All Chapters of 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Chapter 301 - Chapter 310

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第301話

絵里は全身から力が抜け、膝が崩れそうになった。だが次の瞬間、逞しい腕にひょいと抱き上げられる。相手は彼女のスマホを取り上げると、すぐそばの曲がり角を回り、風を裂く勢いでその場を離れた。テラスの外にいた裕也は物音に気づき、数歩でテラスへ寄って中を覗いたが、そこには誰の姿もない。次の瞬間。郁江が背後から彼を抱きしめ、顔を彼の背中に押しつけた。「裕也……本当に結婚してようが、形だけだろうが、私はあなたと一緒にいたい。お願い……私を突き放さないで……」つう、と冷たいものが目尻を伝い、裕也のスーツを濡らした。さっきまでの横柄さも強気も消え失せ、そこにあったのは、ただみじめな懇願だけ。絵里は三階の休憩室へ運ばれ、階下の喧騒から完全に切り離された。ぬるめの水を半分ほど飲んで、ようやく氷のようだった体に少し温度が戻ってくる。気持ちもいくらか落ち着いたところで、絵里は眉を上げ、向かいにいる修司を見た。「さっきの、聞こえてたの?」テラスで耳に入ったあれは、彼にも届いていたはずだ。でなければ、あんなタイミングで彼女を抱えて連れ出すはずがない。運び出されるとき、驚きで頭は真っ白だった。それでも曲がり角を回った瞬間、裕也がテラスへ来て中を覗く姿だけははっきり見えた。誰かに聞かれたくなかったのか。それとも、自分に気づいたのか。考えた途端、胸の奥がちくちくと痺れるように痛んで、これ以上は思考が進まない。感情のない結婚なんて、ただの形式だ。要らないなら、捨てればいい。私は水原絵里。水原家の令嬢で、唯一の継承者。祖父母にも両親にも、目に入れても痛くないほどに大切にされてきた。どうして自分が、男のために、何度も何度も惨めにならなきゃいけないの?もう疲れた。要らない。「重要か?」修司は脚を組んだまま絵里を見やり、長い体を背もたれに預ける。鋭さを宿した気配に、どこか投げやりな緩さが混じっていた。絵里はまぶたを伏せる。「……そういうこと、あなたは前から知ってたの?」修司は鼻で笑い、骨ばった指で顎を軽く撫でた。「それが重要か?」二度目だ。まったく同じ言葉。絵里は自嘲気味に口元を歪めた。そうだ。重要なわけがない。それは彼らの過去で、私には関係ない、頭ではわかっている。それでも心
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第302話

絵里は視線を数秒、留めた。その瞬間、夜空がぱっと割れるように、花火が弾けた。絵里はきょとんと目を瞬かせ、すぐにぱあっと表情を明るくして顔を上げる。花火の光が、頬を淡く照らした。瞳の奥にはきらめく火の粉が次々と映り込み、いっそう艶やかに見せる。修司は背中を手すりに預けたまま、横顔だけを向けた。視線はあるようでないようで、絵里の顔に落ちている。官能的なのに刃みたいに薄い唇がわずかに弧を描き、鋭い眼差しの底に笑みが跳ねた。一瞬で、消える。その視線に気づいて、絵里は振り返った。修司は眉を軽く上げ、曖昧に笑う。「綺麗だな」花火の音は大きい。それでも、交差して咲く一瞬の隙間に、その声だけははっきり聞こえた。絵里は眉を寄せ、何とも言えない顔で彼を一度だけ見た。けれど、何も言わない。階下のホールでは、客たちが次々と庭へ流れ出て、夜空いっぱいの花火に見入っていた。裕也はスマホで何度も絵里に発信するが、人が多すぎて電波が悪い。呼び出しすらまともに繋がらなかった。ふと顔を上げると、三階のバルコニーに立つ姿が見える。その隣には修司。時折、二人は目を合わせていて、妙に距離が近い。裕也の顔が、すっと沈んだ。……二人は、そんなに親しいのか?郁江は目が赤い。泣いたあとみたいだった。ぷんぷんと怒りながら家を出て裕也を探し、彼の表情が険しいのに気づくと、その視線を追って上を見上げる。すぐに察した。花火の轟音に負けないよう、郁江はわざと声を張り上げる。「修司から逃げ切れる女なんて、そうそういないわよ。言ったでしょ。私と修司は心が通じ合ってるの。見ればわかる。修司、絵里に気がある」裕也の目が細くなり、踵を返して大股で家の中へ向かった。郁江が慌てて追いすがる。「彼女、あなたには合わないって!なんでそこまで……それに、あの部屋は修司のよ。修司は女に自分から近づく人じゃないし、きっと絵里が誘惑して……」「黙れ」裕也は鋭く睨みつけたが、歩みは止めない。氷みたいな声を投げ捨てる。「俺が言ったこと、覚えとけ。今夜みたいな真似は二度とするな」足早にエレベーターへ入る。郁江は最後の一秒で、無理やり滑り込んだ。「知らない。私の心が言ってるの、あなたが好きだって。絶対諦めない。それに、あ
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第303話

頭が勝手に下へ押し込まれ、顔だけが上を向く。その体勢が、なぜだか妙に艶っぽい。「ほんっとに大したもんよね。どこ行っても男をたらし込むんだから」郁江の皮肉が飛ぶ。なのに、どこか得意げでもあった。彼女は横を向き、裕也の顔色をうかがう。神様まで味方してくれてる。裕也が絵里をどう思っていようと。今この場面を見たら、男の胸に恥もなく飛び込む女だと嫌悪するはず。案の定、裕也の顔は陰っていた。周りの空気まで冷え切り、視線は鋭く、抱えられている絵里をまっすぐ射抜いている。絵里はそちらを振り向き、胸がひゅっと縮んだ。どうして、ここに?裕也の険しい表情を見て、何か誤解しているのではないかと察し、絵里は咄嗟に口を開く。「……あなたが想像してるような汚い話じゃない。髪がその人のブレスレットに引っかかっただけ」「そんな見え透いた言い訳、よく口にできるわね。さすが三流の脚本家。理由も、もうちょっと新鮮なの考えたら?」郁江が容赦なく嘲る。絵里は体勢を立て直しながらも、頭はまだ少し下に押される形のまま、ブレスレットに絡んだ髪を外そうとする。ところが、ほんの少し動いた瞬間、手首のチェーンに巻きついていた髪が、するりとほどけた。修司が肩の力の抜けた声で、意味ありげに言う。「悪い。手伝えなかった」わざとだ。姉弟そろって、性格が悪い。「解けたなら、帰るぞ」裕也が絵里の手首をつかみ、視線だけで修司を牽制した。裕也は背が高く、姿勢もまっすぐで、修司の前に立つと身長はほとんど変わらない。向こうは体格が良く肩幅もあるのに、裕也の周囲には凍てつく圧があり、気配だけで押し切ってくる。一瞬、どちらが上か分からない。絵里は黙って立ちながら、二人の間に沈む敵意を肌で感じていた。「相変わらずだな。何でも奪い合うのが好きだ」裕也が冷たく言い捨て、絵里の手を引いて歩き出す。「裕也!」郁江が扉の前に立ちはだかる。「そんな女でも、欲しいの?」「どけ」裕也が低く怒鳴った。顔にははっきりと怒気が浮かぶ。その一声は、押さえ切れない怒りそのものだった。郁江も怯んだが、絵里も息が止まるほど驚いた。本気で怒ってる。郁江は赤い目をさらに赤くして、ゆっくり脇へ退く。絵里はほとんど引きずられるように連れ出
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第304話

絵里が微動だにしないのを見ても、裕也は腹を立てなかった。身体を寄せ、ほとんど肩が触れそうな距離まで詰める。すると絵里は、意地を張るようにドア側へ身を引いた。明らかに、近づかれたくないのだ。やっぱり、怒ってる。裕也の漆黒の眼差しは、感情が読めない。「俺に腹立てたから、修司と上に行ったのか?」郁江を甘やかした件だって、まだきちんと説明していないのに。なのに彼は、先に自分を責めるようなことを口にした。絵里はちらりと裕也を見て、鼻で笑う。「藤原さんこそ、思い人と昔話に花を咲かせておいて。私のほうを疑うんですか?」思い人?裕也の濃い眉がわずかに寄る。「言っただろ。郁江は俺の思い人じゃない」「じゃあ、どうしてあの人の言いなりになるんです?」絵里は一歩も引かない。裕也の喉仏がごくりと動く。押し殺した声が漏れた。「帰ったらちゃんと説明する……」またそれ。絵里は聞き飽きた、とでも言うように視線を逸らす。「結構よ。別に、聞かなきゃいけないわけでもないし」そして淡々と続けた。「それに、婚約を公にする披露宴も……やる意味、ないんじゃないか」表情は静かで冷たい。決意だけが、氷みたいに透けて見える。裕也の喉が、きゅっと詰まった。この前は離婚だと言い出した。今度は、公表しない?車はそのまま、邸の敷地を抜けていく。胸の奥が息苦しいほど詰まって、裕也は身を乗り出した。手で彼女の顎を掴み、顔をこちらへ向けると、ぐっと、唇を塞いだ。乱暴で、強引で。今までのどのキスよりも、容赦がない。呼吸ごと奪う勢いで、罰するみたいに貪り、舌先が一気に踏み込んでくる。絵里に逃げ道はなかった。シートと彼の胸のあいだに閉じ込められる。「やめ……っ」絵里は両手で必死に押し返し、怒りを滲ませる。「私は人形じゃない。あなたの気分で好き勝手に扱われる筋合いない」裕也の顔色が沈み、胸の奥で火が上がった。「じゃあ、見せつけたいのか?俺がいなくても男はいるって、だから修司を選んだ?」絵里が口を開くより早く、裕也はまた唇を奪った。狂ったみたいに深く、激しく。剥き出しの独占欲が、息の温度に混じる。いつもの優しい裕也とは別人だった。噂どおりの、強引で鋭くて、毒舌で傲慢な男。絵里が
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第305話

三年前のことは、寧々には言い返しようがなかった。彼女は悔しそうに彼を見上げ、目の奥に涙を滲ませる。「……あの時は、私が未熟で、間違ったことをしました。でも、もう反省してる。罰だって受けたのに……どうして、いつまでもそれを掴んで離してくれないの?許してくれないの?私の潔白だって、もう……」寧々は俯いてすすり泣き、肩をひくひく震わせた。痛々しいほど、哀れを誘う泣き方だ。言い切らなくても、続きが何なのかは分かる。和也は苛立たしげに眉間を寄せ、低い声で叱りつけた。「泣くな!あの夜のことは事故だ……そもそも、お前が自業自得だろ」寧々は涙に濡れた顔を上げ、縋るように言う。「でも、和也が好きなのは本当なの。義妹だからって、好きになる資格もないの?……もしそうなら、今の私はもう藤原家を追い出された。これでいいでしょ?」その言葉に、和也は二歩、三歩と後ずさりした。奥歯を噛みしめ、怒りを押し殺す。「あの夜がどういうことだったか、お前が一番分かってるはずだ。俺が本気でキレる前に、さっさと俺の視界から消えろ!」吐き捨てると、和也は壁際に停めてある車へ大股で向かった。今夜は隆志の八十の祝いだと聞きつけ、わざわざ来たというのに、招待状がないというだけで門前払い。藤原和也ほどの男が、こんな場から締め出されるなど、これまでありえなかった。支社長の座を追われてからというもの、周囲は露骨に彼を無視し続けた。プライドはずたずたに裂かれたまま、いまだ癒えない。……認めるものか。星野家の人間に食い下がり、どうにか顔を立ててもらって中へ入れないかと立ち回っていた、その時だった。寧々が、いきなり現れた。縋りつき、哀れを売り、泣き落とし。夜空を埋め尽くす花火は眩いほどに美しいのに、寧々の顔にその光が落ちるたび、整った小さな顔がかえって、あの夜の不快さだけを思い出させる。言い争いが始まって間もなく、裕也の車が出てくるのが見えた。助手席の女は顔までは見えない。それでも、胸の奥がざわついた。「和也……!私、もう和也の女なんだよ。だから一緒に行く!」寧々が車の横まで追いすがり、甘えた声を投げる。電動ドアが開く。和也は片足を乗せたまま、掴まれた手を乱暴に振り払った。「その話はもうするな。俺はそんなに優しくねえ
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第306話

「今夜、星野家に行ってたのか?お前の部屋にいるのは誰だ?絵里、出てこい。今すぐ出てきて、はっきり説明しろ!」和也の声は怒鳴り声のはずなのに、どこか懇願が滲んでいた。固く閉ざされた客室ドアを見つめるほど、胸の奥にざわつく不安が押し寄せ、身体が小刻みに震える。扉の向こうで、何か、彼には耐えられないことが起きている。そんな予感がしてならない。星野家の門前で目にした、裕也が女の上に覆いかぶさっていた光景が蘇るたび、焦りと恐怖が煽られ、怒りまで込み上げた。絵里が、そんなことを……どうして、そんなことができる。けれど絵里のほうも、和也と同じくらい苛立っていた。自分の上にのしかかる裕也を睨みつけながら、耳には和也の執拗なノックと詰問が絶え間なく叩きつけられる。「兄弟そろって、どっちもどっち。ほんと最低」絵里は怒りに眉を吊り上げる。唇はキスで赤く腫れた。少し乱れた髪から、はらりと垂れた一筋が、目元にかかっている。柔らかな照明が彼女を包み、艶やかな顔立ちをいっそう鮮烈に浮かび上がらせる。頬と目尻の赤み、そして腫れた紅い唇が、どうしようもなく色を帯びて見えた。裕也は彼女の左右に腕を突き、低く掠れた声を引きずる。「他の男の部屋に入り込んでおいて、俺がひどいって?」「だって、あなたも他の女と……っ」胸が上下するほど怒っているのに、言葉が途中で途切れる。口にしかけた先が、うまく形にならない。絵里は歯噛みして言い直した。「……あなたと郁江だって、清い関係じゃないでしょ。人に言う前に、自分が何をしたか思い出しなさいよ」「ん?何をしたって?」裕也は彼女の目を捉えたまま、低く問い詰める。そのとき、絵里のスマホが鳴った。梨乃からの着信だ。絵里が手を伸ばした瞬間、裕也が先に取り上げた。「返して」絵里の表情が強張る。裕也は表示された名前を一瞥し、何か考えるように身体を起こす。絵里が彼の意図に気づいた時には、もう遅かった。指が画面をすっと滑り、通話がつながる。「絵里、大丈夫?さっき私が言ったことで、傷つけちゃったよね……でも私も確証があるわけじゃないの。郁江が裕也の子を産んだことがあるかどうかも……だから、あんまり考えすぎないで?」絵里は目を見開いた。その瞬間、大きな手が口元を塞ぐ。声を出そう
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第307話

「絵里!」和也の叫び声はしゃがれていた。振り上げた腕が、また扉を叩きつけようとした、その瞬間。ようやく、扉が開いた。だが和也は、姿を現した人物を見た途端、顔色をみるみる変えていく。怒りで赤く染まったかと思えば、次の瞬間には驚愕に引きつり、血の気が引いた。「兄さん!」やっと声を取り戻した和也が叫ぶ。「なんで兄さんがここにいるんだ?絵里は?絵里はどこだよ」視線が室内へ滑る。リビングには、誰もいない。なのに床には、ハイヒールが一足。投げ出されたように、あっちへこっちへ倒れている。その光景だけで、勝手に想像が膨らんでいく。裕也は自分のスーツの皺を整えた。端正な顔に余計な表情はなく、眉だけを淡く上げて和也を見下ろす。「彼女に、何か用か」低い声。けれど眼差しは鋭利で、突き刺すようだった。まるで、絵里の男として訊いているみたいに。お前は誰だ。何の用だ。和也は、さっき星野家の門前で目にした場面を思い出し、背筋が冷たくなる。警鐘が鳴りっぱなしだ。「なんで急にここへ……しかも、絵里の部屋にいたなんて」「暇なのか?」裕也の瞳は冷えきっていた。嘲りを纏った圧が、上から降ってくる。和也はこの態度が大嫌いだ。だが正面からぶつかる勇気もない。喉が詰まり、歯を食いしばってから吐き捨てる。「俺がなんで暇か、兄さんが一番わかってるだろ。子会社の社長のポストだって、俺じゃなくて外の人間に渡した。最初から俺を締め出すつもりだったんだ」思い出しただけで、腹の底が煮える。任せた相手は、女だ。直村篠という名前の。通達が出た日、怒りで頭が沸騰しそうだった。でも表立っては騒げない。母は言った。計画は失敗した。巻き返したいなら裕也に正面からぶつかるな、と。なら、絵里を手に入れる。水原家の莫大な財力を後ろ盾にすれば、その時はもう裕也の顔色なんて窺わなくていい。「自業自得だ」裕也が扉を閉めにかかる。凛とした気配に、和也の身体が勝手に強張った。閉まってしまう。そう思った瞬間、和也は思わず手を伸ばして止めた。「絵里に会わせてくれ。兄さんが絵里にいろいろしてるのは、両家の関係のためだろ?頼む。ちょっとでいい、出てきてもらえないか」必死に頭を下げる和也の美貌は、裕也の前では妙に霞む。兄弟なのに、
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第308話

彼女は、胸の内に溜めておけなかった。「ねえ、今夜どうして私の立場を認めたのに、結局みんなの笑いものにしたの?郁江は大切な人じゃないって、いつもそう言うよね。じゃあ聞くけど……なんで今夜、あんなに郁江のことを甘やかしたの?」それどころか、郁江が調子に乗る隙まで与えた。自分は確かに、選ばれたはずだった。最後の一歩で、またしても笑いものになってしまった。悔しくて、息が詰まる。だって、彼が教えたのに。嫌なことは嫌だと言え、自分を大事にしろ、自分が正しいと信じろ。いつだって自分の気持ちを最優先にしろって。守るとも言った。なのに、郁江の前だと、どうして変わるの。「……ごめん」裕也は、しょんぼりと俯いたまま、泣きも騒ぎもせず、悔しさを飲み込んで従順にしている彼女の姿に、胸を強く締めつけられた。次の瞬間、彼は彼女を抱き寄せ、腕の中にきつく閉じ込める。「ごめん……ごめん」何度も何度も繰り返される謝罪。掠れた声。抱きしめる力が少しずつ強くなり、瞳の奥には罪悪感と、痛いほどの愛しさが滲んでいた。絵里は鼻の奥がつんとした。辛い思いを溜め込んでいるとき、人は優しい言葉に弱い。涙が落ちそうになって、慌てて堪え、彼の胸の中で小さく首を横に振った。「……謝ってほしいんじゃないの。どうしてそうしたのか、教えて」一拍置いて、掠れた声で続ける。「どうして、あの人を庇ったの?」「……わかった。話す」裕也は彼女の頭頂に顎を乗せ、そっと口づけてから、絵里の手を引いてソファへと連れて行った。そして、郁江との過去を、必要な部分だけ簡潔に語る。郁江は、昔、裕也を助けたことがある。彼のために刃を受け、刺されたのだ。だがそれがきっかけで報復を受け、出血がひどく、腹の子は助からなかった。そして、その子の父親は表に出せない立場の男だった。救急搬送された郁江には、すぐに手術の同意が必要で、署名できる人間がいなかった。裕也が代わりに署名した。その日からだ。「ふたりの子だった」という噂が勝手に広まったのは。「……」絵里は言葉を失ったあと、震える息で尋ねた。「じゃあ……感謝してるから、ずっと説明しなかったの?」裕也の眉間に、薄い陰が落ちる。自嘲するように笑った。「この話、俺ひとりが説明
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第309話

「……本当に?」裕也は絵里の唇に軽く口づけ、悪戯っぽく誘う。絵里の鼓動がどんどん速くなる。彼の体から立ち上る熱にあてられ、かすかに「うん」と返した瞬間、唇を含まれてしまった。逃げようとするたび追いかけられ、息が乱れる。今日はどうにも気が乗らない。必死に押しとどめて、肩で息をしながら言った。「……次にして」裕也はその瞳を見つめても苛立ちもせず、甘やかすように鼻先をつまむ。「今夜は見逃してやる」そう言ってきちんと座り直し、絵里を腕の中へ引き寄せた。こんなふうに、ただ抱き合って座っていることは滅多にない。絵里の胸を塞いでいたものが、嘘みたいにほどけていく。柔らかく、素直な顔で彼の胸に頬を寄せる。言葉もなく、ただ静かに寄り添った。部屋に置きっぱなしのスマホが、メッセージ受信の通知音を何度も鳴らしている。聞こえてはいる。でも見る気になれない。絵里にこんな時間に連絡してくる相手なんて、和也以外にいないのだから。……和也は魂の抜けたような顔でホテルを出た。刺激が強すぎた。行き先はバー。酒で全部流してしまいたかった。ひとりでボックス席に沈み、何杯飲んだかもわからない。飲みながら、絵里にメッセージを打つ。何通も、何通も送った。それでも返事はない。電話もかけた。だが、出ない。絵里は……短い一言すらくれない。メッセージも既読にならない。腹が立つ。怒りと、憎しみと、焦りが一緒くたになって喉の奥を焼いた。今夜、絵里と裕也は何をする?あいつらは、いつから一緒だった?どれくらい前から……「ちくしょう!」和也は苛立ちのまま酒瓶を叩きつけた。ガシャン、と乾いた破裂音。「きゃっ!」悲鳴が上がる。寧々がボックス席に駆けつけ、和也の有様にぎょっとした。「和也、どうしてこんなに飲んでるの……?」近づくと、濃烈なアルコールの匂いが鼻を刺す。顔は真っ赤。体はぐらぐら揺れていて、いつもの整った顔立ちも、自信に満ちた魅力も、見る影もない。「だ、大丈夫?転ぶよ……!」前のめりになった体を、寧々が慌てて支える。和也は細めた目で彼女を見分け、次の瞬間、苛立ちをぶつけるように突き飛ばした。「寄るな……!全部お前のせいだ……俺は……全部失った!絵里が……絵里が、俺から……離れる…
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第310話

撮影現場で二日がかりの原稿チェックを終えた絵里は、ブラックコーヒーを一杯買って戻ったところで、二日遅れでようやくかかってきた梨乃からの電話を受けた。「ほんっと心臓止まるかと思った……!まさか電話に出たのが裕也だなんてさ……そのあと、絵里、嫌な思いさせられてないよね?」罪悪感にまみれた声。絵里はくすっと笑った。「大丈夫。何もされてないよ」「ほんとに?『私と関わるな』とか言われてない?私が絵里をダメにする、とか……二人の仲を壊す、とかさ……」「ないってば」「でも……」絵里は初めて見るくらい縮こまっている梨乃に、むしろ彼女の本気を感じて笑いがこぼれた。「脅されたみたいになってる。いつものあなたっぽくない」「そんなのどうでもいいの!ねえ、ほんとに、何も言われてない!?」「うん。ほんとにない」ようやく梨乃が、ふうっと息を吐く気配がした。絵里は視線を撮影の方へ向ける。現場はいつも通り、慌ただしく回っている。彼女は踵を返して休憩スペースへ行き、空いている椅子に腰を下ろした。ふと、以前梨乃が寄越した「アレ」のことが脳裏をよぎる。絵里はぼそりと言った。「……むしろ、彼、あなたに感謝してるかも」「え?何を?」スマホの向こうで、ゴクッと水を飲む音。ぷつぷつと途切れる雑音も混じっていて、梨乃もどこかイベント会場みたいな場所にいるのだろう。絵里はコーヒーをひと口含んでから告げた。「あなたが送ってきたやつ、見られた。あと、『EDじゃないですか』って聞いた件も」数秒の沈黙。「きゃああああ!!」次の瞬間、梨乃の絶叫が耳をつんざいた。恥ずかしさで今にも死にそうな、悲鳴にも似た声だった。「絵里、私が今まで生きてこられたのは、全部あなたのおかげよ!旦那さん、殺さずにいてくださった恩、一生忘れません!絵里、身を挺して私の命を守ってくれて、本当にありがとう!!」裕也にすべてを知られていたなど、自分は思いもしなかった。そりゃあの夜、裕也が陰気な声で「……お前がいなきゃ、俺と絵里はこんなに苦労しなかった」なんて言うはずだ。何それ。どんな言い草。たぶんあのとき裕也、本気でスマホから手を伸ばして梨乃の首を絞めたかったはずだ。裕也と和也は、同じ種類の男じゃない。比べるのも失礼なくらい違う。前者は穏やかに見え
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