All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 291 - Chapter 300

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第291話 九龍の血③

 湊は、テーブルの上の紙を冷たい目で見下ろした。「この紙切れ一枚で、僕の足元は簡単に崩れ去る。剛造からグループを守り抜いた実績も、経営手腕も、すべてが『血の繋がりがない部外者』というレッテル一枚で紙屑になる。……僕には、九龍を名乗るアイデンティティが、初めから存在しなかったんだ」「……違うわ」 志保さんが、震える声で呟いた。 彼女は、湊の目の前に立ち、その広い肩を両手で強く掴んだ。「あなたが宗一さんに似ていないのは、血が繋がっていないからじゃない。私たちが……由理子さんと、宗一さんと、私が。あなたを宗一さんのように『優しく』育てなかったからよ」 湊の目が、わずかに見開かれる。「父さんが、優しい……?」「ええ。宗一さんは、本当に心根の優しい人だった」 志保さんは、ゆっくりと手を下ろし、窓の外の白みゆく空を見つめた。 その横顔には、長年抱え込んできた一族の業の深さが刻み込まれているようだった。「先代の当主……宗太郎お義父様は、絶対的な権力者だったわ。でも、その後継ぎとして生まれた宗一さんは、生まれつき体が弱く、争いごとを何よりも嫌う人だった。誰かを蹴落としてまで上に立ちたいという野心なんて、これっぽっちも持っていなかった。由理子さんは、そんな彼の優しさを心から愛していたわ」 志保さんの声が、静かな客間に溶け込んでいく。「でも、由理子さんはあなたを産んだ後、病に倒れて亡くなってしまった。宗一さんの悲しみは深く、元々弱かった身体はさらに衰弱していったわ。……周囲には、剛造をはじめとする、当主の座を狙う狼たちがひしめいていた。妻を亡くし、病床に伏せる当主と、まだ幼い跡取り息子。彼らにとって、これほど格好の餌食はなかった」 志保さんは、自分の両腕を抱き抱えるようにして言葉を続ける。「だから、私は宗一さんと再婚したの。親友だった由理子さんの忘れ形見であるあなたと、彼女が愛した宗一さんを、剛造たちの魔の手から守るために。&hellip
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第292話 九龍の血④

 志保さんの目が、湊を真っ直ぐに捉える。「湊。由理子さんも、宗一さんも、あなたに求めたのは血の純潔なんかじゃない。どんな逆境にも負けず、剛造たちのような狼に食い殺されないための、確かな『強さ』よ。お義母様も同じ。だからこそ、あの地下室の鍵をあなたに託したの。龍一郎がどんな卑劣な偽造書類を用意していようとも、あなたがこの事実に打ち勝てると信じたからよ!」 しかし、その強い言葉を聞いても、湊の表情はすぐには晴れなかった。 湊はゆっくりと首を横に振り、ソファの背もたれに力なく寄りかかった。「……強さ、か」 口角がわずかに上がり、自嘲するような冷たい笑みがこぼれる。「血という確固たる大義名分がなければ、そんな強さは砂上の楼閣に過ぎない。龍一郎叔父上たちがこの事実を公表すれば、インペリアル・ドラゴン・ホテルの株主たちは一斉に離れるだろう。僕には、彼らを力でねじ伏せるだけの『盤面』が残されていない。戦う前から、勝敗は決しているんだ」 湊の言葉は、恐ろしいほどに冷静で、論理的だった。 だからこそ、絶望の深さを物語っていた。 完全に戦う意志を喪失しているわけではない。だが、冷徹なCEOとしての計算が、彼に「勝機はゼロである」と冷静に告げているのだ。 これまで自分を支え続けてきた根幹が揺らぎ、彼は自分が立つべき足場そのものを失ってしまったのだ。「そんなこと、言わないで」 私はたまらず歩み寄り、湊の隣に腰を下ろした。 そして、彼の膝の上で固く組まれた手を取り、私の両手でしっかりと包み込む。 氷のように冷たい指先。「あなたがインペリアル・ドラゴン・ホテルを世界一のホテルにするって、あの夜、私に語ってくれた夢は? あれも全部、無意味になっちゃうの?」「……朱里」 湊の漆黒の瞳が、力なく私を映し出す。「僕は、君をこれ以上の泥沼に巻き込みたくない。九龍の大義名分を失った僕には、君を安全に守る力すらないかもしれないんだ。龍一郎叔父上は、剛造よりもずっと狡猾で残酷だ。君にまで危害が及ぶ前に……」
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第293話 九龍の血⑤

 頬から伝わる私の体温に、湊の指先がピクリと動いた。 彼は深く息を吸い込み、私の頬に触れている自分の手を、ゆっくりと、確かめるように滑らせた。 親指の腹が、私の目尻に滲んだ涙をそっと拭う。 その指先の微かなざらつきが、彼がこれまで積み上げてきた確かな努力の証だった。「……君は、本当にずるいな」 ひどく掠れた、かすかな声。 湊は、私の手から自分の手をゆっくりと引き抜くと、ソファから静かに立ち上がった。「湊……?」「少しだけ、一人にしてくれないか」 湊は、振り返らずに言った。 広い背中が、重圧に耐えるようにピンと張り詰めている。「負けを認めたわけじゃない。ただ、盤面がひっくり返った以上、新しい戦略を構築し直すための時間が欲しい。……彼らの思い通りには、絶対にさせない」 その声には、先程までの完全な絶望とは違う、静かで冷ややかな理性の光が戻り始めていた。 彼は足を引きずることもなく、確かな足取りで、客間の奥にある小さな書斎スペースへと向かった。 扉が静かに閉ざされる。 カチャリ、というラッチの音が、私の胸の奥に小さく響いた。 客間に残されたのは、私と志保さん、そしてローテーブルの上の鑑定書だけだった。 志保さんは、力なく椅子に座り込み、深くため息をついた。「……由理子さん。宗一さん。どうか、あの子をお守りください……」 祈るような呟きが、静かな部屋に漏れ出す。 私は、テーブルの上の鑑定書を見つめた。 黄ばんだ紙、かすれたインク。 これが偽造であるという確証はない。だが、志保さんの言う通り、両親の愛情と、湊が積み上げてきた実績は、こんな紙切れで消え去るような軽いものではないはずだ。 窓の外では、完全に夜が明け、朝の冷たい光が本邸の庭の木々を照らし始めていた。 私は、冷めきったコーヒーの入ったマグカップを両手で包み込み、窓辺へと歩み寄る。
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第294話 柔和な悪魔①

 東京の空を厚く覆っていた雲がわずかに切れ、白々とした朝日がビル群の無機質な輪郭を縁取り始めていた。 外資系最高級ホテル『ザ・グランド・ルミエール』の、最上階ペントハウス・スイート。 インペリアル・ドラゴン・ホテルと双璧をなすと言われるそのホテルの最上級客室は、足首までふわりと沈み込むようなクリーム色の絨毯と、豪奢なクリスタルシャンデリア、そして磨き上げられたマホガニー材のアンティーク家具で統一されていた。 壁一面に広がるパノラマウィンドウの向こうには、朝靄に煙る東京の街並みが、まるで精巧に作られたジオラマ模型のように広がっている。 高い天井に設置された最新の空調設備は、微かな音すら立てずに、肌に最も心地よい完璧な室温を保っていた。 ピンポーン、と。 控えめで上品なチャイムの音が、静かなスイートルームの空気を震わせた。「どうぞ。開いていますよ」 ダイニングテーブルの前に座っていた初老の男――九龍龍一郎が、穏やかな、耳に心地よいバリトンボイスで応えた。 重厚な扉が静かに開き、純白の制服に身を包んだ若い女性スタッフが、朝食を載せた銀色のワゴンを恭しく押し入れてくる。 彼女の表情には、このホテルで最も高額な部屋の、しかも長期滞在のVIP客の担当になったことへの、隠しきれない極度の緊張が張り付いていた。 ワゴンが小さな車輪の音を立てて、ダイニングテーブルの横に止められる。「おはようございます。ルームサービスの朝食をお持ちいたしました。……本日は、黒トリュフのオムレツと、自家製クロワッサン、そして特上のダージリンティーでございます」 彼女の声は、微かに上擦っていた。 磨き上げられた銀食器をテーブルに並べる手元が、かすかに震えている。カチャリと、フォークとナイフが不意に触れ合う小さな音が鳴ってしまい、彼女は「申し訳ございません」と顔を青ざめさせ、深く頭を下げた。「いやいや、謝ることはありませんよ。誰にでも緊張する朝はあります」 龍一郎は、ふわりと柔和な笑みを浮かべ、わざわざ椅子から立ち上がった。 仕立ての良いネイビーのシルクガウンを羽織り、白髪
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第295話 柔和な悪魔②

「これは、ほんの気持ちです。あなたのその素敵な笑顔に」 龍一郎は、ガウンのポケットからスマートに折り畳まれた一万円札を数枚取り出し、彼女の胸のポケットにそっと滑り込ませた。 チップの額に驚き、彼女は何度も深く頭を下げた。「ほ、本当にありがとうございます! ごゆっくりお召し上がりくださいませ!」 彼女は、入ってきた時の極度の緊張が嘘のような、明るく弾んだ足取りでワゴンを引き、部屋を後にした。 扉が静かに閉まる。 ガチャリというラッチの音を確認してから。 龍一郎は、ゆっくりとダイニングテーブルの席に戻り、純白のナプキンを膝の上に広げた。 そして、白磁のティーカップの繊細な取っ手を指先でつまみ、静かに口へと運ぶ。 琥珀色の液体が喉を通る。 微かに立ち上るダージリンの香り。 しかし、一口飲んだ直後、龍一郎の柔和な目尻のシワが、ほんのわずかにピクリと動いた。「……どうしたの、親父」 奥のベッドルームから、派手な柄のシルクのパジャマを着た長身の男――剣吾が、大きなあくびをしながらリビングへと歩いてきた。 彼は寝癖のついた明るい茶色の髪を無造作に掻き乱しながら、ダイニングチェアにどさりと腰を下ろす。「いや」 龍一郎は、ティーカップをソーサーの上に音を立てずに戻した。「……少し、お湯の温度が低かったようだね。それに、他の部屋を回るのに時間がかかったのか、茶葉を蒸らしすぎている。ダージリン特有の渋みが、不快な形で舌の奥にへばりつく」「ははっ、相変わらず舌が肥えすぎてるねぇ。ルームサービスにそこまで求めるのは酷ってもんだよ」 剣吾は呆れたように笑いながら、バスケットに入ったクロワッサンを無造作に掴み、かじりついた。サクサクとした生地が崩れる音が響く。「クレームでも入れる? さっきのビビってたねーちゃん、泣いちゃうかもね」「まさか。そんな無粋なことはしないよ。彼女は一生懸命やっていた。ただ、プロとしての自覚が少し足りなかっただけだ」 龍一郎は、口元をナプキンで優雅に拭
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第296話 柔和な悪魔③

「なるほど。実家は小さな金属加工の町工場で、彼女自身は多額の奨学金を借りてこのホテルに就職した……苦労人なんだね。感心だ」 龍一郎は、冷めた紅茶の表面を見つめながら、言葉を続けた。「その父親の工場、メインバンクはどこだい? ……ああ、うちのファンドが資本提携している地方銀行か。それは都合がいい」 剣吾が、クロワッサンを咀嚼する手を止め、面白そうなものを見る目で父親を見つめた。「その工場の融資、今日の午後一番で全額引き揚げるように指示を出してくれないか」 龍一郎の口から出た言葉は、恐ろしいほどに滑らかだった。 電話の向こうの相手が、明らかな戸惑いを見せているのが、漏れ聞こえる声からわかる。「理由? 理由などないよ。ただのポートフォリオの見直しだ。連帯保証人である彼女の奨学金についても、一括返済を求めるように回収業者に手を回してくれ」 龍一郎は、窓の外の東京の街並みに視線を向けた。「若い人間には、本当の意味での『挫折』が必要だ。家業が傾き、莫大な借金を背負う。そのどん底を味わって初めて、彼女は一杯の紅茶を淹れるという行為の重みを知る。……これは、私からの彼女の未来への『教育』であり、ささやかな投資だよ」 通話を切り、スマートフォンをテーブルに置く。 龍一郎の顔には、一片の罪悪感も、怒りもない。 ただ、近所の子供に飴玉をあげた後のような、清々しく、心底優しい好々爺の笑顔が貼り付いていた。「親父、相変わらずえげつないねぇ」 剣吾が、肩をすくめて軽い調子で言った。 人の人生が一つ、紅茶の蒸らし時間が少し長かったというだけの理由で、笑顔のまま地獄へと叩き落とされた。 しかし、剣吾の顔にも同情の色はない。むしろ、父親のその常軌を逸した残酷さを、極上のエンターテインメントとして楽しんでいるような、無邪気な顔だった。「えげつないとは心外だな。私は常に、彼らの成長を願っているだけだよ」 龍一郎は、もう一口、渋みの増した紅茶をゆっくりと飲んだ。「力でねじ伏せようとするから、人
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第297話 柔和な悪魔④

 龍一郎の目が、そのタワーの頂上付近を鋭く捉える。「今頃、湊はあの本邸の地下室で、自らの存在意義を失って絶望の底にいるはずだ」「それにしても、二十五年前の仕掛けが、今になって役に立つとはね」 剣吾が、オレンジジュースのグラスを揺らしながら笑う。「由理子さんが、他の男の子供を産むわけがないのに。あの真面目でお堅い女が、宗一以外の男に股を開くなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない。だが……」 龍一郎は、くっくと喉の奥で笑い声を漏らした。「九龍の人間は、血の純潔という自らが作り上げたルールに縛られすぎている。だからこそ、あの『0パーセント』という無機質な数字を突きつけられた時、彼らは思考を停止し、勝手に絶望してくれる。実に滑稽だ」 二十五年前。 病弱だった宗一が、由理子の後を追うように亡くなった直後の、九龍家が深い混乱の渦にあった時期。 龍一郎は、海外へ拠点を移す直前に、本邸の地下室にある金庫へとアクセスした。 元々そこに入っていたのは、宗一が湊を正当な後継者として認めるという、愛情に満ちた確かな遺言状と、湊の正当な血液型の記録だった。 龍一郎はそれを跡形もなく燃やし捨て、代わりに、海外の闇ルートで精巧に偽造させた『DNA鑑定書』と、由理子の筆跡を完璧に模倣した『懺悔の手紙』をすり替えておいたのだ。 いつか、この強固な一族の内部に亀裂を入れるための、時限爆弾として。「でもさ、なんでその時にすぐ使わなかったの?」 剣吾が、残りのクロワッサンを口に放り込みながら尋ねた。 その問いに、龍一郎はフォークでトリュフのオムレツを小さく切り分けながら、目を細めた。「あの時の九龍は、まだ国内の中堅ホテルグループに過ぎなかった。私がわざわざ手を汚して手に入れるには、少しばかり果実が小さすぎたんだよ」 龍一郎は、切り分けたオムレツを口に運び、ゆっくりと咀嚼した。 完璧な温度で調理された卵の甘みと、トリュフの芳醇な香りが鼻に抜ける。「剛造や華枝、そして次期当主の重圧を背負った湊という『働き蜂』たちに、死に物狂いで九龍を世界規模の『イン
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第298話 柔和な悪魔⑤

「お前も、まだ若いな」 龍一郎は、優雅に口元を拭いながら笑った。「歳には勝てないということさ。……まあ、少しばかり『心労』がかかるような分家の不穏な動きや裏の情報を、彼女の主治医を通じて耳に入れたのは私だがね」 直接手を下すような真似はしない。 だが、高齢の華枝の心臓に負担をかけるような情報を、最も効果的なタイミングで、最も信頼している人間の口からわざと漏らさせる。 疑心暗鬼と極度のストレス。 それが、老いた心臓の鼓動を狂わせるには十分な劇薬となる。「あの老犬も、もう寿命だ。湊という最後の牙を失えば、一族の未来に絶望し、そのまま息を引き取るだろう」「湊が自ら当主の座を降りたら、あとは俺の時代だね」 剣吾が、背もたれに深く寄りかかり、足を投げ出して天井を見上げた。「インペリアル・ドラゴン・ホテル。世界一のホテルチェーン。親父が裏のファンドを回して、俺が表のCEOとして君臨する。剛造のジジイが何十年かけてもできなかったことを、俺たちはたった数日で成し遂げるんだ。湊が必死こいて育てた果実を、丸かじりしてやる」「そうだ。九龍のすべてが、本来あるべき私たちの手に戻ってくる」 龍一郎はゆっくりと立ち上がり、再びパノラマウィンドウの前に立った。 眼下に広がる無数の人々の営みを見下ろす。 蟻のように這い回る車。急ぎ足で歩く小さな人々。 彼にとって、この世界の人間はすべて、自分の盤上の駒でしかなかった。「湊には、あの可愛らしいお嬢さん……朱里くんと一緒に、すべてを失った泥水の中で、永遠に愛でも語らせておけばいい。血という盾を失った彼が、あの残酷な一族の中でどれだけ惨めに石を投げられるか……見物だね」 龍一郎は、ガラスに映る自分の顔に向かって、この上なく優しく、そして慈愛に満ちた笑みを浮かべた。 昨日、湊の執務室で見せたあの顔と同じ。 一切の悪意を感じさせない、完璧な好々爺の仮面。「さて。あの子がいつ白旗を上げに来るか……今から楽しみ
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第299話 分家の乗っ取り①

 時計の針が、午前十時を少し回った頃だった。 本邸の広大なエントランスに、砂利を重く踏みしめる複数のタイヤ音が響き渡った。 静まり返っていた屋敷の空気が、微かな振動とともに揺れる。 私は、キッチンで来客用のお茶の準備をしていた手をピタリと止めた。 窓越しに見える車寄せには、黒塗りの高級セダンが三台、連なるようにして停まっている。 そこから降りてきたのは、仕立ての良いグレーのスリーピーススーツを着こなした龍一郎さんと、派手な柄のシャツに身を包んだ剣吾さんだった。 しかし、彼ら二人だけではない。 その後ろからは、見慣れた顔ぶれが次々と降りてきた。インペリアル・ドラゴン・ホテルグループを支える主要な役員たちだ。専務や常務たち数名が、龍一郎さんの背後に付き従うようにして歩いている。 その光景を見た瞬間、私の背筋に冷たい水が流れ落ちた。 嫌な汗が、首筋にじわりと滲む。「……来たか」 キッチンの入り口に、ダークネイビーのスーツに着替えた湊が立っていた。 あの地下室で絶望に打ちのめされていた姿は、表面的には完全に消え去っている。乱れていた髪は整えられ、ネクタイの結び目もミリ単位で完璧だ。 しかし、その顔色は依然として青白く、目の下には深い疲労の影が落ちていた。「湊……」「朱里、お茶を出してやってくれ。数は六つだ」 湊の声は、感情の起伏を一切削ぎ落とした、無機質なトーンだった。 彼はそのまま踵を返し、足音を忍ばせて応接間へと向かっていく。その後ろ姿は、見えない強固な鎧を必死に身に纏おうとしているように見えた。 数分後。 本邸で最も広い、重厚なマホガニー材の家具で統一された応接間。 私は、お盆に乗せた九谷焼の湯呑みを、テーブルを囲む男たちの前へ音を立てないように置いていった。 上質な玉露の香りが立ち上るが、部屋の空気は息が詰まるほど重く、誰もそのお茶に手を伸ばそうとはしない。 湊の隣には、着物姿の志保さんが座っている。彼女の膝の上で組まれた両手は、白くなるほど強く
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第300話 分家の乗っ取り②

「それで……叔父上が、わざわざ役員たちを引き連れて本邸にいらした用件は、祖母の容態確認だけですか」 湊の鋭い視線が、龍一郎さんの隣に座る役員たちを射抜いた。 視線を向けられた佐倉専務が、ビクッと肩を跳ねさせ、気まずそうに目を伏せる。「ははっ、相変わらずせっかちだな、湊は」 剣吾さんが、鼻で笑うように口を挟んだ。「お前も大変だねぇ。ばあさんが倒れて、グループの経営も不安定になって。一人で全部背負い込んで、さぞかし胃が痛いだろう?」「剣吾、茶化すものではないよ。湊は一生懸命やっているんだ」 龍一郎さんが息子を軽く嗜め、再び湊へと向き直った。「実はね、湊。今日こうして皆さんに集まってもらったのは、九龍の未来に関わる、非常に重要なお話をするためなんだ」 龍一郎さんは、傍らに置いていた最高級の革の鞄に手を伸ばした。 カチャリ、と金属の留め金が外れる音が、静まり返った応接間に異様に大きく響く。「私は長年、海外で事業を行ってきたが……常に九龍という一族の行く末を案じていた。剛造兄さんが強引な手に出た時も、心を痛めていたんだよ。そして、ある一つの『事実』を、長年胸の奥にしまい込んできた」 龍一郎さんの手から取り出されたのは、薄いクリアファイルだった。 中に挟まれているのは、一枚のコピー用紙。 それを見た瞬間、湊の呼吸がピタリと止まり、隣に座る志保さんの顔からサッと血の気が引いた。「皆さんに、見ていただきたいものがあってね」 龍一郎さんは、そのクリアファイルを、ローテーブルの中央へと滑らせた。 役員たちの視線が一斉にその紙に集まる。 そこに印字されていたのは、昨夜私たちが地下室で見たあの黄ばんだ紙と全く同じ内容の、無機質な文字列だった。『DNA多型分析に基づく父子関係鑑定書』『被検者A(九龍宗一)と被検者B(九龍湊)の間において、生物学的な父子関係は否定される。父権肯定確率は0パーセントである』 ゴクリ、と。 誰かが生唾を飲み込む音が聞こえた。「こ
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