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さよならの記念日 のすべてのチャプター: チャプター 1 - チャプター 10

10 チャプター

第1話

私は白石日和(しらいし ひより)。来月には結婚するはずだった恋人・神崎玲央(かんざき れお)が、記念日の夜に初恋の相手・橘美月(たちばな みつき)を連れてバーでラブソングを歌っていた。その場でキスして抱き合うところまで友だちに撮られて、動画はインスタのプロフィールにピン留め。コメント欄は「付き合っちゃえ」で溢れ返る。面白がり屋の一人が、わざわざ私の前で言った。「あの二人、もうくっつくぞ」私は冷たく一瞥して返す。「誰とくっつこうが、あんたに関係ないでしょ?」適当に返事したものの、胸中はざわついて落ち着かなかった。「君を愛してる、その何割……」動画の歌声が途切れず流れてきて、言葉の一つ一つが刃みたいに胸へ刺さる。今日は玲央と付き合って五年の記念日だ。今夜は全部断って私と過ごすって言ったから、いちばん好きな店を予約して朝からずっと待っていたのに、夕方になって「会議で残業」と電話してきた……ただ、時計ばかり見ながら、ひたすら待つしかなかった。そして届いたのは、美月とバーで寄り添いながら、ラブソングを口ずさむ彼の姿だった。歌など歌わないはずの玲央が、美月を見つめるその目は、私の知らないほど、やさしかった。忘れたのかな。恋人は、私のほうなのに。でも私は、そんなふうに扱われたことが一度もない。友だちが囃し立てて「日和のために一曲!」なんて言っても、「音痴だから」で全部かわして、最後には「お前が気を回さないから、俺の立場が悪くなるんだ」とまで言う。音痴じゃない。ただ、歌いたくないだけ。薄く笑って、赤ワインをもう一口含む。いつもなら好きなはずの舌触りが、今夜は甘苦い渋みだけを残して、苦さばかりが濃くなる。胸の奥で燻っていた苛立ちが、どろりとした火になって、理性を焼き尽くした。私はスマホを掴み、そのまま発信する。「……何?」受話器の向こうの玲央は、かすれていて、どこか面倒そうだった。その奥に、美月の笑い声と、周りの「飲めよ!」がはっきり混じる。私は口の中の苦みを飲み下した。息を整えて、二秒だけ間を置いてから聞く。「……今晩は、帰ってくるの?」「忙しいって言っただろ。なんでまた聞くんだよ」声が跳ね上がる。私のほうが悪いみたいな言い方だった。胸がきゅっと縮んで、急にどうでもよくなった。「じゃあ、仕事
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第2話

鼻で笑った。あいつの開き直りが、ただ滑稽だった。終わりなら終わりでいい。今度こそ、追いすがらない。迷いなく一言だけ返した。「了解」そのあとスマホの画面を落とし、パソコンを開いて単身用の部屋を探し始めた。電話の向こうで彼が焦って喚いていようが、もう知ったことじゃない。あいつはきっと、私に少しでも逃げ道を用意してやれば、どうせまた私が振り向いて許すと――そう思っていたのだ。でも、もう疲れた。初恋の相手である美月が白見原に戻ってきてからというもの、玲央のスマホは気まぐれに鳴るようになった。指先を少し切っただの、犬が変なものを食べただの、生理が来たのにナプキンがないだの――そんな些細なことまで理由にして、彼を呼び出す。腹が立って、私は玲央の袖をつかみ、詰め寄った。「まだ、美月のことが忘れられないの?」玲央は冷たく振りほどき、鼻で笑った。「心が汚れてるやつは、何を見ても汚く見えるんだよ」それから、私たちは美月のことで口論することが増えた。玲央は口では「もう次は行かねえ」と言うのに――美月から着信が鳴った瞬間、誰よりも早く飛び出していく。戻ってきてはうつむいて謝り、私は見て見ぬふりをしながら、毎日自分に言い聞かせた。玲央は私を愛してる。愛してる、愛してる……でも、本当は――愛してなんていない。会社に着いた途端、息つく暇もなく仕事に追われ、受付の子に「おやつが届いてます」と呼ばれて向かったとき、すっと伸びた背中が視界に入った。玲央は昔から顔がいい。陽だまりみたいな笑顔に、高い背。街を歩けば自然と視線を集める人で、私もあっさりスーツ姿の彼に惹かれてしまった。前なら、迷わず飛びついて抱きついていたはずだ。でも今は、踏み出しかけた足がその場で凍りついた。玲央は笑って大股で近づいてくる。「悠斗が新婚旅行から戻ってさ。友だちに奢るって言ってる。行こうぜ」まるで、昨日のことなんて最初からなかったみたいな顔で。私は視線を落とし、少し間を置いてから答えた。「……うん」退勤すると、玲央は車の後部座席のドアを開けて合図した。胸がざわつき、私は単刀直入に聞く。「助手席……誰か、乗るの?」切れ長の目がわずかに揺れる。「美月はさ、他人に自分の席に座られるの、嫌いなんだ」私は何も言わず、口元だけで笑った。そのまま
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第3話

口だけが勝手に動いているのに、何を食べてもまるで砂を噛んでいるみたいで、味がしなかった。玲央は連中と大声で盛り上がりながら、隣の美月にだけは細やかに気を配り、お茶を注ぎ、皿を替え、店員よりも忙しそうに世話を焼いている。まるで、隣のテーブルに婚約寸前の私が座っていることなんて、最初から存在していないみたいだった。私は冷めた目で眺める。玲央は普段、身の回りのことに無頓着な男だ。まして私に取り箸を伸ばしたり、カニの殻を剥いたりする発想なんて、最初からない。それが今はどうだ。玲央はカニの身を丁寧にほぐしながら、美月に笑って聞いた。「もう一杯いく?」俯き加減に笑い合う二人の息の合い方が、やけに眩しくて、目に刺さる。指を折って数えてみても、玲央は一度だって私に同じことをしてくれたことがない。頼めば返ってくるのは、苛立った声だけだ。「手ぇ付いてんだろ。自分で剥けよ」それでも言い返せば、玲央は人前でも平気で不機嫌な顔を作り、私を面倒な女に仕立てる。視界の端で、美月が得意げに口角を上げた。胸の奥が、ずしりと重く沈む。覚悟はしていたはずなのに、目の前で見せつけられると、胸がぎゅっと締めつけられる。私の様子がどこか強ばっているのに気づいた悠斗が、しばらく玲央の手元を眺めてから、軽く笑って茶化した。「おい、玲央。少しは公平にしろよ。日和にもちゃんと注いでやれ。あとでひいきしてるって言われるぞ」玲央はようやく私をちらりと見て、気だるそうにグラスへ水を足そうとする。私は先にグラスを取り上げた。「いらない」玲央の動きが止まる。何かを思い出したように、今度は横にあったオレンジジュースを手に取って注ごうとした。私は目を上げ、淡々と言い切る。「それも、いらない」続けて拒まれるとは思わなかったのか、玲央の顔に一瞬だけ戸惑いが走った。私の空気を察した悠斗が、間に入るように近づいてくる。「じゃあ、何がいい?言ってみ」私は背筋を伸ばし、グラスをテーブルに戻して静かに答えた。「玲央からのものは、全部いらない」その言葉が落ちた瞬間、個室の空気が一拍、止まった。美月がすぐに玲央の袖をそっと引く。「玲央くん……日和さん、怒ってるのかな。ごめんね。私が隣に座ったのが悪かったのかも」言い方がうまい。まるで私のほうが、理不尽に怒りをぶつけているみた
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第4話

私は口元をきゅっと歪めて、それを見なかったことにした。新しい部屋の準備を終えてからも、玲央は何通もメッセージを送ってきたが、すべて無視した。ベッドに沈み込み、何気なくインスタを開くと、通知に赤いバッジがついている。美月の新しい投稿だった。写真の中で、二人の鼻先は触れそうなほど近く、その目に宿る甘さが画面越しにも溢れていて、一瞬、キスしているようにさえ見える。美月はキャプションまで添えていた。「体はそっちにあっても、心は私のもの」私は眉をひそめ、しばらくそれを眺めてから、たった一行だけ打ち込んだ。「もう、付き合えば?」翌日、会社に着くと、玲央が朝食の袋を提げて入口で待っていた。私は一瞥もくれず、そのまま通り過ぎる。次の瞬間、袖をぐいと掴まれた。「お前、いったい何を怒ってんだよ」私は顔を上げ、冷たく睨み返す。「玲央、よく聞いて。私、騒いでないし、怒ってもいない」「もう、朝ごはんなんていらない。……私たち、別れよう」そもそも、私も玲央も朝食を取らないタイプだった。それなのに、あの集まりで美月は、私の目の前で得意げに話し始めたのだ。玲央が毎朝届ける朝食は、毎日違うのを持ってきてくれて、どれもすごく美味しいのだと。何気なく彼女のインスタを遡ってみれば、並んでいる朝食の写真は、どれも妙に洒落ていた。――だから、あんなに毎朝早く起きていたのか。誰かのデリバリー役をしていただけだった。問い詰めると、玲央は当然のように言った。「美月は低血糖なんだよ。朝抜くと、気持ち悪くなるだろ……」――でも、忘れている。私だって、低血糖なのに。玲央は信じられないという顔で私を見つめ、やがて歯を食いしばって問い返した。「……本気で言ってるのか?」私は唇の端だけを上げて笑う。「これ以上ないくらい本気よ。二人の結婚祝いだって、もう用意してある」そう言い切って、私は玲央の手を強く払いのけ、会社の中へ入った。恋は散々でも、仕事は追い風だった。上司の高嶋洋平(たかしま ようへい)に呼ばれて部屋に入ると、大きな案件をどんと渡された。「以前のクライアントが、君を指名してきた。頼むぞ」私は企画書を抱え、夢中で読み込み始めた。しばらくすると、受付の女の子が大きな紙袋いっぱいの差し入れを持ってやって来る。「日和さん……もしかして、誰か
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第5話

ソファ席の隅で、玲央が美月を抱き寄せ、深く、執拗にキスしていた。美月は目を細め、男の腰に絡みつくように腕を回している――どれほど夢中か、一目でわかる光景だった。足に鉛を流し込まれたみたいに、私はその場から動けず、ただ二人を見つめていた。「そもそもさ、美月が留学しなきゃ、あいつらとっくに結婚してたよな。日和の出番なんてなかっただろ」別の男が、悠斗と笑いながら言う。「だよな。日和って気ぃ強すぎ。毎日玲央に噛みついてさ。俺ならとっくに別れてるよ」悠斗が調子を合わせる。「ほんと。あの二人が付き合ってた頃なんて、そりゃもうラブラブで――」その先は、耳に入らなかった。頭の中だけが、じんと鳴っている。二人は……付き合っていた?じゃあ、私のほうが後から入り込んだ存在だったってこと?これが、悠斗の言うサプライズなの?ソファ席のドアが内側から開いて、ようやく彼らが私に気づいた。顔色が一斉に変わる。赤くなり、そして青ざめる。美月は頬をうっすら染め、むしろ私を責めるように言った。「日和さん、盗み見って……趣味悪くない?」私は口角を少し上げる。「私だって見たくなかったよ。昨日の残り物まで吐きそう」美月の表情がわずかに歪む。「……どういう意味?」私はドアをさらに押し開け、ゆっくりと言った。「そのまんま。わからない?あんた、私より年上でしょ。いい歳してああいうノリ、正直キツいわ」その場の空気が、凍りついた。私は玲央に視線を向け、言葉を続ける。「元カノとやり直すつもりなら、最初からそう言えばよかったじゃない。私だって、邪魔する趣味なんてないわ。隠れてコソコソして、どの口で私を責めるの?頭がおかしいのは、どっちよ」玲央の顔が一瞬で白くなり、慌ててこちらへ駆け寄ってくる。「違う、日和。俺と美月は賭けに負けただけで……さっきのはゲームで――」その言葉を最後まで聞くことはなかった。私は振り向きざま、思いきり彼の頬を打った。乾いた音が響き、手のひらの付け根まで痺れる。一人ひとりに視線を走らせるほど、吐き気が込み上げてくる。「玲央。終わりにしよう。もう、私の人生に関わらないで」帰り道、玲央につながる連中を片っ端からブロックした。あの輪と、これ以上一ミリも関わりたくない。こうして、玲央は私の世界から本当に消えた。同じ場所
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第6話

私は玲央の手を強く振り払った。そのまま、冷え切った笑みを浮かべて言う。「どうして別れなきゃいけないの?俺は美月と歌を一曲歌って、ゲームをしただけだろ。それくらいで別れ話とか、意味わかんない。……もしかして、他に男でもできた?」私はじっと彼を見つめ返した。「自分の過ちは認めないくせに、私に責任を押しつけるんだね。そんなに揉め続けるくらいなら、いっそ美月と付き合えば?私はもうどうでもいい」「美月とは確かに昔付き合ってた。でも、それは過去だろ?なんでお前はあいつにそんな偏見を持つんだ?」――また、それ。何を言っても通じない。私が少しでも口を開けば、「大げさだ」とか「美月を嫌っているだけだ」と、必ず別の意味にすり替えられてしまう。悪いのは私なのか、それとも玲央が見て見ぬふりをしているだけなのか。私は眉をひそめ、小さく息を吐いた。「あなたと美月が、せめて普通の友だちとしての一線を守れていたら……私たちはここまで来なかった。玲央、もう疲れた。終わりにしよう」境界線のない「ただの友だち」なんて、きっとその結末も、ただじゃ済まない。ネットでは、玲央の仲間たちが好き勝手に言っている。「お似合いのカップルはあの二人」「日和はおまけ」――……胸が痛むほど、否定できなかった。もしかしたら、本当にそうなのかもしれない。玲央は眉を寄せたまま私を見つめ、しばらくして口を開いた。「これからは気をつける。だから……別れないでくれ」私は深く息を吸い、唇にかすかな苦笑を浮かべた。「ねえ、あの日が何の日だったか……覚えてる?」玲央は一瞬言葉に詰まり、ためらいがちに答える。「……お前の誕生日?」喉に氷を押し込まれたみたいに、内側からすっと冷えていく。ほら、やっぱり。私はまっすぐに玲央の目を見た。胸の奥に、失望が静かに広がる。「付き合って五周年の記念日。一年目は忘れて、美月を空港まで送っていった。二年目も忘れて、悠斗たちと朝まで飲み明かした。三年目も忘れて、会社の同僚の誕生日パーティーに行った」視線を逸らし、私は無理に笑った。玲央の中で、私はいつだって最後。自分から近づいてきた、都合のいい女。呼べば来て、放っておけば消える――そんな存在でしかない。玲央が言い訳を口にしかけた、そのときだった。スマホが「ピコン
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第7話

もう二度と、玲央の周りの人間たちと関わることはない――私はそう思っていた。ところがその日の昼、悠斗が血相を変えて駆け込んできて、病院へ一緒に行ってほしいと言った。「日和、玲央が車にかすられたんだ。今も病院で意識が戻らなくて、ずっとお前の名前を呼んでる」私はわずかに眉をひそめた。「それなら美月のところに行けば? あんたが言ってたじゃない。あの二人のほうがお似合いだって」悠斗は言葉に詰まり、しばらくして気まずそうに口を開く。「……あれは俺たちが悪かった。最近になってやっと気づいたんだ。玲央の本当に好きな人は、お前だったって。お前が行かなかったら、あいつら……本当により戻すかもしれない」私はあきれたように言った。「より戻せばいいじゃない。私には関係ない」私が立ち去ろうとすると、悠斗は食い下がる。「本当に行かねえのか?」相手にするだけ無駄だ。私はそのまま背を向けた。玲央の周りの連中は、本人と同じくらい無神経だった。飲み会のたびに美月を呼び、二人を並べてはわざと話題を振り、まるで関係を誇示するかのように。私はそれに嫌気が差して身を引いた。あの人たちの思惑どおり、お似合いの二人を完成させてやったのだ。それなのに今さら取り乱して追いかけてくるなんて、滑稽でしかない。大口クライアントのデザイン案件が佳境に入り、余計なことを考える暇もなかった。玲央は、私の世界から少しずつ遠ざかっていった。これで終わった――そう思っていたのに、一週間後、会社の階段で玲央と鉢合わせた。ひどく痩せて、顔色も病み上がりのように白い。私は何事もないふりで通り過ぎようとしたが、腕をつかまれる。「日和……話がしたい」いつもは冷たいその瞳に、珍しく柔らかさと期待がにじんでいた。「いいよ、一回だけなら」私の素っ気ない態度に、玲央の目の光が少し曇る。車で向かったのは、初めて出会ったあのバーだった。酒の味は変わらないのに、隣に座る人だけが違っていた。私が何か言う前に、玲央はスーツのジャケットを脱ぎ、まっすぐステージへ向かった。甘い想いをなぞるようなラブソングの旋律が、ゆっくりと流れ出す。玲央が歌い始めると、その低い声は意外なほど耳に心地よかった。気のせいか、今夜だけは視線までが、どこか名残惜しそうに私を追ってくる。私は舞台の中
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第8話

誰かが玲央がバーで歌っている動画を、またネットに流したらしい。照明を浴びたあの整った顔が、逃げ場もなく画面にさらされていた。受付の女の子が興味津々に聞いてくる。「これって……日和さんの彼氏ですよね?」私は眉を上げ、軽く笑った。「これからは違うよ」社内の噂は本当に早い。洋平までが私をからかってくる。「なかなかいい声じゃないか……」それを聞いて、私は居たたまれなくなり、曖昧に笑ってごまかした。「……そう、ですね」ノートを開いて業務の振り返りを終えたあと、探るように切り出す。「この案件、一区切りつきましたよね。前にお話ししてた有休の件なんですけど……」洋平は何も言わず、引き出しから封筒を取り出して差し出した。「海外のレッドクラウン国際デザインコンペだ。君の名前でエントリーしておいた。現地に行ってこい。休暇だと思えばいい」目がぱっと明るくなるのが、自分でもわかった。私は思わず、調子よく言葉を重ねていた。「ありがとうございます!全力でやってきます!」海外案件が多い仕事柄、パスポートはちょうど手元にあった。両親と友だちに一言連絡して、私は渡航の準備を始める。カップ麺も漬物も忘れない。あれは私にとって、デザインを描くときの大事な「燃料」なのだ。父から電話がかかってきて、念を押すように言われた。「半月も行くなら、玲央とちゃんと話しておけよ。こんなことでケンカするな」私は一瞬、言葉に詰まった。そういえば、別れたことをまだ伝えていなかった。少し間を置いて、ようやく口を開いた。「……あの人の元カノが戻ってきてね。私たち、別れたの」父は何か言うかと思ったが、話を聞き終えるなり、私以上に声を荒らげた。「そんな男、とっくに見切りをつけて当然だろ!よく今まで我慢してたな。ほんとにうちの娘か?情けない!」「はいはいはい」私はひたすら低姿勢で、本気とも適当ともつかない返事を返す。玲央と付き合って一ヶ月目、私はもう実家に連れて行っていた。友だちはみんな言った――そんなに早く親に会わせたら、別れたときに気まずすぎるって。あの頃の私は、本当に愚かだった。別れるなんて一度も想像していなかったから、父は玲央に会ったその夜、単刀直入に聞いた。「覚悟はあるのか」私は迷いなくうなずいた。父はそれ以上何も言わず、ただ一言だけく
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第9話

時間はあっという間に過ぎ、気づけば海外に来て一週間が経っていた。七日目にしてようやく初稿が仕上がり、ほっとした瞬間、腹が情けなく鳴る。私はお腹を押さえて鍵をつかみ、外へ出た。初秋のパリにはすでにひんやりとした空気が混じっている。コーヒーを飲みながら雑誌をめくっていると、次の瞬間、見覚えのある二つの影が視界に入った。「日和さん……偶然ですね。ここにいたなんて」美月のわざとらしい声を聞いた途端、口の中のサンドイッチが一気にまずくなる。隣に立つ玲央は、熱のこもった視線で私を見つめていた。まるで私が何か借りを踏み倒したみたいな顔で。「橘さん。私たち、そんなに親しくないでしょ」ぶっきらぼうに言い捨て、バッグを手に取って立ち上がる。「白石、私にコンペで負けるのが怖いんでしょ?だって玲央くんだって、私に取られたじゃない。今回も同じよ」「美月、やめろ」黙っていた玲央が、低くたしなめた。私は振り返らず、淡々と言う。「脳を診てくれるお医者さん、知ってる。必要なら紹介してあげるわ」――要するに、これ以上相手にする価値もないってこと。それだけ言い捨てて、私は大股で店を出た。背後で金切り声のような罵声が飛んでも、振り向かない。……あれ、本気でどこかおかしいんじゃない?数日後、レッドクラウン国際デザインコンペは予定どおり開催された。幾度もの厳しい審査を経て、私と美月の図面がそろって決勝に残る。そして最終選考。審査員たちの票は次々と私に集まり、美月に入ったのは、たった一票だけだった。それなのに美月は、焦るどころか、薄く奇妙な笑みさえ浮かべていた。胸の奥がざわりと波立ち、私は一気に警戒を強める。次の瞬間、美月は審査員席に一枚の原稿を差し出し、はっきりとした声で言い放った。「白石日和さんの今回の作品は、盗用の疑いがあります。この方には、優勝する資格がありません!」その一言で、会場中がざわめきに包まれた。そして――彼女が差し出した原稿を見た瞬間、私はようやくその狙いを悟った。鋭い視線が、客席にいる玲央へと吸い寄せられる。今回の課題は、私が過去に手がけた設計案を土台にして発展させたものだ。その土台を見た人間がいるとすれば、玲央しかいない。客席の玲央がふいに立ち上がる。口を開きかけては閉じ、何か言お
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第10話

私は終始、何も言わずにただ結果を待った。心臓が喉までせり上がってきても、必死で押し戻す。壇上の審査員たちも手詰まりの様子で、重い表情を浮かべていた。――もう、駄目かもしれない。そう思った瞬間、舞台裏から複数の足音が聞こえた。目を凝らすと、そこに現れたのは洋平だった。しかも、以前うちと組んだクライアントを何人も連れている。歩きながら、彼は私に小さくうなずいた。その目には、責める色も、不安の色もない。あるのはただ、「やれるだろ」という静かな期待だけ。胸の奥で暴れていたものが、すっと静まった。次の瞬間、洋平がノートパソコンを開き、私が会社で手がけてきた企画や制作ログを次々とスクリーンに映し出す。ラフが一枚、また一枚と並ぶたび、審査員たちは自然と頷いていった。私の最終図面とスケッチの間には、誰が見てもわかる筋が通っている。どこかから突然湧いてきたものではない。クライアントたちも次々に私の実績を証言し、最終的に――コンペのトロフィーは、私の腕の中に収まった。美月が警察に連れていかれるときも、最後まで喚き散らしていた。「あなたたち、どうせ幸せになれない……玲央くんは私のもの!」壊れた人形みたいなその姿を見て、胸の奥に、言葉にできない感情が残る。男ひとりのために、仕事も人生も投げ捨てる価値が、本当にあるのだろうか。玲央は、居場所を失ったみたいな顔で私の前に立った。言いたいことがあるのに、言葉にならない――そんな表情。その迷いを見て、私が先に口を開いた。「これでチャラ」思いもよらなかったのだろう。細い目が、わずかに揺れた。「あなたのせいで、美月は私の原稿を手に入れて、私を大会で潰そうとした。でも……あなたも最後に一度だけ、私を選んで証言してくれた。結果がどうであれ、その分の借りは覚えてる。家は売ったら代金は折半。だから――これでチャラ。もう、会わないで」玲央の顔は、みるみる沈んでいき、今にも崩れそうだった。けれど私は、もう振り向かない。トロフィーを抱えて一人で歩き出し、出口に差しかかったとき――聞き覚えのある男の声に呼び止められた。「で、今回はどうやって礼をする?」……はぁ、と心の中でため息をつく。社員が上司に借りを作ると、ろくなことがない。これ、いったい何回残業すれば返
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