All Chapters of 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~: Chapter 91 - Chapter 94

94 Chapters

91:新しい地獄

 琴葉を乗せたワンボックスカーは、港湾地区の倉庫街へと入っていった。 倉庫の1つ、錆びついたシャッターが開くと、車はその中へと入り込んだ。 その倉庫の外観は廃墟同然だった。 けれど一歩中に足を踏み入れた琴葉は、その先に広がっている光景に目を見張った。 天井の高い空間は薄暗いが、きちんと手入れされている。埃っぽさは少しもない。 ひんやりとした空気が肌を刺す。最適な温度に管理された空調の風だ。 床は打ちっぱなしのコンクリートだが、綺麗に掃き清められている。 無数の太いケーブルが幾何学模様のように整然と這っていた。 壁一面には、サーバラックが設置されている。 サーバーラックの青白いランプが、まるで深海の生物のように静かに瞬いていた。「……いい匂い」 車を降りた琴葉は、深く息を吸い込んだ。 オゾンと熱されたシリコンの匂い。 ペントハウスの無臭の空間とは違う、何かが稼働し、計算し、生きている場所の匂いだ。 彼女が馴染んだ場所、本来いるべき場所の匂いだった。「やあ。逃亡者にしては、随分とラフな格好だな。……姪っ子ちゃん」 巨大なマルチモニターと、サーバーラックが囲んでいる空間の中心から声がした。 場違いなほど上質な革張りのソファに、1人の男が優雅に足を組んで座っていた。 ――世良峻嗣。 つい先日、伊吹と琴葉の策略によって追い落とされた、世良グループ総帥の実弟である。 彼は半導体製造装置のための特殊合金の乗っ取りを企み、失敗した。 現在は主だった役職を解かれ、不正の追及を受けている。(取り調べ室で缶詰だと思っていたけど。もう終わったのね) 琴葉は油断なく猫に似た瞳を細めながら、相手を見た。 峻嗣の本来の得意分野はIT関係。特に彼自身も名うてのエンジニアである。 言い換えれば凄腕のプログラマー、もしくはハッカー。 世良グループのネットワーク会社『世
last updateLast Updated : 2026-03-08
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「機能的でいいわ。気に入った」「当然だ。俺が選んだ物だからな」 峻嗣は満足げに頷くと、ソファから立ち上がって作業台へ琴葉を招いた。 そこには、剥き出しの基板と冷却ファンが複雑に絡み合った機械が鎮座していた。「これは?」「見ての通りだ。兄さんの……宗佑のAIに対抗するための新型演算ユニットだが、見ていられないほど醜い」 峻嗣が顔をしかめた。「俺の書いたコードは完璧で美しい。だがハードウェアが悲鳴を上げている。無能なハード屋のせいで、排熱処理が追いついていないんだ」「……なるほど」「この熱暴走は、設計の欠陥だ。直したまえ。俺のコードに見合う『器』に仕立て直すんだ」「へえ。言うだけあって、中身は化け物級ね」 琴葉はモニターに表示されたエラーログを確認し、目を輝かせた。 普通のエンジニアなら匙を投げるような、無茶苦茶な要求スペック。けれどもそれが琴葉の職人魂に火をつけた。「ここ、ヒートシンクの配置が美しくないわ。空気の流れを殺してる。工具貸して」 助手が工具箱を差し出した。工具類が整然と並べられている。 琴葉はその中からドライバーを手に取った。迷いなくユニットに手を伸ばす。「貸して。私がもっとエレガントに組み直してあげる」 琴葉はドライバー片手に、にやりと笑ってみせた。◇ 深夜、静寂に包まれたラボに、クラシック音楽が低い音量で流れている。 峻嗣が趣味で流しているBGMだ。 機械の稼働音にかき消されそうでいて、不思議な調和を奏でていた。「ふぅ……」 琴葉は休憩用のソファに座り込んで、大きく息を吐いた。 作業台の上のユニットは、今は静かに安定した駆動音を立てている。「飲め。カフェインが必要だろう」 峻嗣がエスプレッソの入ったカップを差し出した。 ふわりと漂う、深煎り
last updateLast Updated : 2026-03-09
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93:楽園の崩壊

 18時、都心の空が茜色から群青色へと変わる頃のこと。 伊吹はタワーマンションのエレベーターを降りた。その足取りは、雲の上を歩くように軽い。 腕には琴葉のイメージに合わせて選んだ、白い百合の花束を抱えている。「ただいま、琴葉さん! 予定より少し早く戻れましたよ」 伊吹は弾む声で言いながら、玄関のロックを解除した。 昨夜の幸せな記憶が、脳裏でリピートされている。『忘れられない夜になりそう』 と微笑んだ彼女。自分を受け入れてくれた、愛する妻。 今日はデリバリーの予定だ。 メニューは琴葉の食べたいものでいいが、一緒に選んでみるのも楽しいかもしれない。「琴葉さん? ……おや、シャワーですか?」 返事がない。リビングは薄暗く、静まり返っていた。 デリバリーが届いている様子もない。 伊吹は微笑みを崩さないまま、リビングへと足を踏み入れた。「準備中なら構いませんよ。ゆっくり支度して――」 言葉が途切れた。伊吹の足がピタリと止まる。 ダイニングテーブルの中央に、何かがある。 天井のスポットライトに照らされて、小さな金属片が鋭い光を放っていた。「…………あ」 バサッ。伊吹の腕から花束が滑り落ちた。白い百合が床に散らばる音が、リビングに波紋を描くように広がっていく。 テーブルに置いてあったのは、彼が贈ったプラチナの結婚指輪だった。 手紙もメモもない。ただ裸の指輪だけが、むき出しのままでテーブルの上に光っている。「……琴葉、さん?」 伊吹の声が震えた。嫌な予感が背筋を駆け上がる。彼は弾かれたように走り出した。「琴葉さん! どこにいるんですか!」 洗面台、バスルーム、いない。 テラスには出られないようにしておいた。 寝室のドアを荒々しく開ける。無人だ。 クロ
last updateLast Updated : 2026-03-10
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 琴葉が自らの意思で、この楽園を捨てて逃げ出した。その事実を認めそうになり、心が千切れそうになる。 だが、その時。伊吹の脳裏に、ある可能性が閃いた。(待てよ) 伊吹は顔を上げた。 その瞳から、怯えた子供のような色は消えていた。 代わりに宿ったのは、冷徹なシステム管理者の光だ。 彼は素早くノートPCを開いた。スマートホームの管理ログにアクセスする。 キーボードを叩く音が、誰もいない部屋に響く。「……やはり」 ログには明確な痕跡が残っていた。 15時00分ジャスト、システムエラー発生。外部からの特定パケットによる、バッファオーバーフロー攻撃。 事故でも故障でもない。 極めて高度な技術を持った何者かが、意図的にセキュリティをダウンさせたのだ。「琴葉さんが、自分で逃げたわけじゃない」 伊吹の表情に、生気が戻っていく。(そうだ。彼女は僕を愛している。逃げる理由なんてない。つまり――)「誰かに、連れ去られたんだ」 伊吹はログに残された攻撃コードの癖を何度も確かめた。 美しくも性格の悪い、特徴的な記述が踊っている。見間違えるはずがない。 何度も権力闘争をして、とうとう追い落とすのに成功したはずの相手。「……峻嗣、叔父さん」 パズルのピースが埋まった。 あのひねくれた叔父が、琴葉の技術者としての好奇心を刺激し、言葉巧みに騙して誘い出したのだ。 そして、あの汚い掃き溜めのようなラボへ引きずり込んだ。「許さない」 伊吹の拳が震えた。 ただの怒りではない。純粋な義憤と、琴葉への恋慕が胸を満たしていく。「僕の琴葉さんを……僕の大切な宝物を、騙して奪うなんて」(可哀想な琴葉さん。きっと今頃、油と埃にまみれた場所で、後悔して泣いているに違いない。温かい家も、美味しい食事もない場所で、叔
last updateLast Updated : 2026-03-11
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