All Chapters of 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~: Chapter 121 - Chapter 130

157 Chapters

121

 琴葉は座椅子に深く腰を掛け直し、再びディスプレイに意識を集中させた。 画面には、いくつものターミナルウィンドウと、複雑な配線図が重なるように展開されている。  来月、東京都内の高級ホテルで開催される「世良グループ世界同時発表会」。そこが琴葉の反撃の舞台だ。 地下のラボに残してきたあのAI筐体には、琴葉が仕掛けた構造共振の罠が眠っている。 発表会の当日、最高のパフォーマンスを世界に見せつけるため、世良峻嗣は必ずシステムの稼働率を100パーセントまで引き上げるだろう。  その瞬間、極限までパーツが密着したあの筐体は逃げ場のない振動を引き起こす。自らのパワーによって内側から完全に粉砕される。(でも、ただ機械が壊れるだけでは意味がない) 琴葉は考える。 物理的な破壊が起きた瞬間、世良側は即座にメイン電源を落とし、「軽微なハードウェアのトラブルが発生した」と嘘の発表をして隠蔽を図るはずだ。 それを防がなければならない。 琴葉が今組んでいるのは、発表会当日にホテルのメインスクリーンと音響システムを外部からジャックするプログラムだった。  AIが粉砕されると同時に、内部のエラーログと熱暴走のデータを全世界のメディアに向けて強制配信する。(言い訳ができないほど、完璧に叩きのめさなければならない) 琴葉がここまで徹底的な破滅を狙うのには、3つの理由があった。 第一に、実家の土井精機を守るため。 もし隠蔽を許せば、世良の権力と資本は無傷のまま残る。  彼らは裏で密かに原因を探す。設計に細工をした琴葉を特定すれば、報復として土井精機ごと社会的に抹殺するだろう。 それを防ぐためには、世良の権力が及ばない全世界のメディアの面前で、「世良の最新AIは、人間を排除した欠陥設計のせいで自壊した」という事実を確定させ、彼らの社会的信用を地に堕とすしかない。 第二に、技術者としての矜持。 峻嗣と宗佑は、現場の人間が持つ技術や、メンテナンスのための空間という概念を「無駄なバグ」と呼び、徹底的に貶めた。
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 しかし、作業は予定通りには進んでいなかった。 琴葉はマウスをクリックし、ホテルの大ホールのネットワーク構成図にアクセスを試みる。  画面の中央でバーが数秒間停止し、直後に短いエラー音とともに『アクセス拒否』の赤い文字列がポップアップした。 世良グループのメディア統制プロトコルは強固だった。  発表会当日の隠蔽手順や、メインスクリーンへの映像出力系統の最新データが、分厚いファイアウォールの向こう側に隠されている。「……面倒ね」 琴葉は短く舌打ちをし、背もたれに寄りかかって腕を組んだ。 正面から突破するには時間が足りない。  脆弱性を突くための足場を探そうと、別のターミナルウィンドウを立ち上げた時だった。「……会場のネットワークへの侵入経路を探しているなら、そのポートはダミーです」 背後から、静かな声が降ってきた。 琴葉が肩越しに振り返ると、いつの間にか猫の世話を終えた伊吹が立っていた。 彼は琴葉の背後から、ディスプレイに表示された設計図とエラーコードの羅列を見つめている。 かつての伊吹であれば、琴葉が作業に詰まっているのを見た瞬間、「琴葉さん、お茶を淹れました。脳の疲労を回復させるために3分間の休息を推奨します」などと、自分のペースと気遣いを押し付けてきただろう。 しかし今の彼は、ただ黙って画面の推移を追っている。琴葉が何を意図して、どこでつまづいていているのかを正確に読み取っていた。「ダミー?」 琴葉が問い返すと、伊吹は一つ頷いた。「ええ。世良の広報部は、世界規模の発表・デモンストレーションを行う際、ホテルの既存回線や表向きのイベント用サーバーは一切信用しません。彼らは必ず、物理的な独立サーバーを裏に持ち込み、独自のイントラネットを構築してメインスクリーンと音響を制御します。今あなたが叩いているのは、外部からの攻撃を逸らすための囮のポートです」 琴葉は画面に向き直り、入力していたIPアドレスの履歴を確認した。  なるほど、と合点がいく。いくら叩いても中身のデータがスカスカだっ
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 そこにはもう、世良一族の論理に縛られた部品の姿はない。そして、「琴葉お姉ちゃんに褒められたい」という盲目的な依存もなかった。 伊吹は自らの意志と判断で、自分を切り捨てた世良を撃つことを選んだのだ。 琴葉は数秒間、伊吹と視線を交え続けた。 彼の覚悟に嘘がないことを見極めると、琴葉は小さく息を吐き出し、再びパソコンの画面へと向き直った。「言ってみなさい」 短い指示が飛ぶ。 伊吹は即座に口を開いた。「192.168から始まるローカルIPではありません。外部のクラウドを経由させた固定IPです。104.28……」 伊吹がスラスラと読み上げる数字の羅列を、琴葉は正確にターミナルへと打ち込んでいく。 IPアドレスの入力が完了すると、伊吹は続けて暗号化キーの生成規則を説明した。「シフトキーは当日の日付。そこに、宗佑の誕生日を加算したハッシュ値を通します」「……随分と身内びいきなパスワードね。古典的すぎて吐き気がするわ」 琴葉は呆れたように言い捨てる。指定された規則に則ってキーを生成し、エンターキーを強く叩いた。 一拍の間の後、これまで弾かれ続けていた赤いエラー画面がふっと消滅した。 代わりに、緑色の文字列が滝のように流れ落ちた。ホテルの裏回線のセキュリティが完全に突破されたのだ。 画面には、物理サーバーからメインスクリーン、音響設備、照明に至るまでの深層のシステム図が展開された。「ビンゴね。アクセス権限、フルで取れたわ」 琴葉の猫に似た瞳が細められる。 彼女はローテーブルの上に置いてあった、自分が普段使っているサブのタブレット端末を引き寄せると、画面をメモアプリに切り替えて伊吹の方へ滑らせた。 タブレットが、テーブルの上を滑って伊吹の膝元で止まる。「発表会の進行表のタイムラインと、メディアが入るカメラの配置図を書き出しなさい。隠蔽が物理的に不可能になる、最高のタイミングを逆算して発動時間を設定するわよ」 伊吹はタブレ
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124:初めての看病

 ウィークリーマンションの一室には、規則正しいタイピングの音だけが延々と響いていた。 世良グループの世界同時発表会は、来月に迫っている。 その会場のネットワークを乗っ取るためのハッキングプログラムの構築は、最終段階に差し掛かっていた。 琴葉はモニターのブルーライトを浴びながら、キーボードを叩き続ける。 ここ数日、まともな睡眠をとっていなかった。食事も適当なゼリー飲料で済ませ、ひたすらコードの記述に没頭している。(あと少し。最後の追い込みよ。この関門さえ突破できれば、世良の隠蔽工作を完全に封じ込めることができるわ) 無意識のうちに奥歯を噛み締めて、画面上のエラーログを1つずつ潰していく。 ふと、膝の上に温かい重みを感じた。 視線を落とすと、茶色と白の縞模様をした子猫が、琴葉の足の上で丸くなっている。雨の夜に伊吹が拾ってきた、まだ名前のない猫だ。「ミャー」 子猫は小さな口をあくびで大きく開け、ピンク色の舌をのぞかせた。それから琴葉の太ももに前足を押し当てて、ふみふみと毛布を踏むような仕草を繰り返した。(呑気なものね。でも、この温かさは助かるわ) さながら天然の湯たんぽだ。 琴葉は思わず微笑む。 撫でてやりたい衝動に駆られたが、今はキーボードから手を離せない。 子猫はしばらくふみふみした後、満足したのか、長いしっぽを体に巻き付けて再びすやすやと寝息を立て始めた。 パソコンの排気口から漏れる温かい風が当たる、絶好のポジションを見つけたらしい。「よし、コンパイル完了……」 最後のコマンドを打ち込み、エンターキーを叩いた。画面に『SUCCESS』の緑色の文字が表示される。 その瞬間、琴葉の中で張り詰めていた糸がプツリと切れた。「あ……」 子猫を脇に避けて立ち上がろうとした琴葉の視界が、ぐにゃりと大きく歪んだ。 強い目眩が頭を揺らす。同時に、全身の関節がきしむような嫌な痛みが走り、ぞくぞくと悪寒が背中
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「別に平気だから……」 琴葉は起き上がろうとするが、体に力が入らない。「無理に動かないでください。ベッドへ運びます」 伊吹は琴葉の背中と膝裏に腕を差し入れて、慎重に抱き上げた。 その力強い腕の動きには、彼女を少しでも揺らさないようにという細心の注意が払われていた。 ◇  安物のパイプベッドに横たえられると、スプリングが軋む音がした。 琴葉は荒い息を吐きながら、天井を見つめる。視界がぼやけて、焦点が定まらない。 伊吹はベッドの脇に立ち尽くし、迷うように視線を泳がせていた。(どうするの、伊吹。世良のマニュアルはないわよ) 熱でぼんやりとする頭の片隅で、琴葉は彼を観察していた。「待っていてください。すぐに冷やすものを用意します」 伊吹は足早にキッチンへ向かった。冷凍庫を開ける音、氷を袋に詰める音が聞こえてくる。 ガシャッ、と氷が床に散らばる音が響いた。「あ、くそ……」 伊吹の焦ったような声が漏れる。普段の彼なら絶対にしないようなミスだ。拾い集める足音がドタバタとせわしない。 やがて、ビニール袋に氷と水を入れた即席の氷枕を持って、伊吹が戻ってきた。それを薄手のタオルでくるみ、琴葉の頭の下にそっと差し込む。「これで、少しは楽になりますか」「ええ……冷たくて気持ちいいわ」 琴葉がかすれた声で答えると、伊吹はホッとしたように肩の力を抜いた。 さらに彼は洗面所で濡らしてきたタオルで、琴葉の額や首筋に浮かんだ汗を拭き取り始める。 その手つきは、お世辞にも洗練されているとは言えなかった。タオルの絞り方が甘く、ポタポタと水滴が琴葉の鎖骨のあたりに落ちてくる。「あっ、すみません。冷たいですよね」「いいのよ。気にしないで」 慌てて水滴を拭き取る彼の指先が、琴葉の肌に触れる。その手は微かに強張っていた
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「伊吹……」「はい。何ですか、琴葉さん。水が飲みたいですか?」「ううん。少し、眠るわ。……あんたも、猫の世話があるんだから、無理しないで休みなさいよ」「僕のことは気にしないでください。ずっとそばにいますから」 伊吹の言葉に嘘はない。琴葉は重くなるまぶたを閉じ、氷枕の冷たさと子猫の温もりの中で、深い眠りへと落ちていった。 ◇  目を覚ますと、部屋の窓から差し込む光はすでに西日に変わっていた。  オレンジ色の光が、白い壁を淡く染めている。 熱はいくらか下がったようで、関節の痛みは引き、頭の重さも和らいでいた。  顔の横を見ると、子猫はまだ同じ場所で丸くなって眠っている。寝息に合わせて、小さな背中が規則正しく上下していた。 ふと、キッチンの方から出汁の良い香りが漂ってきた。(何か作ってるのね) 体を起こそうとすると、ベッドの軋む音に気づいた伊吹が、お盆を持って小走りにやってきた。「琴葉さん、目が覚めましたか。体の具合はどうですか」「だいぶ楽になったわ。汗をかいたから、熱は下がったみたい」 伊吹はベッドの脇の丸椅子に腰を下ろし、お盆をテーブルの端に置いた。  お盆の上に乗っていたのは、湯気を立てる温かい雑炊だった。 かつてタワーマンションで彼が作っていた、卵の甘みが際立つ極甘の卵焼きや、高級ホテル顔負けのフランス料理ではない。  スーパーで買ってきた市販の卵と、少し太めに刻まれたネギ。そして冷やご飯を和風の出汁で煮込んだだけの、極めてシンプルな料理だ。「何も食べていなかったでしょう。胃に負担がかからないように、お粥のようなものを作ってみました」 伊吹はスプーンで雑炊をすくい、ふーふーと息を吹きかけて冷ます。「自分で食べられるわよ」「熱いですから。僕にやらせてください」 真剣な顔で引き下がらない彼に、琴葉は小さく息を吐いて妥協した。  差し出されたスプーンを口に含む。  卵の甘みと出汁の風味が
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「よかった……。本当に、よかったです」 伊吹は胸を撫で下ろし、再びスプーンで雑炊をすくった。「さあ、冷めないうちにどうぞ」 琴葉は大人しく、伊吹の運んでくる雑炊を口に運び続けた。 ◇  微熱でわずかにぼんやりとする頭の中で、琴葉は目の前の青年を見つめていた。 白いシャツの袖をまくり上げ、真剣な顔でスプーンを動かしている。ネギの太さや出汁の濃さを気にして、一喜一憂する姿。 そこには、かつて自分を完璧な鳥籠に閉じ込め、すべてを管理・支配しようとした冷徹な男の面影はどこにもない。(ただの世話焼きな男の子じゃない) 世良一族の呪縛から解き放たれ、自分の意志で大切な人を気遣おうと必死になっている普通の青年。 それが今の伊吹だった。「みゃお」 子猫が目を覚まして伸びをした。 ベッドから飛び降りて、伊吹の足首にすりすりと頭を擦り付ける。お腹が減ったから、ご飯の催促だろう。「ちょっと待ってね。琴葉さんの食事が終わったら、君の分も用意するから」 伊吹が子猫に語りかける声は、ひどく穏やかだ。「あんたも、ずいぶんと人間らしくなったわね」 琴葉がぽつりとこぼすと、伊吹は不思議そうに首を傾げた。「そうですか? 自分ではよく分かりません」「分からないなら、それでいいわ。その方がずっとマシよ」 雑炊を半分ほど食べたところで、琴葉は「もうお腹いっぱい」と首を横に振った。「分かりました。薬を買ってきてあるので、飲んでください」 伊吹が手渡してくれた風邪薬を水で飲み込む。 薬の成分のせいか、再び急激な眠気が襲ってきた。 琴葉は毛布に深く潜り込み、横を向いた。 その背中に、伊吹は心配そうに語りかけた。「琴葉さん。病院に行った方がいいと思うのですが、行けそうですか?」「行かない。もう熱は下がってきたから、ただの風邪で
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128:口喧嘩

 ウィークリーマンションの一室では、一度は途切れていたタイピングの音が再び響き始めていた。 キーボードを叩く琴葉の指先の感覚は、すっかり普段の軽さを取り戻している。 数日間の熱にうなされたのが嘘のように、頭の中の霧は晴れ渡っていた。 ローテーブルの脇で、茶色と白の縞模様が跳ねる。「ミャオッ!」 高い鳴き声がして、丸めたレシートが琴葉の足元に転がってきた。 伊吹が雨の夜に拾いってきた、名無しの保護猫だ。 こまめに世話をされているおかげで毛並みはふかふかに整って、栄養状態もすっかり改善している。 猫はカーペットを蹴って飛び上がり、空中の見えない獲物を捕まえようと短い前足を振り回した。 着地に失敗してコロンと転がる姿が、どうにも愛らしい。「元気ね、あんた。私の体調が戻ったのを見計らって暴れてるわけ?」 パソコンの画面から目を離し、足元に転がってきたレシートを指で弾き返す。 猫は目にも留まらぬ速さでそれに飛びくと、後ろ足でケリケリと連続キックを浴びせ始めた。ピンク色の肉球がせわしなく動く。 子猫は自由奔放に見えて、人間の感情を読むことも多い。 琴葉が風邪でダウンしていた時は、心配そうにしていた。 こんな小さな生き物でも、人を思いやる心を持っている。「琴葉さん、体調はもう完全に平気ですか?」 キッチンで洗い物を終えた伊吹が、手を拭きながらリビングに戻ってきた。 仕立ての良かった白シャツはすっかり着古され、袖口は折り曲げられている。少し伸びた前髪が、彼の端正な目元に影を落としていた。「ええ。もう完璧。喉の痛みもないし、熱も平熱よ」「よかったです。でも、無理は禁物ですからね。免疫力が下がっている間は、質の高い睡眠と栄養を……」「はいはい、わかったわよ。それより、冷蔵庫の中身がすっからかんなの。今日の夕飯の材料もないわよね」 琴葉は立ち上がり、軽く肩を回した。「買い出しに行きましょう。逃亡生活の資金も節約しなきゃい
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 伊吹は素直に眼鏡をかけて、キャップを目深に被った。 それでも、彼の顔立ち――鼻梁の高さや骨格の美しさは隠しきれない。安物のコートを着ていても、隠しきれない品性が漂っている。「ミャー」 玄関で靴を履いていると、猫がトコトコとやってきて伊吹の足首にすり寄った。 伊吹はしゃがみ込み、猫のあごの下を指先で優しく撫でる。「お留守番、頼んだよ。いい子にしていてね」 猫は喉をゴロゴロと鳴らし、目を細めて気持ちよさそうにしている。(すっかり懐いてるわね。伊吹が拾って、世話してるんだから当然だけど) 琴葉はその光景を横目で見つつ、ドアノブに手をかけた。 開いたドアからは、数日ぶりの外の空気が流れ込んでくる。 何の変哲もない都会の空気だが、琴葉には新鮮に感じられた。 ◇ 琴葉と伊吹が向かったのは、ウィークリーマンションから徒歩5分程度の場所にあるスーパーだ。 庶民的なスーパーで、今は夕方の特売を狙う客でごった返していた。 陳列棚からは楽しげなBGMが流れている。スーパー独自の歌のようだ。 揚げ物の油の匂いや、鮮魚コーナーの潮の香りが入り混じっていた。 世良のタワーマンションの地下にあった高級スーパーとは、別世界の喧騒だった。 伊吹は買い物カゴを腕に提げて、野菜コーナーの前に立っていた。 彼は大根を2本両手に持ち、真剣な顔で交互に見比べている。「琴葉さん。右の大根は葉が切り落とされていますが、根元の張りから見て水分含有量が多い。しかし、左の大根は100グラムあたりの単価が3円安いです。どちらをカートに入れるべきでしょうか」「……あなた、そんなことまで気にするようになったの」 琴葉は思わず吹き出しそうになるのを、ぐっとこらえた。 かつては「価格など気にする必要はありません。最高のものを手配します」と言い放っていた御曹司が、今や数円の差額で真剣に悩んでいる。 その生活感あふれる姿のギャップ
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 これまでの伊吹なら、「琴葉さんの食べたいものでいいです」か、あるいは「豚肉と野菜の組み合わせは疲労回復に最適です」といった、私に合わせるか合理性に基づく返答しかしないはずだった。 純粋に自分が食べたいものを主張してくるなんて、初めてのことだ。「ハンバーグ? 油の処理が面倒じゃない。玉ねぎを刻むのも時間がかかるし」 琴葉は豚肉のパックをカゴに押し込もうとする。 伊吹はカゴの縁を掴み、一歩も引かない。「油の処理は僕がやります。それに、玉ねぎのみじん切りはすでに僕の得意分野です。先日のオムライスで証明したはずです」「特売の合い挽き肉じゃ、大して美味しくならないわよ。パサパサになるだけだわ」「合い挽き肉でも、こねる温度と香辛料の工夫で絶対に美味しく作れます。氷水でボウルを冷やしながら手早くこねれば、肉汁を閉じ込めることが可能です」 彼の瞳には、妙な熱がこもっている。(なんなのよ、その無駄な情熱は) 琴葉は豚肉のパックを持ったまま、呆れて彼を見上げた。 ◇  スーパーの通路の端で、2人の言い合いは白熱していった。 買い物客がチラチラと彼らを見ながら通り過ぎていくが、伊吹は周囲の目など気にする様子もない。「伊吹、最近自己主張が強くなったんじゃない? 少しは妥協しなさいよ。野菜炒めの方が早いのよ」 琴葉は声を潜めつつ、きつい口調で言い放つ。 伊吹も負けじと、伊達眼鏡の奥の瞳を真っ直ぐに向けてきた。「琴葉さんこそ、頭ごなしに否定するのはよくないと思います。僕の提案にはちゃんとした勝算があるんです。特売の肉であっても、調理の技術でカバーできる。それに、僕が食べたいと言っているんです」「ちゃんとした勝算ですって? 洗い物が少ない野菜炒めの方がずっと合理的じゃない!」「食事は単なる栄養補給ではありません。食べたいものを食べることで得られる精神的充足感も、計算に含めるべきです!」 彼の言葉に、琴葉は思わず目を瞬かせた。
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