All Chapters of 婚姻生活にさようなら、椎名さん: Chapter 211 - Chapter 220

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第211話

部屋の中では、香炉から細い煙がゆらゆらと立ちのぼり、茶釜の湯が静かに煮えたぎる音だけが響いていた。それ以外に聞こえるのは、千鶴の今にも途切れそうな、ひどく浅い息遣いだけだ。恐ろしいほど静かで、重苦しい空間だった。死の淵に立って、千鶴はようやく合点がいった。承也がなぜあれほど莉奈を手放そうとせず、それでいて誰にも真意の読めない奇妙な振る舞いばかりを繰り返していたのか。承也の心には、間違いなく莉奈の居場所がある。それどころか、彼女の存在は彼にとって……承也は、血の気が失せるほど強く握りしめていた拳を、ゆっくりとほどいた。古い寝台の帳が落とす暗い影が、彼の眉目のあたりに重くかかっている。「……医師を呼んで診せます」千鶴は、ただ弱々しく首を横に振った。千鶴の瞳には、もう生気の光が残っていなかった。残された命のすべてが、次の一息だけでかろうじて繋ぎ止められている状態だった。承也にも、それがもう無意味なことだと分かっていた。この部屋に入った瞬間から、ここにいつもとは違う気配が満ちているのをはっきりと感じ取っていたのだ。「私と約束するのか、しないのかい!」千鶴は残された最後の力で承也の手を強くつかみ、濁った目を限界まで見開いて、その顔をキッと睨みつけた。眼球は飛び出さんばかりで、今にもこぼれ落ちそうだった。「承也……あんたは、私を……死んでも死にきれないまま、逝かせるつもりかい……」千鶴はヒュッと激しく息を吸い込んだ。極限まで張り詰めていた身体が痙攣し、硬くこわばる。頭をのけぞらせた喉の奥から、短く細い、擦れた音が何度も漏れた。承也の漆黒の瞳が、激しく揺れ動いた。承也は千鶴のシワだらけの手を、両手で強く握り返した。掌の中で、千鶴の体温が急速に失われていくのが分かる。承也は身をかがめ、千鶴の耳元に唇を寄せて、低く掠れた声を落とした。「俺と彼女は……」その先に続いた言葉は、胸の奥から血を吐くように無理やり押し出した、ひと言ずつ低く掠れた音だった。それを聞いた千鶴は、ふっと糸が切れたように枕へ倒れ込んだ。垂れ下がった帳を見つめていた目の焦点が少しずつほどけ、重いまぶたがゆっくりと閉じていく。「いい……それで、いいんだ……」……一方、莉奈は白崎執事に部屋の外で止められ、中の音は一切聞こえなかった。重い
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第212話

無情で冷酷な宣告が、氷の刃のように莉奈の心臓を貫いた。「嫌……おばあちゃんに会わせて。お願い、ひと目だけでいいから……!」悠斗は沈痛な面持ちで承也を見た。承也は振り返らない。身体の横にだらりと垂れた手は、骨が白く浮き出るほど強く握り込まれ、冷気さえ滲ませているようだった。悠斗は視線を戻すと、一歩前へ出て、部屋へ駆け込もうとする莉奈の行く手を遮った。低い声で告げた。「奥様、ひとまず外へ出てください」「嫌よ!」莉奈は悠斗の腕を必死につかんで引き剥がそうとし、喉が裂けんばかりの悲痛な声を上げた。「お願い、悠斗さん、通して! おばあちゃんに会いたいの。会わせて、お願いだから……!」悠斗は顔を強張らせ、無言で首を横に振った。そして莉奈の腕をつかみ、強引にその場から連れ出そうとする。たまらず、莉奈は床に泣き崩れるように膝をついた。「中には入らない。入らないから!おばあちゃんを見に行かないから、追い出さないで……弔いの間の外でひざまずいているだけでいいの。遠くから祈っているだけでいいから、ここから追い出さないで……!」莉奈が床に崩れ落ちるのを見て、尚南はサッと顔色を変え、たまらず彼女のほうへ歩み寄ろうとした。だが、琴音がすぐに尚南を制し、足早に莉奈のそばへ歩み寄って、冷たい床から抱き起こした。琴音の顔を見た途端、莉奈の涙が堰を切ったようにあふれ出した。「琴音おばさん……おばあちゃんに会いたいです。お願い、おばあちゃんに会わせて……」「莉奈」琴音は目を赤くして優しく諭した。「今は少し気が動転しているのよ。恐ろしい目に遭って助け出されたばかりで、まだちゃんと休めてもいないでしょう。ひとまず休みなさい。承也もおばあ様の死を受け止めきれなくて、気が立っているの。少しだけ、あの子に時間をあげて。お願いだから、言うことを聞いてちょうだい」莉奈は激しく首を横に振り、ぼろぼろと涙をこぼした。――他人には分からないのだ。おばあちゃんは、自分の父親が承也の両親を死なせたという残酷な真実を知り、もともと弱っていた身体でその衝撃と悲しみを受け止めきれず、亡くなってしまったということを。承也の気持ちが落ち着く日など、きっと永遠に来ない。部屋の中から、再び承也の凍りついた声が響いた。「追い出せ」涙がポロポロと
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第213話

明日は大晦日だ。いつもならこの時期、屋敷のあちこちに華やかな正月飾りが施され、年越しの明るい気配に包まれる椎名邸は、今や冷ややかな白一色の喪に服していた。氷点下十度の極寒の中、分厚く垂れ込めた冬の雲からは一筋の陽光すら漏れてこない。椎名邸の通用口に敷き詰められた青石の畳は、骨の髄まで凍みるほど冷たく硬かった。莉奈は、ただひたすらに過去の記憶を反芻していた。遠い昔、親戚の家で厄介者扱いされていた自分を、千鶴おばあちゃんが自ら迎えに来て、この椎名邸へ連れ帰ってくれたあの日のことを。千鶴は小さな莉奈を力強く抱きしめ、胸を痛めた声で親戚たちに言った。「こんなにいい子を、あの人たちはいらないと言うんだね。なら、私がもらう。私が引き取って、お前たちに目をかっぽじってよく見せてやるよ。奈奈はちゃんと愛される子だってことをね。これからは、うちがこの子の家だ」莉奈が学校でいじめに遭っていると知った夜、千鶴はすぐさま相手の生徒の親たちを椎名邸へ呼びつけて茶を出し、氷のような声で告げた。「椎名家は今後一切、お宅らとは関わりを持たない」莉奈が高熱を出し、朦朧としながら死んだ母を呼んで泣きじゃくった夜は、すでに六十を過ぎていた千鶴が一晩中莉奈を抱きしめ、根気よく薬を飲ませ、身体を冷やして熱を下げようと付き添ってくれた。尚南が莉奈をいじめて泣かせた時、千鶴は尚南に「奈奈様、申し訳ありませんでした」と百回も復唱させた。そのうえで莉奈に言ったのだ。「謝るのはあの子の勝手だよ。でも、うちの奈奈には『許さない』という権利があるのよ」莉奈の成人の日。彼女が身にまとった美しいドレスは、千鶴が老眼鏡をかけ、何冊ものファッション誌を読み込みながら、その手で一針一針仕立ててくれたものだった。その日、莉奈は学校中で一番目を引く、誰とも違うお姫様になった。千鶴は誇らしげに言った。「よその家の子が持っているものは、うちの奈奈も持ってなくちゃいけない。それどころか、もっと多く、もっといいものをあげたいわ。うちの奈奈より綺麗な子なんて、世界中探したってどこにいるっていうの」そして千鶴は、莉奈の目をまっすぐ見てこうも言った。「奈奈、よく覚えておきなさい。あなたは一度だって厄介者なんかじゃない。あなたは天が私にくれた贈り物で、私のこの冷たい心を温めてくれる、本当
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第214話

美月は柔らかい声で言った。「これで拭いたら?」莉奈はそのハンカチを受け取らず、黒い服をまとった美月を冷ややかに見返した。桜井家と椎名家には古くからの付き合いがある。美月がこの場にいること自体は、別に不思議なことではなかった。「ここにはほかに誰もいないわよ。あなたの芝居を見てくれる観客なんて一人もいないわ。美月、そんなに暇ならその病気を治しに行ったらどう?」美月は莉奈の皮肉を事もなげに受け流し、不思議そうに首を傾げた。「おばあちゃんはあんなにあなたを可愛がっていたのに、どうして最後のお見送りもせずに、こんなところに隠れているの?」「あなたがいない時、他家の方が承也に聞いていたわ。莉奈さんはどこにいるのかって。承也が何て答えたか、知ってる?」莉奈は不快感を露わにし、車のドアを開けて乗り込もうとした。けれど、識子がドアを外から押さえ、莉奈に開けさせなかった。体格のいい相手に、莉奈の力では到底太刀打ちできない。美月の口元に、勝ち誇ったような笑みが浮かんだ。「承也は、大勢の前ではっきりと言ったの。椎名家に莉奈という妻は存在しないって。彼はあなたを妻だと認めていないのよ」その時、横から現れた直哉が、識子を容赦なく蹴り飛ばした。「汚い手で奈奈の車に触んじゃねえよ」直哉は冷徹な目で美月を射抜いた。その口元には、はっきりと嘲りの色が浮かんでいる。「承也が奈奈を認めないって言うなら、あいつにお前を認めさせてみろよ。部外者のくせに、奈奈の前で偉そうにすんな」直哉は地面に転がった識子を指さした。「その桜井の狂女を連れて、とっとと失せろ」識子は蹴り飛ばされたものの、相手が佐伯家の直哉だと分かると、言い返すことすらできなかった。みっともなく立ち上がり、逃げるように美月の後ろへ隠れた。直哉は莉奈を乗せて車のドアを閉めると、正面を回って運転席に乗り込んだ。荒々しくエンジンをかけ、そのまま現場を走り去った。……千鶴は椎名家の先代当主と同じ墓所に葬られた。そこは椎名家が代々守ってきた、東安市の東郊にある霊園だった。そこから少し離れた別の丘で、莉奈は地面に膝をつき、千鶴が眠る方角へ向かって深く、深く頭を下げた。直哉は何も言わず、静かにそのそばに寄り添っていた。莉奈が立ち上がると、直哉が口を開いた。「家に帰ろう」「家?
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第215話

リビングのテレビでは、年越し特番が流れていた。夕食のあと、直哉は使用人を呼んでダイニングをきれいに片づけさせ、さらに年越しの飾りつけまでさせていた。豪奢な飾り紐、縁起物の壁飾り、窓辺を彩る華やかな装飾、玄関まわりに据えられた祝いの品。どれも目を引くほどきらびやかで、部屋の中は年越しらしい華やかさに満ちていた。それなのに、空間にはどこか沈んだ空気が漂っていた。祝いの浮き立つような気配など、少しもない。テレビから響く観客の笑い声が、かえって部屋の静けさと、人の気配のなさを際立たせていた。莉奈の顔に、一瞬だけ気まずそうな色が浮かんだ。赤い目元のまま無理に笑い、誤魔化すように首の後ろへ手をやる。「私、セレブ妻だもの。どこで年を越したって同じよ。どうせ、どこにいたって一緒だし」潤んだ瞳には細かな光が揺れている。もこもことした部屋着のポケットの布越しに、中で強く握りしめられた拳がかすかに震えているのが見えた。壇将はスマホを莉奈の目の前へ差し出した。【外へ出るか?】莉奈はその文字を見て、わずかに固まった。それから壇将の深い褐色の瞳を見上げ、小さく頷く。壇将には家族がいない。いつも一人で動き、一人で年を越す。そう考えれば、彼は莉奈よりもずっと寂しい境遇なのかもしれない。莉奈が着替えて部屋から出てきた時、壇将はまだドアの外に立っていた。さっき部屋に入って座るように勧めたのに、結局中には入らなかったのだ。本当に、頑固な人だ。莉奈は玄関で防寒ブーツを履き、外へ出ようとした。その時、壇将がふいに手を伸ばし、玄関のフックに掛かっていた生成り色のマフラーを取って、莉奈へ差し出す。莉奈の胸が少し温かくなった。手を伸ばして受け取る。「ありがとうございます」下へ降りると、莉奈は壇将の大型SUVに乗り込み、直哉へメッセージを送った。【Jさんが少し外へ連れ出してくれるの。急いで戻ってこなくていいから、お爺様とゆっくりして。お爺様、年越し特番のコントが好きでしょう?番組表を見たら、あと三十分くらいで好きな芸人さんが出るみたいだから】莉奈が壇将から護身術を習っていた頃、直哉は廷治と一緒に壇将のことを「Jさん」と呼んでいたのだ。しばらくして、直哉から返信が来た。【分かった。Jさんが一緒なら安心だ。少ししたらそっちへ行くから、あまり遠くへ行くな
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第216話

承也の前に立った瞬間、莉奈は全身が火照るような気がした。承也はタバコをくわえていた。任務から戻ってきてから髪は少し伸び、かつてのように短く刈り込まれてはいない。それでも顔立ちの鋭さは少しも変わっていなかった。「昔みたいには呼ばないのか」莉奈はわざとその問いを聞き流し、手に持っていたものを少し掲げた。「線香花火がしたいの」承也は莉奈が差し出した線香花火に目を落とし、鼻で笑った。「いくつだと思ってるんだ」口では呆れたように言いながら、承也はタバコを口元から離し、火のついた先を線香花火へ近づけた。ジジッ、と小さな音がして、線香花火に星のような光が灯った。莉奈が目を上げると、星のような火花の向こうで、承也の冷えた黒い目と視線がぶつかった。少女の浮き立つような気持ちは、きっと目元にも眉にも出ていたのだろう。莉奈が唇をゆるめて笑った途端、なぜか承也は不機嫌になった。タバコを消し、背を向けて行ってしまった。腕に軽く触れられ、記憶の光景が裂けるように消えた。莉奈が振り返ると、壇将がスマホを差し出していた。【やりたいのか?】莉奈は首を横に振り、別の方向を指した。声は静かだった。「天灯を飛ばしたい」壇将が莉奈の指すほうを見ると、浜辺の少し向こうに屋台が出ていた。そのそばでは、誰かが天灯に火を入れている。最初はぺしゃんこにしぼんでいた紙の天灯が、火が入るにつれて少しずつ形を張らせていく。恋人らしい二人がそっと支えると、天灯はふわりと夜空へ上がった。そちらへ歩いていく人がだんだん増え、空に浮かぶ天灯の数も増えていった。莉奈は屋台の前に立ち、天灯を四つ選んだ。スマホで支払おうとするより先に、壇将が財布を取り出し、店主へ紙幣を三枚渡した。莉奈が何か言おうとした時、壇将はポケットから真っ黒なライターを取り出し、人のいない別の方向を指した。あちらへ行こうという意味だ。莉奈はうなずき、それから店主に黒いマーカーを一本借りた。莉奈は天灯に字を書き終えてから、壇将のそばへ戻った。壇将は、莉奈が字を書いた三つの天灯を広げるのを手伝った。そこに書かれた文字を見た瞬間、壇将の目が止まる。【おばあちゃん、ごめんなさい。会いたいです】【おじ様、ごめんなさい】【おば様、ごめんなさい】莉奈は壇将の複雑な視線に気づかず、うつむい
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第217話

周囲からは波の音と人々の笑い声が聞こえてくるが、この片隅だけは異常なほど静まり返っていた。莉奈には、なぜ壇将が子どもへの天灯を飛ばすなと言うのか理解できなかった。あの子に対して、彼女の心は後悔と未練でいっぱいだった。壇将の指先が、スマホの画面にゆっくりと一行の文字を打ち出した。【去っていくお子さんに良くないと聞いた】壇将の言葉に対しては、莉奈も廷治も驚くほど同じ反応を示す。それは「無条件に信じる」ということだ。「そうなんですね」莉奈は手の中の天灯とマーカーを交互に見つめ、最後に決心した。「じゃあ、この天灯は祈願のために使います」彼女は天灯に一文字ずつ、ゆっくりと願いを書き記した。【私の想う人が、皆無事でありますように】「壇将さんも、何か書きたいことはありますか?」彼女はマーカーを壇将に差し出した。差し出した直後、莉奈はハッとした。壇将のような無愛想で冷淡な人間が、こんな感傷的なことをするはずがない。しかし予想に反して、壇将は手を伸ばし、そのマーカーを受け取った。莉奈は自分の隣にしゃがみ込んだ男を見つめた。マーカーを握る左手に目を落とし、微笑んで言った。「壇将さんって、左利きだったんですね」壇将は軽く頷き、彼女の書いた願いの横にゆっくりと筆を下ろした。【比翼連理】その筆跡は力強く、まるで雄大な大樹のように堂々としていた。莉奈は縦書きにされたその言葉を見つめた。壇将がこんなにも達筆だとは思わなかった。この美しい言葉には、彼のような見事な字がよく似合う。しかし、この言葉は本来、夫婦の永遠の契りと深い愛を表現したものだ。壇将は孤独な身の上のはずだ。 ただの新年の願いなのだから、深読みするのはやめておこう。この一文は、友人に対して使っても何らおかしくないのだから。「よし、じゃあ一緒に空へ飛ばしましょう」莉奈は地面から立ち上がった。壇将が天灯の底を支え、莉奈も両手を天灯の側面に添えた。天灯がゆっくりと夜空へ昇っていくのを見上げながら、莉奈は深く息を吐き出した。新しい一年、二度と周りの大切な人を失うことがありませんように。「壇将さん、私たちの願いが叶うといいですね。あけましておめでとうございます」壇将は顔を向け、隣で空を見上げる女の横顔を見つめた。彼女の目はまだ真っ赤だったが、その口角には自然な笑みが
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第218話

その頃、汐見ヶ丘のマンションの一角では、人知れず激しい制圧戦が繰り広げられていた。やがて三台の黒いセダンが汐見ヶ丘の敷地を素早く離れ、東安市南区にある一棟の別邸へ入っていった。悠斗は車のドアを押し開けて降り、手首を軽く回した。声は冷たい。「中へ連れて行け」別邸の地下室にて。黒い服をまとった承也が、黒いソファに座っていた。目の前のテーブルには、黒いキャップとマスクが置かれている。承也は手の甲に貼っていた偽の傷跡を、ゆっくりと剥がしていた。物音がしても、まぶたをわずかに上げただけだった。悠斗は一人を引きずってきて、承也から三メートルほど離れた床へ放り出した。残りの四人も、ボディーガードたちによって次々と同じ場所へ投げ出された。悠斗は脇に立った。「社長、全員生け捕りです」承也は冷えた声で短く応じた。最後の偽の傷跡を剥がしてから、ようやく床に転がる者たちへまともに目を向ける。ソファにもたれたままの目は、凍るほど冷たかった。彼は真っ黒なライターを手に取り、立ち上がって外へ歩き出した。薄手のカシミヤセーターに包まれた広い肩へ、照明の光が落ちている。承也はうつむいて煙草に火をつけ、ライターの火を振り消した。「お正月だ。血は流すな」その言葉が落ちた瞬間、悠斗は壁に掛けられていた鉄パイプを一本取った。ボディーガードが地下室の扉を閉める。地下室の中でどれほど悲鳴が上がっても、外へは少しも漏れなかった。十分後。床の五人に血は見えなかった。だが、全員がボロ雑巾のように床へ崩れ落ちていた。悠斗は鉄パイプを放り、ボディーガードから温かいタオルを受け取って手を拭いた。それから地下室を出て、リビングへ戻る。承也はソファに座り、手にグラスを持っていた。「社長、口を割らせました。報酬の出どころは、おばあ様に届いたあのメールと同じく境界地帯です。ただ、同一人物かどうかはまだ断定できません。報酬が振り込まれた口座はすぐ調べさせましたが、ダミー口座でした」境界地帯。承也の目の奥に、冷たい光が走った。グラスに残った酒を一息で飲み干す。「続けて調べろ」……午前一時を過ぎても、東安市の夜空には花火が咲いていた。西苑の洋館の二階、床まで届く大きな窓の前で、美月はスマホの時刻を見て、冷たく笑った。メッセージアプリを
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第219話

「お前がやったのか!」部屋の中で、琥珀色の灯りがひとつ点いた。尚南の顔が、すぐ目の前にあった。怒りで歪んだその顔は凄まじく、美月の首を強く締め上げている。「お前がおばあちゃんに知らせたんだろう!」美月は首を締められ、まったく息ができなかった。死がすぐそこまで迫る瞬間に、何も感じずにいられる人間などいない。けれど美月は、まるで亡骸のように、冷たい目で尚南を見返していた。息ができず、顔が赤く染まっているのに、美月はそれでも唇の端をかすかに上げた。ぞっとするような感覚が尚南の胸に這い上がった。火にでも触れたかのように、尚南は勢いよく手を引いた。大量の空気が喉へ流れ込み、強い刺激に美月は首を押さえて咳き込んだ。美月は咳き込みながらも、まっすぐ尚南を見据えた。声は掠れている。「ババアが一人死んだだけで、どうしてそんなに興奮しているの?」尚南の顔が冷たく沈んだ。ババア。子どもの頃から、尚南は千鶴がひどくえこひいきをしていると感じていた。本家の跡取りだの、長男の血筋だのと言ったところで、結局は承也の両親が早くに亡くなり、承也が千鶴のそばで育ったからだ。千鶴は承也を哀れんで、いいものは何もかも承也に与えた。椎名グループ!当主の座!そして、莉奈!尚南は恨んでいた。承也の両親が亡くなったあと、椎名グループを動かしていたのは尚南の父だった。なのに承也が任務から戻ってきた途端、なぜ千鶴は父にトップの座を譲らせたのか。その座はもともと承也のものだからという、聞こえのいい理由をつけて……しかも、あの腰抜けの父は本当にグループのトップの座を承也へ返した。地位を争えないなら、それでもいい。いずれ自分の力で承也から奪い取ればいいだけだ。だが、莉奈はどうだ。莉奈が承也に嫁ぐ前、尚南は千鶴のもとへ行き、莉奈と結婚させてほしいと頼んだ。けれど千鶴は認めるどころか、ほどなくして莉奈が承也に嫁ぐという知らせを出した。千鶴は、尚南と莉奈は合わないという言い訳で、尚南を退けた。尚南は、千鶴が自分をそうして冷遇したことを恨んでいた。それでも、千鶴のえこひいきをどれだけ恨んでいても、千鶴は尚南のおばあちゃんだった。だから尚南は、向井家のことを一度も千鶴に話さなかった。千鶴の身体が耐えられないと分かっていたからだ。「
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第220話

尚南は拳を強く握りしめた。その人物は、風牙だった。当初、尚南が知っていたのは、承也が裏で向井家を調べているということだけだった。だが承也はあまりにも慎重で、わずかな噂すら外へ漏らさなかった。その後、風牙が尚南に莉奈を殺せと持ちかけた時、尚南はひと芝居打ち、莉奈をネット上で大きく取り上げさせた。莉奈の身分を表に出し、風牙に手を出すのをためらわせるためだった。ところが、莉奈が承也の妻だと知った風牙は、思いがけず嘲るように言った。「承也が、仇の娘を妻にするはずがないだろう」その言葉を聞いた瞬間、尚南の背中には冷たい汗が流れた。問い詰めてようやく、伯父と伯母が亡くなった当時の真相を知った。当時、十代だった風牙は、まだ境界地帯で使い走りをしている下っ端にすぎなかった。だが頭が切れ、手段も冷酷だったため、境界地帯を仕切る男に目をかけられ、そばに置かれるようになった。風牙は境界地帯で、文彦が密かにその男を訪ねてきたのを見ていた。さらに、文彦が電話でその男に、計画どおり景久とその妻を死なせた、と告げるのを自分の耳で聞いていた。尚南が、承也と風牙の間にある因縁を知ったのも、その時だった。十年前、風牙は境界地帯で勢力を広げ始めたばかりだった。だが、潜入していた承也に罠を仕掛けられ、組織は大きな痛手を負った。立て直すまで、何年もかかった。風牙ほど執念深く、やられたことを忘れない男が、このまま引き下がるはずがない。承也本人に手を出せないなら、必ず承也の周りにいる者を狙う。本当に風牙なのか。もし本当に風牙の仕業なら、莉奈も危ないのではないか。そうだとすれば、あの時ネットの世論を利用して、莉奈が承也の妻だという身分を表へ引きずり出した尚南自身が、莉奈を危険にさらしたことになる。尚南は壁にもたれ、タバコに火をつけた。フィルターを噛みしめ、苛立ちを押し込むように煙を深く吸い込む。尚南は美月を睨み、警告した。「あの件をおばあちゃんに話したのが本当にお前なのか、必ず調べる。その前に言っておく。奈奈には手を出すな」美月は胸の内で冷たく笑った。尚南という愚か者は、承也と莉奈の関係が壊れれば、自分がその隙に入り込めるとでも思っているのだろうか。尚南はまだ知らない。莉奈がもうすぐE国へ発つことを。美月は穏やかに言った。「もちろんよ
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