入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~ のすべてのチャプター: チャプター 271 - チャプター 280

388 チャプター

第271話

絵里はキスだけで頭がくらくらした。ふっと身体が宙に浮く。裕也に抱き上げられたまま部屋へ運ばれ、ドアが閉まる。廊下を曲がったばかりの和也の耳に、かすかな「カチャ」という音が届いた。反射的にそちらを見るが、そこには誰の姿もない。和也は奥へ進み、絵里の部屋番号を探した。一方、裕也は絵里を抱き寄せたまま、獣のように貪るキスを落とした。熱く口内を貪り、空気ごと吸い上げる勢いで彼女をベッドに押し倒す。吐息が絡む。裕也の荒い息が耳元をかすめ、身体が燃えるように熱い。触れられているだけで、溶けてしまいそうだった。「……いい?」低く、掠れた声。絵里はぼんやりとした瞳で彼を見上げる。抑えきれない恋しさと、爆ぜそうな衝動が胸の奥でうねった。腕を伸ばし、彼の首に抱きついて、自分から唇を重ねる。言葉はない。けれど、それだけで答えは十分だった。梨乃と話していたこの数日で、絵里は気づいてしまったのだ。自分が幸せになれることなら、結果なんて考えずにやればいい、と。特に男女のことは。昔の自分は臆病で、和也の「新婚初夜のほうが儀式感がある」という言葉も信じていた。けれど今は違う。好きなら、思う存分味わえばいい。真剣に愛し合っていなければ駄目だなんて、誰が決めたんだ?「……キスして」裕也の瞳に欲望が滲む。熱を孕んだ視線が、白く蕩けた絵里の顔を射抜いた。無垢で、艶がある。一度味わったら、もう手放せない。見つめるほどに血が騒ぎ、喉仏がごくりと動いた。長い指が、ネクタイを荒々しく引いた。今日の絵里は、妙に大胆だった。顎を上げて、彼に口づけた。触れた瞬間、裕也が覆いかぶさるように奪い返し、猛然と攻めてくる。そのとき、コンコン。ノックの音。続けて和也の声がした。「絵里、開けて。話そう!絵里……」さらに数回、叩かれる。裕也は声の主に気づき、目を細めて絵里の顔を見た。「一緒に来たのか?」誤解されたくなくて、絵里はすぐに答える。甘く柔らかな声が、妙に色っぽい。「違う。来てから、彼もいるって知ったの」裕也は満足げに口元を吊り上げると、また強引に口づけた。絵里の身体を抱え上げ、自分の上に乗せる。「……続き」次の瞬間、部屋の中では嵐みたいに求め合い始めた。ドアの外に和也がいようと、まるで関係
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第272話

和也は半信半疑のまま眉をひそめた。「つまり……あいつがわざと俺を試したってことか?なんでそんなことするんだよ?」「別れた理由、忘れたの?」寧々はもっともらしく肩をすくめる。「疑われたまま終わったからよ。試したくなるのも不思議じゃないでしょ」彼女が今回ここへ来たのは、二人を二度と会わせないため、それだけだ。和也の表情が、わずかに緩む。絵里の性格を思い出す。しかも彼女は一人で来ていた。胸につかえていた不安が、すっと落ちた。「絵里は、きっとまだあなたと一緒にいたいのよ。知ってるでしょ?あの子、ずっとあなたのこと好きだったんだから」寧々は畳みかけるように囁いた。「そんな簡単に、気持ちを捨てられるわけないじゃない。さっきみたいなことしてたら、もう完全にチャンスなくなるよ」和也は、確かにそうだと思った。絵里はこの五年、彼を愛して、わがままだった部分まで直し、何もかも彼を優先してきた。小さな誤解ひとつで、いきなり「もう愛してない」なんてことがあるはずがない。和也はようやく安心し、鋭さを宿していた目を細めた。「で、お前はT市に何しに来た?」寧々は胸の奥の罪悪感を押し殺して言う。「……私のせいで、二人は別れたでしょ。だから今回は、母の言いつけで来たの。あなたの面倒を見て、衝動的にならないように釘を刺して、それと、絵里に謝るため」和也は眉間に皺を寄せ、黙り込んだ。雪枝の狙いなんて、痛いほどわかっている。絵里は気に入らなくても、水原家は「逃がしたくない駒」だ。それに和也自身も、絵里と別れたいわけじゃない。ここは落ち着いて、あとでしっかり機嫌を取ってやればいい。……絵里は、まさか彼がここまで激しいとは思っていなかった。長く飢えていた狼みたいに、獲物である彼女を容赦なく貪り尽くす。何度も、何度も求められ、骨の髄まで味わい尽くされるような執拗さ。三度目が終わったあと、絵里はぐったりとベッドに横たわった。たくましい腕枕に包まれたまま、小さな身体を丸めて彼の胸に寄り添う。「……どうして来たの?出張?」絵里の声は気だるく、綿みたいに柔らかい。裕也は薄い肩を抱いたまま、節の浮いた指で彼女の黒髪をそっと梳いた。「お前に会いに来た」伏せた視線で彼女を見つめ、声だけは優しい。「昨夜、俺
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第273話

翌朝早く、絵里は撮影チームとの打ち合わせに出る予定だった。ベッドから身体を起こした瞬間、全身、特に手足がずしりと重く、筋肉痛みたいに痛む。彼女は、すでにきっちり身支度を整えた裕也を見上げた。スーツのスリーピースを完璧に着こなし、髪も乱れ一つない。「……ほんと、あなたってば狂ってる。昨夜、あんなに容赦なくして」絵里が拗ねたように言うと、裕也は当たり前みたいに近づき、彼女の腰を抱く。視線が落ちてくる。眉も目元も、やけに優しくて甘い。「それだけ絵里の魅力が強烈ってことだ。理性が持たなかった。俺のせいじゃない」そう囁きながら、裕也は身をかがめた。顔を寄せ、頬に熱い吐息がかかる。「それに、夫が妻の身体を欲しがるのなんて普通だろ」絵里の心臓がどくん、と跳ねた。この人、本当に言葉が上手い。こんなのを続けられたら、本気で、自分のことを好きなんじゃないかって勘違いしそうになる。でも、もし本当に惚れられたなら、それはそれで悪くない。絵里は拳をぎゅっと握り、むくれたふりで彼の胸を軽く叩いた。「はいはい。そんなふうに言われたら、私まで信じそうになる」裕也は真面目な顔を作る。「信じていい。俺が絵里のこと欲しくてたまらないのなんて、今日に始まった話じゃない」絵里は羞恥と呆れが同時に込み上げ、笑うしかなかった。もちろん、本気にはしない。「もう……」彼の身体をくるりと向けさせ、その背中を押して外へ追い出す。「江原社長の会社に行くんでしょ。ほら、早く。私は支度してから会議だから」「了解。俺が恋しくなったら遠慮なく連絡して」低くて、耳に残る声。「はいはい、覚えとく」絵里は明るく笑ってドアを開け、裕也を外へ押し出す。手をひらひら振ってから、カチャリと扉を閉めた。胸の奥が、ふわりと浮く。和也が命の恩人だってことも、全部が全部、悪い話じゃないのかもしれない。少なくとも裕也は、彼女を楽しくさせる。少しだけ、恋をしているみたいに。仮に、彼が郁江と過去に何かあったとしても、今が切れているなら問題じゃない。大人なんだし、元恋人が一人や二人いたって不思議じゃない。まして裕也みたいな男ならなおさらだ。一方、ドアの外。裕也は上機嫌だった。口元の笑みが、隠しきれないほど深い。先に待っていた健が、面白が
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第274話

「この十年、あの男はずっと自分が命の恩人だって名乗り続けてたのよ……そんな長い間、騙されて悔しくないの?」寧々は踵を返し、絵里へと歩み寄る。笑みはさらに自信に満ちたものになっていった。「手伝ってあげる。あいつの嘘、暴いてやる」そして、甘く問いかける。「どう?これで協力できるでしょ?」絵里は冷えた目で見返した。「またその手?その小細工なら、前にも使ったじゃない」「今回は違うの」「何が違うの。あなたは信用できない」寧々は絵里が首を縦に振らないのが怖くて、焦ったように言った。「私は和也と一緒になりたいの……邪魔なのは、あなたよ!」絵里は眉をひそめ、疑うように寧々を見た。さっき病院で、寧々と和也が話しているのが耳に入った。全部は聞き取れなかった。けれど、十年前、自分が水に落ちたあの出来事と関係があるらしい、そんな気配だけは確かに感じた。なら、確かめたい。十年前、助けてくれたのは本当に和也だったのか。それとも……「で、どう協力するつもり?」絵里は視線を上げ、片眉をつり上げた。寧々はニヤリと笑って、絵里の耳元で囁いた。話し終えると、寧々の瞳には計算の光が宿る。「その時は、あなたに完全に和也から離れてもらう。二度と連絡もしないで」絵里は口元だけで笑った。「言われなくても。むしろ、こっちから縁を切りたいくらい」そう吐き捨てた瞬間、男の弾んだ声が背後から飛んだ。「絵里……!」二人同時に振り向く。そこには和也がいた。整えた髪型がやけに様になっていて、杖を握ったまま焦るように近づいてくる。「迎えに来た。一緒に飯、食べよう」優しく言い終えた和也は、隣の寧々を見るなり、露骨に不機嫌になった。「……お前、何しに来た?」寧々は拳をぎゅっと握りしめた。以前の和也なら、こんな言い方は絶対にしなかった。三年前の件が露見してから、すべてが変わった。その落差が憎くてたまらない。けれど、それを表に出すわけにもいかず、無理やり笑みを作った。「母に頼まれたの。絵里を説得して、和也に代わって謝って、早くよりを戻してもらえって……和也、そんな目で見ないで。私、本当に二人に上手くいってほしいの。それに今日は、ちゃんと絵里にも謝りに来たの。あの時は私が悪かった。私のせいで、二人
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第275話

寧々の提案が悪くないと思ったのだろう。和也は上機嫌に言った。「やっぱり女同士だな。女の欲しいものは女が一番分かる。じゃあ、いいよ。お前が策を出せよ。償いってやつだ」裕也はもう別の女と結婚している。しかも今はT市にいない。なら、この隙に絵里を落とすだけだ。そのうち、手を出してしまえば……十年前の命の恩人が自分じゃないと絵里に知られても、いくら怒ろうが、もう逃げられない。……絵里はホテルの近くまで戻ると、ラーメンを一人前ホテルに持ち帰った。けっこう好きだ。旨味のあるスープも、好みに合っている。ソファに腰を下ろし、何口かすすったところで、裕也から電話がかかってきた。「ひと段落した?」相変わらず、穏やかで艶のある声。絵里は目を細めて笑う。「さっきラーメンを買ってホテルに戻ったの。食べ始めた途端に電話とか、タイミング良すぎ」「絵里もずいぶん偉くなったな。ちゃんと時間どおりに飯を食ってる」「当然でしょ。で、何かご褒美くれる?」スマホを耳に当てたまま、口元が勝手にゆるむ。頬も気持ちもほどけて、笑った目がきれいに弧を描いた。「ご褒美?」裕也は妙に真面目な調子で言う。「じゃあ、絵里が俺にくれたやり方で。今度は俺が、絵里に『ご褒美』をやる番だな」昨夜の熱を思い出して、絵里の頬が一気に熱くなる。「なにそれ……結局、いいとこ取りじゃない」「褒め言葉として受け取っておく」裕也がくすっと笑った。「商売人の手腕、認めてくれてありがとう」「……」褒めてないのに。すぐに向こうの空気が引き締まる。「夜、新システムの試験に参加する。戻るのが少し遅くなるかもしれない。先に言っておく」きちんとした報告だった。絵里は、それが嬉しかった。彼女が望む結婚は、今みたいな形だ。互いを尊重して、気を配り合って、きちんと向き合う姿勢を見せてくれること。そうであるなら、裕也が自分を愛していなくても、責任感だけでそばにいるのだとしても、彼女はこの結婚を続けていける。婚姻を支えるのは、激情じゃない。淡々とした日々の中で、分かり合い、寄り添い、助け合えることだ。「分かった。仕事、頑張って。私はホテルで脚本の調整してる」絵里は口元をやわらかく上げ、電話を切った。午後いっぱい脚本を整
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第276話

「友だち?」裕也は気だるげな声のまま、探るように言った。「俺の知り合い?」「現場の女優さん。綾子」絵里はありのまま答える。「わかった。行ってこい。気をつけろよ」裕也はそう釘を刺した。「うん」絵里は素直に頷く。準備を整え、タクシーでレストランへ直行した。洋風レストランの店内は静かで、ゆったりとしたバラードが流れている。綾子は景気よく高級な料理をいくつも頼み、年代物の赤ワインまで一本つけた。「食事するだけなのに、そんなに張り切らなくても」絵里は涼しい顔で言う。「あなたには大きな借りがあるもの。ごちそうするくらい、たいしたことじゃないわ」綾子は丁寧に返した。絵里は口元だけで笑う。バッグを開け、水と一緒に錠剤を二粒飲み込んだ。綾子が目を丸くする。「具合悪いの?お薬……」絵里は水をもう一口飲み、「違うよ、ビタミン」と淡々と答えた。綾子はほっと息をつく。ほどなくして店員がワインを運んできて、抜栓とデキャンタージュの要否を尋ねた。綾子が店員とやり取りしている隙に、絵里は席を立って化粧室へ向かう。裕也からLINE。【用事、片づけた。迎えに行こっか?】絵里は数回まばたきし、返す。【いいよ。終わったなら休んでて。すぐ戻るから】【ふーん。じゃ、俺はお利口に言うこと聞くしかないな】その文面を見て、絵里は小さく口角を上げた。手を洗い終えたところで、寧々から電話が入る。「あなたが欲しがってた真相、もうすぐ分かるよ」絵里はペーパータオルを一枚引き抜いて手を拭き、鏡の中の自分を見据えた。冷たく、落ち着き払った表情のまま。「そうだといいけど」「……」絵里が席へ戻ると、料理はほとんど揃っていた。綾子は明るく促し、グラスを持ち上げて絵里と軽く合わせる。「絵里、助けてくれてありがとう」「どういたしまして」絵里は迷わずグラスを合わせ、そのまま喉を潤す程度にひと口含んだ。綾子の瞳の奥で、何かが一瞬だけ光った。二人は食事をしながら取り留めのない話を続ける。食事の終わり頃、綾子は残りの借金を絵里に返済した。レストランを出るころには、夜の帳が降りていた。きらめく灯りが街の繁華を照らし、車の列が絶え間なく流れていく。誰もが急ぎ足で、生き急ぐように。綾子
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第277話

綾子が不安げに尋ねた。「……何をするつもり?」「余計なことは聞かないで。あなたが止められることじゃないから」寧々の声が、氷のように冷たくなった。「自分の仕事だけやってなさい。余計なことをしたら、この業界にいられなくしてやるから。それとも、死ぬまで貧乏人でいたい?一生だれかに踏みつけられて、頭を押さえつけられたままがいいの?」言葉を区切り、寧々は淡々と突きつけた。「私はそれでも構わないわ。あの動画を流すだけ。そうなれば、あなたは名声も信用も終わり。ようやく上向き始めた仕事だって、一瞬で潰れる」正直、綾子はびびった。金のない暮らしには、もううんざりしている。絵里が自分を友だちだと思っていないのなら、こちらだって慈悲をかける理由はない。「……私は何も知らないことにする。安心して」綾子は深く息を吸い、感情のない声でそう告げると、通話を切った。寧々も鼻で笑い、通話を終える。そして顔を横に向け、隣に控える屈強な男ふたりを見上げた。「その時は、あのビッチをたっぷりもてなして。それから、はっきり撮りなさい。あの子の、だらしないところ。徹底的に恥をかかせたいの」水原家の令嬢?そんな肩書き、すべて剥がしてやる。その時の絵里は、ただの踏みにじられた女だ。あの日、祝宴で味わった屈辱も、藤原家から追い出された惨めさも……全部、絵里に払わせる。もちろん、それだけじゃない。和也は、絵里が十年も命の恩人だと信じてきた相手じゃない。真実を知った瞬間、そして汚されたあと、息もできないほど崩れ落ちる絵里を寧々はこの目で見届けてやるつもりだった。……絵里は白いワゴン車の座席に身を預け、窓の外を眺めた。車は山道へ入っていく。道沿いの街灯は眩しいほど明るく、前にも後ろにも、同じように山へ向かう車が途切れない。後方には黒い車が一台、一定の距離を保ってついてきていた。絵里は視線を戻し、隣の和也へ淡々と問う。「どこへ行くの?」「T市の山の上に、いいリゾートがあるんだ。温泉もあるし、夜景もきれいだよ」和也は彼女の膝の上に置かれた手を見つめ、柔らかな笑みを滲ませた。「それに、今夜は流れ星が見られるらしい」その手が伸びてくる。握ろうとした指先を、絵里は冷たく避けた。「流れ星……?」絵里は眉をわず
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第278話

痛いわけじゃない。ただ、滑稽なだけだ。体の奥に広がる冷たさが、嫌でも思い出させる。この男が見せてきた、あの冷酷な態度を。「流れ星……それに、大きな月?」絵里の眼差しはさらに凍りつき、口元だけがふっと上がる。けれどそこにあるのは、あからさまな冷えた色だった。「前は私が頼んでも、あなたは罵ったのに。今になって、わざわざ用意してくれたわけ?」和也は、彼女が感動したのだと勘違いし、笑って口を開きかける。だが。「へえ。あなたもみっともない真似、できるんだ?」絵里の皮肉が突き刺さった瞬間、和也の表情が固まった。……いつからだ。こんなに口が悪くなったのは。言うことが、回を重ねるほど刺々しい。内心いらついても、和也はどうにか堪え、ぎこちなく口角を引きつらせた。「許してもらえるなら、もっとみっともなくなってもいいよ」絵里は、笑っているようで笑っていない顔のまま、しばらく和也を見つめた。やがて、淡々と視線を外す。「いいわ。じゃあ、遠慮なくさせてもらう」それきり絵里は顔を背け、何も言わなくなった。和也はその横顔を見ながら、胸の奥にひっかかりを覚える。どこか、おかしい。今夜の絵里は、妙に反応が違う。特に、承諾があまりにもあっさりしすぎている。だが、すぐに自分を納得させた。絵里はもともと自分のことが大好きで、五年も愛してきた。この二か月ほどは、怒って拗ねていただけだ。今夜、ちゃんと示せばいい。復縁できる。そうなれば、水原家の後ろ盾だって、手に入る。車は山道を登り続ける。運転手がふいに言った。「藤原さん、後ろの車……ずっとついてきているようです」絵里の目が、ぱっと見開かれた。和也も後部座席のガラス越しに後ろを見る。黒い車が一台、それだけじゃない。少し距離を置いて、さらに二、三台。和也は特に疑いもしない。「この山荘、客は多いだろ。普通だよ。気にしなくていい、進んで」「承知しました」運転手はそのままアクセルを踏み、山道を上がっていく。絵里は眉間の力をふっと緩め、まぶたを落とした。十分以上が過ぎたころ、ようやく目的地に着く。和也の言った通り、山荘は山と水に抱かれるように建ち、広くて贅沢だった。温泉ホテルと一体になっていて、外観からして別格の存在感がある。入口
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第279話

「ただ知りたいだけなの。十年前、どうして『あなたが私を助けた』ことになったのか」あの日、溺れかけた瞬間の記憶が、鮮明によみがえる。自分を助け上げてくれた少年の首には、小さなペンダントが揺れていた。半月の形をした、銀色のペンダント。凛とした、澄んだ声で「怖くない、俺がいる」と言われた。あの一言に、どれだけ救われたか。「もうずいぶん昔の話だろ。今さら蒸し返してどうするんだよ」和也は甘やかすように笑ってみせた。絵里はじっと彼を見つめる。「だって私は、あの年に私を助けてくれた少年に感謝してるもの。それに、あなた最近よく言うじゃない。恩は忘れるなって」和也が言葉に詰まった。視線が泳ぐ。後ろめたそうに、彼女の目をまともに見ない。できることなら、この話題には触れたくなかった。「私を助けたの、本当に……あなたなの?」絵里は食い下がる。逃がさないと言わんばかりに。和也は観念したように息を吐いた。「忘れたのか?お前、自分で言ってたじゃないか。意識が飛ぶ前に見たって。助けてくれた人が、半月の形をした銀色のペンダントをつけてたって、そのペンダントを持ってるのは、俺だけだ」そう言い切り、和也は胸の奥で小さく安堵する。よかった。もう片方の半月は、どこにもない。絵里の胸が、きゅっと詰まった。確かに、そうだ。病院で無事だとわかったあと。和也は見舞いに来ていて、首にはちょうど、そのペンダントがかかっていた。……じゃあ、寧々がまた嘘を?「絵里、飲もう。昔のことは、もういいだろ」和也はグラスを差し出し、彼女のそれと軽く合わせる。絵里はグラスの白い泡を見つめ、気にも留めずに二、三口含んだ。素直に飲むのを見て、和也は内心ほくそ笑む。彼は残りを一気にあおると、突然、ダイヤの箱を取り出した。立ち上がり、絵里の前で片膝をつく。箱を開き、情を込めた目で見上げる。「絵里……もう一度だけ、チャンスをくれないか。俺と結婚してくれ。今度こそ俺が守る。頼む」絵里は淡々と、その姿を見下ろした。胸の奥を、ひとすじの痛みが走る。何年も待った言葉が、諦めたあとに、ようやく来た。しかも、下心つきで。絵里は指輪をつまみ上げると、立ち上がり、前方の崖へ向かった。和也が後ろからついてくる。「……どうした?」
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第280話

絵里はあっという間に和也にベッドへ放り投げられた。潤んだ目を開いたまま、か細い声が漏れる。「……どうして、そんなことするの?」和也が覆いかぶさってきた。両手を彼女の身体の両脇につき、指先で頬をすうっとなぞる。「絵里。俺たち、愛し合ってるだろ?」にやり、と唇が歪む。底に粘つくような悪意を隠しもせず。「前はさ、いつも言ってたよな。なんでキスしてくれないの、触ってくれないのって。ほら、今こうして触ってやってるのに、不満なのか?絵里、何年も俺を好きでいたんだ。今日を待ってたんじゃないのか?」そう言いながら、彼は絵里のボタンへ手を伸ばす。絵里は咄嗟にその手首を掴んで制した。「あれは昔のこと。今やってるのは強要よ……犯罪なのよ」「わかってる。あのとき寧々のせいで、お前のこと、後回しにした。それをまだ怒ってるんだろ」和也は熱に浮かされた目で、頬を紅く染めた絵里を見下ろす。「絵里……ちゃんと一緒にいよう。今夜を越えたら、お前は完全に俺のもの。俺も、お前のものになる……」白い肌が、薄暗い灯りの下でも透けるように際立っていた。触れたら壊れそうで、妙に艶めかしくて、和也の胸の奥の汚れた欲を、いやでも煽る。正直、絵里は綺麗だ。この五年、どうして今まで気づかなかったのか。だが、今からでも遅くない。和也が顔を近づけ、口づけようとした。絵里は身を捻って避ける。胸の内にあるのは拒絶と嫌悪だけ。かつて欲しかった距離が、今は吐き気のするほど遠い。「触らないで。触ったら……一生、許さない」絵里は歯を食いしばった。酔ったふりの奥に、冷えた醒めた色が宿っていることに、和也は気づかない。情欲に支配された和也は、なおも迫ろうとする。絵里は反射的にドアのほうへ視線を走らせた。まだ来ないの?焦ってはいけない。絵里は淡々と和也を遮り、触れさせない。これ以上近づかれたら、耐えられない。「……なんでまだそんな力がある?まさか、気絶したフリか?」和也が目を細め、疑うように絵里を覗き込む。絵里の心臓がひゅっと縮む。バレる?このままじゃ、全部台無しになる。「絵里……お前が……ほしい!」和也は考えるのをやめたように乱暴に覆いかぶさる。「どうせ今夜、俺はお前を手に入れる。絶対にだ。安心しろ。ちゃん
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