LOGIN夫の高坂恒一(こうさか こういち)と、息子の高坂悠真(こうさか ゆうま)に心の底まで踏みにじられ、私は家を出た。 あの二人は、これまで何度もそうしてきたように、今回も私が我慢して戻ってくると高を括っていたのだろう。 けれど私は、本当に失望してしまった。 それ以来、二人の消息には一切触れず、連絡先も残さず、私はまったく新しい人たちと出会いながら生きていくことを選んだ。
View More恒一は、結局里奈と結婚することはなかった。最初は、「悠真がまだ受け入れられないかもしれないから、もう少し待とう」と言っていた。それで、その先は?理由もはっきりしないまま、ただ時間だけが引き延ばされていった。里奈も、きっと気づいていたのだろう。高坂家を出ていく日、スーツケースを引きながら、彼の横を冷たくすれ違いざまに言った。「恒一、あなたって結局、手に入らないものだけを好きになる人よね」恒一は一瞬言葉を失い、指がわずかに震えて、煙草の灰がシャツに落ちた。その瞬間、何年も前の――あの女の顔が脳裏をよぎった。……あいつが好きだったのか?笑えない冗談だ。生まれながらに選ばれてきた彼が、人生の汚点みたいな存在を、本気で好きになるわけがない。真央は、ごく平凡な女だった。顔立ちも、欲しがるものも、どこにでもいる程度。母になる前も、なってからも、弱くて小さくて、守られる側にいるだけの存在だった。そんな女が、何かを起こすなんて思ってもみなかった。それなのに――離婚を言い出した。執事が遠慮がちに「奥様が離婚を望んでおられます」と伝えてきたとき、恒一は思わず失笑しそうになった。離婚?で、どこへ行くつもりだ。身寄りもない女が、高坂家を出て、ほかに居場所があるとでもいうのか。恒一は書類を淡々とめくりながら言った。「好きにしろ。出ていきたいなら出ていけ。ただし、悠真の親権は高坂家に残す」「……奥様は、親権はいらないと」執事は一瞬言葉に詰まり、続けた。「それから、面会権も放棄する代わりに、条件を上乗せできるのかと……」恒一は喉を鳴らし、短く答えた。「弁護士の言うとおりに処理しろ」恒一は、引き留めることもしなかった。離婚という言葉にも、驚くほど淡白に反応した。それは、結婚していた頃の彼の態度と、何ひとつ変わらなかった。ただ、その日の午後だけは違った。たった一枚の簡単な合意書を、彼は四時間ものあいだ、無言で見つめ続けていた。帰宅すると、悠真が荒れ狂っていた。家の中を歩き回りながら、「あいつはどこだ」と何度も叫んでいる。恒一は眉をひそめた。「……あいつって、誰のことだ」執事は視線を落とし、低く答えた。「奥様のことかと」その瞬間、恒一の中で何かが切れた。彼は容赦なく悠真の尻を何度も叩いた。「ち
声が枯れるほど泣きじゃくり、息が詰まるほど大声で泣いた。初めて翔太に会った日のことを思い出す。あの子は本当に小さくて、三年かけて少しずつ背が伸び、少しずつ明るくなっていった。礼儀正しくて、誰に対しても誠実で、わざわざ害そうとする人なんていないはずの子だった。私がいなければ、そもそもこんなことにはならなかった。全部、私のせいだ。胸が張り裂けそうなほど泣いていると、ふいに小さな手が肩をぽんと叩いた。振り向くと、肩をすぼめた翔太がいた。「ママ、ごめん……」その隣で、恒一が淡くうなずいた。「……迷惑をかけたな」私は恒一を無視して、翔太のもとへ駆け寄り、体に触れて確かめた。「どこか痛い?嫌なこと、されてない?」翔太は「うわっ」と声を上げて泣き出した。「恒一おじさんとアイスを食べちゃった……ごめん、ママ。アイスなんて食べちゃいけなかったのに……」張りつめていた心が、ようやくほどけた。言葉を発する前に、背後から悠真の声が、はっきりとした憎しみを帯びて響いた。「なんで助けるんだよ?なんでぼくの計画を壊すの?隠しておけばよかっただけじゃないか!パパだって、ママに戻ってきてほしかったくせに――」恒一は淡々と見下ろし、眉をひそめた。「悠真、恥ずかしくないのか。車に乗れ。帰るぞ。ここはお前のいる場所じゃない」私はもう二人の言い争いを見る気もなく、ただ翔太を腕いっぱいに抱きしめた。失いかけて、取り戻した――私の宝物だ。悠真はボディガードに強く車へ押し込まれたが、最後の瞬間、振りほどいて私の胸に飛び込んできた。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながら、必死にしがみついて言った。「ママ……ぼくのこと、もういらないの?パパのことも……いらないの?」こうして、ちゃんと悠真の顔を見るのは、久しぶりだった。私は目尻の涙を拭い、はっきりと告げた。「悠真、ここはあなたのいる場所じゃない。高坂家に戻りなさい」悠真はうなだれ、何度も振り返りながら車に乗り込んだ。車窓越しに外を見ていたけれど、その表情までは分からない。恒一は私の隣で最後の一本を吸い終え、淡々と言った。「悠真は緑ヶ丘へ連れて帰る。二度と、こんなことはさせない。約束する」私は小さくうなずいて、それを挨拶代わりにした。恒
悠真なら、これで諦めるだろうと、私は思っていた。あの子は父親と同じで、いつもどこか人を見下ろしたような目をしている。欲しいものは手に入って当たり前で、誰かに逆らわれたことなんて、一度もない――そういう人間だ。けれど後になって、私は気づいた。自分が産んだ子を、あまりにも甘く見ていたのだと。その日から、放課後になると、悠真は決まって翔太のあとをついて回るようになった。翔太が私の喫茶店で宿題をする日は、悠真も店の隅に陣取って、ひとり静かに本を読んだ。翔太がクラスの子たちを連れてきてミルクティーを飲ませても、悠真はコーラのカップを手に、黙ったまま端に座っている。クラスメイトたちは首をかしげる。「翔太、この転校生、なんで毎日一緒なの?」翔太はむすっとして言った。「知らない。気になるなら、本人に聞いてよ」悠真は何も言わなかった。けれど耳だけは、ぴんと立っていた。誰にも気づかれない店の隅で、翔太がそっと私の袖を引き、小さな声で聞いてきた。「ママ、悠真について行かないで。悠真の家には、大きなお屋敷があって、プールもあるって言ってた。でも、うちは何もないって。ママ、ぼくとパパのことも、置いていくの?」私は洗っていた茶器から手を離し、翔太の頬を、そっとつまんだ。「何考えてるの。私に新しい人生をくれたのは、あなたとパパだよ。私は、どこにも行かない」翔太は慣れた仕草で私の胸に飛び込み、「ママがいちばん」と甘えた声を出した。私は彼を抱き上げて、そのままくるりと回した。その拍子に、入口のほうが視界に入る。そこに立っていた悠真は、表情を崩さないまま、こちらを見ていた。目の奥だけが、濃い霧を溜めたみたいに暗い。とても、この年齢の子どもがする顔じゃない。最初の頃は、店の中で駄々をこね、床に転げ回って、大声で泣き叫んでいたというのに。けれどそれが通じないと悟ったのだろう。高坂家みたいに、誰もが無条件で機嫌の悪さを受け止めてくれるわけじゃない。それから悠真は、翔太のあとをついて回るようになった。振り払っても振り払っても、離れない小さな影みたいに。そして、ある日。翔太が姿を消した。翔太がいなくなったその日、私は深く考えなかった。放課後に友だちの家へ寄って、三十分ほど遅くなることは、これまでもよくあったか
夜、修司の前に座っていると、どう説明すればいいのか分からなくなった。突然、目の前に現れた元夫と子ども。翔太の額に残る傷痕。もう二度と口にしたくない、あの過去。それらが幾重にも重なって、胸の奥を押し潰していく。けれど修司は何も聞かなかった。ただ黙って、私を腕の中に抱き寄せた。驚くほどやさしい声で言う。泣きたいなら、泣けばいい、と。「真央……今まで、きっと苦しかっただろ。俺が悪かった。大学の頃からお前のことが好きだったのに、あのときは入隊することになってて……言えなかった。もっと早く言えてたらよかった。そしたら、お前をこんなに長く待たせずに済んだのに」私は修司の肩に額を預けた。堰を切ったみたいに、涙が次々とあふれてくる。高坂家で過ごした長い年月、恒一も、悠真も、ただ冷たい目で私を見ていただけだった。里奈は、私を敵だと決めつけ、私がすべて奪ったのだと、思い込んでいた。まさか、こんなにも時間が経ってから、修司の口から、こんな言葉を向けられるなんて――「……よく、ここまで耐えたな」しゃくり上げる私を見ると、修司は背中を撫でるように、そっと手を動かした。「真央。ここに来る前から、ある程度は覚悟してた。お前がどんな答えを出しても、俺は尊重する。お前が、ずっと高坂のことを好きだったのも知ってる。もし高坂家に戻るなら、それも……悪くない」私は修司の胸を、軽く拳で叩いた。「……何を勝手なこと言ってるの」修司は視線を伏せたまま、静かに言った。「俺の身勝手で、お前を縛りつけたくないんだ」「どうして、私がここに残りたくないって決めつけるの?」喉を震わせながら、私は言った。「私……ほんとに、ほんとに、行きたくなんてないのに」修司は私の拳を包み込むように握り、口元に笑みを浮かべた。その笑顔は、隠しきれない。「じゃあ、行かない。それに……もう少し先のことも、考えられる」私は話についていけず、ぱちりと瞬いた。「先って……何?」「翔太に、弟か妹を作ってやるのは嫌か?」一気に頬が熱くなり、私は吐き捨てるように言った。「……変態!」その夜は、夜明けまでふざけ合い、笑って、息が切れるほどだった。目が覚めたとき、私は腰を押さえながら起き上がり、鏡の中の自分が妙に艶めいているのに気づく。ノ
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