LOGIN父の会社が倒産の危機に。 小さな会社の社長令嬢・土井琴葉(26)の前に現れたのは、世界的企業グループの若き次期CEO・世良伊吹(24)。救済の条件はまさかの契約結婚だった。 「これはビジネスです。会社を救うための最も合理的な方法ですよ」 会社のため愛のない結婚を受け入れた琴葉。 だが彼はなぜか琴葉をとろけるように甘やかし、異常なまでの執着を見せる。 「僕の人生で、ただ1人のかけがえのないパートナーですよ」 実は伊吹にとって琴葉は、20年前の初恋の相手だった。琴葉と結ばれることだけを希望に生きてきた伊吹は、巧妙な罠で彼女を囲い込んだのだ。 秘密を抱えた御曹司の、20年越しのヤンデレ執着ラブストーリー。
View More伊吹の指摘は、極めて正確な現状分析だった。 琴葉も、同業者の悲痛な声でその惨状は嫌というほど耳にしている。 ニュースで報じられているだけではない。横の繋がりを持つ同業者だからこそ、リアルな声が多数耳に入ってくる。 独自の技術を持たない下請け工場たちは、世良という巨大な親会社の都合に振り回され、今まさに息の根を止められようとしているのだ。『今すぐ、世良が溜め込んでいる内部留保を解放すべきです。特別融資枠を設け、下請けの工場群を救済し、生産ラインを立て直す。それがプロジェクトの主導権を取り戻し、ひいては世良グループの存続を図る唯一の合理的な手段です』(よく言ったわ、伊吹) 琴葉は無意識のうちに、タブレットの縁をきつく握りしめていた。 自分の血族が犯した罪の尻拭い。 現場の人間を守るため、彼はあの冷酷な父親を相手に、堂々と正論を突きつけている。 しかしイヤホンの奥から返ってきたのは、ぞっとするような冷笑だった。『ふっ……。相変わらず、くだらない感傷に振り回されているようだな』 宗佑の声には怒りすらない。ただただ、圧倒的な見下しがあった。『底辺の歯車に流す血など、我が世良グループには一滴たりともない。無能な下請けがいくつか潰れたところで、それがなんだというのだ』 琴葉の指先から、さっと血の気が引いていく。 スタイラスペンを握る手に力が入りすぎて、プラスチックの軸がミシッと悲鳴を上げた。『代わりの部品など、海外の安い工場からいくらでも調達できる。経営とは、利益を生まない腐った肉を切り捨てることだ。お前がそんな下らない救済案のために私の時間を奪ったというなら、ひどく失望したと言わざるを得ないな』(この、クソ親父……っ) 琴葉の胸の奥で、どす黒い怒りの炎が燃え上がった。 現場で汗を流して働く職人たち。 ミリ単位の精度に命を懸け、日本の技術を底辺から支えてきた人間たち。 彼らのプライドも、生活も、家族も。 宗佑に
ザザッ、という微かなノイズの奥から聞こえてくるのは、空調が完璧に管理された無菌室のような空間の音だ。 世良グループ本社の最上階。東京の空を見下ろす、あの冷えきって無機質な役員室。 伊吹が単身でそこに乗り込んでから、既にしばらくの時間が流れていた。 彼は世良グループの内部から腐敗した組織を解体し、切り捨てられようとしている現場の人間たちを救済するために、自ら泥沼の権力闘争へと身を投じたのだ。 琴葉はスタイラスペンをくるりと指先で回し、タブレットの画面をピンチアウトして図面を拡大する。 視線は図面を追いつつも、思考は別の場所にある。 伊吹が役員室に密かに仕掛けた、極秘の盗聴用デバイス。そこから送られてくる暗号化された音声データを、琴葉は土井精機の事務所でリアルタイムに傍受している。 これはただの監視ではない。いつでも彼をバックアップするための、見えない命綱だ。 イヤホンの奥で、硬い革靴が毛足の長い高級絨毯を踏みしめる音がした。 続いて、重厚な革張りのソファがきしむ音。『――話というのは、それだけか。伊吹』 低く、底冷えのするような声が聞こえてきた。 世良グループ総帥、世良宗佑。 伊吹の父親であり、全てを効率と利益で判断する人間だ。 その効率化の視線は実の息子にまで及び、伊吹を使えない駒として切り捨てるほどだった。 宗佑の声を聞いた瞬間、琴葉の心臓が嫌な音を立てて跳ねた。 何ヶ月経ってもあの男の冷酷な響きは、琴葉の警戒心を容赦なく呼び起こす。 そう言った意味では、峻嗣の単純な傲慢さの方がまだ扱いやすいと感じた。『いいえ、父さん。本題はここからです』 伊吹の声がした。 宗佑の威圧感に真っ向からぶつかるように、けれど穏やかな声。穏やかな中に鋼のような芯を持つ声だった。『峻嗣叔父さんの、AIデモンストレーションの大失敗。あれによる市場の信頼失墜は、想像以上に深刻です。株価の暴落、取引先との断絶……。それだけではありません。現在、我が社は政府が主導す
春のうららかな陽気が、土井精機の工場の開け放たれた入口から忍び込んでくる。 風に乗って舞い込んだ淡いピンク色の桜の花びらが、コンクリートの床をひらひらと転がっていった。外の通りからは、新学期を迎えた子供たちの元気な声が遠く微かに聞こえてくる。 鼻腔をくすぐるのは、工場から漂う微かな金属の匂いと、外から運ばれてきた春の土の香りだ。 季節はすっかり春になった。 冬の終わり、伊吹と別れてからしばらくの時間が流れていた。 琴葉は事務所のパイプ椅子に深く腰掛けている。作業着の袖を肘までまくり上げ、デスクの上のタブレット端末に鋭い視線を向けていた。 画面に表示されているのは、複雑な3Dデータ。医療機器メーカーから新規で受注した、特殊なセンサーハウジングのCADデータである。(少し曲面のアプローチを変えれば、耐久性をさらに1割上げられるわね) スタイラスペンを走らせ、図面の曲率を微調整していく。 工場の奥からは、職人たちが扱う加工機の規則正しい駆動音が、頼もしいBGMのように響いてくる。 これらは全て、彼女の愛する活気に満ちたモノ作りの現場だ。 先日、伊吹から専属契約の正式な破棄の書類が届いた。 世良グループという巨大な傘、あるいは呪縛から抜け出した土井精機は、今、琴葉の卓越した設計技術を最大の武器として、新たな顧客を次々と開拓し始めている。(ここ数日、すっかり暖かくなってきたわね。作業着1枚でも、少し動くと汗ばむくらいだわ) 琴葉は小さく息を吐き出し、傍らに置かれたマグカップに手を伸ばした。 中身はすっかりぬるくなった緑茶だ。乾いた喉を潤すように、一気に流し込む。プラスチックのカップの表面についた水滴が、作業着の袖口から覗く白い指先を濡らした。 工場の奥からは、伊吹の資金で導入された最新鋭の五軸加工機が、今日も休むことなく低い唸りを上げている。 重く響くモーターの駆動音。金属が精密に削り出されていく音。 それらは琴葉にとって、何よりも心地よく慣れ親しんだ子守唄のようなものだ。 職人たちが額に
琴葉は足元にすり寄ってきた猫に手を伸ばし、ひょいと抱き上げる。「さあ、私たちも行くわよ。次の準備をしなきゃね」「にゃん」 相槌を打つように子猫が鳴いたので、琴葉は思わず笑みを浮かべた。◇ 翌朝。 冬の終わりの冷たい空気が、肌の上を流れていく。冷たくも春の気配を孕んだ空気だった。 琴葉はボストンバッグを肩にかけて、右手でプラスチック製のキャリーケースを提げていた。 ケースの中では、縞模様の猫が不思議そうに外の景色を眺めている。 ずっと家飼いだった子猫なので、外に出るのはほとんど初めて。少し落ち着かない様子だったので、琴葉はキャリーケースをぽんぽんと叩いて落ち着かせてやった。 目の前には、見慣れた『土井精機』の看板が掲げられた工場のシャッターがある。 小さなくぐり戸を開けて中に入ると、機械油と金属の削りカスが混ざり合った、ひどく懐かしい匂いが肺を満たした。「琴葉お嬢!?」 作業着姿の工場長が、プレス機の奥から目を丸くして駆け寄ってきた。 白髪交じりのベテラン職人である彼は、手にしたウエスを落としそうになっている。他の職人たちも、驚きの表情で作業の手を止めた。「どうしてここに……いや、世良グループのニュースは見たよ。大変なことになってるじゃないか。うちはこれからどうなるんだ」 工場長の焦燥に満ちた声をさえぎるように、琴葉はキャリーケースを床に置き、ボストンバッグを下ろした。 周囲を見渡す。「お父さんの様子はどう?」 気がかりだった父の状態を問えば、工場長は頷いた。「社長なら、最近は体調がマシになったみたいだ。時々出社して、仕事をしているよ」「そう。良かった」 父を見舞うのは、今すぐでなくていい。夜、家に戻った時に話をしよう。 今はとにかく、自分の仕事をしたい。「さあ、仕事よ。世良の仕事は全部切るわ」 琴葉のよく通る声が、工場の高い
琴葉が自らの意思で、この楽園を捨てて逃げ出した。その事実を認めそうになり、心が千切れそうになる。 だが、その時。伊吹の脳裏に、ある可能性が閃いた。(待てよ) 伊吹は顔を上げた。 その瞳から、怯えた子供のような色は消えていた。 代わりに宿ったのは、冷徹なシステム管理者の光だ。 彼は素早くノートPCを開いた。スマートホームの管理ログにアクセスする。 キーボードを叩く音が、誰もいない部屋に響く。「……やはり」 ログには明確な痕跡が
夜明けの光が、工場の高い天窓から幾筋もの白い帯となって差し込んでいた。 舞い上がる微細な鉄粉が、その光の中で静かに明滅している。 シュッ、シュッと規則正しい竹箒の音が、人気のないフロアに響いていた。 佐藤は慣れた手つきで床を掃き清めていた。 彼の背中は朝日を浴びているにもかかわらず、不自然に深い影を落としている。 佐藤は周囲に誰もいないことを何度も確認すると、壁際に箒を立てかけ、吸い寄せられるように第1ラインの加工機へと歩み寄った。(……よし。昨夜のブツは無事に紛れ込んでいるはずだ。あとは俺の指紋や
「『泉伊吹』は、あの田舎町で死にました。無力で、泣き虫で、あなたを守れず、自分の痛みさえ他人に背負わせるような惨めな子供は……あの日、捨てたんです」「捨てたって……どういうこと?」 琴葉が問うと、伊吹は誇らしげに胸を張った。「言葉通りの意味です。世良家に入った僕を待っていたのは、歓迎なんて生易しいものではありませんでした」 本妻の親族からの冷ややかな視線と、分家の人間たちによる足の引っ張り合い。「愛人の子」「血統だけの野良犬」という陰口は日常茶飯事だ。
――20年前。3月下旬の風が強い日だった。 祖父母の家の縁側には、段ボール箱が積み上げられていた。 ようやく仕事に区切りをつけた父が、琴葉を迎えに来たのだ。 琴葉は4月から小学校への進学を控えている。 それに合わせての帰郷だった。 6歳の琴葉はリュックを背負って、庭先に来ていた男の子に向き合った。『やだぁ……いかないでよぉ……』 4歳の「いずみくん」は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。 琴葉の服の裾を握りしめて、足