All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 301 - Chapter 310

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第301話 分家の乗っ取り③

「落ち着きなさい、志保さん。あなたが由理子さんを庇いたい気持ちは、痛いほどわかるよ」  龍一郎さんは、立ち上がって激昂する志保さんを見上げ、心底同情するような悲しげな目を向けた。 「だが、科学的なデータは嘘をつかない。……もしこれが私の偽造だと言うのなら、湊。今すぐ現代の医療機関で、君のDNAを再鑑定してみるかね? 宗太郎お義父様のDNAサンプルは、病院の記録にまだ残っているはずだ」  その言葉に、湊の喉仏が大きく上下した。  再鑑定。  それをすれば、真実は完全に白日の下に晒される。あの地下室の鑑定書が本物であれ偽物であれ、湊が宗一さんの子ではないという事実が確定してしまうかもしれない恐怖。  湊は、両手を膝の上で固く握りしめたまま、一言も発することができなかった。 「……再鑑定など、悠長なことをしている時間はありません」  佐倉専務が、クリアファイルをテーブルに叩きつけるように置いた。  彼の顔には、湊への忠誠心などすでに微塵もなく、ただ己の保身と、巨大な組織を守るための冷徹な判断だけが浮かんでいた。 「インペリアル・ドラゴン・ホテルのトップに『血の疑惑』があるという噂が市場に流れた瞬間、株価はストップ安になります。数千億の損失が出かねない。……湊さん。これが事実であれば、九龍の血を引かないあなたに、このグループを任せ続けることはできません」 「佐倉専務! あなた、剛造のクーデターの時は、湊に一生ついていくと言っていたじゃないの!」  志保さんが叫ぶが、佐倉専務は冷たい視線を逸らさなかった。 「あれは、彼が『九龍の正統な後継者』であったからこそです。我々が仕えるのは、湊という個人ではなく、九龍という血の権威そのものなのです。血が繋がっていない偽物に、一族の財産を明け渡すわけにはいきません」  その言葉が、鋭い刃となって湊の胸を突き刺す。  偽物。  これまで流してきた血と汗も、命がけで守り抜いてきた実績も、すべてがそのたった一言で紙屑にされた。  役員たちの冷ややかな視線が、一斉に湊へと突き刺さる。  彼らはすでに、龍一郎さんの持つ莫大なファンドの資金力と、「血の純潔」という絶対
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第302話 分家の乗っ取り④

 戦うための武器がない。  大義名分を失い、味方であったはずの役員たちに背を向けられ、そして何より、彼自身の根幹であった『九龍の血』が否定された。  論理的に考えて、勝機はゼロだ。  冷徹なCEOの計算が、彼に「投了」の二文字を突きつけているのがわかった。 「……湊さん、言われるがままにならないで」  私は、震える手を伸ばし、湊の膝の上で固く握りしめられている拳に、自分の手を重ねた。  氷のように冷たい指先。  私の体温を少しでも移そうと、両手で強く、強く包み込む。 「この人たちは、あなたの努力を何も見ていない。血が繋がっていないからって、あなたが九龍を守ってきた事実は消えないわ。絶対に、諦めちゃダメ……!」  私の必死の訴えに、湊はゆっくりと顔を向けた。  その瞳の奥に、ほんのわずかな痛みの色が走る。 「……朱里」  掠れた声で私の名前を呼び、彼は私の手をそっとほどいた。 「もう、いいんだ」 「湊さん……っ」 「佐倉専務の言う通りだ」  湊は、テーブルの上のコピー用紙を一瞥し、そして龍一郎さんを真っ直ぐに見上げた。 「僕には、この席に座る資格が初めからなかった。……九龍のすべては、血を引く人間が管理すべきだ」 「湊!!」  志保さんの悲鳴のような叫びが響くが、湊はそれを手で制した。 「……賢明な判断だ、湊」  龍一郎さんは、心底嬉しそうに目を細め、湊の肩をポンポンと叩いた。 「安心しなさい。引き継ぎの準備が整うまで、しばらく時間は猶予しよう。役員たちも、それで異論はないね?」  佐倉専務たちが、一斉に深く頭を下げる。 「では、今日はこの辺で失礼させてもらおう。華枝さんには、くれぐれもお大事にとお伝えしてくれ。……行くぞ、剣吾」 「はーい。じゃあね、湊。せいぜい残りの期間、引継ぎ資料でもまとめとけよ」  剣吾さんがニヤニヤと笑いながら立ち上がり、役員たちとともに応接間から出ていく。  広い応接間に、再び重苦しい沈黙が降りた。  バタン、と玄関の扉が閉まる音が、遠くから聞こえてくる。
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第303話 王の退陣①

 長い、果てしなく長い午後だった。  分家の人間である龍一郎さんと剣吾さん、そして彼らに寝返った役員たちが去った後、本邸の客間には、耳鳴りがするほどの重い沈黙が降り積もっていた。  志保さんは、華枝様の容態が心配だと言って、足を引きずるようにして再び病院へと戻っていった。  私は一人、客間のアンティークソファに座り、ただ時間が過ぎるのを待っていた。  窓の外の景色は、鮮やかな春の陽射しから、少しずつ赤みを帯びた夕暮れの色へと変わり、やがて群青色の夜の帳が静かに降りてこようとしている。  暖房は効いているはずなのに、指先から冷えが這い上がってくるような感覚が抜けなかった。  書斎の分厚いオーク材の扉は、あの時閉ざされたまま、一度も開いていない。  扉の向こうからは、物音一つ聞こえてこなかった。  湊は、たった一人で、暗闇の中でどんな思考を巡らせているのだろうか。  あの時、彼が「新しい戦略を構築し直すための時間が欲しい」と言った言葉を信じ、私はただ待つことしかできない。下手に声をかけて彼の思考を遮ることは、今の彼にとって一番残酷なことだとわかっていたからだ。  テーブルの上には、すっかり冷めきって表面に薄い膜が張ったコーヒーが入ったマグカップが二つ、手付かずのまま置かれている。  チクタク、と。  壁に掛けられた古時計の振り子が、無機質なリズムを刻み続けていた。  時計の針が午後六時を指そうとした、その時だった。  カチャリ。  静かな客間に、真鍮のラッチが外れる小さな金属音が響いた。  私の肩が、ビクッと跳ねる。  ゆっくりと、書斎の扉が開いた。 「……湊」  私は、バネに弾かれたようにソファから立ち上がった。  書斎の薄暗い空間から、彼が姿を現す。  その姿を見た瞬間、私は思わず息を呑んだ。  彼は、これまで常に完璧に身に纏っていたダークネイビーのスーツのジャケットを脱ぎ捨て、白いワイシャツ姿になっていた。  ネクタイは外され、第一ボタンが開けられている。  いつも隙なく整えられていた髪は、無造作に手で掻き乱されたように少
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第304話 王の退陣②

 彼はゆっくりとした足取りで私へと歩み寄り、冷え切っていた私の両手を、自分の大きな手でふわりと包み込んだ。  彼の指先は、数時間前のような氷のような冷たさを失い、確かな人間の体温を取り戻している。 「……顔色、少し良くなったみたい」  私が安堵の息を吐き出しながら言うと、湊は微かに口角を上げ、私の手の甲を親指で優しく撫でた。 「ああ。随分と長い時間、暗闇の中で迷子になっていた気がするけれど。ようやく、出口の光が見えたよ」  その言葉の響きに、私はほんの少しだけ胸の奥がざわつくのを感じた。  出口の光。  それは、龍一郎さんたちを出し抜き、九龍の次期当主の座を死守するための、起死回生の策を見つけたということなのだろうか。  しかし、彼の纏う空気は、これから血みどろの権力闘争に身を投じる『修羅』のそれとは、あまりにもかけ離れていた。 「湊、どんな結論を出したの?」  私が真っ直ぐに見つめると、湊は私の手を包み込んだまま、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。  そして、静かな、しかし迷いのない声で、こう告げたのだ。 「僕は、九龍を出る。……CEOの座も、インペリアル・ドラゴン・ホテルの全株式も、すべての資産を放棄して、彼らに譲り渡す」  ……え?  私は、自分の耳を疑った。  彼の言葉の意味を脳が処理するのに、数秒の時間を要した。 「すべてを……放棄する?」  私の声は、ひっくり返りそうになっていた。 「それって……龍一郎さんたちの要求を、そのまま呑むってこと? 戦わないってことなの?」  湊は、私の驚きを予想していたのか、小さく頷いた。 「戦わない、という表現は少し違うかもしれない。これは、僕が自分自身の意志で選んだ、彼らへの最大の『拒絶』であり、僕なりの『決着』だ」 「どういうこと……」  私は、彼の手を思わず強く握り返した。 「だって、あなたがこれまでどれだけ身を削って、あのホテルを守ってきたか……。剛造さんのクーデターの時だって、命がけで戦ったじゃない。それを、あんな偽造されたかもしれない紙切れ一枚で、全部手放しちゃうなんて……そんなの、
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第305話 王の退陣③

 湊は、私の手を引き、アンティークソファへとゆっくり腰を下ろした。  私も彼に並んで座る。 「血の純潔を重んじる長老たちや、保身に走る役員たちは、間違いなく龍一郎叔父上の側につく。僕の側に残ってくれる人間もいるだろう。だが、そうなれば、九龍グループ全体を巻き込んだ、底なしの泥仕合が始まる。数年、あるいは数十年続くかもしれない、醜い権力闘争だ」  湊の漆黒の瞳が、窓の外の薄闇を見つめる。 「その泥仕合の舞台になるのは、インペリアル・ドラゴン・ホテルだ。経営陣が分裂し、互いの足を引っ張り合えば、株価は暴落し、現場の従業員たちは混乱の渦に巻き込まれる。最高のおもてなしを提供するはずのホテルが、権力闘争の道具に成り下がるんだ。……僕は、自分が育ててきたホテルが、そんな風に傷つき、壊れていくのを見たくない」  その言葉に、私はハッと息を呑んだ。  彼は、自分の地位や名誉を守ることよりも、ホテルという『場所』と、そこで働く『人たち』を守ることを選んだのだ。  龍一郎さんのように、他人の人生を駒としてしか見ていない人間には絶対にできない、本当のトップとしての決断。 「それにね」  湊は、視線を窓の外から私へと戻した。  その瞳の奥に、柔らかく、そして果てしなく深い愛情の光が灯る。 「僕は、これ以上君を、あのドロドロとした血の呪縛の中に巻き込みたくないんだ」 「私……?」 「ああ。君は、剛造の時も、志保さんの時も、いつも僕の隣で一緒に傷つき、泥を被ってくれた。僕の手を絶対に離さないでいてくれた。……でも、龍一郎叔父上は剛造とは違う。彼は、人を笑顔で地獄に落とせる正真正銘の化け物だ。僕が当主の座に固執して彼と戦い続ければ、彼は必ず、僕の一番の弱点である『君』を標的にする」  湊の大きな手が、私の頬をそっと包み込んだ。  彼の手のひらから伝わる熱が、私の冷えていた皮膚をじんわりと温めていく。 「君が傷つくかもしれないという可能性。君の笑顔が、あの男の悪意によって奪われるかもしれないという恐怖。……それを考えた時、僕の中で、インペリアル・ドラゴン・ホテルのCEOという肩書きや、九龍の莫大な財産なんて、何の価値もないゴミのよう
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第306話 王の退陣④

 彼の声は、自信に満ち溢れていた。  虚勢でも、負け惜しみでもない。  すべてを失うことを受け入れ、それでもなお自分の中に残る『本当の価値』に気づいた人間の、圧倒的な強さがそこにあった。 「だから、僕は降りる。龍一郎叔父上たちの土俵で、血みどろの争いをするのはやめだ。彼らに、九龍の器という『抜け殻』をくれてやる。……僕は、ただの『湊』に戻るんだ」  ただの湊。  その言葉を聞いた瞬間、私の目から、堪えきれなくなった涙がポロポロとこぼれ落ちた。  悲しみの涙ではない。  彼が、ついに九龍という重たい呪縛から、自らの意志で自分自身を解放したことへの、安堵と喜びの涙だった。 「泣かないでくれ、朱里。君を泣かせるために決断したわけじゃないんだ」  湊が慌てて親指で私の涙を拭うが、拭っても拭っても、後から後から涙が溢れてくる。 「ちがっ……悲しいんじゃ、ないの……っ」  私は、しゃくり上げながら、彼のワイシャツの胸元を両手でギュッと握りしめた。 「湊さんが……すごく、かっこいいから……っ。地位も、お金も全部捨てて、ただの男の人として私を選んでくれたことが……嬉しくて……っ」  私の言葉に、湊は少しだけ目を丸くし、それから、今まで見たこともないほど優しく、そして晴れやかな笑顔を浮かべた。  冷徹な氷のCEOの仮面は、もう跡形もない。  そこにあるのは、私という一人の女性を心から愛し、その愛のためにすべてを投げ打つ覚悟を決めた、不器用で、一途な男の素顔だった。 「かっこいい、か。そんな風に言ってもらえるなら、すべてを捨てる甲斐があったというものだ」  湊は、私の背中に両腕を回し、自分の胸に私を深く抱き寄せた。  ワイシャツ越しに聞こえる彼の心音は、力強く、そして穏やかなリズムを刻んでいる。 「でも、朱里。本当にいいのかい? 明日から僕は、無職の男になる。ペントハウスも引き払わなければならないし、クレジットカードもすべて止められるだろう。君に、今までのような贅沢はさせてやれなくなる」  耳元で囁かれるその声には、微かな申し訳なさが混じっていた。  私は、彼の胸に顔を埋め
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第307話 王の退陣⑤

 私の言葉を聞き、湊の瞳の奥が、熱い光で揺さぶられたように揺れた。 「……君は、本当に底知れない女性だ」  掠れた吐息が、私の鼻先をかすめる。 「君のその強さと温かさがなければ、僕はあの地下室の暗闇から、永遠に抜け出せなかっただろう。……ありがとう、朱里。僕を、ただの男にしてくれて」  湊の顔がゆっくりと近づき、彼の温かい唇が、私の涙で濡れた頬に、そして唇に、そっと重なった。  微かな摩擦。  コーヒーの残り香と、彼の肌から香る清潔なシトラスの匂い。  今まで何度もキスを交わしてきたけれど、これほどまでに穏やかで、互いの魂の奥底まで触れ合うような優しいキスは初めてだった。  九龍という呪縛も、分家の脅威も、今は遠い世界のことのように感じられる。  ただ、互いの存在だけが、確かな現実としてここにあった。  唇を離すと、湊は私の額に自分の額をすり寄せ、ふっと小さく息を吐いた。 「さて。そうと決まれば、善は急げだ。龍一郎叔父上たちが本格的に動く前に、僕の方から『退任届』を叩きつけてやらなければならない」  湊は私の身体をそっと離し、ソファから立ち上がった。  その足取りは軽く、彼を長年押し潰していた見えない重りが完全に消え去ったことを物語っている。 「まずは、佐々木院長に連絡して、華枝祖母様と志保さんに僕の決断を伝えなければ。二人は激怒するだろうか……いや、祖母なら『好きにおし』と笑うかもしれないな」  湊は、自分の左手首にはめられていた、数百万は下らないであろうパテック・フィリップの高級腕時計を外し、ローテーブルの上にコトリと置いた。  さらに、ワイシャツの袖口を留めていたプラチナのカフスボタンも外し、時計の横に並べる。  それは、彼が『九龍の次期当主』としての装飾を、一つ一つ自らの手で剥ぎ取っていく儀式のように見えた。  地位を誇示するための鎧は、もう彼には必要ないのだ。 「荷物は最小限にしよう。ペントハウスにある君の私物と、僕の数着の服があれば十分だ。当面は、僕の個人の貯金……九龍とは関係なく、学生時代に投資で稼いだ小さな口座がある。それでしばらくの生活費は賄えるはずだ」
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第308話 王の退陣⑥

 私の言葉に、湊は数秒間目を瞬かせ、それから、吹き出すように声を上げて笑った。  あの、他人の前では決して見せない、心からの屈託のない笑い声。 「ははっ……君は本当に……。こんな時に、僕の手料理をリクエストするのか?」 「だって、これから無職になるんでしょ? 私がウェディングプランナーとしてバリバリ稼ぐんだから、あなたは当面、専業主夫として家事を頑張ってもらわないと」  私がわざと威張ったように胸を張ると、湊は目尻に笑いジワを寄せながら、深く頷いた。 「承知した。僕の完璧なリスクマネジメント能力とタスク処理能力をすべて家事に注ぎ込み、君を世界一快適な生活で甘やかしてみせよう。卵焼きの味付けは、君の好みの少し甘めだったね?」 「期待してるわ、湊」  私たちは、互いの顔を見て、同時にふふっと笑い合った。  窓の外は、すでに完全な夜の闇に包まれていた。  本邸の重苦しい空気が、嘘のように澄み切って感じられる。  私たちは、ローテーブルの上に置かれた冷めたコーヒーカップと、鑑定書、そして高級時計をそのまま残し、客間の扉を開けた。  廊下に灯るフットライトの微かな明かりが、私たちの足元を照らしている。  湊が、私の右手をしっかりと握りしめた。  その手のひらの温かさと、微かなざらつき。  九龍という巨大な檻の中で、孤独な王として君臨してきた男。  彼は今、自らの意志でその王冠を捨て、たった一人の女性の手を引いて、新しい世界へと足を踏み出そうとしている。  頂点からどん底へ。  世間の人間は、彼をすべてを失った敗北者と呼ぶかもしれない。  けれど、私の隣を歩く彼の横顔は、これまでのどんな時よりも気高く、そして自由だった。  本邸の重厚な玄関の扉を開けると、春の夜風がふわりと頬を撫でた。  土と草の匂いに混じって、どこからか微かに沈丁花の甘い香りが漂ってくる。 「行こう、朱里」  湊が、夜の闇の向こうを見つめながら、静かに言った。 「ええ。どこまでも、一緒よ」  私たちは、繋いだ手に互いの体温を確かめ合いながら、九龍家の巨大な門に向かって
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第309話 ゼロからのスタート①

 カンカン、カンカン。  薄いアルミサッシの窓の向こうから、近くの踏切の警報音がかすかに響いてくる。  それに重なるように、薄い壁の向こうの隣室から漏れ聞こえる、テレビの朝のニュース番組のアナウンサーの声。  ここは、築二十五年を迎える鉄骨造の賃貸マンション『アーバンフラット杉並』の二階、角部屋。  十畳のリビングダイニングキッチンに、六畳の寝室、そして必要最低限のユニットバスがついた、家賃七万八千円の1LDKだ。  当然、コンシェルジュもいなければ、エントランスに大理石も敷き詰められていない。床のフローリングは歩くたびに微かに沈み込む感触があり、玄関のドアは開け閉めするたびにギーという金属音を立てる。  あの夜、着の身着のままで本邸を後にした私たちは、湊の個人の口座に残されていたわずかな資金を元手に、不動産屋に駆け込んでこの部屋を即日契約した。  インペリアル・ドラゴン・ホテルのペントハウスから、ありふれた大衆マンションへの引っ越し。  二人分の荷物は、キャリーケース三つ分にしかならなかった。  私は、ホームセンターで買ってきた一足五百円のスリッパを履き、狭いシステムキッチンに立っていた。  二口しかないガスコンロの一つに、テフロン加工の安いフライパンを乗せる。  カチッ、とつまみを回すと、ボッという鈍い音とともに青い炎が上がった。  少し多めに引いたサラダ油が温まり、そこへベーコンを二枚並べる。  ジューッ!  景気のいい音とともに、焦げた豚肉の脂の匂いが、換気扇の弱い吸引力をすり抜けてリビングに一気に広がった。 「ん……」  背後の寝室を仕切る引き戸の向こうから、くぐもった低い声が聞こえた。  ガラガラッ。  少し建て付けの悪い引き戸が開く音。  振り返ると、鴨居に頭をぶつけそうになりながら、少しだけ身を屈めて入ってくる長身の姿があった。  天下のインペリアル・ドラゴン・ホテルの元CEO。  しかし今の彼は、仕立てのいいダークネイビーのスリーピーススーツではなく、近所の量販店で特売になっていたグレーの薄手のスウェット上下を着込んでいる。
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第310話 ゼロからのスタート②

「ああ、ありがとう」  湊は、プラスチックの箸を手に取り、目玉焼きの黄身を丁寧につついて割った。  一口食べ、その目を細める。 「……うまい。高級レストランのオムレツより、よほど五臓六腑に染み渡る」  そんな大げさな感想に、私はクスッと笑いながら、自分の分のマグカップにインスタントコーヒーの粉を入れ、ポットのお湯を注いだ。  朝食を終えると、湊はスッと立ち上がった。 「さて。僕は今日から、この家の専業主夫としての役割を果たさなければならない。まずは、昨夜の洗濯物を片付けてこよう」  張り切った様子で、スウェットの袖をまくり上げる。 「大丈夫? 洗濯機、自分で回したことあるの?」 「愚問だな。ホテルのリネンサプライ部門の運用データや、洗浄剤の成分表には何度も目を通している。理論上は何も問題ないはずだ」  湊は自信満々に鼻を鳴らし、脱衣所兼洗濯機置き場へと向かっていった。  私は食器を流しに下げながら、その背中を見送る。  しかし、五分経っても、十分経っても、脱衣所から洗濯機が回る音は聞こえてこない。  代わりに、「チッ」という小さな舌打ちと、「どういうことだ……」という低い呟きが繰り返し漏れ聞こえてくるだけだ。  私は手をタオルで拭き、脱衣所へと顔を出した。  そこには。  家電量販店で買った、国産メーカーのシンプルな縦型の全自動洗濯機。  その操作盤の前で、湊が腕を組み、まるで競合他社の買収資料でも読み解くかのように、深刻な顔で立ち尽くしていた。 「どうしたの? 動かない?」  私が尋ねると、湊は眉間に深いシワを寄せたまま、私を振り返った。 「朱里。この操作盤の設計は、極めて非合理的だ」  湊は、洗濯機の蓋をビシッと指さした。 「『水量』というボタンがある。なぜ自分で水量を指定しなければならない? 衣類の重量をセンサーで感知し、自動で最適な水量を計算する機能はついていないのか?」 「そんな高度な機能、三万円の洗濯機についてるわけないでしょ。自分で洗濯物の量を見て、水量を三十リットルか四十五リットルか選ぶのよ」 「目視で推測し
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