All Chapters of 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~: Chapter 111 - Chapter 120

157 Chapters

111

 だが、琴葉の足は動かなかった。(……やれやれだわ) 胸の奥で、苛立ちとも呆れともつかない感情が渦を巻く。  かつて自分を支配しようとした男の面影は、今の伊吹にはこれっぽっちも残っていなかった。  目の前の青年はただ雨に打たれ、体温を奪われ、生きる気力すら手放して座り込んでいる。 伊吹のスーツから、雨水が滴り落ちて地面に小さな水たまりを作っている。  琴葉は小さく舌打ちをした。 放っておけない。 彼女の脳裏に、伊吹と過ごした時間がよぎる。 幼い琴葉が好きだと言った紫色の服で、クローゼットをいっぱいにしたこと。 土井精機の工場で、2人で徹夜の作業をしたこと。 そして、20年前の記憶。 小さくて泣き虫だった伊吹の姿。あの頃はただ、『琴葉お姉ちゃん』と無邪気に慕っていただけだった。 その後の彼の過酷な境遇が、あの歪んだ男を生んだのかもしれない。(簡単に許せるものじゃない。でも……) そんな思いがちらついて、琴葉の足を止めた。 琴葉は一歩踏み出して、持っていたビニール傘を伊吹の頭上に差し掛けた。 雨粒が顔を打たなくなったことで、伊吹がわずかに反応した。  ゆっくりと、錆びついた部品が擦れるような動作で顔を上げる。「……いつまでそこで濡れているつもり?」 琴葉は淡々とした声で問いかけた。 伊吹の青白い顔に、微かな動揺が走った。  雨に濡れた琴葉の姿を視界に捉えて、それが現実なのか幻覚なのかを判別しようとしているようだった。  血色のない唇が微かに動き、かすれた声が漏れる。「……琴葉、さん……?」「そうよ。幻じゃないわ」「どうして……」「たまたま通りかかっただけ。あんた、世良を追い出されたのよね」 事実だけを突きつける。伊吹は目を伏せ、力なく首を縦に振った。「僕は……もう、空っぽです」 声には何の抑揚もなかった。「何も残っていない。世良の人間でもないし、あなたを縛る権利も、もう……」「知ってるわよ、そんなこと」 琴葉は短くさえぎった。慰めるつもりも、哀れむつもりもない。  ただ、このままここで雨に打たれて死なせるつもりもなかった。「立って、伊吹」 伊吹は顔を上げた。その目には、理解できないものを見るような戸惑いが浮かんでいる。  琴葉は手を差し出さなかった。自分で立たなければ、意味がない。「……私が拾っ
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112:新しい日常

 駅前のビジネスホテル、その手狭で薄暗い一室で、琴葉はベッドの端に腰を下ろし、手元のスマートフォンを操作していた。 世良峻嗣の地下ラボに持ち込んでいた私物の端末だ。 琴葉は電源ボタンを長押しし、画面が完全にブラックアウトするのを確認した。それから裏蓋を外し、バッテリーパックを引き抜いた。 さらにSIMカードのトレイを引き出し、極小のチップを取り出す。 デスクの上にあったハサミを手に取り、チップの金属部分を真っ二つに切断した。切断された破片をホテルのゴミ箱へ別々に捨てる。(これでとりあえず、GPSやらの追跡は遮断できたかしらね) 世良グループが今すぐ自分たちを追ってくることはない。 峻嗣は自らのAIが完璧だと信じて疑わず、全能感に酔いしれている。 琴葉のことはもはや眼中になく、伊吹のことも道端の石ころのように捨て去った。 だが、いずれ彼らは必ず動く。 来月予定されている世界同時発表会で、琴葉が仕掛けた「構造共振」の罠が牙を剥き、あの巨大な筐体が大衆の目前で粉砕されたとき。世良は面子を潰された怒りとともに原因を究明するだろう。 そうなれば、設計者である琴葉を血眼になって探すはずだ。 その時になって、持ち歩いていたスマートフォンのGPS情報や通信履歴から居場所を特定されるような間抜けな真似は、技術者として絶対に避けるべきだった。 今日、世良本社を出てすぐに足取りを消す。琴葉としては当然の対応だ。「これでよし、と」 琴葉はベッドから立ち上がり、部屋の隅に視線を向けた。 伊吹が、壁際の椅子に背筋を伸ばして座っていた。 雨の夜に路地裏で拾い上げてから数日、彼は熱を出すこともなくきちんと体調を回復させていた。 だが、まるで電源の入っていないディスプレイのように虚ろな目をしている。琴葉が話しかけなければ口を開かず、ただそこで静かに呼吸をしているだけだった。「出かけるわよ。荷物を持ちなさい」 琴葉が声をかけると、伊吹は「はい」と短く答え、立ち上がった。 
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113

「買い物はこんなところかしら。帰るわよ」「はい」 買い出しを終えて2人が向かった先は、私鉄の駅から徒歩15分ほどの場所にある、築年数の古いウィークリーマンションだった。 保証人不要で即日入居できる物件だ。 玄関の鍵を開けて中に入ると、生活感の抜けきらない独特の匂いが鼻をついた。 間取りは狭い1K。 かつて伊吹が琴葉を閉じ込めていた、あの豪奢で広大なタワーマンションとは比べるべくもない。 壁が薄いせいで、隣の部屋からはテレビの音が微かに漏れ聞こえてくる。窓の外には錆びた手すりの向こうに電線が走っている。「ま、値段にしては悪くない部屋ね」 琴葉は言いながら、部屋の中を確認した。 部屋に備え付けられている家具は、シングルサイズのパイプベッドが1つ。 窓際の小さなローテーブル、そしてブルーの布張りの2人掛けソファだけだった。 伊吹は玄関で靴を脱いだ後、部屋の入り口に立ち尽くしていた。買い物袋を両手に提げたまま、視線を床に落としている。 琴葉からの次の指示を待っているのだ。 琴葉はコートを脱いでハンガーに掛け、部屋の中央に立った。「荷物をそこに置いて」 琴葉が壁際を目線で示すと、伊吹は静かに袋を下ろした。「寝る場所を決めておくわよ。私がベッドを使う。あんたはそこ」 琴葉はブルーのソファを指差した。大人の男が横になるには明らかに窮屈なサイズだが、伊吹は表情一つ変えなかった。「分かりました」 伊吹はソファの端に腰を下ろし、膝の上で両手を組んだ。 琴葉は買ってきたばかりのノートパソコンを箱から出して、ローテーブルの上に設置した。 電源ケーブルをコンセントに繋ぎ、初期設定を済ませる。 当面の生活費と、世良グループへの本格的な反撃に向けた資金を早急に稼がなくてはいけない。 琴葉は腕に覚えのある技術者だ。フリーランスとしてやっていけるだけの目算はあった。「さっさと始めちゃいましょう」 キーボードを
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114

 さらに時間が経過し、午後になった。 琴葉が設計図のデータに目を通していると、背後で伊吹が立ち上がる気配がした。「琴葉さん」「何?」「昼食の時間が過ぎてしまっています。……琴葉さんは、何が食べたいですか。食べたいものを買ってきます」 琴葉はキーボードに置いていた手を止めた。 振り返ると、伊吹が真剣な顔でこちらを見ている。「私のことはいい。あなたが食べたいものを、あなたが決めなさい」「ですが、2人分の食事を一度に手配する方が時間的にもコスト的にも合理的です。琴葉さんの好みは僕の頭に入っています。アレルギーの有無や、最近のカロリー摂取量から逆算して……」「世良の計算式も、私の好みも関係ない」 琴葉は冷たくさえぎった。「私が聞いているのは、あんたが、今、何を食べたいかよ」「…………」 伊吹は口を閉ざした。 彼の思考はこれまで「世良一族にとっての合理性」か、あるいは「琴葉の期待を満たすこと」だけで構成されてきた。 琴葉にとっての最適解を出し、彼女が喜ぶであろう行動をとること。それが彼にとっての絶対の正解であり、すべてだった。 だからこそ、琴葉の好みを完全に把握しようとし、それに合致する服や環境を用意することに執着したのだ。 自分自身の純粋な欲求という概念が、今の彼にはすっぽりと抜け落ちている。 何をしたいか、何をすればいいのか。それが伊吹には分からない。 伊吹は困惑したように視線を泳がせた。「僕が食べたいもの……」「そう。それを考えなさい」「……栄養価の高い、完全食のゼリー飲料などでしょうか。摂取の時間が省けますし……」「それは世良の論理よ。あんた自身の答えじゃない」 伊吹の唇がわずかに動いたが、次の言葉は出てこな
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115

 同居生活が3日目を迎えた昼下がり。 伊吹は水以外を口にしておらず、頬がわずかにこけて見えた。それでも自分から「これが食べたい」とは一言も発しなかった。(まったく、手間のかかる) 琴葉は内心でため息をついて、パソコンの画面から顔を上げる。 財布から千円札を1枚抜き出した。立ち上がって伊吹が座るソファの前のテーブルに、その千円札を置いた。「外の空気を吸ってきなさい。そして、自分の昼食を買ってくること」 伊吹はテーブルの上の紙幣と、琴葉の顔を交互に見た。「……琴葉さんの分は」「いらない」 伊吹は緩慢な動作で手を伸ばし、千円札を拾い上げた。立ち上がり、玄関へ向かって靴を履く。 ドアが開閉する金属音が響く。琴葉は一人残された部屋で小さく息を吐いた。◇ ウィークリーマンションから歩いて5分ほどの場所に、中規模のスーパーマーケットがある。 伊吹は自動ドアを抜けて、明るい店内に入った。軽快なBGMが流れ、買い物カートを押す主婦や高齢者の姿が行き交っている。 彼は惣菜売り場へ向かった。平台には、色とりどりの弁当や揚げ物、サラダが隙間なく並べられている。 伊吹はショーケースの前に立ち止まり、並んだ商品を見つめた。 幕の内弁当。唐揚げ弁当。カツ丼。 パッケージに貼られたラベルの数字が、自動的に伊吹の視界に飛び込んでくる。カロリー、脂質、塩分量、それから価格。 頭の中で、世良の思考回路が勝手に計算を始めた。(この価格帯でこのタンパク質量なら、コストパフォーマンスが最も高いのは……) 伊吹は目を閉じ、小さく頭を振った。 琴葉の言葉が蘇る。『世良の計算式も、私の好みも関係ない。あんたが、今、何を食べたいかよ』 食べたいものを優先させて、世良の合理性を排除する。 では、琴葉はどうだろうか。琴葉は少し味が濃いものを好む傾向にあった。 ならば、この甘辛いタ
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116:雨上がり

 あの昼下がりに、伊吹が自らの意思で甘い菓子パンと鮭のおにぎりを選んでから、さらに数日が経過していた。  狭い1Kのウィークリーマンションには、2人の規則正しい生活のサイクルが出来上がりつつあった。 琴葉は日中、ローテーブルに広げたノートパソコンに向かい、ひたすらキーボードを叩き続けている。 世良グループに悟られないよう、海外のクラウドソーシングサイトを経由してフリーランスの設計案件を受注して、当面の生活費と反撃のための資金を稼ぐ日々だ。 一方の伊吹は、琴葉が一切の指示を出さなくなってから、少しずつ自分の頭で考えて動くようになっていた。 朝になれば自分で起き上がり、ゴミの分別をして集積所へ持っていく。  冷蔵庫の中身を確認し、足りないものがあれば財布を持って買い出しに出る。 伊吹は元々料理が得意なので、彼自身が食べたいものを中心に自炊を始めた。  たまに琴葉が料理をリクエストすると、少し戸惑いながらも嬉しそうに作っている。 琴葉が「これをしろ」と命じたわけではない。彼が自分の判断で、この生活を維持するために必要な行動を選択していた。 ◇  その日の朝から、窓の外では冷たい雨が降り続いていた。  アスファルトや窓ガラスを叩く雨音が、窓の向こうから絶え間なく響いている。 夕刻が近づいた頃、伊吹は玄関に立ってビニール傘を手に取った。「夕食の買い出しに行ってきます。何か、作業の邪魔にならない軽食も買ってきましょうか」 伊吹の問いかけに、琴葉はパソコンの画面から目を離さずに答えた。「適当に見繕っておいて。軽いのでお願い。重いものは胃が受け付けないわ」「分かりました」 短いやり取りの後、ドアが開閉する音が響き、部屋に再びタイピングの音と雨音だけが残された。 琴葉はコードの記述に没頭した。 複雑な排熱シミュレーションのプログラムを組み上げながら、時折、世良のラボに置いてきた時限爆弾の構造を脳内で反芻する。  来月
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117

「何をしているの。傘はどうしたのよ」 琴葉の問いかけに、伊吹は気まずそうに目を伏せた。「……傘は置いてきました。両手が塞がっていたので」 琴葉が眉を寄せる。 と。 彼が抱え込んでいる濡れた上着の隙間から、細い鳴き声が聞こえた。  ミー、というひどく弱々しい音。  琴葉は訝しげに、伊吹の腕の中を覗き込んだ。 丸められた上着に、泥だらけの小さな毛玉が収まっていた。  手のひらにすっぽりと収まりそうなほど小さな、子猫だった。  元の毛色がわからないほど泥水にまみれて、体毛が束になって皮膚に張り付いている。 子猫は閉じていたまぶたをゆっくりと開けた。  ビー玉のように丸く大きな瞳が、心細げに琴葉を見上げる。 短く細い尻尾を脚の間にきつく巻き込んで、冷え切った体を小刻みに動かして身を縮めていた。  小さなピンク色の鼻先だけが、ひくひくと動いている。「……拾ってきたの?」 琴葉は極めて冷静な声で事実を確認した。  伊吹は小さく頷いた。「スーパーの裏手の、段ボール箱の中にいました。雨水が溜まっていて、あのままでは命の危険が……」「ここはペット不可の物件よ」 伊吹の言葉をさえぎって、琴葉は淡々と告げた。「それに、今の私たちには猫を飼うための余分なお金も、スペースもない。明日どうなるかもわからない逃亡生活をしているのよ。元の場所に戻してきなさい」 正論だった。 かつての伊吹であれば、琴葉がそう言った瞬間に「最適な判断です」と同意し、即座に猫を捨てに行っていただろう。  世良一族の計算式においても、何の利益も生まない小動物を拾うなどという行為は完全にエラーだ。 だが伊吹は動かなかった。  濡れた前髪の奥の瞳で、まっすぐに琴葉を見返してくる。  足はその場を動こうとせず、子猫を包む腕の力は少しも緩められない。 琴葉は腕を組み、冷ややかな視線で伊吹を見た。「なぜ拾って
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118

 その瞳にもう迷いはなかった。「……琴葉さんの仰る通り、それがないとは言いません。琴葉さんならどうするか、一瞬頭をよぎりました」 伊吹は自分自身の胸の奥にある感覚を、探していくように言葉を紡ぐ。「でも、それ以上に……何よりも、この子が寒そうだったからです」「寒そうだったから?」 琴葉は小さく首を傾げた。そんな言葉が伊吹から出るのが、少し意外だったので。「はい。冷たい雨に打たれて、体温を奪われて、誰にも見つけてもらえずに震えている姿が、見ていられなかった」 伊吹は子猫を包む上着の布地を、そっと指先で整えた。「雨に濡れて寒かったあの夜、琴葉さんが僕を見つけて、このマンションに連れてきてくれた。タオルを渡されて、温かい部屋に入れてもらった。それが、とても嬉しかった。ひどく安心したんです。……だから、この子のことも、温めてあげたくて」 琴葉は伊吹の顔を数秒間、瞬きもせずに見つめた。 そこに嘘や計算の気配は微塵もない。 世良一族の冷たい合理性ではない。琴葉という依存対象のトレースでもない。  彼自身がかつて与えられた温もりを思い出し、他者の痛みを想像し、自分から何かを与えたいと願う。 それは彼自身の内側から発生した、純粋な『感情』の発露だった。(……やれやれだわ) 琴葉は小さく息を吐き出して、組んでいた腕を解いた。 峻嗣であれば、利益を生まないバグとして一瞬で切り捨てるだろう。  けれど目の前の青年は、自分の意志でバグを抱え込むことを選んだ。 人間としての自我を、もう一度取り戻そうとしている。「ちょっと待っていなさい」 琴葉は部屋に戻ってスマートフォンを手に取った。  電話帳から、このウィークリーマンションの管理会社の番号を呼び出し、発信ボタンを押す。  数回のコールの後、担当者が出た。「203号室の土井です。少しお話ししたいことがあるのですが」 琴葉は極めて事務的な、抑揚のない声で切り出した。
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119

 琴葉は言葉を区切り、玄関に立つ伊吹の方へ視線を流した。 彼は猫を抱いたまま、まだ立ち尽くしている。「しばらくの間、一時的に、小動物の保護を黙認してほしいの。鳴き声や匂いの苦情は一切出させない。部屋を出る時は敷金から特殊清掃費を引いてもらって構わない。換気扇の修理代と相殺すれば、そちらに損はないでしょう」 数分間のドライな交渉の末、琴葉は管理会社から「当面の黙認」という特例の許可をもぎ取った。 通話を切り、スマートフォンをポケットに仕舞う。 玄関に戻ると、伊吹が不安そうに琴葉を見つめていた。「猫を飼う許可は取ったわ」 琴葉の言葉に、伊吹の顔にぱっと明かりが灯ったような変化が起きた。「本当ですか……!」「ただし、条件がある」 琴葉は伊吹の目を正面から見た。「餌代、トイレの準備、体調の管理。それら一切の世話と責任は、全部あんたが負うこと。私は一切手伝わない。自分が拾うと選択した命なら、最後まで自分の手で責任を持ちなさい。できるわね?」「……はい」 伊吹は深く、力強く頷いた。 その顔には琴葉が出会ってから一度も見たことのない、決意と人間らしい熱が宿っていた。(なんだ。そんな顔、できるんじゃない)「必ず、僕が責任を持ちます」「なら、さっさと上がりなさい。あんたも猫も、泥と雨水で床を汚す前に洗面所なりお風呂場なりへ行くこと」 琴葉が靴を脱ぐスペースを空ける。 伊吹は「ありがとうございます」と短く頭を下げて、足早に洗面所へと向かった。 琴葉は廊下の壁に寄りかかり、その様子を静かに観察した。 伊吹は洗面台の蛇口を捻り、温度を確かめながら慎重に温水を出した。 傍らに置いたタオルを手に取り、腕の中の子猫に温かいお湯を少しずつかけていく。 泥が流れ落ちると、子猫の本来の毛色――淡い茶色と白のが姿を現した。茶色と焦げ茶の縞模様に、お腹は白。鼻はピンク色をしている。「
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120:反撃の理由

 電子スケールの液晶パネルに、15グラムという数字が表示される。  スケールの皿に乗せられているのは、ドライタイプのキャットフードだ。  伊吹はしっかりと測ったそれを、子猫用の陶器の皿に移し替えた。 それからキャットフードの袋の口をクリップでしっかりと止めて、部屋の隅に置かれた段ボール箱の中へ戻した。  次に陶器の皿に残っていた古い水を洗面所に捨てると、浄水器を通した新しい水を並々と注ぐ。「みゃー」 小さくて高い鳴き声がして、足元へ茶色と白の縞模様がすり寄ってきた。  洗われてすっかりきれいになった子猫は、つぶらな瞳で伊吹を見上げている。 彼はわずかに微笑んだ。「お腹がすいたかい? ほら、ごはんだよ。お水も替えておいたからね」 伊吹は2つの皿を床の定位置に置く。「みゃあ!」 子猫は嬉しそうに皿に顔を入れて、キャットフードを食べ始めた。  カリカリ、と音を立ててドライフードが噛み砕かれていく。 洗われてきれいになった子猫は、一度動物病院に連れて行ったが、特に病気もなく健康だった。  毎日食欲旺盛で、キャットフードをよく食べている。  この分なら、すくすくと成長していくだろう。 子猫の食事をしばらく見届けた後、彼は立ち上がり、ほうきとチリ取りを手にした。 猫がプラスチック製のトイレから蹴り出した猫砂を、フローリングの溝から丁寧に掃き出す。  汚れた消臭シートを引き抜いて新しいものと交換し、使用済みのシートは小さなビニール袋に入れて空気を抜き、匂いが漏れないよう口を固く結んでから蓋付きのゴミ箱へ捨てた。その後、洗面所で石鹸を使って念入りに手を洗う。 流れるような一連の動作に、琴葉への確認や指示待ちの姿勢は一切なかった。  完全に自立した、彼自身の判断による生活のサイクルだった。 ◇  琴葉はローテーブルに置いたノートパソコンの画面から視線を外し、その様子を横目で観察していた。
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