Semua Bab 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Bab 261 - Bab 270

392 Bab

第261話

絵里は、田中が勘違いしているのだと思った。五年前の裕也が、どうして自分なんかを好きになるというのだろう。「あの頃の私はまだ子どもだったし、あの人が私を好きになるはずない。わがままな私に呆れもせず、真っ向からぶつかってこないだけでも十分だった」絵里は火を止め、器に二つよそってから、外のダイニングテーブルへ運んだ。田中は不思議そうに眉をひそめる。嫌う?そんなはずがない。裕也様の昔の部屋には、写真がたくさん飾られていた。十枚あれば八枚は奥様に関係するものだったのに。田中は絵里の前へ進み、探るように言った。「奥様……何か、誤解されていませんか?実は裕也様、本当に奥様のことが……」絵里はまっすぐ田中を見つめ、続きを待った。そのとき、外の庭先からエンジン音が響いた。裕也が帰ってきたのだ。ほどなくして、すらりと背の高い裕也が入ってくる。長い脚で大股に歩き、まっすぐ絵里のほうへ寄ってきた。「俺のために用意してくれたのか?」テーブルの甘味に目を留め、絵里が田中に作らせたのだと思ったらしい。絵里はこくりとうなずき、視線を落として素直に言う。「甘いものが食べたくなって。あなたもこれ、好きだった気がして……煮てみたの。お腹すいてる?一緒に少し食べない?」絵里が誘うと、裕也の目がぱっと輝いた。「……お前が作ったのか?」絵里が答える前に、田中がうれしそうに笑う。「奥様が裕也様のために、心を込めて作られました。けっこう手間もかかってますよ」絵里は照れたように口元をゆるめた。「おいしいか分からないけど……食べてみて」「一緒に食べよう」裕也は絵里の手を引き、並んで座らせた。二人の雰囲気を見て、田中は空気を読んで静かに下がる。食卓の上には温かな灯りが落ち、二人の肩をやわらかく照らしていた。並んで座る姿は、甘く、近い。裕也は数口食べると、惜しみなく褒めた。「うまい。やっぱり器用だな」絵里は彼の端正な横顔を見上げた。ここ数日、胸の奥につかえていたものが、少しだけほどけていく。それでも、確かめておきたいことがあった。「昨日の夜、どこに行ってたの?」絵里はスプーンを動かしながら、何気ないふうを装って尋ねた。裕也は彼女の横顔を見つめ、彼女がどの夜のことを言っているのか理
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第262話

絵里は黙り込んだ。郁江が現れる前なら、迷いなく「そうだ」と言えたはずだ。「私たちは夫婦でしょ。目の前で浮気されて黙って見てろっていうの?」絵里はまぶたを伏せる。胸の熱がすっと引いて、怒りも半分ほど消えた。声も自然と柔らかくなる。「……とにかく。ほかに気持ちがあるなら、ちゃんと言って。私は案外、さっぱりしてるから」裕也の深い瞳に、ひとすじの暗い色がよぎる。薄い唇が、意味ありげに持ち上がった。「さっぱりしすぎるのも、いいことじゃない」絵里は首を傾けて彼を見る。裕也は視線を落とし、スープをひと口。横顔の線はくっきりとしていて、息をのむほど端正だ。品のある雰囲気も、相変わらず変わらない。ふとこちらを見た瞬間、星を宿したような瞳に、吸い込まれそうになる。絵里はあわてて顔をそらした。……今の言い方だと、私に浮気を我慢しろってこと?「……昔のお前に、だんだん戻ってきたな」裕也の声が、かすかに掠れる。目の奥の光が沈み、濃くなる。和也に向けていた心の半分でも、こっちに向けてくれたらいいのに、そんな願いが、喉の奥で苦く絡んだ。「私、無駄に消耗したくないだけ」絵里は言い返し、横目で彼を見た。「あなたと郁江が……どうしても離れられないなら、邪魔したくない」一拍置いて、絵里は真剣な顔になる。「身を引くし、あなたのことも責めない」裕也の喉仏が小さく転がった。スプーンを持つ指に力が入る。やがて、嘲るような笑いが漏れた。「だから言ってるだろ。俺に対して、そこまで大盤振る舞いしなくていい」その一瞬、絵里はあれ、怒ってる?と感じた。次の瞬間、低い声が落ちてくる。「今の言い方だと、お前は郁江が俺の想い人であってほしいみたいだな?」絵里は平気なふりをして、唇の端を上げた。「私、目がついてるの。病院で、あの子あなたの腕にあんなふうにくっついてたの、見たし」「絵里」裕也がいきなり彼女の手首を掴み、身を乗り出す。視線が、熱を持って頬を焼いた。「どうして、お前は決めつける。俺の想い人が郁江で、お前じゃないって」抑え込んだ声。押し殺した感情。瞳の奥の闇が滲み出て、夜そのものが彼女を飲み込もうとするみたいだった。絵里は目を見開く。なぜ急に怒り出したのか、わからない。この息苦しい空気が
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第263話

絵里は胸の奥が張り裂けそうなまま、一息に言い切ると、踵を返して立ち去ろうとした。その手首が、不意に掴まれる。次の瞬間、身体がくるりと回され、広くて硬い胸板へ引き寄せられた。後頭部を大きな手のひらが押さえ、杉の香りが鼻先にまとわりつく。そして。柔らかな唇を奪われた。男の息が唇と歯の隙間を荒々しく征服し、絡め取ってくる。激しく、挑発するみたいに熱い。絵里は不意打ちに息を呑み、身をよじって拒もうとした。なのに手首はさらに強く拘束され、キスはもっと深く、もっと執拗になっていった。息を奪い尽くして罰するみたいに、容赦なく踏み込んでくる。絵里は窒息しそうになり、抵抗する力さえ抜けて、彼の腕の中でぐったりと崩れた。少ししてようやく、男の支配的な唇が名残惜しそうに離れる。湿った熱が頬に降りかかった。「五年、愛したことは間違いじゃない」裕也の声は掠れていた。「でも、何かあるたびに俺を突き放すな」絵里はぱちりと瞬きをする。胸の中に溜まっていた棘が、少しだけ溶けた気がした。「でも……あなたの想い人が、戻ってきたじゃない」どうやら彼の想い人が自分だなんて、絵里はどうしても信じられないらしい。裕也はその反応を理解していた。怖がらせたくない。親指で彼女の頬をそっと撫で、柔らかな目で見つめる。「時間が、全部証明してくれる」絵里の心はふっと緩んだ。俯きがちに顔を上げ、従順すぎるほど素直な目で彼を見ている。「……うん」裕也はそれを聞いて、口元をわずかに持ち上げた。張り詰めていた気配がほどけ、暗い瞳に甘い情が宿る。絵里も胸の詰まりがすっと楽になり、ふと思い出して口を開いた。「そうだ。明日から、撮影でT市のロケに行くの」「いつ……」裕也が眉を上げた、そのタイミングで。場違いな着信音が鳴った。彼はスマホを手に取り、画面を一瞥した途端、表情が沈む。「電話、出る」絵里もちらりと画面を見たが、相手までは分からない。けれど尋ねもしなかった。大人しく頷いて、「うん。私は外に出てるね」と言った。「……ああ」裕也は彼女が書斎を出ていくのを見届けてから、指を滑らせて通話に出た。「どういう状況だ」「社長、雪枝様が取締役二人と話をまとめました。持ち株を買い取って、今夜サインする予定です…
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第264話

絵里はもう一度書斎へ戻り、知能運転システムのプログラム改修を黙々と進めた。システムの知能化を徹底的に突き詰めさえすれば、緊急回避などに残る不具合も、いずれ潰せるはずだ。そうなれば、安全面の故障を、これ以上怯える必要はない。新エネルギー技術の壁だって、きっと越えられる。それはすべて、父がかつて思い描いた未来だった。けれど父は成し遂げることができず、その代償として命まで失った。それでも、あの頃の父が必死に研究にしがみついたのは、母を失った夜から心に刺さった棘が抜けなかったからじゃないのか。もし……もし事故のあと、システムの不具合でドアが開かないなんてことがなければ、母は死なずに済んだ。父は、車内に閉じ込められた母を助け出せなかった自分を責めた。なにより、当時の未熟な技術を憎んだ。だが父は、最後までその問題を解決できなかった。思い出が連なった瞬間、絵里は溺れたみたいに息が詰まった。全身の筋肉が勝手に震え、目の前のコードを見つめるほど、脳裏には母の最期が何度も何度も再生される……血に濡れた母の顔が、窓ガラスに張りついていた。かすかな呼吸。今にも消えそうな目。車が燃え上がり、そして……ドンッ、と爆ぜた。父と絵里は、ただ見ていることしかできなかった。炎に呑まれていく母を、目の前で、生きたまま焼き尽くされる母を。何ひとつ、できなかった。あの夜の空は、血みたいな赤で染まっていた。まるで、燃え盛る新エネルギー車が、母を丸ごと喰らい尽くしたみたいに……その光景が、父の最期と重なっていく。父は死の間際、絵里の手を強く握りしめた。弱々しい声が、今も耳に焼き付いている。「絵里……俺はもう助からない。絵里、悲しまないで。泣かないで。お父さんはお母さんのところへ行くだけだから。絵里はすごい子だ。きっと、あの技術を完成させてくれるよな?」「……いや……!父さん、死なないで……!」絵里は父の痩せた手を必死に掴み、絶望のまま泣き叫んだ。「……もう母さんはいないの。父さんまで、私を置いていくの?お願い……置いていかないで。お願いだから……!」「……」涙で視界が滲み、何も見えない。父は痛ましそうに絵里を見つめた。けれど呼吸はどんどん浅くなり、握っていた手は、ついに力なく落ちた。
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第265話

深夜。裕也は最速でS市へ駆けつけ、とある高級会員制クラブの前に立った。場所はひっそりと奥まっていて、警備もやけに厳重。だが、底冷えするような威圧感と、背後にある力をまとった裕也を止められる者などいない。扉が開く。室内の笑い声が、ぷつりと途切れた。裕也は冷ややかに一瞥し、唇の端をわずかに吊り上げる。「こんなところに隠れて契約ですか。これで平穏無事のつもり?」鋭い眼差しが、そこにいる全員を見下ろした。「どうしてここが……」上座にいた雪枝の顔色が変わり、バッと立ち上がる。険しい目で裕也を睨みつけた。裕也が現れた瞬間、同席していた二人の取締役は視線を交わし、背筋に冷たいものが走った。裕也はそのまま部屋へ踏み込み、目に見えない圧を連れてくる。「母さんが裏でこんなに動くのは藤原グループを潰したいからですか」声は淡々としているのに、どこまでも冷たい。「それとも……この俺を?」雪枝の胸が大きく揺れた。「ただの顔合わせよ。昔話をしていただけ」「そうです、藤原社長。誤解なさらないでください」「我々はいつだってグループに忠誠を……」トン、トン。裕也の指がテーブルを数回叩く。それだけで二人は言葉を飲み込んだ。「俺が管理しているグループに、不満でも?」叩くのをやめた裕也が、刃物のような目で二人を切りつける。「い、いえ……!」「とんでもない……!」二人は必死に首を振った。額にはいつの間にか冷や汗。健が二人の前へ進み、テーブルの書類を手に取る。誰も止められず、そのまま裕也へ差し出された。雪枝は唾を飲み込み、平静を装う。情報が早すぎる。こんなにすぐ、ここへ来るなんて。「母さん」裕也の声は低く、嘲りが混じった。「藤原家は母さんに冷たかったですか。あんな馬鹿げたことまで、見逃してやったのに。株を買い集めて……『かわいい息子』に継がせるつもりだった?」雪枝が歯を食いしばる。「全部、あなたのせいよ。弟を子会社から追い出したから!裕也、何のためにやったか、自分が一番わかってるはず!」そして、目を細めた。暗い光が瞳の奥に浮かんだ。「絵里に近づいたのも、水原グループが目的でしょう?あのジジイが死んだら、絵里さえ落とせば水原グループは手に入る。違う?」「弟……
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第266話

空港へ向かう時間が迫っていて、彼にLINEを入れるしかなかった。【今日、撮影クルーに同行して密着取材なの。10時の便でT市へ飛ぶよ】送信してすぐ運転手に空港まで送らせたが、保安検査を抜けても返信は来ない。もうすぐ搭乗だ。絵里は少し迷って、もう一通だけ送った。【たぶん、半月くらいになると思う】半月後、ちょうど、彼の誕生日。誕生日のパーティで結婚を公表すると、裕也はそう言っていた。裕也がどうするのか、絵里にはわからない。想い人を選ぶのか。それとも、結婚を公表するのか。けれど、どちらでも受け入れるつもりだった。……裕也はS市から戻ってきた。徹夜で、一睡もしていない。車の中でほんの少しだけ目を閉じた。目を覚ましたとき、ちょうど空港の近くに着いていた。絵里からのLINEを見た瞬間、裕也の顔が沈む。鋭い声で言い放った。「停めろ」健は意味がわからず目を瞬かせる。「10時から取締役会が……」「停めろ」凍えるような視線が飛んできて、逆らえる空気じゃない。健はそれ以上、何も言えなかった。社長がここまで焦るなんて、奥様のことか?奥様が空港にいる……まさか、逃げた?それは洒落にならない。車が止まるや否や、裕也はドアを開けて飛び出し、ターミナルへ突っ込んだ。一直線に搭乗口へ向かう。走りながらスマホを取り出し、絵里に電話をかける。その頃、絵里はすでに機内にいた。LINEは未読のまま、返事もない。客室乗務員に何度も促され、仕方なく機内モードに切り替える。操作を終えた瞬間、胸の奥に言いようのないものが滲んだ。複雑だ。寂しいようで、悲しいようで、それ以上に怖い。一晩中返事がないのは、仕事が忙しいだけじゃなく、その「想い人」と一緒にいたからじゃないか。返信しないのは、返したくないから?それとも、想い人の前では返しづらいから?悪い想像が止まらず、絵里は自分でも抑えが利かなくなっていく。けれど絵里は知らない。裕也はもう搭乗ゲートまで駆けつけていたことを。ほとんど同時に、絵里の乗った機体が、ゆっくりと上昇を始める。遅れて追いついた健が、息を切らしながら震え声で告げた。「社長、飛行機……もう離陸しました」裕也は冷たく一瞥する。「見えてる」健は即
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第267話

「チャンスをくれ。送らせてくれよ。約束する……絶対にしつこくしない」杖をついているというのに、端正な顔立ちから滲む人たらしの色気は隠しようがない。だが絵里は眉ひとつ動かさず、冷ややかに言い捨てた。「今でも十分うるさい。離して。離して」和也は動かない。それでも絵里の瞳が氷みたいに冷たいと悟ったのか、結局、渋々手を放した。絵里はタクシーに乗り込み、撮影班が手配したホテルへ戻った。プロデューサーは、前にT市で起きた件を知っていたらしく、気を遣ってくれたのだろう。わざわざ前回と別のホテルを取ってくれていた。フロントでカードキーを受け取り、部屋へ。荷物を置き、顔を洗ってから、ようやくスマホを手に取ってLINEを開く。裕也から何通か届いていた。【ごめん。今、やっと気づいた】【俺が悪い。お前が仕事に行くのも知らないなんてさ。あとでちゃんと罰を受ける】【機嫌悪くならないで。俺は仕事してただけ。浮気じゃない】【俺が悪いなら俺を罰して。自分を苦しめるなよ】【……】最後には、男の子が女の子にボコボコにされて顔を腫らしたスタンプまで添えられている。それを見た瞬間、絵里は堪えきれず吹き出した。「ふっ……」一日中、胸に溜まっていた重さが、すっとほどけていく。彼女は打ち込んだ。【じゃあ、どう罰するか考えとく】【T市に着いたよ。こっちは大丈夫】送信してから、撮影のグループチャットにも顔を出す。覚が【明日の午前中、現場でミーティング】と通知していたので、絵里は短く【了解】と返し、必要な日用品を買いに下へ降りた。ホテルの備品は、どうにも肌に合わない。近くの店で買い物を済ませ、ホテルの入口へ戻ると……遠くからでもすぐにわかった。杖をつき、そこに立って待っている和也の姿。まるで、いかにも一途ですと言わんばかりの佇まい。絵里の胸を、苦いものがかすめた。好きだったころは見向きもしなかったくせに。踏みにじっておいて。もう愛していないと知った途端、今さら深情けでも演じるつもり?和也は絵里を見つけるなり顔を明るくし、杖を頼りに近づいてくる。「絵里、帰ってきたんだな。ここで……もう一時間近く待ってた」絵里は相変わらず淡々としていた。「それで?」「飯、まだだろ?一緒に夕飯……」
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第268話

絵里は露骨に眉間へしわを寄せ、彼を睨みつけた。パァン。ためらいの欠片もなく、平手が彼の頬を打った。「……言動に気をつけて」絵里は冷ややかに言った。その目の奥には、怒りの炎が燃えている。和也は殴られたみたいに呆けた。「……何を想像してんだよ」和也は恨めしそうに彼女を見て、「俺が言いたかったのはさ、今夜一緒に飯食わない?ってこと」と続けた。絵里は一瞬、言葉を失う。食事?誤解だろうが何だろうが。あの一発を後悔する気はなかった。「だったら、普通に言えば?なんでそんな近くまで寄ってくるの」絵里は相変わらず冷めた顔のまま、突き放す。「言い方が紛らわしいのはそっちでしょ。自業自得」和也は苦笑いを浮かべた。前なら、こんなふうに言えば顔を赤くして俯いたのに。今じゃ、いきなり手が出る。……まあ、いい。手を上げるってことは、まだ俺のことを気にしてるってことだ。だったら、まだチャンスはある。「はいはい、俺が悪かった」和也はヘラヘラ笑い、整った顔に不良っぽい色を滲ませた。「で、どう?来てくれる?」絵里は白い目を向ける。「行かない」言い捨てて、彼女はホテルの中へ入っていった。食事一回で恩返し完了?そんな都合のいい話、信じるほど馬鹿じゃない。和也はその背中を見送り、目を細めてから、くつくつと笑った。この気の強さ、付き合う前、絵里が俺を追いかけ回してた頃にそっくりだ。あれも、もう五年前か。付き合っていた五年で、絵里はどんどん自分を失っていった。それが続くと、逆に俺のほうが退屈になった。今のほうがいい。少し離れたところで、寧々がさっきの一部始終を見ていた。拳をぎゅっと握りしめ、腹の底が煮えくり返る。だから和也は足の具合が悪いのに、わざわざT市まで来たの?絵里を追いかけるために?何なの、あの女。どこがいいの?裕也があんなに庇って、今だって和也まで媚びるようにへつらってる。……許せない。絵里と和也がよりを戻すなんて、絶対に阻止しなきゃ。……絵里はもう、和也に気分を左右されない。ホテルの部屋に戻ると、手早く日用品を片づけ、シャワーを浴びてベッドへ潜り込んだ。枕元で梨乃にLINEを打つ。T市に来たことは、梨乃も当然把握済みだ。
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第269話

絵里は梨乃の成果を誇らしく思い、スマホを置いた途端、ようやく空腹を自覚した。デリバリーの画面をもう一度眺め、注文しようとした、そのとき。コンコン、とドアを叩く音。絵里は目を見開き、ドアの前で声をかけた。「どちらさま?」「お客様、ホテルサービスでございます。ご注文のお食事をお届けに参りました」このクラスのホテルならルームサービスがあるのは不思議じゃない。けれど、絵里は何も頼んでいない。半信半疑のままドアチェーンをかけ、隙間から覗く。確かに、制服姿のスタッフが立っていた。そこでようやく、少しだけドアを開ける。「私、頼んでません。お部屋、間違ってませんか?」「お客様、こちらはホテルシステムの伝票でございますので、誤りはないかと。伝票に従い、お届けしております」スタッフの声が落ちた瞬間、絵里のスマホに和也からメッセージが入った。【まだ食べてないだろ。チーズロブスターのグラタンとパスタ、好きだと思って。少しでも食べて。胃を空っぽにするなよ】文面は優しさで埋まっている。知らない人が見たら、どれほど愛しているのかと勘違いするだろう。絵里はまぶたを持ち上げ、スタッフに微笑んだ。「食欲ないので、いりません。下げてください」言われた通り、スタッフは余計なことは聞かずにワゴンを押して去っていく。絵里はドアを閉めた。無表情のまま返信を打つ。【私、それ一度も食べないけど。あと、チーズアレルギーだから】わざとじゃない。事実だ。付き合って五年。彼は、彼女が何を好むのかすら覚えていない。胸の奥が、じくりと痛んだ。一方、和也はその返信を見て、軽く自信を揺らがせた。絵里が好きなのは、この二つ、そう覚えていた。間違うはずがない。だが、友人たちの彼女も、拗ねたときはよく真逆のことを言う。だったら、これはつまり。絵里はまだ自分を想っている。少し甘えて、もっと宥めてほしいだけ。分会社の社長権限のために。水原家の事業のために。この程度の「小さなわがまま」なら、頭を下げてやってもいい。そのうち絵里は、昔みたいに笑って自分の元に戻ってくる。最悪、命の恩人という切り札もある。絵里は、結局俺の手のひらから逃げられない。……絵里は、さすがに限界だった。腹が減りすぎている。ホテルの近くにラーメ
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第270話

絵里の胸の奥に、むっとした嫌悪が湧き上がる。踵を返し、反対方向へと歩き出した。だが、和也は杖をつきながらも、びっこを引く足取りで彼女より速い。すぐ背後まで追いつくと、絵里の腕を掴んだ。「絵里!」触れられた瞬間、絵里は反射的に腕を振り払う。「まだやるつもり?」声は淡々としていた。けれど、振り向いた瞳は冷たく、遠い。整った顔立ちの和也と、華やかな絵里。人混みの中でも目立たないはずがなく、周囲の視線が自然と集まっていく。和也は珍しく穏やかな声で宥めた。「怒らないでくれ。ひとりで歩かせるのが心配で、ついてきただけだ」絵里は忘れていない。薬を盛られたこと。わざと酔っぱらいをぶつけられたこと。車に轢かれかけたこと……どれもこれも、和也が絡んでいた。絵里は口元を吊り上げ、嘲るように笑う。「守るって?あなたが私に意地悪しないだけで、十分ありがたいわ。それに……その足じゃ、まず自分を守ったら?」視線が、和也の怪我した足へ落ちる。笑みはあくまで皮肉だった。和也は面子を潰されたように眉を寄せる。「まだ怒ってるのはわかる。でも、言い方ってものがあるだろ。心配してるだけだ。気にかけるのも悪いのか?なんでそんなに刺々しいんだよ」以前なら、ここで胸がきゅっと縮んで、勝手に傷ついていただろう。けれど今の絵里は、議論する気すら起きなかった。「事実を言っただけ。それで刺々しいの?」絵里は視線を戻し、低く笑う。「そうよね。あなたは寧々みたいな子が好きなんだもの。ごめんね、私じゃその自尊心、満たしてあげられない」言い捨てると、絵里は迷いなく歩き出した。背筋はまっすぐ。鮮やかで、余裕がある。その背中を見送った瞬間、和也の胸に、ざわりと不安が差し込んだ。なぜだろう。怖い。絵里は、自分が思っているように「拗ねているだけ」じゃないのかもしれない。意地でも、駆け引きでもなく、本当に、自分の元から消えるつもりなのかもしれない。嫌だ。そんな結末、受け入れられるはずがない。和也は杖をつきながら、必死に絵里を追った。胸の奥の不安を、否定するために。……絵里は早足で部屋へ戻った。カードキーをかざし、中へ入ろうとした、そのとき……ドンッ。外から押さえつけられるように、ドアが止まった。絵里は
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