All Chapters of 婚姻生活にさようなら、椎名さん: Chapter 181 - Chapter 190

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第181話

美月は、夜が明けた頃に一度目を覚ました。そのとき、美月はソファに深くもたれかかっている承也の姿を目にした。眠っているのか、ただ目を閉じて休んでいるだけなのかは分からない。 承也が莉奈との夫婦関係を公表したせいで、一日中どす黒く沈み込んでいた気分が、その瞬間、嘘のように晴れ渡った。――ほら、やっぱり。承也にとって一番大事なのは、自分なのだ。昨夜、美月は尚南から電話を受けた。莉奈がこれから承也に会いに行くらしい、と尚南は告げた。以前、尚南は遠回しに美月へ協力を持ちかけてきたことがある。けれど、承也という完璧な男を知っている美月にとって、尚南のような男は、幼い頃からまるで眼中にない存在だった。たとえ世間の目に、尚南がどれほど優れた御曹司として映っていたとしても。だから美月は、尚南と手を組むつもりなど最初からなかったし、そんな必要性も感じていなかった。けれど、あの電話は、一日中嫉妬で荒れ狂っていた美月の心を決定的にかき乱した。美月の張り詰めていた感情の糸は、そこでぷつりと切れてしまったのだ。自分と莉奈。承也が本当に大切にしているのは、一体どちらなのか。ただ、それを確かめたかった。結果は明白だった。美月の勝ちだ。承也は結局、すべてを放り出して美月のそばへ駆けつけてくれたのだから。美月はスマホを取り出し、ソファで眠る承也を密かに写真に収めた。そして、それを莉奈へ送りつける。承也が一晩中、自分に付き添ってくれていたという事実を、あの女に思い知らせるために。もっとも、莉奈に当てつけるつもりなどない。ただ、この喜びを莉奈にも「おすそ分け」してあげたかっただけだ。昔、二人がまだ親友同士で、本当の姉妹のように仲が良かった頃は、こうしてよく互いの喜びを分かち合っていたのだから。けれど、美月がスマホを置き、ふと顔を上げた瞬間――ソファに座る承也の、冷え切った真っ黒な瞳と不意に目が合った。その視線はひどく虚無的で、人の体温が少しも残っていないかのようだった。そして今、窓の外はすでに暗くなっている。再び目を覚ました美月は、反射的にソファのほうへ視線を向けた。だが、そこに承也の姿はない。ただでさえ白い美月の顔から、さらに血の気が引いた。美月はシーツをぎゅっと握りしめた。そのとき、病室のドアが開いた。承
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第182話

美月は、承也の目に少しでも気に障るようなまねはしたくなかった。識子は助けを求めるように承也を見て、小声で探るように言った。「椎名社長、桜井様を説得していただけませんか。テーブルで召し上がるとおっしゃっていて……でも、起き上がるとまた貧血でめまいがするはずです」識子は、承也も美月の体を気遣い、ベッドで食べればいいと優しく言ってくれるものだと信じていた。ところが、ソファで書類に目を通していた承也は顔も上げない。拳を口元に当てて低く数回咳き込み、淡々と言い放った。「……いい習慣だ」美月は目を伏せ、してやったりと唇の端をかすかに上げた。やっぱり。この世に、承也に自分の決めたルールを曲げさせられる人間など存在しないのだ。識子は渋々美月を抱き上げて車椅子に移し、テーブルのそばまで押していった。美月が食事を始めようとした時、悠斗が電話に出るため病室を出た。美月はすかさず識子に目配せする。識子はすぐに察し、静かに病室を出てドアを閉めた。そして、病室の会話が漏れないよう、得意げな顔で扉の前に立つ。美月は春霞亭の、少し甘めのスープをスプーンで口に運んだ。ただでさえ食欲がないのに、このこってりとした甘い味は余計に喉を通りにくかった。けれど、これは承也がわざわざ人に用意させた食事だ。残すわけにはいかない。だから美月は、吐き気をこらえて無理にでも食べ続けた。識子が出ていったあと、美月はスプーンを握りしめ、承也の顔色をうかがった。彼がまた二度ほど咳き込む音が聞こえ、気遣うように甘い声をかける。「承也、もしかして風邪を引いたの?」そのとき、承也のコートのポケットでスマホが短く震えた。美月が口を開いたのとほとんど同時に、承也はポケットからスマホを取り出し、メッセージアプリの画面に目を落とした。次の瞬間、美月が見たのは、承也が弾かれたように勢いよく立ち上がる姿だった。承也はそのまま無言で振り返り、大股で病室を出ていく。その去り際の足取りは、美月の目には、わずかに焦って乱れているように見えた。……廷治は車を高級マンションの敷地内へ入れた。ちょうど直哉もこのマンションに部屋を所有している。普段、彼のお遣いで荷物を取りにここへ出入りするのは廷治の役目だったため、エントランスの警備員も廷治の顔を覚えていた。廷治は車を
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第183話

最初に押し倒されたとき、莉奈は駆けつけたのが壇将だと思った。理由は分からない。けれど心のどこかで、壇将は自分を守ってくれると思い込んでいた。前にもそうだった。壇将は莉奈に腹を立てていたはずなのに、危ない瞬間には突然現れ、莉奈を背中に庇ってくれた。まさか、省之介だとは思わなかった。省之介は莉奈をきつく胸に抱き込んだまま、立ち上がるなり地面に落ちていた鉄パイプをつかんだ。相手が襲いかかってきた瞬間、鉄パイプを振り抜いて応戦し、さらに一人を蹴り倒す。だが、相手の勢いは凄まじかった。完全に殺すつもりで向かってきている。省之介は武術の心得があるわけではない。普段から体を鍛えているだけだ。こんな手慣れた襲撃者たちを相手に、まともに渡り合えるはずがない。廷治の部下たちが加わって、ようやく状況は拮抗した。それでも、形勢をひっくり返すには足りない。そのとき、黒ずくめの男が現れた。黒い服。黒いキャップ。顔を覆う黒いマスク。両手には黒い薄手のグローブ。男は地面に転がっていた鉄パイプを拾い上げた。鉄パイプが男の腰のあたりで鋭く向きを変える。左右から迫っていた二人が、ほぼ同時に地面へ叩き伏せられた。続けて、男は自分へ振り下ろされる二本の鉄パイプを、それぞれ片手でつかんだ。そのまま力任せに中央へ引き寄せる。二人の男の頭が激しくぶつかり、悲鳴とともに崩れ落ちた。莉奈は、その高くまっすぐな背中を呆然と見つめた。廷治の目がぱっと明るくなる。「Jさん!」莉奈は、突然現れた壇将を信じられない思いで見つめた。任務に出ていたわけではなかったのか。それなら、どうして自分にも廷治にも返事をくれなかったのだろう。壇将が加わったことで、形勢は一気に逆転した。莉奈が視線を戻すと、省之介はまだ莉奈を腕の中に抱き込んでいた。「省之介さん、もう大丈夫です。壇将さんがいるから、何も起きません」莉奈はきっぱりと言った。省之介は、戦いの中へ入っていったキャップの男を一瞥した。見たところ、相当な腕だ。省之介は慎重に莉奈から腕を離した。「怪我はないかい?」莉奈は首を横に振った。けれど視線は、省之介の右手の小指に釘づけになった。鉄パイプを受けたその小指は、不自然に曲がっている。外科医にとって、手は何より大事だ。手を傷めれば、省之介の将来
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第184話

省之介が莉奈の涙を拭っているあいだ、少し離れた場所に立つ黒いキャップの男は、全身に凍りつくような冷気をまとっていた。体の脇に下ろした両手はきつく握りしめられ、ギリギリと骨が軋むような音がした。「Jさん、来てくれて本当に助かりました。いったいどこへ行っていたんですか。向井さんと一緒にご自宅まで探しに行ったのに、留守だったんですよ」廷治は男の異変にまったく気づいていない。壇将はもともと、普段から感情をあまり表に出さない男だ。ましてや今は、激しい乱闘を終えた直後である。全身に殺気をみなぎらせていても、何ら不自然ではなかった。壇将は視線を引き剥がすように前へ向けた。廷治の問いには答えず、無言のまま自分の大型SUVに乗り込む。車は荒々しいエンジン音を残して、すぐに走り去っていった。廷治は訳が分からず、その場に立ち尽くした。莉奈が小走りで戻ってきて、廷治に言った。「私は省之介さんを病院へ連れていくわ。指を診てもらわないと。廷治はみんなと残って、ここの後始末をお願い」廷治はうなずき、部下たちに手短に後始末の指示を出すと、すぐに車を回してきた。後部座席に乗り込むと、省之介は隣に座る莉奈の横顔を一度見た。「僕が勤めている病院へ向かって。あそこには手の外科に詳しい同僚がいるんだ。他の病院より確実だから」莉奈はうなずいた。まだ激しい胸の鼓動が落ち着かない。「分かりました」省之介が何か見返りを求めて助けてくれたわけではないことは、莉奈にも十分に分かっている。それでも、莉奈はこれ以上省之介に重い借りを作りたくなかった。もし彼の手が、莉奈を庇ったせいで取り返しのつかない後遺症を残すことになったら……運転席の廷治は、莉奈の焦る胸の内を察したかのようにアクセルを踏み込んだ。車は椎名家系列の病院へ向かって、夜道を飛ぶように走る。省之介が車内からあらかじめ同僚へ電話を入れていたため、病院に着くとすぐに専門の治療室へ案内された。検査の結果、省之介の言葉通り、小指は軽い骨折だった。日常生活に支障が出るような深刻な損傷ではない。けれど、莉奈が恐れていた通り、担当した医師は、外科医として繊細な手術器具を扱うことには少なからず影響が出るだろうと非情な宣告をした。その整形外科医は、省之介とかなり親しい同僚らしい。口調もくだけていた。「
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第185話

莉奈は反射的に振り返った。けれど、すぐそばにも、少し後ろにもいるのは、莉奈と一緒にエレベーターを降りたばかりの人たちだけだった。省之介は莉奈の背後に立ち、行き交う人がぶつからないよう、さりげなく距離を空けて守ってくれている。二人の背後で、エレベーターの扉がゆっくりと閉まった。最後に残った細い光の隙間も、すぐに消えた。「どうしたんだい?」省之介は、莉奈がきょろきょろと周囲を見回し、足元を見ていないことに気づき、片手を伸ばして軽く体を庇うようにした。莉奈は首を振り、視線を前に戻した。聞き間違いだったのだろうか。昨日の昼、莉奈は射撃場で壇将の咳を聞いた。なぜか莉奈は、声を出せない人の咳は普通の人とは少し違うのかもしれないと、無意識に思い込んでいた。けれど実際はまったく同じだった。そして、あの低く響く咳の音から想像すると、もし壇将が声を出せるなら、その声質も響きも、きっとひどく耳に心地よいもののはずだ。――たぶん……承也のように。さっき、背後からたしかに壇将と同じ咳が聞こえた気がしたのだ。エレベーターから降りた人たちは、それぞれ別の方向へ散っていく。莉奈のそばを通り過ぎた見知らぬ男が、途切れ途切れに数回咳き込んだ。咳が収まると、その男は隣の人と何事もなかったように話しはじめた。莉奈は一瞬、動きを止めた。……あの人じゃない。やはり、ただの聞き間違いだったのだ。考えてみれば当然だ。もし壇将がここにいるなら、莉奈に気づかないはずがない。声は出せなくても、何かしら合図をしてくれるはずだ。完全に閉じたエレベーターの中で、承也は拳を口元に当てて低く咳き込んだ。冷え切った顔から、さらに温度が失われていく。エレベーターの行き先階のボタンは、いつまでも点灯しない。承也は目を伏せ、長い指で「開く」のボタンを押した。扉が開いた。承也はエレベーターの中に立ったまま、省之介と廷治に付き添われて外へ向かう莉奈の背中を、暗く沈み込んだ瞳でただ見つめていた。そのとき、コートのポケットの中でスマホが短く震えた。メッセージアプリに一件、通知が届いている。莉奈からだった。【壇将さん、今どこにいますか?】承也の指先が、画面の上で一瞬止まった。やがて、短く打ち返す。【家】すぐに莉奈から返事が来た。
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第186話

「もうすぐだろう。一週間以内には内々の審査結果が分かるはずだ。局からの正式な辞令発表は、半月後くらいになると思う」つまり、あと半月ほどで莉奈は完全に東安市から消える。美月の青白い唇が、ゆっくりと歪な弧を描いた。最近聞いた中で、最高に耳に心地いい知らせだった。「そのブレスレットは、どこで手に入れたんだ?」美月は和夫の鋭い視線を追い、自分の手首で揺れるルビーのブレスレットを見た。わざとらしく軽く手を上げて見せ、勝ち誇ったように微笑む。「承也が私にくれたんです」和夫はわずかに目を見開いた。美月の唇に浮かぶ笑みが、さらに深くなる。「莉奈の母親が、向井家が破産したあとに金に困って手放したものだと聞いています。その後、承也がオークションで落札したそうです」「……違う」和夫は美月の細い手を取り、ルビーのブレスレットを乱暴に外した。自分の手のひらに乗せ、射抜くようにじっと見つめる。やがて、冷や水を浴びせるようにきっぱりと言った。「これは、あのブレスレットじゃない」美月の表情がピシリとこわばった。しかし、引きつった唇の笑みだけは消えない。だからこそ、顔全体がひどくちぐはぐで不気味に見えた。「叔父様の見間違いではありませんか?」莉奈の母親が亡くなってから、もう十年以上経っている。ましてや、生きていた頃の彼女は向井文彦に嫁いでおり、和夫とはほとんど接点などなかったはずだ。それなのに、なぜ和夫がこのブレスレットの真偽をそこまで自信満々に見分けられるというのか。それに、あの承也が持っていたものが、ただの偽物であるはずがない。「たしかに本物のルビーであることは間違いない。だが、彼女が身につけていたものではない」和夫の口調は一切揺るがなかった。美月は余裕を失い、一気にヒステリックな声を上げた。「そんなはずありません!当時、承也がオークションでこのブレスレットを落札する瞬間を、私は自分の目で見たんです。落札額は十六億円でした。私が帰ってきてから、無理を言って承也から譲ってもらったんです。入っていた箱だって当時のままでした。偽物のはずがありません!」そこで和夫は、ようやく美月の言葉の裏にある「惨めな真実」に気づいた。承也が自分から美月に贈ったわけではない。美月が承也に無理やりねだって奪い取ったのだ。承也という
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第187話

「私にはもう、この東安市に帰るべき家なんてないんです」そう言い終えると、莉奈は小さく息を吐いた。全身からすっと力が抜け落ちたように見える。けれど傍から見れば、莉奈の目元はかすかに赤く、ため息をついた拍子に唇が微かに震えていた。まるで群れにはぐれ、帰る場所を失って置き去りにされた小さな動物のように見えた。壇将は静かに莉奈を見つめていた。深い褐色の瞳の奥で、激しい感情が必死に押し殺されている。体の脇に下ろした手が、ギリッときつく握りしめられた。薄手のグローブからのぞく指先が、スマホの画面を数回叩く。【環境を変えて暮らすのも悪くない。行き先は決めたのか?】莉奈は昨日、山本教授に電話をしたばかりだった。審査の内々の結果は、遅くとも一週間以内には分かるという。山本教授の口ぶりからして、結果について心配する必要はなさそうだった。「E国の駐在拠点です」壇将の深い褐色の瞳が、ほんの一瞬だけ大きく揺さぶられた。けれどそれは、すぐにいつもの底知れない静けさへと戻る。【あそこは今も紛争が続いている。危険だ】莉奈の瞳には、揺るぎない強い光が宿っていた。「だからこそ、そこを選んだんです。私は、戦地記者になりたいんです」そう言うと、莉奈は迷いのない顔で壇将の逞しい腕を軽く叩いた。「だから、自分の身を守れるようにしっかり鍛えてくださいね」壇将は目を伏せ、かすかな笑みを浮かべた莉奈の顔へ視線を落とした。その瞳の奥には、底の見えない暗い色が沈殿している。喉仏が、かすかに上下した。壇将は数文字だけ打ち込んだ。【なら、死ぬ気で練習しろ】「このことは秘密にしてくださいね。廷治にも絶対に言わないでください。少なくとも、正式な結果が出るまでは」莉奈は壇将にきつく念を押した。壇将の指先が画面を叩く。【誰にも言わない】……年の瀬の休暇が近づいていた。莉奈には、休暇前にこなさなければならない最後の大きな取材が一つ残っている。神崎グループが所有する新しい大型クルーズ船の初航海だ。同時にこの日は、神崎家の跡継ぎである省之介が正式に神崎グループの事業に参画し、ビジネスの表舞台へ初めて姿を現す日でもある。ここ数日、壇将は毎日のように、莉奈が何度も床に倒れ込んで立ち上がれなくなるまで過酷なトレーニングを課した。これ
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第188話

莉奈が視線を戻すより早く、視界の端に、見るからに威圧感のあるナンバープレートをつけた黒い高級車が港へ滑り込んでくるのが見えた。彼女の体が、かすかにこわばる。そして、慌てて視線をそらした。クルーズ船の中へ入ると、暖房がよく効いていた。外の厳しい冷え込みが嘘のように遠のいていく。莉奈は短く息を吐いた。けれど、胸の奥ではまだ心臓が激しく跳ねている。港には、肌を刺すような冷たい海風が吹き荒れていた。省之介は、到着した車から降りてきた承也と、別の車から降りてきた浩平の姿を認めた。まるで骨の髄まで染みついた習慣のように、ためらいもなく二人へ向かって歩き出す。「浩平」省之介は短く挨拶した。承也に視線を移したとき、省之介は軽くうなずいただけだった。浩平は、無言で冷ややかに見つめ合う省之介と承也を交互に見比べ、あまりの気まずさに息を詰まらせた。こんな息苦しい空気になると分かっていたら、来るんじゃなかった。だが、このまま黙っているわけにもいかない。浩平は小さく咳払いをした。「省之介が神崎グループに戻るってニュースを見て、驚いたよ。どうして急に病院を辞めることにしたんだ?」口に出した直後、浩平は激しく後悔した。凍りついた空気を少しでも和らげようと、適当な話題を振っただけだった。なのに、よりによって一発目から最大のタブーである核心を突いてしまった。頼むから、省之介には空気を読んで適当に誤魔化してほしい。承也の目の前で、堂々と「あいつの妻を奪うためだ」などと宣戦布告しないでほしい。浩平にも薄々分かっていた。省之介が神崎家を継ぐために病院を離れ、神崎グループへ戻るのは、すべて莉奈を守る力を得るためだ。けれど省之介は、承也を真っ直ぐに見据え、少しも隠さずに言い放った。「僕は、奈奈をアプローチするつもりだ」承也の端正な唇から、氷のように冷たい嘲笑が漏れた。「毎晩あいつのマンションの下に突っ立って、黙って見守る哀れな騎士でいるほうが、お前には似合っていたんじゃないか」省之介はわずかに動きを止めた。それでも、承也が自分の行動をすべて把握していることに驚きはしなかった。あの夜、莉奈がマンションの下で命を狙われたとき、省之介はたしかに偶然近くを通りかかり、様子を見に行ったのだ。だが、あの凄惨な夜のあと、省之介はいつまた
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第189話

床に倒れ込む瞬間、省之介の薄れていく意識の中に強烈に浮かび上がったのは、莉奈の顔だった。――奈奈が危ない。その強烈な恐怖が、意識を手放しかけた体に、最後の力を呼び戻した。省之介は舌先を思い切り噛み破った。鋭い痛みと、口の中に広がる生温かい血の味が、遠のきかけた感覚を無理やり現実に引き戻す。骨ばった両手が、床を強く押さえつけた。窓の外、遠くの灯台から差し込む光が、入り口の暗がりをかすかに照らした。そこに立つ黒い影の顔が、少しずつ浮かび上がる。その男は、省之介がまだ目を開けているのを見て、狼狽したように表情を強張らせた。「省之介様……」省之介の顔がこわばった。父の側近のボディーガードだ。――それなら、奈奈は……ボディーガードがポケットから白いハンカチを取り出すより早く、省之介は床から身を起こした。ふらつく体のまま、相手が反応するより先に飛びかかり、その腕を力任せに押さえ込む。いつも穏やかな省之介の顔に、鬼気迫る怒気が走った。「莉奈をどこへやった」ボディーガードは、省之介が見せた凄まじい執念に驚きを隠せなかった。口の端から血を流す主の姿を見て、どうやって意識をつなぎ止めたのかを悟る。あの女は、この方にとってそこまで大事なのか。ボディーガードは冷えた声で答えた。「省之介様、会長はあなたのためを思って下した決断です」省之介の顔から、さっと血の気が引いた。――やはり、父の仕業だったのだ。父はテレビ局の上層部にまで手を回し、今日、莉奈がどうしてもこのクルーズ船へ取材に来るよう仕向けたのだ。すべては、この海の上で莉奈を排除するために。省之介はボディーガードを突き飛ばし、よろめきながら部屋を飛び出した。廊下の突き当たりで、父である神崎厳明(かんざき げんめい)がエレベーターから降りてきた。その背後には、屈強なボディーガードが何人も控えている。厳明は、ふらつく省之介の姿を見るなり、激しい怒りを込めた声で叱りつけた。「この愚か者が!まだ目が覚めないのか。あの女は既婚者だ。たとえ椎名と離婚したとしても、世間の誰もが『椎名の妻だった女』として白い目で見る。お前は将来、神崎家のすべてを継ぎ、一族を背負って立つ人間だぞ。本気であのようないわくつきの女に関わり続け、神崎家の名に泥を塗るつもりか!」
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第190話

――奈奈!省之介の心臓が喉元まで跳ね上がった。省之介は廊下の先にあるエレベーターへ向かって狂ったように走り出した。厳明の顔色が変わる。すぐに護衛たちへ低く命じた。「捕まえろ。誰にも気づかせるな」特に、三階のメイン会場にいる承也には絶対に知られてはならない。アシスタントが声を落として告げる。「会長、まもなく出航の宴会が始まります。主役である会長がお姿を見せなければ、かえって怪しまれます」「先に三階へ行く」三階の煌びやかな宴会場に入ると、厳明は群衆から少し離れた場所に立つ承也を鋭く一瞥した。承也は相変わらず、周囲を寄せ付けない冷え切った空気をまとっている。厳明は何事もなかったように視線を戻し、愛想笑いを浮かべて来客たちの輪へ入っていった。しかし、しばらくして護衛の一人が厳明のそばへ寄り、声を潜めて報告した。「会長、省之介様が単独で小型ボートに乗り込み、クルーザーを追っていきました」厳明の表情は一切動かなかった。だが、体の脇に垂らした手が、瞬時にギリッと強く握りしめられる。――あの愚か者は、あの女のために本当に気が狂ったのか。それでも、厳明は軽々しく追手を放つわけにはいかなかった。この暗い海上に小型艇やクルーザーが何隻も飛び出せば、船上の客から必ず不審に思われる。何より、あの鋭い承也に感づかれる。あと少し時間稼ぎができれば、莉奈は外海まで連れ去られ、完全に神崎家の手を離れるのだ。厳明は吐き捨てるように低く言った。「今は放っておけ」海の上の冷たい風は、鋭利な刃のように省之介の顔を切りつけた。船を飛び出したときには、すでに絶望的な時間差があった。莉奈を乗せた小型クルーザーは、もう暗闇の視界から完全に消えている。省之介は小型ボートの速度を限界まで引き上げた。ライトが海上の薄霧を裂き、氷のように冷たい海水が両側から激しく跳ね上がって、省之介の体と顔に容赦なく叩きつけられる。全身はずぶ濡れだ。体温など、もうとうに感じない。それでも凍えて赤くひび割れた両手は、操縦桿を死に物狂いで握りしめていた。やがて、暗く広がる海の向こうに、クルーザーの船尾らしき白い水しぶきがわずかに見えた。まつげから海水が滴り落ちる。省之介の目に、すがるような光が宿った。自分一人では、あの手慣れたマフィアたちから莉
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