All Chapters of 偽りのマリアージュ~20年越しの執着愛~: Chapter 101 - Chapter 110

157 Chapters

101:監視をかいくぐって

 琴葉が目を覚ますと、視界のすべてが真っ白だった。 天井も壁もシーツも。埃一つ落ちていない、完璧に漂白された空間だ。 琴葉はベッドから身を起こし、大きく息を吸い込んだ。 無臭。 温度も湿度も、人間が最も快適に過ごせる数値に固定されている。空気清浄機がかすかな駆動音を立てて、微細な不純物すら濾過し続けている。 ――息苦しい。 土井精機の工場に染み付いた、あの独特の切削油の匂い。鼻腔を突く鉄の錆びた臭い。職人たちの上げる声と、プレスの振動が腹の底に響く雑多で熱を帯びた空気がひどく恋しかった。(これじゃあまるで、あいつの……峻嗣のコレクションケースの中ね) 琴葉はベッドから降り、クローゼットを開けた。 中には、峻嗣が用意した衣服が等間隔で並んでいる。どれも高級ブランドのタグがついた、仕立ての良いブラウスやスラックスだ。 伊吹が用意していた紫の服とはまるで趣きが違う。 彼らはどちらも身勝手だったが、それでも伊吹は琴葉を思っていた。伊吹は琴葉が好む色を揃えて、喜んでほしいと考えていた。 峻嗣は違う。無関心と、そのくせ所有欲だけが見て取れる。 彼女は淡いブルーのブラウスを取り出して、腕を通す。シルクの滑らかな感触が肌を滑るが、冷え切った爬虫類の鱗に触れているようで不快だった。 鏡の前に立つ。 そこに映っているのは、作業着や自前のスーツを誇り高く着こなす技術者ではない。厳重に管理され、パッケージングされた優秀な部品の姿だ。「やれやれだわ」 琴葉は短く息を吐き出し、乱れた髪を手ぐしで適当にまとめた。 部屋のドアに近づく。 分厚い鋼鉄製のドアの横には、電子ロックのパネルが青い光を放っていた。 琴葉に与えられたIDカードをかざす。ピッと短い電子音が鳴り、重い音を立ててロックが解除された。 一歩外に出る。 そこは、ラボへと一直線に繋がる廊下だった。 地下であるために窓はない。白く塗られた壁と天井、床は方向感覚がおかしくなりそうだ。
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 ラボに踏み込んだ途端に、冷蔵庫のような冷気が琴葉の頬を撫でた。 モンスター級AI筐体が放つ熱を中和するため、数千台の冷却ファンが唸る、重低音の壁がそそり立っている。 琴葉は自分のデスクに向かい、キャスター付きの椅子に腰を下ろした。 スリープ状態だった4Kモニターが、琴葉の気配を察知して自動的に立ち上がる。 画面の中央には、一つのメッセージウィンドウが浮かんでいた。『最適化プロセス完了。新規モデリングデータを展開します』 琴葉はマウスを握った。 画面上に、銀色に輝くサーバー筐体の3Dモデルが表示される。 琴葉が昨日提出した基礎設計図を元に、峻嗣のAIが夜通しシミュレーションを行い、自ら弾き出したアップデート案だ。 画面の右側に並ぶパラメータの数値に、琴葉は目を細めた。 排熱効率の理論値が、初期案よりも15パーセントも向上している。エアフローの軌道は極限まで計算し尽くされ、熱溜まりの発生を完全に抑え込んでいた。 卓上のスピーカーから、不意にノイズが鳴った。「おはよう、琴葉。よく眠れたかな」 インター越しに響く、ねっとりとした声。世良峻嗣だ。 琴葉はモニターから目を逸らさず、マイクに向かって答えた。「ええ、おかげさまで。無臭すぎて息が詰まりそうだったわ」「それは重畳。AIが弾き出した新しい筐体デザインは見たかな?」「今、見ているところよ。排熱効率の数値は見事ね。認めてあげるわ」 スピーカーの向こうで、峻嗣がクククと喉を鳴らすのが聞こえた。「当然だ。俺のAIは常に最適解を導き出す。人間の浅知恵など及ばない高みにな。無駄を一切削ぎ落とした、美の結晶だ。俺の脳を収めるのに、これ以上ふさわしい形はない」 琴葉はマウスのホイールを回し、3Dモデルを拡大した。「そうね。見事なまでに『隙』がない」「君の基礎設計があったからこそだ。ハードウェアの権限は引き続き君に預けよう。そのデザインで、最終的なモデリングを頼む」「了解。すぐに取りかかるわ」
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 人間がドライバーを差し込むための隙間や、焼け焦げたコンデンサを指でつまみ出すための空間。その他、作業員の腕が入る動線。  それらが、ミリ単位で徹底的に排除されていた。  もし1つの冷却ファンが故障しただけでも、外装から内部のコアに至るまで、すべてのパーツを一度分解しなければ交換できない。  運用性を完全に無視した、机上の空論である。 いかにAIそのものにメンテナンスを任せるといっても、限界がある。技術の現場とは常に想定外の出来事が起こるもの。  最終的にマンパワーで対応しないで、どうするつもりなのか。 100歩譲ってソフトウェアだけならばそれでもいい。修正はデジタル上で行えるからだ。  しかしハードウェアは実物が存在する以上、メンテナンスも必要不可欠になる。 琴葉は理解した。 これは、峻嗣の傲慢さそのものだ。  彼は、ヒューマンエラーを起こす不完全な人間を極端に嫌悪している。人間が機械に触れること自体が、彼にとっては許しがたいバグなのだ。  そしてAIは、「排熱効率の最大化」という目的のためだけに、人間が介入する余地という名の無駄をすべて削ぎ落とした。 彼らは現場を知らない。知ろうともしない。(どれだけ計算が正確でも、機械は必ず壊れる。それを直すのは、血の通った人間の手以外ではありえないのに) 琴葉はふと、伊吹を思い出した。 確かに伊吹も、根本は世良一族らしい冷徹で空虚な回路で動いている。 身勝手に琴葉を拘束しようとしたのも、欲しいものを手に入れるための計算ではないか。 ――でも、と。琴葉は思う。(けれどあいつは、私に温かいコーヒーを淹れてくれた。昔の思い出話とか、仕事に関係ない話も楽しそうにしていたっけ。まあ実際、私に依存しすぎるのはいい迷惑だったけど……) 峻嗣とこのAIは、そうした人間らしい感情の揺らぎすら、無駄なバグとして完全に切り捨てている。 琴葉の喉の奥から、熱い塊がせり上がってきた。  奥歯を強く噛みしめて、その熱を無理やり胃の奥へと飲み込む。 
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 もしもパーツの間に適度な「遊び(隙間)」があれば、振動はその空間で逃げ場を見つけて、多少のガタつきで済んだかもしれない。 人の手で素早く修理を入れられれば、最悪の結果を生む前に事なきを得たかもしれない。 けれどこのAIが作り出した筐体には、エネルギーの逃げ場が一切ない。 パーツ同士が極限まで密着しているため、ひとたび共振が始まれば、巨大な金属の塊全体が1つの巨大なミキサーと化す。 互いの振動が増幅し合い、繊細な量子チップから頑強なフレームに至るまで、すべてを内側から粉砕するだろう。 人間の手によるメンテナンスを拒絶した結果、彼らは自らの首を完全に絞めるロープを完成させたのだ。 琴葉は、手元のキーボードに視線を落とした。 修正すべき点は山ほどある。しかし琴葉は一切のコードを書き換えなかった。 マウスのカーソルを画面右下のボタンに合わせる。 そこには『承認(Approve)』の文字。(せいぜい今のうちに、自分の全能感に酔いしれてなさい) 画面の向こう側にいるであろう峻嗣と、傲慢なAIに向かって、心の中で宣告する。(いつか最高の処理速度を求めてアクセルを踏み込んだ瞬間、あんたの「完璧な脳」は自らの重みで砕け散るわ) 迷いなく、左クリックを押し込む。 カチッ、という小さな音が冷え切ったラボに響いた。 画面中央に、緑色の文字で『最終モデリング完了』の通知が表示される。 敵の致命的なミスを、あえてそのまま通す。 これ以上の痛快な反撃はない。 琴葉はデスクの脇に置かれていた、支給品のミネラルウォーターのボトルを手に取った。 キャップを開け、冷たい水を喉に流し込む。 無味乾燥な水のはずなのに、今はなぜか、実家の工場の安っぽい缶コーヒーと同じくらい、ひどく美味しく感じられた。 琴葉は再びキーボードに手を乗せる。 規則正しい打鍵音をラボに響かせながら、虎視眈々とその時を待つ。 彼女がこのラボから堂々と出ていくためには、峻嗣を納得させなければならない。
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105:限定下でのお披露目

 冷たい色のLED照明が、無味乾燥な地下空間を白く照らし出していた。 ここは世良グループ本社ビル、地下5階。最高機密レベルのセキュリティで守られた、広大なデモンストレーションルームである。 その中央には、分厚い防弾ガラスで隔離されたサーバールームがあった。巨大な金属のオブジェのようなAI筐体が鎮座している。 部屋の正面には、最高級のレザーチェアが等間隔で並べられていた。 座っているのは、世良グループの総帥である世良宗佑をはじめとした、一族の重鎮たちだ。 誰もが仕立ての良いスーツを身にまとい、値踏みするような視線をガラスの向こうのAI筐体へと向けている。「あれが峻嗣さんの?」「仰々しい見た目だ」「彼はついこの間、失敗したばかりだが……」 交わされる会話は小さな声で、途切れがちだった。 彼らは互いにライバルであり、相手が弱みを見せれば足を引っ張る気でいる。 よって、うかつなことは言おうとしない。 そして、その特等席から遠く離れた部屋の最後列。 壁際にポツンと置かれた安っぽいパイプ椅子に、世良伊吹は一人だけで座らされていた。 重鎮たちの背中しか見えず、誰一人として伊吹に視線を向ける者はいない。言葉をかけられることもない。 彼の席は明確に、一族における敗者あるいは用済みの部品に与えられた指定席だった。 それでもわざわざ呼ばれたのは、見せしめないし引導を渡すためだろうと皆が予想している。 伊吹の虚ろな視線の先には、防弾ガラスの前に立つ2人の姿があった。 自信に満ちた笑みを浮かべ、胸を張る叔父・世良峻嗣。 さらに彼の一歩斜め後ろには、洗練されたパンツスーツを隙なく着こなした土井琴葉が立っている。(琴葉さん……) 伊吹は膝の上で、両手をきつく握りしめた。爪が手のひらに食い込み、関節が白く浮き出るほどの力で。 伊吹が贈った紫色の服ではなく、峻嗣が用意したであろう冷たい色彩の服。 それを着て、
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「ご覧ください。このAIの頭脳は、隣にいる共同開発者、土井琴葉の極めて優秀な思考モデルをベースに構築されています。彼女の持つ設計の直感、解析能力、そのすべてをデータ化し、ディープラーニングによって昇華させました。ですが――」 峻嗣はそこで言葉を区切り、唇の端を歪めた。「彼女のような『人間』が持つ、感情の揺らぎ、非合理的な遊び、他者への無駄な執着。そういったヒューマンエラーは、私の手で完全に削ぎ落としました。ここにいるのは、不完全な人間を超越した、究極の知性です」 伊吹は目を見開いた。 峻嗣の言葉は、伊吹の存在そのものを真っ向から否定していた。明らかな当てつけだ。 感情の揺らぎ。他者への執着。 それらはすべて排除すべきバグであると、一族の前で高らかに宣言されている。 伊吹はすがるような思いで琴葉を見つめた。 否定してほしかった。人間らしい感情を無駄だと切り捨てる言葉に、違うと言ってほしかった。 しかし琴葉は表情一つ変えない。ただ冷たい目で、前を見据えているだけだ。 伊吹のことなどちらりとも見ようとしない。(……そうか。琴葉さんも、そう思っているんだ) 伊吹の心に、絶望がせり上がってきた。 琴葉は、感情というバグに振り回される「出来損ないの自分」を完全に見限ったのだ。 だからこそ、純粋な効率と圧倒的な才能を持つ本物の天才である峻嗣をパートナーに選んだ。(僕はまた、間違えてしまった。琴葉さんは嫌がっていたのに、閉じ込めようとした。だから逃げ出してしまった。強くて自由な琴葉お姉ちゃんが、あんな狭い世界で満足するはずなかったのに……) 彼女を欲しいと思うあまり、彼女自身をないがしろにした。 この身勝手な感情をバグと呼ばずして、何と呼ぶのか。 今さらながらにそうと気づいて、伊吹はぼんやりと琴葉を見つめる。峻嗣の隣で力強く立つ彼女を。「それでは、これより最高負荷によるストレステストを開始します」 峻嗣の合図とともに、室内の照
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 琴葉が、手元に持っていたタブレット端末の画面を、極めて自然な動作で、指先で一度だけスワイプした。 誰も気づかない、伊吹の目にも「ただシステムを監視しているだけ」にしか見えないささやかな動作だった。 しかし直後、跳ね上がっていた数値が99パーセントのラインでピタリと停止した。 琴葉が密かにリミッターをかけ、仕込んでいた構造共振の罠を寸止めしたのだ。 数値は99パーセントのまま完璧に安定し、数分間のフル稼働テストを難なく耐え抜いた。 やがてファンの轟音が徐々に静まり、通常駆動へと戻っていく。 室内に沈黙が落ちる。 次の瞬間、割れんばかりの拍手が巻き起こった。「素晴らしい! 世界的に見ても、これほどのパフォーマンスを発揮するAIは他にない!」「さすがは峻嗣さんだ。日本はAI分野において海外に遅れを取っていたが、これで取り戻せる!」「これからはこの分野を、世良グループが牽引していくことになるぞ!」 一族の重鎮たちが立ち上がり、峻嗣に向けて惜しみない賛辞を送る。「皆さん、ありがとう。私のAIがあれば、次世代半導体設計も思いのままです。このAIは必ずや、我が世良グループをさらなる高みに押し上げるでしょう」 峻嗣は満足げに両手を広げて、その称賛を全身で浴びていた。◇ その光景の中心で、世良宗佑がゆっくりと立ち上がった。 総帥が動いたことで、室内の拍手が波が引くように収まっていく。 宗佑は峻嗣を見据えて、重々しい声で告げた。「見事だ、峻嗣」「光栄です、兄さん」「このAIの完成は、我が世良グループが世界のインフラを完全に掌握するための、新たな心臓となる。……峻嗣。お前を、次期総帥として迎え入れる準備を正式に進めよう」「おぉ……!」 室内が、再びどよめきと熱を帯びた拍手に包まれる。 事実上の、世良一族の玉座の交代宣言だった。「恐れ多いこと
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「伊吹」 宗佑の声が、静まり返った地下室に響き渡った。「峻嗣が完璧なAIを完成させた以上、お前の存在意義はもうこの一族にはない」 予想できた言葉だった。それでも直接突きつけられた刃は、伊吹の残されたわずかな精神を砕いてしまった。「黒田大臣の孫娘との縁談……我々に莫大な政治的利益をもたらすはずだったあのカードを、お前は個人的な執着で蹴り飛ばした。その挙句、土井琴葉に首輪一つ繋いでおけず、まんまと逃げられた」 宗佑の目は、道端のゴミを見るよりも冷淡だった。「……それに引き換え、峻嗣を見ろ」 宗佑が峻嗣を示す。「彼女の才能だけを完璧に抽出し、不要な感情を切り捨てて、この箱に収めてみせた。道具の管理者として、どちらが優れているかは火を見るより明らかだ。お前は感情という無駄な『バグ』に振り回され、一族の利益を損なった。そんな欠陥品は、我が世良の血には不要だ。立ち去れ」「……」 伊吹は喉の奥が干からびたように張り付いて、声が出せない。 反論の言葉など、一つも浮かばなかった。 宗佑の言う通りだ。 自分は琴葉を愛していると信じていたが、結局のところ、彼女を不快にさせて、逃げられるほどに追い詰めただけだった。 世良一族としての価値も失い、1人の人間として琴葉の隣に立つ資格も失った。 琴葉に捨てられた以上、もう強さを目指す理由がない。 強くてかっこいい大人になる。その約束は果たされなかった。 完全なる用済み。何の価値もない。 伊吹は重い鉛のようになった体を無理やり動かして、ふらふらと立ち上がった。 視界がぐにゃりと歪む。足元がおぼつかない。 周囲からは、嘲笑うようなささやき声が聞こえる。 峻嗣の勝ち誇ったような冷たい視線が肌を刺す。 伊吹は最後の望みをかけて琴葉を見た。 彼女さえ伊吹を見てくれれば、どんな状況であってもまた立ち上がれるのに。 し
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109:雨の中の再会

 分厚い防音扉が、背後で重い音を立てて閉ざされる。 琴葉は世良一族に先んじて部屋を出ていた。地下のデモンストレーションルームの熱気が遮断されて、寒々しい空気が戻って来る。 琴葉は一つ息を吐き出すと、白く塗られただけの地下廊下を歩き出した。控室の部屋に戻り、峻嗣が用意した高級なブラウスを脱ぎ捨てた。 ハンガーに掛けてあった自前のTシャツに着替える。少しシワが寄っていたが、着慣れた布の感触が肌に触れると、ようやく自分を取り戻せたような気がした。 デスクの上に、入退室用のIDカードを放り投げる。 プラスチックのカードはデスクを少し滑って、ぱたんと小さな音を立てた。 琴葉は少し前、デモンストレーションルームを出る前に行われたやり取りを思い出す。『ハードウェアの最終モデリングと、稼働テストの監視は完了したわ。これで私の役目は終わりね』『ああ。ご苦労だった』 峻嗣の声は、自らの勝利と全能感に酔いしれていた。 無理もない。世良一族の前でAIのデモンストレーションを成功させ、宗佑から後継者の指名を受けたのだ。 得意の絶頂にいるのは誰の目にも明らかだった。『これで土井琴葉、君は自由だ。もっとも私がこのAIを世界に発表した瞬間、君のような旧時代の技術者の居場所など、この世界のどこにもなくなるがね』『そう。発表会、楽しみにしているわ』 それで終わり。 引き止められることもなく、琴葉は堂々とここを出ていく。 Tシャツとカーゴパンツに着替えた彼女は、エレベーターに乗り込んで地上へと出た。 これまで厳重なセキュリティがかかっていたのが嘘のように思えるほど、エレベーターはあっさりと琴葉を地上まで運んでくれた。 伊吹のタワーマンションを脱出し、峻嗣の地下ラボに飛び込んでから数カ月が経過している。 実に久しぶりの自由だった。 そうして振り返ることもなく、琴葉は世良グループの本社ビルを後にした。 エントランスの自動ドアを抜けると、外は冷たい雨が降っていた。(…&h
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110

 琴葉は歩きながら、コートのポケットからスマートフォンを取り出した。  連絡帳のアプリを開き、「お父さん」の文字を見つめる。  発信ボタンに指を乗せかけて、琴葉はそのまま画面をオフにした。 実家の土井精機には、帰れない。  罠が発動して世良の発表会がぶち壊しになった時、彼らは必ず原因を究明する。設計に携わった琴葉を血眼になって探し出し、報復しようとするはずだ。(お父さんたちに、迷惑はかけられない) もし琴葉が実家にいれば、怒りの矛先は父親や工場の職人たちに向かう。世良の資本力なら、小さな町工場一つを社会的に抹殺することなど造作もない。 いや、社会的な抹殺であればまだ良い。 峻嗣のような粘着質でプライドばかり高い人間であれば、直接的な危害を加える可能性すらある。 そう、例えば、事故を装って父である土井社長を殺害するなど……。(やはり駄目だわ。慎重にならないと) 琴葉は頭を振った。 完全に決着がつくまで――世良グループそのものが崩壊して力を失うまで、琴葉は単独で身を隠し、戦い抜かなければならない。 琴葉は再びスマホの画面を点灯させ、ホテル予約サイトを開いた。  当面の拠点が必要だ。しばらくは目立たないビジネスホテルに滞在し、その後、保証人不要のウィークリーマンションを探すのが妥当だろう。 画面をスクロールさせながら、駅の方向へと歩を進める。  雨は次第に強さを増し、行き交う人々の足早なシルエットを雨粒の向こうににじませていた。 ◇  大通りから1本入った、人通りの少ない道を通りかかった時のこと。 シャッターの閉まったテナントビルの前に、黒い影が落ちていた。  最初は、誰かが置き去りにした荷物かと思った。  しかし、近づくにつれてそれが人間の形をしていることがわかった。 琴葉は足を止めた。  ビニール傘に当たる雨音が、やけに大きく聞こえる。 男が、コンクリートの地面に直接座り込んでいた。 上質なダークスーツが、雨の重みで体に張り付いている。ひたすらに濡れて、冷え切っていた。 膝を立て、壁に寄りかかるようにして項垂れている。濡れた前髪の隙間から、血の気の引いた青白い顔が覗いていた。  まるで雨に打たれて行き場を失った、血統書付きの猟犬。  あるいは落としてひび割れてしまった硝子細工のように、脆さと危うさを抱えて座り込ん
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