《婚姻生活にさようなら、椎名さん》全部章節:第 201 章 - 第 210 章

412 章節

第201話

歯の根が震えて、柔らかいパンでさえうまく噛み切れなかった。昨夜、承也をひと目見た時から、彼が眼鏡をかけていないことには気づいていた。何度か聞こうとしたが、そのたびに言葉を飲み込んだ。本当に、眼鏡がいらなくなっていたのだ。あの事故で承也が光を失ってからというもの、莉奈はつきっきりで世話をした。毎晩、椎名邸の祈りの間へ足を運び、彼がもう一度光を取り戻せるようにと祈り続けた。一日たりとも欠かさずに。飽きっぽい莉奈にしては珍しく続いたその祈りが天に届いたのか、やがて承也は視力を取り戻した。ただ、目に後遺症が残ったせいで、眼鏡だけは手放せずにいた。欲をかけば罰が当たる。莉奈はそれを知っていたから、それ以上の贅沢は願わないようにしてきた。それでも心の底には、彼の目が事故の前の状態にまで治ってほしいという切実な思いが沈んでいた。そして今、その目は完全に治っている。長いあいだ胸の奥に押し殺していた願いが叶った喜びと、それとは裏腹な、どうしようもない苦さが、喉の奥から込み上げてきた。本当によかった。莉奈は悠斗に背を向けると、顔をぬぐうふりをして、手の甲で乱暴に涙を拭き取った。「あなたたちが私を捜しに来る前に、廷治には会えた?彼は無事なの?」「腹部を刃物で刺されて負傷していましたが、幸い命に別状はありません。しばらく安静にしていれば回復するでしょう」悠斗は、莉奈の目元が赤くなっていることには気づかないふりをしてくれた。そして視線を横へ流すと、こちらへ歩いてくる男の姿を認め、静かに脇へ退いた。「食べ終わったら、二階へ戻ってもう少し寝てろ」温かいミルクの入ったマグカップが、トンと莉奈の手元に置かれた。頭上から降ってきたのは、いつもと変わらない、低く冷たい承也の声だった。莉奈は、カップを置いたその骨ばった手から視線を逸らし、パンを口に押し込みながら、つい文句をこぼした。「あの寝袋、なんか死体袋みたいで寝心地悪いし……」承也の動きがピタリと止まった。眉間に不快げな皺が寄る。この女は、本当に……自分が縁起でもない言葉を口にしたことなどまるで気づいていない莉奈は、承也の険しい顔を見て、慌てて話題を変えた。「ねえ、この嵐って、あとどれくらい続きそう?今日、直哉が撮影を終えて戻ってくるから、空港まで迎えに行かな
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第202話

写真に写っている女は、莉奈のまったく知らない顔だった。ハッとするほど人目を引く美貌というわけではない。けれど、物静かで、育ちのよさそうな上品な雰囲気がある。女の口元には浅いえくぼが浮かび、その笑みは柔らかく甘かった。隣に写る承也は短く刈り上げた髪で、顔立ちは今よりも少し鋭い。それでも、かすかに上がった口角のせいで、普段の彼が纏っている人を寄せつけない冷たさが、少しだけ薄れて見えた。二人は肩が触れそうなほどの距離で並び、単色の背景の前でフォーマルな証明写真に収まっている。見れば見るほど、それはまるで婚姻登録用に撮られた写真のような、妙に改まった構図だった。胸の奥でくすぶっていた違和感が、この瞬間、はっきりとした形を持った気がした。莉奈は写真の中の二人から目を離すことができなかった。だから彼は、この付近に島があることを知っていたのだ。だから彼は、この小屋の勝手に慣れているように見えたのだ。クローゼットにあった女物の服も、写真の女のものに違いない。二人はかつて、ここで一緒に暮らしていたのだ。その考えが頭をよぎった瞬間、背後のドアがきしむ音がした。ハッとした莉奈はビクッと肩を震わせ、手にしていた写真を落としてしまった。写真は床の上に滑り落ち、白い裏面を上にして止まった。承也の底知れない深い視線が、うろたえた莉奈の顔に一瞬とどまる。そして床に落ちた写真を見た途端、承也はわずかに眉を寄せた。長い脚でこちらへ近づいてくる。莉奈は我に返り、慌ててしゃがんで写真を拾おうとした。けれど、昨夜のせいで腰に残る鈍い痛みが走り、動きが一瞬遅れた。承也の骨ばった長い指が、莉奈より先にその写真を拾い上げた。「あなたが……任務に就いていた頃の写真?」声に出してから、莉奈は自分の声が情けないほど震えていることに気づいた。承也が十八歳で任務に就くため東安市を離れた時、莉奈はまだ十三歳だった。七歳の時、学校の鍵のかかったトイレに閉じ込められたところを、承也に助け出された。あの時に胸の奥へ落ちた小さな火種は、十三歳の年、承也が東安市を去ったことで一気に燃え上がった。承也は任務先から月に一度だけ、椎名家へ電話をかけることが許されていた。幸い、電話はいつも週末だった。莉奈は千鶴おばあちゃんの肩に寄りかかり、受話器の向こうか
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第203話

莉奈は体を洗い終えると、身体を拭き、使ったタオルを壁のフックに掛けた。それから、未開封の衣類の包みを開ける。中に入っていたのは、濃紺の男性用長袖スウェットの上下だった。ほかには厚手の靴下が一足だけ。タグのサイズ表示を確認するまでもない。明らかに承也のサイズだ。着てみると、やはりぶかぶかだった。莉奈は余った袖と裾を数回折り返し、分厚い軍用コートを羽織ってドアノブに手をかけた。内側からドアノブを引いた途端、外にいた人物が逆にドアを押し開けた。浴室にこもっていた熱気と湯気が、一気に廊下へ流れ出す。承也は静かに目を伏せ、白い湯気の中に立つ莉奈を見下ろした。莉奈は濡れた髪を頭の上で無造作なお団子にまとめている。濡れた後れ毛が数本、白い頬の両側に色っぽく張りついていた。ただでさえ小さく整った顔立ちが、湯上がりのせいかいつもより少し幼く見える。スウェットパンツの腰回りは莉奈には緩すぎた。ずり落ちないよう上着の裾をウエストに押し込んでいるせいで、生地が引っ張られ、豊かな胸の丸い輪郭がくっきりと浮かび上がっている。その幼く見えるあどけない顔立ちとは不釣り合いな、無防備で危うい色気を放っていた。承也の漆黒の瞳が、さらに暗く深い色に沈み込んだ。「終わったのか」莉奈は答えなかった。脱いだ自分の服を抱えたまま、無言で承也の脇をすり抜けようとする。けれど承也の手はまだドアノブを握ったままで、その長い腕が莉奈の行く手を塞いでいた。「どいて。もう寝るから」莉奈がむっとして顔を上げた拍子に、頭の上のお団子髪がぽよんと小さく揺れた。――その揺れまで、どこか拗ねているように見えた。承也の視線は莉奈の頭越しに、浴室の奥へ向けられた。大きなバケツの湯と、半分ほどの水。莉奈は自分の分だけを使い、承也のためにきっちり半分残していた。使ったタオルは壁のフックにきちんと掛けられている。承也が腕を下ろして道を空けると、莉奈はためらわずに歩き出した。ただ、あの写真があったベッドルームにはもう一歩も近づこうとしなかった。階段のほうから、カン、カン、カンと冷たい足音が下に降りていくのが響く。承也の視線は、莉奈の頭の上で揺れるお団子髪をじっと見送っていた。その姿が完全に見えなくなってから、承也は浴室へ入った。石鹸やボディソープなどないはずなのに、狭い
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第204話

承也は重く息を吐いた。身を返して莉奈を壁際へ押し込み、顎を持ち上げると、強引に舌先を絡め取る。キスは荒々しかった。骨ごと呑み込まれそうなほどの勢いに、莉奈は息が続かなくなり、頭の中が真っ白になっていく。考える余裕などなく、ただ承也に奪われるままになった。ズボンの腰に押し込まれていた上着の裾が、無造作に引きずり出される。「あっ……」莉奈は不意の痛みに身体をビクッと震わせた。承也の手が止まった。苦痛に顔を歪める莉奈を見る。昨夜、彼は一切の手加減をしなかった。そのせいで体を痛めているのだろう。承也は莉奈のうなじを押さえたまま、名残惜しむように何度か唇を奪い、それからようやく、赤く腫れた彼女の唇から離れた。大きな手で後頭部を支え、莉奈の顔を自分の胸元へ押しつける。その厚い胸の奥では、いつもより速い鼓動が、低く力強く打っていた。承也はずり落ちていたコートを引き上げ、莉奈の体にしっかりと掛け直した。二人は何も言わなかった。外で唸る風の音に混じって、互いの荒い呼吸だけが響いている。しばらくして、承也が口を開いた。「寝ろ」その低い声は、ひどく掠れていた。承也の腕に抱かれたまま、莉奈がすぐ眠りにつけるはずもなかった。頭の中には、先ほどの十年前の証明写真が勝手に浮かんでくる。正体のわからない苛立ちが、胸の奥をざわざわと駆け回っていた。承也は片脚を伸ばし、もう片方の膝を立てた。壁に後頭部を預け、腕の中でまつ毛を震わせている莉奈を見下ろす。「眠れないなら、眠くなるまで別のことでもするか」莉奈が眠くないはずがない。彼女は承也のように底なしの体力を持っているわけではないのだ。昨夜から求められ続け、まぶたはとうに限界を迎えていた。空腹でなければ、そもそも目を覚ますことすらなかっただろう。ほどなくして、承也の腕の中から規則的な浅い寝息が聞こえ始めた。承也の口角が、ほんの少しだけ上がる。彼も壁にもたれたまま、静かに目を閉じた。窓の外で嵐が荒れ狂っていても、承也の腕に抱かれた莉奈は、そのまま朝まで静かに眠っていた。莉奈は、ヘリの回転翼が立てる轟音で目を覚ました。目を開けると、身体に柔らかな陽光が落ちていた。体がぽかぽかと温かい。けれどそれは、日の光だけのせいではなかった。莉奈は、承也の腕の中にすっぽりと抱か
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第205話

承也の腕から抜け出すと、莉奈は窓辺に身を寄せて外を見た。空を覆うほどの圧迫感で、五機の大型武装ヘリが小屋の外でホバリングしていた。回転翼が鼓膜を破るようなすさまじい轟音を立てている。黒い機体は朝陽を受け、冷たい光を鈍く反射していた。正面から押し寄せてくるような威圧感に、莉奈の鼓動が早鐘のように打った。丸一日と二晩にわたる嵐で、小島はどこも荒れ果てていた。海上の気候は嵐の影響を受けやすく、夜半に気温が一気に氷点下まで下がったらしい。島へ流れ込んだ海水は完全に凍りつき、地面のあちこちで白く光を反射している。窓ガラスの外側にも、薄い霜がびっしりと張りついていた。外がどれほど冷え込んでいるか、見ただけで痛いほどわかる。莉奈は窓の外を見つめたまま、静かにまぶたを伏せ、白く濁った息を吐き出した。――ようやく、ここを出られる。この小島に閉じ込められていた時間は、想像していたよりもずっと短く感じられた。莉奈は窓辺にしばらくたたずんでいたが、やがて振り返り、一階へ降りようと歩き出した。だが、背後で承也が長い脚を踏み出し、莉奈の手首を掴んで引き戻した。承也は、深い色をたたえた眼差しを彼女の顔へ落とした。「着替えを持ってこさせた」承也は首に掛けていた通信イヤホンを手に取った。視線を伏せている莉奈の横顔を見つめながら、マイク越しに低い声で命じる。「荷物を上げろ」すぐに、悠斗が大きな紙袋を二つ提げて二階へ上がってきた。中身はすべて、莉奈のために手配された衣類だった。頭の先からつま先まで、アウターから肌着に至るまで完璧に揃っている。ダウンジャケット、スノーブーツ、ニット帽、マフラー、手袋、さらには真新しい下着まで入っていた。莉奈が袋を受け取って浴室へ入ろうとした時、一階から浩平の声が聞こえてきた。承也が二階にいるのかと大声で尋ね、階段を上がってこようとして、ボディーガードたちに押し留められているようだ。「承也!兄貴!おい、承也!」承也は、さっきまで莉奈が着ていたあのコートを無造作に羽織った。「あいつの口を塞げ」「はい」悠斗が一礼し、一階へ降りていった。莉奈が入って浴室のドアが閉まる。直後、外側で人影がこちらへ近づいてくる気配がした。莉奈は咄嗟に浴室にあった丸椅子を持ち上げ、錠が壊れて勝手に開いて
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第206話

上空を旋回する黒い武装ヘリの指揮官の耳に、通信回線越しに氷のように冷たい声が響いた。「船は一隻だけか」「いえ、三海里先にさらに二隻待機しています」本命は背後に控えるその二隻だろう。風牙が何の備えもなく、のこのここの島までやって来るはずがない。「ですが社長、ご安心ください。万が一武力衝突に発展したとしても……」承也の視界の端に、一階へ下りようとする莉奈の姿が映った。一昨日の夜、屈強な男たちに押さえつけられ、吹き荒れる風の中で一切の光を失っていた莉奈の虚ろな瞳が、承也の脳裏をかすめる。承也は部下の言葉を冷ややかに遮った。「衝突させる必要はない。黒崎が、わざわざ下手に出る姿勢を見せているんだ。会わないほうが礼を欠く……通せ」莉奈が連れ去られた事件の裏事情は、すでに省之介から聞き出していた。裏で糸を引いていたのは、神崎厳明だ。そして厳明は、風牙が傭兵部隊の中に潜り込ませていた情報提供者に偶然接触した。一昨日の夜、莉奈を乗せたクルーザーを迎えに来た船も、風牙の手の者たちだった。承也は大股で階段口へ向かうと、下りようとしていた莉奈のダウンジャケットのフードをつかみ、後ろへ引き戻した。そして彼女の横を通り過ぎるすれ違いざまに、短く告げる。「上にいろ」小屋の外では、風牙がすでにヘリから降り立っていた。背後には数人が続き、それぞれ手には見栄えのする料理箱を提げている。風牙はからりと笑った。「椎名社長、遠路はるばるよく来てくれた。出迎えが遅れた無礼は、大目に見てくれるとありがたい」二階の階段口に留まっていた莉奈の耳に、いつもと変わらない、承也の底冷えする声が届いた。「黒崎さんこそ、ご丁寧な出迎えだな」莉奈の立つ位置からは、一階の様子が見えた。承也は、一階に一脚だけ残っている、修理された椅子に座っている。姿勢は少しも崩れていない。何もせず座っているだけで、場の重心が承也の側へ傾く。年上の風牙のほうが、かえって一段低い場所に置かれているように見えた。風牙は気にした様子もなく笑みを保った。「本来なら俺たちの拠点へ招いて、少しゆっくりしてもらいたかったんだがな。急では迷惑かと思って、酒と食事だけ用意させた。椎名社長に、少しばかり付き合ってもらえればありがたい」笑いながら話しているだけでは、一昨日の夜
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第207話

承也は空へ上昇していく風牙の深緑色の武装ヘリを見つめ、首元の通信イヤホンへ短く告げた。「見張れ」言い終えた直後、階段のほうからカン、カン、カンと足音が響いた。承也は冷え切った視線を戻し、振り返って大股で歩き出した。莉奈は階段の最後の一段に立っていたが、承也に行く手を塞がれる形になって足を止めた。承也は目を伏せ、莉奈の顔色を窺った。先ほどまでの血色のいい、健康的な色は消え失せ、何か重いものを抱え込んだような表情をしている。――先ほどの風牙の嫌味を聞いていたのだろう。承也はわずかに眉をひそめた。顎の筋肉が硬く張り、ひどく掠れた声がポツリと落ちる。「昔の情などというものは……」誤解を解こうとした。しかし、莉奈は承也の言葉などまったく聞いていなかった。彼をすり抜けてまっすぐ玄関のほうへ小走りで向かい、ドアを飛び出すと、爪先立ちになって空へ向かって大きく手を振り始めたのだ。同じタイミングで、承也の通信イヤホンに上空の指揮官から報告が入った。「社長、民間ヘリが一機、こちらへ接近中です。乗っているのは佐伯直哉さんです」浩平と承也が、同時に空を見上げた。一機の白いヘリが荒れた海面を越え、小島へ向かって飛んでくる。開け放たれた機体のドアのふちには、サングラスをかけ、黒いフード付きダウンジャケットを着た長身の男が身を乗り出すように立っていた。男は強風の中で、ぴんと張った黄色い横断幕を大げさに掲げている。【奈奈ちゃん、迎えに来たぞ!】その巨大な文字を見た瞬間、莉奈は穴があったら入りたいほど恥ずかしい気分になった。だが同時に、目の奥がじんわりと熱くなる。莉奈は泣きそうな顔のまま、吹き出してしまうように笑った。こんな危険な境界地帯まで来て、あんな派手に恥をさらすなんて、本当に彼らしい。「何だかんだ言って、奈奈は本当に愛されてるよな」浩平が横でしみじみと感嘆の息を漏らした。少し前には省之介が命がけで冬の海を追いかけ、途中では承也が空から現れて、莉奈を連れ去った相手から力ずくで奪い返し、船ごと吹き飛ばした。そして今度は、直哉が遠くから派手に迎えに来た。三つの名家の男たちが、こぞって彼女のために動いた形になる。――奈奈はどうしてこうも、男たちを狂わせるほど放っておけない女なのだろうか。浩平の呟きに対し、
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第208話

直哉は「何を今さら」と言いたげな顔をした。「言わなくても分かるだろ。空港に迎えに来ないし、電話もつながらない。何かあったと考える以外にあるかよ」直哉は、莉奈が頭の先から足元までしっかり防寒具を着込んでいるのを見て、ようやく少し表情を緩めた。「承也の野郎も、たまには人間らしいことをするんだな。お前を暖かくしておくことくらいは分かっていたらしい」莉奈は、この二日間の承也の獣のような振る舞いを思い出し、胸の奥のざわつきをどうにか落ち着かせた。直哉はあの日何が起きたのかを尋ねた。莉奈が手短に経緯を話すと、直哉は承也に関わる部分だけを見事に聞き流した。あんな得体の知れない、陰で人の心を刺してくるような男のことなど、直哉にとって気にする価値もなかった。「省之介がお前を助けるために怪我をしたって?礼は言ったのか?」莉奈は小さくうなずいた。直哉は軽く舌打ちし、大げさに頭を抱えてみせた。「そんな大きな借り、どうやって返せばいいんだよ」直哉は省之介に対して悪い印象を持っていなかった。東安市の名家の跡取りたちの中でも、省之介の評判はずば抜けていい。もちろん、省之介が奈奈に好意を寄せていることにも気づいている。神崎家は金にも地位にも困っていない。返せるものがあるとすれば、莉奈本人くらいしか思い当たらない。「奈奈が返す必要はないよ」背後から、温かくも弱々しい声がした。直哉と莉奈が振り返ると、省之介がドアの前に立っていた。二人のボディーガードに支えられ、大きなコートを羽織っているが、その顔色はひどく蒼白だった。直哉は思わず、省之介の負傷した胸のあたりへ目を落とし、険しく眉を寄せた。省之介の血の気のない唇が、かすかに動く。「父が犯した過ちだ。僕が弾を受けたのは、父の罪を引き受けるためであって、奈奈とは関係ない。僕が奈奈を守りきれなかっただけなんだ」省之介は莉奈をまっすぐに見つめた。莉奈の胸がぎゅっと締めつけられる。省之介が自分を助けるために負傷したことは事実だ。その恩と感謝は、簡単な言葉で片付けられるものではない。けれど、厳明の最初の目的は、莉奈を無法地帯であるこの境界地帯へ放り出すことだった。莉奈が風牙に目をつけられていると知りながら、あえて危険な場所へ投げ込もうとしたのだ。もし後から承也が駆けつけていなけ
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第209話

「いつまで他人の腕ん中に居座ってんだよ。こっちへ来い。東安市に戻ってあの美月さんに見つかりでもしたら、今度は何されるか分かったもんじゃないぞ」直哉がツンツンと莉奈の腕をつついた。莉奈は承也の胸元から、ふんっと力を込めて自分の頭を引っこ抜いた。莉奈の片耳はまだ承也の大きな手のひらで塞がれたままで、もう片方の耳は彼の分厚い胸にしっかりと押しつけられていた。外では断続的に爆発音が轟いており、直哉が何か文句を言っているようだが、莉奈にはまったく聞き取れていなかった。だが、直哉の言葉は一字一句違わず、承也の耳にはっきりと届いていた。その時、通信イヤホンから上空のヘリ指揮官の声が入った。「椎名社長、先に空域を離脱してください。こちらで後方を押さえます」承也は機体の窓から広い海を見下ろした。ヘリが高度を上げるにつれて、小島の反対側に停泊している数隻の船が、少しずつその姿を現し始める。承也は氷のように冷えた声で告げた。「相手にする必要はない。黒崎がこちらの足を止めるために仕掛けた陽動の可能性が高い。短時間で片づけろ」承也はさらに続ける。「この機体を守れ。あの三隻のうち、左の一隻目と二隻目はそちらでやれ。右の一隻は、俺がやる」右側に停泊している船は、明らかに敵の主力だった。しかも、こちらから狙うには最も射線が通りにくい難所にいる。ヘリの指揮官は、かつて承也と生死を共にした戦友だった。肩を並べて戦った経験があるからこそ、承也の狙撃の腕が誰よりも常軌を逸して正確であることを知っている。だから指揮官は、一瞬の躊躇もなく応じた。「了解」承也は通信を切るやいなや、莉奈の後頭部に手を回し、自分の膝の上へ強引に押し伏せた。「伏せていろ」直後、機体のドアがガラリと開け放たれた。唸り声を上げる極寒の海風が、鋭い刃のように機内へ吹き込んでくる。文字通り生死がかかった瞬間だった。莉奈は意地を張って振りほどこうとはせず、言われたとおり承也の膝に伏せたまま、息を潜めて動かなかった。承也は傍らの狙撃銃を手に取り、無駄のない動作で構えた。猛禽類のように鋭い瞳が、スコープの中の極小の一点をピタリと捉える。指は迷いなく、一切のブレもなく引き金へとかかり、わずかずつ、精密な圧を加えていった。次の瞬間、引き金が落ちた。一発
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第210話

承也が淡々と言った。「大人しく座ってろ」莉奈は身体を横に向け、椅子の背にもたれて目を閉じた。隣に座る承也の気配のせいで、最初は胸の奥がざわついて落ち着かなかった。だがそのうち、頭に浮かんできたのは海外支局行きの最終審査のことだった。結果は、おそらくここ数日中に出るはずだ。もう年の瀬だ。年始の休暇が明ければ、自分はE国へ向けて出発することになるだろう。その前に、年末年始の休みの間だけは椎名邸へ戻り、千鶴のそばにいなければ……承也は目を閉じ、浅く休息を取っていた。しばらくすると、彼の耳に、隣から落ち着いた規則的な寝息が聞こえてきた。承也は静かに目を開け、無防備に眠っている莉奈の寝顔を見つめた。……ヘリは椎名グループ系列の病院の屋上に着陸した。承也は、自分の腕の中で莉奈がわずかに身じろぎするのを感じて目を開けた。かすかに震えるその長いまつ毛を見つめながら、莉奈の身体を静かに起こし、もとの座席にもたれ掛けさせる。莉奈はゆっくりと目を開けた。しばらく寝ぼけ眼でぼんやりしていたが、やがてヘリがすでに着陸していることに気づいた。莉奈はあくびをひとつ噛み殺し、隣で眠っているのか目を閉じているだけなのか分からない承也を、何気ないふりをしてちらりと盗み見た。それから立ち上がり、向かいで熟睡している直哉の肩を激しく揺さぶる。「東安市に戻ったわよ!起きなさいよ、この寝坊助!」直哉は莉奈に乱暴に揺り起こされた。屋上には医療スタッフがすでに待機していた。ヘリが着陸すると同時に省之介をストレッチャーへ運び出し、きちんとした治療を受けさせるために足早に連れていった。承也がヘリを降りたところで、悠斗が血相を変えて足早に近づいてきた。その表情は極めて硬い。「社長。お電話が通じなかったため、白崎執事から私のほうへ緊急の連絡がありました……大奥様が、吐血されたそうです」後からヘリを降りてきた莉奈も、その悠斗の報告をはっきりと聞いた。車は椎名邸へ向かって、猛スピードで公道を駆け抜けた。屋敷に着くなり、莉奈は千鶴の寝室へ駆け込もうとした。けれど、白崎執事がその前に立ちはだかり、莉奈の行く手をきっぱりと止めた。「白崎さん、おばあちゃんがどうして急に吐血したの!?どうしてすぐに病院へ運ばないの!?」白崎執事の顔は、ひどく沈痛だ
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