All Chapters of 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Chapter 321 - Chapter 330

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第321話

郁江は殴られた衝撃で呆然とし、甲高い声を張り上げた。「……あなた、何様よ。よくも私を殴ったわね?」「じゃあ、あなたは何様?」絵里の瞳にようやく感情が灯る。鋭く、そして揺るがない自信。「私が脚本家として働いて、何が悪いの?どんな仕事であれ、誇りを持って自立している人間を蔑む権利なんて、あなたにはないわ。名門の出だっていうわりに、そんな貧しい価値観しか持ち合わせていないなんて、哀れみすら覚えるわね」一拍置いて、絵里は冷ややかに言い切った。「本気で比べたいなら、あなたは他人の夫に手を出そうとしてるビッチでしかない。私と同列に並べるつもり?」三か月前の絵里なら、いつものように飲み込んでいたはずだ。当時の和也はいつも言っていた。意地が悪くて、尖った女は嫌いだ、と。自分を守ることすら、罪なのだと思っていた。五年という年月は、彼女を慎重で臆病で、我慢が癖の人間に変えていった。けれど今の絵里は、もう目が覚めている。こんなビッチに、頭の上まで乗らせる理由なんてない。郁江は絵里の鼻先を指さして罵った。「なによ偉そうに!私を見下す気?私が裕也に一言言えば、あなたなんて簡単に破滅させられるのよ」「やってみれば?」絵里は苛立ちも隠さず、冷たい声で遮る。「彼のほうがあなたの戯言を真に受けて、私を排斥しようとするような男なら、言われずともこちらから捨ててあげるわ」淡々と告げ、背筋を伸ばして立ち去った。その背中は誇りに満ちていて、噂にあるようなみじめさなど欠片もない。郁江の胸に、言いようのない驚きが刺さる。どうして、こんなふうになったの?絵里は郁江の挑発など、欠片も気にしていなかった。むしろ、心も身体もすっと軽い。この数年、自分は見過ごされすぎた。自信を失いすぎた。それに気づけたのは、この数か月の裕也の導きと、寄り添いがあったからだ。そのことだけは、感謝すべきだと思う。予想通り、裕也は五時過ぎに戻ってきて、絵里をレストランへ連れていった。「あとでお前は食べることだけ考えればいい。俺たちの話は気にしなくていいし、遠慮もしなくていい。ちゃんと食べるのが一番大事だからな」気遣うように言う裕也に、絵里は明るく笑った。「大丈夫。任せて」個室には何人もいた。江原社長のほか、今回の
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第322話

裕也は早々に身を引き、郁江が伸ばしてきた手をすっとかわした。絵里の話を聞くなり、彼は目を見開いて彼女を見た。「本当か?」この二日間、絵里は真剣に考えてきた。小さくうなずく。「はい。私が……」「あなたが?絵里、最近ますます演技が上手くなったじゃない」郁江が即座にせせら笑った。「ここがシナリオ書きの現場だとでも?指を動かして台詞を何行か書けば終わり、ってわけにはいかないの。これは開発よ、技術よ。みっともないプライドで、私と張り合うのはやめてくれない?」蔑むような視線。言葉の端々に、絵里を見下す気配が滲んでいる。ほかの者は口を挟めなかった。けれど本音では、郁江の言い分に頷いている。脚本家は脚本を書くだけだ。どうやってシステムを修復させるというのか。その点、郁江は違う。海外の名門大卒、ダブルディグリー持ち。国内でも名の通った女性エンジニア。国内外を見渡しても、そう簡単には見つからない人材だ。裕也の表情が冷え、郁江へ一瞥を投げた。「うるさい」郁江の胸がむっと詰まる。周囲が自分の側に寄っているのを見て、ますます引かなかった。「事実を口にしたまでよ。水原家の体面が気になるというならなおのこと、彼女の好き勝手な真似をこれ以上、野放しにするべきではないでしょ」そして絵里に向け、冷たく鼻を鳴らす。「忠告してあげる。大人しく脚本でも書いてなさい……あ、違った。水原家を継げばいいじゃない。どうせ水原家の事業って、研究開発にも噛んでるんでしょ?見てみたいわ。水原家が、あなたの手でどうやって壊れるのか」容赦がない。踏みつけてでも屈服させたいという勢いだった。こんな役立たずが、裕也を奪い合うつもり?身の程知らずもいいところ。絵里は形のいい眉をわずかに寄せた。「そんなに焦ってどうするの。私にできるかどうか、試せばいいでしょ?」「いいわよ。じゃあ勝負しましょうか」郁江は待ってましたとばかりに食いついた。 「もし本当にその問題を解決できたっていうなら……私、全裸で街を駆け回ってあげてもいいわよ!」そこまで?絵里は止めるどころか、淡々と返す。「本気?後悔しない?」「もちろん!」郁江は釣れたことに内心で昂っていた。「でも、あなたが負けたら、私の要求を一つ、無条件で
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第323話

郁江はふん、と鼻を鳴らし、不承不承その場を後にした。食事が終わる頃には、江原社長と数人のエンジニアは冷や汗だくだった。問題はまだ解決していない。そのうえ藤原社長は、彼女たちの勝負まで許可したのだ。こうなると、確かに絵里を甘やかしすぎと言われても仕方ない。とはいえ、郁江に腕があるのは間違いない。星野家と藤原家は商売の場では犬猿の仲で、普段なら郁江に技術の相談をすること自体が難しい。それが今回は向こうから手を貸しに来た。まるで宝を拾ったような気分だった。食事を終えて戻る車中。絵里は黙ったまま、少し物思いに沈んでいるような様子で、裕也には考え事をしているように見えて、つい口を挟んだ。「何考えてる?」裕也が横顔を向ける。いつも通り深く、ぬくもりを含んだ眼差しが、その小さな顔に絡みつく。絵里は目を上げ、星のように煌めく彼の漆黒の瞳と視線が交わった。口元をわずかに吊り上げた。「勝ったらさ、どの通りで裸で走らせるか考えてた」冗談ではない。この五年、絵里が会社を継ごうとしなかったのは、見れば思い出してしまうからだ。父の死を。それで、いっそのこと水原家を出て、外のマンションで一人暮らしを始めたのだ。大学への通学に便利だから。それに……もう、これ以上逃げ続けることはできない。「ならH市で一番賑やかなところだな」裕也が甘い調子で乗る。絵里は吹き出し、真面目な目で彼を睨むように見た。「残酷すぎない?」裕也は彼女の手を取って口元へ運び、ちゅ、と軽く触れた。「お前を踏みにじろうとしたとき、あいつは残酷かどうかなんて考えなかった」ほら。これだけ自分の味方をする男が、郁江を想ってるはずがない。よほどの役者でもない限りはね。……翌日、絵里は早朝から撮影現場に入り、付きっきりで確認に回った。午前中だけでも修正点は山ほど出たが、皆の連携がよく、撮影自体は滞りなく進んだ。開始があまりに早いので、覚が労いとして飲み物を差し入れてくれる。軽食と一緒にテーブルへ並べ、「好きに取って」と。絵里がコーヒーに手を伸ばした、その一瞬。先に誰かがひょいと持ち上げた。最後の一杯だった。絵里は一瞬固まり、反射的にその手の主を見る。綾子が媚びるような笑みを作り、コーヒーを差し出した。「水原
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第324話

「安心して。午後三時にはそっちへ行くから」「できないならできないって言えばいいのに。何カッコつけてんの?」郁江がスマホをひったくり、鼻で笑った。「いま降参しとけばまだ間に合うよ。少なくとも裕也の前で恥かかずに済むし」「星野さん……」絵里の幽かな声が滑り落ちる。冷ややかなトーンのまま、淡々と皮肉を放った。「その立派な肩書、どこかで買ってきたのかしら?一流のエンジニア様が、ずいぶんと暇なのね」「……っ」郁江は悔しさに奥歯を噛みしめた。けれど絵里は罵らせる隙さえ与えない。ぷつり、と通話が切れた。ただ、絵里も思っていなかった。たかが小さな勝負の話が和也の耳にまで入っているなんて。撮影所の門を出た途端、和也が行く手を塞いだ。何度か避けようとしても無駄。絵里は諦めたように立ち止まり、無表情のまま言う。「通報してほしい?」そういえば、あの山荘の一件の動画だって、まだ手元に山ほど残っている。和也が息を呑む。「……そんなに俺が嫌いになったのか?」絵里の瞳は氷のように冷え切っていた。答えは迷いなく、即答だった。「嫌い」「なんでだよ!」和也が唸るように叫ぶ。受け入れられない、と顔に書いてある。五年も愛していた女が、いまさら「嫌い」?そんなわけがない。信じられない。だから、理由を……絵里は可笑しくなった。いまさら、そんなことを聞ける神経が。冷えた顔のまま、まっすぐに和也を見据える。「あなたが厚顔無恥にも、十年間も私の命の恩人の座を騙り続けてきたからよ」一拍置き、さらに言葉を重ねる。平坦なのに、刃だけが増えていく。「じゃあ聞いて。私があなたを嫌いな理由。五年間付き合って、その五年間、私に何をした?あなたがしたこと全部、私を傷つけて、叩きのめして、私が自分を信じられなくなるように仕向けた」言っているうちに、滑稽さが込み上げてきた。絵里はふっと笑った。「これだけで、嫌いになるのに足りない?」怒っているようには見えなかった。あるのは淡い冷淡さだけ。まるで和也が、最初から最後まで「くだらない冗談」だったみたいに。和也の胸がどくんどくんと鳴る。恐怖が、また容赦なく押し寄せてきて、息を奪っていく。なにより絵里の目だ。余計なものを見るような冷たさが、そのせいで彼の胸中には
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第325話

絵里は位置情報を頼りに現場へ駆けつけた。背後からエンジン音が響き、裕也が埃をまとったまま滑り込むように到着する。車を降りると、まっすぐ絵里の前へ。裕也は腕時計に目を落とし、穏やかに言った。「時間、ちょうどだな。絵里、一人で来てくれてありがとう。お疲れさま」「そうだよ。迎えに来てくれないから、またあのしつこいのに絡まれたし」絵里はぶつぶつ言いながらも、さっきまでよりずっと表情が明るい。裕也は彼女を連れてビルへ入り、眉をひょいと上げた。「……また和也か?」絵里は肩をすくめ、どうしようもないという仕草で返す。裕也の表情は崩れないまま、わずかに沈んだ。自嘲気味に笑う。「絵里は魅力が強すぎる。これからは気をつけないとな。誰かにさらわれないように」絵里は困ったように笑うだけで、言葉を返さなかった。二人はエレベーターに乗り、上階へ。到着し、扉が開く。江原社長が早くから部下を連れ、エレベーター前で待ち構えていた。二人の姿を認めるや、深々と頭を下げる。「こちらへどうぞ」絵里は裕也の隣を歩き、広々とした技術開発部へ入った。目立つ席に郁江がふんぞり返るように座っている。待ちくたびれたのが丸わかりだ。二人が一緒に現れた途端、顔つきがさらに険しくなる。「来ないかと思った。ビビって逃げたのかと」郁江は絵里を斜めに見て、露骨に見下した。その尊大さに、絵里は十二歳までの自分を思い出す。わがままで、強気で、派手で、それでも両親も、祖父母も、あんな自分を笑って可愛がってくれた。父は言っていた。賢くて、根っこが優しくて、放っておけない性分だ、と。いじめられている子を見れば、真っ先に飛び出していく、と。母は言った。あれは我儘じゃない、自信なのだ、と。傲慢でも乱暴でもない。自分の考えをちゃんと持っているだけ、礼儀もあるし、誠実だ、と。もう二度と、あの声で褒めてもらえない。もう二度と、あの手で撫でてもらえない。胸の奥が、きゅっと痛んだ。絵里は感傷を押し込め、目を細めて切り返す。「で、どの通りで裸で走るか決めた?」郁江はまさかの切れ味に顔を引きつらせ、苛立ちを隠さない。「誰かが不正に手を貸さない限り、あなたの負けは確定よ」怒りをむき出しにする郁江とは対照的に、絵里は静かだった。
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第326話

勝負は、多くの視線が集まるその場で行われる。郁江は開始前、絵里のほうへと、侮蔑の色のこもった視線を向けた。すぐに絵里は、木っ端みじんに負ける。そのときは叩き出してやる。二度と裕也に近づかせない。半歩たりとも、だ。健のスマホが震えた。彼はメッセージを一読するなり目を見開き、裕也の耳元へ身を寄せて囁く。「鯉谷亮二が落ちました。社長の読み通り、指示役がいて、悪意をもってシステムを改ざんして壊したそうです」鯉谷亮二(こいたに りょうじ)は、例の改ざんを行ったエンジニアだ。警察に連行されてから数日、ずっとしらを切っていたのに、今になって、ようやく口を割った。裕也の深い眼差しに凛とした光が宿る。「……わかった」それだけ告げると、彼は絵里のほうを見た。さっきまでの冷えた気配が嘘のように消え、眼差しは穏やかに和らいでいた。絵里は正昭と何やら話しながら、ときおり指先で目の前の大型モニターを調整している。美しい顔立ちには終始淡々とした色が浮かび、お行儀よく静かに佇んでいるものの、目が離せなくなる。そんな表情だ。一方の郁江もエンジニアとやり取りをしていた。彼女の表情は強気で、全身から突き破るような勢いが漂う。勝利を疑っていない顔。エンジニアとの会話を終えると、どこが怪しいかはほぼ見えた。胸が高鳴り、反射的に裕也へ視線を向ける。だが、裕也はずっと、絵里を見ていた。その瞳のやわらかさは、郁江が長年知る彼には一度もなかったものだ。……ふざけないで。勝つ。絶対に勝つ。絵里に恥をかかせる。自分と彼女の差を、骨の髄まで思い知らせてやる。郁江は隣のエンジニアに短く指示を飛ばし、絵里を横目で見た。まだ手を付けていない。方向が定まっていないように見える。ふん。見つけられるわけがない。だって、できないんだから。「……役立たず」郁江は冷たく睨みつける。隣のエンジニアも、その視線の先を追って、困ったように首を振った。彼だけじゃない。開発部の人間はもちろん、江原社長でさえ、絵里が郁江と勝負するのは身の程知らずだと思っている。それでも裕也が止めなかった以上、誰も表立っては言えないだけだ。郁江は視線を引っ込め、手を動かし始めた。対して絵里は、まだ正昭と何か話している。若くておとなしいその雰囲
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第327話

一同は目を見張り、しばらく言葉を失った。絵里は正昭の顔つきが可笑しくて、くすっと笑う。「大したことじゃないわ。この程度の改ざんならね」正昭は、目の前の光景が信じられなかった。自分が選ばれて絵里のサポートに回ると決まったとき、内心では強い反発心を抱いていたのだ。安全の根幹に関わる重要な開発を、あんな風に遊び半分で進めるべきではない。裕也は公私混同甚だしく、女をご機嫌取りするための、ただの火遊びに付き合っているのだと、そう思い込んでいた。けれど、狭量だったのは自分だ。いや、自分たちの方だったのだ。絵里の手際は正確無比、それでいて圧倒的に速い。このレベルなら、郁江どころか、寿樹ですら、同じことができるとは限らない。郁江は衝撃から我に返ると、早足で絵里の前へ詰め寄った。モニターに表示された画面を見て、愕然と立ち尽くす。「ありえない……そんなの、ありえない!あなた、やっぱり不正したんでしょ!」怒りに濁った視線で絵里を睨みつけ、現実を認めようとしない。絵里は背筋を伸ばしたまま、淡々と言い返した。「不正じゃない。あなたが下手なだけ」システムは改ざんされ、至るところにミスリードの情報が仕込まれていた。それでも、ロジカルに分析を進めれば、問題の切り分けは十分に可能だ。必ず根本原因の特定にまで辿り着ける。そして何より。絵里はこのシステムを作った当人だ。郁江より詳しいのは当然だった。「調子に乗らないで!あなたが何も分かってないのは知ってる。こんな短時間で解決できるわけない!」郁江は声を荒らげ、周囲に同意を求める。「みんなもそう思うでしょ!?私の言ってること、間違ってないでしょ!」エンジニアたちは顔を見合わせる。理屈としては郁江の言い分も理解できる。だが、絵里が不正した証拠はない。「負けそうになると、そうやって見苦しく噛みつくのか?」裕也が長い脚で歩み寄る。どの角度から見ても目を奪う顔立ちなのに、纏う空気は重く冷たい。近寄りがたい圧がある。その視線をまともに受け止めるだけで、喉が詰まりそうだった。郁江は声を張り上げた。「この私が、上級エンジニアの私が……こんな、何もできない脚本家に負けるって?裕也、みんなを馬鹿だと思ってるの?こんなの信じるわけないでしょ!」「どうしてそう
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第328話

絵里は口元を歪め、含み笑いのまま唇をつり上げた。「やりたくなくなった?昨日、誰が『裸で走る』って言ったの?」江原社長をはじめとするエンジニアたちが、まるで示し合わせたように一斉に郁江へと視線を向けた。昨日、確かに彼女はそう口にした。全員が聞いている。郁江はさっと青ざめ、しばらくしてようやく声を取り戻した。「た、確かにそうは言ったけど……絵里がコードを書けるってのは認めるわ。でもシステム改修までできるとは限らないでしょ?裕也が裏で手を回した可能性だってあるんじゃない?」一線級のエンジニアである自分が、絵里に負けるなどありえない。そんなはずがない。絵里は鼻で笑った。「まだ強情を張るの?さっきは『コードを書けたらそれでいい』って言ったくせに、今度は言い分を変える……そのうち『星野家のお嬢さんがゴネた』って話が、あちこちに広まるんじゃない?」絵里の声は落ち着いているのに、刃物みたいに急所を抉る。名門は体面が命だ。郁江は顔を真っ赤にして怒鳴り返した。「黙りなさいよ!普通に考えたら、裕也があなたを助けたに決まってる!あのシステムを作ったエンジニア、神原寿樹は藤原グループにいるでしょ。きっとあいつが解決策を教えたのよ!」そうだ。なぜ今まで気づかなかった。嵌められたのだ。さもなければ、絵里が負けると初めから分かっていながら、裕也が勝負を許すはずがない。そういうことか。周囲も「確かに」と頷き、空気が一気にそちらへ傾く。江原社長だけが首をかしげた。「でも……神原さんは自信がないから来ないって……」「考えが甘すぎるわ」郁江は江原社長を睨みつける。「藤原社長の一言があれば、神原さんが顔を立てないわけないでしょ」それで皆、腑に落ちたような表情になる。なるほど、だからか。さっき正昭は確かに絵里のすぐ傍にいたが、手さばきが速すぎて、何をどうしたのか見えないうちにシステムが復旧していた。寿樹が事前に教えたのか、それとも絵里が本当にそこまで出来るのか?判断がつかない。郁江の機嫌を損ねたくないのもあり、誰も口を開かなくなった。裕也は冷えた目で郁江を見下ろし、唇の端を嘲るように吊り上げた。「絵里の言う通りだな。お前、ほんと見苦しい」郁江は息を詰まらせた。「そんなふうに庇わないで。こ
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第329話

「とにかく。こんなくだらないことで、本気で裸で走るなんてあり得ないわ」そう言い切ったものの、郁江の表情にはわずかな居心地の悪さが滲んだ。絵里はわかっている。郁江が本当にやるはずがないと。「忘れたの?たかが三流脚本家だろうと、私は水原家の人間よ。あなたに施しを受ける覚えなんて、これっぽっちもないわ」絵里は顎をすっと上げ、少しだけ考える素振りを見せる。「謝って。そうしたら、この賭けは終わりにしてあげる」他人にとって、謝罪なんて大したことじゃないかもしれない。でも郁江は違う。傲慢で押し通してきた人間だ。T市で誰も逆らえない存在で、業界でも名の知れたトップランナー。その郁江に「謝れ」と言うのだから、怒りが噴き上がるのも当然だった。「謝れですって?あなた、身の程ってものを知らないの?」「へえ」絵里は騒ぎを見守る面々へ静かに視線を流した。「今日のこと、みんな見ていたわよね。後で証言、頼めるかしら?」そして淡々と続ける。「星野さんは約束を守らない卑怯者で、実力もないくせに、言い訳とごね得が大好きで……」言葉がそこで途切れた。次の笑みは冷たく、刃物みたいに鋭い。「本人が認めたんだから。今日は私が大人になって、好きにごねさせてあげる」周囲はうつむいて笑いを堪えた。言い得て妙、とはまさにこのことだ。星野家といえば、絵に描いたような傍若無人の象徴だった。郁江は帰国してまだ日が浅いくせに、「上級エンジニア」を名乗って取材で国内のデザイナーを丸ごとこき下ろした。「全員ゴミ」だと、堂々と言い放ったのだ。郁江は煮えくり返るような怒りを抑えきれず、拳を握りしめ、絵里を睨みつけた。このビッチ。よくも私に、そんな口を。「トップニュースにでも載りたいのか」裕也はスマホを軽く振ってみせた。言葉は少ない。けれど、脅しとしては十分だった。絵里を庇い、完全に味方をする。そういう態度だ。郁江の顔色がさっと変わる。屈辱と怒りが胸の中でぐちゃぐちゃに絡み合い、しばらく葛藤した末、青ざめた顔で吐き捨てるように言った。「……いいわ。謝ればいいんでしょ。……ごめんなさい」黒い顔のまま、形だけの謝罪。五年前の絵里なら、曖昧にされて終わっていたかもしれない。だが今の彼女は違う。泥沼から
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第330話

郁江は、彼と絵里の噂を幾度となく耳にしていた。そのせいで、少し前まで彼女は、和也のことを本気で「バカ」だと思っていた。ちゃんと絵里と結婚していれば、今日みたいなことにはならなかったはずだ、と。とはいえ、もう起きてしまったことは戻らない。和也が動いてくれるなら、こちらの手間もずいぶん減る。「……いいわ」……絵里は、周囲から盛大に持ち上げられていた。正昭が張りつくようにして、攻撃されたシステムの脆弱性をどうやって短時間で特定したのかを根掘り葉掘り聞く。ほかの連中も、我先にと質問を投げてきた。「水原さん、技術がそんなにすごいなら、エンジニアやったほうがよかったんじゃないですか?もったいないですよ」「もったいないって何が?水原さんはどの業界に行っても強いんだよ。書いた脚本のドラマ、俺追ってたけど、めちゃくちゃ面白かったし」「……」絵里は人見知りではない。けれど、こんなふうに大勢に囲まれるのは、好きでもなかった。ただ、隣で裕也が彼女を見ている。その目にあるのは、感嘆だけじゃない。甘やかすような、愛おしむような、そしてどこか誇らしげな安堵。絵里の居心地の悪さに気づいたのだろう。江原社長がすかさず割って入った。「はいはい、そこまで。お前ら、ちゃんと水原さんに息させてやれ。質問攻めにしたら嫌われるぞ」エンジニアたちは、気まずそうに笑って引いた。ひとりのエンジニアとして、絵里は二度とシステム障害なんて起きてほしくなかった。そんなものは、新エネルギー車の前進を邪魔するだけだ。彼女は裕也に視線を向ける。「私、普段から神原さんの研究論文を結構読んでるんです。そこから要点をまとめてるだけなので……皆さんも、目を通したほうが早いと思います」少し言葉を置いて、続けた。「それか、藤原社長に頼んで、神原さんの開発ログを回してもらうとか」つまり、裕也に丸投げ。寿樹に一言頼むのも、裕也なら自然だ。期待の視線が、一斉に裕也へ向いた。裕也は眉を上げる。「いいね。やってみるよ」帰り道。裕也の口元の笑みは、ずっと上がったままだった。絵里は横目で見て、眉を寄せる。「……さっきから、そんな色っぽい目で見つめないでよ。おかしいの」「ニヤニヤなんかしていない」裕也は真面目な顔で彼女を真
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