All Chapters of 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Chapter 571 - Chapter 580

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第571話

「そう思っていたのか」裕也の瞳の奥に淀んでいた暗い色がすっと晴れ、その声には微かな昂ぶりが滲んでいた。絵里自身の口から説明を聞き、彼の胸のつかえがすっと取れたのだ。絵里は裕也の瞳の変化に気づかず、ただ声の調子から、彼が少し興奮しているように感じる。「この件を調べ始めて、あなたが無関係だと分かってからは、巻き込みたくなかったの。だって、お母さんでしょう?あなたを板挟みにして、苦しませたくなかったの」絵里が胸の内に秘めていた本音を打ち明けたのは、裕也に誤解されたままなのが嫌だったからだ。そしてもう一つ。裕也が心から自分を大切にしてくれていると知っているからこそ、彼を失望させたくなかった。この先、彼がどう動こうとも、その意思を尊重するつもりだった。裕也の口角がぐっと上がり、絵里の手を握る手に、さらに力がこもる。「これからは二度とこんなことするな。何も言わずに一人で抱え込むのは、嫌なんだ」絵里の胸が、とん、と小さく跳ねた。それって、私を責めていないということ?てっきり、自分に黙って勝手に行動し、彼の母を追い詰めたことを怒っているのだと思っていた。心配していたようなことは何一つ起こらず、絵里の心にじんわりと熱いものが広がり、力強くこくりと頷く。「うん」目を覚ましたばかりの裕也はまだひどく衰弱しており、医者からは口数を減らし、安静にするようきつく言われていた。それでも気分が良かったのか、彼は無理をして絵里と長く言葉を交わし、やがて限界が来て重い瞼を閉じると、再び深い眠りへと落ちていった。泣き腫らした赤い目元で裕也の寝顔を見つめながら、絵里はふっと微笑んだ。心の中は、これまでにないほど澄み切って軽い。父が殺害された事件の真相はすでに解明され、手を下した者たちは皆捕らえられ、法の裁きを待つ身となった。そして、二人の間に横たわっていた厚い壁も、この瞬間に幻のように消え去ったのだ。絵里は立ち上がると、身をかがめて裕也の唇にそっと口づけを落とし、病室を後にした。廊下のベンチには、賢治が腰を下ろしている。両手で杖をつき、目を閉じて休んではいるものの、背筋はピンと伸び、近寄りがたい威厳を放っている。執事の畑山が彼女の姿に気づき、賢治に小声で耳打ちする。「絵里様が出てこられました」賢治はかっと目を見
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第572話

「行本教授から聞いたぞ。治夫はいつ目を覚ましてもおかしくない状態だというのにな。それなのに、お前はあんな無茶をして……謝るべきじゃないのか?」絵里は驚きに目を見張る。賢治の言葉の真意がそこにあるとは、思いもよらなかった。自分が藤原家をここまで引っ掻き回したというのに。午後には、藤原グループの株価が下落しているのも目にしている。しかもそれは昨日から続いており、藤原が緊急の広報対応や声明の発表に追われても、一向に歯止めがかからない様子だった。これまでの騒動とはわけが違う。今回はあまりにも事が大きすぎた。雪枝が殺人容疑をかけられたとなれば、その影響は計り知れない。この隙につけ込み、藤原を叩き潰そうとする輩が現れないとも限らないのだ。とにかく、今回の件で藤原が被る損害は計り知れない。それなのに、賢治は自分を一切責めようとはしない。「私がこんなに事を荒立てて、グループの株価まで暴落させてしまったのに……お爺さんは、私を責めないか?」「責めるだと?何をだ?お父さんの死の真相を調べたことか?それとも復讐のために、あの自業自得の嫁を警察に突き出したことか?お前にとって、わしはそんな分からず屋だったのか?」絵里は勢いよく首を横に振る。「そんなことない。私にとってお爺さんは、いつも優しくて、物事の道理をわきまえた、とても温かい方だ」賢治は彼女の瞳をじっと見つめる。その目には、夜の闇の中で微かな涙の光が揺らめいている。安堵したように頷き、ふっと笑みをこぼす。「その言葉が聞けただけで十分だ。わしはてっきり、お前がこれきり、この老いぼれを見捨ててしまうのではないかと心配しておったよ。お前は何も間違っていない。確かに今、藤原は大きな危機に直面しておるがな、わしも伊達に何十年もビジネスの世界を渡り歩いてきたわけじゃない。これくらいのこと、どうとでもなる。ただ一つ願うのは、今回のことで裕也のやつまで完全に見限らないでやってほしいということだ。これだけは覚えておきなさい。お前が藤原に嫁いできただろうとそうでなかろうと、わしはいつだってお前を本当の孫娘だと思っておる」賢治のしわがれた太い声には、偽りのない真心がこもっている。その温和な顔立ちには、切実な願いが滲んでいる。絵里は途端に鼻の奥がツンとし、胸の内に様々な感情が込み
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第573話

隆が矢継ぎ早に投げかけた問いに、絵里は深く考え込んでしまう。そう、なぜなのだろう。あの時のことは、今でもはっきり覚えている。裕也にすっかり失望し、荷物をまとめて家を出て行こうとした時のことを。裕也は絵里が去ってしまうのを恐れ、「俺が好きなのは絵里だ」と告げた。あの時は、そんな言葉を信じることなどできなかった。けれど、これほど多くの出来事を経験した今では、口に出さずとも、裕也の言葉は本当だったのではないかと思い始めている。彼は、本当に自分を愛しているのだ。「もう遅い。これ以上は言わないから、今夜は自分でよく考えてみろ」そう言い残し、隆は病院を後にした。絵里は病室の外から中を覗き込み、ベッドに横たわる裕也をしばらく見つめてから、自分の病室へと戻る。眠気は全く訪れず、頭の中では隆の言葉が何度もリフレインしている。この夜、絵里はほとんど眠れなかった。翌朝、梨乃が朝食を持ってやって来るが、絵里のあまりにもやつれた顔色を見て、途端に慌てふためく。「どうしてそんなに顔色が悪いの?また熱が出た?薬はちゃんと飲んだ?ねえ、どこか具合でも悪いの?」梨乃が一気にまくしたてるので、絵里はどれから答えればいいのかわからなくなってしまう。「違うの、大丈夫よ。ただここ数日寝すぎちゃって、昨日の夜はずっと眠れなかっただけ」「本当に?嘘じゃないよね?」「本当よ」梨乃は絵里の顔をじっと見つめ、嘘をついていないか観察する。絵里のことをよく知っている。絵里は嘘をつく時、無意識に目を逸らす癖があるのだ。先ほどはそうしなかったため、梨乃はようやく信じた。彼女は鈴木に頼んで絵里の食事を並べさせた。意外なことに、絵里は素直に従い、嫌がって食べようとしないようなことはなかった。「裕也、目覚めたんでしょ?具合も悪くないみたいね?」絵里は食事の手を止める。「章が教えてくれたの?」「違うわ、あなたが教えてくれたのよ」「私?」「今日こんなに素直に食べてるってことは、たぶん裕也はもう大丈夫なんだわ。じゃなきゃ、今頃ご飯どころか、水も喉を通らないはずだもの」絵里は確かに、すぐに思い悩んでしまうタイプだ。問題が解決しないと、心配で食事も喉を通らず、夜も眠れなくなってしまう。この世界で彼女のことをここまで
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第574話

決して嫌味で言っているわけではない。裕也の体力がずば抜けているのは事実であり、それは章が証明できる。海外にいた三年間、裕也は一日の大半、十数時間も働き詰めだった。クライアントとの商談、提携の打ち合わせ、そして夜の接待。まるで疲労を知らないかのように動き回り、海外へ渡って半年も経たないうちに、金融業界でその名を轟かせた。三年後には国内外で称賛される金融界の大物へと成長し、その圧倒的な仕事の処理能力、投資の手腕、そして先見の明には、誰もが舌を巻くしかなかった。「小林さん、気遣ってくれてありがとう」裕也は穏やかな眼差しを浮かべ、あくまで社交的な態度を崩さなかった。梨乃は空気が読める女だ。二人がこれからイチャイチャするのだと察し、章に向かって目配せをする。章はそれを察する。彼女の横を通り過ぎようとした時、ふと足を止め、車椅子のグリップを握ってそのまま彼女を外へと押し出した。梨乃は少しだけ呆然とする。「最近、足の具合はどうですか?」どれくらい経っただろうか。頭上から章の声が降ってくる。梨乃は我に返り、彼を見上げて慌てて答える。「まあまあかな。もう痒みはないけど、まだ少し痛む気がする」「まだ日が浅いから、痛むのは当然でしょう。もう少しの辛抱です。すぐにギプスも外せます」梨乃はうっとりと彼の顔を見つめる。本当にイケメンだ。背が高く、顔立ちも整っている。彼が着ると、ただの白衣でさえ高級スーツのように見えてしまう。上品で清潔感のある佇まい。彼からは、人を心地よくさせる爽やかな空気が漂っている。だが、章はそんな熱を帯びた視線を向けられることにはとうに慣れているらしく、淡々と視線を外す。「ここで絵里を待っていて、診察に戻りますから」梨乃がハッとした時には、章はすでに立ち去っていた。本当にクールな男。その冷淡な態度を見れば見るほど、ベッドの上ではどんな顔をするのか、彼女の好奇心は掻き立てられる。梨乃は昔から、思い立ったらすぐ行動するタイプだ。スマホを取り出し、章にメッセージを送った。ちょうどその頃、章はナースステーションに立ち寄り、看護師に患者の指示を出していた。スマホが鳴り、わずかに眉を寄せる。画面を開いた瞬間、その目がスッと細められる。【松渕先生、ベッドの上でもそんなにク
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第575話

だが、このメッセージを送信しても、過去のあらゆる時と同じように、何の返信もない。梨乃は絵里が裕也といつまでイチャイチャしているのか分からず、いっそのこと病室に戻って待つことにする。エレベーターに乗った時、ちょうど白衣を着た、優しげで美しく、非常に気品のある女性を見かける。無造作に髪をまとめているだけなのに、その一挙手一投足には自信と余裕が満ち溢れている。梨乃は思わず彼女を二度見し、そのまま鈴木に車椅子を押されてエレベーターに乗り込む。その女性はナースステーションの方へと歩いていく。エレベーターの扉が閉まる直前、梨乃の耳に微かな声が届く。「赤松先生、松渕先生に御用ですか?」梨乃の心は沈み込み、無意識に車椅子の肘掛けを強く握りしめる。鈴木はやはり人生経験が豊富なだけあって、意味深長に口を開く。「今の世の中、本当にいい男もいい女も、もう『市場』には出回っていないものですよ」梨乃はとぼけてみせる。「私なんて、ちゃんと出回ってるじゃない」「ええ、小林さんは出回ってます。でも、あなたが好きなあのいい男、のんびりしてたら他の女性に取られちゃうかもしれないですよ」「……」一方、絵里は患者衣に身を包み、ベッドの傍らに座って裕也の手を握っている。その目元からは、隠しきれないほどの優しさが溢れ出ている。「今日は少し良くなった?傷口はまだ痛む?」「そんなに心配するな。こんなのたいしたことない。章の奴の言うことなんて信じるなよ、俺はあんなワーカホリックじゃない」裕也は口角を上げ、柔らかな眼差しで絵里を見つめる。まるで彼女の心の内をすべて見透かしているかのようだ。絵里は、彼には何も隠し立てできないと悟る。「章が言ったこと、あなたの性格にぴったり合ってると思うわ。あなたってそういう人だもの」雪枝が逮捕されて以来、藤原グループは危機に直面していた。お義父さんやお爺さんが対処しているとはいえ、裕也がそれを放っておくはずがないと、絵里は分かっていた。ましてやここ数年、グループは裕也の采配のもとで絶頂期を迎えていたのだ。藤原は彼を象徴し、彼もまた藤原を象徴している。人とグループは、すでに切っても切れない関係で結ばれている。「絵里がこんなに心配してくれるなんて、光栄だな」裕也の瞳は深く優しく、親指で彼女の手
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第576話

絵里は裕也の手をぎゅっと握りしめ、しばらく静かに彼を見つめている。やがて、こらえきれないように口角を上げ、その瞳には優しさと満ち足りた光が宿る。「裕也、私たち、もう……二度と離れ離れにならないようにしようね」誰一人として、もう二度とお互いを見失わないように。一方、和也は雪枝に面会しようとするが、取り調べ期間中は接見禁止だと弁護士に告げられる。打つ手がなくなった彼は、賢治にすがるしかない。だが、屋敷の門すら潜ることは許されず、外で足止めを食らう。賢治が面会を拒絶したのだ。頼る当てもなく、和也は門の前にそのまま土下座する。困り果てた警備員は、指示を仰ぐために奥へと向かう。賢治の態度は頑なだった。「土下座したければ勝手にさせておけ。いつまで持つか見物だな!この期に及んで、あの母親の命乞いをするとは。今の藤原家がどういう状況にあるか、次男のくせに後先も考えられんのか。馬鹿者め。母親と同じで、藤原の人間としての自覚が欠片もない。追い返せ、顔も見たくない」賢治は怒りのあまり激しく咳き込み、危うく白目を剥いて倒れそうになる。畑山が慌てて背中をさすり、なだめる。「お気を確かに。幸い、裕也様はご無事でした。賢治様と洋二様が役員たちを説得し、迅速に対応されたおかげで、被害は最小限に食い止められました。他のことは、もうお気になさいますな」賢治は鼻を鳴らして吐き捨てる。「和也のあの浅はかさ、本当に藤原の血を引いているのか疑わしい。今更わしに泣きついたところで、あの女が助かるとでも思っているのか。雪枝のやったことは人間の所業ではない。拓海を死に追いやっただけでなく、連中と結託して水原グループから莫大な資金を横領し、あろうことか絵里の命まで狙ったのだ。動かぬ証拠が揃っている以上、藤原グループは金を積んで災いを免れるだけで御の字よ。ましてや絵里は全くの無実だ。いずれ治夫が目を覚ましてこの事を知ったら、わしはどんな顔をしてあいつに会えばいいのだ」語るうちに賢治はますます激昂し、己の不甲斐なさに苛まれ、咳の勢いはさらに増していく。畑山は必死になだめすかし、賢治がようやく落ち着きを取り戻したのを見計らってから、彼は和也の元へ向かう。「和也様、お引き取りください。これ以上土下座を続けても、賢治様がお会いになることはありま
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第577話

絵里が示談書を出さなければ、母が死刑判決を受ける可能性は極めて高い。たとえ万が一の希望であっても、和也はすがりたい。絵里が承諾するはずもない。だが、彼がそう言うのを聞いて、今度はどんな悪巧みを企んでいるのか聞いてやろうという気になる。「何の話?」「実は、お前に嘘をついていたことがあるんだ。十……」和也の声がふいに途切れる。十年前、誰が彼女を救ったのか?そのことについて話すつもりだった。絵里は数秒待ったが、彼が言葉を続ける気配がないため、眉を寄せる。「何なの?言いたいことがあるなら、早く言って」一方の和也は、雪枝の秘書に耳打ちされ、ひどく険しい表情を浮かべている。長年、雪枝が血眼になって画策してきたのは、水原グループと藤原グループを手に入れるためだった。秘書は今しがた雪枝からの伝言を携えてきたのだ。和也が暴走することを見越したかのように、十年前の出来事は絶対に口外するなと釘を刺してきた。和也は葛藤の末、やはり雪枝の意向に従い、話すのを諦める。「こっちで少し急用ができた。また後日、詳しく話すよ」絵里の眉間にシワを寄せる。彼女が反応を返すより早く、和也は一方的に電話を切る。和也はスマホを下ろすなり、秘書を睨みつけて顔を曇らせた。「こんな時に、まだ水原を乗っ取ることなんて考えてるのか。だいたい、今さら俺が絵里の心を取り戻せるわけがないだろう」ましてや今回、裕也は絵里を庇って負傷し、あわや命を落とすところだった。絵里はもともと恩義を重んじる人間だ。あの時、命の恩人を騙っていなければ、二人が恋人になることなど到底あり得なかった。秘書は重々しい口調で告げる。「雪枝様はわざわざ私にこうお伝えするよう命じられました。他には何も望まない、ただあなたに子会社へ復帰していただき、いつの日か水原を手中に収め、裕也様と肩を並べる存在になってほしい、と」和也は重圧に押し潰されそうになる。幼い頃から、耳にタコができるほど聞かされてきた言葉だった。兄の方がずっと優秀なのに、母はいつも自分にばかり過剰な期待を寄せてくる。事あるごとに、兄と競い合わせようとする。理解できなかった。なぜ母は、有能な兄を可愛がらず、わざわざ自分にばかり鞭を打ち、画策を強いるのか。「言うのは簡単だがな。俺はすでに
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第578話

梨乃はもともと、両親の死が絵里の心に深い傷を残すのではないかと心配していた。絵里は微笑み、梨乃の車椅子を押して病室に入る。時刻は午前十時。裕也はあっさりとした食事を少しだけ取り、薬を飲んだばかりだった。先ほど彼女たちがドアの外で話していた内容は、すべて彼の耳に届いている。梨乃は裕也を見て、軽く笑いながら言う。「藤原社長、回復が尋常じゃなく早いね。昨日に比べて、顔色がさらに良くなってるみたい」裕也はこの二日間、ずっと点滴を受け、薬を飲み続けている。炎症を抑え、回復を早めるためだと医者は言っていた。「おかげさまで、悪くないよ」裕也は唇に微かな笑みを浮かべる。だが、夜のように漆黒の瞳は絵里を見つめており、その声には隠しきれない気遣いが滲んでいる。「もう退院手続きを済ませたのか?体調は本当にいいのか。もう少し様子を見た方がいいんじゃない」「大丈夫よ。先生も、肺に炎症はないし熱もぶり返してないから、あと二日普通に薬を飲めば治るって言ってたわ」絵里は、彼の手の甲に刺さったままの留置針と、くっきりと浮き出た青筋を見つめる。この二日間で目に見えてやつれた彼を見て、思わず胸を痛めて眉を寄せる。「私のことは心配しないで。自分の体は自分が一番よく分かってるから。今はあなたがしっかり休まなくちゃ駄目よ」「お前が無事なら、俺も無事だ」裕也の深く澄んだ瞳が彼女を見つめる。その眼差しは甘く優しく、見えない糸のように彼女に絡みついている。梨乃は突如として、全身に鳥肌が立つのを感じる。「もう、当てられっぱなし。私、来ない方がよかったわね」病室を出ようとする。車椅子の向きを変えようとしたその時、病室のドアが押し開けられ、白衣姿の章が入ってくる。穏やかで温かな空気がふわりと漂い、梨乃の瞳がぱっと輝く。だが突然、彼の後ろから同じく白衣を着た女性が続いて入ってくる。その女性は物静かで落ち着いた雰囲気を纏い、人を惹きつける不思議な魅力を放っている。梨乃は目を細める。その女医は、昨日エレベーターを待っていた時に見かけた人物だった。看護師が彼女を「赤松先生」と呼んでいたのを覚えている。どうやら彼女が、松渕家が章に用意した見合い相手らしい。おまけに、章の大学時代の後輩でもあるという。二人が前後して歩いてくる姿は、
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第579話

梨乃は病室を出て廊下を少し歩いたところで、背後から絵里の声に呼び止められる。「どうして一人で出てきちゃったの?もしかして、羨ましくなった?」図星を突かれたのか、梨乃の表情がわずかに強張る。振り返って絵里を見ると、慌てて取り繕う。「羨ましいって何が?何のことか全然わかんないんだけど」本当は分かっている。他の誰よりも。ただ、とぼけているだけだ。絵里はそれ以上追及せず、車椅子のグリップを握ると、梨乃を押して下の階へ向かう。「章、確かにかっこいいし、梨乃の好きなタイプだと思うな。知的で上品な感じだし。でも、本当に合うかどうかは、付き合ってみないと分からないよ。もし気になってるなら、自分からアプローチしてみるべきだよ。他の誰かに取られてから後悔しても遅いんだから」梨乃は普段から「今まで十八人の男と付き合ってきた」と豪語しているが、それはただの強がりに過ぎない。本当の彼女は、常に不安を抱え、ただひたすらにお金を稼ぐことだけを考えている女性だった。とりわけ、幼い頃の記憶が彼女を縛り付けている。父親から激しい暴力を受け、毎日涙に暮れながらも決して抵抗しようとしない母親の姿を、梨乃は目の当たりにしてきた。その結果、彼女は自分自身を守るため、様々な男たちの間を渡り歩くようになった。表面上の軽薄な振る舞いは、すべて彼女の保護色に過ぎない。絵里が自分の本質を見抜いていると知っている梨乃は、苦笑いを浮かべて虚勢を張るのをやめる。「分かってるでしょ。私みたいな家庭環境の人、彼に釣り合うわけないじゃない。ちょっとからかうくらいならいいけど、本気で付き合う勇気なんてないわ。あんな名門の家柄が、私みたいな人間を受け入れてくれるはずないし。それに、彼だって私のことなんて眼中にないよ」絵里は車椅子を押して病院の一階にある中庭へ出ると、大きな木の下にある石のベンチに腰を下ろす。「私がとやかく言うことじゃないし、決めるのは梨乃自身だけど。でもね、人生って、勇気を出した人から幸せになれるものだよ」絵里は、梨乃の膝の上にある手をそっと握り、彼女の目を真っ直ぐに見つめる。「梨乃、自分を卑下しないで。あなたは元々すごく素敵な人なんだから。たとえ世界中の誰も愛してくれなかったとしても、それはあなたに愛される価値がないからじゃない。自分で自
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第580話

「どうやら、誰もがこの競売に興味を持っているようだな」篠は眉を寄せ、険しい表情を浮かべている。その話題を耳にして、絵里はドアをノックし、病室の中へと足を踏み入れる。彼女が入ってくるのを見ると、篠の険しい顔つきは一瞬にして笑顔へと変わる。「裕也を見捨てて、帰っちゃったのかと思ったよ」絵里はシンプルなストライプのワンピースを着ており、その姿はとても穏やかで美しい。篠に向かって微笑む。「私を薄情な人間だと思いすぎよ。裕也は私のために怪我をしたんだから、そんな恩知らずなことできないわ」篠は吹き出す。「前に裕也が、絵里は恩知らずで、手のひらを返すような冷たい女だって言ってたよ」絵里は眉を寄せ、訝しげに裕也を見る。「私がいつ手のひらを返したっていうの?ちゃんとはっきり説明してくれない?」裕也の瞳に一瞬暗い色がよぎるが、顔色を変えずに笑う。「いや、俺の出鱈目だ。うちの妻はそんな人間じゃない。篠、俺たち夫婦の仲を裂こうとするなよ」「……」篠は呆れたように目を剥く。「はいはい、どうやら私はあなたたち夫婦のイチャイチャを引き立てる脇役に過ぎないみたい。わかったの、ごゆっくり。私はもう行くわ」「もう帰るの?」「ああ、子会社で処理しなきゃならない厄介事が山積みでね。それに最近、藤原グループも色々と問題を抱えてるし……また今度、時間がある時にでも集まろう」篠が言葉を濁した理由を、絵里も理解している。他でもない、雪枝の一件で藤原の人間がてんてこ舞いになっているからだ。篠が帰った後、絵里は裕也に視線を向ける。「赤松家と佐守家が手を組んで、土地の競売に乗り出してきたこと、何か不自然だと思わない?」彼女の知る限り、この二つの家系はこれまで協力関係にあったことはない。今回突然タッグを組むという噂が流れたこと自体、むしろ不気味だった。「構わんさ。奴らがどう手を組もうと、俺たちには影響ない」裕也は淡々とした様子だ。顔色はまだ少し青白いものの、彼が持つ気高いオーラは少しも失われていない。絵里は瞳の色を沈ませる。両家は常に良好な協力関係を保っているが、土地の競売に関しては、彼女自身に彼と手を組むつもりはなかったため、それ以上この話題を掘り下げることはしなかった。それはビジネスにおけるタブーだ
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