All Chapters of 入籍しないなら…兄嫁になります!~冷徹社長に溺愛される日々~: Chapter 441 - Chapter 450

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第441話

電話を切ると、絵里は立ち去ろうとした。ふと何かに気づいたように、得意げな顔をしている郁江へ視線を向ける。目には軽い疑いの雲がかかった。「どうしたの?お友達に何かあった?」郁江は絵里の緊張する様を楽しみ、胸のすくような思いだった。絵里には、梨乃の怪我が事故なのか、あるいは目の前のこの女が関与しているのか、確証が持てなかった。「私の大切な人間に手を出したなら、その代償は千倍にして償わせるわ」そう警告を言い捨て、絵里は足早にその場を後にした。郁江の陰湿な顔から、徐々に口元の笑みが消えていく。その時、振り返ると、いつの間にか裕也が入り口に立っていることに気づいた。ハッと息を呑み、すぐさま何事もなかったかのように歩み寄る。「裕也……」「絵里に何を言った?」裕也の顔色は険しく、彼女に対する態度は冷ややかさを増すばかりだ。これ以上彼に避けられるのを恐れ、彼女は素直に口を開いた。「何も言ってないわ。私が怒らせたわけじゃないの……誰かに何かあったみたいで、慌てて病院へ向かったわ」まさか、治夫が目を覚ましたのか?裕也の瞳の奥に光が宿る。長い脚で階段を駆け下り、二度と郁江を一瞥することもなく、足早に立ち去った。「裕也……」郁江の呼びかけは無視され、彼が車に乗り込み、絵里を追いかけていくのをただ見送るしかなかった。怒りでどうにかなりそうだった。このレストランの責任者とは顔見知りだ。裕也がここにいると聞き、大急ぎで駆けつけたというのに。まさか彼がまだ未練を抱き、絵里の機嫌を取ろうとあれこれ世話を焼いているとは思いもしなかった……その時。着信音が鳴り響いた。修司からだ。彼女は苛立たしげに電話に出た。「言ったでしょ、T市には戻らないって……」言葉を言い終える前に、修司の冷え切った声に遮られた。「あの件、お前が人にやらせたのか?」郁江は息を詰まらせた。「何のこと?意味がわからないわ。どの件よ」修司は数秒沈黙し、再び口を開いた。氷のように冷め切ったその声は、スマホから静かに冷気を放っていた。「お前の口座から3000万が引き出され、あの日暴動を煽った犯人の家族の口座に、理由もなく3000万が振り込まれている。これ以上、はっきり言わせる気か」郁江は目を丸くした。「まさか
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第442話

絵里が信じるはずもない。「ギプスまでしてるのに、軽傷なわけないじゃない。嘘つかないで。章、正直に教えてよ」梨乃は首の後ろに手を当て、顔を上げて微笑みながら章を見つめた。その瞳には、暗に口裏を合わせるよう求める色が浮かんでいる。章は手にはカルテを持ち、レントゲン写真の入った袋を抱えていた。「重傷というほどではないが、足首を骨折しているのは確かだ。しばらくは安静が必要だね。マネージャーさんが今、入院手続きに行っているので、ちょうどよかった。彼女を病室まで連れて行ってあげて」梨乃はモデルだ。彼女にとって、その両脚は命にも等しい。骨折して入院することになり、不安でないはずがない。絵里はこれ以上口うるさく言って、彼女を落ち込ませたくはなかった。胸の奥に湧き上がる心配をぐっと押し殺し、自ら車椅子を押し、看護師の案内に従って病室へと向かった。章も一緒に付き添ってきた。絵里は梨乃がベッドに上がるのを手伝った。うっかりしたのか、梨乃が怪我をした方の足に体重をかけてしまい、「痛っ!」と短い悲鳴を上げた。バランスを崩し、絵里の方へと倒れ込んでくる。絵里の力では支えきれず、危うく二人揃って床に倒れそうになった。絵里の心臓が、ヒヤリと跳ね上がる。その時、すかさず大きな手が伸びてきて、梨乃の身体をしっかりと支え止めた。「気をつけて」頭上から章の涼やかな声が降ってきて、男らしい爽やかな香りがふわりと漂ってきた。梨乃は負傷した右足に力を入れることができず、左足一本で立ちながら、その引き締まった胸板に寄りかかる形になった。力強い腕が彼女の腕を支えており、その距離感はどこか艶めかしい。彼から漂う心地よい香りに包まれ、梨乃のざわついていた心は次第に落ち着きを取り戻していった。ふと顔を上げ、彼の端正で美しい顔立ちを見つめていると、どういうわけか頬がほんのりと熱を帯びた。「あ、ありがとう……」章は視線を落として梨乃の瞳と視線を交わし、短く頷いた。そのまま彼女を支え、ベッドに横たわらせる。彼はベッドの傍らに立ち、二人に向かって念を押した。「これからは気をつけて。二次被害は避けないと」梨乃は彼をじっと見つめたまま、こくりと頷いた。「うん」「さっきは転ばなくて本当によかったわ。危うく悪化させるところ
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第443話

「何しに来たの?」絵里は全身の針を逆立てたハリネズミのように、冷たく刺々しい態度をとった。裕也は喉仏を微かに上下させる。彼女のよそよそしさには慣れているようだった。「小林が怪我をしたと聞いて、心配で見に来たんだ」彼の視線が、絵里の背後にある病室のドアをかすめる。「具合はどうだ?無事なのか?」実のところ、ここへ向かう道すがら、彼は章に電話で確認していた。偶然にも。梨乃の怪我を処置したのは、章だったのだ。以前、バーで飲んだ時のこと。梨乃が酔った勢いでホストを呼んだ一件が章の印象に強く残っており、彼女のことを覚えていたらしい。梨乃にしてみれば――章がわざわざ絵里に電話をかけてきたことで、初めて彼が裕也の友人だと知ったのだった。裕也は病院に駆けつけると、病室の番号を聞いてそのまま直行してきた。「余計なお世話だわ」絵里は裕也を冷ややかに一瞥し、構わず丈裕に電話をかけた。「今どこ?」丈裕はまだ窓口の列に並んでいた。「薬をもらうところッス。どうかしました、絵里様?」「何でもないわ。そのまま待ってて」電話している絵里の様子は、淡々としていながらも穏やかだった。裕也は傍らでそれを見つめている。瞳に映る彼女の優しく静かな姿に、ざわついていた心が清らかな風に撫でられたかのように、次第に落ち着きを取り戻していく。その瞳も、ますます温もりを帯びて柔らかくなっていった。絵里は通話を切り、スマホを下ろす。振り向いた瞬間、その視線に気づき、裕也が垣間見せた一抹の優しさを捉えた。彼女は胸を震わせ、思わず喉の奥がツンと痛むのを感じた。「まだ行かないの?」絵里は彼の心中を推し量る気などなかった。もう、どうでもいいことだからだ。だが、裕也は当然のように言った。「小林はお前の親友だ。夫として、気にかけるのは当然だろう」「結構よ。もうすぐ元夫になるんだから」絵里は彼を見ようともせず、背を向けてドアを押し開けた。ついてくるだろうと予想し、内側から鍵をかけようとする。だが、大きな手がドアの枠をがっしりと掴んだ。その力は驚くほど強く、絵里は阻止しきれず、彼が入るのを許すしかなかった。彼女は大股でベッドへと歩み寄る。物音に気づいた梨乃が顔を上げ、絵里の後ろに続く裕也の姿を認めるな
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第444話

絵里は彼の言い草があまりにも酷いと感じ、冷ややかな視線を向けた。「ちょっと、外に出て」彼女は先立って部屋を出た。裕也は眉をひそめ、彼女の後を追って廊下へ出た。絵里は、彼がここにいるというだけで、どっと疲労感に襲われるのを感じていた。「裕也……」その声には深い疲労が滲んでおり、裕也は慌てて応じた。「はい、ここにいる」彼女の憔悴しきった顔を見ると、先ほど梨乃を責め立てていた時の刺々しさは消え失せ、その目元には優しい気遣いだけが浮かんでいる。「どうした?どこか具合でも悪いのか?」絵里は彼と正面から向き合いながら、まるで何事もなかったかのように振る舞うその態度に、もううんざりしていた。「帰ってくれない?」絵里は顔を上げ、透き通るような冷ややかな視線を彼に向けた。「ここまで来てしまった以上、たとえ私たちに愛情がなく、ただの政略結婚だったとしても、もう何事もなかったかのように夫婦を続けることなんてできないわ。お願いだから、もう近づかないで」その言葉を口にしただけで、全身の力を使い果たしたようだった。心臓の奥から冷たいものが湧き上がり、足の先まで一気に広がっていく。全身が凍えるように冷たく、指先一つ動かす気力さえ湧いてこない。この四ヶ月にも満たない結婚生活の中で、裕也が全く無価値だったわけではない。少なくとも彼は、事あるごとに彼女を導き、劣等感の泥沼から這い上がらせてくれた。自分を認め、信じ、そして愛することを教えてくれたのだ。だが、夫という役割において――彼はあまりにも多くの失望を彼女に与えた。これ以上続ける意味はない。裕也は喉仏を上下させたが、喉がカラカラに渇いて言葉が出てこない。「さっき俺が小林のことを言ったから、気を悪くしたのか?嫌なら、もうあいつのことは悪く言わない」彼は口調を和らげ、少しでも絵里の機嫌を取ろうとした。特に彼女の疲れ切った顔を見ていると、胸の奥に何かがつかえたように息苦しくなり、呼吸さえままならなかった。「そういうことじゃなくて……」絵里は深く息を吸い込み、どうしようもない無力感を湛えた顔を上げて彼を見つめた。「私は、あなたの顔を見たくないの。わかる?」その言葉がこぼれた瞬間、ちょうど章が絵里の後ろにやって来た。彼はふと足を止め、同
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第445話

絵里は一瞬、驚きに目を見張った。冷え切っていた心に、ほんの少し隙間がこじ開けられたように、戸惑いが生まれる。確かに、章の言うことには一理ある。裕也の地位を考えれば、彼を脅かせる人間など皆無に等しい。だからこそ、ずっと腑に落ちなかった。裕也が、郁江は思い人ではないとあれほど断言していたのに、なぜ何度も、郁江のために自分を傷つけるような真似をしたのか。「もしかして、彼自身の意志だったとか?」章が何かを知っているのではないかと感じ、絵里は探りを入れるように言った。章に彼女の意図が見抜けないはずもなく、意味深な言葉を投げかけた。「絵里、二人が一緒にいる上で一番大切なのは信頼だ。あるいは、彼がどうしてお前と結婚したのか、心で感じ取ってみるといい。お前への数々の振る舞いが、本心からのものなのか、それとも偽りなのか。案外、すぐに答えは出るかもしれないよ」章は静かにそう言い残し、隣の病室へと向かった。絵里は呆然と立ち尽くした。章の言葉が胸を打ち、脳裏に深く刻み込まれていく。深夜。絵里は新居の書斎で書類に目を通していた。病院から帰ってきて以来、章の言葉が何度も頭をよぎる。彼女は馬鹿ではない。章が何を伝えたかったのかは分かっている。裕也が結婚したのは、彼女に好意を抱いているからだと。さらに言えば、裕也が関係公表の夜に約束を破ったのも、何かよほどの事情があったからだと言いたげだった。だが、絵里には見当もつかない。あの藤原裕也を妥協させるほどの事情とは、一体何なの?まさか、五年前の父の死と関係があるのだろうか。当時、藤原グループの子会社がレイダーズと水原グループの提携プロジェクトに関与していたことを、彼は知っていたの?もし、和也が意図的に自分に近づいてきたのだとしたら……もし父の死が、誰かに仕組まれた謀略だったとしたら……コトッ。絵里はペンを机に置き、指先でこめかみを揉んだ。これらの出来事の裏にある事情が、どうしても読み解けない。裕也が結婚の公表を取りやめた理由など、今は考える余裕もなかった。最優先すべきは、五年前の父の死の真相を突き止めることだ。それから数日。絵里はいくつかのプロジェクトの企画案を順調に仕上げた。その日の朝早く、悟史が衝撃的な知らせを持ってきた。
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第446話

絵里は書類に一通り目を通し、問題がないことを確認すると、迷いなくサインをした。それを彼に手渡す時になって、ようやく顔を上げた。「ビジネスの世界は戦場だってみんな言うじゃない?他人に同情している暇なんてないだけよ」悟史は意味ありげに口角を上げただけで、何も答えなかった。彼が部屋を出てから間もなく、絵里は丈裕を呼び入れて指示を出した。「調べてちょうだい。以前、どうしてオーファスがうちと提携したのかを」彼女は一拍置いて、さらに続けた。「それと、裏でレイマンを陥れたのは誰なのかも」丈裕は頷いた。「承知いたしました」部屋を出ようとした彼だったが、ふと何かを思い出したように足を止めた。「そうでした。五年前の提携案の詳細を調べるには、少し時間がかかるかもしれません。特に藤原グループの子会社は、当時完全に表舞台から姿を消していたため、手がかりを掴むのは困難かと」困難であればあるほど、裏に何かがある証拠だ。「分かっているわ。藪蛇にならないよう、慎重に調べて」絵里はすでにその覚悟を決めていた。昼休みの時間、絵里は合間を縫って技術部へ足を運んだ。寿樹が忙しくなると、食事すら適当に済ませてしまうことを彼女は知っていた。案の定、オフィスのドアをノックして中に入ると、パンをかじっている彼の姿が真っ先に目に飛び込んできた。「そんなに根詰めてたら、水原グループがあなたを酷使してるって噂になっちゃうわよ」絵里は部屋に入りながら、呆れたように彼を見た。彼は声を聞いてようやく顔を上げ、くすっと笑った。「大げさだな。一人だし、適当に腹に入れられればそれでいいんだよ」絵里は顎でドアの方をしゃくった。「まだみんなと馴染めてないの?」彼女は寿樹の性格をよく理解していた。彼はそう簡単に人と打ち解けるタイプではない。「ちょうど私もまだ食べてないの。行きましょう、奢るよ」寿樹の瞳に笑みが浮かび、快く応じた。「よし、行こう」二人は会社の近くにあるレストランへ向かった。昼時とあって店内は混み合い、活気に溢れていた。窓際の席に座り、現在のシステム開発の進捗について語り合う。それに、半導体チップの開発などの課題についても。「現状で進捗は60パーセントってところね。丸一年あれば、残りの40パーセントを
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第447話

裕也の眼差しは冷え切っていた。一言も発していないにもかかわらず、息が詰まるほどの強烈な威圧感を放っている。健は彼の視線を追い、その光景を目の当たりにして息を潜める。しまった。奥様が、他の男とあんなに親しげにしているなんて。しかも相手は寿樹だ。これじゃ俺までとばっちりを食う……「行くぞ」裕也は車に乗り込んだ。健は数秒間、呆然とした。行く?慌てて運転席に乗り込み、恐る恐る尋ねる。「会社に戻られますか?」裕也はシートに深く背を預け、頭を後ろに反らせていた。その全身から、重苦しい空気が立ち込めている。健はそれ以上声をかけることができず、ただ黙々と車を走らせた。ずいぶん経ってから、ようやく低い声で指示が飛んだ。「病院へ向かえ」絵里は寿樹との食事を終え、五年前の父とレイダーズの提携案件について話し合っていた。寿樹は全く驚く様子を見せなかった。「まずは師匠が最初に診察を受けた時のカルテを見つけるのが先決だ。その記録にこそ、真実が隠されているはずだからな」絵里も同じ考えだった。「丈裕が今、人を使って調べさせているわ。何か分かったら知らせる」当時、父が運び込まれたのは、他でもない藤原グループ傘下のプライベートホスピタルだった。じいちゃんや梨乃が現在入院している病院でもある。医療レベルはG市でトップクラスを誇る。もし、父の死に藤原グループが関わっているとしたら。彼らがカルテを改ざんし、真実を隠蔽することなど、いともたやすいはずだ。絵里の背筋を、ぞくりと冷たいものが駆け抜けた。耳元で、寿樹の声がする。「本当に俺が手伝わなくていいのか?」「ええ、今のところは大丈夫。それより今は、研究開発の方が重要よ」絵里は微笑み返し、彼と共にレストランを後にした。その後、二人は別れた。寿樹は会社へ戻り、絵里は時間を見計らって梨乃の見舞いへと向かう。梨乃の入院は、半月ほどになる予定だ。絵里は二人のヘルパーを雇い、交代で彼女の世話を頼んでいた。病室に入るなり、渋い顔をしていた梨乃がパッと表情を輝かせた。「絵里!この二日間来てくれなかったから、寂しくて死にそうだったのよ」絵里はヘルパーに休憩を取るよう促し、笑いながら言った。「本当に?誰かさんはこの二日間、ずっと
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第448話

梨乃は、巷でよく言われる「耳が妊娠する」という言葉の本当の意味を、その時突如として理解した。だが次の瞬間。絵里の、意味ありげな視線とぶつかった。梨乃は慌てて寝る姿勢を正し、気まずそうに口角を引きつらせた。絵里は心得たように視線を外し、章に向かって軽く微笑んだ。「それじゃあ診てもらいなさい。先にじいちゃんのところへ行くから、邪魔しないようにするわ」章は治夫が隣の病棟にいることを知っていた。彼は頷く。「ああ」絵里は踵を返して立ち去った。章は彼女の後ろ姿が見えなくなってから、病室に入り、梨乃のベッドに近づいた。「またどこか痛むのですか?」章の肌は透き通るように白く、すらりとした長い指が白衣のポケットに突っ込まれている。長身で背筋が真っ直ぐに伸び、どこか気だるげでありながらも優雅だ。清冽で、どこか涼やかな雰囲気を纏い、まるで周囲の空気にまで爽やかなミントの香りが漂っているかのようだった。かっこよすぎるよ。梨乃はこれ見よがしにしょんぼりとした顔を作り、ギプスで固定されたふくらはぎを指差した。「やっぱりここが……痛いの。痛いし、痒いし」パチパチと瞬きをした。元々目鼻立ちがはっきりしているため、いじけたような表情をすると、なんとも言えない艶っぽさが漂う。絵里の美しさが、咲き誇る薔薇のように華やかなものだとするなら。梨乃は、燃え盛る太陽を思わせる、鮮烈な美しさだ。章は物静かで感情を表に出さない性格だ。彼女が口実を作っているだけだと分かっていても、苛立つ様子は見せなかった。「我慢しなさい。誰だって通る道です」「でも、掻きたいの……」梨乃は取り留めのないことを口にする。「松渕先生~何か痒みを止める方法ないの?」章は深い瞳を伏せ、二歩近づいて身を屈めた。目の前で顔を近づけられ、梨乃はキスされるのだと錯覚した。思わず心が躍り、少しだけ顎を上げて、彼が唇を重ねてくるのを待つ。「じゃあ、どうぞ……」そう言って、彼女はちょっとだけ唇を尖らせた。突然、冷たい何かが唇に押し当てられた。梨乃は我に返り、きょとんとする。続いて、章の穏やかな声が降ってきた。「スマホでもいじって、気を紛らわしてください」そう言うと、彼は上体を起こした。梨乃は言葉を失った。彼
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第449話

絵里は、彼がここにいることにひどく驚いた。まさか、彼自らじいちゃんの体を拭いているとは。様子からして、ちょうど終わったばかりのようだ。「ちょっと片付けるから、待ってて」裕也は道具をまとめると、洗面所へ持っていった。絵里の胸中は複雑だった。もし、二人の間にあの出来事がなかったら。裕也のこんな振る舞いを見れば、どんな女だって感動して胸を打たれるはずだ。「先生が言ってた。時間がある時にたくさん話しかけてあげると、意識が戻る助けになるって」裕也は再び彼女のそばに戻り、まくっていた袖を下ろした。「裕也……」絵里はベッドの足元に立ち、治夫をじっと見つめていた。裕也は手を止め、ゆっくりと視線を上げて彼女を見た。「どうした?」絵里は小さくため息をつき、外へ向かって歩き出す。「ちょっと出てきて」裕也の眉根が、気づかないほどわずかに寄った。袖を整え、心の中で少し葛藤してから、彼も病室を出た。彼は気楽な表情を浮かべ、気遣うように言った。「少しやつれてるみたいだけど、疲れが溜まってるんじゃないか?ここ数日、グループを引き継いだばかりで忙しいだろうし。お爺さんのことは俺が誰か手配して見守らせるから、そんなに心配しなくていい」その細やかな気配りも、声のトーンも、相変わらず穏やかだった。絵里の心はちくちくと引き裂かれるようで、耐え難いほどの痛みが走った。この生ぬるい拷問がたまらなく忌々しい。あんな出来事のあと、いっそ綺麗さっぱり終わってくれた方がどれほど救われたか。なぜこうして度々目の前に現れては、終わったはずの過去を何度も突きつけてくるの?「もう来ないで」絵里は拳を握りしめ、淡々とした口調で言った。裕也の表情がわずかに変わったが、まるで聞こえなかったかのように振る舞う。「これからは時間を見つけて、お爺さんにたくさん話しかけに来るよ。早く良くなるといいな」絵里は怒るつもりはなかったが、こらえきれなかった。「もう来ないでって言ってるのよ」裕也もさすがに無視できなくなった。「今は意地を張ってる場合じゃないだろ。お爺さんに早く目を覚ましてほしくないか?」絵里の態度は少し強硬になった。「私が話しかけに来るわ。あなたの言うようなことは、全部私がやる。それに、じいちゃんのお
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第450話

普段なら、こういった世話は介護士がやってくれる。だが、絵里は時間が空けば病院へ足を運び、自分の手でやりたいと思っていた。先ほど裕也がじいちゃんの体を拭いていたのは、完全に予想外だった。せっかく落ち着きを取り戻していた心が、またしても不意に波立ってしまった。「絵里様……」吉田が彼女の傍らに歩み寄る。その温和な顔には申し訳なさそうな色が浮かんでいた。「藤原社長が本日いらして、どうしても治夫様とお話ししたいと懇願されたものですから、ついお通ししてしまいました」「いいの。次から彼が来ても、相手にしないで」絵里は彼を責めなかった。しかも、吉田は昔からじいちゃんに忠実に仕えてくれている。吉田はほっと息をついた。「今後は十分に気をつけます」彼はためらいがちに絵里をちらりと見たが、結局それ以上は口出ししなかった。ただ、惜しいと思わずにはいられない。治夫様でさえ裕也様を大層買っておられたというのに、どうしてこんなことになってしまったのか。絵里は、新しく購入したパークコート清苑のエントランスに戻ってきた。丈裕からLINEが届いていた。【明日はクライアントとの会食が入っております。午後には定例会議もあります】絵里はそれに目を通すと、短い返信を打った。【わかった】彼女はスマホをしまい、マンションの中に入ってエレベーターを待つ。ふと、一つの影がゆっくりと近づいてきて、彼女のすぐそばで立ち止まった。違和感を覚えて絵里が視線を向けると、途端にその瞳が冷たく沈んだ。「私を尾行してたの?」和也は少しやつれてはいるものの、相変わらず端正な顔立ちで彼女の隣に立っていた。それを聞いた和也は慌てて弁解する。「違う、誤解しないでくれ。ずっとここでお前を待っていたんだ。さっきお前が入ってきた時、俺に気づかなかっただけで」絵里は前回ここで彼に遭遇したことを思い出した。「つまり、ここで待ち伏せしてたってこと?大した執念ね」彼女の表情は冷ややかで、言葉の端々に皮肉が滲んでいる。特にその身から発せられるオーラは、自信に満ち溢れ、堂々としていた。以前の彼女とはまるで別人のようだ。「お爺さんのことは聞いたよ。この件は少なからず俺にも責任がある。だから、心から謝罪したくて来たんだ」和也の態度は誠実で、過去のどの時とも違
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