All Chapters of 復讐のために彼をレンタルしたら、まさかのCEOに溺愛契約で雇われました: Chapter 341 - Chapter 350

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第341話 海辺の提案

「続きまして……株式会社M&Aホールディングス、九龍湊代表のプレゼンテーションです」  司会者の声に、会場がざわめいた。 「九龍湊? あの、元インペリアルのCEOか?」 「なぜ彼が、こんな無名のベンチャーから……」  好奇と疑念の視線が、一斉に湊へと突き刺さる。  湊は、全く動じることなく、演台の前に立った。  私は、彼の少し斜め後ろ、スクリーンを操作する位置に待機する。  会場の照明が落ち、スクリーンに静かな映像が映し出された。  それは、剣吾のような派手なCGではない。  朝靄に包まれた静かな海辺、そこを散歩する老夫婦の後ろ姿。  波の音と、鳥のさえずりが、会場のスピーカーから微かに流れる。 「……皆様。リゾートとは、何でしょうか」  湊の低く、よく通る声が、ざわめきを瞬時に鎮めた。 「巨大なカジノ? 大理石のロビー? 海外ブランドのショッピングモール? ……確かに、それらは非日常を演出する要素の一つかもしれません。しかし、我々が本当に求めている『休息』とは、そのようなものでしょうか」  湊の視線が、審査員たちをゆっくりと見渡す。  その目は、コネや権力で動く人間たちを射抜くように、鋭く、そして深い。 「私たちが提案する『オーシャン・テラス・ヴィレッジ』は、自然の景観を最大限に生かした、低層のヴィラ群を主体とします。巨大なハコモノで自然を破壊するのではなく、自然の中に人間がお邪魔する。……それが基本理念です」  私がタブレットを操作し、スライドを切り替える。  海辺の地形に沿うように配置された、木とガラスを基調とした温かみのあるヴィラのデザイン。 「しかし、ただの自然回帰ではありません。ここからが、我々の真価です」  湊の声が、熱を帯びていく。 「各ヴィラには、最新のAIによる環境制御システムを導入しますが、それを運用するのは徹底的なトレーニングを受けた『人間』です。……我々は、施設としての豪華さではなく、『パーソナライズされた体験』に徹底的に投資します」 「パーソナライズされた体験?」  一人の審査員が、興味深そうに身を乗り出した。 「はい。例えば、ご家族連れのお客様には、子供の年齢や興味に合わせた専属のコンシェルジュが自然体験プログラムを構築します。ご高齢のご夫婦には、専属の医療スタッフと連携し、身体に負担のな
last updateLast Updated : 2026-04-10
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第342話 会場を満たす拍手

 それを、湊の圧倒的なロジックと、完璧な収益モデルのデータが裏付けていく。 「このモデルは、初期投資を抑えながらも、リピート率と顧客単価を劇的に向上させます。また、地元の漁業や農業と直接契約を結び、地域経済と共存するエコシステムを構築します。……一部の企業だけが利益を独占するのではなく、この土地全体が豊かになる仕組みです」  スクリーンに表示される、緻密で隙のない収益予測グラフ。  剣吾のプレゼンにあったような、どんぶり勘定のバラ色の予測ではない。  ミリ単位で計算し尽くされた、現実的で、かつ爆発的な利益を生む可能性を秘めた数字の羅列。  審査員たちの目の色が変わったのがわかった。  手元の資料をめくる手が止まり、身を乗り出して湊の言葉に聞き入っている。  コネで動いていたはずの審査員でさえ、湊の提示した圧倒的な「価値」と「利益」の前に、反論の余地を失っていた。 「……真のホスピタリティとは、相手の心に踏み込み、その温度を感じ取ることです」  湊の声が、少しだけ優しく響いた。  彼が、私の方をちらりと見た。  その瞳の奥にある、確かな愛情と信頼の光。 「冷たい大理石の床や、金で飾られた壁では、人の心は温まらない。人の心を動かせるのは、同じ人の温もりだけです。……我々M&Aホールディングスは、その温もりを、最高の空間とサービスとして皆様にご提供することをお約束します」  湊が深く頭を下げた。  一瞬の完全な静寂。  そして――。  ワァッ、と。  会場から、先ほどの剣吾の時とは全く違う、地鳴りのような拍手が湧き起こった。  それは義理の拍手ではない。湊のプレゼンに魂を揺さぶられ、その圧倒的なプランに感服した者たちの、心からの賞賛だった。  審査員たちが、互いに顔を見合わせ、興奮気味に頷き合っている。  私は、震える手でタブレットを胸に抱きしめ、湊の広い背中を見つめた。  鼻の奥がツンと熱くなり、視界が滲む。  やった。  彼は、自分の力で、自分の言葉で、この会場の空気を完全にひっくり返したのだ。  控室に戻る通路で、私たちは九龍グループの一団と再び鉢合わせた。  剣吾の顔は、真っ赤に紅潮し、怒りで引き攣っていた。 「ふ、ふざけんな! あんな貧乏くさいプランで、俺たちに勝てるとでも思ってんのか!」  剣吾が、唾を飛ば
last updateLast Updated : 2026-04-10
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第343話 夕暮れの手応え

「なっ……!」  剣吾が絶句し、ワナワナと唇を震わせる。  湊の言う通りだ。これだけ公の場で、圧倒的な実力の差を見せつけられてしまえば、どんな裏工作も意味をなさない。 「……見事なプレゼンだったよ、湊」  龍一郎さんが、杖をつきながらゆっくりと前に出た。  その顔には、先ほどまでの余裕の笑みは消え去り、無機質な、能面のような冷たさが張り付いていた。 「だが、ビジネスは結果がすべてだ。まだ勝敗は決していないよ」 「ええ。そうですね、龍一郎叔父上」  湊は、一切怯むことなく、龍一郎さんを真っ直ぐに見据え返した。 「……結果を、楽しみに待ちましょう」  湊は私に顎で合図をし、彼らに背を向けて歩き出した。  剣吾の「クソッ!」という怒鳴り声と、壁を殴る鈍い音が背後から聞こえたが、湊は一度も振り返らなかった。  合同庁舎の外に出ると、空はすっかり夕暮れの色に染まっていた。  オレンジ色の夕日が、霞が関のビル群の影を長く伸ばし、道路を金色に照らしている。  冷たい夕風が、火照った頬を心地よく撫でていく。 「……湊」  私は、彼の隣を歩きながら、そっと声をかけた。 「ん?」 「お疲れ様。……最高のプレゼンだったよ」  私が微笑むと、湊は足を止め、私を見下ろした。  その瞳の奥で、張り詰めていた緊張の糸がふっと緩むのがわかった。 「……君のプランのおかげだ。君がいなければ、あの審査員たちの心を動かす言葉は出てこなかった」  湊の大きな手が、私の右手をそっと包み込んだ。  少し冷え切った彼の手のひらが、私の指先の熱を吸い込むように、ギュッと強く握りしめられる。 「……怖かったか?」 「ううん。あなたがいたから」 「……僕もだ」  湊は、私を自分のコートの影に隠すように引き寄せた。 「君の呼吸の音が聞こえていたから、僕は迷わずに話すことができた。……君は、僕の最高のパートナーだ」  彼の唇が、私の額にそっと落ちる。  微かに香る、彼自身の体温とシトラスの匂い。  スーツ越しに伝わる硬い胸板の感触が、戦いを終えた安堵感とともに、私の胸の奥をジンジンと温めていく。 「さあ、帰ろう。……結果が出るまで、僕たちの城で祝杯を上げようか」 「うん。特売のお肉で、すき焼きにしようね」  私が笑って言うと、湊は呆れたように小さく吹き出
last updateLast Updated : 2026-04-10
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第344話 結果を待つ朝

 コンロの青い炎が、テフロンの剥げかけたフライパンの底を舐める。  ジューッという湿った音とともに、バターが黄金色の泡を立てて溶けていく。そこに溶き卵を流し込むと、甘く焦げた匂いが換気扇の低い唸り声に吸い込まれ、十畳のリビングダイニングキッチンに充満した。  菜箸で手早くかき混ぜ、半熟のオムレツを皿に移す。  トースターがチンと軽快な音を鳴らした。  焼きたての食パンの香ばしい匂い。いつもと変わらない、平和な朝の食卓の風景。  けれど、背中越しに感じるリビングの空気は、ピンと張り詰めたピアノ線のようだった。  振り返ると、湊は狭いテーブルの上に広げたノートパソコンの画面を、瞬きすら忘れたかのように凝視していた。グレーのスウェット姿のまま、マグカップのコーヒーには一切口をつけていない。液面は完全に静止し、湯気もすでに消え失せている。 「……湊、朝ごはんできたよ。冷めちゃう前に食べて」  皿をテーブルに置くと、彼はビクッと肩を跳ねさせた。 「ああ。……ありがとう」  返事はしたものの、視線は画面から一ミリも動かない。キーボードに乗せられた長い指先が、微かに震えているように見える。  無理もない。  今日は、あの湾岸エリアの超大型リゾート開発コンペティションの、結果発表の日だ。  私たちM&Aホールディングスにとって、これが単なるコンペではないことは嫌というほどわかっていた。マダム・リウからの巨額の出資には、交渉を詰める過程で「このプロジェクトを獲得するだけの実力があれば」という条件が付いていた。  負ければ、出資は白紙。会社は立ち上げ早々、干上がる。  圧倒的な手応えはあった。審査員たちのあの熱狂的な拍手、料亭で見たマダム・リウの満足げな笑み。勝てる要素は十分に揃っている。  それでも、結果が出るまでのこの空白の時間は、首に冷たい刃を当てられているような息苦しさがあった。 「……コーヒー、淹れ直すね。すっかり冷たくなってる」  私がマグカップに手を伸ばそうとした、その瞬間だった。  ブブブブッ。  テーブルの上に置かれていたスマートフォンのバイブレーションが、静寂を鋭く切り裂いた。  湊の動きが完全に止まった。  画面には、見知らぬ市外局番が表示されている。  ごくりと生唾を飲み込む音が、やけに大きく聞こえた。  湊は、ゆ
last updateLast Updated : 2026-04-11
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第345話 覆された審査

 外の道路を走り抜けるトラックの走行音が、不自然なほど遠くに感じられた。 「……湊?」  恐る恐る声をかけると、彼はゆっくりと私の方へ顔を向けた。  漆黒の瞳から、光が完全に消え失せている。 「……落ちた」  掠れた、砂を噛むような声だった。 「え……?」 「我々のプランは、採用されなかった」  頭を鈍器で殴られたような衝撃。  落ちた? あのプレゼンで? あんなに審査員たちを熱狂させておいて? 「そんな……嘘でしょ? だって、あんなに手応えがあったのに。どこがダメだったの?」  湊は、自嘲するように口の端を歪めた。 「『実現可能性に乏しい』だそうだ。ベンチャー企業には荷が重すぎるプロジェクトだと」 「実現可能性……?」 「建前だよ。……選ばれたのは、九龍グループだ」  九龍。  剣吾の名前が頭をよぎり、背筋に冷たい水が流れ落ちた。 「あんな、ただの豪華なハコモノを作るだけの計画が……通ったっていうの?」 「ああ。審査委員会の満場一致でな」  湊は、両手で顔を覆った。  広い肩が、小さく震えている。  あり得ない。あんな中身のないプランが、私たちの緻密な計算とホスピタリティの理念を上回るなんて。 「おかしいわよ。絶対に何か裏がある。あの時、審査員たちだって私たちのプランに賛同してくれてたじゃない!」 「……裏、か」  湊は顔から手を離し、ノートパソコンのキーボードを激しく叩き始めた。  カタカタカタッ! という乾いた打鍵音が、怒りを帯びて部屋に響く。 「僕の読みが甘かった。……あの場で審査員の心を動かしたとしても、最終的な決定権を持つトップの首をすげ替えられていれば、結果は覆る」  画面に次々と表示されるニュースサイトの記事や、官公庁の入札結果のデータ。  湊の瞳が、高速でテキストの羅列を追っていく。 「……見ろ。コンペの最終審査委員長の辞任発表。……そして、後任に就いたのは、龍一郎叔父上と懇意にしている大物政治家の息のかかった官僚だ」  湊が指差した画面の隅に、小さな人事異動のニュースが掲載されていた。 「龍一郎さんが……手を回したの?」 「間違いない。奴は、プレゼンの結果すらも最初から織り込み済みだったんだ。僕たちがどれだけ完璧なプランを提示しようと、最後にハンコを押す人間を買収しておけば、結果は覆
last updateLast Updated : 2026-04-11
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第346話 食卓で脱ぐ鎧

 通話が切れる。  湊は、スマートフォンを握りしめたまま、うなだれた。 「……出資は、保留だそうだ」 「保留……」 「『九龍という看板がない君たちに、泥仕合を勝ち抜く政治力がないことが露呈した。実績のないベンチャーに投じる資金はない』と。……当然の判断だ」  湊の声は、空洞のように響いた。  すべてを失った。  コンペの勝利も、資金も、未来への足場も。  私たちは、スタートラインに立つことすら許されず、またゼロ……いや、マイナスへと突き落とされたのだ。  部屋の空気が、重く淀んでいく。  トースターから漂っていた香ばしいパンの匂いも、オムレツのバターの香りも、すっかり消え失せ、代わりに焦げ付くような敗北の苦さだけが鼻腔を突く。 「……湊」  私は、冷え切った自分の両手をこすり合わせながら、彼に声をかけた。  湊は、ノートパソコンの画面をパタンと閉じた。 「……気にするな」  彼は、無理やり作ったような、ひどく歪な笑顔を顔に貼り付けた。 「想定内だ。……九龍という巨大な組織を相手に、一度のプレゼンで勝てるほど甘い世界じゃない。資金調達のルートは他にもある。別の銀行を当たればいいし、小規模なプロジェクトから実績を積んでいけば……」  早口で並べ立てられる言葉。  それは、私を安心させるためではなく、崩れ落ちそうな自分自身を必死に支えるための支柱のようだった。 「……朝食、冷めてしまうな。食べよう」  湊は、プラスチックの箸を手に取り、皿の上のオムレツをつついた。  でも、その手は微かに震えていて、うまく卵を掴めない。  カラン、と箸が皿に当たる乾いた音が鳴る。  強がっている。  あの九龍の次期当主として、どんな修羅場も冷徹に切り抜けてきたプライドが、彼に「負けを認めること」を許さないのだ。  自分の立ち上げた会社が、最初の勝負で完膚なきまでに叩き潰された。その圧倒的な無力感に打ちのめされているはずなのに、私の前では気丈な男を演じようとしている。 「……嘘つき」  私は、小さく呟いた。  湊の動きが止まる。 「なんだい?」 「想定内なんて、嘘ばっかり。……手が、震えてるじゃない」  私は椅子から立ち上がり、テーブルを回り込んで彼の横に立った。  そして、箸を握りしめたまま硬直している彼の手を、自分の両手でそ
last updateLast Updated : 2026-04-12
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第347話 悔しさを分け合う

「……悔しい。……あんな、中身のない計画に負けたことが。……君のアイデアを、君の想いを、あんな連中に踏みにじられたことが……腹が立って、どうにかなりそうだ」  湊の広い肩が、小刻みに震え始めた。  怒りと、無力感と、そして私に対する申し訳なさ。  彼が背負い込もうとしている感情の重量が、抱きしめられる腕の強さから痛いほどに伝わってくる。 「……ごめん。君に、かっこいいところを見せたかったのに」 「バカね」  私は、彼の黒髪に指を差し込み、優しく撫でた。  少し硬い髪の感触。シャンプーの清潔な匂いがふわりと香る。 「かっこいいところなんて、もう十分すぎるくらい見てきたわ。……私は、こういう情けない湊の方が好きよ」 「……趣味が悪いな」  湊が、私の服に顔を擦り付けながら低く笑う。  その笑い声には、微かに湿り気が混じっていた。 「ねえ、湊」 「ん?」 「私たち、ここからどうする?」  私は、彼の髪を撫でる手を止めず、静かに尋ねた。 「コンペには負けた。資金もない。……またゼロから、泥臭く営業に回る? それとも、別のアイデアをひねり出す?」  湊は、私の腰を抱いていた腕の力を少し緩め、ゆっくりと顔を上げた。  その瞳の奥には、先程までの絶望の色は薄れ、代わりに深く静かな、青い炎のような光が宿り始めていた。 「……泥に塗れた権力には、正論だけでは勝てない。それが今回の教訓だ」  湊は、私の目を見据えて言った。 「ならば、僕たちも泥を被るしかない。……綺麗事だけじゃない、彼らの足元を根底から崩すための、別の戦い方を選ぶ」 「別の戦い方?」 「ああ。……九龍グループの内部は、今、剣吾の無能な経営でガタガタになっているはずだ。表向きは取り繕っていても、現場の不満は必ず爆発する。……僕たちが狙うのは、そこだ」  湊の目に、かつての冷徹な「王」としての牙が戻ってきたのがわかった。  ただの復讐ではない。  本当に価値のあるものを取り戻すための、反逆の狼煙。 「絶対に、諦めない」  湊は、私の手を握りしめ、力強く宣言した。 「君の居場所を、僕たちの未来を、必ずこの手で創り上げる。……どんな泥水をすすってでもな」 「うん。……一緒に、すすってあげる」  私が微笑んで答えると、湊は私の手首を引き寄せ、その内側に熱いキスを落とし
last updateLast Updated : 2026-04-12
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第348話 下町の縫製所

 窓枠の隙間から入り込む冷たい朝風が、リビングの空気をわずかに震わせた。  かつてインペリアル・ドラゴン・ホテルの最上階で、一筆で数億の資金を動かしていた湊の指先は、今、一円単位の経費削減案が並ぶ見積書をなぞっている。  使い古された木製のテーブルの上、特売の豆で淹れたコーヒーからは、わずかな湯気しか立ち上がっていない。 「……今回の案件、予算はかなり厳しいな」  私が差し出したトレイを避けるように、湊が重い吐息をこぼした。  M&Aホールディングスにとって、湾岸エリアの大型プロジェクトを逃した代償はあまりにも大きかった。マダム・リウからの出資も、コンペの敗北によって「実績不足」として保留状態にある。  今、私たちの手元にあるのは、九龍という巨大な看板を失った後に細々と舞い込んできた、小規模なレストランウェディングや、地元のイベントプロデュースの依頼だけだ。 「ええ。でも、今の私たちにできることを積み重ねるしかないわ。……このお客様は、予算は少ないけれど、亡くなったお母様の形見のドレスをリメイクして式を挙げたいって切実な想いを持っているの。絶対に、最高の形で叶えてあげたい」  私が広げた提案書を、湊は漆黒の瞳でじっと見つめた。  以前の彼なら、「採算が合わない」と切り捨てていただろう。けれど、地位も名誉も手放し、この狭いアパートで私と向き合うようになってからの湊は、数字の奥にある『人の心』を拾い上げる術を学びつつあった。 「……わかった。君が監修するなら、クオリティを落とすわけにはいかないな。リメイク用の特殊なレースと、細かな補修ができる腕の確かな職人が必要だ。だが、大手の工房はどこも九龍グループの顔色を窺って、僕たちの仕事を受けてくれないだろう」 「それなら、心当たりがあるの。お姉ちゃんが教えてくれたんだけど、下町にある小さな縫製工場で、最近腕の良い職人が入ったっていう噂があるのよ。大手の下請けも断るくらい、こだわりの強い場所なんですって」 「……下町の工房か。合理的ではないかもしれないが、今の僕たちにはそれしかないのかもしれないな」  湊は立ち上がり、安物のパーカーを羽織り、その上にウールのコートを重ねた。  CEOの鎧を脱いだ背中は、以前よりもずっと大きく、そして自由に見えた。◇ 都営大江戸線の駅から地上に出ると、そこには油の匂
last updateLast Updated : 2026-04-13
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第349話 ミシンの向こうの顔

 開け放たれた入り口からは、小気味よいミシンの稼働音がリズミカルに漏れてくる。カタカタカタ、という一定の拍子が、古い建物全体を微かに震わせていた。  中を覗き込むと、埃が舞う薄暗い空間に、数台の工業用ミシンが並んでいた。 「ごめんください」  私が声をかけると、奥から油の染みたエプロンをつけた、恰幅の良い中年男性――佐藤工場長が出てきた。 「おや、誰かと思えば。……あんたらが、詩織ちゃんが言ってた……」 「茅野朱里です。こちらは湊。今日はドレスのリメイクの件で相談に伺いました」  工場長は湊の長身と、隠しきれない気品を訝しげに見上げたが、すぐに豪快に笑った。 「あの子の紹介なら歓迎だよ。だが、うちは今、人手が足りなくてね。……まあ、一人だけ、とんでもなく頑固な新入りがいてさ。その子が納得しなきゃ、俺がいくら言っても始まらねえんだ」  工場長は、パーテーションで仕切られた一番奥の作業スペースを指差した。  そこからは、他のミシンとは違う、どこか神経質なほど正確で速いリズムの音が聞こえてくる。  私は湊と目配せをし、その作業スペースへと歩み寄った。  一歩踏み込んだ瞬間、私の視線は作業台の上に広げられた『布』に釘付けになった。  それは、工場長が「練習用だ」と言っていた、安価なポリエステルの端切れだったはずだ。  しかし、その端切れは、魔法のようなドレープを形作り、まるで生きているかのようにトルソーに巻き付いていた。  繊細なピンタック、生地の特性を極限まで引き出したカッティング。  (……なんて、美しいの)  プロのコーディネーターとして、何千着というドレスを見てきた私の肌が、一瞬で粟立つ。  名もなき下町の工場に、これほどの技術を持つ人間がいるなんて。  ミシンの音が、ふっと止まった。  糸を切り、作業椅子を回転させてこちらを振り返った人物を見て、私は呼吸を忘れた。 「……何の用かしら。部外者は立ち入り禁止よ」  掠れた、けれど耳に馴染みのある高慢な響き。  そこにいたのは、綾辻麗華だった。 「……麗華、さん……?」  私の震える声に、彼女の肩がビクンと大きく跳ねる。  かつての彼女を知る人間が見れば、同一人物だとは信じられない姿だった。  艶やかだった巻き髪は乱暴に後ろで結ばれ、額には汗が滲んでいる。  華やか
last updateLast Updated : 2026-04-13
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第350話 端切れに宿る意地

 悲鳴のような叫び声。  かつての社交界の女王が、どん底に落ちた惨めな姿を、最も見られたくない相手に晒してしまった。その屈辱の深さは、察するに余りあった。 「……麗華。君がこんな場所で何を……」  湊の低い声に、麗華は肩を激しく震わせた。 「笑いに来たんでしょう! ? 全てを失って、借金返済のためにこんな泥臭い場所でミシンを踏んでる私を、あざ笑いに来たのね!」  彼女は振り返り、涙でぐしゃぐしゃになった顔を晒した。 「ブランドは潰されたわ! 家も、車も、友達も、全部なくなった! 毎日毎日、爪が剥げるまで布を縫って、安月給で這いつくばって……。あんたたちには関係ないじゃない!」  彼女の言葉は、鋭い礫となって私たちに投げつけられる。  かつての彼女なら、ここでヒステリックに暴れ、他人を攻撃していただろう。けれど、今の彼女の瞳には、かつての空虚なプライドの代わりに、何かに追い詰められながらも、必死で現実にしがみつこうとする凄絶な執念が宿っていた。  私は彼女の罵声を浴びながらも、視線を外せなかった。  麗華が隠そうとしている、作業台の上の『作品』から。  それは、彼女が仕事の合間に、捨てられるはずの余り布で作り上げたのであろう、小さなサンプルのドレスだった。 「……麗華さん」  私は一歩、踏み出した。 「やめて! 近づかないで!」 「このドレス、あなたが縫ったの?」  私の問いに、麗華は言葉を失い、パクパクと唇を震わせた。 「……そんなの、どうだっていいでしょう。ただの暇つぶしよ。材料も安物だし……」 「違うわ。これには、あなたの『魂』が宿ってる」  私はそっと、ドレスのドレープに手を触れた。  かつての麗華は、他人のデザインを盗み、自分を飾り立てるための道具として服を扱っていた。  けれど、この端切れのドレスは違う。  生地の目の一本一本を慈しみ、最も美しく見えるラインを、指先の感覚だけで手探りで探し当てたような、狂気的なまでの『服への愛』。  虚飾を全て剥ぎ取られ、どん底に落ちて初めて、彼女は自らの手の中にあった真の才能に気づいたのではないか。 「……以前のあなたなら、こんな面倒なピンタック、絶対に自分では縫わなかったはずよ。職人に丸投げして、自分はパーティーに出ていただけ。……でも、これは違う」  私は麗華の目を真
last updateLast Updated : 2026-04-14
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