わないの。初期投資は最小
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第323話 M&Aホールディングス③

「じゃあ、私は行ってくるね。スタッフたちも、今日の再開を心待ちにしてるから」  私が立ち上がり、通勤用のバッグを肩にかけると、タイピングの音がピタリと止まった。  湊が立ち上がり、玄関までついてくる。  狭い三和土(たたき)で靴を履き終えた私が振り返るより早く、背後から長い腕が伸びてきて、私の腰を強く引き寄せた。 「……あっ」  冷たいアルミのドアに背中が押し付けられる。  湊の顔が上から覆いかぶさり、有無を言わさず唇が塞がれた。  朝のコーヒーの苦い後味と、彼の熱い舌が口蓋を滑る感触。息をする隙間も与えられないほどの、深く、執拗な口づけ。  ドアの金属の冷たさと、彼の身体から伝わる火を吹くような熱のコントラストに、頭の芯がジンジンと痺れていく。 「……んっ、みなと、仕事に……遅れちゃう……」  ようやく唇が離れると、湊は私の首筋に鼻先を押し当て、深く息を吸い込んだ。 「……男に、愛想よく笑いかけるなよ」 「お客様商売なんだから、笑うわよ」 「なら、視線は合わせるな」 「無茶苦茶言わないで。ほら、離して。家事もちゃんとやっておくのよ」  私が彼の胸板を押し返すと、彼は渋々といった様子で腕の力を緩めた。  ドアを開け、外の空気を吸い込む。  振り返ると、湊が腕を組んで、私が完全に見えなくなるまでじっとこちらを監視するように見送っていた。  その重たすぎる視線に背中を焼かれながら、私は駅へと急ぎ足で向かった。 ◇ サロン『フェリーチェ・ルーチェ』の営業再開初日は、想像以上に慌ただしく過ぎていった。  剛造の一派に荒らされた形跡は、スタッフたちの懸命な清掃でほとんど消え去っていた。  お客様からの問い合わせの電話に対応し、延期になっていた打ち合わせのリスケジュールに奔走する。  バックヤードで、冷めたお弁当のサンドイッチをかじりながら、ふと、あの薄暗いアパートの食卓で、唸りを上げる中古パソコンと格闘している湊の横顔を思い出した。 (今頃、何してるのかな……)  彼が九龍の看板を持たずに、一体どんなビジネスを立
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第324話 M&Aホールディングス④

 カンカンと外階段を上り、アパートの扉の鍵を開ける。  ギーッという音が響くと同時に、中から微かなキーボードの打鍵音が聞こえてきた。 「ただいまー。湊、ずっとパソコンに向かってたの?」  リビングに入ると、部屋の明かりは薄暗いオレンジ色の間接照明だけが点けられていた。  湊は、朝出かけた時と全く同じ姿勢で、食卓の前に座り、画面を凝視していた。  テーブルの上には、計算式や手書きの図形がびっしりと書き込まれたノートが何冊も散乱している。 「……おかえり、朱里」  湊が、瞬きを数回繰り返してから、ゆっくりとこちらを向いた。  その目には、長時間のブルーライトで疲労した充血が見えるが、瞳の奥の光は、恐ろしいほどに研ぎ澄まされていた。 「コロッケ買ってきたよ。あと、キャベツの千切りも」 「ありがとう。……だが、その前に、これを見てくれないか」  湊は、立ち上がろうともせず、ノートパソコンの画面をクイッと私の方へ向けた。  私はスーパーのビニール袋をキッチンカウンターに置き、彼の背後から画面を覗き込んだ。  そこには、無数のスライド資料と、緻密な収益予測のグラフが並んでいる。  そして、一番最初のタイトルスライドの中央に、黒く太い文字でこう打ち出されていた。 『M&Aホールディングス 設立趣意書』 「……エムアンドエー?」  私は、そのアルファベットの羅列を声に出して読み上げた。  ビジネス用語の『買収と合併(Mergers and Acquisitions)』だろうか。  九龍を離れても、彼はやはりそういう血で血を洗うようなビジネスモデルを構築しようとしているのかと、少しだけ肩の力が抜けるような思いがした。 「湊……これ、新しい会社のお金を集めるための企画書? でも、買収って、今のあなたには資金が……」 「違う」  湊の大きな手が、背もたれの後ろから伸びてきて、私の右手首を掴んだ。  グッと引き寄せられ、私は彼の座る椅子の横に立たされる形になる。  彼の手のひらは、パソコンの熱を帯びているのか、いつも以上に熱かった。 「違
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第325話 M&Aホールディングス⑤

「何が悪い」  湊は、微塵も悪びれる様子なく、至極真面目な顔で言い放った。 「九龍という血の呪縛を捨てた僕にとって、この世界で戦う理由であり、唯一の存在証明は、君だ。君が隣にいてくれるから、僕は新しいホテルを創ろうと思えた。……だから、この会社は僕たち二人で一つのものだ。君の名前が入っていない会社など、僕が創る意味がない」  その言葉の、圧倒的な熱量と、不器用すぎる直球の愛情表現に、私は息を呑んだ。  彼は、本気だ。  一ミリの照れもなく、私の名前を自分の戦いの旗印に掲げようとしている。 「……もう、バカ。バカすぎるよ、元CEO」  私は空いている左手で顔を覆い、しゃがみ込むようにして彼の肩に額を押し付けた。  スウェットの生地越しに、彼の肩の筋肉の硬さが伝わってくる。  嬉しくて、恥ずかしくて、どうにかなってしまいそうだった。 「コンセプトは、ただの宿泊施設じゃない」  湊は、私の手首を握ったまま、静かな、しかし確信に満ちた声で語り始めた。 「君がブライダルサロンで毎日やっていること……人と人の結びつきを、最高のホスピタリティで演出すること。それを、空間というハードウェアに落とし込む。ただの贅沢なハコモノではなく、顧客の人生の大切な瞬間に寄り添い、記憶に残り続けるホテルを創る」  彼の言葉が、狭いアパートの壁に響く。  それは、冷たい数字と権力だけを追い求めていたかつての彼からは、絶対に出てこない言葉だった。  私が毎日現場で泥臭く駆けずり回って得てきたものを、彼がこうして『価値』として認めて、ビジネスの核にしてくれようとしている。 「……できるの? お金も、土地も、何もないのに」 「僕の頭脳と、君の心がある。それだけで、初期投資を引き出すには十分だ。……ターゲットはすでに絞ってある」  湊は、私の手を引き、自分の方へとさらに身体を寄せさせた。  彼の顔が近づき、吐息が私の前髪を揺らす。 「……ねえ、朱里。僕のビジネスパートナーになってくれるか?」 「最初から、そのつもりよ」  私が彼の首に腕を回して答えると、彼は満足げに喉の奥で笑い、私の唇
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第326話 M&Aホールディングス⑥

「文句ではない。ただの市場調査だ。限られたコストの中でいかに付加価値を生み出すかという点で、このスーパーの惣菜部門の戦略には学ぶべき……」 「はいはい、わかったから。冷めないうちに食べて」  私が千切りキャベツの山を彼の皿に押し付けると、彼は渋々といった様子でコロッケを口に運んだ。  サクッ、という音が狭いリビングに響く。  モグモグと咀嚼する彼の顔を見ていると、おかしさと愛おしさで胸がいっぱいになる。  高級フレンチのフルコースを食べていた男が、今は五十円のコロッケを真剣に分析しながら食べている。  この生活の落差を、彼自身が誰よりも楽しんでいるように見えることが、何よりの救いだった。 「……朱里」  食事が終わり、私が空になったプラスチックパックをゴミ箱に捨てていると、背後から低い声で呼ばれた。  振り返ると、湊が立ち上がり、こちらへ歩み寄ってくる。  彼の視線は、すでに「仕事」のモードを完全にオフにし、別の熱を帯びていた。 「ん? お茶淹れようか?」 「いや。……十分だ」  彼は私の腰を両手で掴むと、そのまま持ち上げるようにして、ダイニングチェアの上に私を座らせた。  ギシッ、と安い木製の椅子が軋む音を立てる。  湊は、私の足の間に自分の身体を滑り込ませ、両手で椅子の背もたれを掴んで、私を完全に逃げ場のない状態に閉じ込めた。 「み、湊……?」 「今日一日、ずっとこの安っぽい画面と数字ばかり見ていたからな。……視界の栄養が圧倒的に不足している」  彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。  少し伸びてきた前髪の隙間から覗く漆黒の瞳が、私の唇の動きをじっと追っている。  鼻先が触れ、彼の熱い呼気が私の皮膚を撫でる。  漂ってくるのは、洗剤の匂いと、微かに残る油の匂い。そして、彼自身の体温の匂い。 「……補給させてくれ」  囁くような言葉と共に、彼の唇が私の首筋に落ちた。  私は彼の方に腕を回し、その硬い髪に指を絡ませながら、目を閉じた。  彼の手が、私の背骨のくぼみをゆっくりと下から上へとなぞり上げる。  そ
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第327話 朱里の内助の功①

 ジリリリリ、と。  スマートフォンに設定された無機質なアラーム音が、六畳の寝室の空気を振動させた。  昨夜の熱がまだ繊維の奥に閉じ込められているような、重く湿った布団の中で、私はゆっくりとまぶたを押し上げた。  ペラペラの遮光カーテンの隙間から差し込む朝日が、フローリングの木目を白く照らし出している。  すぐ隣には、私の腰に太い腕を回し、首筋に鼻先を埋めるようにして眠る湊の姿があった。  彼の規則正しい寝息が、私の産毛を微かに揺らす。シトラスの香水の名残と、彼自身の体温が混ざり合った匂いが、肺の奥まで満ちていく。 「……ん」  アラームを止めようと腕を伸ばした瞬間、腰に回された腕にギリッと力がこもった。 「……まだ、五分ある」  耳元で、寝起きのひどく掠れた、低いバリトンボイスが鼓膜を震わせた。 「五分じゃないの。……もう、毎日毎日、子供なんだから」  わざと呆れたように小さなため息をこぼすが、首筋にすり寄ってくる無防備な頭をどうしても邪険にはできない。背中に張り付く彼の高い体温が心地よくて、自然と口角が緩んでしまう。 「今日がどんな日か、忘れたわけじゃないでしょ?」  私を抱きすくめる太い腕をなだめるようにポンポンと叩くと、湊は不満げに喉の奥を鳴らし、ようやくゆっくりと目を開けた。  漆黒の瞳が、数回の瞬きを経て、はっきりとした焦点を結ぶ。  そこには、昨夜の甘く溶け切ったような色はもうない。研ぎ澄まされた刃物のような、冷徹で鋭利な「経営者」の光が宿り始めていた。 「忘れるはずがない。……M&Aホールディングスにとって、最初の、そして最大の正念場だからな」  湊は身体を起こし、手ぐしで乱れた黒髪を無造作に後ろへと流した。  その横顔には、九龍グループのCEOとして君臨していた時と同じ、いや、それ以上の飢えたような野心が張り付いている。  アンソニーからの個人投資の約束を取り付けたとはいえ、それはあくまで「第一歩」に過ぎない。本格的に新しいホテルブランドを立ち上げ、都内に土地を確保し、建物を設計・建設するためには、数十億、数百億という莫大な初期資金が必要となる。
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第328話 朱里の内助の功②

「君は僕のビジネスパートナーだ。M&Aの『A』が欠けた状態で、どうやって『愛に溢れたホテル』の理念を証明するんだ」  湊は、シャツのボタンを下から順に留めながら、振り返って私を見た。  その瞳には、一ミリの揺らぎもない絶対的な信頼が込められている。 「君の立ち振る舞いそのものが、僕の事業計画書の最大の裏付けになる。……頼む、朱里。隣にいてくれ」 「……うん。わかった」  私は小さく息を吐き出し、ベッドから這い出した。  彼がそこまで言うのなら、私にできることは一つしかない。  最高の「城」を創るための戦いに、共に挑むことだ。 ◇ 午後一時。  面会の場所に指定されたのは、都内でも有数の格式を誇る、老舗料亭『青柳』の奥座敷だった。  インペリアル・ドラゴン・ホテルとも提携していない、完全に中立な場所。  打ち水がされた石畳を踏みしめ、案内された数寄屋造りの個室に入ると、そこにはすでに、張り詰めたような静寂が支配していた。  上座に座っていたのは、小柄だが、圧倒的な存在感を放つ老婦人だった。  白髪を夜会巻きのようにきっちりとまとめ、上質な翡翠色のシルクのスーツを身に纏っている。  その細い指先には大粒の真珠のリングが光り、湯呑みを持ち上げる微かな動作ひとつにも、長年巨大な富を動かしてきた権力者特有の無駄のなさが滲み出ていた。 「お待たせいたしました、マダム・リウ。本日はお時間をいただき、感謝申し上げます」  湊が、隙のない完璧な角度で頭を下げる。  私も彼の少し後ろに立ち、深く一礼した。 「……お座りなさい、ミスター九龍」  マダム・リウの声は、抑揚がなく、氷の表面を滑るような冷たさを含んでいた。 「いえ、今はただの『湊』でしたね。九龍の看板を捨てた若者が、一体私に何の用事か。アンソニーの強い推薦がなければ、お会いすることはありませんでしたよ」  私と湊が座布団に正座をすると、マダムの鋭い眼光が、値踏みするように私たちを射抜いた。  空調の音すら吸い込まれてしまうような、息苦しい空間。  湊は表情一つ変えず、鞄から
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第329話 朱里の内助の功③

 しかし。  マダム・リウの表情は、ピクリとも動かなかった。  彼女は半ば目を伏せたまま、時折、指先でテーブルの縁をトントンと軽く叩くのみ。  その乾いた音が、湊の言葉を弾き返しているように聞こえる。 「……素晴らしい数字ですね。計算上は、非の打ち所がない」  二十分ほどが経過した頃、マダム・リウが静かに口を開いた。  湊の言葉が止まる。 「ですが、それはあくまで机上の空論です。九龍という巨大なインフラと人材のプールがあったからこそ、あなたはこれまでその数字を実現できていた。……今のあなたには、それがない。ただの青写真に、何百億という資金を投じるほど、私はお人好しではありません」  マダムの厳しい言葉が、容赦なく突き刺さる。  湊の膝の上で組まれた両手に、ギリッと力がこもるのが見えた。スーツの生地が微かに引き攣れている。 「『愛のある空間』……。耳障りは良いですが、所詮はビジネスです。冷酷なまでの管理とシステムがなければ、ホスピタリティなどすぐに破綻する。違いますか?」  重苦しい沈黙が、個室を支配した。  湊が反論の言葉を探して息を吸い込んだ、その時。  部屋の隅に控えていた仲居が、畳の上を擦る音もなく近づき、マダム・リウの前に置かれた手付かずの冷緑茶を、新しいものと差し替えようと手を伸ばした。  その瞬間、マダムの眉間がほんのわずかに寄る。  彼女は無意識のうちに、翡翠色のシルクジャケットの襟元を指先で少しだけかき合わせるような仕草をした。その細い指先が、微かにこわばっている。浅い呼吸とともに、小鼻の脇にうっすらと汗が滲んでいるのが見て取れた。(……冷えているんだわ) ブライダルコーディネーターとして、何百組もの新郎新婦や親族をアテンドしてきた私の肌感覚が、微かな違和感を拾い上げた。  慣れない異国の空気、長時間のフライトの疲労。そこに料亭の効きすぎた冷房が重なり、彼女の身体は今、明確な不快感と悪寒を訴えている。  私は、湊の太ももに自分の手をそっと乗せ、軽く二回叩いた。 『私に任せて』という合図。  湊が驚いたように私を見るのを尻目に、
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第330話 朱里の内助の功④

 私の言葉に、マダム・リウは一瞬だけ目を丸くした。  私は彼女の反応を待ち、それから横で固まっている仲居の方へ向き直った。 「冷たいお茶はお下げして、温かい黒豆茶か白湯をお持ちいただけますか。それから、次にお出しするお食事ですが、冷たいお造りは控えて、消化の良い温かい蒸し物かお吸い物に変更していただけないでしょうか」 「あ……は、はい。料理長に確認してまいります」  仲居が慌ててお盆を持ち直し、小走りで厨房へと向かっていった。  私は立ち上がり、「空調の温度を調整してまいります。少々失礼いたします」と深く一礼し、個室の外へと出た。 ◇ 廊下に設置された空調のパネルを操作し、設定温度を二度上げる。  それから厨房の入り口まで足を運び、先ほどの仲居に、マダムの様子や提供する温度感について手短に、しかし詳細に念を押した。  深く息を吐き出し、乱れた呼吸を整えてから、再び個室の襖を静かに開ける。  部屋の中の空気は、私が席を立った時よりもさらに重く、凍りついているように感じられた。  湊は黙ったままタブレットの画面を見つめ、マダム・リウは不機嫌そうにこめかみを指で揉んでいる。  私が自分の座布団に戻って数十秒後。  襖が開き、先程の仲居が黒塗りのお盆を持って入ってきた。  彼女はマダム・リウの前に、蓋つきの温かい漆器の椀と、湯気を立てる柔らかな色合いの陶器のカップを置いた。 「……これは?」  マダム・リウが、怪訝そうに眉をひそめた。  私は、三つ指をついて静かに口を開いた。 「お身体を温める作用のある黒豆茶と、胃に負担のかからない温かい百合根の蒸し物でございます」  マダム・リウの鋭い眼光が、再び私を射抜く。 「……私の体調不良に、気づいていたのですか?」 「はい。……私たちは、お客様に数字やシステムをご提供するだけではありません。お客様が口に出されない微かな不快感やご要望を察知し、先回りして取り除く。それが、私たちの考える『ホスピタリティ』の第一歩です」  部屋の空調が、いつの間にか微かに温かい風へと切り替わっている。  マダ
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