ログイン私は白石日和(しらいし ひより)。来月には結婚するはずだった恋人・神崎玲央(かんざき れお)が、記念日の夜に初恋の相手・橘美月(たちばな みつき)を連れてバーでラブソングを歌っていた。 その場でキスして抱き合うところまで友だちに撮られて、動画はインスタのプロフィールにピン留め。 コメント欄は「付き合っちゃえ」で溢れ返る。 面白がり屋の一人が、わざわざ私の前で言った。「あの二人、もうくっつくぞ」 私は冷たく一瞥して返す。「誰とくっつこうが、あんたに関係ないでしょ?」
もっと見る私は終始、何も言わずにただ結果を待った。心臓が喉までせり上がってきても、必死で押し戻す。壇上の審査員たちも手詰まりの様子で、重い表情を浮かべていた。――もう、駄目かもしれない。そう思った瞬間、舞台裏から複数の足音が聞こえた。目を凝らすと、そこに現れたのは洋平だった。しかも、以前うちと組んだクライアントを何人も連れている。歩きながら、彼は私に小さくうなずいた。その目には、責める色も、不安の色もない。あるのはただ、「やれるだろ」という静かな期待だけ。胸の奥で暴れていたものが、すっと静まった。次の瞬間、洋平がノートパソコンを開き、私が会社で手がけてきた企画や制作ログを次々とスクリーンに映し出す。ラフが一枚、また一枚と並ぶたび、審査員たちは自然と頷いていった。私の最終図面とスケッチの間には、誰が見てもわかる筋が通っている。どこかから突然湧いてきたものではない。クライアントたちも次々に私の実績を証言し、最終的に――コンペのトロフィーは、私の腕の中に収まった。美月が警察に連れていかれるときも、最後まで喚き散らしていた。「あなたたち、どうせ幸せになれない……玲央くんは私のもの!」壊れた人形みたいなその姿を見て、胸の奥に、言葉にできない感情が残る。男ひとりのために、仕事も人生も投げ捨てる価値が、本当にあるのだろうか。玲央は、居場所を失ったみたいな顔で私の前に立った。言いたいことがあるのに、言葉にならない――そんな表情。その迷いを見て、私が先に口を開いた。「これでチャラ」思いもよらなかったのだろう。細い目が、わずかに揺れた。「あなたのせいで、美月は私の原稿を手に入れて、私を大会で潰そうとした。でも……あなたも最後に一度だけ、私を選んで証言してくれた。結果がどうであれ、その分の借りは覚えてる。家は売ったら代金は折半。だから――これでチャラ。もう、会わないで」玲央の顔は、みるみる沈んでいき、今にも崩れそうだった。けれど私は、もう振り向かない。トロフィーを抱えて一人で歩き出し、出口に差しかかったとき――聞き覚えのある男の声に呼び止められた。「で、今回はどうやって礼をする?」……はぁ、と心の中でため息をつく。社員が上司に借りを作ると、ろくなことがない。これ、いったい何回残業すれば返
時間はあっという間に過ぎ、気づけば海外に来て一週間が経っていた。七日目にしてようやく初稿が仕上がり、ほっとした瞬間、腹が情けなく鳴る。私はお腹を押さえて鍵をつかみ、外へ出た。初秋のパリにはすでにひんやりとした空気が混じっている。コーヒーを飲みながら雑誌をめくっていると、次の瞬間、見覚えのある二つの影が視界に入った。「日和さん……偶然ですね。ここにいたなんて」美月のわざとらしい声を聞いた途端、口の中のサンドイッチが一気にまずくなる。隣に立つ玲央は、熱のこもった視線で私を見つめていた。まるで私が何か借りを踏み倒したみたいな顔で。「橘さん。私たち、そんなに親しくないでしょ」ぶっきらぼうに言い捨て、バッグを手に取って立ち上がる。「白石、私にコンペで負けるのが怖いんでしょ?だって玲央くんだって、私に取られたじゃない。今回も同じよ」「美月、やめろ」黙っていた玲央が、低くたしなめた。私は振り返らず、淡々と言う。「脳を診てくれるお医者さん、知ってる。必要なら紹介してあげるわ」――要するに、これ以上相手にする価値もないってこと。それだけ言い捨てて、私は大股で店を出た。背後で金切り声のような罵声が飛んでも、振り向かない。……あれ、本気でどこかおかしいんじゃない?数日後、レッドクラウン国際デザインコンペは予定どおり開催された。幾度もの厳しい審査を経て、私と美月の図面がそろって決勝に残る。そして最終選考。審査員たちの票は次々と私に集まり、美月に入ったのは、たった一票だけだった。それなのに美月は、焦るどころか、薄く奇妙な笑みさえ浮かべていた。胸の奥がざわりと波立ち、私は一気に警戒を強める。次の瞬間、美月は審査員席に一枚の原稿を差し出し、はっきりとした声で言い放った。「白石日和さんの今回の作品は、盗用の疑いがあります。この方には、優勝する資格がありません!」その一言で、会場中がざわめきに包まれた。そして――彼女が差し出した原稿を見た瞬間、私はようやくその狙いを悟った。鋭い視線が、客席にいる玲央へと吸い寄せられる。今回の課題は、私が過去に手がけた設計案を土台にして発展させたものだ。その土台を見た人間がいるとすれば、玲央しかいない。客席の玲央がふいに立ち上がる。口を開きかけては閉じ、何か言お
誰かが玲央がバーで歌っている動画を、またネットに流したらしい。照明を浴びたあの整った顔が、逃げ場もなく画面にさらされていた。受付の女の子が興味津々に聞いてくる。「これって……日和さんの彼氏ですよね?」私は眉を上げ、軽く笑った。「これからは違うよ」社内の噂は本当に早い。洋平までが私をからかってくる。「なかなかいい声じゃないか……」それを聞いて、私は居たたまれなくなり、曖昧に笑ってごまかした。「……そう、ですね」ノートを開いて業務の振り返りを終えたあと、探るように切り出す。「この案件、一区切りつきましたよね。前にお話ししてた有休の件なんですけど……」洋平は何も言わず、引き出しから封筒を取り出して差し出した。「海外のレッドクラウン国際デザインコンペだ。君の名前でエントリーしておいた。現地に行ってこい。休暇だと思えばいい」目がぱっと明るくなるのが、自分でもわかった。私は思わず、調子よく言葉を重ねていた。「ありがとうございます!全力でやってきます!」海外案件が多い仕事柄、パスポートはちょうど手元にあった。両親と友だちに一言連絡して、私は渡航の準備を始める。カップ麺も漬物も忘れない。あれは私にとって、デザインを描くときの大事な「燃料」なのだ。父から電話がかかってきて、念を押すように言われた。「半月も行くなら、玲央とちゃんと話しておけよ。こんなことでケンカするな」私は一瞬、言葉に詰まった。そういえば、別れたことをまだ伝えていなかった。少し間を置いて、ようやく口を開いた。「……あの人の元カノが戻ってきてね。私たち、別れたの」父は何か言うかと思ったが、話を聞き終えるなり、私以上に声を荒らげた。「そんな男、とっくに見切りをつけて当然だろ!よく今まで我慢してたな。ほんとにうちの娘か?情けない!」「はいはいはい」私はひたすら低姿勢で、本気とも適当ともつかない返事を返す。玲央と付き合って一ヶ月目、私はもう実家に連れて行っていた。友だちはみんな言った――そんなに早く親に会わせたら、別れたときに気まずすぎるって。あの頃の私は、本当に愚かだった。別れるなんて一度も想像していなかったから、父は玲央に会ったその夜、単刀直入に聞いた。「覚悟はあるのか」私は迷いなくうなずいた。父はそれ以上何も言わず、ただ一言だけく
もう二度と、玲央の周りの人間たちと関わることはない――私はそう思っていた。ところがその日の昼、悠斗が血相を変えて駆け込んできて、病院へ一緒に行ってほしいと言った。「日和、玲央が車にかすられたんだ。今も病院で意識が戻らなくて、ずっとお前の名前を呼んでる」私はわずかに眉をひそめた。「それなら美月のところに行けば? あんたが言ってたじゃない。あの二人のほうがお似合いだって」悠斗は言葉に詰まり、しばらくして気まずそうに口を開く。「……あれは俺たちが悪かった。最近になってやっと気づいたんだ。玲央の本当に好きな人は、お前だったって。お前が行かなかったら、あいつら……本当により戻すかもしれない」私はあきれたように言った。「より戻せばいいじゃない。私には関係ない」私が立ち去ろうとすると、悠斗は食い下がる。「本当に行かねえのか?」相手にするだけ無駄だ。私はそのまま背を向けた。玲央の周りの連中は、本人と同じくらい無神経だった。飲み会のたびに美月を呼び、二人を並べてはわざと話題を振り、まるで関係を誇示するかのように。私はそれに嫌気が差して身を引いた。あの人たちの思惑どおり、お似合いの二人を完成させてやったのだ。それなのに今さら取り乱して追いかけてくるなんて、滑稽でしかない。大口クライアントのデザイン案件が佳境に入り、余計なことを考える暇もなかった。玲央は、私の世界から少しずつ遠ざかっていった。これで終わった――そう思っていたのに、一週間後、会社の階段で玲央と鉢合わせた。ひどく痩せて、顔色も病み上がりのように白い。私は何事もないふりで通り過ぎようとしたが、腕をつかまれる。「日和……話がしたい」いつもは冷たいその瞳に、珍しく柔らかさと期待がにじんでいた。「いいよ、一回だけなら」私の素っ気ない態度に、玲央の目の光が少し曇る。車で向かったのは、初めて出会ったあのバーだった。酒の味は変わらないのに、隣に座る人だけが違っていた。私が何か言う前に、玲央はスーツのジャケットを脱ぎ、まっすぐステージへ向かった。甘い想いをなぞるようなラブソングの旋律が、ゆっくりと流れ出す。玲央が歌い始めると、その低い声は意外なほど耳に心地よかった。気のせいか、今夜だけは視線までが、どこか名残惜しそうに私を追ってくる。私は舞台の中