All Chapters of 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~: Chapter 131 - Chapter 140

157 Chapters

131

「本当ですか! はい、もちろんです。最高のハンバーグにしてみせます」 伊吹の顔がパッと明るくなる。嬉々として合い挽き肉のパックを選び始めた。 ◇  伊吹が満足そうにパン粉やナツメグをカゴに入れているのを横目で見つつ、琴葉はレジへと向かった。 琴葉は何気なく買い物カゴの中身を覗き込む。 牛乳、卵、野菜、合い挽き肉……。 その隙間に、見慣れない派手なパッケージの小袋が紛れ込んでいるのを発見した。「……ちょっと、伊吹」「はい、何でしょう」「これ、あんたが勝手に入れたのね」 琴葉は小袋を2本の指でつまみ上げた。 それは、特売の猫用おやつだった。まぐろ味のペースト状で、小分けのパックになっている。 伊吹は一瞬、目を泳がせた。「……あの子も、たまには美味しいものを食べたいはずですから。毎日同じカリカリばかりでは、きっと飽きてしまいます」「私が言いたいのは、余計な出費をしてるんじゃないかってことよ。生活費は限られてるんだから」「僕のお小遣いから出します」 伊吹は即答した。 琴葉が渡しているごくわずかな生活費の余りを、自分のために使うのではなく、あの名無しの猫のために使おうとしている。「……ふうん。随分と親バカになったものね」「親バカではありません。あの子への責任を全うしているだけです。それに、これを見せればあの子は喜んで僕の足にすり寄って来るでしょう」 子猫が甘えてくる様子を想像しているのだろう、伊吹は妙に嬉しそうだ。「それが親バカだって言ってるのよ」 琴葉は呆れ果てて、猫用おやつをカゴに戻した。 レジに並びながら、伊吹はカゴの中のおやつを愛おしそうに見つめている。 彼の中で、あの猫の存在がどれほど大きくなっているのか、よく伝わってくる表情だった。
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132:小さなトラブル

 ウィークリーマンションの一室に、暖かな午後の日差しが差し込んでいる。 琴葉はノートパソコンの画面から視線を外し、大きく伸びをした。 肩の関節がポキリと鳴る。 ここ数日の過酷なプログラム構築作業が、ようやく一つの区切りを迎えたのだ。 キッチンまで行ってコーヒーを淹れる。 マグカップから立ち上る湯気を眺めながら、部屋の中を見渡した。 視線の先には、丸い毛玉が一つ転がっている。 茶色と白の縞模様の毛玉だ。 雨の夜に伊吹が拾ってきた名無しの保護猫だった。 子猫が拾われたばかりの頃は、汚れて痩せこけていた。それが嘘のように、今ではふっくらと丸みを帯びている。 わずかな間に、体も一回り大きくなったようだ。 毛並みはツヤツヤで、歩くたびに柔らかい毛が波打った。「にゃおん」 猫はフローリングの床をタタタッと軽い足音を立てて走り回っている。 今は、窓から差し込む光の帯の中で踊る小さなホコリに夢中だ。 後ろ足で立ち上がり、短い前足を空中でシャカシャカと素早く動かす。 見えない敵と格闘しているような姿は可愛らしい。時には予想外の動きも見せるので、いくら見ていても飽きない。 子猫は成長とともに運動能力がどんどん上がっていて、ジャンプ力は抜群だ。 もう少し大きくなれば、この部屋の一番高い棚の上までも上がってしまうだろう。 琴葉としては、壁で爪とぎをされないように気をつけている。 資金に余裕のない現状、マンションの敷金の無駄遣いはしたくない。「にゃうっ」 子猫は着地に失敗してコロンと転がると、すぐに起き上がって何事もなかったかのように毛繕いを始める。 ピンク色の小さな舌が、前足を丁寧に舐めていた。 耳の裏を器用に洗う仕草が、ひどく愛らしい。 琴葉はコーヒーを一口飲み、マグカップを持ったままローテーブルの方へ歩み寄った。 そこには、伊吹が座っている。 彼は琴葉が仕事をするためのスペースを避けて、テーブルの端の狭い領域に自分の陣
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133

 琴葉はマグカップをテーブルに置き、ソファに腰を下ろした。 決戦の日――世良グループの世界同時発表会が、数日後に迫っている。 琴葉が構築したハッキングプログラムは、すでに完成の域に達していた。 あとは当日、世良峻嗣がシステムの稼働率を限界まで引き上げるのを待つだけだ。(いよいよね。あいつらの鼻っ柱をへし折ってやる) 胸の奥で、冷たい闘志が燃える。 世良峻嗣と一族は技術者の矜持を軽んじ、身内であるはずの伊吹をあっさりと捨ててみせた。 その傲慢さに一矢報いることは、琴葉にとってプライド以上の意味を持つ。 危険さは覚悟の上だ。やる以外の選択肢はない。「にゃっ」 短い鳴き声がして、猫がソファの足元へやってきた。 琴葉の靴下をクンクンと嗅ぎ、そのままゴロンと横になってお腹を見せる。 撫でてほしいアピールだ。 琴葉が手を伸ばしてそっとお腹を撫でてやると、猫は喉をゴロゴロと鳴らし始めた。 前足の爪を出したり引っ込めたりして、空中でふみふみと足踏みをしている。「可愛いわね。こんなに無防備でいいの?」 お腹をちょいちょいと突いてやれば、子猫は目を細め、ピンク色の鼻先をスンスンと動かした。 ――ガタガタンッ! その時、窓の外でトラックが通り過ぎる大きな音がした。「にゃ!?」 驚いた子猫が跳ね起きる。 丸い目をさらに丸くして、耳をピンと立てた。尻尾がちょっと膨らんでいる。 視線が、ローテーブルの端で揺れるペンの先に移る。 伊吹が買い出しのメモを書くために動かしている、ボールペンの銀色のクリップ部分。 それが窓からの光を反射して、キラキラと光っていたのだ。 猫の瞳孔が大きく広がる。 お尻を高く上げ、後ろ足を小刻みに動かして踏み切りの体勢に入った。「あ、ちょっと」 琴葉が止める間もなかった。 タンッ! 小さな前足が床を蹴り、猫は勢いよく宙を舞った。 
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134

 琴葉は、マグカップに伸ばしかけていた手を空中で止めた。(やってくれたわね、あの毛玉) 視線を伊吹の方へ向ける。 彼の目の前には、無惨に崩れ去った小銭の山。 床にはしわくちゃになったメモ用紙が落ちている。 完璧に構築されていた彼の小さな秩序が、たった1匹の猫の気まぐれによって完全に破壊されたのだ。 かつて、タワーマンションにいた頃の伊吹ならどうしただろうか。 琴葉の脳裏に、昔の彼の姿がよぎる。 自分の思い通りにならない事態。想定外のエラー。非合理的なノイズ。 そうしたものを、彼は極端に嫌悪していた。 大臣の娘、黒田詩織を「嘔吐リスクのある汚物」としてバルコニーへ運び出した時の、あの冷徹な顔が蘇る。 琴葉の些細な行動すら監視し、すべてを自分のコントロール下に置こうとした異常な執着も。(伊吹のやつ、キレるんじゃないかしら。それとも、エラー処理が追いつかなくてフリーズする?) 琴葉は身構えた。 もし伊吹が猫に怒鳴り声を上げたり、乱暴な振る舞いをしたりするようなら、即座に止めるつもりだった。 彼がどれだけ人間らしさを取り戻しつつあるとはいえ、根本的に変わったかどうか、琴葉はまだ確信が持てないでいる。 伊吹は、散らばった硬貨を見つめたまま、ピクリとも動かなかった。 前髪の奥の瞳が何を映しているのか、琴葉の位置からは読み取れない。「……伊吹?」 琴葉が探るように声をかける。「…………」 伊吹は顔を上げた。 その視線が、部屋の隅で小さくなっている猫へと向けられる。 猫はソファの陰から半分だけ顔を出し、申し訳なさそうに耳を伏せていた。 伊吹はテーブルから離れて、音を立てずに猫の方へ歩み寄った。 琴葉の心臓が嫌な音を立てる。(まさか、手を出さないわよね。八つ当たりは止めてやらないと) 伊吹は猫の前にしゃがみ込んだ。
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135

 伊吹はそのまま床に膝をつき、床に落ちたボールペンを拾い上げた。 さらに、ソファの下に転がっていった十円玉を、腕を伸ばして拾い集める。 文句一つ言わず、散らばった小銭を手のひらに集めていく。 床に落ちていたメモ用紙を拾い上げると、手で丁寧にシワを伸ばし、テーブルの上に置き直した。「さて。どこまで計算したか、記憶をさかのぼらないと」 伊吹は再びテーブルの前に座ると、集めた小銭を種類ごとに分け始めた。 先ほどのような、寸分の狂いもない完璧なピラミッドではない。 ただ大まかに種類を分けただけの、無造作な山だ。 彼はボールペンを握り直し、シワの残るメモ用紙に新たな数字を書き込んでいく。 そこには、かつての完璧な秩序への執着はもうなかった。 琴葉はマグカップを手に取り、一口飲んだ。 コーヒーは少し冷めていたが、胸の奥にはじんわりとした温かさが広がっていく。「怒らないのね」 琴葉は茶化すような口調で言った。「少し前なら、ノイズだバグだって大騒ぎしてたんじゃない?」 伊吹は手を止めず、メモに視線を落としたまま答えた。「猫の行動は予測不可能ですから。それがいいんですよ。規則で縛ろうとする方が間違っています」「へえ。随分と丸くなったじゃない。あんたの辞書に『予測不可能を許容する』なんて項目、あったかしら」 伊吹はボールペンを置き、琴葉の方へ顔を向けた。 瞳は穏やかな光を湛えている。「……予定通りにいかないのも、悪くないと。最近、そう思うんです」 伊吹の言葉は、嘘偽りのない本心から出たものだった。「完璧な箱の中に閉じ込めておくことだけが正解じゃない。予想外のことが起きて、それに振り回される。そういう日常の方が、ずっと……温かい」 彼は部屋の隅で毛繕いをしている猫を見つめる。それから琴葉の目を真っ直ぐに見つめ返した。「琴葉さんが、僕に教えてくれたことです」 琴葉
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136:決戦前夜

 ウィークリーマンションの一室では、今は少しの緊張感が漂っていた。 ローテーブルの上に置かれたノートパソコンの冷却ファンが、高音を立てて回っている。 ディスプレイから放たれる青白い光が、壁に琴葉の影を大きく映し出していた。 エンターキーに置いた彼女の薬指に、じんわりと汗がにじむ。(これが最後のコマンド。世良の強固なファイアウォールを内側から食い破るための、見えない時限爆弾) 画面上には、幾重にも重なるターミナルウィンドウが表示されている。 緑と白の文字列が、滝のように上から下へと流れ落ちていく。 琴葉は息を詰め、モニターの右下に表示された進捗バーを凝視した。 98パーセント。99パーセント。 ピロン、と短い電子音が鳴る。 画面の中央に『READY』の緑色のプロンプトが浮かび上がった。「……終わった」 琴葉は深く息を吐き出し、キーボードから両手を離した。 両腕を頭上に突き上げて、思い切り背伸びをする。 バキッ、と肩と背中の関節が硬い音を鳴らした。何時間も同じ姿勢で固まっていた筋肉が、ようやく解放されて悲鳴を上げている。 世良グループの世界同時発表会。 その本番を明日に控えて、会場のメインスクリーンと世界配信ネットワークを強制ジャックするハッキングプログラムが、ついに完成したのだ。(これで準備は整った。あとは明日、世良峻嗣があのAI筐体の稼働率を限界まで引き上げるのを待つだけ) 技術者としての確かな達成感と、決戦を前にした心地よい緊張感が、胸の奥で熱く渦を巻いている。 ふと、狭いキッチンの方向から香ばしい匂いが漂ってきた。 バターがフライパンの上で溶けて、熱せられたケチャップの酸味が混ざり合った、食欲をそそる匂い。 換気扇の低い唸り音に混じって、トントンと小気味よく具材を刻む包丁の音が聞こえてくる。「ミャオ」 足元で小さな鳴き声がした。 茶色と白の縞模様の毛玉が、琴葉の足首にすり寄ってくる。
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136

 あの時のオムライスは、卵の黄色は一切の焦げ目を持たず、ケチャップで精密な猫の絵が描かれていた。 見た目こそ完璧だったが、一口食べれば頭が痛くなるほどの異常な甘さが口に広がったものだ。 子供の頃の琴葉が好きだった、お菓子みたいな甘さの味を当時の伊吹はまだ引きずっていた。それこそが琴葉が喜ぶ味だと信じて。 途中で徐々に改善されたものの、甘すぎる味はインパクトが強すぎた。「すみません。冷蔵庫の残り物でやりくりしたので、卵の数が足りなかったんです。無理に包もうとしたら、少し破れてしまって」 伊吹はエプロンを外して、照れくさそうに頬をかいた。 その仕草には、失敗に対するパニックや、完璧な秩序を崩されたことへの嫌悪感はない。 ただ自分の小さな失敗を恥じる、年相応の青年の顔があった。「いいのよ。お店で出すわけじゃないんだから」 琴葉はスプーンを手に取り、黄色と赤のコントラストを崩すように、オムライスの中央をすくい上げた。 口に運ぶ。 卵の柔らかな食感が広がる。ご飯には鶏肉と玉ねぎの旨味が溶け込んでいる。そして、ケチャップの程よい酸味。(……美味しい) かつて琴葉を苦しめた、あの狂気じみた砂糖の甘さはない。 素材の味を活かした、ごく自然で、温かい家庭の味だ。「どうですか?」 伊吹が自分の皿には手をつけず、琴葉の反応を窺っている。 その眼差しには、琴葉が彼を神格化していた頃の依存はない。ただ、自分の作ったものを美味しいと言ってほしいという、ささやかな期待だけが込められていた。「美味しいわ。チキンライスの味付け、すごく丁度いい」「本当ですか? よかったです」 伊吹の顔に、パッと花が咲いたような安堵の笑みが広がる。 彼はようやく自分のスプーンを手に取り、オムライスを口に運んだ。「うん、よく出来ています。玉ねぎの炒め具合も完璧だ」 自分で自分の料理を褒める姿に、琴葉は思わず少し笑った。 完璧を強要し、少しのノ
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 食後、琴葉はローテーブルに置いたマグカップから、ブラックコーヒーを一口飲んだ。 深い苦味が、オムライスの余韻をさっぱりと洗い流してくれる。 テーブルの向かい側には、同じくコーヒーの入ったマグカップを手にした伊吹が座っていた。「明日の作戦の最終確認をしておくわよ」 琴葉が声のトーンを落として告げると、伊吹の表情から生活感が抜け落ちた。 かつて世良の右腕として辣腕を振るっていた、鋭い実務家の顔に切り替わる。「はい。ホテルの裏回線へのハッキングルートは、現在も正常に維持されています」「罠の発動タイミングは?」「明日の14時。峻嗣叔父さんが壇上に上がり、AIの稼働率を100パーセントに引き上げた瞬間です。琴葉さんが仕掛けた構造共振が最高潮に達するまで、約120秒のタイムラグが発生すると推測されます」 伊吹は手元のタブレットに表示されたタイムラインを指でなぞる。「筐体が物理的に自壊し、火花が散る。その直後、会場のスタッフはパニックになり、必ずメイン電源を落として中継映像を遮断しようとします。彼らの隠蔽プロトコルが発動するまでの猶予は、長くて10秒」「その10秒の間に、私が作ったプログラムを走らせる。メインスクリーンと音響システム、それから世界配信ネットワークの映像出力端子をすべてこちらの制御下に置くわ」 琴葉はノートパソコンの画面に視線を向けた。「エラーログと、人間を排除した欠陥設計の証拠データを、全世界のメディアに向けて一斉送信する。世良の連中が電源ケーブルを物理的に引っこ抜く前に、すべてのデータをばら撒き終わる算段よ」「完璧です。広報部の暗号化キーも、明日の日付と父さんの誕生日のハッシュ値で間違いなく突破できます」 伊吹の言葉には、わずかな揺らぎもない。 自分の血の繋がった一族を、かつて自分が身を置いていた巨大企業を、社会的な破滅へと突き落とす。 その行為に対するためらいは、一切感じられなかった。「これで、世良の株価はストップ安確定ね。峻嗣のイデオロギーは根底から崩れ去るわ」「ええ。彼
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「実家の工場に戻るわ。土井精機にね」 迷いは一切なかった。「世良の脅威が去れば、私はもう隠れ続ける必要はない。またあの作業着を着て、プレスの音を聞きながら、新しい合金の図面を引く。現場の職人たちと一緒に、文句を言い合いながら物作りをする。そこが私の居場所だから」 琴葉の言葉を聞いて、伊吹は瞬きを一つした。 かつてのタワーマンションにいた頃の彼なら、どう反応しただろうか。『いけません。外は危険だ。僕のそばにいてください』『仕事なんてしなくていい。僕が一生養いますから』 そう懇願し、琴葉の腕を掴んで強引に縛り付けようとしたはずだ。 琴葉という存在を失う恐怖から、パニックを起こしていただろう。 しかし、目の前にいる伊吹は違った。 彼の表情に、焦りや絶望はない。 ただ、どこか眩しいものを見るような目で琴葉を見つめて、微笑んだ。「……そうですか。琴葉さんらしいですね」 声はひどく落ち着いていた。 彼は両手を膝の上で組み直し、背筋をスッと伸ばす。「僕は……世良の看板なしで、自分に何ができるか探してみます」「世良の看板なしで?」「はい。僕はこれまで、世良一族の論理か、琴葉さんへの依存だけで生きてきました。自分の意志で何かを選び取った経験が、圧倒的に不足している」 伊吹は自分の手のひらを見つめた。 それはキーボードを叩き、料理を作り、小さな猫の命を抱き上げた手だ。「これからは、自分の足で立ちたいんです。ゼロから、世間の泥水にまみれてでも。自分が本当に何をしたいのか、どう生きたいのかを、見つけに行きます」 彼の声には、強い決意がこもっていた。 琴葉は思わず、目の前の青年をもう一度見た。 彼の中から、「琴葉お姉ちゃん」という過去の幻影への執着は、完全に消え去っている。 もう琴葉を神格化することも、琴葉の背中に隠れて怯えることもしない。 1人の自立した大人の男と
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139:完璧の限界

 ウィークリーマンションの一室には、ノートパソコンの冷却ファンが放つ高い駆動音が響いていた。 窓の外は、雲一つない青空が広がっている。 もう冬も終わりで春が近い。 街路樹の桜はピンク色のつぼみを膨らませて、間近に迫った春を待ちわびているように見える。 しかし今日ばかりは、琴葉と伊吹は春とは無縁の緊張感を漂わせていた。 世良グループの世界同時発表会、その決戦の朝。 琴葉はデスクチェアに深く腰掛け、モニターを睨みつけていた。 画面上を緑色の文字列が滝のように流れ落ちていく。 琴葉の指が、キーボードの上で正確なタップダンスを踊る。最後のコマンドを打ち込み、エンターキーをターンッと小気味よく叩いた。 音に反応し、子猫の耳がピクリと動く。 画面の中央に『ALL_SYSTEMS_GREEN』のプロンプトが浮かび上がった。「……最終起動テスト、クリアよ」 琴葉が深く息を吐き出すと、隣のパイプ椅子に座っていた伊吹が、画面から目を離さずに頷いた。「了解しました。ホテルの裏回線へのバックドア、完全に固定されています。広報部の暗号化キーも自動更新プロトコルに追従中。いつでも会場の映像出力をジャックできます」 伊吹の声には張り詰めた緊張感と、それを上回るほどの冴え渡った集中力が同居していた。 かつての世良の御曹司としての豪奢なスーツ姿ではない。 安物の黒いニットを着ただけのラフな格好だが、その顔には一切の迷いがなかった。「頼もしいわね。伊吹が回線を維持してくれないと、私のプログラムもただの電子ゴミだから」「お任せを。世良のネットワークの癖は、僕が一番よく知っていますから」 伊吹は微笑んだ。 琴葉も少し笑って、手元に置かれたマグカップに手を伸ばした。 中には、伊吹が淹れてくれた熱いブラックコーヒーが入っている。 一口含むと、心地よい苦味が徹夜明けの脳細胞をクリアに目覚めさせた。「ミャウ」 足元から、甘えた鳴き声が
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