All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 331 - Chapter 340

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第331話 出資の約束

「私はこれまで、結婚式という一生に一度の極度の緊張感に包まれたお客様に寄り添ってまいりました。不安や痛みは、必ず身体のどこかにサインとして表れます。それを見逃さないのが、私の仕事ですから」  私が真っ直ぐに答えると、マダム・リウはふっと口元を緩め、声を出して笑った。 「ははっ……なるほど。これが、あなたの言う『愛のある空間』の正体ですか、ミスター九龍」  彼女の視線が、湊へと移る。  湊は、私の隣で、誇らしげに、そして深く静かな熱を帯びた瞳で頷いた。 「はい。彼女が、M&Aホールディングスの『A』です。彼女のこの目と、心そのものが……私が何百億という資金を投じても創り出したい、新しいホテルの心臓部です」  湊の迷いのない言葉に、私の顔がカァッと熱くなる。  マダム・リウは、百合根の蒸し物を一口味わい、満足げに目を閉じた。 「……システムや管理は、お金を積めば誰にでも構築できます。ですが、人の心を読む目と、それを自然に行動に移せるホスピタリティは、どんな高度なAIにも、莫大な資本にも生み出すことはできない」  マダムは、テーブルの上で両手を組み、湊を真っ直ぐに見据えた。 「九龍の看板を捨てた理由が、よくわかりました。あなたには、それ以上の価値を持つパートナーがいる。……よろしい」  マダム・リウが、ゆっくりと顎を引いた。 「出資しましょう。あなたの描く、その『愛のあるホテル』の第一号店に。……ただし、彼女の意見を全面的に取り入れることが条件ですよ」  その言葉が個室に響き渡った瞬間、湊の喉仏が大きく上下に動いた。  彼の膝の上で強く握りしめられていた拳が、ゆっくりと解けていく。 「……感謝いたします、マダム・リウ。必ず、ご期待以上のものをお見せします」  湊は、深々と、額がテーブルにつくほど深い角度で頭を下げた。  私もそれに倣い、頭を下げる。  胸の奥から、熱いものが込み上げてくる。  実績も、看板もない私たちが、たった今、巨額の資金調達という奇跡をもぎ取ったのだ。  二人三脚で挑んだ初めての大きな戦いに、完璧な形で勝利した瞬間だった。具体的な出資条件は、これから詰めていくことになった。◇ 食事を終え、今後の進め方まで話し合って料亭を出る頃には、外はすっかり日が落ちていた。  銀座の街並みは、各ブランドショップの華やかな
last updateLast Updated : 2026-04-06
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第332話 僕の誇り

「……ありがとう、朱里。君は、僕の誇りだ」  彼の低い声が、夜の喧騒に紛れることなく、真っ直ぐに私の耳に届く。 「あの氷の塊のようなマダム・リウの心を動かしたのは、僕の事業計画書じゃない。君のその手と、気遣いだ。……君がいなければ、今日の交渉は間違いなく決裂していた」 「私一人じゃないよ。湊の完璧なプレゼンがあったから、マダムも話を聞いてくれたんだから」 「いや。君が僕の欠落を補ってくれたんだ。……僕には、君に見えている世界が見えていない」  湊の大きな手が、私の指の間に自分の指を滑り込ませて、しっかりと絡めてくる。  掌から伝わってくる彼の熱が、私の冷えかけた指先をじんわりと温めていく。  料亭で湯気を見つめていた緊張が、ようやく指の間からほどけていく。私の気づきを、彼は会社の名前と同じ重さで受け止めてくれた。明日から何を頼まれても答えられるわけではない。それでも、隣に立つ理由を、もう遠慮して小さくする必要はないのだと思えた。 「さて。M&Aホールディングスの最初の資金調達を祝して、今夜は宴を開こう。……何が食べたい?」  彼が柔らかく微笑みながら尋ねる。  その顔は、すべてを失ったアパートの部屋で、パソコンの画面を睨みつけていた時とは違う。未来へ向かう、確かな自信と喜びに満ちていた。 「うーん……」  私は少しだけ考える素振りをみせてから、彼の顔を見上げてニッコリと笑った。 「じゃあ、奮発して、スーパーで一番高いお肉を買って、すき焼きにしようか! あ、でも火曜日の特売の卵も買わなきゃ」  私がそう言うと、湊は呆れたように息を吐き、そして深く、穏やかな声で笑い声を漏らした。 「……君のスポンサーとしての金銭感覚には頭が下がるよ。……わかった。スーパーへ急ごう」  彼が私の手を引き、歩き出す。  繋いだ手のひらから伝わる、彼の体温。  吹き抜ける夜風は少し冷たかったけれど、彼の大きな手にすっぽりと包まれた私の指先は、火傷しそうなほど熱を帯びている。  大通りに出ると、行き交う車のヘッドライトがアスファルトを白く照らし、私たちの影を長く後ろへと伸ばしていく。  私は彼の少し後を歩きながら、その頼もしい背中と、強く握られた手のひらの感触だけを、静かに心の中へ刻み付けていた。  ゼロからのスタート。  何もないところから始まった
last updateLast Updated : 2026-04-06
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第333話 造花のロビー

 インペリアル・ドラゴン・ホテルの最上階。  かつて、塵一つない静寂と、冷たく研ぎ澄まされた空気に支配されていたCEO執務室は、わずか数週間の間に、無惨な姿に変わり果てていた。  分厚いマホガニー材のデスクの上には、飲みかけのシャンパングラスが雑然と置かれ、水滴が書類の上にシミを作っている。足元まで沈み込む最高級の絨毯には、泥のついたゴルフボールがいくつも転がり、むせ返るような甘ったるい葉巻の煙が、換気扇の吸引力を超えて部屋の天井付近に淀んでいた。 「……どういうことだ、佐倉専務」  デスクに足を投げ出し、革張りの椅子に深く体重を預けた剣吾が、苛立たしげに葉巻の灰を床に直接落とした。  パサリと、白い灰が絨毯の繊維にめり込む。 「今週の宿泊稼働率が、前の月より十五パーセントも落ちているじゃないか。レストランの売上もガタ落ちだ。俺がCEOに就任して、これだけ画期的な経費削減のアイデアを出してやってるのに、現場の連中は何をサボっているんだ?」  剣吾の甲高い声が、執務室に響き渡る。  デスクの前に直立している佐倉専務は、額から噴き出す脂汗をハンカチで拭うこともできず、ただ小さく肩を震わせていた。 「し、社長……。社長が指示された『無駄な経費のカット』が、裏目に出ているのです。客室のアメニティのブランドを安価なものに変更し、ロビーの生花を造花に切り替えたことで、長年ご贔屓にしてくださっていたVIPのお客様から、『インペリアルの品格が落ちた』とのお叱りを多数頂戴しております」  佐倉専務の震える声が、空調の低い音に混じる。 「さらに、レストランの食材の仕入れ先を安価な業者へ変更した件で、長年提携していたフランスの三つ星シェフから、提携解除の申し入れが届きました。……『私の料理哲学に対する侮辱だ』と、激怒しておられます」 「はっ、たかが料理人風情が偉そうに」  剣吾は鼻で笑い、シャンパングラスを傾けた。  黄金色の液体が喉を鳴らして流し込まれる。 「代わりなんていくらでもいるだろう。もっと安いシェフを雇って、見た目だけ豪華に飾り付けとけ。客なんてどうせ、舌の味よりホテルの名前で飯を食ってるんだからな」 「しかし、それでは……」 「それにだ」  剣吾は佐倉専務の言葉を遮り、ダンッ! と革靴の踵をデスクに叩きつけた。  デスクの上のグラスが激
last updateLast Updated : 2026-04-07
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第334話 仕組まれたコンペ

「回らなきゃ新しい奴を雇え! 誰がやっても同じように回るシステムを作るのが、経営ってもんだろうが!」  剣吾の怒鳴り声が、佐倉の耳をつんざいた。  佐倉の足元が、微かにふらつく。  彼自身の選択が招いた、最悪の結末。  湊を『血の繋がりがない』という理由だけで切り捨て、この剣吾を神輿として担ぎ上げた。  湊がいかにしてこの巨大なホテルグループの細部まで目を光らせ、現場のモチベーションを保ち、ミリ単位で完璧なホスピタリティを統率していたか。  彼がいなくなって初めて、その圧倒的な手腕と、彼が背負っていた重圧の大きさに、佐倉は気づかされていた。  今のインペリアル・ドラゴン・ホテルは、ただの豪華な箱に成り下がっている。 「……お取り込み中のようだね」  不意に、重厚な扉が音もなく開き、柔らかな声が流れ込んできた。  佐倉がビクッと振り返ると、そこにはグレーのスリーピーススーツを品良く着こなした龍一郎が、にこやかな笑みを浮かべて立っていた。 「お、親父……」  剣吾が、デスクから慌てて足を下ろす。 「佐倉専務、ご苦労様。彼には私からよく言い聞かせておくから、今日はもう下がってくれたまえ」  龍一郎が穏やかに促すと、佐倉は逃げるように深く頭を下げ、足早に執務室から退室していった。  扉が閉まると、龍一郎はゆっくりと部屋の中央まで歩み寄り、転がっているゴルフボールを靴の先端で軽く小突いた。 「剣吾。少し、やりすぎだね。数字が悪すぎる」  龍一郎の声は相変わらず優しかったが、その目は微塵も笑っていなかった。 「ちっ……親父は黙っててくれよ。これは一時的な膿出しだ。無駄を削ぎ落とせば、来季の利益率は跳ね上がる。俺のやり方が正しいって証明してみせるさ」 「まあいい。現場の混乱など、後でいくらでも金で解決できる」  龍一郎は、持っていた革の鞄から分厚いファイルを取り出し、デスクの上に置いた。 「それよりも、来月のコンペだ。政府が主導する、湾岸エリアの超大型リゾート開発。これの独占運営権を取れば、今の株価の落ち込みなど一瞬で吹き飛ぶ。……九龍の威信にかけて、絶対に落とすんだよ」 「わかってるよ。もう大手のゼネコンとは話がついてる。それに、親父が審査員たちに『手回し』をしてくれてるんだろ?」  剣吾がニヤリと下卑た笑みを浮かべる。 「ああ。
last updateLast Updated : 2026-04-07
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第335話 すき焼きの祝杯

◇ 同じ頃。  杉並の古い賃貸マンションの一室には、醤油と砂糖が焦げる、甘辛く強烈に食欲をそそる匂いが充満していた。 「湊! お肉、もう色が変わってる! 早く食べないと固くなっちゃうよ!」 「待て、朱里。すき焼きにおける牛肉の火入れは、中心温度が六十度から六十五度の間が最も柔らかさと旨味を引き出せる。……今、箸を入れれば、せっかくの霜降りの脂が溶け出す前に引き上げることができる」 「もう、理屈はいいから早く食べて!」  私は、カセットコンロの上に置かれた鉄鍋から、特売シールが貼られていたとは思えないほど美しいサシの入った牛肉を菜箸で掬い上げ、湊の手元にある溶き卵の小鉢に強引に放り込んだ。 「……あ」 「ほら、食べて。冷めちゃう」  湊は、仕方がないといった顔で箸を動かし、卵にたっぷりと絡んだ肉を口へと運んだ。  もぐもぐと咀嚼する彼の顔を、私はワクワクしながら見つめる。  数秒後、彼の目がわずかに見開かれ、喉仏が上下に動いた。 「……うまい」 「でしょ!? ヤオトクの火曜特売、最高級和牛の半額セール! 私の買い物スキル、舐めちゃダメよ」 「確かに。脂の融点が低く、口の中で溶けるスピードが絶妙だ。それに、君の作った割り下の醤油とみりんの黄金比が……」 「また分析してる」  私がクスクスと笑うと、湊もつられたように口角を上げ、自分のグラスを持ち上げた。  中に入っているのは、コンビニで買ってきた発泡酒だ。 「M&Aホールディングスの、最初の資金調達成功に。……乾杯」 「乾杯!」  カチン、とガラスのコップがぶつかる音が、十畳のリビングダイニングに響く。  湊は発泡酒を喉に流し込み、小さく息を吐き出した。 「……ヴィンテージのシャンパンより、ずっと美味く感じるな」 「安上がりなCEOで助かるわ」  私は白滝と焼き豆腐を鍋に追加しながら、彼の横顔を盗み見た。  マダム・リウから巨額の投資の約束を取り付けた帰り道、夜の路地裏で手を包まれ、「僕の誇りだ」と告げられた声が、まだ耳の奥に微かに残っているような気がして、顔が熱くなる。  すべてを捨てて、ゼロから立ち上がった彼。  高級スーツではなく、少し首元のよれたスウェットを着て、発泡酒を飲んでいる姿が、私には何よりも頼もしく、そして色っぽく見えた。  翌日の午後。  私が
last updateLast Updated : 2026-04-07
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第336話 総支配人の懇願

「どうしたの? 予約のお客様?」 「いえ、その……インペリアル・ドラゴン・ホテルの、総支配人様が……湊様に、どうしてもお会いしたいと……」  その言葉に、湊のキーボードを叩く手がピタリと止まった。  彼がゆっくりと顔を上げると同時に、オフィスの開いたドアの向こうから、ヨレヨレのスーツを着た、疲れ果てた初老の男性が、転がり込むように入ってきた。 「……湊様……ッ!」  かつて、湊の右腕としてホテルの現場を取り仕切っていた総支配人だ。  彼は湊の姿を認めるなり、その場に崩れ落ちるように両膝をつき、深く頭を下げた。 「総支配人……顔を上げてください。こんなところで、何をしているんですか」  湊の声は、温度を感じさせないほど冷淡だった。  しかし、床に額を擦り付けんばかりの総支配人の肩は、激しく震えている。 「どうか……どうか、お助けください……! このままでは、私たちのホテルが……九龍の看板が、地に落ちてしまいます……!」  悲痛な叫び声が、オフィスの空気を重く震わせた。 「剣吾社長は、私たちの声に一切耳を貸そうとしません。長年贔屓にしてくださっていたVIPのお客様が次々と離れ、現場のスタッフたちは疲弊しきって、退職者が後を絶ちません……。レストランの食材は質を落とされ、ロビーの生花すら造花に変えられてしまったのです……!」  総支配人の口から語られる惨状に、私は息を呑んだ。  あの、すべてが完璧に計算され、お客様への敬意に満ちていたインペリアル・ドラゴン・ホテルが、たった数週間でそこまで崩壊してしまっているなんて。 「湊様が去られてから、私たちは初めて気づいたのです。あなたが、どれほどの重圧を一人で背負い、このホテルをミリ単位の情熱で守り抜いてくださっていたかを……! どうか、もう一度戻ってきてください……! 現場のスタッフは皆、あなたを待っています!」  土下座をして泣き崩れる総支配人。  私は、思わず湊の顔を見た。  湊は、椅子に深く腰掛けたまま、冷ややかな視線で総支配人を見下ろしている。 「……僕はもう、九龍の人間ではない」  冷徹な一言が、総支配人の言葉を真っ向から切り捨てた。 「彼をCEOに据え、僕を追放したのは、役員たちと株主の総意だ。君たちも、それに黙って従ったはずだろう」 「そ、それは……」 「自分たちで蒔い
last updateLast Updated : 2026-04-08
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第337話 戻れない理由

 冷たく突き放したように見えた彼。  しかし、キーボードの上に乗せられた彼の両手は、指の関節が真っ白になるほど、固く、強く握りしめられていた。  彼が、自分が血と汗を流して育て上げたホテルが壊されていくのを、何とも思っていないはずがない。  あのホテルには、彼の魂の一部が残っているのだ。 「……湊」  私は、自分の椅子から立ち上がり、彼のもとへ歩み寄った。  そして、彼の手を覆うように、自分の手をそっと重ねる。  彼の拳は、微かに震えていた。  総支配人を引き止めたい気持ちと、湊が戻ればまた同じ場所で傷つくという恐れが、私の中でもぶつかっていた。重ねた手に返ってくる震えだけは、冷たい返事のどの言葉よりも正直だった。 「……今の九龍には、自浄作用がない」  湊が、パソコンの画面から目を逸らさずに、ポツリと呟いた。 「完全に崩壊しなければ、彼らは目を覚まさない。……僕が今中途半端に手を差し伸べても、龍一郎叔父上たちに再び利用されるだけだ」  彼の手が、私の手をきつく握り返してくる。 「……だが、僕の築き上げたホスピタリティの概念ごと、あんな素人どもに壊されるのは我慢ならない」  湊は、ゆっくりと顔を上げ、私を見た。  その瞳の奥には、確かな怒りと、そして新しい戦いに向けた鋭い炎が燃え上がっていた。  彼はマウスを操作し、パソコンの画面を切り替えて、私に見せた。 「……これを見てくれ」  画面に映し出されたのは、分厚い企画書の表紙だった。 『湾岸エリア・超大型リゾート開発コンペティション』 「来月、政府が主導する巨大なリゾート開発のコンペがある。……九龍が、ホテルの威信をかけて、総力を挙げて取りに来る案件だ」 「まさか……」  私は、画面のタイトルと、湊の顔を交互に見比べた。 「これに、私たちも出るの?」 「ああ。名もなきベンチャー企業、M&Aホールディングスとしてな」  湊の口元が、わずかに吊り上がり、あの不敵な笑みが浮かんだ。 「奴らは、政治家への裏工作とホテルの名前だけで勝てると思い込んでいる。……そこが、彼らの墓場になる」  彼の手が、私の腰を引き寄せ、強い力で抱きしめる。 「奴らの息の根を完全に止め、九龍の目を覚まさせる。……そして、僕たちのホテルの、第一歩を踏み出すんだ」 「……」  私は、彼の瞳の奥
last updateLast Updated : 2026-04-08
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第338話 控室へ続く廊下

 合同庁舎の大講堂へ続く廊下は、足音を吸い込むような分厚い臙脂色の絨毯が敷き詰められていた。  天井の蛍光灯は冷たく無機質な白い光を放ち、すれ違う人々の顔から血の気を奪っている。  私は、ダークグレーのタイトなスーツに身を包み、手元の分厚いファイルケースを抱え直した。革張りの取っ手が、じんわりと手汗で湿っている。  隣を歩く湊は、私の緊張など全く感じていないかのように、一定のリズムで革靴のヒールを鳴らしていた。  彼が纏っているのは、完璧なカッティングのミッドナイトブルーのスリーピーススーツ。ネクタイの結び目にはミリ単位の狂いもなく、微かに香るシトラスとウッドの香りが、張り詰めた空気を切り裂くように漂っている。 「……呼吸が浅いぞ、朱里」  前を向いたまま、湊が低い声で落とした。 「わかるの?」 「隣にいれば、君の呼吸のペースくらいわかる。……肩の力を抜け。書類の角が指に食い込んでいる」  私はハッとして手元を見た。  確かに、無意識のうちにファイルケースを強く握りしめすぎて、指の関節が白くなっていた。慌てて力を緩め、小さく息を吐き出す。 「だって、こんな国を挙げた超大型コンペ……。周りは大手ゼネコンや一流のホテルグループばかりよ。私たちみたいな、できたばかりのベンチャー企業が……」 「ベンチャー企業だが、中身は僕と君だ」  湊は足を止め、ゆっくりと私の方を向いた。  漆黒の瞳が、廊下の白い光を反射して鋭く輝いている。 「君が現場で培ってきた顧客への徹底したホスピタリティ。それを僕のロジックでハードウェアに落とし込んだ。このプランに隙はない。……それに」  湊の大きな手が、私の冷え切った指先にそっと重なった。  スーツの袖口から覗く彼の手首の熱が、私の皮膚の表面をじんわりと温めていく。 「僕たちは、失うものが何もない。守るべき既得権益も、顔色を窺うべき無能な役員もいない。……純粋に、最高のものを提示するだけだ」 「湊……」 「信じろ。君が監修したプランを。そして、僕を」  指の間に彼の指が滑り込み、ギュッと強く握られた。  その確かな圧力と体温に、胃の底に澱んでいた冷たい緊張が、少しずつ熱を帯びて溶けていくのがわかった。 「……うん。信じてる」  私が顔を上げて頷くと、湊は満足げに口の端をわずかに上げ、手を離した。
last updateLast Updated : 2026-04-09
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第339話 看板のない挑戦

 派手なストライプのシャツに、ブランドのロゴがデカデカと入ったジャケット。  剣吾だ。  その後ろには、佐倉専務をはじめとする九龍グループの役員たちが、まるで金魚のフンのように付き従っている。  そして、彼らの中心には、柔和な笑みを浮かべた龍一郎さんが、静かに杖をついて立っていた。 「……おや。これは奇遇だね、湊。それに、朱里さんも」  龍一郎さんが、目尻のシワを深くして微笑む。  その声は相変わらず滑らかで、温かみすら感じさせるが、瞳の奥には氷のような冷気が渦巻いていた。 「なんだ、お前。こんなところで何してるんだよ?」  剣吾が、私たちを小馬鹿にするように顎をしゃくった。 「インペリアルのCEOをクビになって、今度は清掃業の営業でも始めたのか? 悪いな、うちのホテルはもうお前の会社なんか使う気はないぜ」  役員たちから、愛想笑いのような薄ら笑いが漏れる。  私は奥歯を強く噛み締めた。  口を開きそうになった私を、湊の腕がスッと前に出て制した。 「……ご心配なく。清掃業ではなく、リゾート開発のプレゼンに来たまでです」  湊の声は、一切の感情を削ぎ落とした、絶対零度のトーンだった。 「はぁ?」  剣吾が、大げさに目を丸くして肩を揺らした。 「プレゼン? お前が? たった数人で立ち上げた名もなき会社で、この国家プロジェクトのコンペに出るってのか? ハハハッ、冗談だろ!」  剣吾の笑い声が、廊下に響き渡る。 「お前、自分がCEOだった頃の権力がまだ残ってるとでも勘違いしてんのか? このコンペはな、資本力と『コネ』が全てなんだよ。お前みたいな無一文のベンチャーが、口を挟める余地なんか一ミリもねえんだよ」  剣吾の言葉に、佐倉専務が追従するように頷く。 「湊さん……お引き取りになった方が身のためですよ。恥をかくだけです」  湊は、彼らの嘲笑をまるで羽虫の羽音でも聞くかのように、完全に無視していた。  彼の視線は、剣吾の後ろで静かに微笑んでいる龍一郎さんだけに向けられている。 「……恥をかくのがどちらか。それは、この後の審査員たちの判断に委ねましょう」  湊の言葉に、龍一郎さんの笑顔がほんの数ミリ、引きつったように見えた。 「……強がりは相変わらずだね、湊。だが、現実というものは残酷だよ」  龍一郎さんが、杖をコツリと床に
last updateLast Updated : 2026-04-09
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第340話 金と大理石の夢

「……負け犬が、吠えやがって」  背後から投げつけられた剣吾の毒づく声を背に、私たちは控室のドアを開けた。  大講堂の内部は、すり鉢状の巨大なホールになっていた。  中央の演台に向かって、審査員席が扇形に配置されている。  政治家、官僚、都市開発の専門家、そして各界の有識者たち。彼らの表情は一様に硬く、手元の資料をめくる紙の音だけが、マイクのノイズに混じって響いている。  私たちは、最後列の待機席に座り、各社のプレゼンテーションを見守った。  やがて、司会者のアナウンスが響く。 「続きまして、九龍グループ、九龍剣吾社長によるプレゼンテーションです」  会場の空気が、少しだけ動いた。  やはり、業界最大手の九龍グループに対する注目度は高い。  剣吾が、自信満々な足取りで演台に立つ。  背後の巨大なスクリーンに、九龍グループのロゴが派手に映し出された。 「皆様、九龍グループCEOの九龍剣吾です。我々が提案する湾岸リゾート『インペリアル・オーシャン・パレス』は、これまでの日本のリゾートの常識を覆す、圧倒的なラグジュアリー空間をお約束します」  剣吾のプレゼンが始まった。  スクリーンには、金と大理石をふんだんに使った巨大なカジノ施設、海を見下ろす超高層のタワーホテル、そして海外の有名ブランドのショッピングモールが、派手なCGで次々と映し出されていく。 「総工費五千億円。我々の圧倒的な資本力と、海外の巨大ゼネコンとの提携により、この夢のプロジェクトを現実のものとします。さらに……」  剣吾は、審査員席の一部に向かって、意味ありげな視線を送った。 「このプロジェクトがもたらす経済波及効果と、地元への『還元』は、皆様のご期待に必ずや沿うものになると確信しております」  還元。  その言葉の裏にある、生々しい利権とコネの匂い。  審査員席の一部で、数人の政治家や官僚が、小さく満足げに頷くのが見えた。 「……相変わらず、下品なプレゼンだ」  隣に座る湊が、腕を組んだまま低く吐き捨てた。 「ハードウェアの豪華さだけで客を呼べると本気で信じている。顧客の動線も、景観との調和も完全に無視されている。……あんなものは、ただの成金趣味の巨大な箱だ」  確かに、スクリーンの映像は豪華絢爛だったが、どこか息苦しさを感じた。  人がそこで「休む」姿
last updateLast Updated : 2026-04-09
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