だが、琴葉の足は動かなかった。(……やれやれだわ) 胸の奥で、苛立ちとも呆れともつかない感情が渦を巻く。 かつて自分を支配しようとした男の面影は、今の伊吹にはこれっぽっちも残っていなかった。 目の前の青年はただ雨に打たれ、体温を奪われ、生きる気力すら手放して座り込んでいる。 伊吹のスーツから、雨水が滴り落ちて地面に小さな水たまりを作っている。 琴葉は小さく舌打ちをした。 放っておけない。 彼女の脳裏に、伊吹と過ごした時間がよぎる。 幼い琴葉が好きだと言った紫色の服で、クローゼットをいっぱいにしたこと。 土井精機の工場で、2人で徹夜の作業をしたこと。 そして、20年前の記憶。 小さくて泣き虫だった伊吹の姿。あの頃はただ、『琴葉お姉ちゃん』と無邪気に慕っていただけだった。 その後の彼の過酷な境遇が、あの歪んだ男を生んだのかもしれない。(簡単に許せるものじゃない。でも……) そんな思いがちらついて、琴葉の足を止めた。 琴葉は一歩踏み出して、持っていたビニール傘を伊吹の頭上に差し掛けた。 雨粒が顔を打たなくなったことで、伊吹がわずかに反応した。 ゆっくりと、錆びついた部品が擦れるような動作で顔を上げる。「……いつまでそこで濡れているつもり?」 琴葉は淡々とした声で問いかけた。 伊吹の青白い顔に、微かな動揺が走った。 雨に濡れた琴葉の姿を視界に捉えて、それが現実なのか幻覚なのかを判別しようとしているようだった。 血色のない唇が微かに動き、かすれた声が漏れる。「……琴葉、さん……?」「そうよ。幻じゃないわ」「どうして……」「たまたま通りかかっただけ。あんた、世良を追い出されたのよね」 事実だけを突きつける。伊吹は目を伏せ、力なく首を縦に振った。「僕は……もう、空っぽです」 声には何の抑揚もなかった。「何も残っていない。世良の人間でもないし、あなたを縛る権利も、もう……」「知ってるわよ、そんなこと」 琴葉は短くさえぎった。慰めるつもりも、哀れむつもりもない。 ただ、このままここで雨に打たれて死なせるつもりもなかった。「立って、伊吹」 伊吹は顔を上げた。その目には、理解できないものを見るような戸惑いが浮かんでいる。 琴葉は手を差し出さなかった。自分で立たなければ、意味がない。「……私が拾っ
Read more