All Chapters of 別れ後に花開く私: Chapter 1 - Chapter 10

10 Chapters

第1話

私は橘真央(たちばな まお)。高坂恒一(こうさか こういち)と結婚して四年目で、約束どおり離婚届を出した。息子の高坂悠真(こうさか ゆうま)の親権は、高坂家に渡した。私は黙って、それを受け入れた。恒一は口の端を歪めて鼻で笑った。「真央、子どもまで手放して、金しか要らないのか。思った以上に薄情だな」私は聞こえないふりをして書類に目を通し、落ち着いて言った。「悠真に会う権利も放棄する。その分、もう少し上乗せできる?それに、悠真が母親だと思ってるのは私じゃない。三浦里奈(みうら りな)のほうでしょ」私は薄く笑って、固まった恒一を置いて背を向けた――「里奈との式には行かない。どうせ呼ぶ気もなかったでしょ。まあいい。どうせ一生、二度と会わない」金も手に入れた。離婚の手続きも終わった。SIMカードを捨て、キャッシュカードと身分証明書だけを持って、私はひとり、白見原行きの便に乗った。今いる街から辿れる限り、最も遠い場所へ。出発前、執事からメッセージが届いた。坊ちゃんがずっと泣いていて、ママに会いたがっている、と。私は一瞬だけ指が止まり、そのまま返信した――【里奈に連絡して。あの子が父親と一緒に、「母親」だと決めたのは里奈だから】送信して画面を閉じ、そのまま電源を切った。悠真には、好きなママがいる。でも、それは産みの母である私じゃない。四年育てたのに、まるで敵を育ててしまったみたいだった。レシピを漁って栄養まで考えたご飯を作っても、「里奈さんが買ってくれるケンタッキーのほうがうまい」と言われた。運動のレッスンを入れて、何か一つでも趣味を持たせようとすれば、ゲーム機を抱えたままわんわん泣いて、「里奈さんは一緒にゲームしてくれる」と駄々をこねた。宿題を一文字も書かないから、堪えきれず、私は手のひらを二度叩いた。悠真は私を睨みつけて言った――「里奈さんのほうがずっといい!ママはぜんぜん優しくない!みんな言ってる。ママは金目当てでパパと結婚したんだって!そんな女、ママになってほしくない!」三日前も、里奈が渡したゲーム機を取り上げて、宿題をやりなさいと言ったときのことだ。悠真は警戒した目で私を見て、こう聞いた。「もしママが死んだら、里奈さんを新しいママにしていい?」子どもらしい発想だ。私が死な
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第2話

恒一は、最初から私を嫌っていたわけじゃない。高三で転校した日、高坂家が手配した制服がまだ届いておらず、執事に「シャツで行きなさい」と言われた。でも、誰も知らなかった。私のシャツは一枚きりで、それを五年も着続けていたことを。しわだらけで、襟はとうに立たず、何度洗っても落ちない黄ばみが残っていた。居候の身で言い出すこともできず、ただ何度も洗っては、どうか全部落ちますようにと祈るしかなかった。恒一が通りかかり、きれいな眉をわずかにひそめたまま、紙袋をひとつ、無造作に放ってよこした。「里奈に買ったやつだけど、ダサいってさ。お前にやる。どうせ捨てるんだし」あんなに白くて、清潔なシャツを着たのは初めてだった。自己紹介の声にも、ほんの少しだけ芯が通った気がした。礼を言おうと思ったのに、家に戻ると、里奈が恒一の腕に絡みつき、私を見ながら何かを囁いていた。恒一は可笑しそうに笑った。「あんなのに嫉妬してどうすんだよ」すれ違いざま、里奈の嘲りが耳に突き刺さる。「私がいらない服を宝物みたいにしてさ。あんたって、ゴミ箱なの?この前、恒一の証明写真、こっそり持ってくの見たよ。気持ち悪っ。まさか惚れてるんじゃない?」恒一は里奈の頭を軽く撫でて宥めながら、私には、氷みたいな視線を向けた。「……こいつじゃ、釣り合わない」私は俯いて、「ごめんなさい」と言うしかなく、穴があったら消えてしまいたかった。これで、私と恒一の人生は、もう二度と交わらない――そう思った。けれど、四年後。里奈と恒一は拗れたまま別れ話になり、恒一は、毎日酒に溺れて、かつての面影を失っていた。私は恒一の部屋の前を通りかかり、書類を届けに来ただけだった。廊下には空き缶が散らばっていて、一瞬ためらったものの、私はノックして中へ入った。私を見た途端、恒一はぱっと表情を緩めた。「……里奈?」口を開く前に、強く抱きすくめられる。「ほらな。お前、俺のこと捨ててないだろ?」私は必死に身をよじった。「恒一、ひとを間違えてる!」でも彼は聞こうともしなかった。唇を塞がれ、力づくで逃げ場を奪われる。窓の外は土砂降りだった。彼は別の女の名前を呼びながら、私を無理やり抱いた。翌朝。恒一は眉を寄せ、煙草を吸いながら、私を汚いものでも見るような目で見下ろした
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第3話

悠真は、私を「ママ」と呼ぶのが大嫌いだった。恒一と同じで、私のことをいつも「あの人」と呼んだ。幼稚園の保護者会に出たとき、悠真は私の背中に隠れながら、こっそり舌を出していた。「来てほしくない、あの人。恥ずかしいもん。里奈さんが来てくれたらよかったのに」さすがに担任も見かねたのか、悠真を軽く叱ってくれた。そして私に向き直り、気の毒そうな目で言った。「悠真くんのお母さん……ご家庭での関わり方は、少し見直したほうがいいかもしれませんね」苦笑いするしかなかった。分かっている。痛いほど。卒業の年、恒一と一夜だけ、取り返しのつかないことをして、悠真ができた。恒一は責任を取らされる形で私と籍を入れ、それから私の人生は、悠真を中心に回り始めた。悠真を産んだのは冬だった。冬生まれの赤ん坊はおとなしい――みんな、そう言った。でも悠真は違った。お腹の中でも落ち着きがなく、いたずらみたいに、何度も私を蹴った。胎動を感じるたび、恒一はそばにいなかった。私は何度もお腹に手を当て、中の小さな命に謝った。「ごめんね。愛してくれるパパを、見つけてあげられなくて。だからママが、その分まで愛する。世界でいちばん幸せな子にするから」悠真は、確かに幸せだった。でも――それは、私のおかげじゃない。生まれた瞬間から、高坂家は悠真の名義で高額な信託を組み、将来の不安を、丸ごと取り払ってしまった。だから悠真には、わがままを通すだけの余裕があった。機嫌を損ねれば、何でも壊せた。どうせまた、新しいものが用意される。癇癪を起こし、何台目かも分からないスマホを叩き割ったときのことだ。私は、自分でも驚くほど冷たい声で言った。「いつも怒ってばかりなら、誰だって一緒にいられないよ。……ママだって、いなくなる」悠真は、まるで他人事のような顔をしていた。その表情が、妙に恒一に重なる。「里奈さんが言ってたよ。真央は、高坂家に居座ってるだけの乞食だって。出ていけるわけないじゃん。どうせ離れられないくせに。ぼくを産んだのも、高坂家にしがみつくためでしょ。そんなことで騙せると思わないで」胸の奥が、少しずつ冷えていった。そして一度冷えたそれは、二度と温まらなかった。傷つき尽くしたからこそ、踏み出すことに、もう迷いはなかった。悠真。私は、もう戻ら
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第4話

白見原市は観光地で、民泊がそこら中にある。ネットで予約した住所を頼りに、やっとのことで路地裏にある宿を見つけた。玄関をくぐった途端、「追加で一万円、食事と宿泊代を払え」と言われた。私は思わず首をかしげた。「予約サイトで、もう支払いは済ませたはずだけど」店主は煙草をふかし、煙の輪を吐きながら言った。「それは予約金だ。残りはまだ払ってないだろ」ただの言いがかりだった。腹が立って、このまま泣き寝入りする気にはなれなかった。「……じゃあ、別の宿にします」「いいとも」店主は外を指さし、にやにや笑った。「出てみろ。この通りで、お前を泊めてくれるところがあるか、確かめてこい」近くにいた連中が、へらへら笑って口を挟む。「嬢ちゃん、ほかに移っても同じだぜ。結局、この一万円は払うことになる。俺たちに逆らって、損するだけだ」――ああ、ぼったくりだ。そう悟って、私はできるだけ冷静に言った。「強制的に取るつもりですか。警察を呼ばれても平気なんですか」次の瞬間、上半身裸の男が三人、私のスーツケースを蹴り倒した。「警察?!ハハハ、聞いたか。こいつ、何て言った?よそ者だろ。そんなもんで、俺らがビビると思ってんのか」誰一人、怯む気配はなかった。「今すぐ掛けてみろよ。どんな騒ぎが起こせるか、見せてみろ」私はじりじりと後ずさりしながら、隙を見て逃げるしかないと覚悟した。向こうはこちらの動きを見抜き、逃げ道を塞いだ。「このクソ女、逃げる気か!?」太い腕が首にかかりそうになり、腰が抜けるほど震えた。目を閉じ、頭を抱える。けれど、覚悟していた殴打は降ってこなかった。代わりに、鈍い呻き声が響いた。恐る恐る目を開けると、さっきまで私を囲んでいた三人は、私服の警察官たちに取り押さえられていた。脇の警官は、手錠をかけながらぼやく。「この通りの民泊、全部おまえらの縄張りだろ。苦情、もう何百件も来てるぞ。ずっと張ってたんだ。ようやく尻尾をつかんだ」隊長、着いたばかりでこの大物っすか。さすが神谷隊長!」その「隊長」と呼ばれていたのが、今朝、機内で見かけた修司だった。修司は、不安そうに、私の無事を確かめるようにこちらを見ていた。私は俯いたまま、何も言えなかった。「隊長、どうします?」「先
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第5話

修司は私を、自分が丸ごと借り切っている民泊へ連れ帰った。部屋に入るなり、救急箱を引っ張り出して、私の擦り傷に黙々と手当てを始める。しばらくして、彼はようやく視線を落としたまま言った。「……ごめん。俺、嘘ついてた。今回、隊から白見原市の観光トラブルを締める任務で来てる。民泊を始めたって話も……ただのカモフラージュだ」私は、消毒液をそっと塗っていく彼の手元を見ながら、つい口にした。「理解はできるよ。仕事柄、話せないこともあるよね……ねえ、左脚じゃなくて右脚。転んだのは右」修司は「うわっ」と小さく声を漏らし、慌てて消毒液を持ち替えた。その様子があまりに不器用で、私はこらえきれず笑ってしまった。……この人、案外かわいいところがある。修司は少し間を置いてから、真剣な顔で言った。「なあ、真央。この民泊の管理、手伝ってもらえないか。建物はもう買ってある。家賃も光熱費も気にしなくていい。俺は隊の仕事で、普段はここに来られない。だから、この通りを見てくれる人が必要なんだ。真央……頼む。手を貸してくれないか」真っ直ぐな目を見ているうちに、私はなぜか頷いていた。今の私はお金に困っていない。高坂家が離婚のときに渡した金なんて、あの人たちにとっては砂粒みたいなものだろう。でも私には、贅沢さえしなければ一生を静かに暮らせるだけの額だった。私は民泊を切り盛りしながら、一階を小さな喫茶店に改装した。ミルクティーを中心に、気軽に飲めるものをいくつか並べた。翔太はうちの味見係で、新作を出すたび最初に飲ませた。修司は甘いものが苦手で、来るたび私はレモン水を置くようになった。そんなふうに、平凡で、それでも穏やかな日々が、三年続いた。三年後、私は修司の気持ちを受け取り、指輪を受け取った。翔太は、私が渡すものをやけに大事にしてくれた。あのお守りはランドセルのいちばん目立つところにぶら下げられていて、翔太は会う人ごとに誇らしげに話した。「これ、真央お姉さんのお店でもらったんだ。真央さんのこと、知ってる?笑うと、なんかほっとするお姉さんだよ。ミルクティーもすごくおいしい」私は、こんなふうに誰かに誇られたことがなかった。私にも、胸を張っていていい場所があるんだと思えた。修司の指輪を受け取ったその日
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第6話

病院で、翔太は頭にガーゼを巻かれていたが、表情だけは妙に落ち着いていた。私が入った瞬間、翔太は唇を震わせ、必死に堪えていたものが、一気に崩れた。「……ママ、ぼく――」「ママとか、何言ってんの。恥ずかしくないの?」すぐ隣で、スーツにネクタイ姿の子どもが突っかかろうとして、看護師に止められた。その子が振り向く。見覚えのある顔だった。四年育てた、悠真。悠真は翔太を見下ろし、四年前、私に向けてきたのと同じ目をしていた。「どこの子だよ。ママを取る気?」次の瞬間、悠真は私に飛びつき、弾んだ声で叫んだ。「ママ!やっと見つけた!パパが言ってた!今度見つけたら連れて帰るって。もう二度と、ママを失くさないって!」その言葉で、ようやく私は、悠真の隣に立つ男に目がいった。三年ぶりの恒一は、以前よりもどっしりとしていて、角ばっていた傲慢さが、時間に削られていた。恒一は私を見るなり、一瞬だけ感情を浮かべた。けれど、すぐに表情を整え、淡々と言う。「真央、三年だ。いつまでも怒ってるのも、もう十分だろ。高坂家としても、もう一度だけチャンスをやる。子どものためだ」少し間を置いて、言い切った。「復縁しよう。前のことは、なかったことにする」――言うのは簡単だ。高坂家で過ごした四年の屈辱が、まるで最初から存在しなかったかのようだった。私が高坂家に嫁いで二年目、恒一の祖母が亡くなった。この世で、最後に私を庇ってくれた人も、消えた。高坂家に、私を好いてくれる人はひとりもいなかった。恒一の母親は、最初からずっと私を見下していた。あの夜のことも、私が恒一を誘ったのだと、最初から決めつけていた。彼女が気に入っていたのは、釣り合いの取れた里奈で、私の前でも平然と言った。「うちの恒一は、ついてないわね。相手が、どんどん落ちていく。悠真が里奈のほうになつくのも当然よ。いい悪いくらい、子どもにだって分かるんだから」子どもの話題は、私の弱みだった。いつもは義母の前で言葉を飲み込んでいた私も、そのときばかりは、珍しく言い返した。「その言い方だと、悠真は里奈のお腹から生まれてきたみたいですね。もし私の記憶が間違っているなら、今度ご本人に聞いてみましょうか」義母は怒りに震え、私の鼻先を指さして「恥知らず」と吐き
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第7話

夜、修司の前に座っていると、どう説明すればいいのか分からなくなった。突然、目の前に現れた元夫と子ども。翔太の額に残る傷痕。もう二度と口にしたくない、あの過去。それらが幾重にも重なって、胸の奥を押し潰していく。けれど修司は何も聞かなかった。ただ黙って、私を腕の中に抱き寄せた。驚くほどやさしい声で言う。泣きたいなら、泣けばいい、と。「真央……今まで、きっと苦しかっただろ。俺が悪かった。大学の頃からお前のことが好きだったのに、あのときは入隊することになってて……言えなかった。もっと早く言えてたらよかった。そしたら、お前をこんなに長く待たせずに済んだのに」私は修司の肩に額を預けた。堰を切ったみたいに、涙が次々とあふれてくる。高坂家で過ごした長い年月、恒一も、悠真も、ただ冷たい目で私を見ていただけだった。里奈は、私を敵だと決めつけ、私がすべて奪ったのだと、思い込んでいた。まさか、こんなにも時間が経ってから、修司の口から、こんな言葉を向けられるなんて――「……よく、ここまで耐えたな」しゃくり上げる私を見ると、修司は背中を撫でるように、そっと手を動かした。「真央。ここに来る前から、ある程度は覚悟してた。お前がどんな答えを出しても、俺は尊重する。お前が、ずっと高坂のことを好きだったのも知ってる。もし高坂家に戻るなら、それも……悪くない」私は修司の胸を、軽く拳で叩いた。「……何を勝手なこと言ってるの」修司は視線を伏せたまま、静かに言った。「俺の身勝手で、お前を縛りつけたくないんだ」「どうして、私がここに残りたくないって決めつけるの?」喉を震わせながら、私は言った。「私……ほんとに、ほんとに、行きたくなんてないのに」修司は私の拳を包み込むように握り、口元に笑みを浮かべた。その笑顔は、隠しきれない。「じゃあ、行かない。それに……もう少し先のことも、考えられる」私は話についていけず、ぱちりと瞬いた。「先って……何?」「翔太に、弟か妹を作ってやるのは嫌か?」一気に頬が熱くなり、私は吐き捨てるように言った。「……変態!」その夜は、夜明けまでふざけ合い、笑って、息が切れるほどだった。目が覚めたとき、私は腰を押さえながら起き上がり、鏡の中の自分が妙に艶めいているのに気づく。ノ
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第8話

悠真なら、これで諦めるだろうと、私は思っていた。あの子は父親と同じで、いつもどこか人を見下ろしたような目をしている。欲しいものは手に入って当たり前で、誰かに逆らわれたことなんて、一度もない――そういう人間だ。けれど後になって、私は気づいた。自分が産んだ子を、あまりにも甘く見ていたのだと。その日から、放課後になると、悠真は決まって翔太のあとをついて回るようになった。翔太が私の喫茶店で宿題をする日は、悠真も店の隅に陣取って、ひとり静かに本を読んだ。翔太がクラスの子たちを連れてきてミルクティーを飲ませても、悠真はコーラのカップを手に、黙ったまま端に座っている。クラスメイトたちは首をかしげる。「翔太、この転校生、なんで毎日一緒なの?」翔太はむすっとして言った。「知らない。気になるなら、本人に聞いてよ」悠真は何も言わなかった。けれど耳だけは、ぴんと立っていた。誰にも気づかれない店の隅で、翔太がそっと私の袖を引き、小さな声で聞いてきた。「ママ、悠真について行かないで。悠真の家には、大きなお屋敷があって、プールもあるって言ってた。でも、うちは何もないって。ママ、ぼくとパパのことも、置いていくの?」私は洗っていた茶器から手を離し、翔太の頬を、そっとつまんだ。「何考えてるの。私に新しい人生をくれたのは、あなたとパパだよ。私は、どこにも行かない」翔太は慣れた仕草で私の胸に飛び込み、「ママがいちばん」と甘えた声を出した。私は彼を抱き上げて、そのままくるりと回した。その拍子に、入口のほうが視界に入る。そこに立っていた悠真は、表情を崩さないまま、こちらを見ていた。目の奥だけが、濃い霧を溜めたみたいに暗い。とても、この年齢の子どもがする顔じゃない。最初の頃は、店の中で駄々をこね、床に転げ回って、大声で泣き叫んでいたというのに。けれどそれが通じないと悟ったのだろう。高坂家みたいに、誰もが無条件で機嫌の悪さを受け止めてくれるわけじゃない。それから悠真は、翔太のあとをついて回るようになった。振り払っても振り払っても、離れない小さな影みたいに。そして、ある日。翔太が姿を消した。翔太がいなくなったその日、私は深く考えなかった。放課後に友だちの家へ寄って、三十分ほど遅くなることは、これまでもよくあったか
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第9話

声が枯れるほど泣きじゃくり、息が詰まるほど大声で泣いた。初めて翔太に会った日のことを思い出す。あの子は本当に小さくて、三年かけて少しずつ背が伸び、少しずつ明るくなっていった。礼儀正しくて、誰に対しても誠実で、わざわざ害そうとする人なんていないはずの子だった。私がいなければ、そもそもこんなことにはならなかった。全部、私のせいだ。胸が張り裂けそうなほど泣いていると、ふいに小さな手が肩をぽんと叩いた。振り向くと、肩をすぼめた翔太がいた。「ママ、ごめん……」その隣で、恒一が淡くうなずいた。「……迷惑をかけたな」私は恒一を無視して、翔太のもとへ駆け寄り、体に触れて確かめた。「どこか痛い?嫌なこと、されてない?」翔太は「うわっ」と声を上げて泣き出した。「恒一おじさんとアイスを食べちゃった……ごめん、ママ。アイスなんて食べちゃいけなかったのに……」張りつめていた心が、ようやくほどけた。言葉を発する前に、背後から悠真の声が、はっきりとした憎しみを帯びて響いた。「なんで助けるんだよ?なんでぼくの計画を壊すの?隠しておけばよかっただけじゃないか!パパだって、ママに戻ってきてほしかったくせに――」恒一は淡々と見下ろし、眉をひそめた。「悠真、恥ずかしくないのか。車に乗れ。帰るぞ。ここはお前のいる場所じゃない」私はもう二人の言い争いを見る気もなく、ただ翔太を腕いっぱいに抱きしめた。失いかけて、取り戻した――私の宝物だ。悠真はボディガードに強く車へ押し込まれたが、最後の瞬間、振りほどいて私の胸に飛び込んできた。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死にしがみついて言った。「ママ……ぼくのこと、もういらないの?パパのことも……いらないの?」こうして、ちゃんと悠真の顔を見るのは、久しぶりだった。私は目尻の涙を拭い、はっきりと告げた。「悠真、ここはあなたのいる場所じゃない。高坂家に戻りなさい」悠真はうなだれ、何度も振り返りながら車に乗り込んだ。車窓越しに外を見ていたけれど、その表情までは分からない。恒一は私の隣で最後の一本を吸い終え、淡々と言った。「悠真は緑ヶ丘へ連れて帰る。二度と、こんなことはさせない。約束する」私は小さくうなずいて、それを挨拶代わりにした。恒
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第10話

恒一は、結局里奈と結婚することはなかった。最初は、「悠真がまだ受け入れられないかもしれないから、もう少し待とう」と言っていた。それで、その先は?理由もはっきりしないまま、ただ時間だけが引き延ばされていった。里奈も、きっと気づいていたのだろう。高坂家を出ていく日、スーツケースを引きながら、彼の横を冷たくすれ違いざまに言った。「恒一、あなたって結局、手に入らないものだけを好きになる人よね」恒一は一瞬言葉を失い、指がわずかに震えて、煙草の灰がシャツに落ちた。その瞬間、何年も前の――あの女の顔が脳裏をよぎった。……あいつが好きだったのか?笑えない冗談だ。生まれながらに選ばれてきた彼が、人生の汚点みたいな存在を、本気で好きになるわけがない。真央は、ごく平凡な女だった。顔立ちも、欲しがるものも、どこにでもいる程度。母になる前も、なってからも、弱くて小さくて、守られる側にいるだけの存在だった。そんな女が、何かを起こすなんて思ってもみなかった。それなのに――離婚を言い出した。執事が遠慮がちに「奥様が離婚を望んでおられます」と伝えてきたとき、恒一は思わず失笑しそうになった。離婚?で、どこへ行くつもりだ。身寄りもない女が、高坂家を出て、ほかに居場所があるとでもいうのか。恒一は書類を淡々とめくりながら言った。「好きにしろ。出ていきたいなら出ていけ。ただし、悠真の親権は高坂家に残す」「……奥様は、親権はいらないと」執事は一瞬言葉に詰まり、続けた。「それから、面会権も放棄する代わりに、条件を上乗せできるのかと……」恒一は喉を鳴らし、短く答えた。「弁護士の言うとおりに処理しろ」恒一は、引き留めることもしなかった。離婚という言葉にも、驚くほど淡白に反応した。それは、結婚していた頃の彼の態度と、何ひとつ変わらなかった。ただ、その日の午後だけは違った。たった一枚の簡単な合意書を、彼は四時間ものあいだ、無言で見つめ続けていた。帰宅すると、悠真が荒れ狂っていた。家の中を歩き回りながら、「あいつはどこだ」と何度も叫んでいる。恒一は眉をひそめた。「……あいつって、誰のことだ」執事は視線を落とし、低く答えた。「奥様のことかと」その瞬間、恒一の中で何かが切れた。彼は容赦なく悠真の尻を何度も叩いた。「ち
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