LOGIN父の会社が倒産の危機に。 小さな会社の社長令嬢・土井琴葉(26)の前に現れたのは、世界的企業グループの若き次期CEO・世良伊吹(24)。救済の条件はまさかの契約結婚だった。 「これはビジネスです。会社を救うための最も合理的な方法ですよ」 会社のため愛のない結婚を受け入れた琴葉。 だが彼はなぜか琴葉をとろけるように甘やかし、異常なまでの執着を見せる。 「僕の人生で、ただ1人のかけがえのないパートナーですよ」 実は伊吹にとって琴葉は、20年前の初恋の相手だった。琴葉と結ばれることだけを希望に生きてきた伊吹は、巧妙な罠で彼女を囲い込んだのだ。 秘密を抱えた御曹司の、20年越しのヤンデレ執着ラブストーリー。
View More――ギュイィィン!
大きな金属音が早朝の工場に響き渡った。 周囲には油の焼ける匂いと、鉄粉の混じった熱気が漂っている。土井琴葉(どい・ことは)にとって、それらは馴染み深い香りだった。
この熱気の中に身を置いていると、エンジニアとしての仕事に誇りを感じる。琴葉はこの工場の経営企業、土井精機の社長令嬢だ。
令嬢といっても、彼女は現場主義。次期経営者として現在の副社長として、毎日忙しく働いている。各種の設計が琴葉の本来の仕事だが、こうして工場の前線に出るのもいとわない。
「おい、お嬢! もうよせ。そいつは寿命だよ」
工場のベテラン職人が、血相を変えて駆け寄ってくる。
琴葉は作業着の袖で額の汗を乱暴にぬぐうと、スパナを握り直した。頬が油で汚れるのも構わない。猫を思わせる大きなツリ目を細めて、ニヤリと笑った。
「寿命なんて誰が決めたの? まだ心臓は動いてる」
「異音がしてるじゃねえか。下手すりゃ主軸がイカれるぞ。もう業者を呼ぼう、な?」
「業者を呼ぶお金があったら、新しいバイトを雇うわ」
軽口を叩きながら、琴葉は機械に耳を押し当てた。
駆動音の中に微かなリズムの乱れを聞き分ける。 ここだ。(機嫌なおしてよ。あんたに倒れられたら、今月の納期が吹っ飛ぶんだから)
タイミングを見極め、琴葉はボルトを締め上げた。キィン、と高い音が一つ。
次の瞬間、悲鳴を上げていたマシンが低い駆動音へと変わる。ヴォォン……と、まるで猫が喉を鳴らすような、安定した重低音だ。「……嘘だろ」
職人が口をあんぐりと開けている。
琴葉は満足げに機械のボディをぽんと叩いた。「ほらね。この子は、まだ働けるって言ってる」
指先は油で真っ黒だが、この感触こそが土井精機を支えている証だ。
(小さいけれど、この工場は生きている。そして、その心臓を動かしているのは私)
そんな自負と共に、琴葉は笑みを浮かべた。
◇ しかし、達成感は長くは続かなかった。 事務所に戻った琴葉を待っていたのは、ひどく冷たい現実だった。 経理担当の社員が、真っ青に青ざめた顔で立っている。「副社長……」
「どうしたの、そんな顔して。銀行がまた嫌味でも言ってきた?」
琴葉は冷蔵庫から麦茶を取り出し、コップに注いだ。
「いえ……その、先ほど連絡がありまして」
経理担当者の声は、かき消えそうなほど細い。
「S自動車から、来月以降の受注を停止すると」
カラン。コップの中の氷が、乾いた音を立てた。
S自動車は、土井精機の最も大口の取引先だ。
大口どころか売上のほとんど依存していると言ってもいい。それが受注停止などと。
琴葉はゆっくりと麦茶を飲み干して机に向かう。
「……理由は?」
「海外移転だそうです。コスト削減のため、部品調達も現地化すると」
「なるほどね」
琴葉は電卓を引き寄せて、勢いよく叩き始めた。
タタタッ、タターン。軽快なリズムとは裏腹に、液晶画面に表示される数字は無慈悲だった。元から土井精機の業績は悪化しており、メインバンクからの融資は既に打ち切られている。
頼みの綱だった大口取引先が消えれば、資金繰りはどうなる? 計算するまでもない。1ヶ月も持たない。(詰んだ)
琴葉の頭の中で、将棋の駒が音を立てて崩れ落ちるイメージが浮かぶ。
机の上には、未払いの請求書の山が積まれている。それらはまるで、会社の終わりを告げる墓標のように見えた。
春のうららかな陽気が、土井精機の工場の開け放たれた入口から忍び込んでくる。 風に乗って舞い込んだ淡いピンク色の桜の花びらが、コンクリートの床をひらひらと転がっていった。外の通りからは、新学期を迎えた子供たちの元気な声が遠く微かに聞こえてくる。 鼻腔をくすぐるのは、工場から漂う微かな金属の匂いと、外から運ばれてきた春の土の香りだ。 季節はすっかり春になった。 冬の終わり、伊吹と別れてからしばらくの時間が流れていた。 琴葉は事務所のパイプ椅子に深く腰掛けている。作業着の袖を肘までまくり上げ、デスクの上のタブレット端末に鋭い視線を向けていた。 画面に表示されているのは、複雑な3Dデータ。医療機器メーカーから新規で受注した、特殊なセンサーハウジングのCADデータである。(少し曲面のアプローチを変えれば、耐久性をさらに1割上げられるわね) スタイラスペンを走らせ、図面の曲率を微調整していく。 工場の奥からは、職人たちが扱う加工機の規則正しい駆動音が、頼もしいBGMのように響いてくる。 これらは全て、彼女の愛する活気に満ちたモノ作りの現場だ。 先日、伊吹から専属契約の正式な破棄の書類が届いた。 世良グループという巨大な傘、あるいは呪縛から抜け出した土井精機は、今、琴葉の卓越した設計技術を最大の武器として、新たな顧客を次々と開拓し始めている。(ここ数日、すっかり暖かくなってきたわね。作業着1枚でも、少し動くと汗ばむくらいだわ) 琴葉は小さく息を吐き出し、傍らに置かれたマグカップに手を伸ばした。 中身はすっかりぬるくなった緑茶だ。乾いた喉を潤すように、一気に流し込む。プラスチックのカップの表面についた水滴が、作業着の袖口から覗く白い指先を濡らした。 工場の奥からは、伊吹の資金で導入された最新鋭の五軸加工機が、今日も休むことなく低い唸りを上げている。 重く響くモーターの駆動音。金属が精密に削り出されていく音。 それらは琴葉にとって、何よりも心地よく慣れ親しんだ子守唄のようなものだ。 職人たちが額に
琴葉は足元にすり寄ってきた猫に手を伸ばし、ひょいと抱き上げる。「さあ、私たちも行くわよ。次の準備をしなきゃね」「にゃん」 相槌を打つように子猫が鳴いたので、琴葉は思わず笑みを浮かべた。◇ 翌朝。 冬の終わりの冷たい空気が、肌の上を流れていく。冷たくも春の気配を孕んだ空気だった。 琴葉はボストンバッグを肩にかけて、右手でプラスチック製のキャリーケースを提げていた。 ケースの中では、縞模様の猫が不思議そうに外の景色を眺めている。 ずっと家飼いだった子猫なので、外に出るのはほとんど初めて。少し落ち着かない様子だったので、琴葉はキャリーケースをぽんぽんと叩いて落ち着かせてやった。 目の前には、見慣れた『土井精機』の看板が掲げられた工場のシャッターがある。 小さなくぐり戸を開けて中に入ると、機械油と金属の削りカスが混ざり合った、ひどく懐かしい匂いが肺を満たした。「琴葉お嬢!?」 作業着姿の工場長が、プレス機の奥から目を丸くして駆け寄ってきた。 白髪交じりのベテラン職人である彼は、手にしたウエスを落としそうになっている。他の職人たちも、驚きの表情で作業の手を止めた。「どうしてここに……いや、世良グループのニュースは見たよ。大変なことになってるじゃないか。うちはこれからどうなるんだ」 工場長の焦燥に満ちた声をさえぎるように、琴葉はキャリーケースを床に置き、ボストンバッグを下ろした。 周囲を見渡す。「お父さんの様子はどう?」 気がかりだった父の状態を問えば、工場長は頷いた。「社長なら、最近は体調がマシになったみたいだ。時々出社して、仕事をしているよ」「そう。良かった」 父を見舞うのは、今すぐでなくていい。夜、家に戻った時に話をしよう。 今はとにかく、自分の仕事をしたい。「さあ、仕事よ。世良の仕事は全部切るわ」 琴葉のよく通る声が、工場の高い
「僕は、世良グループに戻ります」 伊吹の声が、ウィークリーマンションの一室に響いた。 琴葉は一瞬、自分の耳を疑った。「……正気? 今あそこに戻るってことは、泥沼の権力闘争に自ら身を投じるってことよ」「ええ。理解しています」 伊吹は窓辺から離れて、琴葉の正面に立った。 照明を背にした彼の表情は、険しくも澄み切っている。「父と叔父が――いいえ、代々の世良一族が搾取のシステムを構築しました。それによって、今、末端の人間たちが次々と倒れようとしている。僕たちの復讐が、その引き金を引いたんです。このまま見過ごすことはできません」 伊吹は言葉を区切り、まっすぐに琴葉の目を見据えた。「内部から彼らの責任を追及し、僕がトップに立ちます。巨大な組織を解体し、現場の人間を守るための再建を行う。それが、僕の取るべき責任です」 琴葉は伊吹の瞳を観察した。 そこに逃亡者の弱々しさはなく、かつて琴葉の背中に隠れようとしていた依存心もない。 途方もなく重い責任を、1人で背負う覚悟を決めた男の顔があった。 ――止める理由は、どこにもなかった。「……勝算はあるのね」「もちろんです。世良の内部データと資金の流れは、すべて僕の頭の中に入っていますから」 伊吹は迷いなく答えると、自分の荷物をまとめ始めた。 ボストンバッグに最低限の衣類と、分厚い情報が詰まったタブレット端末を押し込む。「ミャア」 足元で鳴き声がした。 茶色と白の縞模様の子猫が、伊吹の足首にまとわりついている。 伊吹の出立ちが普段と違うことを察知しているのか、しっぽをパタパタと不安げに揺らしていた。 伊吹はしゃがみ込み、猫の首筋を撫でる。 猫は気持ちよさそうに目を細め、伊吹の手のひらに鼻先を擦り付けた。「琴葉さん。図々しいお願いですが、この子をしばらく預かってもらえませんか」 伊吹が顔を上げる。「これから
この数ヶ月の逃亡生活が、改めて琴葉の脳裏に蘇った。 スーパーの特売品で数円の差額を計算し、卵の破れたオムライスを作り、名無しの猫に餌を与えた日々。 これまでの伊吹は世良家で、血で血を洗う闘争に身を置いていた。 結果、効率と合理性を重んじ他人を切り捨てる冷酷さばかりが強調されてしまった。 良心を見失い、『琴葉お姉ちゃん』に依存することだけで辛うじて正気を保っていた。 けれども彼はこの狭いマンションでの生活で、予測不可能で決して効率的ではない「日常の手触り」を知った。 画面の向こうにいるのは、単なる数字やコストではない。 自分たちと同じようにその日を生き、家族を養い、温かい食事を食べる生活がある「人間」なのだと、今の彼は理解している。 そして何より、彼らをその絶望の淵へ突き落とした直接の原因は、他でもない自分たちの復讐だ。 琴葉が主導したとはいえ、伊吹も自分の意志で手を貸した。 何より彼は、世良の血筋からの独立を決意した。その結果を目の当たりにしている。 ニュースが次の話題へ移り画面が切り替わっても、伊吹は動かなかった。 張り詰めた背中のラインから、彼が何か途方もなく重いものを咀嚼し、飲み込もうとしているのが伝わってくる。 やがて、伊吹はゆっくりと窓の方へ歩み寄った。 窓の外には、夕闇が迫る東京の空が広がっている。 無数のビル群の向こうに、世良グループの本社タワーが黒々としたシルエットを描いてそびえ立っているのがわずかに見えた。 伊吹の視線は、その巨塔の頂上を真っ直ぐに射抜いていた。 トン、と子猫が窓枠に飛び乗る。「にゃあ?」 外を見据える伊吹の姿を、猫は不思議そうに見上げた。「……心配してくれるのかい? お前は優しい子だね」 伊吹は少しだけ笑うと、子猫の頭を軽く撫でる。 彼が雨の日に救った、小さくて温かな命を。 琴葉は背後からその姿を観察し、予感めいたものを感じた。(あんたはこれから
夜明けの光が、工場の高い天窓から幾筋もの白い帯となって差し込んでいた。 舞い上がる微細な鉄粉が、その光の中で静かに明滅している。 シュッ、シュッと規則正しい竹箒の音が、人気のないフロアに響いていた。 佐藤は慣れた手つきで床を掃き清めていた。 彼の背中は朝日を浴びているにもかかわらず、不自然に深い影を落としている。 佐藤は周囲に誰もいないことを何度も確認すると、壁際に箒を立てかけ、吸い寄せられるように第1ラインの加工機へと歩み寄った。(……よし。昨夜のブツは無事に紛れ込んでいるはずだ。あとは俺の指紋や
「『泉伊吹』は、あの田舎町で死にました。無力で、泣き虫で、あなたを守れず、自分の痛みさえ他人に背負わせるような惨めな子供は……あの日、捨てたんです」「捨てたって……どういうこと?」 琴葉が問うと、伊吹は誇らしげに胸を張った。「言葉通りの意味です。世良家に入った僕を待っていたのは、歓迎なんて生易しいものではありませんでした」 本妻の親族からの冷ややかな視線と、分家の人間たちによる足の引っ張り合い。「愛人の子」「血統だけの野良犬」という陰口は日常茶飯事だ。
――20年前。3月下旬の風が強い日だった。 祖父母の家の縁側には、段ボール箱が積み上げられていた。 ようやく仕事に区切りをつけた父が、琴葉を迎えに来たのだ。 琴葉は4月から小学校への進学を控えている。 それに合わせての帰郷だった。 6歳の琴葉はリュックを背負って、庭先に来ていた男の子に向き合った。『やだぁ……いかないでよぉ……』 4歳の「いずみくん」は、顔をぐしゃぐしゃにして泣いていた。 琴葉の服の裾を握りしめて、足
「具体的には、以下の義務が生じます。同居の義務。寝室は別でも構いませんが、生活拠点は共有すること」 弁護士が読み上げる条項は、呆れるほど具体的だった。 週に一度以上の公的な場でのデート、または会食。 メディア、および親族の前では、互いに愛称で呼び合うこと。手をつなぐ等の、親密な身体的接触を拒まないこと。 契約結婚の期間は、最低でも3年間。その後も話し合いをして継続すること。「……まるで、『理想の夫婦』役の台本ね」 琴葉が皮肉っぽく言うと、伊吹は悪びれもせずに頷いた。