All Chapters of 婚姻生活にさようなら、椎名さん: Chapter 191 - Chapter 200

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第191話

時間だけが、音もなく過ぎていく。廷治は、自分の心臓が刻む一秒一秒を数えていた。力の入らないまぶたを、廷治は一度閉じた。これが壇将なら、とっくにあの合図に気づいて、自分を見つけてくれているはずだ。やっぱり悠斗は朴念仁だ。こんな合図も分からないなんて……そのとき、轟音が響いた。船室の扉が、外から力任せに蹴り破られる。薄暗い光の中、逆光を背負った大きな影が、廷治の前に現れた。廷治は一瞬固まり、心の中で思わず叫んだ。助かった!「Jさん……」その影が素早く動いた。背後から追ってきた黒服の護衛が、鋭い回し蹴りを受けて吹き飛ぶ。そこでようやく、廷治は相手の顔を見た。悠斗だ。壇将ではなかった。悠斗は無表情のまま廷治の前まで歩み寄り、片膝をついた。血の匂いに気づいた瞬間、わずかに顔色が変わる。掌が迷いなく廷治の腹部へ伸び、傷の位置を探り当てた。悠斗は、失血で青白くなった廷治の顔を見据えた。「襲われてから、どれくらい経っていますか?」そう尋ねながら、悠斗はスマホを取り出し、すぐに電話をかけた。廷治は悠斗を見た。悠斗は、「何があったのか」などと悠長なことは聞かなかった。最初から、すでに非常事態が起きていることを前提に行動している。なぜか、その淡々とした冷静さがひどく頼もしく感じられた。廷治も少しだけ落ち着きを取り戻し、必要なことだけを短く伝えた。「僕たちが乗船して三分ほど経った頃です。向井さんが洗面所へ行ったきり戻らず、僕は外で不意打ちを受けました」悠斗は電話越しに承也へ報告した。廷治の言葉が、そのままスマホの向こうにいる承也の耳へ届いていく。電話を切ると、悠斗は廷治の服を裂いた。船の上で銃を使えば音が目立ちすぎる。廷治の腹の傷は、鋭利な刃物によるものだった。船室の外から、乱れた複数の足音が近づいてくる。悠斗の耳が、かすかに動いた。悠斗は立ち上がると同時に、廷治の頭をポンと軽く叩いた。「ここで待っていてください」そう言って、悠斗は船室の扉を閉めた。外では、すぐに激しい乱闘の音が始まった。拳が肉を打つ鈍い音。骨が軋むような音。短い悲鳴。けれど、悠斗の声だけは一度も聞こえない。廷治の全身に、ぞわりと鳥肌が立った。子どものように自分の頭を軽く叩いた悠斗のさっき
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第192話

突然、小型ボートが大きく進路を変えた。 跳ね上がった波しぶきを引き裂くようにして、猛スピードで逃げるクルーザーの正面へ回り込む。 次の瞬間、すさまじい轟音が響いた。 二隻の船体が激突し、クルーザーが激しく揺れる。 手足を縛られていた莉奈の体は投げ出され、船内に積まれていたライフジャケットの山にぶつかった。衝撃はいくらか和らいだものの、ただでさえ荒れていた胃から酸っぱいものがこみ上げ、莉奈の顔色はさらに青白くなった。 クルーザーにいた男たちも、予期せぬ衝撃であちこちへ倒れ込んだ。 船の足が、無理やり止められた。 省之介は赤くかじかんだ両手で、操縦桿を強く握りしめていた。浮き上がった骨のあたりの皮膚が裂け、血がにじんでいる。 省之介は窓越しに、床に倒れている莉奈を見て、心臓が激しく震えた。 省之介は操縦桿から手を離した。小型ボートからクルーザーへ飛び移り、手すりをつかんで身を翻す。そのまま甲板へ降り立った。 銃を構えた数人の男たちが、立ち上がって省之介の前に立ちはだかる。 「省之介様、俺たちはあんたと揉める気はない。引き返してくれ」 海の上では電波が届きにくい。父からの指示が、まだこの男たちに入っていない可能性がある。 省之介はそこに賭けた。「取引はもう終わった。お前たちはもう行っていい」 案の定、男たちは戸惑ったように互いに顔を見合わせた。 その隙に、省之介は横をすり抜け、船室へ入った。 床に倒れている莉奈を抱き起こす。「奈奈!」 「命が惜しくないんですか!」莉奈は、さっき省之介がこのクルーザーへ命がけで体当たりした瞬間を思い出し、まだ胸が震えていた。 たとえ省之介の想いに応えられなくても、彼は幼い頃から知っている頼れる兄のような人だ。 莉奈は、省之介が自分のために死地に飛び込む姿など見たくなかった。 省之介の中に残っていた自制も理性も、この瞬間、すべて崩れ去っていた。 その瞳は、莉奈への心配と痛みでいっぱいだった。「そんなことまで考える余裕なんてなかった」 あのとき、省之介の頭にあったのはただ一つだけだった。 ──何が何でも、このクルーザーを止めること。 省之介はそこでようやく、自分が氷水のように冷たい海水をかぶり、全身ずぶ濡れになっていることに気づいた。 省之介
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第193話

海の上を飛ぶように進むクルーザーは、国境の灯台へどんどん近づいていた。クルーザーに乗った数人の男たちは銃を持ち、交代で船室の中を見張っている。省之介と莉奈から、片時も目を離さない。「しっかり見張ってろ。しくじるなよ」少し年かさで、荒っぽい顔つきの男が、まだ二十歳にもならないような若い男に命じた。若い男は背を向けた相手に小声で悪態をついた。「海の上で、しかも俺たちの手の中だぜ。あいつらに何ができるってんだよ。こっちには銃もある。変な真似をしたら、一発で吹っ飛ばしてやる」「用心に越したことはない」若い男は聞き流した。二階へ上がっていく男の背中を見ながら、つまらなさそうに口を歪める。こいつらは、こういう退屈な見張りばかり自分に押しつける。自分たちは楽をすることしか考えていない。この果てしない海の上で、助けを呼んだところで誰も来るはずがない。省之介たちにできることなど何もないと、若い男は完全に高をくくっていた。若い男は銃を抱えたまま、船室の扉にもたれかかった。大きなあくびを一つし、うとうとし始める。あと二十海里も進めば、境界地帯に近い海域へ入る。そこは風牙の縄張りだ。この向井莉奈を風牙に引き渡せば、自分たちの先は明るい。出世も金も、いくらでも転がり込んでくるはずだ。若い男はもう、東安市に戻ったあとのことを想像していた。使い切れないほどの金。いくらでも寄ってくる女。底辺だった自分の人生も、これで一発逆転だ。そう思うだけで、若い男はまた気の抜けたあくびを漏らした。省之介は、小指を傷めた右手で莉奈の肩を支えた。莉奈が少しでも楽な姿勢で壁に寄りかかれるよう、静かに体勢を変えさせる。省之介が体を離そうとわずかに動いた瞬間、莉奈は慌てて彼の袖をつかんだ。声は出せない。ただ、必死に止めるように首を横に振る。あの男たちは銃を持っているのだ。省之介は素手だ。それに、格闘の専門家でもない。どうやって、あんなマフィアたちとやり合うつもりなのか。最初のうちは、相手も省之介が神崎家の次男であることを考慮して、それなりに手加減していたかもしれない。だが本気で追い詰めれば、剣の刃を渡って生きてきた裏社会の人間たちは、必ず残酷な本性をむき出しにする。省之介の骨まで冷え切った手が、莉奈の手の甲を軽く叩いた。声は出さず
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第194話

省之介は最後の段を上がり、曲がり角の壁の陰に身を隠した。横目で中の様子をうかがうと、奥にいる二人は話せば話すほど調子に乗り、口にする言葉もますます下劣になっていた。冷たい汗が一滴、省之介のこめかみを伝った。確かに、三人が上へ行くのを見たはずだ。なぜ二人しかいない。もう一人はどこへ行った。そのとき、さっき若い男に指図していた荒っぽい顔つきの男が、椅子から立ち上がった。だらしない笑みを浮かべ、下心もあらわに両手をこすり合わせる。「ちょっと下の様子を見てくる。ついでにあの女に触って、少しばかり感触だけでも楽しんでくるか」省之介の顔色が変わった。もう間に合わない!バン!バン!バン!二階から響いた怒号と凄まじい銃声が混ざり合い、階下にいた莉奈の心臓は凍りついた。突然、一人が階段を転がり落ちてきた。見えたのは、見慣れた端正な顔だった。莉奈は全身が総毛立つような恐怖に襲われた。彼女は這うように駆け寄り、胸元から血を流している省之介を、血の気の失せた顔で見つめた。「省之介さん!」省之介は胸元を必死に手で押さえ、莉奈に傷を見せまいとした。床についた手の甲には青筋が浮き、どうにか体を起こそうとしている。荒っぽい男が二階からゆっくりと降りてきた。手には、まだ銃口から煙を上げている銃が握られている。男は床に唾を吐き捨てた。「クソが。俺たちに向かって撃ちやがって。ここがまだ東安市だとでも思ってんのか」男はチャンバーに弾を送ると、腕を上げ、省之介の頭へとどめの一発を撃とうとした。「やめなさい!」莉奈は省之介の前へ飛び出し、自分の体で彼を庇った。恐怖で胸が激しく上下している。「あなたたちは私を黒崎さんに引き渡して、褒美をもらうつもりなんでしょう?私が死んだら、黒崎さんに何を差し出すつもり!」「奈奈、だめだ……!」省之介は荒く息を吐きながら、莉奈を自分の背後へ引き戻そうとした。突然、男が莉奈の襟元を乱暴につかみ、床から引きずり起こした。莉奈の首筋へ顔を寄せ、深く息を吸い込む。かすかに漂う香りに煽られたように、男はさらに顔を近づけ、いやらしい笑いを漏らした。「こいつを助けたいのか。いいぜ。俺の相手を一回しろ。そうしたら、こいつの命は助けてやる」男は莉奈の顔の前で銃をちらつかせた。省之介が血を吐きな
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第195話

莉奈は床に倒れた二人の男を呆然と見つめたまま、動けなかった。死んでいる。莉奈は船室の窓のすぐそばにいる。撃ち抜かれた窓の穴から海風が吹き込み、髪を乱した。まだ震えている指で、目にかかった髪を押さえる。顔を上げた瞬間、クルーザーの上空に静止する黒い大型ヘリコプターが見えた。開いた機体の扉のそばには、黒い防水ジャケットを着た背の高い男が立ち、重厚な狙撃銃を構えている。これほど離れていれば、普通は顔までははっきり見えない。けれど莉奈は、スコープの奥で光るその漆黒の瞳の持ち主を一目で見分けた。心臓が、その瞬間だけ、狂ったように跳ねた。承也……!あの人が……通信ヘッドセットから、操縦席でヘリを操る悠斗の声が入った。「社長、境界地帯の海域へ入りました」海面には、一隻の不気味な船が音もなくクルーザーへ近づいていた。完全に距離を詰めてから、ようやく甲板の灯りがつく。最初からここで待ち伏せていた、マフィアの迎えの船のようだった。承也の視線は、その船に掲げられた特殊な紋様の旗を鋭く捉えた。顔が冷たく沈む。風牙の手の者だ。彼は顔を上げ、黒い雲がうねる空を一瞥した。空気の流れが異常に速い。急激に下がる気圧のせいでヘリコプターは少しずつ高度を落としており、静止を保つのが難しくなっていた。同時に、狙撃の難易度も跳ね上がっていく。嵐は、もうすぐこの海域を完全に飲み込む。承也は低く命じた。「速戦即決だ」その一言で、機内で控えていたボディーガードたちが一斉に臨戦態勢に入った。銃口がそろって下の船へ向く。彼らの一部は、承也がエージェント組織のエースだった頃の同僚であり、残りは母方の祖父が古い伝手で集めた精鋭だった。その瞬間、照準器の奥にある承也の黒い瞳が鋭く凝った。狙撃銃を握る指に、ギリッと骨が浮き上がる。クルーザーには、まだ一人、男が隠れていた。その男は今、莉奈の額に銃口を強く押し当て、もう片方の手で莉奈の腕をつかみ、船室から甲板へ引きずり出している。莉奈は男に身柄を押さえられたまま、上空のヘリコプターのほうへ向けられた。男には分かっていた。目の前のこの女こそが、自分にとって最強の盾になる。人質を密着させている限り、ヘリの連中は絶対に撃てない。ヘリコプターの上では複数の狙撃手がその船を狙い、船内のマフ
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第196話

承也は莉奈を自分のそばへ引き寄せ、クルーザーの位置情報システムを開いた。 莉奈が画面を見ると、地図にはこの近くに島が一つ表示されていた。嵐が来る前に、そこへ上がって避難できる。 こんな暗い海の上で、承也はどうして近くに島があるとすぐに分かったのだろう。 けれど今、莉奈にとって一番気がかりなのは省之介の容体だった。船室へ行って、様子を見なければならない。 莉奈が足を踏み出そうとした瞬間、操縦席に座る承也が長い脚を伸ばし、莉奈の行く手を完全に塞いだ。承也は前を見たまま、片手で荒れる波に逆らって舵を操っている。 「どこへ行く」 承也の声は冷たい。 莉奈の脚が、承也の硬い膝に触れた。 莉奈は、いつの間にか厚手の防水コートを羽織らされていた。さっきまで氷のように冷え切っていた体に、少しずつ温度が戻ってきている。「省之介さんの様子を見てくる。撃たれたの」 「君に弾が取り出せるのか」 承也の顔色は、声と同じように冷えていた。 莉奈は一瞬言葉に詰まり、首を横に振った。「そんなこと、できるわけないじゃない」 「手当ての道具は持っているのか」 莉奈はまた首を横に振った。 そんなもの、持っているはずがない。承也はわざと意地の悪いことを言っているのだ。不可能なことばかり並べて、莉奈を足止めしようとしている。 「なら、行って何になる。そこにいろ」 承也が言い終えた直後、大きな波がクルーザーを横から叩いた。船体が激しく持ち上がり、莉奈はバランスを崩し、承也の脚に行く手を塞がれていたせいで逃げ場がなく、そのまま承也の膝の上へ倒れ込んだ。 承也は自然な動きで莉奈の腰を抱き寄せ、片手で舵を握り続けた。耳元で、莉奈が一瞬息を止め、それからゆっくり吐き出す気配がした。 クルーザーは波に揉まれ、莉奈の体は何度も承也へぶつかった。承也が太腿を引き寄せると、莉奈の体も横へ流され、柔らかな胸元が承也の硬い胸に押し当てられる。 承也は表情を変えず、ちらりと視線を落とした。 莉奈は不意に、底の見えない黒い瞳と目が合った。慌てて視線をそらす。 クルーザーがひときわ大きく揺れたとき、莉奈の顎が承也の首元にぶつかった。承也はそのまま莉奈の頭を押さえ、自分の首筋へ寄せる。 二人の左胸が、ぴたりと重なった。 心臓が、これまでに
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第197話

黒く重たい空と荒れ狂う海がひとつにつながり、巨大な闇の幕が広がって、すべてを呑み込もうとしていた。莉奈は世界の終わりを思わせるようなその光景を見つめ、恐怖で心臓を激しく波打たせた。「嵐が来ます。急いでください!」悠斗の鋭い号令で、ボディーガードたちは素早くクルーザーから島へ撤収した。承也も、強風に煽られれば今にも吹き飛ばされそうな莉奈をしっかりと抱え込んだまま、小屋の中へ駆け込んだ。最初、屋内は携帯用のタクティカルライトの光に頼るしかなかった。幸い、この島の灯台が放棄されてから、それほど長い年月は経っていないようだった。故障していた古い発電機を悠斗が手際よく修理すると、小屋にパチリと明かりが戻った。以前この小屋を拠点にしていた者たちは、よほど慌ただしく去ったらしい。開け放たれた戸棚には衣服が散乱し、食卓には埃をかぶった食器類がそのまま放置されている。皿の中で黒く干からびているのは、当時の食べ残しだろう。ただ、小屋の中は殺風景で、物はそれほど多くなかった。そのぶん、ボディーガードたちがスペースを片付けるのは早かった。省之介は一階の仕切られた奥の部屋へ運ばれ、二つのテーブルをつなぎ合わせただけの即席の「処置台」に寝かされた。莉奈が心配して中の様子を覗き込もうとした瞬間、承也の大きな体がすかさず前に立ちふさがり、視界を完全に遮った。承也は無表情で言った。「悠斗が弾を取り出すには、服を脱がせる必要がある」莉奈には、承也がわざわざそんな生々しい説明をして自分を遠ざける理由が分からなかった。ただ、今は省之介の容体が心配でたまらない。「……分かった。外で待ってる」「社長、二階は簡単に片付けました。ただ、ベッドはしばらく使われていなかったようで……」承也はそばで強がって立っている莉奈を横目で見ると、軽く手を上げてボディーガードの報告を遮った。「寝袋を持ってこい」小屋に残された椅子はどれも朽ちて壊れていた。莉奈は身に掛けられた承也の厚手のアウターをきつくかき寄せ、疲労から壁にもたれかかろうとした。その瞬間、不意に腰に強い腕が回り、背中に男の硬い胸がぴったりと密着した。莉奈の体がビクッとこわばる。振り返らなくても、この圧倒的な存在感の主が誰かは分かる。急に跳ね上がった自分の鼓動に戸惑い、莉奈はぎゅっと目を伏せた。承
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第198話

莉奈は唇も歯も震えていた。承也は強引にその唇を割り、荒々しく絡め取った。承也は莉奈のうなじを押さえ、額を莉奈の額に押しつけた。低くかすれた声が、噛みしめた歯の隙間から漏れる。「あの屑どもは、君に触ったのか」承也の熱い息が、莉奈を呑み込むように覆った。莉奈は何もかも忘れてしまったように、ただ本能のまま答えた。「いいえ……」承也は莉奈の赤く潤んだ目元を見つめた。莉奈が何か言おうと口を開いた瞬間、承也の呼吸が乱れ、もう一度顔を伏せる。血の気を取り戻した莉奈の唇を、塞ぐように強く吸い上げた。白い小屋の外では、暴風が大雨を巻き込んで吹き荒れていた。何メートルもの海水が岸へ叩きつけられて、地響きのような音を立てる。濁った水が大蛇のように島を横切り、島そのものが震えているようだった。二階の部屋の明かりが消えた。承也は荒い息を吐きながら、莉奈を壁際へ追い詰めた。「莉奈……」暗闇の中では、互いの顔も見えない。「どうして……助けに来たの」莉奈の声は途切れ途切れだった。胸いっぱいにこみ上げる痛みを外へこぼさないよう、莉奈は歯を食いしばった。――助けに来るべきじゃなかった、承也!来るべきじゃなかったのよ!一体どうしろっていうの。私、一体どうすればいいの!莉奈の爪が、承也の肩と背中に食い込んだ。熱い涙が目元から落ち、承也の力強い腕に当たり、張った筋肉の線を伝って床へ落ちる。承也は何も言わず、莉奈の脚をつかんで自分の腰へ絡めさせた。動きはさらに荒く、激しくなり、莉奈の言葉を奪っていく。承也が何をしようとしているのか悟った瞬間、莉奈は両手で承也の胸を強く押した。暗闇の中、涙で濡れた目を向け、泣き叫ぶ。「本当は、あなたの心にも少しは……私のこと……」「黙れ!」稲妻に明滅する暗い部屋の中で、承也の顔はひどく陰っていた。承也は莉奈の後頭部を強く押さえ、無理やり口づけて、莉奈が言いかけた言葉を塞いだ。風が唸り、窓ガラスがきしんだ。突然、承也は莉奈を窓辺へ連れていき、体の向きを変えさせた。背後から莉奈の顎をつかみ、外に広がる恐ろしい嵐を見せつける。嵐の中心では稲妻が走り、雷鳴が轟いていた。その外側では、みぞれ混じりの雪が横殴りに舞っている。ひどく珍しい、異様な嵐だった。まるで、世界の終わりに立ち会っているかのようだった
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第199話

そう言って、識子は美月の脚に掛かっている布団をめくろうとした。その瞬間、美月が容赦なく平手を飛ばした。「愚か者、私に触らないで!」識子は叩かれた頬を押さえ、呆然とした。顔から一気に血の気が引いていく。何を言い間違えたのか。何をしてしまったのか。「桜井様、私はただ、お着替えのお手伝いを……」美月の陰りきった目とぶつかった瞬間、識子は頭の芯が冷え、全身に鳥肌が立った。喉元まで出かかった弁解を、無理やり飲み込む。――これは本当に、いつもの穏やかで気品のある桜井様なのだろうか。まるで別人だ。美月は深く息を吸った。シーツをきつく握りしめ、沸き上がる怒りを押し殺して言った。「人を使って調べなさい。神崎家の出航パーティーのクルーズ船が、まだ港に戻っていないのかどうか」識子は少しもためらえず、慌ててスマホを取り出した。すぐに電話をかけ、裏の伝手を使って確認させる。ほどなくして、折り返しの電話が入った。電話の向こうで相手が何を話しているのか、美月には聞こえない。ただ、識子の顔色が、聞けば聞くほど真っ青になっていくのだけは分かった。電話を切ると、識子はおそるおそる美月を見た。美月はすぐに鋭い視線を向けた。生気の抜けた瞳が、じっと識子を射抜く。「言いなさい」「クルーズ船は……昨夜のうちに港へ戻ったそうです。ただ、椎名社長は、その……お戻りになっていないそうで……」識子の声は震え、途切れ途切れになった。「向井さんが海で何者かに攫われて、椎名社長は精鋭の護衛を連れて、自らヘリコプターで救出に向かわれたと……桜井様……」美月の瞳が激しく揺れた。焦点の合わない目のまま、ベッドの端を手探りする。数度探った末にスマホをつかみ、承也の番号へ電話をかけた。つながらない。美月は続けて悠斗にも電話をかけた。それでも、つながらなかった。つまり、今日、承也が迎えに来なかったのは、莉奈を助けに行っていたからなのか。莉奈のせいで、承也は自分の退院にすら来なかったのか。莉奈が、また承也の心を引き留めたのだ。美月の瞳の奥に、どす黒い殺意が弾けた。――許せない。向井莉奈なんて、このまま死んでしまえばいい。……莉奈が目を覚ましたとき、窓の外の空はまだ薄暗かった。けれど時計を確認して、すでに翌日の午後になっているこ
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第200話

省之介は重いまぶたを少し上げ、扉の枠にもたれて立つ承也を見た。承也はブーツを履いていて、頭が今にも扉の枠に触れそうなほど背が高い。髪は少し乱れているのに、だらしなさはまるでない。むしろ、どこか満ち足りたあとのような、妙に冴えた気配がある。黒い上着の袖をまくった腕は、わずかに白く、前腕の筋肉がしなやかに盛り上がっていた。この問いは、承也が海上にヘリコプターで現れたあの瞬間から、省之介の胸に絡みついて離れなかった。省之介は幼い頃から承也を知っている。承也は暇を持て余すような男ではないし、むやみに自分の命を軽く扱う人間でもない。けれど、一度そうと決めたことは、死でもしない限り、誰にも変えられない男だ。これほど大がかりな手を使ってまで、莉奈を救いに来た。「愛している」以外の理由を、省之介は思いつけなかった。時間が止まったようだった。承也の表情は、さらに冷たく険しくなっていく。ガン!ガン!ガン!そのとき、二階へ続く鉄の階段から大きな音が響いた。何かが転がり落ちてきたような音だった。莉奈は、階下に漂う異様な沈黙を破るため、わざと音を立てた。けれど足はひどくだるく、力が入らない。慌てて踏み出したせいで、危うく階段から落ちそうになった。階段の端は溶接が少し緩んでいた。さらに錆びついて噛み合いが悪く、足を乗せるたびに大きな金属音が鳴った。小屋の中にいる全員に聞こえるほどだった。一階にいた護衛たちと悠斗も、その音に視線を向けた。全員に見られていることに気づき、莉奈はうつむいた。胸の中の慌てぶりを、気まずさで隠すしかなかった。承也は、莉奈の伏せた眉目を見つめていた。曲げていた長い脚がわずかに動き、黒い瞳がすっと陰る。冷えた顎の線が、かすかに強張った。莉奈は何も聞かなかったふりをして、承也のそばを通り過ぎた。承也の脳裏に、昨夜の光景がよぎった。窓辺に莉奈を押しつけ、海の上の嵐を見せながら、ここで一緒に死ぬのも悪くないのではないかと尋ねた、あの瞬間。あのとき莉奈は涙を流し、声もかすれるほど泣いていた。それでも、莉奈は一言だけ答えた。――うん。今、莉奈の少しかすれた声を聞いて、承也は眉をひそめた。「省之介さん、具合はどうですか?」莉奈は即席の「ベッド」のそばへ歩み寄った。省之介は軽く首を横に振っ
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