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第2話

Author: ひだまり菜園
恒一は、最初から私を嫌っていたわけじゃない。

高三で転校した日、高坂家が手配した制服がまだ届いておらず、執事に「シャツで行きなさい」と言われた。

でも、誰も知らなかった。私のシャツは一枚きりで、それを五年も着続けていたことを。

しわだらけで、襟はとうに立たず、何度洗っても落ちない黄ばみが残っていた。

居候の身で言い出すこともできず、ただ何度も洗っては、どうか全部落ちますようにと祈るしかなかった。

恒一が通りかかり、きれいな眉をわずかにひそめたまま、紙袋をひとつ、無造作に放ってよこした。

「里奈に買ったやつだけど、ダサいってさ。お前にやる。

どうせ捨てるんだし」

あんなに白くて、清潔なシャツを着たのは初めてだった。自己紹介の声にも、ほんの少しだけ芯が通った気がした。

礼を言おうと思ったのに、家に戻ると、里奈が恒一の腕に絡みつき、私を見ながら何かを囁いていた。

恒一は可笑しそうに笑った。「あんなのに嫉妬してどうすんだよ」

すれ違いざま、里奈の嘲りが耳に突き刺さる。

「私がいらない服を宝物みたいにしてさ。あんたって、ゴミ箱なの?

この前、恒一の証明写真、こっそり持ってくの見たよ。気持ち悪っ。まさか惚れてるんじゃない?」

恒一は里奈の頭を軽く撫でて宥めながら、私には、氷みたいな視線を向けた。「……こいつじゃ、釣り合わない」

私は俯いて、「ごめんなさい」と言うしかなく、穴があったら消えてしまいたかった。

これで、私と恒一の人生は、もう二度と交わらない――そう思った。

けれど、四年後。

里奈と恒一は拗れたまま別れ話になり、恒一は、毎日酒に溺れて、かつての面影を失っていた。

私は恒一の部屋の前を通りかかり、書類を届けに来ただけだった。

廊下には空き缶が散らばっていて、一瞬ためらったものの、私はノックして中へ入った。

私を見た途端、恒一はぱっと表情を緩めた。「……里奈?」

口を開く前に、強く抱きすくめられる。「ほらな。お前、俺のこと捨ててないだろ?」

私は必死に身をよじった。「恒一、ひとを間違えてる!」

でも彼は聞こうともしなかった。唇を塞がれ、力づくで逃げ場を奪われる。

窓の外は土砂降りだった。彼は別の女の名前を呼びながら、私を無理やり抱いた。

翌朝。

恒一は眉を寄せ、煙草を吸いながら、私を汚いものでも見るような目で見下ろした。

「真央……なんでそんなに卑しいんだよ」

布団を胸まで引き上げているのに、私はどこにも隠れられない気がした。

その瞬間、あのとき里奈が私に投げつけた言葉は、正しかったのだと理解してしまった。

里奈が要らないと言ったシャツが私に回り、里奈が捨てた男が、私を壊した。

里奈――私は、あんたの人生のゴミ箱になった。

「真央?」

弾んだ男の声に、私ははっとして顔を上げた。

振り向くと、そこには何年も会っていなかった顔があった。

神谷修司(かみや しゅうじ)。大学時代の同期だ。

修司は穏やかに笑い、少し驚いたように言った。「偶然だな。真央も白見原?」

彼が隣の席に腰を下ろし、話していくうちに、さらに驚くことになる。

席は隣同士。向こうで泊まる場所まで、たった二本向こうの通りだった。

「白見原で民泊を一つ借りたんだ。退役したばかりでさ、ちょっとした商売でも始めようと思って。

真央は?」

私は淡々と答えた。「離婚したばかり。気分転換かな」

「……子どもは?」

「子どもはいないよ」

前はいた。でも、今はいない。

修司は小さく頷き、視線を落としたまま、何か考え込んだ。

そのとき、ふいに小さな手が修司の膝によじ登ってきた。「……パパ」

そこで初めて、修司の陰になっていた席に、子どもが座っていることに気づいた。大きな目をした、妙に静かな子だった。

さっきまで存在に気づけなかったほど、静かだった。

私は、つい聞いてしまった。「……息子?」

修司の顔が、ぱっと赤くなる。「あ、ああ。翔太、この人は橘真央さん。ほら、真央さんって呼びなさい」

翔太は私を上から下までじっと観察してから、素直に「真央さん」と言った。

けれど、修司がトイレに立った隙に、翔太は突然、私の手をぎゅっと掴んだ。ぱちぱちと瞬く大きな目で、真剣に問いかけてくる。

「ねえ、真央さん……ぼくのママ?」

私は言葉を失った。「……え?」

翔太は、少しもふざける様子もなく続けた。「パパは、ぼくにはママがいないって言う。でも、ぼくは信じない。みんなにはいるもん。

パパ、真央さんの前だと、すごくしゃべる。ほかの人には、あんなに話さない。

それに、真央さんも橘で、ぼくも橘だし……だから、真央さんが、ぼくのママじゃないの?」

私は一気に、顔が熱くなるのを感じた。
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