Semua Bab 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Bab 251 - Bab 260

392 Bab

第251話

絵里は彼の表情の変化を見逃さなかった。探るように尋ねる。「会社の用事?」「友達に会うだけだ。どうした、俺の行き先を確認する気か?」裕也は薄く笑い、いたずらっぽい瞳で彼女を見つめた。絵里は淡々と視線を引き、口元だけで笑って言い放つ。「そんなに暇じゃないわ。早く行って」このまま向き合っていたら、もう耐えられない。「……ああ」裕也のすらりとした背中が書斎を出ていく。張りつめていた絵里の神経は、ようやくふっと緩んだ。深く息を吸う。原稿を書く気にもなれず、さっきのことが頭から離れないまま、梨乃に電話をかけた。「今さら私?裕也とイチャイチャしてる時間じゃないの。なに、もう使い物にならなくなった?」梨乃が遠慮なく笑い飛ばす。絵里は声を落とし、重く告げた。「梨乃……裕也の、好きな人が戻ってきたかもしれない」「は?好きな人?」梨乃の声が裏返る。絵里は先ほどの出来事と、裕也に「心の中に誰かがいる」という話を、かいつまんで説明した。「……なるほどね。そいつ、相当手強い女じゃん」梨乃は舌打ちまじりに続ける。「でもさ、恋愛って結局、信じ合う土台がないと崩れるでしょ。聞いたことも見たことも、まず本人にぶつけて確かめなよ。それで本当にクロなら、そのとき決めればいい。ていうか、五年の恋を捨てられたあんたなら、結婚だって同じでしょ」持論を並べたあと、梨乃は最後に軽く笑った。「結末がどうなろうと、あんないい男を抱けたんだから損はしてないって。ね?」その言い方に、絵里の胸を押し潰していた重さが、少しだけほどけた。苦しい。でも、理屈はわかる。ちゃんと聞かなきゃいけない。さっきの自分は、頭が真っ白で、反射的に逃げただけだった。彼が帰ったら、きちんと向き合って問いただそう。そう思ったのに、その夜、いくら待っても裕也は帰ってこなかった。翌朝、目を覚ますと、隣の寝具にまだぬくもりが残っていた。帰ってきたんだ……絵里は裕也が下にいるものと思い、急いで身支度をして階段を下りる。けれど田中に告げられた。「裕也様は、もうお出かけになりました」「こんな早く?」時計を見ると、まだ8時前だ。「何時に出たの?」「7時頃でございます」田中はにこやかに付け加える。「奥様が起き
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第252話

絵里は治夫の言いたいことを察し、視線を落としてその目を避けた。「脚本家だって悪くないよ。私、物語を書くのが好きなの」「お前の作品、見たよ。よく出来てた」治夫はどこか寂しげな眼差しを向け、穏やかな声で続ける。「だがな……じいちゃんはもう歳だ。会社を継げと無理強いはしない。けれど、お父さんの遺志は……お前が受け継ぐべきじゃないのか?」絵里の胸が、鋭く抉られた。何かに撃ち抜かれたみたいに身体がこわばり、指先ひとつ動かせない。悲しみが一気に押し寄せ、痛みと痺れで喉が塞がる。言葉が、出ない。最後は感情を無理やり押し込め、従順に口角を引き上げた。「じいちゃん、ゆっくり休んで。私、先生に詳しいことを聞いてくる」絵里は病室を飛び出した。逃げるように。治夫が小さく息をつく。「あの子は……まだ、あのことを越えられん」村上が胸を痛めたように頷く。「あまりご心配なさらず。いつか、お嬢様も腑に落ちる日が来ます。今は裕也様もお支えくださっていますし、きっとお嬢様もすぐに元気になられます」治夫は眉間にしわを寄せる。「あの出来事の傷は深い。和也のあの馬鹿が癒やしてやれなかった分……裕也に、その器量があるかどうかだな」……絵里は医師に治夫の容体を確認し、大きな問題はないとわかって、ようやく胸を撫で下ろした。病室を出て廊下を歩いていると、見覚えのある、すらりと長い背中が目に入る。背が高く、姿勢はまっすぐ。纏う空気は気品と冷たさを併せ持ち、病院という場所でさえ目を奪う存在感。均整の取れた体躯と、息を呑むほど整った顔立ちが、やけに浮いて見えた。裕也だ。絵里は一瞬、目を見張る。足早に近づき、口を開きかけた。「ゆう……」だが裕也は絵里に気づかないまま、長い脚で数歩進むと、そのままある病室へ入っていった。絵里は眉を寄せる。じいちゃんの病室ではない。しかも、女性病棟の一室だった。昨夜あんなに帰りが遅くて、今朝も早々に出て行ったことが脳裏をよぎり、絵里は無意識に足を動かして、その病室の扉の前へ立った。中から、澄んだ女の声が聞こえてくる。「裕也、私が今回戻ってきたのは、あなたのため……たとえ本当に結婚してても、構わない。あなたに会えて、そばにいられるなら……妻の座なんて要らないの」深情で、まっすぐで。まるでこの男を、心
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第253話

絵里は立ち去ろうとした。けれど足が鉛のように重く、どうしても持ち上がらない。部屋の中では、まだ言葉が容赦なく迫ってくる。「わかるの。あなた、まだ私のこと気にしてる。昨夜だって用事があるって言ったのに、わざわざ会いに来た。……私のこと、そんなに大事なんでしょ……」郁江の声は甘く、まとわりつくように耳へ忍び込んだ。「彼女と離婚して。私、あなたのお嫁さんになるの」絵里は手のひらをぎゅっと握りしめる。背筋は伸ばしているのに、何トンもの重りを背負わされたように、腰がじわりと折れていく。昨夜、遅く帰って早く出ていったのは……郁江に会いに行ってたから。あれほど張り詰めて、あれほど大切そうにするなんて。本気で、愛してるんだろうな。そう思っても、絵里の足は動かなかった。ドアの外で、悔しさだけが根を張る。しばらくして、今度は、裕也の声が聞こえた。「それが、お前の望みか?」「そう。愛してる。ほかの女と一緒にいるの、指をくわえて見てられない」郁江の声には傲慢さが隠しきれない。「彼女と別れて」「いい」裕也は、冷えた声で即答した。「……本当に?」郁江の息が弾む。「じゃあ、離婚したらすぐ結婚しよう。私、待ってる」「……」その一言を聞いた瞬間、絵里の視界がぐらりと傾いた。天井が回るみたいに目眩がして、もう何を言っているのか、耳に入ってこない。やっとわかった。裕也が今まで言ってきたことは、全部、絵里をなだめるための嘘だったんだ。「郁江は本気の相手じゃない」なんて、ただの口先。その場しのぎの、どうでもいい慰め。胸の奥が、無理やり引き裂かれるみたいに痛んだ。ここにいたら、最後まで道化になる。彼が別の女のために、自分を捨てる言葉を自分の耳で聞くことになる。絵里は唇を噛み、壁に手をついて、ふらつきながら病院を出た。車に乗り込んでからもしばらくは、ハンドルを握る力さえ戻らない。ようやく息を整え、エンジンをかけて病院を離れた。走りながら、治夫に電話を入れる。今日は行けない、また改めて顔を出す、と。でも、そのまま当てもなく車を流すだけで、帰る気になれなかった。絵里は梨乃に電話をかけ、必死に平静を装って尋ねた。「今、忙しい?」それでも声は震え、喉の奥が詰まる。「
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第254話

彼女はなぜだか、裕也の人となりを無条件に信じていた。まさか、あんな言葉が、彼の口から出るなんて。梨乃はティッシュで鼻を押さえ、声を震わせたまま言った。「私、耳でちゃんと聞いたの。聞き間違いじゃない」ティッシュをゴミ箱へ捨て、泣き腫らした目を上げる。その瞳は、何かを決めた人のそれだった。「梨乃……私、離婚に応じる」梨乃の胸の内は複雑だった。思わず宥めるように口にする。「もう一度、聞いてみなくていいの?」裕也は絵里に優しかった。こんなふうに、よく分からないまま別れるのはあまりにも惜しい気がした。絵里の胸は刃物で何度も抉られるみたいに痛み、息が詰まる。彼女はきっぱり首を振った。「聞かない……自分から恥をかきにいきたくない」そもそもこの結婚は、家同士の都合で結ばれたもの。恋愛感情なんて最初からなかった。いまはただ、彼がくれた贈り物や、用意された「試すみたいな問い」に惑わされて、自分だけが勝手に「好かれてるのかも」なんて思い込まなくてよかったと、それだけを思った。かすかな期待は、煙と消えた。梨乃は、絵里がもう限界まで傷ついていると悟り、力なく息を吐いた。「分かった。何か手伝えることがあったら、遠慮なく言って」少し間を置いて、心配そうに続ける。「……しばらく、うちに住む?」絵里は鼻をすすり、かすかに笑って首を振った。「大丈夫。ちょうど二日後、T市に撮影で行くの」その間に、気持ちを整えればいい。たぶん戻ってきた頃には、裕也のほうから離婚の話をしてくるだろう。絵里が半日ほど梨乃のところにいて、車で家へ戻る途中、プロデューサーから確認の電話が入った。「絵里、決めた?本当にT市の撮影、来ないの?」期待が滲んだ声。少し前、絵里は裕也とG市にいるために、同行を断っていたのだ。だからこそ、向こうも諦めきれずにもう一度聞いてきた。絵里は気持ちを変えた。「……行きます。みんなと行く」「よし!」とでも言いそうな勢いで、プロデューサーが弾んだ声を上げる。「じゃ、チケット取るからね!もう決まり!」絵里が言い直す隙すら与えず、通話はぶつりと切れた。五分も経たないうちに、絵里のスマホに搭乗便の通知が届く。明後日、午前10時発。絵里はアクセルを踏み込んだ。フロントガラス
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第255話

こんなに早く……自分に離婚を切り出すつもり?絵里はすっかり目が冴えてしまい、上体を起こして枕元のデジタル時計を見た。「……今、帰ってきたの?」もうすぐ12時だった。裕也は眉間にうっすら疲れを滲ませる。「新エネルギーの案件で急にトラブルがあってさ。処理に手間取って、遅くなった」それが本当かどうか、絵里は考えないことにした。薄く口元を引き、淡々と言う。「お疲れさま。じゃあ……何か、話があるの?」裕也は薄い唇をわずかに持ち上げた。「ケーキ、買ってきた。食べる?」絵里は実のところ、夕食を抜いていた。けれど食欲はない。首を振って断ろうとした、その時。「ドリアンムース」裕也がふいにムースケーキを取り上げ、絵里の目の前へ差し出した。絵里は数秒、固まったまま彼の目を見つめる。「……どうして、私がこの味好きだって知ってるの?」裕也は目を細め、笑みを含ませた。「絵里とは、以心伝心だろ」胸の奥が、きゅっと酸っぱくなる。離婚するくせに。まだ、こんなふうに機嫌を取る言葉を言う。結局、昔の私は勝手に期待していただけだ。彼が、ほんの少しでも私を好きなのかもしれないって。でも違った。裕也はずっと、十年前のあの小さな女の子をあやすみたいに、私を扱ってきただけ。彼に必要なのは「結婚相手」。賢治に反対されない、結婚相手。そして自分は、都合よく条件に合った。絵里は完全に食欲を失い、冷たくまぶたを伏せた。「いらない。眠いから、先に寝る」彼女はもう一度横になり、ちらりと裕也を見る。「何か話があるの?ないなら、寝るけど」裕也は彼女の様子がおかしいことに気づいた。態度はよそよそしく、目も赤い。これ以上、刺激したくなかった。「……わかった。寝てて」絵里は目を閉じ、そのまま眠るふりを続けた。裕也は立ち上がり、寝室を出て書斎へ向かう。絵里に何かあったのではと気になり、健に電話して調べさせた。10分も経たないうちに、健から折り返しが入る。「治夫様が本日、突然倒れられて病院に運ばれたそうです。午前中、奥様も一度お見舞いに行かれたとか。ただ、治夫様は大事には至っておりません。日中、奥様は梨乃様ともお会いになってますし、特に問題はないかと。社長、ご安心ください」裕也の眉が、わずかに
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第256話

絵里は唇の端を引きつらせ、苦い笑みを漏らした。ぎこちない身体を引きずるようにベッドへ戻り、ヘッドボードにもたれて腰を下ろす。眠気など、欠片も残っていなかった。膝を抱え、顔を深く埋める。みっともないほどに涙がまた音もなくこぼれ、シーツをじわりと濡らしていく。いまの絵里は、胸が痛いのに、不思議なくらい静かだった。迷いに揺れていた心が、その瞬間、ひとつの答えを出す。彼の本当に愛している人が戻ってきたのなら、自分が藤原家の妻という立場にしがみつく理由はない。返せばいい。ただそれだけのことだ。どうせ、彼女は撮影でT市へ行く。戻ってきた頃には、きっと彼のほうから離婚を切り出してくるだろう。……その夜、絵里は寝返りばかり打ちながらも、どうにか眠りに落ちた。目を覚ますと、裕也からLINEが届いていた。「ゆっくり休め。急用で外で処理してる。今夜も帰らない」送信時刻は午前4時。絵里は無表情でスマホを置き、返信しなかった。身支度を整えて1階へ降りると、ちょうど裕也がひどく疲れた顔でホールに入ってくるところだった。絵里はその場に立ったまま、黙って彼を見た。「早いな。もう起きてたのか」裕也は彼女の前まで歩み寄る。疲れの滲む眉目には、それでも変わらない柔らかな優しさが宿っていた。昨夜、背を向けたときの容赦のなさなど、まるでなかったかのように。絵里は淡く口元を動かす。「早くないわ。もうすぐ八時……あなたこそ、一晩中忙しかったんでしょ」言葉の端に、わずかな棘が混じった。「拗ねたか?」裕也は薄く笑い、横目で彼女を窺う。絵里の視線が、ようやく彼を捉えた。しわだらけの白いシャツ一枚。襟元は上から二つ、ボタンが外れている。スーツは無造作に腕へ引っかけられていた。一睡もしていない、そんな空気。それでも彼の美貌は崩れない。むしろ、初めて見るその「隙」が、やけに生々しい。こんな気だるい姿の裕也を、絵里は初めて見た。嫌でも想像してしまう。彼は想い人と一晩中、言葉にできないことを……胸の奥が、針で刺されたみたいにずきりとした。結婚して、まだ何日も経っていないのに。もう終わるのだ。「別に」絵里は視線を引き、淡々としたままダイニングへ向かう。裕也はスーツをソファの背へ放り、彼女の後ろに
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第257話

絵里はスマホを取り上げ、画面をスワイプして内容をざっと確認した。【絵里。やっぱりお前はまだ俺のことが好きなんだな。じゃなきゃ、どうしてまだツイッターにいて、俺たちの思い出を残してる?】和也の根拠のない自信が可笑しくて、絵里は思わず口元をつり上げた。けれど、その表情は裕也には「嬉しそう」に見えたらしい。連絡、取れたのか?裕也が目を細める。彼は絵里の向かいの椅子を引いて腰を下ろし、鋭い眉をわずかに上げて、唇の端だけで笑ってみせた。「和也から?」絵里はスマホをテーブルに置き、まぶたを持ち上げて淡々と彼を見る。小さく「うん」とだけ答え、説明はしなかった。説明したところで、意味はない。どうせ彼は気にしない。彼女もまた、結局は終わってしまった結婚のために、昨夜みたいに身を削ってまで落ち込むつもりはなかった。裕也は奥歯を噛みしめ、目の奥に嘲りを浮かべる。「まだ連絡取ってんのか。前の傷じゃ全然足りなかったみたいだな」毒を含んだ、刃物のような言葉。この二か月、彼の大人びた優しさばかり見ていたせいで、毒舌こそが本性だと忘れかけていた。絵里は引かなかった。「何を手放して、何を手放さないかくらい、私が決める。あなたに説教される筋合いない」「で、手放したのか?まだなのか?」裕也の声が冷え切る。引き締まった横顔が強張り、目元には氷みたいな光が宿った。絵里にはわかった。想い人が戻ってきたから、もう以前みたいに甘やかしてくれないのだ。「手放したかどうかなんて、重要?」絵里は喉がつかえ、胸の奥がぎゅっと詰まった。「どうせ私たちの結婚なんて、いつ終わってもおかしくないんだから」裕也の顔色が沈む。暗い瞳は感情を押し殺していた。「……へえ。いつでも終わらせるつもりってわけだ」その言い方が、悔しかった。この二日、彼は想い人のほうにばかり気を取られていたのに。どうして「終わらせたいのは私」みたいな話になるのか。絵里は耐えきれず言い返そうとする。「あなたこそ、郁江と……」だが言葉は、裕也の着信音に遮られた。彼は画面を一瞥し、表情を引き締める。重要な連絡なのだと、ひと目でわかった。「……あとで」それだけ言い残し、裕也は立ち上がって足早に階段を上っていく。絵里には、迷いのない背中だけが残った。
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第258話

骨ばった指が通話をぶつりと切り、携帯を座席に放る。裕也は片手で、こわばった眉間をぐっと揉んだ。次の瞬間、郁江からまた着信が入る。苛立ちを隠しもしない声が耳を刺した。「なんで昨日来てくれなかったの?まさか……私を死なせる気?約束したでしょ。私が何をしても、全部聞いてくれるって」「……」裕也は顔を上げた。鋭い視線。奥歯をかみしめ、低い声で吐き捨てる。「お前の言う『全部』ってのは、絵里と離婚しろってことか?八年も経って、年だけ取って中身は何も変わらなかったのか?」郁江は一気に声を荒げた。「あなたが私に借りがあるのよ!まさか今さら反故にする気?」あの日、病院で。郁江は裕也に、家に戻って離婚してこいと迫った。裕也は言った。「いい。離婚くらい」本当に承諾したのだと思って、彼女が数秒、喜びかけたその直後だ。裕也は殺気立った目で彼女を見据え、こう続けた。「俺が死んだらな」あの女の何がそんなにいいの。そこまで言わせるほど。「男が欲しけりゃ他を当たれ。俺のところに来るな」裕也の声は氷みたいに冷たく、容赦がない。「俺は中古品に興味はない」言い切って、情け容赦なく通話を切った。郁江は全身を震わせ、悔しさに歯ぎしりした。……絵里は半日かけて、T市へ持っていく資料をきれいに整理し終えた。片づけてしまえば、あの胸を削るような感情に浸っている暇もない。彼女はそのまま車で外へ出た。向かったのは病院、治夫の見舞いだ。「じいちゃん、見て。何を買ってきたと思う?」絵里は病室のドアを押し開けながら、手にした差し入れを掲げて笑った。中にいる人間を見た瞬間、笑顔がすっと消える。裕也がベッドの脇に腰を下ろしていた。治夫と裕也の視線が、揃って絵里へ向けられる。「絵里、遅いじゃないか。裕也なんて、もうずいぶん前から来てたぞ」治夫は怪訝そうに眉を寄せつつも、顔つきは相変わらず穏やかだった。絵里は数秒固まってから、ベッドへ歩み寄り、手にしていた袋を村上に渡す。「じいちゃん、好きな焼きそばを買ってきたの」絵里は行儀よく笑った。治夫の目がぱっと明るくなる。「おお、よし。じゃあじいちゃん、許してやる!」子どもじみた言い草に、絵里は呆れつつも可笑しくなる。笑いながらも、視線が裕也に落ちた
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第259話

裕也は眉をつり上げた。「俺が、なんだって?」絵里の表情がどこかおかしい。裕也は彼女の視線を追って、振り返った。ほとんど同時に、郁江が満面の笑顔でこちらへ歩いてくる。「裕也、こんなところにいたんだ。探したよ、ほんとに」絵里は近づいてくる郁江をじっと見た。この前の打ち上げでは、ちらりと見ただけで顔まではよく分からなかった。けれど今、目の前に立つ彼女は、思わず見惚れるほどだった。郁江は、いわゆる華やかな美人だ。大きめのパーツがすべて整っていて、あの小ぶりな四角い顔の上で、いっそう映える。笑うだけで自信が滲み出て、朝日に向かうひまわりみたいに眩しい。「こちらは?」郁江は絵里を上から下まで眺め、ふっと合点がいったように笑った。「裕也。これが、前に話してた……絵里、だよね?すごく可愛い。ちゃんと綺麗じゃん」郁江はどこか見下すような視線のまま、当然のように裕也の腕に絡みついた。恋人同士みたいに、やたら距離が近い。絵里は、彼女の手が裕也の腕を抱え込むのを見て、胸の奥がぎゅっと詰まった。「普通にしろ」裕也は腕を引き抜き、一歩距離を取る。眉目は冷たく、不機嫌そうだった。「俺には妻がいる。言動に気をつけろ」郁江は絵里をちらりと見て、くすっと笑う。「はいはい、分かった。ちゃんと『合わせる』から、ね?」裕也の目が沈み、鋭い視線が飛ぶ。それでも郁江は、太陽みたいな笑顔を崩さない。まるで気にしていない。絵里は一瞬、呆けた。どうやら裕也は、彼女に「二人の関係」を話している。郁江が平然としているのは、きっと裕也がうまく宥めたのだろう。離婚するから、などと。そう思うと、これ以上見ていられなくなって、絵里は無理に口元を引き上げた。「……二人で話して。私、先に行くね」そう言って、踵を返す。その手を、裕也が不意に掴んだ。温かい眼差しと、低く艶のある声。「俺も一緒に帰る」絵里は驚いて眉を上げ、反射的に郁江を見る。いいの?彼女、怒らない?けれど口には出さなかった。ほんの少しだけ、救われた気がして、小さく頷く。「うん……」歩き出そうとした、その瞬間!郁江の身体がふらりと傾き、真っ青な顔で裕也にもたれかかった。胸元の服を、必死に掴んでいる。「裕也……心臓が、痛い……」苦
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第260話

【誤解しないで。俺と彼女は何でもない。郁江は心臓が弱くて、さっき本当に発作を起こしただけだ】【あとで帰る。ちゃんと説明するから……怒らないで、な?】絵里はスマホを握る手に、じわりと力が入った。指先が白くなるほどに。とりわけ裕也のその言い訳を読んだ瞬間、塞がっていた胸が少しだけほどけた気がした。行間から、彼の、自分への気遣いが滲んで見えたからだ。もしかして本当に、落ち着いて話し合えるのかもしれない。絵里は迷いながらも返した。【わかった。帰ってきたら話そう】送ってから、もう一通。【私も、話があるの】既読はついたが、裕也からの返事はなかった。絵里は深く考えないことにして、スマホを置き、シャワーを浴びに行った。話すと決めたせいか、重かった気持ちは少し軽くなり、むしろ早く裕也が帰ってきてほしいとさえ思い始めていた。風呂上がり。ピコン、とLINEの通知音。絵里は二、三歩でベッドサイドのテーブルへ向かった。画面には、友だち追加の申請がひとつ。【H】見覚えのない表示名に眉を寄せた、その次の瞬間。着信が入った。躊躇いながら通話を取ると、相手は落ち着いた低い声で言った。「水原家の令嬢ともあろう人が、スーツ代くらい踏み倒すつもり?」嘲るようで、鋭く、容赦がない。絵里の心臓が、ひゅっと縮む。星野修司?「そんなつもりじゃありません」「つもりはなくても、やってることは同じじゃないか」気だるげな調子。なのに、どこか息を許せない重さがある。「水原さん。数日間、俺のLINE追加する時間すらなかったわけ?」絵里は気まずく咳払いをした。「……今、振り込みます」通話を切らないまま、絵里は送金した。100万円。「これで、足りますか?」「100万?」修司が面白がるように笑う。「あのスーツ、イタリアのハンドメイドで、職人ものだよ?それで足りると思う?」「……」相手がT市でも有名な御曹司じゃなければ、絵里は本気で詐欺を疑っていた。息を整え、苛立ちを抑えた声で言う。「じゃあ、いくらですか。はっきり言ってください。振り込みます」「ツケでいい」低い笑い。「あなた……」言い終える前に、通話が切れた。絵里は唖然とした。いったい何がしたいのか、意味がわからない
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