跪くのはあなたです 流産の夜、私を選ばなかった夫は五年後、後悔する のすべてのチャプター: チャプター 11 - チャプター 20

49 チャプター

11話 崩壊の足音は……

目障りな事に、燈はそれでも医師として成功していた。その成功の裏側は私にめちゃくちゃにされているというのに、それを燈は感じさせない。それがさらに私を苛立たせた。どうやって燈の立場を奪ってやるか、どうやって私を見下していた燈を私の前に跪かせるか、思案を巡らせ、一つ一つ奪ってやるつもりだったのだ。そして。あの日が来た。私の夫である森崎颯太の事故。担ぎ込まれた病院は聖カトリーナ国際医療センター。救急救命医として担当するのは燈の筈だと踏んだ私の予想は的中した。だから私は伝えなかったのだ。颯太の薬品アレルギーを。その事故でさえ、私が誘発した事を。私の思惑通り、とんとん拍子で物事が進んで行き、私は内心、笑いが止まらなかった。私は可哀想な未亡人となり、燈は湊に責められる日々。更に燈は颯太の命を救えなかった事で、メスを置いたって言うじゃない。最高だった。でも、まだまだ、これからだと思った。それからは未亡人として、可哀想な私を演じつつ、湊を誘惑した。湊は燈とは関係が拗れている。だからちょっとお酒を飲ませて、その気にさせるだけで済んだのだ。簡単だった。五年前にその辺の、顔が良いだけのチンピラ男と関係を持って、妊娠した時は肝を冷やしたけれど、それを利用して湊を繋ぎ留めようと思い付き、実行した。そしてあの日、私が仕組んだ毒によって燈が完全に壊れ、流産した。その裏で私は燈の夫を自分の手中に収め、颯太の死を引き合いに出しては、同情を買い、私の元へ繋ぎ留めた。私のどす黒い感情を目にした燈の顔は見ものだった。私が燈の流産を誘発した可能性について、燈は微塵にも疑っていないのが更に滑稽だった。教えてあげないわよ、一生ね! 罪悪感に押し潰されてしまえば良い。そう思っていたのに、燈は立ち上がったのだ。私たちを、私を見下すあの目つきをして。燈が失踪してから、五年。その間、私はそれまでと同じように湊を繋ぎ留めようとしたけれど、何故か湊からは拒否される事が増えた。それが湊の燈に対する執着と後悔ゆえなのだと知った時には、身がよじれるくらいの悔しさだった。湊の家は燈が住んでいたあの頃のまま、保存してあったし、私がそれに手を付ける事は許されなかった。お腹の子供が育って行く事が不都合だった私は燈に飲ませた薬を自ら飲んで流産を誘発した。その時だけは湊も私の傍に居てくれた。この五年、私は湊の家である久
last update最終更新日 : 2026-01-31
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12話 対峙

「相変わらずの正確無比さだな」手術室を出た私に高嶺遼大が言う。「今後、気を付けるべき事ぐらい、言わなくても分かるわよね?」歩きながらそう聞くと高嶺遼大が笑う。「どうだろうな。こんな症例、ほとんど無いからな」私は色々な事態を想定して、出すべき指示を考える。そんな私に高嶺遼大が言う。「とりあえず、飯でも食わない?」軽い調子でそう言う彼に今まで何度救われただろうか。私は高嶺遼大の微笑む顔を見て頷く。「そうね」術着を脱ぎ、着替える。私が居るのは手術をするスタッフが使う更衣室では無く、今回天才医師「X」の為だけに用意された部屋。着替えを終え、手を洗いながら洗面所の鏡を見る。五年前のあの日、逃げるようにして出たここに、私は天才医師として招かれている。(皮肉な話ね……)そう思いながら水を止め、手を拭く。閉められていたカーテンを少しだけ開けて、外を見る。怖くなかった訳じゃない。ここへ戻る事は私にとっても挑戦だったのだ。そして、その挑戦は見事に完勝だ。通常ならば早くても8時間、少々遅れて10時間かかる大手術。それを4時間28分で終わらせた。手術をしながら、湊が必死で私に付いて来るのが分かった。湊が遅れていた訳じゃない。湊は優秀な脳外科医だ。湊の手腕ならば、賞賛されるべきだっただろう。五年前のあの日が嫌でも脳裏によみがえる。救急車の中で聞いた湊の冷たい言葉。聞こえて来た愛沢くるみの媚売るような甘い声。私には何も言わずに唐突に切られた電話。その陰で私は流産の危機に瀕し、それを伝えても夫であった湊はそれを信じようともしなかった。処置が終わり、ふらつく足で向かった湊の部屋。その部屋で湊は愛沢くるみと密会し、私の流産を供養だの罰だのと言った。怒りとも悲しみとも言えない感情が込み上げる。あの時、愛沢くるみは湊が居ない事を良い事に、自身の悪意を私に晒した。私を貶め、跪かせる事が彼女の求めるものだったのだから。あの時までの私は、愛沢くるみにそんなに恨まれ、憎まれているとは露ほども思っていなかったくらい、純情だったのだ。善意は善意で返って来る。そう思って疑っていなかった私……可哀想な私。あれ程の醜い悪意に晒された事の無かった私は、彼女の撒く毒にいつの間にか侵されていた。カーテンを閉める。私の持って来たカバンの中には、手術前に新見医師から渡されたものがある。か
last update最終更新日 : 2026-02-01
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13話 大きな背中

湊は信じられないものを見るような目付きで私を見ている。(あぁ、そう言う事ね……)私は湊のそんな顔を見てやっと理解した。湊の時間は五年前で止まっているのだ。そこから動いていない。今、目の前に居る私が五年前の私と何も変わっていないと、そう思い込んでいる。いや、そう思いたいんだろう。きっと湊自身もそうだから。だから突然、私が天才医師「X」として目の前に現れた今の現実から目を逸らしているのだ。「あぁ、そうさ。俺が五年前に燈に酷い事を言った。俺は後悔しているんだ。あんな事を言うべきじゃなかった。意図せず俺たちの会話を聞いてしまったのかもしれないが、あの時の俺はどうかしていたんだ」(どうかしていた、ね……)(それは今もそうじゃない)そう思ったら笑えた。私が何も言わないで笑ったのを、湊は自分に都合良く受け取ったのだろう、私に懇願するような眼差しを向けて言う。「どうすれば良い? 跪いて謝れば良いかい?」さも自分が譲歩していると言わんばかりの言い方だ。ケンカ別れした恋人たちがなし崩し的に仲直りするような、そんな展開が湊の頭の中では繰り広げられているんだろう。私は湊のそんな態度に呆れ返り、溜息をつく。「必要無いです、久遠先生」私がそう言うと、湊が一歩踏み出し、言う。「久遠先生なんて、他人行儀な呼び方、するなよ」何も分かっていない。この人は自分が私に対してやって来た事、言って来た事を全く理解出来ていない。そしていつまでも私が何も知らないお嬢様だと思っている。寒気がする。その時だった。部屋の扉が開いた。「うちの天才医師に言い寄るの、止めて貰えます?」そう言って入って来たのは高嶺遼大だ。高嶺遼大はズカズカと歩いて来て、私と湊の間に入り込み、私を自分の背後に隠し、湊を見下ろす。「高嶺遼大……」湊は高嶺遼大の名前を呟き、背後に居る私に言う。「コイツとどういう関係なんだ?」高嶺遼大の大きな背中がいつにも増して頼もしく感じる。私はそんな高嶺遼大の背中に触れて、安心感を得る。(メッセージを送っておいて良かった……)そう思いながら頼もしい背中に守られている事を実感する。「久遠先生、何か勘違いをされているようですが、うちの天才医師「X」とあなたは何の関係も無い」そう言う高嶺遼大の背中が温かい。「五年前は夫婦だったかもしれないが、今はもう他人でしょう?」
last update最終更新日 : 2026-02-02
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14話 もう一つの対峙

五年ぶりだった。彼女の顔を見たのは。どうしてこうも、この人たちは私の前に堂々と現れるんだろう。ここはさっき高嶺遼大が言ったように、高嶺遼大以外は入室禁止の部屋。隔離がされていない以上、誰でもこの部屋の前を通る事は出来るけれど、わざわざ入って来るなんて。(まぁ、どうせ湊が部屋に入ったのを見たんでしょうね……)そして、五年経っても尚、彼女・愛沢くるみが湊と一緒に居る事を滑稽に感じる。(まぁ私としてもその方が都合が良いけれどね)そう思いながら、高嶺遼大の背中越しに彼女を見て、私は一瞬で確信する。(子供、産んでないみたいね)体にピタッとフィットする服、男性ならば絶対的に目が行ってしまうその豊かな胸元。くびれた腰に肉付きの良いヒップ。その体系を維持する為に一体、彼女はいくらかけているんだろう? とお節介ながらも心配になってしまう。私の家の家政婦の娘として、私と湊、颯太の前に現れた時はもっと可憐な印象だったけれど、今は妖艶な女になっている。相当な馬鹿でない限り、その容姿を見て、警戒はするだろうくらいには、作り込まれている。「くるみ……」そう呟いたのは湊だ。私は高嶺遼大の背中の前で溜息をつく。そんなふうに名前を呼ぶという事は、二人の関係は五年前から変わっていないのだろう。愛沢くるみは目の前に広がった光景を見て、驚き、言葉を失っている。「あ……あの、ごめんなさい……湊さんが部屋に入って行くのが見えたから、つい……」今にも泣きそうな顔でそう言う愛沢くるみ。(そうよね、その反応が正解よ、愛沢くるみ)かつて私の周囲に居た男たちは皆、愛沢くるみのこんな演技でコロッと騙される男ばかりだった。すぐに泣く、傍に居る一番、力を持っていそうな男に擦り寄る、その男の庇護欲を掻き立て、私を悪者に仕立て、自分は被害者だと無言で訴える。そういうやり方で生きて来た子だ。今もそれが存分に発揮されている。ふと不安になり、目の前に立っている高嶺遼大の顔を見る。一目見て、私は吹き出しそうになってしまった。だって高嶺遼大の顔は引き攣っていたから。私はこの五年、高嶺遼大と一緒に仕事をし、プライベートな時間も共に過ごした。時に暴走しそうになる私を宥め、落ち着かせ、ブレーキをかけてくれた人。軽口を叩き合う事が出来る気の置けない人だった。(そうだった……高嶺遼大はこういう女が嫌いだったわ)そ
last update最終更新日 : 2026-02-03
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15話 佐伯 燈

「でもお掃除しないと……」愛沢くるみが食い下がる。その時。「久遠湊!!!」私を背後に隠しながら高嶺遼大が大きな声を出す。名前を呼ばれた湊はビクッと体を震わせ、そしてそんな大きな声を聞いた愛沢くるみも一緒になって体をビクッと震わせた。「貴様、良い加減にしろよ……」怒りを滲ませ、そう言う高嶺遼大に驚く。私の前ではこんなふうに怒りを露わにした事など、一度も無かったから。「今すぐ、即刻! この部屋から出て行け」そう言って出口を指さす。「清掃員を呼び、この部屋を清掃させておけ。俺たちがこの部屋を使う事はもう無いがな」湊はスープジャーを拾い上げ、愛沢くるみの腕を掴んで言う。「行こう」愛沢くるみは何故、怒鳴られたのか分からないといった顔で湊に聞く。「何故? お掃除なら私が……」そう言った愛沢くるみに湊が大きな声で言う。「くるみ!」湊にそんなふうに大きな声など出された事は無いのだろう、愛沢くるみは驚いた顔で湊を見ている。「良い加減、聞き分けてくれ……」懇願するかのようにそう言う湊に愛沢くるみは納得がいかない表情で言う。「分かった……」まるで子供がする態度だなと思う。膨れっ面は小さな幼い子ならまだ可愛げがあるだろうけど、もう私たちは子供では無い。(そんな幼稚な仕草で騙されるのは、湊くらいよね)それでも。懇願するように聞き分けてくれとそう言った湊は、愛沢くるみに何かを感じ始めているのかもしれない。「出過ぎた真似をした。申し訳ない。謝ります」そう言って湊は出口で私たちに振り返り、深々と頭を下げた。その様子を見ていた愛沢くるみは信じられないものを見るような目付きだった。◇◇◇あの背の高い男性に匿われていた女、それは……。手術が終わったというのなら、と思って私は湊を探した。なるべく早くに会って、成功のお祝いを言わなくちゃ。そう思ったから。院内の奥へ進み、色んな人たちをすれ違いながら進む。ふと、湊を見つける。「みなと……」そう呼び掛けた時、湊は角を曲がってしまった。私は少し面倒に思いながら後を追いかける。こんなに奥まった部屋に何の用があるのかしら。そう思いながら私は角を曲がる。けれどそこには湊の姿は無かった。この一角のどこかの部屋に入ってしまったのだろう。どうしよう、一旦、出直すか、湊の部屋で待つか。一時、その場所でこれからどうするか
last update最終更新日 : 2026-02-04
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16話 共犯者

湊は私の腕を掴み、歩いて行く。途中、すれ違った看護師に言う。「君、悪いが、あの特別室に清掃員をやってくれ」湊はそう言いながらも私の腕を掴んで離さない。「湊さん、痛いわ……」弱々しくそう言ってみるけれど、湊は全く意に介さず、真っ直ぐに歩き、自分のオフィスへ入って行く。五年前に私と湊が話した、あの部屋……佐伯燈を絶望のどん底へ突き落したあの部屋だ。湊は部屋に入ると扉を閉め、やっと私の腕を離した。大きな溜息をつき、目頭を揉む。「くるみ……何をしに来たんだ?」まさか私が湊にそんな疑問を投げかけられる日が来るなんて。そう思いながらも私は言う。「今日、湊さんが大きな、大事な手術をやるって聞いたから……。終わったら疲れているだろうし、少しでも湊さんの疲れを癒したくて……」そう言って俯く。また、湊が大きな溜息をつく。「さっきも言ったが、あの部屋は入っちゃいけない部屋なんだ。君には色々と便宜を図って来たし、この病院内を自由に歩き回っても誰も文句は言わなかったのかもしれないが」湊はそこまで言って、言葉区切り、私を見る。「もうここは君の自由に歩ける場所では無いんだよ」そう言われて私は驚く。(湊が私を拒絶している……?)「それってどういう意味、なの……?」涙を溜めてそう聞くと湊はまた、大きな溜息をついて、言う。「ここは俺が勤めている病院で、君はこの病院の関係者じゃない。今までは俺の顔を立てて、皆、君に何も言わなかったかもしれないが、今日来ていたあの医師は、こちらからお願いして来て貰っているんだ。つまり、外部の人だ」湊は私から視線を外し、外を見る。「こちらからの招待、という形で来て貰っている以上、失礼があってはならないんだよ」その瞳は遠くを見ていて、その瞳の奥で湊が何を思い出しているのか、考えたくもなかった。不意に湊が笑う。「俺もそんな事をつい、忘れていたが」そう言って湊は私を見て言う。「今日の事は向こうから正式に抗議が入るかもしれないんだ。そうなると俺の立場も危うい」そう言われて私は俯いて言う。「……分かった」湊は私に近付き、私の肩に手を置く。そんな湊に寄り掛かりながら私は腸が煮えくり返っていた。あの時見たのは確実に佐伯燈だった。つまり、佐伯燈は外部からここ聖カトリーナに招待された医師、という事……。正体不明の天才医師が執刀する。し
last update最終更新日 : 2026-02-05
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17話 誤認と誤解と後悔と

五年前のあの日、私は意図的に湊を誘導はしたけれど、吐いた言葉は湊自身のものだ。私に手を上げかけた燈を見て、激高した湊自身が自分の口で言った事。私が湊に囁いて言わせた事じゃない。流産した自分の妻を差し置いて、自分の妻の実家の家政婦の娘だった私に付き添い、妊婦検診を一緒に受けたのも、どこの馬の骨か分からないチンピラ崩れと関係を持った私を抱いたのも、自分の妻だった燈を蔑ろにしたのも、颯太の死の責任を燈だけに押し付けたのも、全部、湊だ。(後悔してるっていうのね……)そう思いながら私はとりあえず、この場を去らなくてはと、思い立つ。◇◇◇「燈、大丈夫か?」高嶺遼大にそう言われて私は吐き気を抑えながら言う。「えぇ、でもこの部屋は出たいわ……匂いが嫌……」そう言うと高嶺遼大が頷く。「そうだな、出よう、とりあえず、隣の俺の部屋に」高嶺遼大はそう言って、私の頭をポンと撫で、言う。「先に隣の部屋に行ってて良いよ、荷物は俺が持って行く」そう言われて私は高嶺遼大の言葉に甘える事にした。それぐらい、この部屋に充満したスープの匂いがきつかった。――薬膳スープの匂い――五年前に私が流産を経験したあの日。出されたスープが薬膳スープだった。その匂いを嗅ぐと、あの夜を思い出してしまって、私は薬膳スープがあの夜から苦手になっていた。吐きそうな程の嫌悪感。私は逃げるようにして部屋を出て、隣の部屋へ行く。◇◇◇帰りの車に揺られながら私は自分のスマホで情報収集した。(確か、高嶺遼大って言ってたわね……)そう思い、高嶺遼大の名で検索をかける。すぐに出て来た情報ではアイゼンバーグ医療戦略機構の最高責任者という肩書。最高峰の研究機関だと湊が言っていたように、輝かしいまでの功績がEMSO(アイゼンバーグ医療戦略機構)のページに載っている。でもそこに燈の名は無かった。(名を伏せているという事……?)どうして自分の名を伏せるのだろう。世界を飛び回るぐらいの腕を持っているのなら、それを堂々と示せば良いのに。そう考えた時、私には燈の考えが分かった。きっと燈は私や湊の前に出て来る事を望んでいなかったんだわ。今回、藤堂源一郎の為に手術には来たけれど、自ら進んで自分が天才医師だって言いに来ないって事は、それだけ燈が受けたショックや心の傷は深いという事なんじゃないかしら。そう思ったら笑えて来る
last update最終更新日 : 2026-02-06
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18話 証拠が示すもの

ホテルの部屋に真っ直ぐに戻る。「本当に良いのかい?」高嶺遼大にそう聞かれる。「えぇ……食欲が無いの……」そう言うと高嶺遼大は少し溜息をつき、荷物を置いた後、私に振り返り、言う。「何か買って来るよ、食べなきゃダメだ」そう言って私に近付き、私の頭をポンと撫で、そのまま部屋を出て行った。私はホテルの部屋で自分のカバンの中に入っている、あの書類を取り出す。新見医師からこれを渡された時は、手術前でそれほど詳しく見た訳では無い。ソファーに座り、目を通す。そこには五年前、私が流産した時に聖カトリーナで私の処置をしてくれた須藤紀子医師の名がある。須藤医師はこれを渡してくれた新見医師や私の同僚でもあった。彼女は五年前のあの日、私が担ぎ込まれ、流産の処置をしながらも、私の状態の変化に疑問を持ったようだった。それまでは特に異常は認められず、健康そのものだった私の体が急変し、流産にまで至った事が彼女の中では解せなかったらしい。私のカルテには須藤医師の所見が書かれていて、その語尾に「?」が付いている。~数値の異常?~~何か見落としがあった可能性?~不意にカサッと何か紙片が落ちる。小さな紙が挟まっていたようだった。それを拾い上げる。それは私の血液検査の結果票だった。あの日、私は須藤医師によって血液検査までして貰っていたようだ。その結果票を見て、息を飲む。ハハ……乾いた笑いが込み上げ、笑っているのに私は涙を流していた。私のせいでは無かった……。私のせいでは……!不意に部屋の扉が開き、高嶺遼大が部屋に入って来る。「何が良いのか色々悩んだんだけど……」高嶺遼大はそう言ってそこで言葉を止める。私を見て買って来たものが入っている袋を放り出し、駆け寄って来て私を抱き締める。「燈……」心配そうにそう言う高嶺遼大に私は抱き着く。ヒラヒラと私の手から落ちる紙片。高嶺遼大は私を抱き締めたまま聞く。「何があった?」そう聞かれて私は少し笑って言う。「あのね、五年前の私の流産………」私の声は涙に濡れている。「うん」高嶺遼大がそう返事する。「あれは仕組まれたものだったの……」私がそう言うと、高嶺遼大は私の背中を撫でながら頷く。「うん」私はまるで小さい子が泣くような呼吸をしながら言う。「私のせいじゃなかったの……」高嶺遼大は私の背中を撫で続けている。「うん」
last update最終更新日 : 2026-02-07
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19話 予兆と予感

「あらあら、脳外のエースがこんな所に何の用?」そう声を掛けられ、俺は振り返る。そこには産婦人科のエースである須藤紀子が居る。「あぁ、ちょっとね、気になる事があるんだ」そう言いながら産婦人科のデータベースを見る。ここ、聖カトリーナはそれぞれの診療科が独立していて、それぞれにデータを管理している。複数の診療科にまたがって診察を受ける患者も存在するので、俺が産婦人科のデータベースを見る事について、とやかく言う者は居なかった。「何を探してるんだか」須藤紀子はそう言って俺を横目で見ながら、自身のデスクに座る。俺はデータベースの中から五年前のデータを探していた。五年前のあの日、燈は流産した。俺はそれを聞いて当然の報いだと思って、燈の所見など全て見なかったのだ。膨大なデータの中から燈のデータを抽出する。妊娠が判明してから、流産したあの日の前までは燈は順調だった。特に数値的にも異常は見られない。俺が見ているモニターを須藤医師が覗き込む。「……今更ね」須藤医師が冷たくそう言う。確かに今更だ。今になって五年前のデータを見たところで何かが分かる訳無い。そう思いながらスクロールする。「そこには何も書いて無いわよ」須藤医師はそう言って、持っていたコーヒーを飲む。良く見れば、燈の担当医師は須藤紀子と書いてある。「……何か、知っているのか?」そう聞くと須藤医師は鼻で俺を笑う。「まぁね」データを見る。須藤医師の言うようにそこには何も書かれていない。「……何を知っている?」そう聞いた時だった。「須藤先生!! 急患です!!」そう言われた須藤医師が立ち上がり、俺を一瞥する。「知りたいなら教えるけど、今は無理よ」そう言って駆けて行く須藤医師を見送る。知りたいなら教えるその言葉は俺に何か重みを感じさせた。須藤医師は何かを知っている……。俺の知らない何かを。喉の奥にいつも引っ掛かっていたものがある。今まではずっと見ない振りをして来たもの。長年、そんな状態が続いて、それが常態化していて、気付けば感じない振りが随分上手くなった。俺は燈の五年前の流産の時のデータをプリントアウトする。そのデータを持って産婦人科を出る。須藤医師に手が空き次第、連絡をくれるように、メモを残して。◇◇◇翌日、私は聖カトリーナへ来ていた。ICUに居る藤堂氏の術後の経過は順調だった。ハイスピー
last update最終更新日 : 2026-02-08
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20話 揺さぶり

須藤医師に連れられ、入ったのは小さな薬品庫だった。(こんな場所でしか話せない事なのか……?)そう思いながら須藤医師を見る。彼女は薬品庫の棚を覗き込み、何かを探しているようだった。「須藤先生、一体何を……」俺がそこまで言った時、須藤医師が言う。「あった」須藤医師はそう言ってポケットから鍵の束を出し、薬品棚の鍵を開け、白い箱を取り出す。そして振り返りその箱を俺に見せる。「これ、何の薬か、脳外の先生でも分かるわよね?」その白い箱に刻まれた薬品の名は……。「……ラインプロス……」俺が調べていた事と、目の前の薬品が示す事……それは……。「流産は……意図的だった……?」須藤医師はその箱を見ながら言う。「私ね、燈先生の流産の処置をしながら、おかしいと思っていたの」ガラガラと何かが崩れて行く音を聞きながら須藤医師の言葉を待つ。「私は燈先生の担当医だったから、燈先生が医師として、ちゃんと自分の体の管理も出来てるのは知っていたし、それまでの数値は完璧だったのよ」須藤医師は白い箱の蓋を開けて言う。「それでも不幸な事は起こってしまう事もある。だから燈先生が運び込まれた時は、そういう不幸な出来事だと思っていたの」開けた白い箱。その蓋が開いた状態で俺に中を見せながら須藤医師が言う。「でもね、おかしいのよ、どう考えても。あの出血量は普通じゃない。だから私は独断で燈先生の血液を検査に回しておいたの」箱の中身はいくつかの小さな箱が入っていて、封が切られているが、それ自体に問題は無い。「で、検査結果を見て、驚いた訳」そう言ってポケットから小さな紙片を出し、俺に差し出す。俺は恐る恐るその紙片を手に取り、目を通す。「それ、見れば分かるわね?」須藤医師の言いたい事はすぐに分かった。「数値に異常が……」須藤医師は溜息をついて言う。「そうなの。で、私は慌ててここへ来て、これを見てみた」俺は恐る恐る聞く。「……合わないのか?」そう俺に聞かれた須藤医師が頷く。「えぇ、合わないわ。うちから処方した数と、実際に使われている薬の数が合わない。しかも2回分ね」須藤医師はそう言って、目線を上にやる。須藤医師の目線の先にあったのは監視カメラだ。「ここは地域の中でも一番大きな病院。患者さんも医師も、関係者も、たくさんの人間が出入りする」須藤医師はラインプロスの
last update最終更新日 : 2026-02-09
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