偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~

偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~

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بواسطة:  黒兎みかづきتم تحديثه الآن
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父の会社が倒産の危機に。 小さな会社の社長令嬢・土井琴葉(26)の前に現れたのは、世界的企業グループの若き次期CEO・世良伊吹(24)。救済の条件はまさかの契約結婚だった。 「これはビジネスです。会社を救うための最も合理的な方法ですよ」 会社のため愛のない結婚を受け入れた琴葉。 だが彼はなぜか琴葉をとろけるように甘やかし、異常なまでの執着を見せる。 「僕の人生で、ただ1人のかけがえのないパートナーですよ」 実は伊吹にとって琴葉は、20年前の初恋の相手だった。琴葉と結ばれることだけを希望に生きてきた伊吹は、巧妙な罠で彼女を囲い込んだのだ。 秘密を抱えた御曹司の、20年越しのヤンデレ執着ラブストーリー。

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الفصل الأول

1:沈みゆく船

 ――ギュイィィン!

 大きな金属音が早朝の工場に響き渡った。

 周囲には油の焼ける匂いと、鉄粉の混じった熱気が漂っている。

 土井琴葉(どい・ことは)にとって、それらは馴染み深い香りだった。

 この熱気の中に身を置いていると、エンジニアとしての仕事に誇りを感じる。

 琴葉はこの工場の経営企業、土井精機の社長令嬢だ。

 令嬢といっても、彼女は現場主義。次期経営者として現在の副社長として、毎日忙しく働いている。

「おい、お嬢! もうよせ。そいつは寿命だよ」

 工場のベテラン職人が、血相を変えて駆け寄ってくる。

 琴葉は作業着の袖で額の汗を乱暴にぬぐうと、スパナを握り直した。頬が油で汚れるのも構わない。

 猫を思わせる大きなツリ目を細めて、ニヤリと笑った。

「寿命なんて誰が決めたの? まだ心臓は動いてる」

「異音がしてるじゃねえか。下手すりゃ主軸がイカれるぞ。もう業者を呼ぼう、な?」

「業者を呼ぶお金があったら、新しいバイトを雇うわ」

 軽口を叩きながら、琴葉は機械に耳を押し当てた。

 駆動音の中に微かなリズムの乱れを聞き分ける。

 ここだ。

(機嫌なおしてよ。あんたに倒れられたら、今月の納期が吹っ飛ぶんだから)

 タイミングを見極め、琴葉はボルトを締め上げた。キィン、と高い音が一つ。

 次の瞬間、悲鳴を上げていたマシンが低い駆動音へと変わる。ヴォォン……と、まるで猫が喉を鳴らすような、安定した重低音だ。

「……嘘だろ」

 職人が口をあんぐりと開けている。

 琴葉は満足げに機械のボディをぽんと叩いた。

「ほらね。この子は、まだ働けるって言ってる」

 指先は油で真っ黒だが、この感触こそが土井精機を支えている証だ。

(小さいけれど、この工場は生きている。そして、その心臓を動かしているのは私)

 そんな自負と共に、琴葉は笑みを浮かべた。

 しかし、達成感は長くは続かなかった。

 事務所に戻った琴葉を待っていたのは、ひどく冷たい現実だった。

 経理担当の社員が、真っ青に青ざめた顔で立っている。

「副社長……」

「どうしたの、そんな顔して。銀行がまた嫌味でも言ってきた?」

 琴葉は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いだ。

「いえ……その、先ほど連絡がありまして」

 経理担当者の声は、かき消えそうなほど細い。

「S自動車から、来月以降の受注を停止すると」

 カラン。コップの中の氷が、乾いた音を立てた。

 S自動車は、土井精機の最も大口の取引先だ。

 大口どころか売上のほとんど依存していると言ってもいい。それが受注停止などと。

 琴葉はゆっくりと麦茶を飲み干して机に向かう。

「……理由は?」

「海外移転だそうです。コスト削減のため、部品調達も現地化すると」

「なるほどね」

 琴葉は電卓を引き寄せて、勢いよく叩き始めた。

 タタタッ、タターン。軽快なリズムとは裏腹に、液晶画面に表示される数字は無慈悲だった。

 元から土井精機の業績は悪化しており、メインバンクからの融資は既に打ち切られている。

 頼みの綱だった大口取引先が消えれば、資金繰りはどうなる?

 計算するまでもない。1ヶ月も持たない。

(詰んだ)

 琴葉の頭の中で、将棋の駒が音を立てて崩れ落ちるイメージが浮かぶ。

 机の上には、未払いの請求書の山が積まれている。

 それらはまるで、会社の終わりを告げる墓標のように見えた。

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1:沈みゆく船
 ――ギュイィィン! 大きな金属音が早朝の工場に響き渡った。 周囲には油の焼ける匂いと、鉄粉の混じった熱気が漂っている。 土井琴葉(どい・ことは)にとって、それらは馴染み深い香りだった。 この熱気の中に身を置いていると、エンジニアとしての仕事に誇りを感じる。 琴葉はこの工場の経営企業、土井精機の社長令嬢だ。 令嬢といっても、彼女は現場主義。次期経営者として現在の副社長として、毎日忙しく働いている。「おい、お嬢! もうよせ。そいつは寿命だよ」 工場のベテラン職人が、血相を変えて駆け寄ってくる。 琴葉は作業着の袖で額の汗を乱暴にぬぐうと、スパナを握り直した。頬が油で汚れるのも構わない。 猫を思わせる大きなツリ目を細めて、ニヤリと笑った。「寿命なんて誰が決めたの? まだ心臓は動いてる」「異音がしてるじゃねえか。下手すりゃ主軸がイカれるぞ。もう業者を呼ぼう、な?」「業者を呼ぶお金があったら、新しいバイトを雇うわ」 軽口を叩きながら、琴葉は機械に耳を押し当てた。 駆動音の中に微かなリズムの乱れを聞き分ける。 ここだ。(機嫌なおしてよ。あんたに倒れられたら、今月の納期が吹っ飛ぶんだから) タイミングを見極め、琴葉はボルトを締め上げた。キィン、と高い音が一つ。 次の瞬間、悲鳴を上げていたマシンが低い駆動音へと変わる。ヴォォン……と、まるで猫が喉を鳴らすような、安定した重低音だ。「……嘘だろ」 職人が口をあんぐりと開けている。 琴葉は満足げに機械のボディをぽんと叩いた。「ほらね。この子は、まだ働けるって言ってる」 指先は油で真っ黒だが、この感触こそが土井精機を支えている証だ。(小さいけれど、この工場は生きている。そして、その心臓を動かしているのは私) そんな自負と共に、琴葉は笑みを浮かべた。◇ しかし、達成感は長くは続かなかった。 事務所に戻った琴葉を待っていたのは、ひどく冷たい現実だった。 経理担当の社員が、真っ青に青ざめた顔で立っている。「副社長……」「どうしたの、そんな顔して。銀行がまた嫌味でも言ってきた?」 琴葉は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いだ。「いえ……その、先ほど連絡がありまして」 経理担当者の声は、かき消えそうなほど細い。「S自動車から、来月以降の受注を停止すると」 カラン。コップの
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(どうして今、この時期に。事前の通告もなく!) 怒りが腹の底でどろりと渦巻いた。  海外移転、時代の流れと言えばそれまでだ。だがこのタイミングでの通告は、弱り切った獲物にトドメを刺すかのような悪意さえ感じる。 琴葉は無意識にボールペンを強く握りしめていた。ミシッ。プラスチックがきしむ音がして、ハッと我に返る。  指先から血の気が引き、白くなっている。「副社長、どうしましょう……」 経理担当者のすがるような視線に、琴葉は努めて明るい声を返した。「どうもしないわよ。まだ終わったわけじゃない」 それは、自分自身への虚勢でもあった。 ◇  社長室の扉を開けると、そこにはすっかり小さくなってしまった父――土井社長の背中があった。  かつては油まみれになって現場を指揮していた父も、度重なる経営難と心労で今では見る影もない。「琴葉か……」 父が振り向く。その目は弱々しく、すでに戦うことを諦めていた。「聞いたよ、S自動車の件。もう、潮時かもしれんな」「お父さん」「従業員の退職金だけでも確保して、廃業の手続きをした方がいいだろう」「駄目よ!」 琴葉の声が、部屋の空気をビリリと震わせた。「うちの技術は世界一よ。ミクロン単位の精度を出せるのは、この辺りじゃうちだけ。まだ負けてない」「だが、金が……」「お金なら私がなんとかする。銀行でもどこでも、頭を下げて回るわ」 父は力なく首を振るだけだ。  琴葉は唇を噛み締めて部屋を出た。廊下に出た瞬間、張り詰めていた糸が切れそうになる。壁に背中を預け、長く重い息を吐き出す。胃のあたりに、鉛の塊を飲み込んだような重圧があった。(なんとかするって言ったけど……どうやって?) アテなどない。あるのは、この工場と従業員を守らなければならないという責任感だけだ。 ◇  深夜。残業を終えて工場の外に出ると、冷たい雨が降り始めていた。  傘を持っていない琴葉は、バッグを頭に乗せて小走りに門へ向かう。雨粒が頬を打ち、作業着に染み込んでいく。冷たさが肌を刺す。 ふと、門の前に異質な存在があることに気づいた。  深夜の闇に溶け込むような影は、黒塗りの高級セダンだった。  雨に濡れたアスファルトの上で、その車体だけが周囲の闇を吸い込むように鎮座している。こんな寂れた工場街には似つかわしくない。(借金取り? 
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3:現れた救世主、もしくは悪魔
 銀行の応接室はひどく乾燥していた。エアコンの低い音だけが、不自然なほどに響いている。「……つまり、ゼロ回答ということですか」 琴葉の声は、自分でも驚くほど平坦だった。 対面のソファに座る融資課長は、申し訳なさそうな顔を作りながらも、その目は腕時計をチラチラと気にしている。「申し訳ありません、土井さん。本部としても、これ以上のリスクは取れないという判断でして」「S自動車の件なら、代わりの受注先を当たっています。高い合金技術を活かして、航空宇宙分野に乗り出す計画もあります。うちの技術力を評価してくれるメーカーは、他にも……」「その『たられば』に、当行はお金を貸すわけにはいかないんですよ」 課長が手元の資料をパタンと閉じた。 それが終了の合図だった。もうこれ以上、課長は話を聞く気がない。 琴葉は膝の上で拳を握りしめる。爪が皮膚に食い込んで痛みが走る。 喉の奥が熱くなる。罵倒の言葉がこみ上げてくるのを、奥歯を噛み締めて無理やり飲み込んだ。(数字しか見ないくせに。工場の油の匂いも、機械の駆動音も知らないくせに!)「……お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした」 頭を下げて銀行を出る。 自動ドアが開いた瞬間、初夏の日差しが目に飛び込んできた。 アスファルトからの照り返しが、容赦なく体力を奪っていく。視界がぐらりと歪む。(駄目だった) 琴葉は道路脇のガードレールに手をつき、荒い呼吸を繰り返した。胃の腑がねじれるような吐き気を感じる。(いいえ、まだよ。まだ倒れるわけにはいかない) ふらつく足に活を入れて、彼女は工場へと戻る道を急いだ。◇ 工場の敷地に足を踏み入れた瞬間、琴葉は異様な空気に気づいた。 いつもの油と金属の匂いに混じって、場違いなほど高級なコロンの香りが漂っている。 従業員たちが遠巻きに見つめる先には、昨夜見たあの黒塗りの高級車が停まっていた。 それも1台ではない。3台いる。 狭い敷地を圧迫するように並ぶ光景は、まるでここだけ別世界から切り取ってきたような違和感を与えている。「あ、お嬢……いや、副社長!」 職人の1人が琴葉に気づいて駆け寄ってくる。その顔は困惑と恐怖で引きつっていた。「なんなの、あれ。銀行の差し押さえ部隊?」「いや、それが……」 言葉を遮るように、中央の車のドアが開いた。 革靴がアスフ
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 背が高い人だった。仕立ての良いダークネイビーのスーツは、埃っぽいこの工場の中で、彼自身が発光しているかのように清潔で美しい。 年齢は20代半ば程度だろう。26歳の琴葉より、1つ2つ年下に見える。 整いすぎた顔立ちは穏やかな微笑みを浮かべているが、どこか作り物の人形めいている。 髪は男性としては少し長く伸ばされていて、肩のあたりにかかっていた。(昨日の……?) 青年は、汚れた作業着の職人たちに丁寧に一礼していた。「お仕事の邪魔をして申し訳ありません。すぐに済みますので」 彼の物腰は柔らかい。だが周囲の空気を完全に支配していた。 青年はゆっくりと顔を上げ、琴葉を見つけた。その瞬間、無機質だった表情に花が咲くような笑みが浮かぶ。「初めまして、土井琴葉さん」 青年が近づいてくる。 琴葉は一歩も動けなかった。蛇に睨まれた蛙のように、足が地面に縫い付けられている。「ずっと、お会いしたかった」(ずっと?) 初対面のはずだ。彼自身も「初めまして」と言った。 なのに絡みつくような視線の熱量に、肌が粟立つ。本能が警鐘を鳴らしていた。この男は危険だ、と。「……あなたは?」「おっと、失礼しました。申し遅れました」 青年は優雅な所作で名刺を差し出した。「世良伊吹と申します。以後、お見知り置きを」 世良。 その名字を聞いた瞬間、琴葉の心臓が早鐘を打った。 国内最大手の多角経営企業、世良グループ。日本人なら誰もが社名を知っている、世界規模で展開する超大手企業だ。 雲の上の存在が、なぜこんな町工場に?◇ 土井精機の社長室の空気は、かつてないほど張り詰めていた。 父は完全に萎縮して、出された茶に口をつけることすら忘れている。 対面に座る伊吹は、部下に命じて分厚いファイルをテーブルに置かせた。「単刀直入に申し上げます。我々、世良グループは土井精機を傘下に迎え入れたい」「傘下……つまり、買収ということですか」 琴葉が鋭く問うと、伊吹は涼しげに頷いた。「言葉を選ばずに言えば、救済です。負債の全額肩代わりと、最新設備の導入、そして我がグループのサプライチェーンへの完全な組み込み。これだけの条件を用意しました」 伊吹の指が書類の上を滑る。 提示された再建計画は完璧だった。 琴葉が喉から手が出るほど欲しかったものが、すべてそこにある。父の手
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 伊吹は琴葉に向き直った。「我々世良グループは現在、国家プロジェクトでもある半導体事業に力を入れています。そしてその事業に、土井精機の技術が必要不可欠であると判断しました」 彼の瞳が熱を帯びる。「この技術の真の価値と未来を理解されているのは、琴葉さん、あなただ。このプロジェクトの責任者は、あなた以外にあり得ない。あの合金技術はあなたが開発したのだから」(私を持ち上げて、こちらの懐柔を図るつもり? そんな手に乗るものですか) 伊吹の言葉に琴葉は内心で警戒を強めた。そんな手に乗るものかと、あえて挑戦的な問いを投げかける。「口先だけなら何とでも言えます。私の企画書のどこを評価しているというんですか? 例えば、A-7合金の熱処理プロセスについて、あなたは何か意見でも?」 それは企画書の中でも最も専門的で、何度も実験を重ねた核心部分だった。生半可な知識で答えられるはずがない。 しかし伊吹は少しも動じなかった。むしろその挑戦を待っていたように、楽しげに口元を綻ばせる。「A-7の熱処理プロセスですね。低温での段階的な時効硬化処理は、確かに強度を最大化する上で画期的です。ですが」 彼はそこで一度言葉を切り、琴葉の目をまっすぐに見た。「あれは航空宇宙分野を前提としたアプローチでしょう? 半導体製造装置に転用する場合、求められるのは強度よりも、ナノレベルでの寸法安定性です。あなたのプロセスを応用し、さらに極低温下での追加処理を加えれば、熱膨張率を限りなくゼロに近づけることができる。僕は、その可能性に投資したいんです」 琴葉は、言葉を失った。(この男。私の企画書をただ読んだだけじゃない。その先まで……もう何歩も先まで、見通している!) 伊吹が語ったのは、琴葉自身ですらまだ構想の段階に過ぎなかった、技術の未来そのものだった。 絶句する琴葉を前に、伊吹はにこやかな表情を崩さずに続ける。「話を買収に戻しましょうか。問題はスピードと内外に示す『結束』です。通常のM&Aや業務提携では、手続きだけで数ヶ月を要する。その間に競合他社に嗅ぎつけられるリスクもある。そして何より、僕の社内での立場です」「あなたの、立場?」 琴葉が訝しげに問い返す。「ええ。僕は次期CEOですが、まだ社内での立場が万全ではない。この巨大プロジェクトを成功させるには、僕のリーダーシップを疑
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 社長室の空気が凍りついた。 琴葉は数秒間、言葉の意味を理解できなかった。脳の処理が追いつかない。「……は? 今、なんて?」「結婚です。婚姻届に判を押すだけの、簡単な手続きですよ」 琴葉の目の前に立ったまま、伊吹は表情を変えない。あくまで穏やかに微笑んでいる。「ふざけないで!」 琴葉はダン! と机を叩いて立ち上がった。「会社を買収するついでに、私も買おうってわけ? そんな馬鹿げた話があるもんですか!」 父も狼狽して口をパクパクさせている。  だが伊吹の表情は少しも揺るがない。むしろ琴葉の怒りを楽しんでいるようにさえ見えた。「誤解しないでください。これはロマンスなどではありません。『人的資産の流出防止(ロックイン)』のための措置です」「ロックイン……?」「土井精機の価値は、老朽化した設備にあるのではありません。独自の加工技術を持つ、あなた自身の頭脳にこそあります」 伊吹は冷徹な実務家の顔で、淡々と続けた。「単なる雇用契約では不十分だ。あなたが辞職し、技術を持って他社へ流出するリスクを排除できない。ですが、戸籍上の家族になってしまえば話は別です。法的に、対外的に、あなたは一生『世良のもの』として管理される」 人間をまるで高性能なデバイスのように扱う物言い。 琴葉の背筋に冷たいものが走った。「それに私の父である世良宗佑は、利益を生まないものを即座に切り捨てる冷徹・冷酷な人間です。この赤字工場を存続させたいなら、『身内』という強い鎖で私と繋がり、彼に『損切りさせない』状況を作るしかない」 それは脅迫だった。 琴葉の顔が青ざめる。 だが逃げ場のない正論でもあった。  父を、工場を、従業員たちを守るためには、この悪魔の契約に乗るしかないのか。 琴葉は呆然と悪魔を眺めた。あくまで温和な微笑みを浮かべる、美しい悪魔を。「明日までに返事を。……もっとも、あなたに断る権利はないと思いますが」 伊吹は優雅に立ち上がり
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7:首輪
 その日の深夜。琴葉の部屋では、ページをめくる乾いた音が響いていた。 ベッドの上には、色あせたアルバムが何冊も散乱している。「……いない」 琴葉は眉間にしわを寄せて、古い写真を指でなぞった。 幼稚園の運動会、小学校の入学式、夏休みのキャンプ。 背景に写り込んでいる子供たちまで一人ひとり確認する。だが、あの整いすぎた美貌を持つ少年の姿はどこにもない。 たとえ成長して面差しが変わっても、面影が残っていれば分かるはずなのに。(私を「お姉ちゃん」だなんて、子供みたいな呼び方で呼んだ。ずっと会いたかった、なんて言ってたけど) だから過去、子供の頃に会ったことがあるのではないかと考えたのだが、伊吹の影は見当たらない。 琴葉はスマートフォンを手に取って、「世良伊吹」の名前を検索してみた。 彼の経歴が表示される。 24歳にして世良グループの常務理事。 現在のトップ世良宗佑の長男であり、アメリカの有名大学を飛び級で首席卒業した。 社内闘争を経て次期CEOの座を射止めた人物。 数々のM&Aを成功させた「若き天才」。 ネット上の記事は彼を称賛する言葉であふれているが、琴葉との接点を示す記述はゼロだ。 だいたい、社長令嬢とはいえ町工場の娘にすぎない琴葉と、世界的企業の御曹司では住む世界が違いすぎる。(私の記憶が飛んでるだけ? それとも彼が嘘をついてる?) 耳の奥に、あのささやきが張り付いていた。 ――お姉ちゃん。 あの呼び方は明らかに、強い親愛と憧れの響きを含んでいた。 背筋を冷たいものが這い上がる。 恐怖というよりは、自分の知らないところで人生が勝手に編集されているような、薄気味の悪さだった。 ◇ 翌朝。土井精機の工場は静まり返っていた。 いつもなら稼働音を響かせている機械たちが、今は動きを止めて沈黙している。 琴葉は事務所の窓から、休
last updateآخر تحديث : 2026-01-23
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「……お父さん、行ってくる」 社長室のドアを開けて、声をかける。「ああ、すまない。お前には苦労ばかりかける」 父は弱々しく視線を逸らした。それが答えだった。◇ 都心にそびえ立つ世良グループ本社ビルは、油と埃にまみれた町工場とは対極の世界だった。 見上げるほどのガラスの巨塔に、琴葉は怯まずに足を踏み入れる。受付で名前を告げると、即座にエレベーターホールへと案内された。 高速エレベーターが音もなく上昇していく。 耳がツンと詰まるような気圧の変化が襲ってきて、地上の人間たちがゴミのように小さくなっていった。(ここから見れば、私たちはただの数字に見えるんでしょうね) 最上階に着いた。 案内された執務室は、琴葉の実家がそのまま入りそうな広さだった。 全面ガラス張りになった窓からは、東京の摩天楼と曇った空が広がっている。 伊吹は窓際で街を見下ろしていたが、琴葉が入室すると満面の笑みで振り返った。「来てくれると信じていましたよ、琴葉さん」 迷いのない笑顔。 まるで、最初から結末が決まっている映画を見ているかのような余裕がある。「……単刀直入にお願いします」 琴葉は部屋の豪華さに気圧されないよう、努めて低い声を出した。 中央の応接テーブルには、分厚い契約書が置かれている。同席した顧問弁護士が、事務的な口調で重要事項を読み上げ始めた。「まず、買収条件について。土井精機の負債は、全額世良グループが引き受けます」 弁護士がページをめくる。「従業員の雇用は、最低10年間保証。給与水準は世良グループ規定に準拠し、現在の約1.5倍に引き上げ。その後も勤務態度に問題がなければ、基本的に雇用を継続します」「1.5倍……?」「さらに、老朽化した設備の全面入れ替え。最新鋭の五軸加工機を3台導入予定です。もちろん費用は世良グループ
last updateآخر تحديث : 2026-01-24
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「具体的には、以下の義務が生じます。同居の義務。寝室は別でも構いませんが、生活拠点は共有すること」 弁護士が読み上げる条項は、呆れるほど具体的だった。 週に一度以上の公的な場でのデート、または会食。 メディア、および親族の前では、互いに愛称で呼び合うこと。手をつなぐ等の、親密な身体的接触を拒まないこと。 契約結婚の期間は、最低でも3年間。その後も話し合いをして継続すること。「……まるで、『理想の夫婦』役の台本ね」 琴葉が皮肉っぽく言うと、伊吹は悪びれもせずに頷いた。「ビジネスにおいて、イメージ戦略は重要ですから。父と世間を欺くには、完璧な演技が必要です」 もっともらしい理屈だ。 だが彼の瞳の奥は、暗い情熱と悦びで光っているように見える。「最後にもう一つの重要事項です」 弁護士がちらりと琴葉を見た。「この契約に違反し、途中で婚姻関係が解消された場合は、500億円の違約金を請求します」「ご……!?」 琴葉は言葉を詰まらせた。 額が大きすぎる。土井精機を10回売り払っても到底支払えない金額だ。 伊吹は微笑んだ。「心配ありませんよ。最低3年の婚姻期間を過ぎれば、違約金の請求権は消滅します。あなたはその間、僕と円満な夫婦を演じてくれればいい」(……なんてこと) 琴葉は大きくため息をついた。 それでも彼女に、この契約を受けないという選択はできない。選択肢など最初からなかったのだ。「分かったわ。バカバカしいけど、演じればいいんでしょ」 琴葉はペンを取り、署名欄に名前を書き込んだ。ペン先が紙を走る音がやけに大きく響く。 最後の一画を書き終えた瞬間、伊吹がデスクの引き出しからベルベットの小箱を取り出した。 小箱の蓋が開くと、目がくらむような大粒のダイヤモンドが現れる。 伊吹は琴葉の左手を取ると、恭しくその薬指に指輪を通した。
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10:誰もまともじゃない
 ジジッ――。スーツケースのファスナーを閉める音が、静かな部屋に響いた。 ここは琴葉の実家の自室。子供の頃から暮らしてきた部屋だ。 6畳のこぢんまりとした部屋には、学生時代から使い込んできたデスクと、シングルベッドが置かれている。 本棚には専門書と、少しばかりの漫画が並んでいた。 26年間過ごしてきたこの部屋は、昨日までと何も変わっていない。 変わってしまったのは琴葉自身だった。「身の回りのものだけ持ってきてください。あとはすべて、こちらで用意してありますから」 伊吹の言葉通り、琴葉が持っていくのは小さなスーツケースひとつだけだった。 家具も愛用していたクッションも、そのまま置いていく。 部屋を見渡すと、主を失った家具たちが急によそよそしく見えた。まるで彼女だけがこの世界から切り取られて、別の場所に移植されるようだ。(行ってきます、なんて言えないわね) もうこの家には戻れない気がする。琴葉は感傷を振り切るように、バタンとドアを閉めた。 リビングの父に挨拶をするが、答えは鈍い。 当然だろう、会社の存続のために娘を犠牲にしたのだから。 父の顔には沈痛さと無力さが漂っていた。 それでも琴葉は胸を張って言った。「それじゃお父さん。そのうち里帰りするから、その時はよろしくね」「ああ。……すまない、琴葉」 父に見送られて家を出る。 実家の前に停まっていたのは、黒塗りのリムジンだった。後部座席のドアが開くと、中から伊吹が春の日差しのような笑顔を向けた。「おはようございます、琴葉さん」 差し出された手は白く美しい。琴葉はその手を取らず、自分でスカートの裾をさばいて乗り込んだ。 車の外では、父が心配そうな顔で立っている。 琴葉は窓を開けようとしたが、伊吹が滑らかにウィンドウスイッチをロックした。「行きましょう。あなたの本当の居場所へ」 伊吹の合図で車が滑るように発進する。 
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