All Chapters of 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Chapter 291 - Chapter 300

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第291話

「藤原社長、水原さん」江原社長が揉み手で駆け寄ってくる。「こちら、すべて準備できております。すぐ始められますので」「疲れてない?先に少し休む?」裕也が首を傾け、絵里の顔を覗き込む。江原社長が今まで見たことのない、やたらと優しい声だった。仕事は速い、手も容赦ない、そんな藤原社長にここまでさせる女。絵里は、ただ者じゃない。江原社長は機嫌を取るように言った。「休憩スペースもございます。水原さん、そちらでお水や果物など……」絵里は静かで、でも晴れやかな表情のまま口を開く。「大丈夫です。疲れてません。私のことは気にしないで、いつ始めてもいいです」「さすが、元気印だな」裕也がからかうように笑い、すぐ横を向いて指示を出す。「じゃ、始めよう」絵里は一瞬、言葉を失った。驚いた顔で裕也を見る。元気印。大学の頃、絵里は尽きることのないエネルギーの塊みたいだった。運動会だろうが学園祭だろうが、片っ端から参加する。バレーもリレーも当たり前にこなして、成績は上位。発表会のダンスは、校内がざわつくほどだった。いつからか、誰かがそう呼び始めた。「元気印」梨乃は言っていた。明るすぎて眩しいから、妬まれやすいんだって。でもそれは、学校の中での話だ。裕也は何年も上の先輩のはず。どうして知ってるの?試乗はすでに始まっていた。走行エリアの車両に視線を向けている裕也を、絵里はじっと見つめる。堪えきれず、口にした。「ねえ……私のこと、色々知ってるよね」今になって思えば、和也と入籍の約束をしていたことを、裕也が知っていたのも、出来すぎている。偶然にしては、噛み合いすぎる。どうして裕也は、和也が私と入籍しないって知ってたの?まさか、ずっと、私を見てた……?裕也は、車両を追っていた視線をゆっくり戻し、絵里の頬に落とした。柔らかな瞳が、いつものように微笑む。「今さら気づいたの?このおバカさん」そう言って、手を伸ばし、くしゃりと彼女の頭を撫でる。「和也から離れたら、本当に少し賢くなるんだな」甘すぎる。動作も、言葉も。変に誤解しそうになる。胸の奥に溜まっていた疑問が、いっきに溢れそうだった。結婚のこと、態度のこと、あの時あんなふうに言った理由……裕也は、どうしていつも私のこ
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第292話

「裕也、ほんとミステリアスだよね。今日の試乗、どうして見学に来いって一言もくれなかったの?」白いオフィススーツに身を包んだ郁江が、明るく自信たっぷりにこちらへ歩み寄ってくる。裕也に向ける笑みは艶やかで、やけに馴れ馴れしい。そして、さきほど試乗車がトラブルを起こした方角へちらりと目をやった。「でも……見た感じ、今日は新システムの試乗、失敗しちゃったみたいだね」絵里は初めて見た。人の不幸を喜ぶ心を、ここまで上品な演技に仕立てられる女を。表向きは残念そう。だが裏では、新システムのエンジニアを嘲っている。他人事だと思っていたのに、まさか自分のことだったとは。「誰が呼んだ」裕也は冷たく言い放ち、視線を逸らして郁江を見ようともしない。そのまま、絵里の腰に手を回して抱き寄せた。この仕草は、まるで郁江に告げているみたいだった。俺たちは近い、と。絵里は思わず裕也を見上げる。こんなにあからさまにして、平気なの?それとも、わざと私を使って、郁江を刺激している?「だってさ、私たちも一応、知り合いで……昔、いろいろあったじゃない」郁江は敵意を含んだ目で絵里を一瞥し、顎を高く上げた。「私、上級エンジニアとして『見てあげに来た』の。騙されないようにね」言外にあるのは、新システムへの否定だ。しかも絵里が拾った情報はそれだけじゃない。郁江も開発側の人間、研究開発のエンジニアだ。裕也の目が沈む。鋭い視線が郁江を射抜いた。「それ、俺がバカだって言ってんのか?」郁江の顔色が変わる。「違うよ。ただ、騙されるのが心配で……」「神原寿樹は確かに有名だけど、最近彼が『許諾してる新システム』って、本人の手によるものじゃないって話もあるの。将来、特許の揉め事にでもなったら……御社への影響が大きすぎるでしょ」「余計な世話だ」裕也はさらりと言い、距離を取ったまま取りつく島もない。絵里はまた驚く。この突き放し方、ショートドラマに出てくる男主人公そのものだ。郁江は腹の底から苛立った。恥をかかされたと思ったのだ。あれだけ親切を並べたのに、まるで相手にされない。しかも絵里の目の前で、こんなふうに面子を潰されるなんて。G市の界隈じゃ誰でも知ってる。水原家の令嬢は使えないって。兆の規模のグループ
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第293話

裕也が低い声で指示を飛ばす。「車を回して検査に出せ。新システムに問題が出るはずがない」絵里はまたしても、彼の言葉に意表を突かれた。……ここまで、この技術を信じてくれるの?彼は知らない。システムの開発に関わっているのが自分だということを。それでも、こうして全面的に庇われるのは、技術者として認められた気がして、胸が熱くなる。誰だって、そうだ。その場にいた数人も、さすがに口を挟めなかった。皆、知っているのだ。裕也と郁江には、惜しまれる過去があることを。それなのに今日、裕也の郁江への態度はあまりにも冷たかった。「行こう」裕也は絵里に柔らかく微笑むと、肩を抱いてその場を後にした。「裕也!」郁江は、こんな屈辱を受けたことがない。追いすがり、絵里の腕を掴もうと手を伸ばす。「待ちなさいよ!」裕也は視線の端でその動きを捉えた瞬間、腕にぐっと力を込め、絵里をその胸に抱き寄せて庇った。同時に空いた片手で郁江の手首を掴み、動きを止めた。一連の流れが、淀みない。絵里は広い胸板に押し当てられ、服越しでも体温が伝わってくる。……今の、ずるいくらい格好いい。裕也は絵里の頭頂に視線を落とし、無事だと確認してからようやく安堵した。そして郁江の方を振り向いた。鋭い眼差しで郁江を射抜き、その手を放った。「星野さん、いい加減にしてください」郁江は悔しそうに絵里を指差す。「その女、あなたの弟の彼女でしょう?なのに、私にこんなことしてまで庇うの?」「元彼女だ」裕也は淡々と訂正し、冷えた瞳で言い切る。「それが何か?」「……っ」郁江は歯を食いしばり、砕かれた矜持を必死に拾い集めるように声を振り絞った。「そんなにベタベタして……噂になってもいいの?」「それが何か、分かるか?」「なによ」郁江の怪訝な視線の中。裕也は薄い唇に嘲りを滲ませた。「余計なお世話だ」絵里「……」容赦なさが桁違い。逆に気になる。二人の間に、何があったんだろう。郁江は怒りで顔を真っ赤にし、拳を強く握りしめた。胸が激しく上下する。車に乗り込んで去っていく二人を見送る瞳に、憎悪が隠しようもなく浮かぶ。あの二人が、そんな関係のはずがない。裕也がSNSに上げていたあれだって、全部嘘。どうせ
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第294話

絵里は話を単純に切り分けた。「彼女って、あなたの想い人なの?さっき、わざと彼女の前で私を抱き寄せたのは……彼女を怒らせるため?」裕也は奥行きのある瞳に、人を惑わせるような笑みをにじませながら、ひとつずつ答える。「一つ目。想い人じゃない。二つ目。彼女を怒らせるためでもない」絵里は彼をじっと見つめ、表情の揺れを探った。けれど、無駄だった。裕也の顔色は変わらない。嘘の気配は、欠片ほどもない。彼ほどの男なら、そもそも嘘をつくこと自体を選ばないだろう。郁江は想い人ではない、と何度も言うのなら、きっと、それが真実だ。絵里の胸を締めつけていたものが、すとんと落ちる。……違うなら、そのほうがいい。もう、聞くこともない。「俺に利用されてるって思った?」裕也がふいに顔を落とし、間近で探るように覗き込んできた。絵里は笑っていない笑みを作る。「その疑いは、ある」だって、あまりにも露骨だ。絵里は裕也を押しのけるように離れ、ソファへ腰を下ろす。脇のクッションを手に取り、抱え込んだ。考えてみれば、絵里は裕也の過去を何ひとつ知らない。郁江が失った子どもは、裕也との子だったのか。ふたりの間に何があったのか。何も、わからないままだ。裕也の身体が覆いかぶさり、絵里をソファに押しつける。「忘れるな。もうすぐ、俺たちの結婚を公にする披露宴だ」もちろん忘れていない。けれど、絵里は思わず目を見開いた。「……まだ、公開するつもりなの?」「なに、後悔した?俺が夫だって知られるのが嫌か?」裕也の手が腰を強くつねり上げる。服越しでも熱が伝わるほど、容赦がない。痺れるような甘さと、鋭い痛み。絵里の表情がわずかに崩れた。「そういう意味じゃない」「ならいい」裕也が耳たぶに歯を立て、掠れた声で囁く。「あと半月もない。絵里、あの日に贈ったドレスが気に入らないなら、別のも選べる」熱い息が首筋をなぞり、絵里の身体がびくり、びくりと震えた。「……気に入ってる。選び直さなくていい」声が微かに揺れてしまい、絵里は自分でも披露宴が少し楽しみになっているのを自覚した。裕也は頬が赤く染まった彼女を見て、それ以上からかうのが忍びなくなったのか、表情を引き締める。「今日の試乗車、何が原因だと思う?」突然
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第295話

絵里は視線を感じて顔を上げた。裕也がどこかへ指示する声が耳に入る。「調べろ。誰の仕業だ」通話を切ると、裕也はまた彼女へ身を寄せ、薄い唇に笑みを刻んだ。「賢いな。どうして一発で当てられるんだ?」絵里は相変わらず呆然としている。「本当に……誰かが細工したの?」「んー、まあな」裕也は彼女の尖った顎先をつまみ、奥深い瞳に探る色を濃くした。「そういえば、絵里、昔ちょっと工学もかじってたよな……」絵里の表情が、わずかに強張る。彼を淡く押し返し、立ち上がると寝室へ向かった。「下手だったし。話すほどでもない」その細い背中を見送りながら、裕也の眼差しはさらに暗く、深く沈んでいく。……絵里はその後二日間、撮影は順調に進んだ。一度組んだ相手ということもあって、前回よりずっと息が合う。今日の台本も監督の調整に合わせて整え終え、トイレだけ済ませて帰ろうとしたところで、スマホに裕也からLINEが入った。【今夜、俺と一緒にパーティーに来い】【何のパーティー?】【星野家。ご当主の八十の祝いだ】星野家、それって、郁江の家じゃない。あまりに急で、絵里は一瞬言葉を失った。数秒迷ってから打つ。【私が行って大丈夫?】【いずれ公表するんだ】それもそうか、と絵里は納得する。【わかった】トイレを済ませ、手を洗っていると、綾子が入ってきた。絵里を見るなり、ぴたりと足を止める。入るでも出るでもなく、戸口で固まった。絵里は視線を戻し、ペーパーで手を拭く。綾子は葛藤した末、怯えたように口を開いた。「み、水原……水原さん」うつむいた顔は、ひどくぎこちない。絵里は淡く「うん」とだけ返し、それ以上は何も言わずにすっと出ていった。綾子はその背を見つめ、眉間を強く寄せる。胸の奥に、言葉にできない感情がじわりと這い上がった。……絵里が現場を出るにはまだ少し早い。ホテル近くのスーパーに寄って、台本の手直しをしながらつまむお菓子を買うことにした。これは昔からの習慣だ。特に好きなのは、ナッツ類。菓子売り場で品を選んでいると、不意に妙な物音がした。振り向いた瞬間、買い物カートが、勢いよく絵里めがけて突っ込んできた。同時に、背の高い屈強な男の腕が伸び、彼女を引き寄せる。鋭い気配。視線す
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第296話

修司の機嫌を損ねたら、スーパーの営業なんて夢のまた夢だ。絵里は、ただ陳列が悪くて起きた事故だろうと軽く受け取っていた。けれど表情だけは引き締め、きっぱりと言う。「今回は人に当たらなくて本当に良かったです。でも、安全面はもっと徹底してください。次はありませんから」「はい、必ず気をつけます」責任者は終始、腰が低かった。お詫びだと言って買い物券を数枚まで持たせてくる。絵里が断っても、半ば無理やり押しつけられた。少し考えた末、絵里はそれを修司に差し出した。「当たったのはあなたなんだから。持ってて」修司は両手をズボンのポケットに突っ込み、山みたいな体格で見下ろしてくる。「こんな端金、俺が欲しがると思うか?」「……」絵里は自分で言い出しておいて気まずくなった。目の前に立たれるだけで、身長が一七〇センチ近いはずの自分が妙に小さく見える。圧が強い。言葉にしがたい危うさがまとわりつき、絵里は本能的に警戒してしまう。「星野さんが検査にも行かないし、これも要らないなら……私は先に失礼します」もう一度だけ礼を言い、踵を返す。修司の秘書である茅原秀信(かやはら ひでのぶ)のそばを通りかかったところで、ふと思い立ち、絵里は買い物券を彼の手に押し込んだ。「社長さんに、何か食べるものでも買ってあげて」「……」合計しても数万円程度だ。社長が喜ぶはずもない。修司は去っていく絵里の背中を見送り、口元をわずかに歪めた。「どうして、まだこんなに可愛いんだ」秀信は目を瞬かせる。……可愛い?まだ? 「社長、水原さんと……お知り合いなんですか?」その言葉が落ちた瞬間、鋭い視線が突き刺さった。「聞くな。余計なことは」「……はいっ」茅原は即座に口を噤み、俯いて唾を飲み込む。G市の裕也が苛烈で容赦ない、そう噂される。だが自分の社長は、それに劣らない。いや、場合によっては同等以上だ。違いがあるとすれば、裕也はまだ「人間側」に見えることがあるのに、こちらは本当に閻魔そのもの。冷たく、陰が深い。絵里がホテルの部屋へ戻り、手を洗って出たところで、ちょうど電話がかかってきた。霞からだ。声は弾んでいる。「絵里!前に言ってたショートドラマ、大ヒットじゃない。私、ちゃんと観たよ。ずっと忙しいだろうから
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第297話

豪華、そんな一言では片づけられない。そこにあるのは、権力と地位そのものの象徴だった。「気に入った?」絵里の瞳に浮かんだ驚嘆を見て取り、裕也が、夜の奥みたいに暗い眼差しで甘やかすように尋ねる。絵里は我に返り、彼を見上げてふっと笑った。「私たちのG市じゃ、これはさすがに無理だよ」「なら、ここで買えばいい」裕也の声は穏やかで、まるで世間話でもするみたいなのに、有無を言わせない自信と力が滲んでいた。絵里は、彼にそれができないはずがないと、欠片も疑わない。口を開く前に、澄んだ女の声が響いた。「裕也……」絵里が視線を向けると、風みたいに一人の女が駆け寄ってくる。傲慢な面差しに、珍しく喜びが満ちていた。「来ないかと思った。ありがとう。やっぱり、私が泣くの、裕也は嫌なんだよね」郁江は今夜、いかにも「本気」のドレスを纏い、髪も完璧に整えていた。照明の下で、気品だけが浮き立つように目を引く。けれど、その笑みは三秒と保たなかった。絵里を見た瞬間、顔がすっと崩れる。「裕也。私、ひとりで来てって言ったよね?どうしてその女まで連れてきたの?」露骨な不満を並べ立てる郁江に、裕也は眉ひとつ動かさない。「妻を連れて来た。それがお前に何の関係がある」そして裕也は絵里に視線を落とし、柔らかい声で言った。「入ろう」ここ数回、彼が妙にこちらの気持ちを優先してくれるのを思い出し、絵里は素直に頷く。「うん」彼の腕にそっと手を絡め、そのまま屋内へ入った。歩きながら、絵里はふと思い出して小声で聞く。「新システムの件、解決したの?」システム障害の話は寿樹の耳にも入っていて、昨日は絵里のところにまで連絡が来たくらいだ。「原因は掴んだ。買収されて、悪意で改ざんした奴がいる」裕也は短く言い切る。表情は静かで、穏やかなまま。けれど、結婚してもうすぐ三か月の絵里にはわかる。この落ち着いた声音の底に、どれほど冷たい怒りが沈んでいるか。背後を操った相手に、情けをかける男じゃない。……まあ、そこから先はもう、絵里の関与する話ではない。屋内へ入った瞬間、絵里は空間そのものに圧倒され、言葉を失いかけた。だが、見慣れていないわけじゃない。顔には出さず、涼しいまま裕也に並び、ホール中央へ進む。星野隆志(
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第298話

裕也の声は、低くも高くもない。けれど周囲の耳に確かに届く声音だった。絵里は胸の内が揺さぶられ、言葉が出ない。視線が、彼の顔に釘づけになる。くっきりと整った男の顔立ちが、一本の光に照らされたみたいに見えて、彼女の心の奥まで、ぱっと明るくなった。好きになったのは、きっとこういうところだ。どんな場でも、どんな相手の前でも。いつだって彼は、彼女を守る。大事にされている。守られている。その安心を、何度も何度も絵里にくれた。隆志の顔色が、目に見えて沈む。「……妻?」「妻!?藤原社長、結婚してたのか?」「でもさ、絵里って当時、和也と婚約してたって聞いたけど」「いや、俺も聞いた。確かにそうだったはず」「裕也がそんな無茶するとは思えないんだけどな。弟の元カノに手を出すなんて……」ざわざわと、憶測が飛び交う。絵里はその声を聞きながら、痛いほど思い知らされる。あの頃、自分が和也に向けていた熱のほうが、どれだけ滑稽だったか。それが、今日の「二人」を邪魔する壁になっている。「爺さん、裕也は冗談を言っただけだよ」郁江は血の気の引いた顔で、無理に笑みをつくって裕也の横へ歩み寄った。「裕也、やめて。こんなに人が見てるんだから」裕也は冷えた眼差しで彼女を一瞥する。「事実だ」その瞬間、場がどっと沸いた。郁江の口元が引きつり、声を落とす。「今日は爺さんの傘寿なの。恥をかかせないで」裕也の声は薄く、突き放すようだった。「それはお前の事情だろ」「……お願い。お願いだから」郁江は涙をたたえた目で、縋るように彼を見上げる。声は小さい。けれど絵里は、すぐ隣に立っていて、一言も漏らさず聞いてしまった。だから、裕也のほうを見ないようにした。やがて、低く沈んだ声が落ちてくる。「……何のためだ」「お願いは多くないの。これで一回だけ」郁江は垂れた手をきつく握り、指先を絡めてしまう。裕也は眉間の力をわずかにほどいた。「……今回だけだ。次はない」考え抜いた末のように、そう言ってしまった。ぷつん。絵里の胸の奥で、張り詰めていた何かが切れた気がした。酸っぱくて、苦くて、喉の奥が詰まる。どうして郁江の頼みを聞くの。そんなに大事なの。それとも、また、自分を騙したの?本当
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第299話

絵里は胸の内でふっと鼻を鳴らし、こみ上げる酸っぱさを飲み込んだ。深く考えるのはやめる。さっき裕也が庇ってくれたのは事実だ。彼が自分を気にかけているのも、見て取れた。それなのに、どうして庇いながらも、いつの間にか郁江のほうへ肩入れするのだろう。郁江は再び隆志の前へ戻り、あでやかな笑みを大きく咲かせた。「爺さん。裕也と私の関係で、どうして他の人と結婚なんてするの。あり得ないよ。裕也はただ、水原さんの面倒を見てあげているだけ。二人にそれ以上の関係なんてないの」隆志の表情がわずかに和らぐ。「両家は昔から付き合いが深い。裕也が絵里の世話をするというのも、筋は通る。うちの裕也は、もともと人当たりがいいからな」郁江は満足げに微笑み、してやったりといった目で絵里を一瞥した。次いで場にいる面々へ向き直り、今の騒ぎを締めくくる。「今夜は爺さんの寿宴です。どうぞ、飲んで食べて楽しんでください。行き届かないところがあれば、ご容赦を」堂々としていて、言葉選びも抜かりない。周囲の好感をまた一つさらっていく。そのとき。だらりとした、冷えた声が不意に割り込んだ。「藤原さん、妹さんを連れて遊びに?」声が落ちると同時に、屈強で背の高い男が歩み寄ってくる。まとった空気は、どこか殺気じみていた。「星野修司だ」人混みの中で誰かが囁く。絵里が目を向けると、やはり修司だった。修司は近づき、鋭い眼差しで裕也を淡々と流し見たあと、絵里に視線を落とす。唇の端を嘲るように吊り上げた。「これからは、お兄さんに連れられて軽々しく出歩かないほうがいい。とくに、元婚約者の兄さんと、な」あまりにも刺々しい言葉。絵里の頬が熱くなる。恥ずかしさのあまり、みじめで、みっともなくて、立っていられないほどだ。くすっ、と笑いがあちこちで弾けた。何十もの視線が絵里に突き刺さる。クスクスと笑い声。ヒソヒソと囁き合う声。冷たい嘲りの目。修司の一言で、絵里と裕也の関係は完全に崩された。絵里は血の気が引き、足元がぐらつく。最悪。こんな恥、ない。「星野家って、ずいぶん古臭い考え方を大事にするんだな」裕也の眼が沈んだ。低い声が、場を押し切るように響く。「俺が誰を好きで、誰と一緒にいるか。いちいちお前たちに指図される筋合いはない」
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第300話

彼女は小さくうなずき、適当な口実を作ってその場を離れようとした。今夜、この場所には来るべきじゃなかった。裕也は彼女の様子がいつもと違うことに気づき、背後から追いかけて手をつかんだ。「どこ行くんだ?」絵里は振り返り、淡々と彼を一瞥する。「お手洗い」声も、視線も、ひどく温度がない。普段から似たようなものではある。けれど今夜の反応は、裕也の罪悪感をいっそう刺した。「ごめん……あれは、俺が彼女に負ってる分だ」焦りを滲ませた顔。裕也のそんな表情は、滅多に見ない。絵里は口端だけを薄く引いた。「何を負ってるの?」聞いてみたかった。どんな理由なら、彼が二人の関係を持ち出したくせに、急に口をつぐむのか。他人の態度で恥をかかされたとは思わない。でも、彼の変化だけが苦しかった。「当時、俺は……」「裕也」郁江が早足で近づいてくる。作りものみたいに整った顔に、自信が貼り付いていた。「ちょっと来てもらえる?話があるの」絵里はまぶたを持ち上げ、郁江を見る。目が合った瞬間、隠す気もない優越と挑発が、まるごとぶつかってきた。裕也が自分についてくると、疑っていないのだ。「裕也、あの件はちゃんと話さないと……まさか拒まないよね?」裕也の表情が沈む。底の見えない黒い瞳は、怒っているのか冷めているのか、判別できない。絵里は怖くなった。長い間、置き去りにされることには慣れている。それでも、もう一度「選ばれる」側に立つのは嫌だった。「行って。私はお手洗いに行くから」そう言って歩き出そうとする。細い腕を、裕也が強くつかんで離さなかった。「俺はどこにも行かない。ここで待ってる」そして郁江を振り返り、冷えた声で言い放つ。「用があるなら後でだ。いい加減にしろ」忠告そのものの言葉。態度も突き放すように冷たい。郁江もさすがに強硬には出られない。今夜の自分がやりすぎたことくらい、わかっているのだろう。唇を噛み、悔しそうに踵を返して去っていった。絵里の冷えた胸が、ほんの少しだけ動いた。わずかに温度が戻るような、そんな錯覚。でも、喜べるわけがない。喜びなんて、数秒で消えるものだと知っている。誰かに振り回されて、自分の感情が上下するのも、もう嫌だった。「……じゃあ。行ってく
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