もう愛してると言わなくていい のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

10 チャプター

第1話

娘が重い病気にかかって、高額な治療費が必要になった。なのに元夫の原田健太(はらだ けんた)は、娘の治療をあっさり諦め、自分の幼馴染である原田菫(はらだ すみれ)とイチャつき始めた。絶望していた私に、手を差し伸べてくれたのは初恋の相手、野口翔(のぐち しょう)だった。翔は私と結ばれ、私の口座に1億円を振り込み、一緒に娘の看病までしてくれた。だけど、娘は死神の手から逃れることはできなかった。それから6年後、私たちの間に新しい命が宿った。一人で妊婦健診に行った病院で、私は偶然、翔と医者の会話を耳にしてしまった。「野口社長、あなたと奥さんの間にもお子さんができた今、もしあの時のことが明るみに出たらどうするんですか?」「当時、菫は重い病気でした。沙耶香(さやか)の子の心臓を菫に移植したのは、やむを得ない手段だったんです。それに今、沙耶香には新しい子供もいて、沙耶香ももう、水に流すべきでしょう」その会話で、私は全てを悟った。娘は……わざと誤診されていたんだ。娘の心臓は、翔の手で密かに菫へと移植されていたのだ。それを聞いた途端、声もなく涙が頬を伝った。今お腹にいるこの子は、翔との愛の証じゃなかった。ただの罪滅ぼしだったんだ。この6年間は、全部、翔のお芝居だった。たった一人の愛する人、菫のためだけの。少し膨らんだお腹を撫でながら、力なく笑った。6年前、私は娘を救えなかった。もう、こんな悪縁は断ち切りたい。診察室で、医者は少し残念そうにため息をついた。「分かりました、野口社長。でも、本当にそれでいいんですか?原田さんはもう結婚しているんですよ。野口社長も自分の人生を大事にすべきです。それに、奥さんは野口社長のことをとても愛していて、良い人ですよ」電話の向こうで、翔は少し間を置いて、きっぱりと答えた。「いいんですよ。俺は名目なんて気にしません。ただ菫を守れればそれでいいです。菫が誰を愛そうと勝手で、俺はただ、彼女が健康で幸せでいてくれればいいです。沙耶香のことだけど、確かに本当に良い人ですよ。良い妻だし、良い母親にもなるでしょう。でも残念ながら、俺は沙耶香を愛してません。人の気持ちは、どうにもならないものですからね」翔の言葉を聞いて、医者は首を振り、それ以上は何も言わなかった。「奥さん、あまり状態が良く
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第2話

寝室に戻ると、翔はもうぐっすり眠っていた。毎日顔を合わせている夫の横顔が、今はなぜかひどく知らない人のように感じられた。夢うつつのなかで、翔が私の手を掴んだ。「行かないで、ずっとそばにいて。菫」翔の顔には、この上ないほどの愛情と甘えが浮かんでいた。私には決して見せたことのない表情だった。その瞬間、翔のスマホの画面が光った。表示された名前は「菫ちゃん」だ。菫からのメッセージだった。何度かパスコードを試したけど、ロックは解除できなかった。私の誕生日、翔の誕生日、それに菫の誕生日でもダメだった。最後のチャンスだと思い、亡くなった娘の命日を入力してみた。まさかとは思ったけど、ロックが解除された。そうだった。娘が亡くなった日、菫は娘の心臓を移植されて、新しい命を手に入れたんだ。翔は、こんな形でずっと静かに菫への愛を育んでいたんだ。トーク画面には、菫から送られてきた写真が数枚あった。写真の中の菫は、春の日差しみたいに眩しい笑顔を浮かべていた。菫は子猫みたいに翔に寄り添っていて、翔は少しぎこちない手つきで、彼女と一緒に指でハートマークを作っていた。【翔さん、やっぱりあなたと行く遊園地は楽しいな。健太は全然つまんないもん】【明日、記念撮影に付き合ってくれるって約束、忘れないでね。大好きだよ】翔と菫は、まるで付き合いたてのカップルみたい。二人の幸せを盗み見している私は、まるでピエロのようだった。でも、明日は翔が妊婦健診に付き添ってくれると約束した日なのに。お腹の子と愛する女、どっちが大事なのかな?その夜、私は一睡もできなかった。賭けに出ることにした。もし明日、翔が妊婦健診に付き添うことを選んでくれたら、この新しい命に免じて、もう一度だけ彼を許そうと。翌朝、翔は早くから身支度を整えて出かけようとしていて、とても嬉しそうな顔をしている。翔がドアを開ける直前、私は彼の服の裾を掴んだ。「翔、どこに行くの?今日は妊婦健診に付き添ってくれる約束じゃなかったの?」翔の笑顔が消えた。少し考えた後、私の手をポンポンと軽く叩いた。「沙耶香、すまない。今日はどうしても外せない大事な会議があって、病院には付き添えないんだ。物分かりのいい沙耶香なら、俺の状況を分かってくれるよな。それに、
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第3話

やつれて見えないように、薄く化粧をした。街で一番腕利きの法律事務所に行って、離婚の手続きと、娘が医療ミスで死んだ件について相談した。離婚については、弁護士がすぐに書類を準備してくれた。でも、翔と菫の責任を問うには、もっと証拠が必要だった。その日の夜、私はキャンドルを並べ、ごちそうを手作りし、翔が大事にしていた赤ワインを二本開けた。翔は家に帰ると、ダイニングテーブルに静かに座っている私を見て、最初はきょとんとした顔になったけど、すぐににっこりと笑った。「沙耶香、こんなことはお手伝いさんに任せればいいんだよ。お前は俺の妻なんだから、何もしないで優雅に過ごしてくれればいいんだ」翔はそう言って笑いながら、私を腕の中に抱き寄せた。こんなに近い距離にいると、翔の体から女性ものの甘ったるいバラの香水の匂いがするのが分かった。翔に、いつからそんな品のない香水に変えたのかと尋ねた。翔は少し後ろめたそうに、自分の襟元の匂いを嗅ぐと、慌てて言い訳を始めた。「ああ、今日会議で会ったのが女性社長でさ。うっかりついちゃっただけだよ。なんだよ、沙耶香、俺を疑うのか?まだ妊婦健診に付き添わなかったことを根に持ってるのか?あれはちゃんと説明しただろ。わかってくれてると思ってたのに」やましいことがある人間は、墓穴を掘りやすいものだ。私はただ少し聞いただけで、返ってきたのは嵐のような非難の言葉だった。私が黙り込んでいるのを見ると、翔は話題を変えた。ポケットから綺麗なエメラルドのネックレスを取り出して、私の首につけてくれた。「沙耶香、機嫌直してくれよ。これはお前のためにわざわざ買ってきたプレゼントなんだ。世界にたった一つしかないんだぞ。気に入ってくれる?」エメラルドのネックレスは、キャンドルの光に照らされて深い緑色に輝き、とても綺麗だった。私は指の腹で、ひんやりと滑らかなネックレスをなぞった。結婚して6年、喧嘩するたびに、翔はこうして私に宝石を贈ってきた。でも、いくら高価な物をもらっても意味がない。翔が浮気している事実も、娘が殺された事実も、決して変わらないのだから。私がやっと笑顔を見せたのを見て、翔は安心して私の手料理に口をつけ始めて、私の料理の腕をべた褒めした。けれど結局、翔は数口しか食べなかった。まあ、外で済
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第4話

次の日、私は翔に起こされた。昔みたいに歯磨き粉を絞ってくれたり、キッチンに立って、慣れない手つきで料理の練習までしていた。私が歯を磨いていると、翔は後ろからそっと私の腰を抱きしめてきた。「沙耶香、俺が悪かった。妊婦検診みたいな大事なことに、一人で行かせるなんて良くないよな。今日は俺も一緒に行っていいか?」私が何かを言う前に、翔は私の頭を撫でて、照れくさそうに笑った。キッチンで忙しそうにしている翔の後ろ姿を見ていると、胸がきゅっと締め付けられた。翔、あなたはいつもこう。優しいと思ったら、急に冷たくなったりする。もう6年も一緒にいるのに、今更になって、あなたのことが全く分かっていなかったことに気が付いた。でも、もういい。あなたのことはもう愛していないから、これからあなたの気持ちを分かろうとも思わない。翔と一緒に病院に着くと、そこには菫もいた。ただ、菫は皮膚科で診察を受けているようだった。人気女優なだけあって、菫の周りはファンでごった返していた。遠くからでも、ファンたちの話し声が聞こえてきた。「菫ちゃん、かわいそう。数年前に大病から回復したばかりなのに、また病院に来るなんて」「大丈夫だよ、菫ちゃんならきっと平気。ここの病院は市内で一番腕がいいんだから。それに、この病院の本当のオーナーは野口社長なんでしょ?彼は菫ちゃんの噂の恋人で、一番の支援者だし。絶対に全力を尽くして菫ちゃんを守ってくれるはずだよ」「わあ、人気女優と社長だなんて、お似合いだよね」次の瞬間、菫は人混みの中から翔の姿をすぐに見つけた。そして、翔の名前を大声で叫んだ。ファンたちが一斉に、私と翔のほうを見た。菫は駆け寄ってきて、馴れ馴れしく翔の腕に絡みついた。「翔さん、昨日あなたが無理やりカニを食べに連れて行くから、アレルギー出ちゃったじゃない。もしかして、今日はわざわざ私に付き添いに来てくれたの?それなら、仕方ないから許してあげる」翔は私と菫を交互に見て、最終的には菫に微笑みながら頷いた。周りのファンたちは、二人のやり取りに大興奮といった顔をしていた。これで分かった。今回もまた、翔は私を捨てるんだ。私は翔の顔をじっと見つめ、一語一句はっきりと問いかけた。「翔、妊婦検診に付き添ってくれるって言ったじゃない?」
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第5話

あっという間に、その時の動画が誰かに撮られてネットで拡散された。ネットに書き込まれたコメントは、どれも皮肉たっぷりで辛辣なものだった。【野口社長ってお金持ちなだけじゃなくて、本当に優しいんだね。お手伝いさんにもあんなに親身になるなんて、情に厚い人だ】【だから言ったじゃない。野口社長があんな女と付き合ってるわけないって】【しかもあのおばさん、菫ちゃんの真似してエメラルドのネックレスまでつけてて、マジでウケる。身の程知らずもいいとこ】【あのエメラルドのネックレス、うちの会社の新作で世界に一つしかないやつです。野口社長に頼まれて、こっちが直接原田さんの家に届けたんです】【野口社長ロマンチックすぎ!プレゼントが世界に一つだけなんて、菫ちゃんは本当に幸せ者だね】私はコメント欄を閉じ、手術台の上で横になった。ぼんやりと天井を眺めていると、急に目の前が暗くなった。医者が、私にもう一度確認した。「野口さん、本当にもうこの子を諦めるんですね?」私はぎゅっと目を閉じて、静かに頷いた。たっぷり麻酔を打ったはずなのに、それでもまだ痛かった。心の奥深くまで抉られるような、激しい痛みが走る。ずっとこらえていた涙が、この時ばかりは堰を切ってあふれ出した。手術が終わった後、私は医者にお願いした。亡くなった赤ちゃんを一時的に安置しておいて、私がいなくなったら翔に渡して、と。病院を出ると、そのまま空港行きのタクシーに乗り込んだ。スマホを開くと、親友の美希からライブ配信のURLが送られてきていた。それは、翔が菫の授賞式に、身内として付き添っている様子だった。壇上の菫はロングドレス姿で、翔も彼女とお揃いの色のスーツを着ている。菫がスピーチをしている間、カメラは何度も翔の顔を映した。彼は誇らしそうな顔で、ただじっと菫を見つめている。その眼差しはとても熱く、言葉では表せないほどの愛おしさがこもっていた。司会者が面白がって、菫に翔との関係を二言で表してほしいとリクエストした。菫ははにかんで笑いながら、翔のほうへ顔を向けた。「何があっても、一生一緒にいます」私は思わず、笑ってしまった。その言葉は、昔、翔と結婚するときに、彼が私に誓ってくれた言葉だったから。私はライブ配信を閉じた。もう、あの二人とは関わりたくない。や
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第6話

その知らせを聞いた翔は、よろめいて倒れそうになった。翔は信じられなかった。何年も、どんなに激しく喧嘩しても、私が家を出ていくなんてことは一度もなかったからだ。秘書がすぐに書類をプリントアウトして、翔の前に置いた。翔は離婚協議書に一語一句、目を通した。そして署名欄にある私の名前を見て、ようやく私が本気だと悟ったようだ。翔は魂が抜けたように、ただ呆然と座っていた。秘書は、こんなにも取り乱した翔の姿を初めて見た。しばらくして、翔がゆっくりと口を開いた。「どうして沙耶香は俺のもとを去るんだ?俺に至らない点でもあったのか?家も、金も、それに子供まで与えてやったのに。これ以上、何を望むって言うんだ?」苦悩する翔を見て、秘書は思わず本当のことを口にした。「社長は奥様に家庭を与えましたが、愛情は別だったはずです。社長の気持ちはすべて、原田さんに向けられていましたよね。社長が贈った宝飾品だって、どれも原田さんが選ばなかった残り物でした。そもそも、奥様が最初のお子さんを失った件も、原田さんを守るための判断だったではありませんか」その言葉で翔はやっと子供のことを思い出した。彼は机の上の臓器移植の同意書を手に取り、最後のページにあった自分の署名を見つめた。6年前、菫を救うため、翔は意図的に誤診を仕組んだのだ。いつかこのことがバレるかもしれない。だからこそ結婚を選んだ。そうすれば、私が子供を失った痛みを愛で埋めてやれると、そう思ったからだ。式典が終わり、菫が楽屋にやってきた。翔から私が家を出たことを聞くと、菫は勝ち誇ったように笑みを浮かべたが、すぐにその表情を隠した。菫はためらうことなく翔の膝の上に座り、彼の首に腕を回した。「沙耶香さんったら、たかが数年社長夫人でいただけなのにすっかりいい気になって。家出ごっこで翔さんを心配させるなんて、ひどいわ。でも、わざとじゃないのよ。沙耶香さん、翔さんのことが好きすぎて、翔さんが私に優しくするから嫉妬しちゃったの。気を引きたいだけなのよ。翔さん、彼女のことはもう心配しないで。いい大人なんだから大丈夫よ。それより今夜、私がどんな下着を着たら素敵か考えてみて」そう言うと、菫は艶めかしい唇をそっと近づけ、人目もはばからず翔にキスをしようとした。翔も菫の言葉に一理あると
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第7話

熟睡している菫を横目に、翔はまったく眠れそうになかった。翔はベッドから起き上がるとベランダへ出て、タバコに火をつけた。そして、私とのラインのやり取りを見返した。初めて出会った頃から今までのことが、一つ一つ翔の頭の中に蘇ってきた。翔は仕事が忙しく、家に帰るのはいつも真夜中を過ぎてからだった。それでも私は、いつも夕食を用意して、テーブルの前で辛抱強く彼の帰りを待っていた。あまりに帰りが遅いから、テーブルに突っ伏したまま寝てしまったことも、一度や二度じゃない。明るいダイニングの光の下で小さく丸まっていた背中を、翔は思い出した。でも、今はもう、その場所に明かりが灯ることはない。この期に及んで、翔は認めざるを得なかった。私がいる生活に、この家に私の匂いが漂うことに。そして、手を伸ばせばいつでも触れられる毎日に、自分がすっかり慣れきっていたのだと。そして、自分の人生で最も大切なものが、今まさに自分から離れていこうとしていることにも、うっすらと気づき始めていた。結局、翔は柄にもなく長文のメッセージを必死で書いて送った。しかし、いくら待ってもスマホの画面に既読はつかなかった。過去と完全に決別するため、私は東都に着いた瞬間、翔をブロックして連絡先から削除した。それだけじゃなく、スマホのSIMカードも新しいものに変えた。親友の美希が前もって全部準備してくれていたから、私はとりあえず彼女の家に住まわせてもらうことにした。今は新しい仕事を探しながら、新しい生活を始めようとしているところだ。自分がブロックされていると知って、翔は完全にうろたえていた。この6年間で、私の方から翔との連絡を一切断ったのは、これが初めてだったから。翔は微かに震える指先でタバコの火を消すと、秘書に電話をかけた。「なあ、沙耶香はもう『あの時のこと』に気づいたと思うか?」電話の向こうで、秘書は押し黙っていた。翔はまた新しいタバコに火をつけた。夜風が、彼の前髪を揺らす。傍らに置かれた離婚協議書に目を落とすと、翔はため息をつき、秘書に命じた。「調べろ。病院の防犯カメラの映像を、ありったけ全部だ。それから、使える手はすべて使って、沙耶香の今の居場所を突き止めるんだ」言い終わるか終わらないかのうちに、翔は付け加えた。「沙耶香がいないと困るわけ
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第8話

朝食を食べ終わると、菫は翔を引っ張って、身支度をしに向かった。「翔さん、今日の発表会は、あなたがいてくれないと私、不安だわ」翔は菫の頭をぽんぽんと撫で、彼女の言うとおりにした。しかし、翔の視線は一瞬たりともスマホから離れなかった。秘書からの連絡を見逃すのが怖かったのだ。発表会が始まり、ステージに上がる直前、翔は秘書からのメッセージを受け取った。【社長、人をやって調べさせたところ、どうやら奥様は6年前の真相に気づかれたようです】【先日、奥様は病院まで、わざわざ亡くなった子供の検査記録を探しに行ったそうです。それと同時に、離婚のことや、医療ミスで子供が亡くなった件について、法律事務所に相談もしていました】【それに、奥様は……奥様は、病院でお腹の子を堕ろされたようです】最後の知らせに、翔の指先は震え、危うくスマホを落としそうになった。すぐに、秘書から監視カメラの映像が送られてきた。映像に映っていたのは、産婦人科から出てきたばかりの私だった。顔は真っ青で、お腹を押さえ、今にも倒れそうな様子だった。映像を見つめる翔の目頭が、不意に熱くなった。画面の中の私の頬に触れようと手を伸ばしたが、その指は虚しく宙に止まった。その時、菫が翔のそばへやって来た。菫は翔の服の裾を掴んで、くいくいと軽く引っ張った。「翔さん、ぼーっとしてないで。もうステージに上がる時間よ」翔はすっかり動転していて、菫に手を引かれるままステージに上がった。ステージでは、司会者が翔と菫の熱愛の噂について質問していた。菫は甘えるように、そして恥ずかしそうに、司会者の全ての質問に答えていった。翔に話が振られると、司会者はアクセス数を稼ごうと、先日ネットで話題になったニュースについて切り込んだ。私と翔、そして菫が病院で鉢合わせした時のことだ。しかし、司会者が私のことを「お手伝いさん」と呼んだのを聞いた時、翔の表情が初めて変わった。翔は整った眉をきゅっと寄せ、カメラに向かって真剣な面持ちで説明した。「彼女は、お手伝いさんではありません。俺の、妻です」会場はどよめき、観客は顔を見合わせた。一方、菫は翔の言葉に激怒し、顔を青くしていた。番組は一時中断されたものの、生放送だったため、一部始終がネットに流れてしまった。翔の発言
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第9話

会場を出ると、翔は外が大雨になっていることに気づいた。叩きつけるような雨を見ていると、翔はふと思い出した。ひとりで検診に行き、大雨に濡れていた、あの日の私のことを。今度は、翔はためらうことなく大雨の中に足を踏み入れた。秘書が慌てて傘を差しだしたが、翔はそれを投げ捨てた。そして、冷たい雨が顔に叩きつけられるのを、ただ黙って受け止めていた。この雨があまりに冷たかったからだろうか。翔の声は、かすかに震えていた。「大雨に打たれるのが、こんなに辛くて、こんなに痛いことだったなんて。沙耶香、俺が悪かった。お前の気持ちに寄り添ってやれなくて。お前の痛みを、分かち合ってやれなくて」翔は、そのままふらふらと10キロもの道のりを歩き続けた。家にたどり着いた頃には、もうすっかり夜になっていた。体が芯から冷え切ってしまい、翔はくしゃみをひとつした。その様子を見て、家政婦が慌てて暖かい飲み物を用意してくれた。翔は一口飲んだが、その味が喉にきてむせてしまった。いつも飲んでいたものとはまったく違う。翔は家政婦を責めようと口を開きかけた。家政婦は慌てて説明した。「旦那様、以前、暖かい飲み物や酔い覚めの薬などは、すべて奥様が自からご用意されていたんです。今は奥様がいらっしゃらないので、これでご辛抱ください」その飲み物がよほど口に合わなかったのか、翔の目はうっすらと赤くなっていた。そして、コップを床に激しく叩きつけた。「沙耶香がいないって、どういうことだ?彼女はすぐに戻ってくる。俺を捨てるはずがない!君の作ったものなんて、不味くて飲めやしない。沙耶香の淹れてくれたものだけが、俺の口に合うんだ」その時、インターホンが鳴った。翔は、私が外での暮らしに耐えきれず、自分で帰ってきたのだと思った。彼は鏡で身なりを整えると、急いで玄関へ向かった。しかし、ドアを開けても、そこに待ち焦がれていた私の姿はなかった。立っていたのは、宅配便の配達員だけだった。差出人は、私。宛名は、翔。翔は途端に機嫌を直し、笑顔で荷物を受け取った。翔の顔に、みるみるうちに活気が戻ってきた。「沙耶香、やっぱりお前も、俺を忘れられないんだな。これを送ってきたのは、俺に折れるきっかけをくれてるんだろ?」翔はそう呟きながら、乱暴に荷物をこじ開けた。し
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第10話

あの夜の後、翔は一晩で白髪が増えてしまった。彼は、何もかもを捨てて東都にいる私を捜しに行くことにした。出発する前に、翔は一度、菫の家を訪れた。菫に謝罪と別れを告げる手紙を残そうとした。翔は菫の家のオートロックの暗証番号を知っていたので、そのまま中へ入った。ドアを開けた途端、菫が親友に愚痴をこぼしている声が聞こえてきた。芸能界デビュー以来、初めてスキャンダルを暴露された菫。しかも、相手は自分を心から愛しているはずの翔だ。菫はひどく腹を立てていた。「実は6年前、病気だったっていうのは嘘。翔さん騙すために、わざと言っただけなのよ。あの頃は、健太を愛しすぎてて。あの子供さえいなければ、健太は彼の妻と離婚してくれるかもしれないって、そう思ったの。でも、翔さんがまさかあんなに単純だなんて。私の言うことを何でも信じるんだから。今は妻にも子供にも見捨てられて、いい気味よ。それにこの間の件だって、翔さんのせいで大勢の前で恥をかかされたわ。プライドが許せない。彼をもう一度私に惚れさせて、ズタズタにしてから捨ててやるんだから」菫の言葉を聞いて、翔は雷に打たれたような衝撃を受けた。手の中にあった手紙は、くしゃくしゃに握りつぶされていた。全ては、菫による自作自演の嘘だったのだ。翔は、そこでやっと気づいた。自分は何年もの間、まるでピエロのようだったのだと。それどころか、あんなに自分を愛してくれた女性を、この手で何度も傷つけてきたのだ。翔は、ふらつきながら菫の家を後にした。ちょうどその時、翔の秘書から私の今の居場所が知らされた。次の日、翔は私の前に現れた。翔は、伸び放題だった髭をきれいに剃っていた。いつものスーツではなく、私たちが初めて会った時と同じ、グレーのカジュアルスーツを着ていた。ちょうど帰宅ラッシュの時間帯で、通りは人でごった返していた。翔は、そんな人混みの中でまっすぐ立っていた。その手には、可憐なピンク色のバラの花束があった。昔、翔とベッドで寄り添いながらテレビを観ていた時、よく似たシーンがあったのを思い出した。大勢の人の前で、主人公がバラの花束を手にひざまずいて、ヒロインに愛を告白するシーンだ。そのたびに、私はうっとりと画面を見つめていたけど、翔はいつも「くだらない」と鼻で笑っていた。なのに、今、
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